檀上茂聞き書き


取材日時:二〇一四年十一月二十一日
取材場所:ビジネスホテルニッセイ会議室
取材者:和田尚久・日比野啓・前田憲司・神山彰
編集・構成:和田尚久
監修:檀上茂・前田憲司

イントロダクション


 このプロジェクトでは、広い意味での〈近代演劇〉に関係した人々に聞き書きをしている。しかし、今回取り上げる「吉本新喜劇」を〈近代演劇〉の系譜のなかに位置づけ、批評なり分析なりの対象にしたテキストはほとんど存在しない。それにはいくつかの理由が考えられる。
 第一に、吉本新喜劇が、吉本興業の経営する「花月」、つまり寄席において上演される演劇であるという理由。
 歴史的に言えば、東西の寄席(色物席)では、踊りを見せる芸人が出たり、余芸として茶番(寸劇)を上演することがあった。
 ことに、関西の寄席においては、戦前から寄席芸と一緒のプログラム内に軽演劇を上演しているケースが見られる。たとえば吉本が経営していた、「新京極花月(京都花月)」の一九四〇年(昭和十五)五月のプログラムを参照すると、「吉本唱舞隊」、「アチャコ・今男の明朗浪曲劇」、「中野弘子一座」、「中野コドモ部隊」といった軽演劇が漫才や奇術と一緒に上演されている。こうしたプログラム構成は吉本の「伝統」である、とも言え、戦後開場した「うめだ花月」「なんば花月」などの寄席でもボードビルや軽演劇などさまざまな形態の上演が試行錯誤され、それが「吉本新喜劇」につながっている。
 とはいうものの、寄席という空間内での「演劇上演」は、たとえば東宝や松竹の「劇場」で上演される芝居と違い、一般的演劇愛好者の視野に入りにくかったはずである。それは、かりに超満員の盛況であっても公式的「演劇市場」や「劇壇」からは遠く離れた場所での上演なのだ。新聞や演劇雑誌のようなメディアの劇評に取り上げられることもまず無かった。
 この上演形式によって、彼らは特別な観客層と対峙することになる。吉本新喜劇は漫才や落語を含んだ「寄席の観客」に向けて上演されるものであり、ほかの演劇のように、「演劇ファン」が待ち構えるところで幕を上げるわけではない。この厳しい環境が、やがて出演者各人の持ち芸で笑いをとる、というこの劇団の特質を加速させたのではないかというのが筆者の私見である。
 第二に、これは一つ目の理由と重なるが、吉本新喜劇の出演者は原則として吉本興業に所属するタレントに限られるため、彼ら彼女らは「俳優」というよりは、どこか寄席芸人に近い雰囲気を持つ。実際、平参平、桑原和夫、池之めだかなどは漫才から、笑福亭松之助、雷門五郎は落語を経由して吉本新喜劇に参加している。逆に、西川きよし、前田五郎、坂田利夫などは吉本新喜劇から漫才にフィールドを広げた。芝居から漫才を経由して芝居に戻ったり、あるいはそれをさかさまにしたキャリアも見られる。こうした人材の行き来は寄席経営を統括する興行会社の存在があってはじめて可能であったろう。(厳密に言えば、初期の「吉本新喜劇」は吉本に所属しない芸人も客演している。これは、当時、吉本所属の芸人そのものがまだ少なかったという事情がある。これがだんだんと「吉本所属」の芸人一座として完成される。漫才師や落語家を経由した芸人たちが質的にも量的にも喜劇上演を支えるに足るようになったのだ)。
 こうした人々が一座する吉本新喜劇は、しょせん「寄席芸人による余技的コメディ」に過ぎないと――つまり「アクターによる正しい演劇」の埒外にあると判断されがちだったのではないかと私は推察する。私見だが、ここには東西の差も見られる。関西からはエンタツ、アチャコ、森光子、芦屋雁之助、小雁のように漫才経由のコメディアンが多く存在する。東京はこのケースが少ない。また、松之助の門弟である明石家さんま、あるいは桂文枝(六代目)、月亭八方のように、着物を脱いで、コメディアンまたはヴォードヴィリアンとして活躍する落語家も、東京には少ない。そして数少ない東京系の落語家=役者、八代目雷門助六は前名の五郎時代、吉本新喜劇に参加をしている。また、落語家出身でコメディアンとしても活躍、全国的人気を得た柳家金語楼が、東京の芸人ながら戦前の吉本に所属していた(一九三八年~)ことは偶然ではないと思うのだ。
第三の理由は、これも吉本興業という会社のカラーに関係するが、興業会社、作者、出演者たち自身が、一興行ごとの芝居を「作品」とは考えず、幕が下りればすべては終わるという、本質的には最も正しい、しかし刹那的な哲学によって吉本新喜劇を続けてきたということにあると思う。吉本新喜劇の台本は会社にもまとまった保存体制はなく、そのほとんどが散逸してしまったと聞く。私の関係する放送現場の台本も以前はそれが当たり前で、台本は用が済めば、どこかに消えてしまうものだった。たとえば、松竹新喜劇が「名作リクエスト上演」のようなかたちで、作品のレパートリー化をすすめた(これは劇団として当然のかたちだ)のとは対照的に、吉本新喜劇に「繰り返される名作」はほとんど無い。しかし、その徹底した反「作品主義」の姿勢(それは「近代演劇」的ではない)が、いっそユニークではないか。

 このインタビューでは、昭和三十年代の半ばから、半世紀以上にわたって「吉本新喜劇」の台本作者をされている檀上茂氏にお話を伺った。
 檀上茂氏は一九三八年(昭和一三)大阪市内・帝塚山の生まれ。ここは大阪の中心部に近く、戦時中も祖母に手を引かれ、道頓堀の演芸場に出入りをしていたという。その後、父親の勤務会社の関係で南河内郡に転居。「河内っ子」ではないが、ここで覚えた河内弁がのちに作劇の大きな財産になる。
 関西大学に在学中、テレビ局のアルバイトを経て吉本興業と台本作者契約を結ぶ。以降の長きにわたる活動については本編をお読み頂きたい。
 インタビューの聞き手は、和田尚久、日比野啓、神山彰の三人が東京者であるため、お願いして三重在住の芸能研究家・前田憲司氏に参加して頂いた。前者三人は吉本新喜劇を鑑賞した実体験が少ないこともあり、今回は芝居作りのシステム、舞台裏でのエピソードを中心にお話しを伺っている。

 吉本新喜劇の作者は、原則として演出家も兼ねる。さらに、役者に役を納める(配役し、それを承知させる)役割も担うという。つまり、この劇団の作者は、十日ごとに初日を開けるという多忙のなか、現場の軋轢の中にも身を置かなくてはならない。千日前のホテルの一室でお話しをしてくださった檀上氏は、細かいことに拘泥せず、大づかみに全体を作り上げていく現場の知性を持っているように見受けられた。「檀上茂」の名前は、しばしば(吉本のサイト内でも)「壇上」と誤記されている。これはご本人には確認しなかったが、檀上さんは、間違った表記を見ても、おそらく黙っているのではないか。――そんなこと、言うてもしゃあないわ、と笑いそうな気が、私にはする。
 ホテルを出ながら雑談をした。檀上さんの連絡先を調べるときに、私は、はじめ(社)放送作家協会に問い合わせをした。しかし登録がないという。結局、吉本経由でわかったのだが、それを言うと、「ぼくはテレビもずいぶんやったけど、放送作家と違うからね」。檀上さんはそう言うと、夜の千日前に出た。控えめな人の、しかし芝居の作者としての誇りがそこにあった。
(和田尚久)

