菊池明聞き書き


取材日時:二〇一四年七月二十八日
取材場所:早稲田大学
取材者:神山彰・日比野啓・袴田京二・中野正昭
編集・構成:袴田京二・日比野啓
監修:菊池明

イントロダクション


 今回のインタヴューを引きうけてくださった菊池明氏は、早稲田大学演劇博物館で長らく研究の成果を積まれ、また、逍遙協会の理事長も歴任された、日本演劇を研究する者にとっては、知らない人もいない方であり、我々も、その恩恵を多く蒙っている。研究者としてのキャリアの貴重さは、その編著である『三田村鳶魚遺稿 明治大正人物月旦』(逍遙協会・二〇〇九年)の解題でも伺うことができる。菊池氏は、何気なく、当然のことのように、「昭和二五年ごろであったと思う。その頃、筆者は三田村鳶魚翁のお仕事の手伝いで、しばしば世田谷太子堂のお宅を訪れていた」と書き出されている。私は、それ以前から、終戦の年、十五代目市村羽左衛門の弔いに行った話をはじめ、戦前の歌舞伎、新派の話などは何度か伺っていたのだが、まさか、鳶魚のような、私の世代からは「歴史上の人物」と思える先学の謦咳に接した方が、目の前にいるとは思っていなかったのである。その後、菊池氏から、最晩年の鳶魚のエピソードなど伺ったが、氏にとっては、それは別に珍しくも貴重でもない話題のように語られるので、それも驚きだった。
 そのほかにも、かつて日本演劇や近代日本文学の研究では、著名だった先学の思い出も興味深いものだった。
 また、論文はもとより、その成果は十六巻に及ぶ『坪内逍遙研究資料』(逍遙協会編・新樹社刊)、『坪内逍遙事典』(平凡社刊)などの編集・著述にも明らかにされている。長年にわたる、坪内逍遙研究の蓄積から受けている学恩については、ここで改めて記すまでもないだろう。とくに、逍遙の肉筆資料や書簡類などの、読みにくく、癖のある筆跡を、当時の演劇状況や、多面的な人脈の連なりや繋がり、大学内、劇壇内での人物関係などを、判断、理解したうえで、判読していく作業は、菊池氏の後の世代では、極めて難しくなってしまうだろう。
 今回は、そうした菊池氏の業績を十分承知のうえで、そういう、研究者としての役割とは違う、失われた多くの演劇や劇場やその周辺の演劇にまつわる、戦前からの記憶を保持なさっている、時代の証言者として、あるいは、一人の芝居好き、シアター・ゴアとして、貴重なお話を伺いたく思った次第である。
 インタヴューでも触れられているが、菊池氏は、大正十二年(一九二三)に東京・青山で生まれ、麻布中学(旧制)から、早稲田大学文学部に進んでいる。少年期から家族に連れられて、芝居に親しみ、様々なジャンルの演劇・劇場に接してこられた。卒業後、早稲田大学演劇博物館で、研究を継続されてきた。
 このインタヴューでは、昭和初期から、戦中・戦後、昭和二十年代くらいまでの範囲で、演劇・劇場とその周辺に関する回想を伺うのが主眼であった。しかし、話題は、当然ながら、その時代の様相に及び、東京の町の地理的状況から街並み、人々の生活感にまで及んでいった。昭和十一年(一九三六)の二・二六事件当日の菊池少年の足取りなどは、私的なことではあるが、菊池氏の生地の青山二丁目と隣接する一丁目に、戦後に生れ育った私にとっては、目に浮かぶように思えた。
 麻布中時代の同級生の雰囲気、気分なども、戦前の旧制教育の青春の一場面を実感させて興味深い。そして、それらの思い出は独立してあるのでなく、演劇への回想に導かれていく。菊池氏の何気ない回想や思い出から感じられるのは、演劇がいかに自立したものでなく、ある時代の枠組みや生活感や周辺文化との関係で成り立っているのかという、当然といえば当然すぎる感慨だった。
 ある時代までは、演劇愛好家によく読まれていた「芸談」と同じ性質を持っている。演劇の思い出を語ることが、ある時代を語ることであり、その劇場のあった町を語ることであり、それは、その時代の背景にあった生活感情と結びついている。そういう豊かな奥行きを、演劇を語る回想から、我々は失って久しい。
 関東大震災の年に東京の山の手に生まれた少年が、家族や、旧制中高の制度の独特の気分を持った友人のなかで成長していく「教養小説」風の一面も、私には感じられた。
 菊池氏の肉声を通して、ある時代までの演劇が持っていた振幅と奥行きとを、その周辺文化や生活感を含めて、少しでも感じ取っていただきたいと思う。 
(神山彰)

芝居への興味の始まり


神山 それでは、よろしくお願いします。御年を言ったら失礼かもしれませんけれど、大正十二年(一九二三)のお生まれですから菊池先生は現在九十一歳ぐらい。演劇博物館や逍遥協会で要職につかれ、戦前・戦中の舞台をご記憶なさっている貴重な方です。先生から、最初に何か。
菊池 菊池でございます。今、神山先生からご紹介があったように大正十二年、関東大震災の年に生まれまして。それから私は青山に住んでいたものですからね、[昭和十一年〈一九三六〉の]二・二六事件というものに、実際に遭ったんです。あの時は小学生で、学校が急に休みになりました。青山小学校なんです。
神山 私と同窓生なんです(笑)。
菊池 学校へ行きましたらね。門が閉まっていて休校なんです。で友だちと、何か世の中騒がしいからちょっと行ってみようと。青山二丁目に住んでいたものですからね、それじゃあ赤坂へというので、あそこの近所まで行ったんです。その時はまだ、戒厳令が敷かれていてね。佐倉の戦車隊が青山の通りをダーッと走っているんですよ。タンク、戦車というのを初めて見てね。そういうのを未だに覚えているんですけれど、ことほど左様に古い人間でございます(笑)。それから七十八年、うかうかと。その頃から芝居は見ていたんですけれど、私は父親が早く亡くなったものですから、要するに母子家庭でした。母親も連れあいが早く死んでしまったものだから、ある意味では気楽であちらこちらに連れていってもらったりしましたけどね。
 こんな話から始めましたが、昭和十五年(一九四〇)に小児麻痺という病気になりましてね。私は麻布中学の五年生でした。これから大いに勉強して、大学へ行かなければいけないと。同窓の人は皆、一高がいいぞ、陸士、海兵がいいぞといっている。病気して、寝ていたので当然なんですけれど、それがそのまま続いちゃったものですから、お定まりの浪人生活です。それからもう、太平洋戦争開戦をはさんで、昭和十五年から十七年まで三年間ぐらいは家にいました。
 まあ、体はだんだん良くなってくるんですが、反面少しやけっぱちにもなりますよ。何しろ同窓生が皆上の学校へ入り、こちらは半分寝ているんですから。ただ、頭だけは働くからどこかへ遊びに行きたくてしょうがなくて、でまあ、お芝居とこういうことに。
 だから戦時中の芝居・映画を割合よく見ているのはね、療養、半分はやけっぱち。その結果、ここで話ができるのが夢のようだと思います。こんな調子で、よろしいですか。
日比野 どうぞ、お願いします。

