大月隆寛聞き書き


大月隆寛 聞き書き
取材日時:二〇一四年九月一九日
取材場所:明治大学駿河台キャンパス
取材者:日比野啓・中野正昭・鈴木理映子・徳永京子・柾木博行
編集・構成:鈴木理映子

イントロダクション


 大月隆寛。異端・異能の民俗学者、と説明するだけでは収まりきらないような振れ幅の人生を生きてきた人である。一九五九年に東京都武蔵野市で生まれるが、八幡製鉄に勤める父親の転勤で六四年に兵庫県神戸市、六七年には同県西宮市に移る。以降高校までをそこで過ごす。七七年に早稲田大学法学部に入学、八一年に成城大学大学院で日本常民文化を専攻。八九年に東京外国語大学外国語学部日本語学科助手、九三年に国立歴史民俗博物館民俗研究部社会伝承第一部門助教授。九〇年に出版した処女作『厩舎物語』は競馬場の近くにアパートを借りて住み、厩舎員や騎手らに聞き書きをしたもので、研究書の行儀のよい文体からはほど遠かったが、ルポルタージュの体裁をとって深い洞察を交えていく、日本民俗学の正当な申し子の作品とも言えた。私が大月さんのことを知ったのは次作『民俗学という不幸』で、身内の民俗学および民俗学者たちの慣習や習癖を威勢のよい啖呵で斬ってみせる大月節に私はすっかり参ってしまった。研究者という狭い枠にとどまっている人ではないなと大学院に「入院」したばかりの私ですら思えた。はたしてその後の大月のマスコミにおける活躍ぶりはここで説明するまでもないだろう。しかし民博の助教授という恵まれた地位を捨てるとまでは思いもよらなかった。自恃の念が強い人だけに、自分が正しく周囲が間違っていることがいったんわかってしまうと我慢ならなくなるのだろうか、と想像はできたが、そんな勇気も衒気も持ち合わせていない私にとって、それは一個の夢物語のように思われた。
 『無法松の影』(一九九五)という、まっとうな演劇・映画研究者ならば地団駄を踏んで悔しがるような、研究者としての長い射程と広い視野を示した著作があったとはいえ、私にとって大月隆寛はあくまでも「型破りの民俗学者」であり、何人かいる自分の人生のロール・モデルの一人ではあっても、自分が研究対象とする演劇に直接関わってくることはないだろう、とツィッターで知り合って親しくお話させていただく間柄になってもしばらくは思っていた。だからふとしたきっかけで、大月さんが学部生から院生時代にかけて早稲田興行という学生劇団を主宰していたこと、この早稲田興行が、一九八〇年代の小劇場第三世代と呼ばれた劇団の一つである鴻上尚史主宰の第三舞台と同様に、早稲田大学演劇研究会を母体にするものであって、その時期の同研究会に関わるキーパーソンたちをよく知っていることをお聞きしたときには驚いた。驚きと同時に、話を詳しく聞いておかなければ、という思いが湧き、その場で取材を申し込んだ。この聞き書きはその記録である。
 「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」は副題として「一九三〇年代から七〇年代までの演劇文化を聞き書きを通じて再現する」ことを掲げている。とはいえ、聞き書きの対象者として主に想定しているのは、商業演劇の現場に関わってきた方、あるいは直接携わらなくても、この時期の商業演劇の進展をつぶさに見てきた方である。[当時の筆名だった]大月熊主宰の早稲田興行と一九七〇年代末の早稲田大学演劇研究会についての聞き書きというのは、このプロジェクトの趣旨にそぐわないのではないだろうか、という疑念が私にないといえば嘘になる。自分の長年のヒーローに聞き書きをする機会を得られて有頂天になり、プロジェクト本来の目的を忘れてしまっていると批判されれば、そうかもしれないとすら思う。それでも、大月隆寛の聞き書きを「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」として公開するのは、小劇場演劇が商業演劇化する道筋が生まれる一九八〇年代という時期をやがて迎えるにあたり、当時の小劇場演劇・学生演劇がいかに思想性・政治性を失っており、「演劇をやる」「演劇をする」ことがたんなる「生きかた」に、当時の若者の生活文化の一部になっていたか、ということについての貴重な証言になっていると考えるからだ。