放送局のアルバイトから吉本へ


日比野 『上方芸能』誌が吉本新喜劇を特集(第七十三号[一九八一年十月])した記事を見ますと、檀上さんが吉本新喜劇に関係されたきっかけは、先輩作家の竹本浩三氏に、なかば強制的に引き入れられたと……。
檀上 そうじゃないですよ。
日比野 関西大学に在学中のことだったとありますが。
檀上 関西大学に在学中の二年生の中ごろぐらいから毎日放送でアルバイトを、カメラのケーブルさばきというやつをしていたんです。
 それを二年半ほどやったんですわ。テレビスタジオのケーブルさばきは、たかがそんなものと言うけど、三台、四台のカメラ・ケーブルを、一人で全然音がしないように、もつれないように持っていかなあかんわけ。じつは、かなり難しい仕事やってんけど、僕はすぐ慣れた。というのは、ドラマの演出家が演出しているところをよく見たり、台本一冊覚えてしまうから。それで動きを組み立てる。
 そのころ、毎日放送のドラマに出ていた人たちの人脈がありまして、花登筺さん、「笑の王国」という劇団の主宰をしてはった人です。この劇団は芦屋雁之助、小雁が座長クラスで、その中にエンタツ先生が[別格のような形で]いてはった。アチャコ先生はずっと吉本。だけどエンタツ先生は、どういういきさつでどうなったのか分からんけど――なにせ僕がまだ生まれる前の話やから――吉本からは抜けてそこに参加していた。ぼくは檀ちゃん、檀ちゃんと言ってかわいがってもらったんです。
 その頃、僕は吉本にまだ何の関係もない。「笑の王国」にはエンタツ先生がいて、それから花紀京、彼もまだ研究生みたいな存在でおったんですわ。だから京ちゃんなんかとこの世界に入って一緒に仕事するなんていうのは、そのときはかけらも思っていません。それとは別にアチャコ先生も藤山寛美さんと何かドラマをやってはったり。
和田 同じ毎日放送で、ですね。
檀上 だけど、アチャコ先生とエンタツ先生はすれ違うこともない。
 そうこうしているうちに、吉本興業の中邨秀雄さんという人が、吉本のスタッフにならないかと話を持ってきてくれはった。エンタツ先生も檀ちゃん、檀ちゃんと言って、アチャコ先生も檀ちゃん、檀ちゃんと言ってこんな若造をかわいがってくれていたんですけど、僕はどうしていいか分からへん。毎日放送からはこのまま続けていたら、大学を卒業して二年間、準社員で契約、そのあと正社員にしてあげるという、そういう内定約束みたいなことをもらっていたんですよ。それでもやっぱり迷いがあって、うちの親に相談はできなかったんです。何でかといったら、自分の仕事をさせたかったみたいで。
日比野 おうちは何をやられていたんですか。
檀上 親父はサラリーマンやけど、戦争中から、日本はこんなあほな戦争をして絶対負ける。負けたら日本は変わる。ふすま、障子の世界からカーテン、絨毯の世界に変わると言っていた。ぼくはまだ幼稚園くらい。それで本当に、カーテン、絨毯の方面に進んだんです。あとで知ったのだけど、花月の緞帳もみんな、おやじの会社のものでした。「住江織物株式会社」と緞帳の裏に書いてあるから、えーっ、こんなものを作っていたのかと。親父はその会社の社長にもかわいがられていたから、僕にも同じ道を進ませたかったようで。
 だから親には相談できず、大人はいっぱいその辺におりますけど、やっぱり檀ちゃん、檀ちゃんと言ってくれていたエンタツ先生が言いやすかったんです。吉本興業と毎日放送と、どうしたらいいかと。ちょうどそのころにうめだ花月が開いたんです。
日比野 昭和三十四年[一九五九]。吉本としては戦後に再開したはじめての劇場。
檀上 僕はその時分からお笑いが好きで、道頓堀か千日前の小屋だったか、漫才なんかをよくおばあちゃんに連れられて見に行っていたりしていたものやから。それでエンタツ先生に相談したら「お前はあほか」と。大学を卒業したら二年間、準社員、それから正社員になれるんやろう、聞いたでと言って。しっかりしたレールの上を走らせてもらうのに何を迷うことがあるかと。思い付きの気持ちで決めるな、これからずっと人生があるんだから放送局へ行けと言われて、そうやなと。だけど、僕は調子者やから、エンタツ先生はもともと「エンタツ・アチャコ」や。エンタツ先生に聞いて、アチャコ先生に聞かんわけにいかんから、同じ質問をしたんです。そうしたら、アチャコ先生が何を考えているねん、お前は。いい若い者がきちっと敷かれたレールの上、走っておもろいかと。
日比野 逆のことを。
檀上 ――人生というのはな、花と咲くか、月と陰るか、これが花月のいわれや。いちかばちかの勝負やないか。いい若い者が何を言っているねん。勝負せえ、勝負。二十一歳の青年は、よーし、勝負してみようと思いますよ。何をするところかも分からんとね(笑)。
和田 ちょっとお話が戻りますが、そのころは毎日放送で「笑の王国」の皆さんがレギュラーを持っていたということなんですね[毎日放送で一九六〇年[昭和三十五]四月十三日—十月二十六日に放映された『三等兵物語』。MBSスタジオでの収録だった]。
檀上 そうです。だから、毎週毎週。
和田 スタジオで会うわけですね。当然、花登筐先生なんかもご一緒にいらして。
檀上 そうです。これは関係ない話やけど、ドラマの現場では台本なり演出なりに、役者さんから文句が出るわけですよ、クレームがね。それで演出家なんかと、ああやない、こうやないと言っている。それが長いことかかるんです。僕は何となくここのところを、こう言わないで、こう言ったらどうですのと提案した。ああ、そうやなと役者が言った。そうしたら、ばーんとしばかれたんや、椎名竜治という人に。
神山 椎名竜治、後で有名になりましたね[脚本家・演出家。森繁久彌主演『河内風土記 おいろけ説法』(一九六一・東宝)、勝新太郎主演『ど根性物語 図太い奴』(一九六四・大映)ほか、五〇年代から六〇年代にかけて東宝・松竹・大映映画の脚本を書いた]。
檀上 もうおらんようになったけどね。椎名竜治に殴られて、それを見ていた人らが、あ、こいつ、できるんやと。
日比野 台本がわかると。
檀上 まだ学生やけどね。
日比野 せりふを役者さんの言いやすいように変えることを、その場でぱっとおできになったということですよね。
檀上 そうそう。僕は河内生まれやないけれども、河内で育っているから、河内弁の汚い言葉が得意なんです。それで、よく声の出演もやらされたんですよ、ケーブルさばきしながらね。河内弁で脅かすときに、どついたろかという台詞を、檀ちゃん、ちょっと一遍やってみてくれと。「こらあ、われ、ごちゃごちゃぬかしとったら、どたま、めんでまうで」と(笑)。
日比野 今でもいい声ですね。
和田 そのころは毎日放送もテレビを初めてまだ数年目ぐらいですよね。
檀上 そうそう。最初「大阪テレビ」といっていたのが、毎日と朝日とに分かれたらしいけど。だから毎日放送になってすぐのころ。
和田 うめだ花月の開場時期と近いのですね。
檀上 僕が毎日放送にバイトに行ったころは、まだうめだ花月は開場していませんでした。
和田 一~二年たってからですよね、二十一歳になったとき。
檀上 そうです。
和田 新開場だから、吉本は出演者も欲しければ、裏方も欲しかったわけですかね。
檀上 そうです。これは僕の想像だけど、吉本新喜劇も僕に声をかける頃には、既成の作家にも声をかけていたでしょう。けれども、おそらく高いんですよ。だから吉本は自前で安いのを育てたいと。
 それで未知数の青年たちを集めて、宝塚の新芸座とか、初音礼子さんが主宰しておられた劇団の舞台の袖におったやつとか――これは永井劇場という小屋で、上がストリップ劇場だったんですよ。踊りと踊りの間にコントをやっていた。それの舞台係をやっていた人とか、みんな年齢的には僕より上でしたけど、入ったのは僕が一番早かったみたいです。ほかの皆は、ずっこいというか、すぐに辞めてしまいました。
和田 先生は大学は辞められて吉本に行かれたんですか。
檀上 もうあきません、そうなったら。卒業だけはしろよと吉本からも言われたんですが、試験があるからと休ませください、何を考えているねんと、明日初日やと、すみませんって、もうそのままずるずるっと。それでも八年間、関西大学に在籍しました。
日比野 学部はどちらだったんですか。
檀上 商学部、何でもしょうか(商科)。
和田 吉本の、のちに社長になられる中邨氏は僕らでも名前を存じているんですが、そのころは、中邨さんはまだ社長じゃないですよね。中邨さんがうめだ花月の運営をしているという感じだったんですか。
檀上 そうですね。もちろん、その上の人がたんといてはったけど、中邨さんが本社のプロデューサーとして劇場の出し物なんかにもちろんかかわります。あとはそんなに知りませんわ。
日比野 八田竹男さんのお名前も聞きますね。
檀上 そうそう、八田さん。八田さんがさらに上やったけれども、あんまり口出しする人ではなかったです。僕はかわいがってもらったけどね。八田さんがうちのおやじと同じ年やったんや。

「吉本ヴァラエティ」


和田 最初のころのヴァラエティというのは写真なんかを見ると、結構西洋風のことをやっていたのですか。
檀上 いいえ。吉本新喜劇みたいなものですよ。
和田 そうですか。
檀上 芝居です。吉本ヴァラエティとは言うものの、ヴァラエティ・ショウじゃなく芝居です。
和田 芝居ですか。そうしますと、例えば漫才や落語が出ますよね。その一番最後がヴァラエティになるんですか、プログラム上は。
檀上 そのときの都合で落語家の林家染丸であるとか、それから漫才では歌子・啓助さん、あそこらの連中はテレビの仕事があったり何かして、時間も差し替えなあかん場合は、上でやったり下でやったり(前後する)。だいたい漫才と若手の落語が二~三あって、それからステレオコントというのが三〇分、これは漫才、落語と吉本新喜劇の若手、あの当時だから岡八郎やら、そこからのが何人か混じっての出し物。それからまた落語、漫才。漫才、落語、漫才、中入りがあって、中入り後の三本、その後に吉本新喜劇。これが基本。だけど、そのときの都合で、中入りがあって、一つ漫才をやって吉本ヴァラエティをやって、それで師匠がハアハアと帰ってきて舞台に上がる。
和田 そういうときもあるんですね。
前田 ポケットミュージカルスというのもありましたね。
檀上 ポケットミュージカルスというのはその後です。ステレオコントはステレオが日本で初めてできた時代の出し物。そのあとで、ポケットミュージカルスという形式になった。これは歌があり、短いコント、それからまた歌があり、コントがあり。
日比野 ポケットミュージカルスは一九八二~一九八三年(昭和五十六~五十七)まで形を変えながら続けていましたよね。
檀上 ありましたよ。
日比野 それに比べるとステレオコントは早くに廃れてしまいましたね。
檀上 もうなくなりました。
日比野 それは理由があったんですか。
檀上 歌謡曲にしろ、何にしろ、歌のものが日本中ではやりだした。演歌なんかがものすごく売れるようになったという、そういう時代に入ってきたものやからと、僕はそう聞いていますけどね。
日比野 音楽ものをやった方がいいということですよね。
檀上 そのころは、三人トリオで楽器を持って歌を歌って、お笑いをやってというトリオがいたり。スプリングボーイズか。
日比野 ありましたね。
前田 あひる艦隊もいてはりましたですか。
檀上 いました。東京からも川田晴久とダイナブラザーズ。「〽地球の上に朝が来る その裏側は夜だろう」がオープニングの歌やった。

舞台袖にて


檀上 僕はずっと舞台袖におりましたから、舞台進行も兼ねてやっていたんです。それが僕の仕事の始まりで。下座があって、狭いところだけど、上に三味線のお姉さんが二人おって、下に右之助さんというおっちゃんがおって、鉦、太鼓、拍子木をね。このおっちゃんは競馬が好きで、土日になると二、三時間おりませんのや。
前田 桂右之助さんという落語家ですか。
檀上 もともと落語家やったらしいけど。その間、檀ちゃん、頼むでと言ってね。夜遅くなって劇場が終わってから、鉦や太鼓のたたき方、拍子の木の打ち方を仕込まれて、若いから何でも言われたら、せなしょうがないというよりも、何か面白そうでね。興味があるものばっかり次々と出てくるもんやから何でもやりましたよ。漫才でも下座で三味線、鉦、太鼓で出ていく漫才さんと、そうではなくレコード、テープで上がる人もおる。そんなテープ作りをしたり。テープの編集なんかは毎日放送でバイトをしているときに、じっと見ていて。あのころVTRのテープは編集できへんかったんです。しかも三〇分のドラマの二十八分目ぐらいに誰かがとちりよったら、そのテープを巻き戻すのに二十八分かかる時代だったんです。こんな大きな重たいやつね。毎日放送でのバイト時代は、それを持ってよくうろうろさせられた。

