学術的な特色・独創的な点

演劇・芸能関係者への聞き書きは、「現場の貴重な証言」を「拝聴」し、あやふやで不正確な記憶を記録することにとどまることがしばしばである。また、オーラル・ヒストリーは「当事者の語りを通して、多様な考えが絡み合う歴史の厚みを明らかにするもの」(「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」)であるという認識のもと、取材者が「介入」することを極力忌避する風潮もある。だが本来オーラル・ヒストリーとは、取材者と被取材者とが自らの立場の相違に固執せず、胸襟を開いて対話することで、記憶の主観性・歴史の重層性という限界を乗り越え、過去の事実についての解釈を共同で構築していく作業である。本研究の申請者はいずれも、インタビューをしながら、演劇史において通説とされてきた事実や、他の被取材者から得られた情報を被取材者に提供し、対話を行うことで、取材者も被取材者も思いもよらなかった「発見」をする、というスリリングな体験をしてきた。オーラル・ヒストリーの醍醐味とでも言うべき、従来の解釈に拠らない新たな視座の獲得こそが、本研究の最大の学術的な特色といえる。その上で、ウェブサイトにその記録をアップロードすることで、キーワードによる検索やクロスリファランスのためのリンク作成が容易になるというハイパーテクストの利点を最大限生かしたウェブサイト構築を行い、申請者たちのみならずそのサイトを訪れたビジターにとっても、ジャンルの垣根を超えた人的交流が可視化されようにしたい。本研究の結果によって得られた口述史料をもとに、第一に、従来の縦割り型の演劇史では記述しにくかった人的交流を明らかにし、第二に、商業演劇が日本近代演劇の発展において大きな役割を果たした(たとえば、近代口語を「うたう」ように語る台詞回しを定着させた点など)ことを示すことが予想される結果と意義である。

学術的背景

演劇・芸能関係者への聞き書きは、『演藝画報』など演劇一般誌において明治期から行われてきており、現在でも(膨大な数にのぼる古典芸能関係者へのものを除いても)商業出版として成立しているものは相当数ある。とはいえ、その対象は有名俳優・演者やスター演出家が殆どであり、内容も個人史に焦点が当てられることが多かった。 本研究では、(1)対象を広げて、脇役・端役が多かった俳優、照明や衣装といった裏方のなかでも注目されることのなかった職掌に携わっていた人々、さらに現場と深く関わっていた研究者にもインタビューを行い、(2)昭和戦前期から現在に至るまでの商業演劇(「歌手演劇」だけではなく、新派・新国劇や、宝塚・松竹歌劇団・OSK日本歌劇団などレヴューを含めたもの)・新劇・小劇場演劇における人的交流を明らかにする。近年野田秀樹・宮藤官九郎ら小劇場出身の劇作家が歌舞伎に脚本を提供し話題になったことは記憶に新しいが、昭和戦後期においても、木下順二・福田善之をはじめとする新劇の劇作家が歌舞伎に脚本を書くだけではなく、その上演にも大きく関わってきた。また戦前では村山知義が商業演劇の演出や脚本執筆をしていたことも有名である。だが相当数の俳優・裏方がジャンルの垣根を超えた活動をしていることは事実としては知られていても、その交流がそれぞれのジャンルの上演・興行上の慣習にどのような影響を与え、同時代演劇として共通する特色を作り上げてきたかという観点からの研究は皆無で、個々の評伝や聞き書きの中で断片的に語られるのみであった。 四人の研究代表者・研究分担者は、所属する日本演劇学会・西洋比較演劇研究会のシンポジウムや、演劇研究同人誌『ASD』などにおいて、2000年前後から演劇人との対話を行って記録に残しており、また高齢の演劇人たちの「昔話」の聞き取りを中心にインタビューを精力的に行ってきた。さらに、2015年刊行予定の『日本戯曲大事典』(白水社)の監修者の一人が研究分担者の神山であることもあって、応募者たちは『日本戯曲大事典』の項目として掲載される演劇人についてインタビューもそれぞれ数人〜十数人行ってきた。これらのインタビューを通じて、商業演劇・新劇・小劇場演劇がそれぞれ独自の発展を遂げてきたように記述される従来の日本近代演劇史ではなく、美学上の諸前提を共有しながら、近代化・西洋化の波を受けて(「伝統演劇」となった歌舞伎に取って代わる)新たな国民演劇を作り出そうとする努力を軸に、より統合的な観点からの日本近代演劇史が可能ではないか、という構想を四人は抱くようになった。その一方で、このような日本近代演劇史を構築するためには、圧倒的に史料が不足していること、とくに新聞や雑誌、書籍などの文字史料は、従来のジャンルごとに記述された歴史の枠組みを維持しながら書かれていることが殆どであるがゆえに、文字史料ではなく口述史料に依拠して、実際の人の動きを追っていくことが重要であるという見解もまた共通するものとして持つようになった。そのためには、まず演劇人へのインタビューをより広範囲にかつ多量に行い、その結果をデジタル・アーカイヴとして蓄積し、文字史料では把握しがたい、現場での人的交流を可視化することが必要だという認識のもと、本研究の着想に至った。 隣接諸学問の動向を見てみると、まず日本芸能史の分野においては小沢昭一『日本の放浪芸』をはじめ、ジャーナリスト・(アマチュアを含めた)研究者による「聞き書き」も多くなされてきたが、学会のような団体を中心に組織だった取り組みが行われることはなく、研究者の「個人技」にとどまるきらいがあった。収集された口述史料の公開先も、学術誌・一般雑誌・書籍などさまざまな形態に散逸している。2003年に設立された日本オーラル・ヒストリー学会は「ジャンルを超えた全国的なネットワーク・組織」という所期の目的は果たしているものの、自前のアーカイヴを作ってはいない。他方、美術研究の分野では一部の有志研究者によって「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」が立ち上げられ、数年間の活動期間を経て、ウェブサイトを利用したデジタル・アーカイヴにおいて口述史料を公開しはじめている。この分野で先駆的なアメリカ合衆国の取り組み(たとえば議会図書館のサイトには退役軍人が従軍経験を語るVeterans History Projectがあり、書き起こした記録を誰でも読むことができる)に量はともかく、質的には追いついているという印象を受ける、この「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」に見習い、演劇研究においても同様のサイトを構築したいと考えている。 また、21世紀に入り、戦前に活躍していた演劇・芸能関係者が次々物故しているという現実がある。一刻も早く聞き取りをしていかないと、貴重な口述史料が失われかねない。もとより応募者たちは本助成が認められなくても、これまで続けてきた聞き取り・取材を継続していくが、それぞれができることは限られており、携わる人数も少ない。本助成によって学界内外におけるこのオーラル・ヒストリー・アーカイヴ・プロジェクトの存在を広く知らしめ、より大掛かりなものとして育成していきたい。さらに、本助成を受けていることを取材対象に知らせることで、これまで取材を拒否されてきた演劇人にも取材を受けてもらえる可能性も高くなると推測される。