 言うまでもなく、アングラ世代にとってこの小劇場の「変質」は由々しき頽落だった。一九六〇年代後半のアングラ演劇は——その代表的な作り手たちの多くは実際はそれほどでもなかったにもかかわらず——先鋭的な政治性や思想性を担っていたと考えている人々は多かったから、一九八〇年代の小劇場ブームとそれを受けての(大手企業の協賛公演をはじめとする)小劇場の「商業化」には否定的な言辞がいくつも寄せられた。その後、佐藤郁哉『現代演劇のフィールドワーク 芸術生産の文化社会学』(東京大学出版会、一九九九年)は具体的な数字を示すことでこの印象論にもとづく商業化論を完膚なきまでに批判したが、野田秀樹と夢の遊眠社、鴻上尚史と第三舞台、川村毅と第三エロチカのような八〇年代小劇場の担い手たちの上演作品における「思想性の欠如」「政治性の欠如」は長いこと批判の対象とされ続けた。
 実際に八〇年代小劇場に思想性や政治性が欠如していたかどうかの議論はひとまず措こう。たしかに、当時の野田秀樹の韜晦に満ちたエッセイなどが示すとおり、担い手たち自身もまた、自分達の無思想性・非政治性を誇っていたし、作品内でも自分たちが「空っぽ」であるというような表現がしばしば見受けられた。しかしそこにあるのは(自らの無思想性・非政治性を誇るという意味では彼らの先駆者だったつかこうへいがよくそうしていたのと同様)一種のポーズであり、本当の意味で虚無感に取り憑かれているのではないことは、彼らの旺盛な創造活動からも明らかだった。「自身の存在の空虚さ」は小劇場を問わず、八〇年代の芸術思潮における共通のモチーフであり、護符であって、彼らの存在様態なり真の自己規定を示すものではなかったのだ。
 大月隆寛の証言は、早稲田「新」劇場、早稲田新機劇、第三舞台といった「大隈裏」(大隈講堂裏で活動していた早稲田演劇研究会を母体とする)劇団が、当時いかに地に足をつけた活動をしていたか、すなわち、自らが依ってたつイデオロギーや思想をいちいち言語化する必要を感じず、目の前に山積みとなっている「やるべきこと」を一つ一つ片付けていくことで自分たちの創造行為が進展していくはずだという期待にどれだけ持っていたかを示している。大月自身はそのような状況と併走しつつ、その持ち前の複眼的思考ゆえに、その状況を相対化する言説を当時から発表しており、今回の聞き書きにおいても、当時の大月が実際に体験したことと、傍観者として観察していたことが入り交じっている。だから学園祭のときのような非日常的昂揚感や「(真剣な)遊び」の感覚、自分達の活動が世間に認知されていくときに感じる一種の幼児的万能感が彼らの日常の中にあったことを大月は鋭く指摘するのだが、にもかかわらずそれは日常であり生活であり、自分たちが生きている具体的現実から抽象的一般的言説を紡ぎ出す必要の感じられない「楽しい」ものであったことも伝わってくる。
 大月は自分たちがそうやって「遊んでいる」足元から育ち、いつの間にか大きな存在になっていった八〇年代小劇場演劇の在り方に違和感を表明する。もちろんそれは先行する世代からの批判と違って、思想性や政治性の欠如を言い立てるものではない。大月が八〇年代の小劇場ブームに苛立ちを感じていたのは、その表層的な華やかさもさることながら、各集団が遊び心を失ってプロ化していくところにあったようだ。大人たちがいうところの思想性も政治性もないが、たしかに「生きている」という実感や手応えを感じる日々から、プロとして世に認められるという目的のために組織化され、いわば必然的に労働によって自己疎外される生活へと変わっていくのが、七〇年代末の小劇場演劇の風景だった。
 戦前から戦後すぐの時代には政府による弾圧やそれを受けての思想的転向、あるいは生活苦のために新劇人が商業演劇に活路を見出していくという回路があった。五〇年代以降、新劇の才能は映画やテレビに向かい、商業演劇は自前で人材を育てることを余儀なくされるが、七〇年代前後に行き詰まりを見せる。その後商業演劇はアングラや小劇場演劇という新しい血を入れることで生き残りをはかっていき、アングラや小劇場出身者たちもその動きに積極的に応じていく。現在、野田秀樹、岩松了、松尾スズキといった、一九八〇年代以降の小劇場演劇から出発し、既存の興行資本と提携しながらも独自のブランドとして自らを確立した、新たな商業演劇の担い手が生まれてきているのは、こうした状況の変化によるものだ。そしてそのような状況の変化を生んだのは——『ロミオとジュリエット』(一九七四)にはじまる蜷川幸雄の東宝での演出や、鈴木忠志の帝国劇場での『アトレウス家の悲劇』(一九八三)の上演といったしばしば象徴的に語られる出来事ではなく、ましてやそれ以前からの福田善之の商業演劇への進出などではなく——二十代半ばの大月が目の当たりにしていた、演劇をやる若者たちが「プロ意識を持つ」ようになったことだった。今回読んでいただくのは、その前史ともいうべきものである。

早稲田といえば「演劇」だった?