若手作者としての日々


和田 初期のうめだ花月では吉本新喜劇があり、番組のなかばステレオコントがございますよね。そうすると作者の方が書くのは、そのステレオコントと。
檀上 僕らが入門編のようにして、まず関係するのはそのステレオコント、その後、吉本新喜劇、吉本ヴァラエティを書くようになる。
前田 「ヴァラエティ」が「吉本新喜劇」になるのはいつからなのでしょう。
檀上 新喜劇はすぐですよ。吉本新喜劇になったのは。
前田 一九六〇年(昭和三十五)のうめだ花月十一月中席で、吉本ヴァラエティに吉本新喜劇と併記したのが最初のようですが。
日比野 一説には一九六三年(昭和三十八)八月のなんば花月の開場のときからだとも。
檀上 吉本の小屋は、はじめはうめだ花月一軒だったんですね。その時はヴァラエティです。それから京都花月ができたんです。それから、一九六三年(昭和三十八)七月になんば花月ができたんです。もう次々と一年おきぐらいに。そして、八月になると吉本ヴァラエティが消えて吉本新喜劇だけになった。それで合っていると思います。
和田 そのころ、檀上先生は吉本の社員だったのですか?
檀上 契約だったんです。一年ずつの契約で、それで頑張ったら次の年、上がるんです、契約金が。一年分を一・二回に割って毎月くれる分と、それでポケットミュージカルスや何かのステレオコントを書くなり、あるいは吉本ヴァラエティを書くなりは別にお金を。
日比野 原稿料が出るわけですね。
檀上 そう。そんなことをしながら、アチャコ先生の付き人を二年半ぐらいやりました。吉本の社員の人数が足らんものやから、バイトのときから知ってもらっている仲やし、仕事場に付いてあげてと言われて。
日比野 その期間は作家としての仕事も……
檀上 やっていましたよ。
和田 やりつつ。
檀上 やりつつです。
神山 何でもやりますから、あの世界は。
檀上 何でも、何もかも全部。
和田 舞台袖では太鼓も叩きつつということですね。
檀上 自慢じゃないけど、終わってから劇場の場内の掃除もやりましたよ。何せ人手がなかったから。でも、何をやっても面白いの。[上演が]終わって掃除するのに客席に入っていったら、ゆで卵が網に五つほど入って売店で売っていますやん、それが二個ほど残っていたりね。バナナが一本残っていたりね。若いのは腹が減るのに食われへんのやもん。
和田 楽屋なんかに泊まったりもされていたんですか。
檀上 楽屋に泊まっていました。僕は酒飲みなんです。今はもうこんなだけど、大酒飲みと言ってもいいぐらい酒飲みなんです。いつからかと言ったら三〇歳ぐらいまで一滴も飲めなかった。正月にみんなでわいわい言いながら楽屋でしていたら、誰か知らんけど湯飲みに酒をついで僕の前に置いておったんです。それをちびりちびり僕はやりながら、檀ちゃん、お前、酒を飲んでいるやんと言われて、えーっ、ほんまやと言ったら急にこうなってしまってね。だから飲んだあとは、楽屋にそのまま泊まったり。
和田 ちょっと新喜劇の話とずれるんですけど、東京の寄席というのは昼間の番組と夜の番組が違うんですよ。
檀上 こっちは一緒でした。
和田 そうですよね。大阪は同じ番組を廻しますよね。例えばうめだ花月なんかでも最初から一回目、二回目、あるいは三回目という廻し方をしていましたか。
檀上 全部一回目、二回目、三回目も同じ出し物です。それは指定席と違うから、いつ入ってもいいようになっています。だから二回見ようと思ったら、吉本新喜劇が始まる前に入って、それを見て、それで漫才をずっと見て、もう一回、吉本新喜劇を見て帰るようなお客さん、そんなのもいらっしゃいましたね。
和田 そうすると出演の方も当然二回目、三回目があるから、いったん出ても、まだ楽屋に戻ってくるわけですよね。
檀上 そうそう。
和田 東京の寄席はそれがないんですよね。一回出たら、みんなそのまま帰るので戻ってこない。
檀上 楽屋がなかったんですか。
和田 だから、東京の寄席は楽屋にたまるということがほぼないんですよね。
檀上 楽屋にたまって、ばくちばっかりや。ついに禁止にはなったけど、僕も巻き込まれたことがあるけど。

一ヶ月に三本の新作


和田 花月の興行は、上席、中席、下席とありますよね。
檀上 はい。
和田 仮に、今度の一二月の下席の吉本新喜劇の準備をしますと。そうすると作者の方というのは何日前ぐらいに台本をあげるのでしょうか。
檀上 あんまり記憶に残ってないけど、次から次やからね。
和田 つまり十日おきに初日が来るわけですねよね。
壇上 そうです。
和田 うめだ、なんば、京都と。
壇上 初日が来ます。出し物は、うめだ花月、京都花月、それからなんば花月と十日ずつ移動していくんです。というのは、テレビ中継があります。毎日放送は『サモン日曜お笑い劇場』、これは日曜日の昼十二時、うめだ花月からの生放送。朝日放送は『お笑い花月劇場』、こちらは放送は土曜日だけど、録画で、たしか月曜日が収録の曜日やったと思う。
 十日、十日、十日で(月の出し物が)三本しかありません。カレンダーによっては、十日間の間に、月曜日が二回ある場合がある。そのときには特番と言って、(その小屋に)入った僕なら僕が六日間ほどやって、七日目に初日を開ける芝居を書くんです。
和田 なるほど。テレビ中継がある関係で、十日おきの初日よりも忙しい。
壇上 ぼくは一気に三軒の初日にかかわったこともありますよ。
和田 演目は各花月に移動していくのですか。
壇上 うめだ花月は(週一回の生中継なので)一ヶ月に四本あるわけです。これも四本で済む月と、五本いるときがある。カレンダーの加減で、うめだ花月でやって、中継がそういう具合にせんでもいい(追加演目を上演しなくてもいい)場合、うめだ花月で中継した芝居をそのまま京都花月へ持って行くんです。
和田 同じ出し物を。
檀上 同じ出し物を。すると京都のお客さんは、けちです。怒るんです。テレビで見たやつ[『サモン日曜お笑い劇場』の生放送]を何でやるねん、金を払って見に来ているのに。テレビでただで見たものを何でここで金を払って見せるんやと。
和田 先に見ているから。
檀上 そうそう。人気があったからね。視聴率もこんなんだったから。それは三〇何パーセントみたいな視聴率を稼いで、いつも関西の視聴率順位では五位までに吉本の番組が入っていました。三つぐらいはね。
神山 あのころ、東京で言うと、日本テレビとラジオ東京テレビ(後のTBS)と、NHKはありますけれども、まだフジテレビ系も日本教育テレビ(現テレビ朝日)もなかった。関西の民放局は?
檀上 民放は僕が最初行ったときは毎日放送と朝日放送しかなかったけれども、僕がそれから二年バイトをして、それで花月に行ったころには関西テレビも読売テレビもありました。
日比野 記録を見ると一九五八年(昭和三十三)八月に読売テレビ、同年十一月に関西テレビ、一九五九年(昭和三十四)三月に毎日放送が開局していますね。
檀上 僕が吉本へ行ったのは三十五年(一九六〇)です。

初日が開くまで


和田 とにかく普通の商業演劇でも一月ごとに幕を開けるのでも大変だと思うんですが、十日ごとに初日が来るというのはとにかく忙しいと思うんです。道具も当然作らなきゃならないですよね。そうしますと、作者の方というのは、思い出せる範囲で結構なんですが、十日前に台本が上がっているのか、二十日前なのか、どのぐらい。
檀上 一日前です。
和田 一日前ですか!
檀上 特に僕は遅かった。仕事をいっぱい抱えていましたからね。同じ劇場で二本上げなあかんとか、さっき言ったみたいに三軒とも開けたこともあったり。うめだ花月のものは京都花月にそのまま持っていく。だけど、やっぱり照明さんとか音響さんとかの加減があるから、その稽古は一緒にせないかん。それでいくんです。うめだ花月のものを演出して、稽古が終わって、そこから京都花月まで走って、京都花月でやっておいて、京都花月の楽屋で泊まって、朝一でなんばに行って、それでなんばで上げる。
和田 そうしますと、例えば初日が開く。一日前は本当にぎりぎりとしても、仮に三日前に台本が上がったとしますね。
檀上 もう役者は大喜びですよ。
和田 あ、そうですか。
檀上 どこかで歓声が聞こえますわ。
和田 そうしますと、今回はこの食堂でいくとか、それは先に道具の方に言っておくわけですか。
檀上 もう全部、話のストーリーは頭の中に入っているから、衣装、小道具、何から何まで全部発注済みです。
和田 先に発注するわけですね。
檀上 そうです。そうじゃないと間に合いません。
和田 そうですよね。配役もある程度。
檀上 それでいるもの、いらんものを全部言っていくでしょう。電話でも会ってでも打ち合わせをしているうちに、話ができてくるんです。ちょっと待って、下手のここはうどん屋と言ったけど、喫茶店に変えてくれるかみたいな、そんな変更はしょっちゅうありました。そういうことでは、よくスタッフと喧嘩した。僕の仕事というのは印刷屋さんで泊まり込みですよ。次から次やから、印刷屋、杉井堂印刷と言うんやけど、今はパソコンで。
神山 そのころはガリ版ですよね。
檀上 ガリです。
神山 ガリかカーボン紙ですよね。
檀上 そこの社長が片足が不自由な、杖をついてのあれだったけど、ほとんど車いす状態で、ちょっと体の不自由な人だったから、これぐらいの仕事はできるやろうということでやってはった。それと刑務所に入っていた人だった。刑務所にはガリ機というのがあって。
和田 中で技術を覚えているのですね。
檀上 「早くしてや、友達とマージャンをしようと言って、みんな待たせているんや」「そんなことを言うな。お前らは俺が書いた原稿をガリ版で写すだけやないか。俺は考えて書かなあかんのや」なんて。
しまいに「まあ、そこでゆっくり書きなさい」。入れ墨でね。
和田 初日の前夜、お稽古はどのぐらいされるんですか。
檀上 稽古は、今は変わっていますけど、まず、楽日に通常の興行が終わります、それで劇場を[たとえばうめだから京都に]移動します。移動した連中が来るのを待ちます。その間に稽古用の大道具、セッティング、照明、音響のチェックなんかは先におるからチェックしておきます。役者が来てから客席でホン読みです。
和田 夜の十時ぐらいですか。
檀上 そうそう。それからずっと、ちょっとホンがまずかったり何かすると、朝、コケコッコーまでです。かと思えば、ちゃっちゃっと終わってしまって、ああ、よかったと。まだ早いと言って、あのころ三時、四時までやっている店はなんぼでもあったから。
和田 いずれにしても、稽古が即、今で言うゲネプロみたいな感じということですね。
檀上 そうそう。ホンが早くできたときは前日に本読みです、楽屋で。当日その劇場へ入って立ち稽古。セットなんかがちょっと時間がかかるときはロビーで立ち稽古。それから舞台へ上がって舞台稽古。
 舞台稽古は一度きちっとしてやる。まず一景をやって一景の小返し[うろ覚えや不明の箇所を繰り返し稽古すること]をする、二景をやって二景の小返し、それから一・二景の通し。その頃は二景ものでしたからね。今は三景になってますけど。ロビーか稽古場で立ち稽古をやっている内に舞台のセットの立て込みや照明・音響の準備ができる。それで本番通りの舞台稽古を緞帳から緞帳までをやって、終わるのがもうコケコッコーの時間だったり、一時半から二時ぐらいには終わっていたり。タクシーで帰るとかはなかった、吉本に「送り」は無いので。みな楽屋に泊まるから、貸布団屋のかび臭い布団でね。