祖母と出かけた本所寿座と小芝居の世界


菊池 最初に見た芝居というのは、男の子だから新国劇だったのかもしれませんが、よく覚えていません。いろいろ見ましたけれど、その中でおばあちゃんが連れていってくれたのが歌舞伎の芝居なんですよね。うちのおばあちゃんですから、もういい年なんです。その頃、寿座というのがありましてね。孫の僕を連れてそこへ行くんです。あの、その劇場の話をしても?
神山 はい、結構です。寿座があったのは本所の緑町一丁目[関東大震災後の新地名・元は本所相生町五丁目]ですよね。
菊池 本所緑町。私は当時下北沢に住んでいましたから、渋谷から都電が出ましてね。築地・両国行それから須田町行というのが二系統ありました。たしか緑町の方は築地・両国行の線を行くんだと思いましたけれど。その終点に近いところで、緑町二丁目というところがありまして。二丁目で降りてしばらく行って、左へ曲がって、しばらく行くと右側が劇場ですからね。おばあちゃんと二人で芝居に行く。だいたい、よく入って五百ぐらいのキャパシティなんでしょうかねえ。で、真ん中は大衆席だから、まあ平土間ですけれども、私のときはまだ長椅子を並べてある状態だったと思いますが。左右は桟敷になっていてね。東と西。東の方は格がちょっと高くて、西の方はお値段が安いんです。でまあ、うちのおばあちゃんが連れていってくれるところはまず西でした。その頃はだいたい年中無休。それで昼夜二部なんですよ。で、俳優の座頭が市川新之助。
神山 五代目ですね。
菊池 そうです。九代目団十郎の、次女のお婿さん。ご存知のように、団十郎には男の子がいませんでしょう。団十郎としては、家のあととりをつくらなければならない。それで、長女の翠扇(二代目・本名実子)に婿養子をとりましてね。これはのちに役者になって、三升(さんしょう)となる人です。銀行員で、慶応を出てね。しかし団十郎が生きている間、全然芝居をさせてもらえなかった。なぜかというと、団十郎にしてみれば、立派な芸ができなければ市川家の名を汚すばかりだと。むしろ、学校で勉強して、字が書けて、書ができて、俳句をやって、という文化的教養を持っている人間を家に入れておきたいと。そんなわけで、お婿さんには役者をさせないんです。
 しかしのちに、三升はどうしても芝居をやりたくなってしまってね。だけど東京で、団十郎門下の人に教わりたいといっても、畏れ多くて誰も弟子にとらないわけですよ。そこで関西の鴈治郎さんのところへ行って入門する。初代鴈治郎は、九代目団十郎と一緒にやったぐらいですから、恩義を受けたこともあるでしょうし、東の団十郎に対して西の鴈治郎という対抗意識もあるでしょうし。それで三升は鴈治郎に引き受けてもらって役者の修業をして、最後は追贈だけれども十代目団十郎になった人です。
 また、次女の市川旭梅(きょくばい)、本名扶伎子(ふきこ)ですが、五代目の新之助と結婚した。この新之助が寿座の座頭。ほかに実川延松(えんしょう)。それから松本高麗之助という、これは七代目幸四郎の御弟子。そんな人たちが寿座の中心でした。それから面白かったのが、中村歌扇という女役者もおりました。
神山 ああ、歌扇が出ていましたか。そうですか。あと坂東竹若(たけじゃく)は女形も。
菊池 結構良かったのは、新しい、珍しい演出を、ずいぶん見たことです。こちらも小学生ですから、はっきりは覚えていないんですけれども。『新口村』というお芝居がありますね。あれをやった時に、余興みたいなかたちで役者が出て来てね。疫病神とか、疱瘡神とかいうのが出るんです。大道芸人なんでしょうかねえ。赤い着物で、やたらにいろんな滑稽なことをして、場面というかひとくさりやって引っ込むなんて、誰も見たことがないような不思議な入れごとがあったりしてね。
袴田 御札を売るような役どころで?
菊池 そうだと思うんです。そこまでちょっと、わかりませんけどね。そのあと[寿座以外で]『新口村』を見てもそんなもの出てこないし(笑)。
 座頭の新之助はだいたい二枚目でいった人なんだけど、女形もできる。得意なのは[『伽羅先代萩』の後日談として書かれ、小芝居の演目としてよく上演された]『老後の政岡』。見たことありますか。
神山 ええ僕は数年前、澤村鐡之助で見ました。それ一回だけです。
菊池 そうですか。あれが得意なんですよ。若殿様が成人したところで、御殿へ上って二人で千松を偲ぶ。ちょっと泣かせる。
 今でも面白いなと思うのは、政岡がせりふを言うために口を開けると、金歯がぴかっと光るんですよ。女形の、お婆さんの役なのに、ぴかっとさせておいて平気なんです。これが大歌舞伎だったら、金歯を光らせながら芝居はできないけれど、寿座ではそれぐらいは当り前。
 それから延松なんていう役者は、関西の俳優だから、『本蔵下屋敷』というのがありますね。本蔵が主人若狭之助との別れを惜しんでから出立しようとすると、若狭之助が呼び止める。「待て、待て」というんです。そこで、ひと芝居あって別れて少し行くとまた「待て、待て」。このくどいことが関西風なんていっちゃ悪いけれども(笑)。普通だったら二度目はやらずにやめてしまうんでしょうけれど、そういうくどい芝居が何となく心に残っているんです。それから、[寿座の]役者としては新之助、高麗之助、延松、竹若とそれから鶴蔵といましてね。そして空襲で死んだ若い女形がいて……。
神山 福太郎でしょうか。
菊池 そうだと思います。しかしこうした小芝居は割合人気があって、ファンがいました。ずっとあとの話で、私が演劇博物館などに関係するようになった時には、学生たちが集まって寿座研究会ができましてね。研究会に入ると少し寿座の入場料が安くなるというので、案外学生さんも来ていました。あと[の観客]は、お爺さん、お婆さんでしょうねえ。
神山 寿座には、二階があったんですか。
菊池 私そういう記憶がなくて。平土間がこうあってね、左右に一段高くなっている桟敷があって。高土間といっていいと思います。炬燵(こたつ)みたいなのがありましてね。下に火がいかっている。そこへ格子みたいなものが乗っていて、それにあたって芝居を見る。
袴田 手あぶりのようなものでしょうか。
菊池 手あぶりです。まだまだ煙草を咽(の)んでもいいし、自由に食事もできる時分だから。みんなが御飯を食べながら、芝居を見るんですけどね。ああいう、ご飯を食べながら見る芝居が本当になくなってしまってね。今は、金丸座では食べられますか。
神山 金丸座は弁当を食べられますが、茶屋がもうないから持ち込みだけです。
菊池 芝居を見ながら食べてもいいんですか?
神山 見ながら食べている人は金丸座ではまず見ないですね。禁止はしていないでしょうけれど。役者が嫌がるのではないですか、今はね。それに枡が狭いですから。
菊池 その当時は、お酒を飲む人もいましたからね。うちの祖母は肩掛けをこう、炬燵のように火鉢にかけて「こうやって見ると温かいよ」と。そんな、懐かしい風景だったですね。
日比野 昼は、十一時ぐらいから始まったんですか。
菊池 そうでした。そして昼夜で、ちょっと休憩があるのかな。でも、あまり夜遅くまではなかった。
神山 やっぱり大道具とか衣裳はちょっと落ちました?
菊池 そんなことはないと思います。だいたい昔のお年寄り、ことにお婆さんは芝居の何がいいかというと衣裳がきれいかどうかなんですね。
神山 そうですね。
菊池 衣裳がいいというのと、泣かせてくれなくちゃいけないんです。泣かせないとご機嫌が悪い。それから、長くなくちゃいけないんです。早く終わると、これも「あっけない芝居!」(笑)。今は「早く終わって良かったね」なんて言っているでしょ。そんなことは言わないで、長いのが嬉しいんです。そしてうんと泣かせて、衣裳がきれいでなくてはいけない。それが三原則。今とは、ずいぶん違うんですね。
 ところが、おばあちゃんの息子の伯父がいてね。「おかあさん、そんな古臭い芝居ばかり見ていないで少し新しい芝居を見なさい」と、こう言うんですよ。そうしたら、おばあちゃんが少しカチンときたみたいで「じゃあ、行こうよ」と、行ったのが築地小劇場なんです。

築地小劇場で新劇と出会う


神山 築地小劇場には、おばあさんと一緒に行ったんですか。
菊池 そうです。(メモを見て)昭和十四年(一九三九)の五月に新築地劇団が、和田勝一という人が書いた『海援隊』というのをやったんです。新しいものを見なければ駄目だよと言われても、おばあちゃんは何も知りませんからね、小学生の僕を連れていって。そこで丸山定夫、本庄克二、東野英治郎、薄田研二ですか、そんな人たちがいて。
 海援隊内で、町人あがりと、町人を馬鹿にする侍が一緒にいて。馬鹿にされていた町人が海援隊のために大きな船を買って、それを坂本龍馬がよくやったと褒めるけれども、侍の方は町人だからと馬鹿にする、というような芝居なんですよね。最後は、海援隊に力を尽くした人のために、祝砲を撃つという。これは歌舞伎座でもやったし。
神山 国立劇場でもやりましたね。
菊池 ああ、それは見ていないんだ。
神山 そうですか、昭和五十二年(一九七七)かな。
菊池 そういうような芝居でしょう?
神山 おっしゃるとおりです。孝夫[現仁左衛門]と、初代[尾上]辰之助がやりました。
菊池 でも、おばあちゃんは終わって劇場を出るとすぐに吐きすてるように「汚い芝居だね」と言ったきり、二度と行かない(笑)。でも私は子ども心に深く印象づけられましてね。それが新劇と称するものを見た最初なんですよ。それからずいぶん見るようになりました。だから新劇を初めて見たのは築地小劇場です。廊下などは薄暗くてね。本当に皆さんのお目にかけたかったと思うんです。男の人ばっかりで、女性がいない。
神山 御記憶では、客の入りは薄かったですか。
菊池 結構入っていましたけれど、女性が全くいないんです。それにロビー、ロビーっていうよりも廊下みたいなものですけれど、今と違って皆さん煙草を咽むでしょう。だから紫色にけむっているんですよ。
日比野 菊池先生のような、祖父母に連れられて劇場に来ている子供はほかには全然いなかったですか。
菊池 全然、気がつきませんでしたね。おばあちゃんも初めから「汚い芝居、二度と来ない」でおしまいなんですから(笑)。私は子どもながらに、新しいものにちょっとは興味があったのかな。『海援隊』を見てから、だんだん新劇などにも行くようになりましてね。いろいろな劇団を見ました。
神山 岩下俊作の『無法松の一生』[初演時の題名は『富島松五郎伝』]は、築地小劇場でご覧になったんですか。
菊池 あれは[築地小劇場が]国民新劇場になってから。いつだったかな。『海援隊』を見たのが昭和十四年だから、私の年からいうとだいたい十六歳。それで『富島松五郎伝』は、翌年……。
神山 翌年の昭和十五年(一九四〇)。
菊池 いや、昭和十七年(一九四二)です。[注一]
神山 十七年ですか。三年後ですね。
菊池 そう、その時の松五郎の丸山定夫の演技はすばらしかった。吉岡夫人が杉村春子で、吉岡大尉はたしか……。
神山 森雅之です。
菊池 そう、あれは本当に感動しました。やっぱり、昭和十四年から三年ぐらい経っているから多少は芝居を見る感覚っていうか。それがあったらしくて。
日比野 それはもう、お一人で行くようになった?
菊池 だって新劇はもう、おばあちゃんはいっぺんでおしまいですから(笑)。
神山 丸山定夫は悪声だったといいますが、どうでしたか。
菊池 そんな風には思えませんでした。顔は二枚目ではないけれど。
神山 いえ、顔はわかるんですけど(笑)。
菊池 新劇の団十郎といわれた位ですから、迫力、そして不思議な魅力があってね。『無法松』はご覧になったと思いますけども、吉岡夫人が松五郎を「いろいろ、息子が世話になるから」と自宅へ招待して馳走するところがありますね。その時に丸山定夫はもう、小さくなってねえ。こう膝をそろえて固くかしこまっている。お酒を飲むのも、そのいじらしいこと。それでいてちらちら吉岡夫人を見るという細かい、リアルな芝居をして。あんなヤクザでいながら、吉岡夫人に慕情を抱く松五郎の心持ちがよく伝わってね。そのとき初めて「新劇」を見た、という感じでしたね。それから丸山定夫が好きになってしまって。
神山 森雅之の吉岡大尉の息子役をやったのが、中村伸郎なんですよね。子役じゃなくて、中学生になってからの役で。
菊池 でもこう続けていくと、話がだいぶ先の方に行ってしまいますけれど。