日比野 大月さんは関西のご出身で、早稲田の法学部に入学され、演劇研究会に入られます。大学進学で東京に、中でも早稲田を選ばれた経緯からお話いただけますか。
大月 それが今思い返してもよく分からないんですが、家から出たかったんでしょうね。関西の公立高校出身ですから、進路指導のうえでは大学は地元の国公立に行かせるのが正義なわけです。だけど理科、数学ができなかったので「お前は私立に行っておけ」という、それ以上でもそれ以下でもなかった。亡くなった親父が早稲田のラグビー部だったんですよ。なので、家じゃファミリースポーツみたいなもんで、正月の大学選手権なんか大騒ぎして観ることになってましたし、菅平の合宿にも小さい頃から何度か連れて行かれました。ただ、大学でラグビーやるというのがどういうことか、目の当たりにしてたもので自分でやろうとは思ってなかった。中学まではサッカーやってました。部活にもラグビーなかったですし。高校になって、少しは親孝行な気分もあったのかな、ラグビー部入ってしまって、でも同時に楽器もいじったりしながら結構ちゃらんぽらんな高校生活でした。成績も、一学年が三〇〇人くらいいましたけど、二五〇番以上になったこともなかったですね。
 ただ、英語、国語、社会でどうにかなるならちょっと勉強してみようかなと思ったのが、高校三年の夏休みの前くらい。それこそ京都の寺に泊まり込んで、友だちと勉強しながら予備校に行って、三教科死ぬ気でやったら、九月の模試でいきなり五〇番以内になり、その後は一桁になりまして。当時の関西の公立高校では東京の私立大学のデータなんてなかったですから、模試を受けて自分で考えて、ということで、なんとなく親父の縁もあるから早稲田に行きたいと考えた。それで、夜間の学部以外は、上から下まで全部受験して。たまたま引っかかったのが法学部だったんです。本当は文学部で歴史をやりたいって気持ちもあったけど。
日比野 じゃあ、東京には文化の香りがあるとか、早稲田=演劇というようなイメージはまったくなかった?
大月 なかったです。芝居の「し」の字にも僕はかんでなかったし、高校演劇にも全然、何の興味もない。そういう学校的あるいは演劇的世界自体がむしろダメだなと思っている方だったので。
日比野 音楽はどういったものを?
大月 当時の関西ですからロック一般、といってもブルース系ですね。上田正樹とかよく聴いてました。ジョニー・ウィンターとかオールマンブラザーズバンドとかも好きでしたね。当時一緒にやってた連中には、今でも関西でセミプロ級で活動してるのもいます。当時、ヤマハが「8・8ロックデイ」なんてコンテスト含みのイベントやってて、その予選に出たこともありました。あと、関学の文化祭かなんかで憂歌団の前座みたいなことやったような記憶があります。
日比野 それはすごいですね。
大月 いやいや、憂歌団はまだレコードを出したばかりで。木村充揮に「お前ら、女子高生連れてこいよ」みたいなことを言われたのをなんとなく覚えています。そんなものです。
日比野 じゃあ、大学で東京に出た後は、音楽で何かやってやろうというような気持ちはなかったんですか。
大月 もちろん、やりましたよ。何か楽器をいじれるところはないかと入学式の日にうろうろしてたときに、「ロッククライミング」という音楽サークルで、今思えば、あの吾妻光良さんと出くわしているんです。
日比野 ザ・スウィンギング・バッパーズの。
大月 そう。たしか理工学部の学生で。八号館の法学部の前で、マンズワインのロゼをデキャンタにいれて、昼間から酒喰らって三人くらいで演奏してたんです。で、「ベースをやってました」と言ったら、「だったらやってみな」って言われてセッションして。だから多少はそこにも出入りはしたんですけど、結局劇研(演劇研究会)に入っちゃった。「そうか、演劇少年になっちゃったか。それもいいか」なんて言われましたね。その後も吾妻さんとはなんとなく行き会っているし、バンドの芽もあったとは思います。実際、どこかの楽器屋に貼ってあったメンバー募集を見て、バンドをやってみたこともありますし。エピソード程度ですけどね。
日比野 そうすると劇研にはどういう経緯で入られたんですか。