作者の給金


和田 吉本新喜劇の初期の座組というのは一班が何人ぐらいでしたか? 出演者は。
檀上 十五~十六人はいましたよ。
和田 作者はその十五~十六人がみんな出るように書くわけですか。
檀上 そうです。全部出してやらんと、かわいそうです。契約の時代だったから、一カ月分の給料はくれるけれども、それでは食っていけません。でも「出た」といってもしれています。
日比野 芸人さんの方も月給プラス出演料という形でやっていたということですね。
檀上 そうそう。
和田 ベースが基本給なわけですね。
檀上 僕はステレオコントからポケットミュージカルスに変わったときはちょっと上がっていた。ステレオコントは一本五百円で、芝居の新喜劇の方は二千円でした。
和田 二千円って今で言うと、どれぐらいなんでしょう。
檀上 焼き飯の小とラーメンで百円の時代です。うめだ花月の入場料が二百円。
日比野 約十倍。
和田 そうすると、やりがいはあると思いますが、金額はすごく吉本っぽいですよね。だって、一回食事して二百円のときに、二千円の台本執筆料って、安いと言えば安いですよ。
檀上 ごちゃごちゃ文句を言うな。これだけの客が入るねん、これを全部笑わせろと言ってへん、全部感動させろと言ってへんわ、二百円の入場料で一人分でいいねん、一人分笑わせろ、一人感動させろと言われて、林正之助に。二百円が十日で二千円という計算で。
和田 十日で十人が感動すればいい、と。
檀上 だけど、二百円でも源泉を引かれたら百八十円になりますよ。そう言うと、暮れに(還付金で)返ってくるやろう。全部戻ってくるやろう、お前らの収入は、とね。
和田 そのころ、作者は何人ぐらいいらしたんですか。
檀上 竹本[浩三]さん、吉仲賢二さん、甘玉敏郎さん[のち久世進]、藤永暁さん、俺、四人。竹本さんはあまり書かなかったけれども、入れれば五人。
和田 それで三座あるわけですよね。
檀上 だけど、檀ちゃん、ちょっと見てやってくれというのが多かったものやから、五分の一じゃなかった。というのは、みんな年が上ですねん。檀ちゃん、このメンバーやねん、こんなセットを発注してしまったんや、お前やったら、どんな芝居にする? そうやなとすぐに乗ってしまうねん。ああして、こうして、こうなって、こうなってと。それから、どうなるの、面白そうやな、いこう、いこうと。そんなのばっかり。だまされているというのは分かるよ。だけど、考えるのが好きやったから、人の分まで出しゃばって。
 会議があるんです。一カ月分のプロット会議で、皆、ろくなものを持ってこないねん。僕も持っていかへんのです。八田さんとか中邨さんとかが、檀ちゃんはまた何も持ってこなかったん? 持ってこなくても、お前は言うことが面白いから言ってみろと言われて、そこで三本、四本分、こんな話、こんな話、こんな話と。それなら檀ちゃん、これとこれとこれは檀ちゃんと言って、この話は藤永にやってくれ、これはこいつにやってくれと言われるものやから、どうぞ、どうぞと。なんぼやっても、なんぼでも出てきました。次から次から、まあ、びっくりしますよ。自分で何でや。
 俺は自慢じゃないけど、自慢やけど、テレビのいろいろな番組をやってきています。旅のものであるとか、『プロポーズ大作戦』って、あれも僕の企画で、僕がやっていました。それから昔は『シャボン玉寄席』といって、漫才・落語の一五分の番組なんですけど、司会が出てきて、その司会のところを台本にせないかんので、それが月曜から金曜日まであった。一週間の間に僕の名前がテレビのタイトルに一回も出てこない日はゼロ、皆無。それぐらいこき使われたというか。それでも安いんですよ。だから、なんぼやったって、放送局からの仕事をしても、そのギャラは吉本へ入るわけです。吉本から僕がもらう。
和田 あ、そうなんですか。
檀上 だから、フリーになってからですよ、直接もらったのは。
和田 細かい話ですけど、放送台本をやって、吉本にお金が入って、ちょっとそこで抜かれるんですか。
檀上 だいたいピンハネと言いますやん。こっちはピンくれ。十万円の仕事をして、放送局から直接もらったら十万円の仕事が会社経由で一万円です。
和田 すごいですね。
檀上 漫才さんも落語も皆、そんなのですよ。それはすごかった。

松竹新喜劇からの誘い


檀上 そのころ、松竹新喜劇が藤山寛美さん、これは読売テレビと朝日放送が交互みたいにして中継していたんやけど、寛美さんの方からプロデューサー経由で、「吉本の檀上茂というのを使いたい」と打診されたわけです、松竹新喜劇に。ちょっと借りられへんやろうかと。ところが、吉本と松竹ってご存じやろうけれども、こう(ライバル関係)です。絶対そんなことは許されるわけがない。けれども、その誘いには、僕もちょっと魅力を感じたわけ。
 吉本からは「それやったらお前はクビや」と。松竹新喜劇、つまり松竹の主眼の芝居をやるんやったらお前はクビ。三十歳のときです。結婚して赤ちゃんが生まれたときです。ただし、クビになったら、いわゆるフリーや。クビになったら、もう吉本の人間と違うねんから、どこの仕事をしようとお前の勝手や、とも言う。
 それでも吉本新喜劇の仕事は出来なくはない、と。フリーやから、吉本には籍は置かさない、契約は一切しない、だから、松竹に行って松竹のいいところをパクってこいと言われた。今後、ギャラに関しては、吉本新喜劇の原稿料、月額の契約基本給はなくなる。その代わり、原稿、演出料を倍にしてやると。
 そのときにこっちはびっくりしますよね、えーっと思ったわけです。その顔が何か不満に見えたみたい。よーし、分かった、三倍でどうやと言われて、はい、ありがとうございますと。
前田 そのときの交渉相手は誰ですか?
檀上 普段のお金の話は中邨さんです。辞めるどうのこうのときは、松竹うんぬんのときは(林)正之助さんが。(林)会長はものすごい金をやっていると思っているんや。実はこんなものやということを知らへんのや。けれども、そのときだけは会長が出てきて、行ってぱくってこいと言って、ありがとうございますとまとまった。
前田 そのころの社長は橋本鐵彦さん?
檀上 橋本さんにもかわいがって貰いましたけど、そういう場にはあまり出てこない。橋本さんは昔話をよくしてくださって、万年筆を一本、高島屋で万年筆フェアというのがあって、欲しい万年筆があるねんけど、僕のこれでは買えない。まだ一ドル三百六十円の時代やもんね。高いから無理かなと言っていたら、橋本さんが買ってくれはりましたね。うれしかった、モンブラン。まだ持っていますよ。
日比野 そこでいったん契約は打ち切られたということですね。
檀上 吉本興業の専属をクビになった。だからフリーのライターとして、ここで続けなさいと。
和田 その代わり一本のギャラを上げてあげるということで、
檀上 道頓堀と、そこの千日前、今はNSCという学校が上の方にある、下はゲームセンターになっている建物、あそこがなんば花月やった。なんば花月と道頓堀の中座で同時に「作・演出 檀上茂」と出たのは、まず日本で僕一人だけ。
日比野 そうでしょうね。
檀上 京都は鴨川の四条、南座と、それから新京極の花月、これももう同じぐらいの距離やもんね、二つ看板を並べて。