苦楽座の沢村貞子、文化座の鈴木光枝


神山 かまいません。そのまま苦楽座のお話を。あとでまた話を元に戻して。
菊池 苦楽座というのは昭和十七(一九四二)年十二月に結成されましてね。丸山定夫、薄田研二……。
神山 薄田はその頃の芸名が高山徳右衛門。
菊池 それから、徳川夢声が入っていてね。[他に藤原鶏太(釜足)、八田尚之らがいた。]
 旗揚げ公演に、『見知らぬ人』というのがありまして。これは戯曲を読んでいなくて、見てそのままだから筋も覚えていないんですけれど。作者は真船豊[演出も同人名義だが、実際には新劇事件の被告人で名前を出せなかった千田是也]。薄暗いところで、何か丸山定夫が気が変になって、……友だちを呼ぶ。ちょっと薄気味悪かった。それはそれで、まあ現代劇をやらなくてはいけないというのがあるんでしょうけれども。
 それから軽い喜劇で『玄関風呂』[尾崎一雄原作、八田尚之脚色、佐々木孝丸演出]というのがあって、安っぽいサラリーマンか作家が、お風呂場がないものだから玄関でお風呂に立てているという。これは一幕物らしいんですけどね[他に森本薫作・下田貞夫演出『生れた土地』]。
神山 その時、園井恵子もいたんですか?
菊池 いたと思います。
神山 丸山定夫、高山徳右衛門、徳川夢声。それで、沢村貞子が初舞台で出て来るんですよね。
菊池 そう。そして劇場は新宿大劇だった。ただこの劇場はどんどん名前が変わったからわからない。その頃は大劇といったと思うんですけれども。場所は新宿御苑がありますでしょ。その大木戸門の近く、今でも新宿区の何か……。
神山 四谷区民ホールがあるところ……。
菊池 当時はたしか[四谷]区役所です。その向い側。
神山 そうか今、四谷支所があって、四谷区民ホールのあたりが大黒座のあったところですか。大黒座が大劇といったんですか? 
菊池 そう。「だいこくざ」はどうやって書きます?
神山 大きい、黒いではないですか。あれは四谷のお寺に大黒様があって、それで大黒座と名づけたと小芝居の本に出ていましたけどね。
菊池 一度しか行っていないから、わからないですけれどね。坪内逍遥先生は小芝居が好きですから、もちろん歌舞伎座とか帝劇なども見るけれども、ご自分一人で熱海から出かけて、その大黒座に行くんですよ。坪内先生も、子どもの時は小芝居なんかで育っていた。
神山 そうです、だって美濃加茂の出身ですから……。
菊池 そういうのを見ているから、懐かしいといえばそうなんでしょうけれど、逍遙の日記では「だいこく」が「大国」となっているんですよ。「大国座を見る」と書いてある。だから「おおくにざ」といったのかなと。だけど「だいこくざ」でしょうね。
神山 確かに資料でも「大国座」という表記が多くあります。それに浅草にも「大国座」と書く劇場があったんです。あれも「だいこくざ」と読むんでしょうね。でも、四谷の方は「大黒座」だと思うんです。
菊池 逍遙先生が大国と書くから。[注二]そこで、沢村貞子が初舞台を踏みました。不入りでしたが、それでも沢村貞子へとした花輪はありました。十二月で寒くて。一人で行って、三階です。お金がないから安い席で。靴を持って三階に上がる。
神山 その頃下足番はいなかったですか。
日比野 ご自分で靴を持って入ったご記憶があるわけですね。
菊池 そうです。昔は三階は靴を持って行くような芝居小屋が多かった。新橋演舞場だって三階は椅子じゃあなく、床に座布団が敷いてありましたから。
 新劇の話ですけれど、昭和十七年に苦楽座を見て、同じ年に劇団文化座というのがありますね、鈴木光枝の[井上演劇道場を脱退した鈴木らが文化座を結成したのは同年二月]。それで三好十郎作の『おりき』というのを見ました[昭和十九年〈一九四四〉七月・国民新劇場]。鈴木光枝はそのとき、実際に畑仕事を習ったらしいけれども、私は席が一番前だったから、一生懸命にやっている姿を目の前で見て、感激しました。
神山 そうでしょうね。その時、文化座の入りはどうでしたか。
菊池 大入りだったかどうかわかりませんけれども。のちにも『おりき』はやっていると思うんですけれど、そんなに面白い芝居ではなくてね。
日比野 文化座ですとか、そういうお芝居の情報はどうしてお知りになったのでしょうか。
菊池 きっかけは、チラシなんてないですからね。またあったとしても中学五年生の時、小児麻痺になって寝たきりだったでしょう。ですから、そんなつてはないんですけどね。
日比野 演劇雑誌をお買いにはならなかった?
菊池 残念ながら、どんな演劇雑誌が出ているかも知らなかった。だって中学を出た浪人生ですから、そんなに知りません。ただ『都新聞』がありましてね、芸能欄で埋まっているわけですよ。どんなものでも載っている。私も、その愛読者になって。映画にまで手を延ばしてフランス映画に凝ってしまって、そしてやたらに芝居を見るという。
日比野 一緒に行くお仲間とか、お友だちがいたわけでもない。
菊池 ありません。同級生はエリートで、どんどん良いところへ行ってしまった(笑)。麻布中学はエリート校でしょう。同級生で早稲田へ入ったというと低い方なんですよ。「早稲田にしたよ」と、下を向いている(笑)。当時最高なのは海軍兵学校で、次が陸士ですからね。そのあとが一高とか。ですからもう早稲田なんか。そんなにひどい学校でもないと思うんですけどね(笑)。芝居も観たし、映画も見たし。ルイ・ジューヴェがよかった。映画は安いからね、映画のはしごをしたのか朝入ってずっと見て、終ると日が暮れていました。
神山 当時はロードショーでは見ないんですか?
菊池 ロードショーは知りません。
神山 そうですか、ロードショーは戦後の習慣ですね。一本だけではお客さんが来ない。
菊池 そうですね。ただ東劇で、ロードショーまがいの興行をやったことがありますよ。たしか四階に特別劇場があって。
神山 ありました、戦後に。傑作座というやつですね。五階かもしれませんが。
菊池 そうです。それで指定席なんですよ、そこでゆうゆうと。存在は知っていたけれども、とても入れるものではなかった。

初の歌舞伎座で見た十五世市村羽左衛門


神山 新劇のお話は聞きましたが、先生は新派や新国劇、曾我廼家五郎を御覧になっているので、そのお話を聞きたいんですけれどね。
菊池 そんなに覚えてないんですよ。でも歌舞伎ならば……。
神山 ではまずそのお話を。
菊池 病気になったあと、生まれて初めて歌舞伎座へ入ったのが昭和十六年(一九四一)十月。ちょうど五代目歌右衛門が亡くなって一周忌の、追悼興行か何かで羽左衛門と幸四郎、菊五郎、吉右衛門が出て。その中で、何といっても感動したのが羽左衛門。どこがいいのかわからないんだけれども、何ともいえない味がある。だから、あとでまたお話ししますけれど、記憶に残る俳優のベストテンを挙げるとすると、羽左衛門がトップなんです。どこがと聞かれるとうまく答えられないんですけれど。上手いなと感じるのは、六代目菊五郎と吉右衛門なんですが。
神山 羽左衛門は見た目が細い人で、華やかだってのは皆さんおっしゃるけれども、やっぱり大きく見えますか。
菊池 もうね、きざなことをいうと、パーッと明るく、電気がついたようになる。だから座って、じっとしていても二枚目でしょう。まあ顔がいいのはわかっているけども。何かこう、パチパチ瞬きするんですよ。あれがなかなか印象的です。ですから、例えば、『十種香』で、武田勝頼になって出て来るでしょう。「われ民間に育ち、人に面を見しられぬを幸に……いぶかしや」とせりふを言うと、ジワというんですか、三階まで何となくザワザワザワッという感じがする。そういう雰囲気の役者というのは、他にいるんですかねえ。
神山 十一代目の団十郎はそういう感じでしたけどね。世代が違うけれど。それ以降は、あまり感じないですね。
菊池 ですからもう、それが出ただけでいいんです。相手役がこの間亡くなった六代目歌右衛門、それから[七代目]梅幸とかになるんですけれど。その頃はね、ずっと相手役だった六代目梅幸が[昭和九年〈一九三四〉に]死んでしまっている。演劇史の年表なんか見ていますと、ある時期ひとりの名優が亡くなると、それを追うように大物俳優が亡くなる、かわって新人、若手役者が一斉に進出する。その繰り返しのように思います。羽左衛門はそうした転換期に登場した俳優のひとりでしょう。明治三十六年(一九〇三)には九代目団十郎と五代目菊五郎が死んで、翌年には初代左團次が亡くなっている。だから、同じ年に襲名する時の口上を、羽左衛門はたった一人で言ったんですよね。本当は団十郎と菊五郎が言ってくれるはずなんだけど、二人とも死んでしまったから。襲名の際の句に「橘や細い幹でも十五代」と、何か涙ぐましいような感じだったと思いますね。
神山 襲名の配り物の扇子にそう書いてあったという。
菊池 正宗白鳥はあの頃、劇評家みたいなことをやっていて、「団十郎が死んだからもう歌舞伎はおしまいだ。それ以降、歌舞伎は見ないことにした。新劇の方へ足を向けたのは、そういうことなんだ」というんですけど。本当かどうかわかりませんけれども。
 私が歌舞伎を見始めた時期も、ちょうど同じような、谷間の時期にあたっていましてね。二代目左團次、五代目歌右衛門も昭和十五年(一九四〇)に死んでいる、偉い人は、皆亡くなっている。だから、人によっては「もう歌舞伎はおしまいだ」と。ですから、私は残念ながら六代目梅幸も、二代目左團次も、五代目歌右衛門も見てない。母親が一、二年早く連れて行ってくれればね、こういう取材のときに「見たよ」といばって言えるんですけれど(笑)。その後昭和二十四年(一九四九)に、今度は六代目と七代目宗十郎と、七代目幸四郎と次々に亡くなる。その時は本当に、歌舞伎はもう駄目だと思いました。ちょうどその頃、新派が全盛期でもありましたから。