目標

本研究においては、これまで研究対象として軽視されてきた(歌舞伎以外の)商業演劇に注目し、商業演劇とそれ以外のジャンルの間での人的交流によって、新劇や小劇場が興行や上演の慣習だけでなく、その美学までもが商業演劇の影響を受けてきたことを明らかにしたい。研究期間内において50人程度の演劇人をインタビューし、テキスト化して、ウェブサイトに公開する。劇作家・演出家だけでなく、裏方や、現場に深く関わっている研究者にも取材し、ジャンルの垣根を超えた人的交流を明らかにしたい。また、専門業者による文字起こしが終わったあと、被取材者の略歴や業績についての解説を研究代表者・研究分担者が分担して執筆し、発言の文脈をよりよく理解するための手がかりとする。

はじめに

2014〜2017年度科学研究費・基盤研究(B):「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」(研究代表者:日比野啓)の成果として公表します。交付申請書に記載した「研究目的」は以下の通りです。 これまで研究対象として軽視されてきた(歌舞伎以外の)商業演劇に注目し、商業演劇とそれ以外のジャンルの間での人的交流によって、新劇や小劇場が興行や上演の慣習だけでなく、その美学までもが商業演劇の影響を受けてきたことを明らかにする。商業演劇に何らかのかたちで関わってきた俳優・劇作家・演出家・裏方・研究者にインタビューし、これまで文字史料として残りにくかった、商業演劇・新劇・小劇場演劇というジャンルの垣根を超えた人的交流を明らかにし、従来別々に語られてきたジャンルごとの歴史を、日本近代演劇史という統合的観点から語り直すための史料整備を行いたい。インタビューの内容を文字起こしし、ウェブサイトでデジタル・アーカイヴとして公開することによって、その成果を広く国民・社会に発信するとともに、ハイパーテクストとしての特色を最大限生かし、これまで目に見えにくかった事実間の関連性を明示する。