松竹新喜劇の現場


和田 松竹で台本を書いたときは当然、流儀が全然違うと思うんですが、どうでしたか。
檀上 向こうは「吉本みたいな松竹新喜劇」が欲しかったわけ。
和田 じゃあ、自由に書いてくださいと。
檀上 書いてくれと。それで、前座ですわ。だから興行の一本目。それで藤山寛美さんはそれには出てない。だからといって若手が出てくるのと違うのや。やっぱりじいさん、ばあさんも混じっているわけや。稽古になって、このきっかけで、この人が何やかんやと言ったら、全員こけてくださいと。「えーっ」「いやいや、ここでばたっと全員でこけてください」と。「そんな吉本みたいなことをできるか」「それなら何で俺を呼んだんじゃい」と言って、寛美さんが客席で舞台稽古を見てはって、言われた通りしなさいと言ったら、はいと言う。
 何やかんやといって皆、だーっとこける。はい、すぐ立ってください。立たれへんのや。じいさん、ばあさんばっかりやったし。どうしようかなと、こけるのをやめようかなと、ちょっと迷ってこうなっていたら、寛美さんが「下座を入れてみい」。こける、こけた、そうしたら下座が入って、チャンチャンチャンチャン、チャチャチャチャンチャチャチャ、チャンチャチャチャンチャンチャ、そうしたら皆、それに合わせて踊りながら立ちやすい。おーっ、こんな手があるねんやと、それやったらすーっと立てるわけやな。
神山 そのころは松竹はまだテープじゃなくて、生演奏の下座だったんですね。だから、できたということですね。
壇上 いや、下座とテープの両使いやった。
和田 そのとき書かれたのはまげ物ですか。
檀上 いいえ、最初は現代物です。松竹で、今月の出し物のテーマみたいなものを決めようという話し合いがあって、最初は現代物でした。「穴」がテーマだった。僕は『穴男』にしたんです([一九七一年(昭和四十六)五月南座])にしたんです。道路を田舎に新しく造る。それが通るトンネルの中に行ってトロッコ、レール引いてね、こんなものは花月では絶対できへん。それができるんやもん。
和田 舞台装置がちがう。
檀上 舞台のセットが。山に穴を掘っていって、この道と山の向こうをつなぐんやという、その工事現場の話。だけど、村人たちはめちゃくちゃ怒るわけです。
和田 開発に。
檀上 開発にすごく反対して、その工事の邪魔をしようとか何とかと行ったら、この工事の責任者が自分のうちの息子やったという話なんですね。それやったら、みんなで力を合わせて成功させたろ、というような筋で。芝居の中で。寛美さんは中継のときだけ出てくれはるんです。
和田 テレビ中継のときに。
檀上 そうそう。三枚目の小島慶四郎の代わりをする。
神山 時代背景として昭和四十年代でしょうかね。
檀上 僕が三十三歳。
神山 三十三歳というと昭和四十六年(一九七一)ですね。
檀上 そのぐらいやったね。
神山 そのときは、天外さんとかに、挨拶に行くんですか。今度書かせてもらうことになりましたとか。
檀上 中座のエレベーターで舞台に降りてこられた時、そのエレベーターの前で、向こうから声をかけてくれはった。
神山 そうなんですか、それは大したものですね。
和田 じゃあ、やっぱり遇されていたわけですね。
檀上 「あなたが檀上君?」と言って「よろしく頼むね」と、挨拶されて、ちょっとびびったけどね。すごい光っているというか。
神山 やっぱりありましたか、天外は大きさが。
檀上 お寺に行って仏さんがでーんと、こうあって、何か圧倒されるような感じを受けるでしょう。何かそんな気持ちにもなったし、ちょっと足の方が不自由で。
神山 そうでしょうね。もう病気で倒れた後ですもんね。

松竹と吉本 ちがう流儀


前田 さっき下座が入る、入らんって、吉本新喜劇の場合はあんまり音楽を途中で入れるという演出を見ないですね。
檀上 昔はあったんですよ。
前田 それはあったんですか。それともう一つは、吉本新喜劇の場合は役者さんの名前がそのまま登場人物の名前ですよね。花紀京は劇中でも花紀君で。
檀上 そうそう。
前田 松竹はそれをしない。
檀上 一遍、「[新喜劇]やめよっカナ!?」キャンペーンをやったとき[一九八九年十月~九〇年三月]に、役者の名前じゃなしに、ちゃんとした役の名前を付けようよという、それでそういうシステムになったけど、すぐへたりました。みんな舞台の上で本人の名前を言うんや、めちゃくちゃになりました。だから役の名前を覚えられへんわけや、役者の癖で。
前田 それはいつからやったんですか。もう最初から吉本新喜劇はそうやった。
檀上 最初からです。特別なもの、例えば時代劇なんかは、少し変えていたけど。
前田 松竹は全然それはやっぱり全部役名を付けていたんですよね。
檀上 全部名前を自分で考えなあかん。
和田 今のお話だと、そんなにやりにくいということは特になかったですか、松竹に入っていっても。
檀上 初めのうちは、そんな吉本新喜劇みたいなことができるか、みたいに、じいさん、ばあさんの役者に言われたけれども、何かもうすぐなじんでくれて、女性方も、おばあちゃんたちにも、おじいちゃんたちにも。
神山 おじいちゃんたちというのは、五郎八とか明蝶とか、そのぐらいですか? あるいは千葉蝶三郎とか。
檀上 五郎八先生と一緒に仕事はしていません。序幕の狂言やから、あんまり大物は出てこない。中継のときだけ寛美さんが出る。これは読売テレビと朝日放送が檀ちゃんの芝居やから中継してやると。だから特待生みたいなもので。
和田 劇団の中で年配だけれども、中幕とかには出ないような人が一本目に何か役を付けて、ということですね。
檀上 寛美さんなんかはもうきっちり台詞もいつ覚えはるのか、ひょっとしたら台本も見てへんの違うのかなというぐらいやのに、ちゃんとされる。それから動きのこと、それからアドリブ、全部きっちりとしていた。だから、すごい人やなと思って、俺もきっちりした仕事せないかん。
和田 吉本新喜劇が「ヴァラエティ」という名称から「新喜劇」と銘打つというときに、やっぱり松竹新喜劇に追い付け、追い越せみたいな気炎というか、そういうのは内部的にありましたか。
檀上 ありませんでした。うち(吉本)が上やと思っていましたから。あんな古くさい芝居、いつかへたるよと。勝っているつもりでしたよ。
和田 ネーミングは明らかに松竹新喜劇[一九四八年[昭和二十三]十二月結成]を踏まえていますよね。
檀上 だけど、吉本の方が新喜劇は古いんですから。僕が生まれる昭和一けたの時代に吉本新喜劇団と言って、東京に行って公演もしているはずです。
和田 あ、そうなんですか。
檀上 そうですよ。僕が生まれる前からあったんですよ。
前田 戦前の京都花月や浅草花月ではヴァラエティ・ショウをたくさんやっていまして、大阪吉本ショウ、東京吉本ショウの他にもエロス座、陽気な一座、喜劇民謡座など。これは、吉本が作った劇団で漫才師や落語家なども加わっています。また、吉本が抱えた劇団もたくさんあったらしく、ピッコロ座、オオタケ・フォーリーズ、そして新喜劇座などは東京で人気があったようです。吉本新喜劇団というのはこのことでしょうか。
檀上 たぶんそれだと思います。

吉本新喜劇 思い出の出演者


檀上 アチャコ先生も吉本新喜劇に出てくれはって書いたんです。僕のことを檀ちゃん、檀ちゃんと言ってよくかわいがってもらっていたからね。京都花月でアチャコ先生が呼んではります。何やろうなと思ったら、「檀ちゃん、この台詞、いい台詞や、これはわしがしゃべるわ」と。ところがそれが相手役の台詞や。反対側の人間の台詞をしゃべって、どないしまんねんと。何とかならんか。先生、こっちの役をします? それはやっぱり役はこっちのままのがいいけど、この台詞をしゃべりたいと。そんなやりとりがあって。
前田 座長と一座の、吉本内の一つ座組がありますよね。それは三つあったときに毎回メンバーが入れ替わるものですか。
檀上 だいたい一緒です。
前田 そうすると、台本を書くのも、一座の中であの人にこれ、あの人にこれという顔ぶれは完全に分かっているわけですか。
檀上 そうそう。
前田 吉本に専属のころ、座長というのは三座それぞれ、どなたでしたか。
檀上 守住清とか、白羽大介、それから木戸新太郎さん、東京の人やね。清水金一も出たことがあるね、シミキン。喜劇王と言われた人で、映画も面白かったんや。斉藤寅次郎監督のどたばたの。あれはどこで出たんやろうな、うめだ花月。毎日べろべろに酔って、シミキンが出ているんやから、それでお客さんも、シミキンと吉本とドッキングで、お客さんもシミキンを見に来ている。そこへ、べろんべろんに酔っている。それでも出さないとしょうがない。だから、シミキンがしゃべるせりふを周りの人間が全部「こう言いたいねんやろう、な」と代わりに言っているみたいな芝居でごまかしてした。その十日間だけでもう二度と来ませんでしたけど。
和田 ほかの方が書いた本でもやっぱりそういう証言があって、シミキンさんというのは浅草であれだけのスターだったのに、晩年は荒れちゃって、アル中というか、ちょっと痛ましい感じだったと書かれていますね。
檀上 僕も東京の人だけど好きやったんですけど。
日比野 小雁、雁之助あたりとはお仕事はなさってなかったんですか。大村崑とか初期の。
檀上 僕が行く前、うめだ花月が開いたごく初期のころは花登さんの演出で、「笑の王国」のはしりみたいなのでやっていました。
日比野 直接の接点は?
檀上 ありません。小雁さんとは一度だけ、私の脚本演出で吉本新喜劇に出てもらいました。「もうええのに[山田]スミ子もん、しかも四連発」という企画[一九八九年十一月]の一本です。写真館の話でタイトルが「おーいドン!」。
日比野 笑福亭松之助さんは。
檀上 松ちゃん師匠は出ていました。やっぱり吉本ヴァラエティで。
和田 松之助さんの聞き書き(林家染丸『いつも青春ずっと青春』、二〇〇〇年)にも自分が台本を書かれて上演した記録が載っています。
檀上 そうそう、明石光司という名前でね。松ちゃん師匠の弟子が明石家さんまです。
前田 今、言われた座長たちのなかで、シミキンさんにしたって、木戸新さんにしたって別に吉本専属じゃないわけでしょう。
檀上 ゲストです。
前田 その専属じゃない方も座長だった?
檀上 木戸新さんは専属になっていたと思います。ずっといてはったから、あの人は。守住清という人と。
前田 その方たちは吉本専属の芸人さん。
檀上 そうそう。自殺しはったけどね。余計なことを言わんといて。
日比野 雷門助六が雷門五郎時代に座長をやっていますよね。
檀上 雷門ね。
日比野 記録では昭和三十四年[一九五九]の七月十一日から第十四回の吉本ヴァラエティで、雷門五郎一座が出ていて、それはゲスト座長ですね。
和田 五郎さんという人は結構大阪に長くいたんですよね。
前田 そうですね。
和田 松之助師匠が書いている本を読むと、昔の吉本新喜劇は今の、今というのがいつを指しているのか分からないんですけど、今よりももうちょっと人情劇っぽかったと書いてらっしゃるんです。そんなことってありますか。
檀上 いろいろですよ。噺家ですから、人情物はお好きやったみたいです。だから、僕が書くようになってからは松ちゃん師匠もよく出てもらっていますけど、この間の『さんまの駐在さん』[二〇一二年四月八日、大阪・なんばグランド花月にて「吉本興業創業一〇〇周年特別公演」として一日限りの上演]にも出ています。
和田 私は千葉の映画館で、ライブビューイングで見ました。[松之助師匠は]村長さんか何かでしたね。
檀上 いいかげんなことで、せりふを覚えるとか覚えへんとかなく、その場で自分で作って言ってしまうんやからね。この方がいいやろうと。