せりふで泣かせる井上正夫、喜多村緑郎の新派劇


神山 新派は戦前からご覧になっていたわけですけれど、河合武雄がご記憶がない、というのが残念ですね。
菊池 伊井蓉峰も……。
神山 いや、伊井蓉峰は亡くなるのが昭和七年(一九三二)で早かったから。だけど河合武雄は昭和十七年(一九四二)まで生きていたから、ご覧になれなかったのは残念ですね。
菊池 そうなんですよ。河合武雄は明るい、こうパーッと花が咲いたような、って言いますけどねえ。花柳章太郎がその芸風を受け継いで。だから[地味で写実的な芸風の]喜多村緑郎は河合が死ぬと、今度は自分の弟子の花柳章太郎と比べられて。
神山 先生は喜多村の方が花柳よりいいと。
菊池 もう絶対。やっぱり印象としてはね、花柳は華やかなところに河合の系統があると思うんです。河合の父親は歌舞伎の五代目大谷馬十(ばじゅう)ですね。
神山 そうです。
日比野 いちばんご覧になっていたのは、いつ頃の新派でしょう。
菊池 昭和十五~十六年から戦中にかけてさんざん見ましたけどね。それでこれから話に出るんですけれど、井上正夫が絶対で。
神山 井上正夫はいわゆる新派でなくて、もう井上演劇道場[一九三六年四月、芸術的な大衆演劇の創造を目標にして、村山知義を協力者として井上が創設]として。
菊池 はい。
神山 井上は先生のベストテンの中に入る役者だとこの前お話をうかがったんですが、井上正夫の最初のご記憶は何ですか。
菊池 そうねえ、ずいぶん前だから。
神山 『大尉の娘』[中内蝶二作、大正六年〈一九一七〉一月本郷座初演。井上の元大尉、花柳の露子]とか。
菊池 『大尉の娘』はもう、井上の古典復活みたいな形でやっていたから。
神山 そうですか。
菊池 もともと最初に、映画になっていましたから。
神山 そうですね。水谷八重子と撮った映画は残っていますね。[注三]
菊池 それで映画でも見たことがあるし、舞台では、その頃『大尉の娘』をやったからといって観客が沸く、ということはなかった。
日比野 たとえば昭和十八年(一九四三)六月ですと、東京劇場で井上演劇道場は『炎の人』『米百俵』『今年の歌』をやってます。
神山 『米百俵』はこの前、お話に出ましたね。あと『坂崎出羽守』がね、井上正夫は。
菊池 そうですね。井上正夫の芝居になると、本当に素晴らしいと思いましたよ。『米百俵』は、ご覧になりました?
神山 十年ぐらい前にやりましたよ、歌舞伎座で[平成十三年〈二〇〇一〉九月夜の部]。
日比野 あれは小泉純一郎が演説で「米百俵の精神」と言ったのが有名になりました。
菊池 小泉首相が国会の所信表明演説で『米百表』を引用してね。今、米をもらってもここで使ってはいけないんだ。青少年の教育をするための学校を作って、云々と。その説得をするせりふというのが、井上正夫は最高でした。
神山 熱弁をふるうというやつですよね。
菊池 そして「海の向こうには外国がある」というようなことを言うんですよ。何だかジーンときちゃってね。新派で、せりふで泣かせるのは喜多村と井上だと思いますけどね。
神山 井上は、伊予訛りがすごいでしょう。だけど、それがまたいいんでしょうね。
菊池 うん、そうなんでしょうね。
神山 訛りのある役者というのが、今はいなくなりましたね。
菊池 何ていうんでしょうペラペラっと、滔々(とうとう)としゃべるのではなく、ちょっと吃るというかね。羽左衛門みたいに、華やかにというのではなくて、ぽつぽつと言うタイプだし、これは聞いた話だけれど、あの人はせりふの覚えが悪くて自殺しようかと思ったと。
日比野 自伝の『化け損ねた狸』に書いてありますね。
菊池 書いてありましたか。だからせりふも、言葉で演説するのではなくて何か心持ちがあふれるような、リアルというんですかねえ。それが『太平洋の風』『恋文』とか、ずいぶんいろいろな芝居を見ましたけれど、どれもそういう説得力があって。井上の芝居だけは、見て泣けるということだったかな。
神山 同じように男を泣かせるといっても、新国劇とは違うんですよね、井上正夫は。
菊池 違うんです。新国劇で泣かせるものは、あまりないですもの。痛快さでしょ。
神山 そうですか。
菊池 『宮本武蔵』をやったからといって、泣かせるものじゃない。それで相手役の沢庵というお坊さんがいますね。島田正吾の役。ああいうものの方がジーンとくる。
袴田 白野は泣きましたけれども。
神山 『白野弁十郎』ね。
日比野 戦後の新国劇は、少し泣かせるようになったんでしょう。
神山 戦後の新国劇の『無法松』[昭和二十年〈一九四五〉十一月・有明座]は御覧になっていませんか、辰巳柳太郎の松五郎の。あれも、新国劇では泣かせる。
袴田 笠原章さんが、吉岡大尉の坊(ぼん)をやったそうですね。
神山 そうですね。
菊池 島田正吾が、新国劇を解散してからちょっといろいろな話があって。演博の一人芝居は御覧になりました?
神山 ありましたね。
菊池 話がとんでしまって悪いけれども。辰巳も死んでしまったけれど。あの解散公演も見ましたか、昭和六十二年(一九八七)。侘しいの。
袴田 辰巳さんが、あれだけ演じた国定忠治のせりふが出て来なくて。
菊池 そう。本当に私、泣きたくなった。山形屋の場で煙管をはたくんだけれど、どこをはたいていいかわからなくてね。せりふも、とちるしね。
神山 すみません、話を戻して、井上正夫のところまで行きましたでしょう。喜多村緑郎の話が出て。戌井市郎さんがよく言っていたのは、当時、梅島昇があまり認められなかったけれどいい役者だったと。梅島はいかがですか。
菊池 『婦系図』の湯島の早瀬を一回だけ。
神山 すごい大芝居。昔風の新派なんでしょうね。
菊池 私は新しい新派の方が多いけれどね、古いのは喜多村緑郎ぐらいで……。何しろ、新派的な大芝居というのは梅島でしたねえ。
神山 それが[昭和十三年〈一九三八〉に本流新派と袂を分かった]新生新派の[花柳章太郎ら]若い連中との違いなんですかね。
菊池 その時に、新しいお客さんだったらあまり梅島を認めないんじゃないんですかねえ。
神山 そうでしょうね。だから戌井さんがファンだったけれども、梅島はいい役者だったと盛んにおっしゃっていました。
菊池 役者としては最高という感じのひとです。それから梅島には、自分が中心だ、俺が一人で芝居しているんだっていうところがある。
神山 美形の役者ですからね。
菊池 で、いい気持ちになってしまって(笑)。

新劇っぽい初代水谷八重子


神山 私は花柳章太郎を一回しか見たことがないから、水谷の鏡花ものというのはいい思い出なんですが、年配の方は皆「水谷の鏡花は変だ」とおっしゃる。先生もそう思っていらっしゃるんですね(笑)。やっぱり、喜多村や梅島のを見ていると水谷八重子の鏡花は変なんですかね。
菊池 喜多村が八十何歳のときの、「湯島」のお蔦を私は見てます。[注四]筋はわかりきっているのに、喜多村の芝居は泣けて泣けて。だけど八重子ではあまり泣けないんです。何か新劇っぽくてね。
袴田 水谷の演技は型ではなくてリアルだ、ということですか。
菊池 そうですね。
神山 川口松太郎がそう言っていましたよ。「水谷の鏡花はやっぱり違う。無理もないんだ、戦前の水谷は新派で芸者の役やるとは、自分でも思ってなかったんだから」と。
菊池 もともと八重子は、水谷竹紫[第一次芸術座の出身、昭和三年〈一九二八〉松竹に入社した]の義妹で、文芸協会にいたお義兄さんに連れて行かれて芸術座に入ったんですから。新劇畑の人なんです。しかし、やはり八重子は近代の名女優でしょうね。新派の世界にうまく融けこんで、花柳章太郎、大矢市次郎、柳永二郎、伊志井寛、英太郎、また井上正夫などと戦中戦後、新派の最盛期を作ったのですから。「鶴八鶴次郎」「残菊物語」をはじめ新派の数々の名作を大部分見ることが出来たのは生涯幸せと思っています。
神山 喜多村のせりふは聞こえました?
菊池 たしかに聞こえにくかったです。有名なのは、六代目菊五郎と共演したとき、どちらも声が小さくて何を言っているのかわからない。
神山 「聞こえねえぞ」というヤジが飛んだら、六代目が「きこえざァ、五側目より前で見な」と言ったというね。
菊池 でも喜多村が本当に芝居が上手いというのは、例えば別れ話が出て、障子紙か何か買ってきて何にもならなかったという時に「刷毛までそろえて持ってきたのに、何の役にも立たなくなっちゃった」というところで泣けるんですよ。風呂敷か何かこうした仕草で。それだけでね。
神山 ああ「湯島」のね。
菊池 「めの惣」の時の[小よし役の]喜多村なんか、「[妙子は]私が産んだ子だよ」というだけでポロっと涙が出てきてしまう。ほかの役者では、ちょっとねえ。太田雅光(おおた・がこう)という絵描きさんがいて、喜多村の指導を受けたことがあるらしいんですよ。
神山 太田雅光は、明治座の筋書にもよく描いていましたね。
菊池 で、雅光さんが「湯島」の大道具を手伝ったとき、喜多村が「おい太田、梅の木が遠いよ」っていうんですって。喜多村のお蔦がひいた凶のおみくじを、運気を変えるというのでベンチを立ってぐるっと回って向うの梅の木に結ぶ。その時の歩幅が違って具合が悪くていけないから直せと。
日比野 歩幅がもう決まっているわけですね。
菊池 決まっている。出ていって、こうやってこう、と。本当に、物差しで測って、トントンやって。それで、「はい、出来ました」と梅の木の位置を直すと今度は翌日の舞台のあと「近い。近過ぎるよ」と言う、毎回。で、梅の木をあっちへ持っていったり、こっちへ持ってきたり。そうしたら「馬鹿だなあ、お前。梅の木じゃないんだ。ベンチの方を動かせばいいじゃないか」と。これは雅光さんの直話です。そういう皮肉な教え方をするんですね(笑)。
神山 先生がおっしゃるのと同じなんですけれど、喜多村は細かい、それから泣かせるということでね。別れ話をする時、お蔦ではないんですけど、火鉢に手を乗せながら話すでしょ。喜多村の芸談だと、手をどこまで出すかが肝心だっていうんですね。というのは、袖からここまで手を出すのと、袖をここまで隠して話すのでは女の気持ちがお客さんから見て全然違うんだと。それはただ名人の芸談というのではなくて、外見、外面を非常に重要視するということでね。いくら新劇の俳優が気持ちを考えなければいけないといっても、内面ばかりですから。目に見える重要さが、お客さんにはね、大切ですから。

前進座・河原崎長十郎のせりふ回し


日比野 前進座は御覧になりましたか。
菊池 たくさん見ました。戦中・戦後に。
日比野 どういう御印象でしたか。
菊池 印象というか、仕事としては素晴らしい。ただ前進座というのは、もともと[二代目市川]猿之助一座と一緒に春秋座を結成した[昭和五年〈一九三〇〉十二月]人たちでしょう。猿之助と一緒に松竹を抜けたけれど、あの頃のことで左がかっていたから、すぐに猿之助は戻ってしまった。取り残された人たちが作ったのが前進座で。それで一生懸命にやって、まあ訓練とか、「翫右衛門の鞭」[注五]という言葉がありますが、猛烈な稽古だったといいます。団体生活をしなければいけないといって、前進座アパートみたいなのを作ってね。それで稽古は何時という。遅刻のしようがないですよね。
神山 前進座の『元禄忠臣蔵』を御覧になったのは、帝劇ですか。
菊池 いえ演舞場です[昭和十六年〈一九三一〉三月・新橋演舞場で前進座による『元禄忠臣蔵』十編十一作の上演がはじめられる]。 『元禄忠臣蔵』は昭和九年(一九三四)二月に『大石最後の一日』が出て、昭和十六年(一九四一)十一月に『泉岳寺』が出て、すべてに二代目左團次が関わった。それで一区切りついたわけですけれど、今度は前進座で長十郎翫右衛門らを中心にはじめた。第一回からほとんど全部見たと思います。そして真山青果の作品の力と前進座の情熱に感心しました。
神山 やっぱり河原崎長十郎はせりふが長かったしょう、昔から。
菊池 それは長かったですね。
神山 それと対照的に、中村翫右衛門はああいう早間でせりふを言うから。それがいいのかもしれないけれど。
菊池 だけど長十郎はすごく長い。「御浜御殿」の綱豊卿の(声色を使って)「いたずらねずみが……」なんて、どこまで伸びるかわからない……(笑)。
神山 翫右衛門が、結構いらいらしているのがわかったと言われてましたね。富森助右衛門がいらいらしているのか、翫右衛門がそうなのかわからない(笑)。
菊池 ただ、せりふの受け渡しは寸分の隙もない。そういう意味では息が合う。だけど鳴神上人なんてものも長い長い。
神山 僕も『鳴神』は見ましたけれど、本当に長十郎は長かったですね。
袴田 新国劇では辰巳、島田のダブルキャストになると島田さんの方が時間が長くなって、休憩時間の都合があるので食堂の方が困ったと。
神山 そう、長いね。
菊池 島田も「それはー」と(笑)。

笑わそうとしない喜劇役者、曾我廼家五郎


日比野 五郎劇はいかがですか?
菊池 正直、二、三度しか見ていないんです。
神山 二、三度見ていれば大したものです。今では誰も見ていない(笑)。
菊池 そうですか(笑)。
日比野 二、三度しかというのは、切符の値段が高かったからでしょうか。
菊池 いや、私は演舞場でいつも見るのは三階ですからね。値段の方は大したことがないですけれど。
日比野 どうでしたか。
菊池 上方風の喜劇は私ははじめてでしたから、とても面白かった。みんな芸達者でした。五郎の芝居はクスグリを入れて強いて客を笑わせようとしない。あの、人間って生真面目にムキになっている姿って、ハタから見るとおかしい、滑稽に見えることがありますね、五郎の芸はそんなところにあるように思います。今の喜劇には無理に客を笑わせよう、笑わせようというところがあるから逆に面白くないということがあるでしょう。五郎の芝居は、笑わせ、泣かせるんです。
神山 その頃、もう五郎八、明蝶なんかはいましたか?
菊池 いました。五郎八は名優ですね。本当にリアルというか、何というか。桂春団治の芝居がありましたね。
日比野 それは、戦後のことですね[松竹新喜劇による館直志作『桂春団治』初演は昭和二十六年〈一九五一〉十一月・中座]。
菊池 五郎八が出たでしょう。
神山 出ました、車夫の役ですね。
菊池 そう、上手(うま)かったですねえ。
袴田 白い制帽をかぶって。
神山 そうそう。
菊池 あれだけでいいと思いましたね。
神山 五郎の頃は、石河薫はまだ出ていないですか。
日比野 [初代]石河薫が戦前に所属していたのは、五郎劇ではなくて、松竹家庭劇ですね。でもご覧になっていらっしゃる?
菊池 ええ、立派でしたね。
神山 その頃、家庭劇には石河薫が出ていたけれど、五郎劇の女形はどうでした? たとえば曾我廼家桃蝶ですとか。
菊池 ああ、見たことはあるけれども。
神山 五郎劇の、お客の入りはどうでしたか?
菊池 私は三階の観客だったからよくわからなかったけれども。歌舞伎座でも当時三階にいると、老婦人が私に「あなたは偉いわねえ」と。何が偉いかというと若いのに歌舞伎を見ていると。そのくらい、やはり年輩の方が多かったと思います。
日比野 今の歌舞伎や新劇と変わらないですね(笑)。ではその頃若い人が見ていた、エノケン、ロッパ、剣劇とかは……。
菊池 まあ、ある程度はね。私も芝居を見始めて一応、歌舞伎と新劇を見ているといろんなものが見たくなりますので。それこそ自慢ではないけれどありとあらゆる、舞台で何か動いていればいいというくらい見ましたよ、めちゃくちゃに(笑)。そのめちゃくちゃな中でも、首振り芝居なんていうのを見ました。役者はせりふを言わないんだけど、義太夫に合わせて、こう首を振る。身振りだけの芝居。その頃、寄席なんかで旦那芸の素人義太夫の会というのがあったんです。人に聞かせたくてしょうがないけど、誰も聞いてくれない。そこでお客を呼ぶために寄席を借りて、自分で語るんですよ。役者を雇って、首振りをやらせるんです。自分の義太夫の語りに合わせて。そんなことを見ましたね。
神山 首振り芝居はどこで御覧になったんですか。浅草ですか?
菊池 いや、まともなのは見ていません。[注六]

演劇博物館の資料収集でロッパ、エノケン邸へ


神山 先生が御覧になった時はエノケン、ロッパがもう東宝に呼ばれて有楽町に来てからですよね。
菊池 そうです。
神山 ロッパの『花咲く港』を御覧になったのは、いつ頃ですか。
菊池 帝劇です。ロッパはそれが一回だけです。昭和十八(一九四三)年[三月]。渡辺篤が良かったですね。
中野 ロッパと渡辺篤の二人が主役の詐欺師二人をやったんですが、脇を固めたのが新劇の役者さんで。ロッパと渡辺篤が笑わせようとするのを菊田一夫がすごく嫌がって、劇評でもロッパと渡辺篤が悪かったそうですが、普通のお客さんはむしろその二人が面白かった。
神山 高杉妙子が出ていたでしょう。
菊池 そう、[白痴ゆきの子]里枝役でね。ちょっと頭がおかしくて、口も回らなくて、玩具の船を海に浮かべて「ナシ、ナンヨヘユカレントヤ」つまり「船が進水したのに、何あし南洋へ行かれんとや」と繰り返して。あれは菊田一夫のこれなんでしょ。
神山 『花咲く港』初演と同じ月の三月に結婚してますね。戦後はロッパの御自宅まで行ったとか。
菊池 私が演劇博物館に入ったのが、昭和二十四年(一九四九)なんです。その頃演博は新劇も、歌舞伎、新派も、あらゆる芸能の資料を集めることにした。それでいろいろなものを集めたんですけれど、中にはストリップ・ショーのね。あれを見ました?
中野 はい、見ました。
菊池 あれは私たちが一生懸命集めたんです、浅草ロック座へ行ってね。その時は贈呈式がありました、踊り子がつけるバタフライの。
中野 バタフライの贈呈式。
神山 その時は、河竹繁俊館長が出席して(笑)。
菊池 有難うございます、と(笑)。だって、広く芸能から集めなくてはいけないから。
神山 河竹さんの『日本演劇全史』自体がそうだから。
菊池 それで、いろいろな芸能人のところへ行って、演劇博物館を代表して色紙に何か書いてもらいたいというお願いをする。ロッパの時は池上線の上池台。普通のおうちでしたね。
中野 坂の、上の方のおうちですよね。上の方と、下の方に二つのおうちがあって。
菊池 そうですか。玄関へ「はい、どうも」とロッパが出て来て。
神山 偉そうな感じは受けましたか。よく言われますけれど。
菊池 偉そうではなかったけれど、知的な感じ。俳優という感じはしませんでした。エノケンのところにも行きました。
神山 エノケンはその時、どちらに住んでいたんですか?
菊池 あれはね、洗足池。
中野 なかなかの豪邸で?
菊池 圧倒されました。正面の門の扉に定紋がうってあったりして。それで、裏口から入ったんですが、大きなワンちゃんがいて、怖くて。だけど「大丈夫です、通れます」と言われて通ったらおとなしくて。エノケン自身は普通の人。
袴田 足はもう、悪くされていた時期でしたか。
菊池 手術をされたあとでした。「いやもう、こんなふうになっちゃって」と見せてくれました。あれは脱疽というんでしょう。