吉本新喜劇のフォーマット


和田 吉本新喜劇はテレビで中継することもあり、だいたい一本の尺が四十分から四十五分ぐらいですよね。
檀上 四十五分。
和田 四十五分前後ですか。
檀上 今はね。昔は……。
日比野 昔は三十分。
檀上 昔は放送枠が四十五分番組だったんです。
和田 もうちょっと短いんですね。
檀上 そうそう。だから、実尺は三十六分なんぼ、CMが入って。前説があって「新喜劇が始まる」と。五分後に中継があるんですよ。
CMも生でしたから。財津一郎が来て、生CMを財津一郎がやるようになったんです。これは『サモン日曜お笑い劇場』。あるとき、声の調子が悪いといって、裏でけふけふ言いながら龍角散を飲んでいたんです。何やかんや言って出てきて「サモンゴールド、飲んでちょうだい」というCMなんやけど「龍角散、飲んでちょうだい」と言って。
日比野 間違えたんですね。
檀上 そうそう。それで『サモン』をクビ。うめだ、京都の吉本新喜劇は「サモン」、なんばは「七ふく」。思い出した。「七ふく小劇場」だったと思う。番組名が。
和田 放送尺の都合で、筋はそのつど違うとしても作者の皆さんは常に三十分台の尺で書かれるわけですね。
檀上 そうそう。
和田 つまりテレビ中継がない日も。
檀上 三十六分。中継のない日に四十五分、五十分ぐらいに延びていたら、ほかの漫才の偉い人とか、落語の偉い人とかに怒られるでしょう。だから詰めて詰めてという。生中継やから、ぴしゃっとサイズを合わさないかんのです、三十六分に。それでそのときに終わりの方に来て、巻きだしたり延ばしたりしたりしながら、ぴーっと終わらせる。
和田 生放送時代の中継はそうだったと言いますね。比較すると、今の新喜劇の方がちょっと長くなっているんですか。
檀上 そうですね。今の新喜劇は放送枠が五十五分ですから、それでCMの分を抜いても四十五分。
和田 十分ぐらいは長い。そうすると先生は、私も放送の台本を書いたりするので非常に興味があるんですが、原稿では何枚ぐらいですか、三十何分だとすると。
檀上 これは一概に言えません。僕はぴしっと時間を合わせる。それは生の時代から書いているから合うんです。だけど、今の若い本書きなんかが書くと一時間オーバーしたり、それからカットして、カットしていますけれども。枚数は本書きによります、同じ時間にぴしっと合うにしてもね。
和田 先生は慣れて、だいたい狂いなく尺に合うということですね。
檀上 だから「長いのと違います?」と言ってプロデューサーサイドが言う。この分とこの辺とかカットしてもいいような気がするけど、いいよ、カットしようかというところでカットした分、短くなる。きっちりその分、短くなります。
和田 時間が余ってしまう、早く終わってしまうのですね。やっぱりホン通りのほうがいいと。
檀上 時間には。だからイベントなんかで、どこかでやるので九十分の芝居にしてくれと、絶対ぴたっと九十分で幕が閉まる。

役者にあてた台本


日比野 先生の中でも原稿の枚数は一定していないんですね。
檀上 京ちゃん、花紀なんかの芝居はたくさん書いたらあかんのです。
日比野 要するにアドリブで延ばす分もあらかじめ計算して。
檀上 計算しておかなあかん。この辺に来たら、こういう遊びをやりよるなとかいうことを裏返して、これを書いておいたらやりよらへん。そこへ持っていかんと。彼らが遊ぶ場所をわざと書かないで違うことを書いておいて呼び寄せる。そうじゃなかったら、落とし穴の回りをすーっとこう回って行きよる。だけど、うまくおびき寄せておいたら、ここへずぼっとはまって、ばーんばーんと爆笑。
前田 今、花紀さんのことをおっしゃいましたけど、花紀さんと原哲さんのコンビのときと、花紀、岡八[郎]のときというのはやっぱり花紀さんの生かし方とか、今の「回り道」のところも全部違って。
檀上 原哲男の方は、京ちゃんが受けるように、受けるように持っていくというね。それから八ちゃんの場合は「負けてたまるか」でいくからね。八と僕は同じ年やから、八ちゃんが俺によくぼやくのは、何でこの芝居で受けているところは京ちゃんばっかりやんかと言う。こっちは、お前がかかっていけるように俺はそう書いてある、だから短いやろう。相手にかかっていかんかいと。ちょっと役が崩れるけどいいのか。構わへんがな、ずっと崩れているやないか、お前はと言ってね。京ちゃんとは一緒にゴルフをしたりしていて、京ちゃんは京ちゃんで八ちゃんはやり過ぎやと僕に言ってくる。京ちゃんは年上だから、言っておきますわと。八ちゃんは八ちゃんで京ちゃんのことをぼやく。それで一緒になったら仲がいいという、不思議な関係。
 ゴルフも一緒によく行ったんだけど、待ち合わせのゴルフ場のレストランで、先にロッカーで着替えて、ちょっと早いかなと思うぐらいの時間で、まだ来てへんやろうな、もう来ているかなと思って上がっていくと、二人でテーブルにサントリーのだるまが二~三個転がっていて、べろんべろんになって、こんなのでゴルフができるのかいなと言ったら、やるわ、ゴルフをしに来たんや、行こうかと言って、歩かれへん。面白かったわ、あいつらは本当に。何でこう仲よく飲めるのかなと思った。一人ずつは俺を間にはさんで言って喧嘩しているわけや。うそやで、二人寄ったら、ものすごく仲良しや。汚いで、お前らと言おうと思ったけど、一回も言ってへんけどね。

女優とコメディ


和田 女優さんに役を納める[配役や座組を伝え納得してもらう]のは先生がされるんですか。
檀上 そうですよ。
和田 それはご苦労がとてもあるんじゃないんですか。
檀上 山田スミ子というのがおりました。彼女は一生懸命の子で、頑張って、フリーみたいな形で東京に出ていって、うまくいっているのかどうか、その後、頼りもないから分からんけど、あんまり出てこないしね。何せ女優でも最初僕が入ってすぐぐらいのころは、女に笑いを取らせたらあかんという方針があった。会社から、笑いをとらせると汚くなると言って、女の子はきれいに見せなあかんねんという、そういう約束事だったけれども、やっぱりぶさいくな子が出てきて活躍するとお客さんが喜ぶというのは分かってくる。だから美人よりもブスの方が吉本は得やというね。
前田 ヒロイン役はさっき言われた山田スミ子さんと中山美保さんと片岡あや子さん。
檀上 片岡あや子は死んでしまったな。
前田 そこに絡んできたのが楠本さんとか。
檀上 藤里美。
前田 藤里美さんとか、ブス役ですよね。それが絡んできはったわけですよね。
前田 その前までは本当に女性は、三角八重さんがおったころとか、全然笑わせる役ではなかったですね。
檀上 なかったです。スミ子なんかはやっぱり相方の京ちゃんであるとか、岡八であるとか、そういう連中が笑えるようにしっかりと芝居をした。関係ないけど、スミ子はちょっと悲しくて泣くところがあるんですけど、この泣きの芝居で本当に泣いてしまいよる。手を取る[拍手を貰う]んです。本当に泣いたらあかんでと言うんです。本当に泣いているように見せ掛ける演技をするんやと。そんなことない、本当に泣いたからあれだけお客さんは喜んでくれはった、手をくれてはるんやと。ところが、東京に行くようになって謝ってきたんです。いろいろな女優さんに聞いて回ったけど、やっぱり本当に泣いているように見せかけるのが役者の仕事、女優の仕事だということが分かりましたと。
前田 女優さんの中に河村節子さんとか南喜代子さんとか、漫才上がりの方から来はったという人もいてはりましたよね。
檀上 河村節子さん。
前田 高勢ぎん子さんもそうでしたっけ。それから南喜代子。
檀上 高勢ぎん子さんは漫才をしてはったんですか。
前田 高勢さんはしてなかったかな。南喜代子さんは漫才でしたね。
檀上 高勢さんはアーノネのおっさんの高勢実乗の娘で、劇団にいてはった。
前田 そういう漫才から来はる人というのは、ちょっとまた別な感じのものなんですか。
檀上 あれ(河村節子)は片割れ、相方が仕事ができないようになった。吉本でずっと一郎・ワカナで活躍していたんやから、だから吉本も面倒を見ないかんと。する仕事といってもピンで落語をするわけにもいかん。だから芝居の中にということで。僕はそう聞いていますけどね。

漫才師出身のコメディアンたち


和田 吉本新喜劇というのは、例えば松竹とか歌舞伎の方というのはずっと役者で来ている人が芝居をされているわけですよね。吉本の場合は漫才をやっていました、落語をやっていましたという、そういう人たちがコメディをやる。
檀上 コメディになってしまう。今で言ったら桑原和男は漫才、吉本に来る前はあち郎・こち郎という漫才だったらしいです。
前田 サンデー・マンデーのやなぎ浩二さんとかも皆、漫才ですよね。
檀上 そうそう。
和田 岡八さんだって。
檀上 マンチャン(柳マンデー。後のやなぎ浩二)と言ってね。岡八郎は京ちゃんと一遍漫才をしようかと言って、ちょっとだけ寄り道して。その前に四郎さんと、浅草四郎・岡八郎とコンビを組んだ。そのときに岡八郎と名乗った。それまでは市岡輝夫という本名で、市ちゃん(一ちゃん)が八ちゃんと、いっぺんに七ちゃんも上がってしもって。
和田 役者でずっと育った人と、寄席芸人でコメディもやるようになった人というのは、演出をされていて違うと思いますか、それとも一緒ですか。
檀上 漫才でやっていたときの本人、その持ち味を生かしてやった方が面白いときと、そうじゃなくてそれを避けて、今まで漫才のときにお客さんが見たことのないようなことをやってみせたり。
和田 意外な役とか。
檀上 えーっ、この人がそんなことをというのが。だからオクレなんかでも、Mr.オクレ、あれもボーイズの名前は忘れたけど、ギターを弾いていた。三人やったかな。何かいうときにちょびっとずつ、ちゃんとした名前が付いていたけど間合いが遅れるから、僕があだ名でオクレ、オクレと付けていたんです。
和田 そうなんですか。じゃあ、名付け親みたいなことですか。
檀上 そうですね。この間、前田五郎がいやらしい事件を起こして、誰かと悶着があって、嫌がらせの手紙を出した。
和田 ありましたね。
檀上 あれの「コメディNo.1」というのは僕が付けたんです。言ってみたら、ああいう名前は大阪の芸人では初めてです。東京でコント五五号というのがある。それのパクリですけどね。僕は『シャボン玉寄席』という朝日放送の一週間帯の番組で、それでコント五五号が、まだずっと出てきだしのころに出演した。わーっ、面白いなと思ったんや。コント五五号、えーっ、こんな芸があるのかと思った。そう言っていたら前田五郎と坂田と一緒になって、あれも前田五郎は八ちゃんと一時期コンビだった浅草四郎さんの弟子で、それで五郎になった。もともと漫才志望やってんけれども、相方がおらへんしということで、それで吉本新喜劇の座員になって、そこで研究生を募集していたとき、坂田が研究生募集で入ってきた。そこで一緒になって一緒に吉本新喜劇をやっていたけど、突然漫才に変わりたいと言って漫才に行って、会社から電話がかかってきて。何か名前を考えてやってくださいと言う。コント五五号は片仮名、向こうはコント、こっちはコメディで、それで「コメディNo.1」でどうやと、もういいかげんですわ。考える気なんか何もあらへん。それはいいわと本人たち二人はものすごく喜んでいますと。
和田 西川きよしさんも研究生からですよね。
檀上 研究生からです。あいつは会社をクビになりよってね。研究生の採り過ぎで。会社もいいかげんやな。できそうなやつと、できへんのようなやつと見分けられへんわけや。いいかげん、あいつを辞めさせようと、クビにしようと言って、それで西川きよしが泣いた。よく泣くねん、あれは。クビになりましたと。
 だけど、この子は役者として演技力が出るかなと、そんな不安な気持ちもあったけれども、僕のことをよくしてくれたんですよ、身の回りの世話からしてくれていて、何で気に入られたんか知らんけど。助けてくださいと言うから、助けてあげると。まだ僕も二十代だったと思うけど。生意気やからね。会社には一言も言いません。クビを取り消してやってくれとも一言も頼まない。でも勝手に僕の書いた芝居には必ず出てくるようにした。自分たちもクビにしたのを忘れているのと違うかというぐらい、いい役をやるんです。しっかりとしごくんです。そうしたら、笑いを取りよる、人にきっちり振っていける。だからクビにする理由がなくなってしまうんです。
和田 そこで結果を出しているということですもんね。
檀上 『あっちこっち丁稚』という、これはコメディNo.1、それから木村進が出た、寛平とね。あいつもクビになりよった、寛平も一遍。そのときは契約の一カ月なんぼという基本給もない時代で、だから仕事をやるなと。仕事をやらへんかったら食われへんのやから寄りつかないようになるやろうと、そういう方法で辞めさせた。だけど、僕はこいつは面白いなと思っていた。それを西川きよしが実はこうこうで「寛平が危ない。だから僕のときみたいに助けてやってください」と言ってきた。いいよ、俺だってあの子が欲しいもんと言って。たいそうなことも何も考えない。僕の書く芝居に全部出しました。
 その代わり、よく言いますよ。寛平は吉本で僕が先生に一番たくさん叩かれていると、どつかれているでしょうと。そうかな、そんなにどいつたかな。一回のけいこの間に十一発殴られたことがある。十二発目は靴でやられたことがありますと。それはお前がクビになりかかっているやつを再生せないかんねんから、どつき回すわと言った。

「恋愛禁止」を破る


和田 吉本新喜劇の中は男の方も女優さんもいますでしょう。そうすると一座の中って恋愛禁止なんですか、会社としては。
檀上 あれはあかんかってん、禁止。ところが、俺がやってしまった。要は巡業先で仕事が終わって宿に帰って、一杯飲んで、これこれと言っているときに、内場勝則と未知やすえが僕の部屋にちょっとお邪魔していいですかと言って、何やと言ったら、吉本新喜劇の座員として結婚はだめですよね。あかん、あかん、昔からこれはご法度や。もし二人が結婚したら、どっちか一人は辞めないといけない。それはそうなるわ。一緒に続けたいと思ったら結婚できませんねと。結婚したいん?はい。しい、もう。俺が何とかすると。
 見ていたら二人とも涙ですよ。俺はお笑い作家だけど、涙にもろいんです。人間、好きな者同士、愛し合う者同士、結婚したいけど、それがあかんねんと言って、どっちか一人辞めないかん、一緒に仕事を続けへんかったら、二人でやっていけへんかったら、結婚して相方はどうするの。内場は漫才なんかできへん。やすえは誰か漫才相手を探してやるの。稼ぎに行くんかみたいなことをふっと考えてしまった。飲んだ勢いで、任せておけと言ってしまったんや。どうしようかなと悩んで悩んで、悩み続けて。
 それで、吉本を辞めていった木村政雄、あれがトップだった時代があるんですよ。ちょっと相談があるねんけど、吉本新喜劇の座員同士が結婚したらどうなる。えーっ、そんなことがありますの。木村は新しい子やから、そういうご法度を知らへんかった。だからラッキーやったんや。僕は知りもせんでしたと。やすえと内場が結婚したいと言っているねんけど、してもいいの。それは当然でしょう。好きな者同士は一緒になったらよろしい。君に任すから、あと俺はこういう話は苦手やねん。だから、何とか二人こっそりじゃなく、結婚したという、そういうしっかりしたもので結婚させてやってほしいと言ったら、何と何とNGKで結婚式を挙げてくれて。
日比野 そのとき木村政雄さんはどういう立場。
檀上 いわゆる制作部のトップでした。制作部長。
日比野 きよし、ヘレンのずっとあとのケースですね。
檀上 ずっとあと。
日比野 あれは辞めたんでしたっけ。
前田 ヘレンさんが。
和田 ですよね。あれはやっぱり問題になって。
檀上 きよし、ヘレンが結婚したのは漫才に転向してからですよ。
前田 付き合っていたのはあったけど、座員同士で付き合っていたけど隠していたわけでしょう。
日比野 それはつまり新喜劇の中ではだめだけど、吉本全体ではよかったのかな。
檀上 座員同士ではだめだった。
和田 あれは問題になったんですよ。
檀上 吉本新喜劇の座員としてヘレンときよしが出たことはないと思います。
和田 そうなんですか。
檀上 僕は書いた覚えないもん。僕が書いた覚えがないということは誰も書いていませんわ。
前田 西川きよしがまだ本名の西川潔という時代で、杉本ヘレンと何か一座で……。
檀上 ヘレンは大阪の小さいプロダクションから、ポケットミュージカルスの歌手として時々出ていたんです。それを歌、コント、歌、コントと、コントをやらせても面白いねん。一遍、芝居の方に出してみようかみたいなことで出ました。
前田 当時まだ吉本の実演が弱くて、人がいなかったからいろいろなところから引っ張ってきたということがあった。そのうちの一人ですね。
檀上 英語の歌じゃなしに、日本語の演歌ばっかりやっていた。

台本は残さない


和田 とにかく先生は吉本新喜劇だけで一三〇〇本以上書かれたというのを新聞記事で見ました。
檀上 一二〇〇~一三〇〇本。きっちり数えたことがないですけど。
和田 その記事によると過去の台本を取って置いてないと。
檀上 ほとんど捨てましたよ。何本かは残っているけど。僕の性根というか、信念というのか、「忘れることが生むことなり」だと思っている。だから、前やったこととそっくりなものを書いたって新作です。
和田 何本かは別にして千本以上は捨てられた。
檀上 捨てました。
和田 台本は会社も保存してないんですか、過去の台本は。
檀上 残していませんよ。
和田 吉本新喜劇は再演しないんですか。
檀上 昔のテープは残っているでしょう。あれを見て若い子が台本に。
和田 ああ、書き起こして。
檀上 この間もやりましたけど、DVDで一本が『泥棒と鈴』という岡八と花紀のコンビの。こんなのはもういわゆる昔の浅草のパクリですわ。

台本を書く作法


和田 大ざっぱな質問なんですが、新喜劇一本を書かれるのにどのぐらいの時間がかかりますか。それは場合によると思うんですけど。
檀上 若いころはだいたい一時間で七~八枚。だから吉本新喜劇を一本書くのに長くて五~六時間で一本書きましたね。
和田 早いですね。さっきおっしゃった二景物というのは決まったフォーマットなのですか。
檀上 CMがはまるから。
和田 その都合で。
檀上 今、三景物になっているのはCMの加減です。
和田 そうか、そこが区切りになるのですね。
檀上 いまは安いスポンサーをたくさん持ってこないとあかんようになって。
和田 一社提供じゃないから。
檀上 そうそう。サモンのとき、七ふくのときは一社提供やからね。
和田 でも逆に言うと、お芝居を一場、一景だけでやる方法もあるのでは?
檀上 面白くないですよね。
和田 そうですか。
檀上 やっぱり変化がない。四十五分の間に何の事件が起こって、どう解決するんですか。そうでしょう。だから暗転があったら[それによって二景になれば]昨日はこうだったけど、今日はこうだという。ただ花月の舞台のシステムで、大道具、セット、これをぽんと変えてしまうことは、継ぎ物を変えても、どうしても廻り舞台もないし、中座みたいな、南座みたいなのはあらへんから、だからそれは無理で、要は一景で暗転になってCM明けが二景、だけど、それから二十年後とか三十年後というのはできへん。みんなおじいさんにならないかん、おばあさんにならないかん、化粧を変えたり何かせないかんから。だから、その間はじっくりじっくりとほかの者で芝居をしていてみたいなことはできへんからね。事件経過が大きい場合、うどん屋さんでも汚れていかないかんでしょうね。
和田 そうですね、二十年たっていたら。そうか、じゃあ、道具は完全な一杯[上演中同じセットで通すこと]で、昨日と今日みたいな、一夜明けてみたいな感じにするということですね。
檀上 そうそう、三日後か四日後ぐらいならね。だから制限はやっぱり多いです、いろいろと。だけど、それを無視するから面白いんです。