思い出の俳優ベストテン


神山 では先生、ベストテンのお話をお願いします。
菊池 十人だけ、私の思い出の人としてベストテンを選ぶとすると、私個人のベストテンですよ。皆さんは御自分の生涯で十人を選ぶといったら、いろいろと違うと思うんです、私は、まず十五世市村羽左衛門。それから六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、女形で三代目中村梅玉。それから喜多村緑郎と井上正夫、丸山定夫、四代目吉田文五郎、義太夫で豊竹山城少掾、あと外国人のバレリーナでスラヴェンスカ。この十人が自分の生涯で、本当に思い出に残る。入っていない人もいっぱいいて、花柳章太郎がいないじゃないかとか(笑)。
袴田 次点は決めておられませんか。
菊池 それはない(笑)。十人だけ選びました。
神山 スラヴェンスカは『欲望という名の電車』をバレエ化しましたね。
菊池 そうです、御覧になりましたか?
神山 見ていないです、昭和二十八年(一九五三)ですから(笑)。
菊池 外国から素晴らしいバレリーナが来たというので。ダニロワとかいう……。
神山 アレクサンドラ・ダニロワとスラヴェンスカ・フランクリン。昭和二十八年の五月、六月と帝劇でやっています。
菊池 当時の日本人の感覚だと、バレエといえば『白鳥の湖』のような古典。だから、スラヴェンスカがテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』という、新劇がとりあげるような深刻な内容のものをやるときいて、バレエになるのかと思っていたんです。見たら感動しました。幕が開くと、舞台装置が何もない。椅子やテーブルは踊り子たちが踊りながら全部セットする。それで、ブランチっていいましたっけ。
神山 そうですね、ブランチ・デュボア。
菊池 居所を転々としていて、昔のことばかり追っていて、彼氏を次々と代えていって、複雑な設定なのに、スラヴェンスカが、気が変になって舞台にあらわれた時その瞬間「あ、この人はおかしい」と分かるんです、踊りで。こちらはテネシー・ウィリアムズをそんなに知らないし、芝居も見たことがない。初めてそれを見て「おかしいな」と感じさせることができるのだから、本当に素晴らしいと思いました。あの作品一つだけですが、それが強い印象に残って、十位に入れてしまったんです。古典ならともかく、新作の踊りで、そういうことができる人ってそういないでしょう。今思うと、のちわが国で創作舞踊が盛んになりますが、この上演が大きな参考になっていると思います。
日比野 昭和十二年(一九三七)に『白鳥の死』という映画が公開されていますが、それは御覧になっていたんですか。
菊池 ええ、映画で。
日比野 ではスラヴェンスカを見たのが初めてというわけではなくて、映画ではすでに。
菊池 そうです。ずいぶん前のことですね。勿論封切のときではありません。
日比野 日本の女優さんで印象に残っている人は……。
菊池 女優さんで? これはわからないな。
日比野 今のベストテンの、九人までが男性です。
菊池 残念だけれど(笑)。誰か入れなくちゃいけないんだけど、八重子は入らないなあ。
神山 この前もお話をうかがって、八重子が入らない。それから新国劇の久松喜世子は全然入らないでしょう。
菊池 ああ、あれはマネージャーみたいなものだから。
神山 澤田正二郎のね。だからいい役がついたなんていう人もいますよね。
日比野 杉村春子も入らないんですね。
菊池 いえ、名女優といってもいいと思います。

戦時下の『女の一生』初演


神山 森本薫の『女の一生』も初演で御覧になっているんでしょう? 渋谷の東横映画劇場で。
菊池 これも自慢の種なんですけどね。『女の一生』は、築地小劇場[当時改称されて国民新劇場]でやることになっていたんだけど、三月十日の[東京大]空襲で焼けてしまった。それで東横映画劇場になった。昭和二十年(一九四五)の四月です。昔の映画劇場というのは、舞台が少しあるんですね。ですから、狭い舞台だけれど何とか出来る。その後も杉村は『女の一生』を演じ続けたけれども、初演でやったのと同じ演出のようでした。ということは、形が決まっているんじゃないかと。[初演時台本では第二幕の、布引けいが]まだ堤家の女中で、お互い憎からず思っている次男の栄二と二人きりの場面。あれは誰だったか……。
神山 初演の時は中村伸郎です。
菊池 杉村がタスキをつかって演技する場面が記憶に残っています。その仕草がね、のちに見た時もまったく同じ。[注七]久保田万太郎がつけた演出だそうですが、ああいう型――歌舞伎はすぐに型というけれども、新劇では型といわないかもしれませんね――、伝統というのは残ってね。そういうのを見ましたね。
神山 ただ、幕切れはせりふが全然違いますでしょう、戦争中だから。
菊池 そう。それもはっきり覚えていないんですけれども、大東亜共栄圏のためにやりましょうみたいな幕切れで。[注八]戦後はどういう幕切れだったんですか?
日比野 戦後版では、堤家の焼け跡で布引けいが中国から帰国した栄二と邂逅して、思い出話をする。序幕の続きになります。
神山 他にもいくつかヴァージョンがあるんですよ。中国へ行ってやった時は、中国向けのヴァージョン。戌井市郎さんが加筆したので、問題になったんですけどね。
菊池 私が見たのは、まだ戦争中だったけれど、でも、一生懸命に戦争をしようというのではなかったと思うんですけどね。頑張りましょう、東洋平和のためにやりましょうみたいな芝居になっていた。
袴田 それが渋谷の映画館だったのですか?
神山 道玄坂の左側ですよね。
菊池 そうです。
神山 今は東宝シネタワーがあるところで、僕は子どもの時、あそこでジョージ川口のジャズを聴きましたよ。先生がおっしゃるように、舞台があったんでしょう。

新宿ムーラン・ルージュ、新演伎座、邦楽座(ピカデリー劇場)


神山 先程、新宿第一劇場のお話を聞き、帝劇もうかがいましたけれど、あと先生はムーラン・ルージュも何度かいらしているんでしょう?
菊池 見ました。青年時代に、何度かね。
袴田 新国劇の外崎恵美子さんがムーラン・ルージュに出演していたと聞いているのですが、御記憶にはありませんか。
菊池 それはないですね。ムーランで印象深いのは、明日待子ね。
中野 ムーランに行かれたのは戦中、戦後のどちらでしょうか。
菊池 私は戦後です。再建した小屋。
中野 バラックみたいなやつですね、二階がなくて扇風機が回っていたという。
菊池 そうそう。
神山 場所は数年前閉館になった新宿国際劇場があった……。
菊池 武蔵野館の並びで。
袴田 ムーラン・ルージュではおもにショーをご覧になったのですか。
菊池 いえ、お芝居でした。昭和二十年頃でしたか、中江良夫の『にしん場』なんて作品が大当たりして。北海道のにしんの漁場で漁師、親方、船頭がにしんが来るのを待っている場面、やがて海から大群のにしんが押し寄せる、狂喜する人々という芝居で面白かった。
中野 森繁久弥さんは一時期、一年間位ムーランにいたんですが、ご覧になりましたか。
菊池 それは知らない。始終行っていないからわからない。
日比野 昭和十七年(一九四二)に長谷川一夫が山田五十鈴と設立した新演技座はいかがでした?
菊池 何回かは見ましたが、長谷川一夫というとね、やっぱり若い人は飛びつかない。それほど飛びつかないんですよ。
神山 やっぱり、馬鹿にしたんでしょうね。大学へ行っているような人はね。そこが残念なところなんですよね。いつの時代も同じです(笑)。
神山 新演技座は去年、亡くなった安井昌二に話を聞いてなかなか良かったですよ。安井昌二は一時、新演技座にいたんです。貴重な話が聞けたので、またいつか。あとは邦楽座、ピカデリー劇場は。
菊池 あれは進駐軍に接収されてね。
神山 そうそう、それでピカデリー劇場という名前になったんでしょう。
菊池 邦楽座時代には猿之助一座にいた[五代目市川]寿美蔵が『忠臣蔵』を通しでやって、それを見ました。入りが少なくて。
神山 それはその頃寿美蔵の人気がなかったからですね。戦後の昭和二十四年(一九四九)、[三代目市川]寿海になってからとは別のものです。
日比野 『忠臣蔵』通しは昭和十九年(一九四四)の三月ですね。入りが悪かったのは、相当戦況が悪化していたこともあったのかもしれません。

六代目菊五郎の思い出


菊池 菊五郎はね、いろんな人からいろんな話を聞きましたよ。番頭さんがいましてね。六代目と同じぐらいの年なんですけど、六代目が亡くなってから衣裳とか、小道具を全部、演劇博物館に寄贈されたんです。今でもあると思いますけど。そうするとね、例えば『鏡獅子』をやるときに、勘三郎も梅幸も、みな六代目の手獅子を借りに来る。その使いに来るのがその番頭さんでした。それで、品物を出してくる間に雑談をするんです。その時が一番面白かったですよ。
 [ねずみを追いかける図を舞踊化した]『鳥羽絵』という踊りがあるでしょう。六代目はね、稽古のとき、実際にねずみを放して追いかけているんですって。すごいもんですとか。夏休みは、弟子を連れて海水浴へ行くっていうんですけどね、あるとき下っ端の弟子が足をつったか何かで、溺れかけて。あとで御飯を食べながら、「親方ね、さっき私は海で死ぬかと思いましたよ」とその弟子が言ったら、「そう、良かったね。[芝居に役立つからその感覚を]覚えておけよ」と(笑)。それから、六代目は太っていたからいかに痩せてみせるのに苦労したが、今の若手は逆に六代目の真似をして肉を着ている、馬鹿なやつだとか。稽古のときにね、柱にシミか何かがついていて、あのシミをさすのと月をさすのとどう違うとか。
日比野 月を見る方向に柱のシミがあったとしても、それが柱のシミを見ているようにではなくて、月を見ているようにしなくてはいけないということですね。
菊池 そういう意味ですね。だから、リアルなものを形にしていく。だからチャップリンと同じですね。チャップリンも細かいでしょう。よく言うけれども、畳のゴミを拾うのと、ノミをつかまえるのと、手つきがどう違うとかね。芸談でも、「百だ、百だ」と、こう持ったら百両にならないから、ちゃんとこうやっておいてからやれば重さを感ずるんだとか。
神山 私が国立劇場に勤めていた頃は、まだ六代目の信者や弟子がいっぱいいたでしょう。だから、よく逸話を聞かされました。例えば「筆幸」で気が狂って筆を投げる。立師の坂東八重之助が僕に言うのは、あれが、なぜ今の役者は全然駄目か、気がふれているように見えないのかというと、筆を後ろに投げるだろうというんですよ。自分に当らないように。だけど、芝のおやじ(六代目)は、真上に投げるんだよ。だから、自分の上に落っこちて来る。それが怖いんだ、本当に気がふれているみたいで。今は皆、勘三郎だって松緑だって後ろに投げるじゃないか。あれじゃあ計算しているみたいだよなんてね、よく言ってました。
菊池 いい話ですねえ。
神山 だから、先生がおっしゃるのもそんなことですね。
菊池 「死ぬかと思いましたよ」「良かったな。覚えておけよ」というのはいいですね。ねえ(笑)。
神山 六代目は、役だったら何ですか先生のお気に入り。『忠臣蔵』の勘平とか、「伊勢音頭」の福岡貢とかいろいろ御覧になっていると思うんですけれど。
菊池 お陰さまでずいぶん見ました。その勘平役でね、岡本綺堂の『勘平の死』という芝居がある。
神山 ああ『半七捕物帳』の。
菊池 そうです。ある大店の若旦那が[『忠臣蔵』六段目で勘平の]芝居をしてるんですが、知らぬうちに刀がすり替わっている。それで切腹の場面でエイッという時に、刀を突き刺すと本当の……。
袴田 本身の刀だったというわけですね。
菊池 それまで私は、上手いなあ、勘平はいいなあと思って見ていたらね、急に「幕だ、幕だ」と。「若旦那が!」「若旦那が倒れて……」と騒ぎになる。何があったんだと思って、(『勘平の死』という)芝居はそうやってはじまるんですよ。六代目はこの勘平は素人がやるんだから、まずくやらなきゃいけないんだが「おれはまずく芝居は出来ねえ」といって本格的な勘平でした。[劇中劇の]「六段目」はそれで幕を引き、六代目の勘平はそこまでだったんだけれども。戦後は、歌舞伎はいけないということで、しばらくたってそれが解禁されて『仮名手本忠臣蔵』をやりました。そうしたら六代目が勘平をまともにやって、そこで六代目の勘平さんがつながったんです。
神山 なるほど、途中までしか見ていないから。
菊池 それで大いに感激して。
神山 だけどね、私が不思議に思うのは、皆さん言うのは六代目の声が本当に聞こえなかったんですね。聞こえなくてもいいんですかね、やっぱり。
菊池 何か、いいと思い込んでしまう。
神山 思ってしまうんですかね。信仰ですね、もう完全に。
菊池 何かうーんていう調子ですからね。でもやっぱり、あれがいいという。まあ、いいような気がしますね。
神山 一昨年かな、新派にいた樋田慶子さんに話を聞いたらね、あの人は田中家という明治期以来の大きな料理屋の娘だから、小さい頃に六代目がよく来ていたんですね。で、一度だけ六代目に会ったことがあるんですって。「おじちゃん、こんにちは。おじちゃんの芝居、昨日見ました」と挨拶したら、一番最初に「お嬢ちゃん、俺のせりふ聞こえたかい」と言ったそうですね。何か自分でも気にはしていたようで、「どの席で見ていたんだい?」とか。
菊池 声を低いのを売り物にしているところもあるんじゃないか。
神山 そうらしいですよ。
菊池 ですから、この前も言ったんだけどね。弁当幕といって、御弁当の時間があるでしょう。そうすると、なかなかお客さんが帰って来ないじゃないですか。今はそんなこと、ないかもしれないけれど。そうすると、人が入って来る時に菊五郎がしゃべるせりふの声が低くなるんですよ、わざと。そして客席が静まると普通のせりふに戻るという話です。