劇場と装置


日比野 ポケットミュージカルスの写真を今日、吉本資料室の方でちょっと見させていただいていたんですが、カーテンを下ろしてその前でやっているのがいくつかあったんです。
檀上 そうです。あの後ろに組んだセットを袖へ片付けられへんのです。袖が狭い、ないから。だから、後ろにたたみ込んでしまって、うめだ花月の場合は飛ばし[セットを引き上げること]もできへんわけや、地下やから。それでカーテンを閉めた。そのカーテンの前で漫才、落語を。
日比野 そういうことなんですね。
檀上 それから落語なんかやったら金屏風。
前田 元映画館だった小屋ですからね。
檀上 ポケットミュージカルスだったら、[照明で]カーテンを染めて、ちょっと色を染めて。
神山 実演というのはだいたいそうですね。映画館の実演はいつもおっしゃったようにカーテンの前でね。今でも「実演」的なコント風のものは、次の場へ移る道具転換の時間稼ぎの「ツナギ」としてやりますね。道具転換の間のツナギに、カーテン前でやってる。
前田 初期の資料に全部書き割りというか、後ろの背景を細かく絵で描いている資料が残っているんですけど、最初のころはそこまで細かくやっぱり打ち合わせをして絵を描いてはったんですか、美術さんみたいなスタッフが。
檀上 そうですよ。
前田 その後、ある程度していくとパターンになってくるわけですか。うどん屋やったら、定型の形で、と。
檀上 またこれかいと。それでちょっと今ごろ気になることがあって、ぐちぐち言うんやけど、セットが派手すぎて役者が目立たないことがある。やっぱり役者を目立たせようと思ったら、後ろのセットのこと、特に背景なんかをあんまり派手にすると、お客さんが見ていても目がちょっとおかしくなる。

松竹の仕事をやめた理由は


和田 とくに吉本新喜劇のように、出演者の持ち味を見せるものの場合、装置は簡素なほうが効果的かもしれません。
日比野 松竹のお話をもうちょっと聞かせていただきたいんですけど、さっき花月だと廻り舞台も何もないというふうにおっしゃっていましたが、では松竹に行かれたときには廻り舞台を使ったようなお芝居というのは。
檀上 あります。全部使いました。あるものは全部使いました、ぜいたくに。
日比野 戯曲の書き方に関しては、檀上流を通して吉本でも松竹でも変わらなかったというお話があったんですけど、実際に付き合う人たちの種類、つまり制作であるとか、上の人たち、吉本と松竹の違いというのは。
檀上 松竹と吉本は、言ってみれば、生まれ、育った環境、全部違います。まったく違います。だから彼らがやっぱり吉本新喜劇で頑張っている檀上茂がここへ来てやってくれた。松竹の若い子が、名前は忘れてしまったけど、しょっちゅう、ちょっと行きますかと言って、僕の話をものすごく聞きたがる。逆に僕の方はそっちの話を聞きたい。そういう連中と付き合って仲良くして、何か全然世界が違う、国が違うみたいな、吉本の楽屋と松竹の楽屋は。これは役者の話ね。
和田 そうでしょうね。
日比野 文化が違う。上の人は、いわゆる制作に当たる人たちはどうだったでしょう。
檀上 松竹新喜劇という会社の人というのは一人だけしか知りません。
日比野 そうなんですか。それはどなた。
檀上 名前は忘れましたけどね。
日比野 そもそも松竹新喜劇に声を掛けられたのはどなたの引きだったんですか。
檀上 読売と朝日の放送局で、向こうのプロデューサーから、こういう話があると聞かされた。
日比野 そうすると、松竹新喜劇の人と直接やりとりをしたというよりも、テレビ局経由で。
檀上 そうそう。それと吉本と、仲人は放送局です。
和田 現場では寛美さんが檀上さんの言う通りやれと、つまり仕切ってくださったというわけですね、松竹の社員よりは。
檀上 はい。
日比野 何本ぐらいお書きになったんでしたか。
和田 過去の記事では六本となっていました。
檀上 五本から六本、もう忘れてしまいました。
日比野 五本か六本書いて、その後、書かれなくなった理由というのはありますか。
檀上 小島慶四郎とけんかしたんです。簡単でしょう(笑)。
日比野 どんな話でしょう。
檀上 この芝居は一本目ですやん。藤山寛美さんは普段出てへん。中継のときだけ寛美さんが出てきて、どういう訳か、そのときに中継のある日に休まないかんのが小島慶四郎ばっかりやったんや。そこに不満があって、あるとき酔っ払って、血みどろの喧嘩になって。俺が血みどろになったのと違う。放送局のプロデューサーが血みどろになった。飲んでくだを巻き始めて外へ出て、電柱に立て掛けてある看板があるでしょう。慶四郎がそれを持って俺を殴りに来たのを止めに入った放送局の人が。俺は結構運動神経が発達しているもので、すっと逃げた。がーっとその人に、ずばっと、頭は切れるとたくさん血が出るんです。それで終わりです。もう寛美さんに言いました。こういう事情で飲んで暴れるような[人とは出来ない]。それよりも前に東京赤坂に松竹新喜劇の公演する小屋……。
前田 新橋演舞場です。
檀上 新橋や。そこへ行ったんです、次の打ち合わせのために。僕は吉本を辞めると言って、それまで二万円だったんです、吉本新喜劇の作、演出料が。それを「三倍やる」となったけど、結局五万円だったんです。
和田 三倍と言いつつ。
日比野 三倍にはならなかったですね。
檀上 ちょっと値切られたというか。それでさっき言った唯一知っている松竹側の制作担当者が、ギャラはいくら払いましょうと言うから、僕は[吉本の]十日間で五万円もらっています。これは三十日、一カ月だから三倍くださいと言ったら、そんなのでいいのと。しまった、もうちょっと言ったらよかったと。
和田 そうだと思いますよ。それは吉本が安いんですよ、たぶん。
檀上 それでも、どうなるのか分からへん。うまくいくかも分からへんし、下手うつかも分からへん。それで吹っ掛けられへんのです、これだけくださいということは。だから、十日間でこれだから、一カ月で。
和田 三倍でということで。
檀上 そんなのでよろしいのと。一瞬しまったと思ったけど、僕自身もそれでいいと思っていた。
和田 先生はさっきのお話でも、あんまり駆け引きしないでお金を決められて、もう半世紀以上作者をされて、お金は儲かりました?
檀上 どこへ行ったか分かりません。
和田 そうですか。
檀上 どこへ消えたか。

河内育ち


和田 河内弁でお育ちになったという話をもう少し伺えますか。
檀上 大阪は浪花は摂津、河内、泉と、三つの国があった。摂津といったら今の千里ニュータウン、いま僕が住んでいるところあたり、箕面とか。
和田 北の方ということですかね。
檀上 池田とか豊中とか、あの辺の北の方が摂津。真ん中辺が河内です。浪花がもちろんあって、それで河内は町の名前で言ったら富田林、八尾、僕が出た八尾高校とかが河内。岸和田とか。
和田 南の方ですね。
檀上 堺から南が泉州です。
神山 昔、昭和三十年代に、今東光がよく河内物を書いていましたね。あれをどうご覧になりますか。
檀上 今先生は俺は何回か、かわいがってもらいました。八尾に住んでいた。同じ学校の先輩なんです。五味康祐さんと。僕が高校、あの人らは中学やけど。
神山 旧制だからね。八尾中学ですね。今東光は坊さんになる前はいわゆる豪放磊落な感じで、もっと言えばエロ坊主で売っていたんですけど、実際にもそういう感じですか。
檀上 あんまり物は言わん。
神山 言わん人。
檀上 それでもお茶を出してくれたり何かはしましたね。
神山 商業演劇ではよくあるけど、菊田一夫にしても渋谷天外にしても、実際にはほかの人が書いて、渋谷天外の名前、館直志の名前とか菊田一夫の名前で発表するというケースがありますよね。先生はどなたかの代作というのはしたことはないですか。先生が実際に書いたんだけれども、ほかの人の名前で発表するというのは。
檀上 ありません。
神山 それはないですか。
檀上 はい。一回もありません。
和田 話が違いますけど、先生は香川登志緒さんとお付き合いってございましたか。
檀上 かわいがってもらいましたよ。
和田 香川先生は作者としてはやっぱり尊敬に値する人ですか。
檀上 人間としては。
和田 人間としては。なるほど。

吉本新喜劇 東京へ


前田 吉本で本を書かれ始めたころに、浅草花月(公園花月)はもうなかったんですか。
檀上 浅草花月はもうなかったと思います。
前田 昭和三十年ぐらいまでですかね。
檀上 どれぐらいまであったんやろう。あったということは聞いていますけどね。
前田 でもまったくそこのやっていることはかかわらず。
檀上 大阪の芸人がそっちへ行って、みたいなことは一回も聞いたことがないです。向こうの東京の芸人さんが出ていたのかな。

和田 東京で声が掛かりませんでしたか、何か芝居を書きませんかと。
檀上 なかったですね。
和田 そうですか。
檀上 あっても無理だと思います。[一九九〇年代初頭に]吉本の芝居を東京に持っていったことはありますよ。最初どこかの、今、昼でタモリがやっているような番組で、小さい小屋で百人やっとか、コメディシアターか何か。
和田 たぶんシアターアプルですね。
檀上 ちょっと名前は忘れた。そこへ初めて持っていった、吉本新喜劇を。東京で吉本のものが受けるのかどうか。
和田 テストでやった。
檀上 テストです。東京でどう受けるやろうという、それの探りみたいなものです。ところが、これは一週間やったんです。やってみたら、向こうのお客さん、通路側の人は通路に落ちるくらい大爆笑でした。寛平と博多淡海、まだあのころは木村進と言っていたかな。連れていったんですけどね。よく受けた。永六輔さんが見に来てはるでと言って、ほんまかいなと言って、客席の一番後ろに回って、大きな耳をしてはるでしょう。この首筋から全体が真っ赤になるようにして笑ってくれてはりましたわ。
和田 今は新宿の「ルミネtheよしもと」でも常打ちでやっていますからね[名称は「SPコメディ」]。吉本新喜劇が半世紀以上、寄席という空間の中に定着している。これは演劇史の中で見落とされがちだけれども、重要なことだと私は思います。