かたばみ座、帝劇ミュージカルス


日比野 戦後の話で、かたばみ座のお話を。
菊池 かたばみ座はね、昭和二十年(一九四五)に寿座が戦災で焼けて、あの連中がバラバラに散ってしまうんです。それが集まって「かたばみ座」を作る。それがまず上野の都民文化劇場というのがあって、そこで劇団を作った。それで、昭和何年?
日比野 昭和二十五年(一九五〇)。
菊池 それで再建したんです。それはね、かたばみ座というのを名乗ったんだけれど、どうしてそういう名前だったんでしょうかね。
日比野 紋がかたばみだったんですね。
菊池 それは、誰の紋ですか。
日比野 坂東鶴蔵と坂東竹若の紋です。
菊池 そうですか。それで、浅草の隅田劇場でずっとやったんです。
神山 松屋の上ですね。
菊池 でもだんだん、入りが悪くなってきた。そのあとの経営を引き受けたのが守美雄さんという人です。もともとシベリアへ行って、復員してさんざん苦労して。東京新聞の記者なんです、小芝居が大好きで、だからかたばみ座が駄目になってから面倒を見た。ずっと地方巡業したりして。[注九]
神山 隅田劇場がなくなったあと、地方巡業をやっていたんですか。
菊池 それでタンカラ芝居といって、お祭りの時のプロデューサーみたいなことをした。
神山 守さんは『素女物語』という竹本素女の伝記も書かれていますね。昭和五十年[一九七五]頃までは『演劇界』でもお名前をときどき見かけたんですけれども、最近はどうしていらっしゃるんでしょうか。
菊池 今でもお元気です。今後ご紹介します。
日比野 よろしくお願いします。
神山 あと戦後でいうと、帝劇の秦豊吉のミュージカルは御覧になっているでしょう。「帝劇ミュージカルス」は何本もやっていますが、一番印象に残っているのは越路吹雪の『マダム貞奴』ですか。
菊池 そうですね。『モルガンお雪』[昭和二十六年〈一九五一〉])も見ました。
神山 いかがでしたか。
菊池 そんなに数を見ていないからなあ。一回か二回見ればたくさんだった。
神山 そういう感じでしょうね(笑)。いわゆるインテリは馬鹿にしていた。
菊池 来月もまた、という気にはならない。他に見たい芝居がいくらでもあるから(笑)。

戦後の新劇合同公演と俳優座第一回公演を見て


日比野 戦後の新劇ブームというか、五十年代の新劇の圧倒的な人気についてはどんな感じだったんですか。たとえば三越劇場などは。
菊池 三越劇場は私の知り合いで世話になった人がいてね、それが支配人だったんですよ。早稲田出身の田中高司というね。
日比野 あの方が全部、仕掛人としてやったんですね。
菊池 そうですね。吉右衛門も一回やりました。戦後の歌舞伎復興に、本当に力を尽くした人なんです。私たちはその頃、学生ですからね。田中さんのところへ行って「芝居を見せてください」というと「どうぞ、どうぞ」といって、フリーパスでやってくれた。こちらもいい気になって、全部見ていましたけどね。あそこから出たのが[四代目中村]雀右衛門で。
神山 昭和二十二年(一九四七)にあそこでやった『毛谷村』のお園が出世作。十一代目の団十郎、当時の海老蔵が相手役の六助で。
菊池 あれは良かったんですよ。どこで教わったか、知りませんけどね。
日比野 大谷広太郎といったのが、復員して舞台に復帰したときに女形になって、化けたという話ですね。
神山 有楽座での新劇というのは、あまり御記憶にないですか。
菊池 戦争が終って、すぐその年に『桜の園』をやって、それを見ました。
神山 新劇合同公演の『桜の園』[昭和二十年〈一九四五〉十二月]を御覧になった。
日比野 どうでしたか。
菊池 ただ、感動の一言です。だってここまで新劇の人が、山本安英も杉村春子も東山千栄子も全部出てね。それがちゃんとした芝居をやるんだから、ここまできたかと思ってね。それから俳優座の『検察官』というのがあった。昭和二十一年(一九四六)三月です。あれが第一回公演で、東劇でやったのを見ました。あの芝居は本物の検察官が来るというので「えっ」とびっくりして、こんなふうになるでしょう、タブローにね。なんだ、歌舞伎のだんまりと同じじゃないかと(笑)。歌舞伎だとこんなふうに、引っ張りの見得だけどね。そんなテクニックをね。外国の演出をそうしたのか、日本人の知恵か知りませんけれど。とにかくこんな格好ですぅーっと幕がしまるという。
日比野 『検察官』のト書に、タブローと書いてあります。
菊池 書いてありますか。そうですか。何も知らないから、歌舞伎の真似していると(笑)。

六代目菊五郎、十五世羽左衛門との別れ


日比野 戦後、初めて見た大歌舞伎は。
菊池 それがね、皆死んでしまったし、猿之助が『黒塚』とか『弥次喜多』をやったんだけれど、何か見る気がしなくてね。もう芝居は終わりだ、みたいに思っていましたね。それから菊五郎の『銀座復興』も、演劇復興だといわれたけれども見る気になれなかった。
神山 例の『忠臣蔵』は御覧になった? 昭和二十二年(一九四七)十一月東劇の。
菊池 それは、切符が買えなかったです。
神山 買えなかったんですか。
菊池 買おうという努力が足りなかったんでしょうね(笑)。公演が終わる頃になって行きたくなってね、何とかして見せてもらおうと思って色々頼んだら、劇場の人が「見せてやる」と。ただし、せまい幕だまりで。そこでさっきの六代目の勘平の話になります。
神山 幕だまりで御覧になった、客席ではなくて?
菊池 そう、特別に見せてくれた。本当は全部見たかったんですけどね、そんなことはとてもできない。ただ横の方から動いている六代目を見てね、感動です。
神山 感動ですね。
菊池 戦中の芝居では新橋演舞場で『赤垣源蔵』[昭和二十年〈一九四五〉一月]。あれも良かったです。
神山 「徳利の別れ」ですね。
菊池 やっぱり、ああいう寂しい芝居もいいなと思いましたね。羽左衛門も、亡くなる年の一月に芝居を見たんですけどね。
神山 昭和二十年(一九四五)の一月ですか。
菊池 それは一般公開でなくてね、産業戦士慰安公演。ちょうど私、日本鋼管で海防艦[小型の護衛用艦艇]を作っていたんですよ。
神山 日本鋼管の軍需工場で働いていた時に、慰安公演の切符をくれたので行った?
菊池 学生の私にではなくて、工員にくれたんですよ。「俺、こんなもの嫌だ」と。こちらは天にも昇る気持で「ちょうだい、ちょうだい」と。
日比野 いくら学徒動員といっても、学生には切符をくれなかったんですね。
神山 羽左衛門がやったのは「権上」(ごんじょう)ですか、それとも「実盛」?
菊池 「実盛」です。まともに一幕見たのは歌舞伎座のそれが最後です。
日比野 歌舞伎座だったんですね。
菊池 席は一等席なみのよい席でした。
神山 その頃日劇では風船爆弾を作っていたとか。
菊池 そうかも知れません。私達学生は川崎の工場では海防艦を作っていました。軍艦といっても平べったい鉄板をつないだ箱のようなもので、学生が裏表に合わせ、それをリベットで接合していく作業です。工場の工員がわれわれを指導するのですが、素人ではうまくゆくはずがない、船体が一応出来上がってそれに水をそそいで試験をするのですがリベットが完全に接着していないからどんどん水が漏れる、これを古手工員がひとつひとつ打ち直してゆくのですがそのため工事は進まない。軍の方では乗組員を用意して工場の別室に詰めて完成を待っているが、その人達は暇そのものです。空襲警報がなると、みんな地下室に避難する。そこには勤労動員で来ている女子高校生が居て仲良くなり、戦後結婚に発展したカップルが実際ありました。
 私などもその地下で芝居の話をしたり、時には「しがねえ恋の情けが仇」なんて芝居の声色をやって女子学生の拍手を浴びたこともありました。その頃はもう工場へ米軍の艦載機が来て、機銃掃射をやりはじめましたが、こんな暢気な一面もありましたよ。
日比野 空襲ではご自宅が焼かれた……。
菊池 二回ね。青山と世田谷と。何もかも焼けました。だから成人した時までの写真というのが一枚もない。
神山 では先生は疎開の経験というのはないんですか。
菊池 それがね、したくても疎開先がない。東京生まれの東京育ちだから。山の手で生まれて育って、どこも行かずに終戦まで動かなかった。それが珍しいというので、文部省に頼まれて、山の手の言葉のアクセントを残しておきたいというので色々な文章を読まされて、CDに録音したことがありましたよ。

文学座公演も行われた新橋・田村町飛行館


神山 あとね、劇場で今日お話を聞きたかったのは田村町の飛行館ホールなんです。
菊池 新劇団がよく使っていた。飛行館は、飛行協会というところの事務所で、そこへ行くとNHKの内幸町のビルの前の大通りをへだてた、そんな大きなビルではないけれど入口にプロペラがあった。
神山 プロペラそのものが飾ってある?
菊池 そう、たしか二階か三階建ての狭いビルでね。
神山 今でも飛行館ビルというのはあるんですよね。イイノホールへ行く途中に、その横を通るから、ここに飛行館があったんだなといつも思うんですが。
菊池 場所は同じだと思います。
神山 飛行館で見た演目を何か覚えていらっしゃいますか。
菊池 戦争直後でね、要するに新劇団が劇場がないから、文学座もやったと思います。それと、宮田輝明。
日比野 文芸劇場ですね。中村伸郎が飛行館の思い出を『おれのことなら放っといて』に書いていましたね。戦前・戦後の文学座公演が中心ですが。
神山 自伝みたいなやつです。中村伸郎はお金持ちの、いいところの息子ですからね。

新国劇と早稲田大学を結ぶもの


神山 袴田さんも新国劇のことをもう少しお聞きになりたいのではないですか。この間『関の弥太っぺ』のお話はしましたけど、御覧になったのは戦前でしょう?
菊池 もちろん戦前です。たとえば島田がやくざの下っ端を斬り払って空を見上げて「いい月だな」とやると「いい男だねえ」と、客席から声が掛った。すると客席がどっとくる。
袴田 体が動いた頃の辰巳、島田の殺陣はすごかったですか。
菊池 それはもう。公演には時折殺陣が一幕入っていて、何回も見ました。
袴田 『殺陣 田村』ですね。初演は東劇[昭和十四年〈一九三九〉三月]で、女優陣が邦楽を生演奏して上演したと聞きました。
菊池 見ていません。
神山 女優は久松喜世子しか名前が出ないけれども、あと長島丸子や二葉早苗がいたんですね。だけど、あまり印象にはないですか。とくに美形というわけではないですけれど。
菊池 ないですね。そこそこの芝居はするけれども。
神山 そうですか。
袴田 新国劇の女優さんは、何でもやらなければいけないですしね。
神山 だから戦後の香川桂子だと、上手いという話をしますけどね。
袴田 初瀬音羽さんは宝塚出身でしたけれど。
神山 そうですね。
菊池 島田正吾とは亡くなるまで、ずいぶんつきあいましたが。
神山 そうですね、大隈講堂にも出ていたから。
菊池 一人芝居ではずいぶん応援しました。辰巳が死んでしまったでしょう。島田正吾一人で芝居をやるほかないわけです。で、『白野弁十郎』を。その時ね、澤田正二郎の息子で正太郎という人がいた。
神山 画家の正太郎さんですね。
菊池 その人と知り合いだったものですからね、今度やるから是非いらっしゃいと御招待を受けて行ったんです。そうしたら『シラノ・ド・ベルジュラック』でなくて、澤田正二郎が日本式でやった『白野弁十郎』で大変良かったですよ。平成元年(一九八九)十一月のことです。本当に感動した。[島田正吾・長女、右子の嫁ぎ先の家の]応接間の一角で、大詰めのところだけやったんです。銀杏の葉を散らしてね。終わって打ち上げのとき、島田さんに「今度は早稲田でやってください」といったら(声色を使って)「おおそれは、考えておきましょう」なんてね(笑)。
日比野 いつも同じ、あのしゃべり方なんですね(笑)。
菊池 昭和四年(一九二九)に澤田が死んで新国劇の人気が凋落して、起死回生の策が[澤田の母校・早稲田大学の]大隈講堂での公演だったでしょう。そこで澤田正二郎を偲ぶ会で島田さんにやってもらった。それはご覧になりました?
袴田 それは見てないです。ただ、当時の公演パンフレットに「早稲田大学の職員の方たちが銀杏の葉を拾い集め、舞台に敷き詰めてくださった。それを見た時は声をあげて泣きたいほどでした」という意味のことが書いてありました。
菊池 そうそう。「うちの、早稲田の銀杏の葉でやってくださいね」「やりましょう」で話が決まったんです。
袴田 島田正吾最後の一人芝居が『夜もすがら検校』でしたが、皇后陛下が御覧になって、公演後に皇居へ招かれたんだそうです。御庭に銀杏の葉が散っていて「拾ってもようございましょうか」「どうぞ」とおっしゃるので、島田さんが御庭に下りて拾っていたら、皇后陛下も御一緒に拾ってくださった。それを島田さんの御自宅で陰干しておいたんですが、とうとう使われずに亡くなってしまった。そうしたら御葬式に、宮内庁から銀杏の葉が入った箱が届いたそうです。それを緒形拳さんたちが出棺の時に投げかけて送ったと。
菊池 そうですか。大隈講堂でやった時は平成三年(一九九一)の五月逍遙祭の時だから、その前の年の秋にね、今のうちにとっておこうと皆で早稲田の銀杏の葉っぱを集めたんです。たくさん集まってしまった葉っぱを保存するにはどうしたらいいだろうと、掃除のおばさんも集まってね。「そのままにしておいていいのではないか」「いや、冷蔵庫に入れておいた方が」「防腐剤は」といろいろ議論して、なんとか秋まで持たせたんです。島田さんはその葉っぱを使ってくださった。芝居が終った時にね、島田さんに色紙を書いてもらったんです。私の考えで、色紙に銀杏の葉を貼ってお願いしたら書いてくれましたよ。
日比野 そろそろ時間が来ましたので……。
菊池 ああ、ちょっと。いま、思い出したことがあります。戦時中渋谷道玄坂の近くに渋谷劇場という小劇場があったことを。『東京の小芝居』という本にただひとつだけで昭和十九年(一九四四)十一月から翌年三月までの記録が記されています。そのうちの市川門三郎一座の「熊谷陣屋」[昭和二十年〈一九四五〉一月]を私は見ています。ボール紙に墨を塗って作ったらしい鎧櫃が大きすぎて持ちあぐねている姿がいかにも滑稽だったのを覚えています。横合いからすみませんでした。
日比野 とんでもない。本当に有難うございました。


一 岩下俊作の小説『富島松五郎伝』は一九四二年五月、原題と同じ題名で文学座で舞台化された。一九四三年十月に公開された大映映画(稲垣浩監督)は『無法松の一生』と題され、以降の映画・演劇では後者の題名のほうがよく使われるようになった。
二 一九二四年に四谷永住町(現在の四谷四丁目)に新築開場した大国座(大黒座)は、当時から両方の表記があった。『全国主要都市劇場略史表』(国立劇場、一九七八年)には前者で、『演劇界』第二十一巻第九号(一九六三年九月)には後者で、記されている。また、初代澤村宗之助が一九二四年四月、この劇場で出演中脳溢血で倒れて逝去したことを報じる新聞・雑誌記事にも、両方の表記がある。
 この大国座(大黒座)は以降、「山手劇場」「新宿松竹座」「新宿歌舞伎座」と次々と名前を変え(菊池氏が「ただこの劇場はどんどん名前が変わったからわからない。その頃は大劇といったと思うんですけれども」と発言しているのはそのことをさす)一九四二年十二月、苦楽座旗揚げ時には新宿大劇(場)となっていた。その後、新宿松竹座と旧名に復したが一九四五年空襲で焼失した。
 なお旧名の一つである新宿松竹座は、一九二九年に角筈町一丁目(現在の新宿三丁目)に開場した新歌舞伎座が(一九三四年に新宿第一劇場と改名したのち)一九五八年に変更した名前でもある。新歌舞伎座と新宿歌舞伎座も紛らわしいので、この二つの劇場はよく混同される。
三 『大尉の娘』は初演と同年の一九一七年、井上正夫監督で映画化され、以降二四年・二七年・二九年・三六年と四本作られたリメイク版のうち、新興キネマ製作三十六年版のみ現存。水谷八重子は一八年に浅草・御国座の舞台でお露を演じたあと、二十九年版・三十六年版の映画でもお露役として出演。
四 喜多村緑郎が最後にお蔦を演じたのは、一九五六年一月産経ホールで、喜多村は当時八十四歳。
五 三代目中村翫右衛門(一九〇一―一九八二)は前進座の創立者の一人で、現前進座代表の四代目・中村梅之介(一九三〇―)の父親。腹から声が出ていないと翫右衛門は鞭で床を打ったといい、当時の修行の厳しさを物語る言葉として残っている。
六 演劇史でいうところの首振り芝居は、天明期から大正期にかけて、おもに十代前半ぐらいの子供たちで演じる「ちんこ芝居」で上演されたものをさす。
七 カズモから販売されているDVD『女の一生』は、一九六一年一月・第一生命ホールでの公演をNHKが舞台中継したもの(キネコ[フィルム]で保存されていた)で、この映像では北村和夫の栄二が杉村のけいにタスキを放る。しかし、みなもとごろうが書くように、現行演出では「赤い襷を引っ張りあって、それとなく二人の感情を表出する」ものに変わっている(みなもと「『女の一生』の台本の復刻について」『シアターアーツ』第六号[一九九六年九月])。
八 生前、杉村春子は扇田昭彦に「情報局の委嘱で書いた作品なので、最初と最後の部分は大東亜共栄圏に迎合したようなところがありました」と語っている。「『女の一生』を語る杉村春子」『シアターアーツ』第六号(扇田が注記しているように、一九九五年七月二十五日と、九六年三月二十九日に行ったインタヴューをまとめたもの)。ただし、『シアターアーツ』同号に収録された、杉村保存の上演台本から復刻された初演台本には、大東亜共栄圏という言葉は出てこない。演じた女優と見た観客がどちらも大東亜共栄圏に言及していることから、初演時にはこの言葉は使われていたと考えるのが妥当だろう。
九 このインタヴューのあと、守美雄氏にご紹介いただき、かたばみ座を中心に、戦前から戦後にかけての演劇状況全体についてお話しいただいた。