大月 なんでかと言われると困るんですけど、「早稲田だったら芝居だろう」という漠然としたイメージはありました。ただ、関西だから芝居といっても吉本新喜劇しか知らないし、いわゆる小劇場も知りません。それでも、さっきも言ったみたいに入学式の後にキャンパスをうろうろしながら、最初に行ったのが、商学部の手前の古い校舎[六号館]の屋上アトリエ。プレハブのハト小屋があって、そこにいくつかの劇団が集ってたんですよ。その中に、今思うと舞踏系なのかな、騎馬族長会議というのがいて。屋上のふちの高くなってるところを裸足で全力疾走してたおっちゃん、といっても二五、六歳でしょうけど、その人が話を聞いてくれて「だったら、君、まずは大隈裏の劇研に行ってみたら」と言われたんです。岸本さんといったかな、後にニューヨークで舞踏をやっていると聞いたことがあります。芝居に興味があるって言ったら、新入生だったら最初は劇研とか行った方がいいよ、と。屋上のふちのちょっと高くなったところを端から端まで、あれは三〇メートル以上あったんじゃないかなあ、ジャージとシャツで全力疾走したりしてるんですよ(笑)。いきなりうちに来たらこんな感じだから、と言うんで、確かにこれは大変なところだなあ、と。
日比野 当時の早稲田の劇研の雰囲気というのはどういうものだったんですか。アングラ的なものが多かったのか、それとも……。
大月 僕が入った時に劇研を牛耳っていたのが、岸田理生さんの旦那さんで、後に『SMスナイパー』でずっと原稿を書いていた樋口隆之さんという人。名古屋の名門校の出身で二十代後半だったと思いますけど、寺山修司の天井桟敷に行って戻ってきたところだった。そのときに理生さんと親しくなって、彼女も劇研に出入りするようになっていたんです。そういうこともあって何か寺山的な芝居をやろうというので、なんとなく劇研の中もひとつにまとまっていました。僕は一九七七年入学ですが、その一、二年前にはまだいわゆる新劇的なものをやっている人たちもいたみたいですが。
日比野 大隈裏以外のところで活動していた劇団というのは、さきほどおっしゃったような舞踏系が主流だったんですか。
大月 文学部にはいくつか演劇のサークルがありましたが、自分のいるキャンパスとはちょっと離れていますから「あるよ」と聞いていたくらいで……。学内にどれくらいの劇団があったのか、当時はまだ全然わかんなかったですけど、あとで何となくわかってきたのは、本部にさっき言った六号館屋上の「ハト小屋」にいくつか。大隈裏に劇研と木霊(こだま)という劇団のアトリエ、それと舞台美術研究会とかラテンアメリカ音楽研究会かな、そういうのも一緒に集まってる長屋があった。あと、文学部のキャンパスにもいくつかあって、テアトロ五〇とかはそっちだったかな、もう記憶があいまいですけど、第二学館[学生会館]はまだロックアウトされたまんまでしたから、その他シネ研[シネマ研究会]とか映画制作系のサークルとかも本部界隈で活動してたと思います。室井滋さんなんか当時も二十代後半だったと思うけど、彼女やその他劇団の人たちも含めて「早稲田の女優たち」なんて写真展みたいなのやってた覚えがあるなあ。
 同じ大隈裏のアトリエでも、奥にいたのが劇研で、手前は木霊。木霊は「新劇っぽいし、高校演劇だから」みたいな感じで、僕らは馬鹿にしてましたけどね。だからこのころの劇研ではもう、誰が指導したということでもなく、新劇的な世界観から抜け出して外に出ていこう、というような空気が出てきていたんだと思う。樋口さんたちがそういうことを始めて、翌年には大橋宏さんたちがアンサンブルをつくって、火がついた。
日比野 それは先行世代のつかこうへいや野田秀樹が、学生劇団から出発して、世に出ていったような流れともつながっていますか。
大月 いや、野田がワーッと出ていく直前。つかこうへい事務所はもう、PARCOに出始める前で、ある程度評判になっていましたけど。だから劇研でその流れをつくったのはやっぱり[早稲田「新」劇場を作ることになる]大橋宏さんたちです。樋口さんたちもやってはいたけど、やっぱり寺山のコピーでしたから、あまり評価もされなかったし。ほかにももっと年配の、二十代半ばの留年しているような奴もいっぱいいて、アンサンブルとしてひっついたり、離れたりしていましたけど、それこそやっていることは唐さんだったり、六八/七一黒色テントのコピーみたいなものでしたから、それ自体で外に行って勝負したいみたいなことはあまり考えていなかったような印象があります。

八十年代演劇の初期衝動


日比野 アングラの第一世代は、たとえば唐十郎と青俳のようにプロとのつながりを持ったうえで自分たちでやっていた。完全に学生から始めるという動きは、ちょうど大月さんが劇研に入られたか、その少し前から始まったものだと思います。早稲田の劇研もその流れのなかで、重要な役割を果たしたのかなという気がするんですが……。
大月 そうですね。一九七〇年代末くらいから、いきなりそういう流れが出てきましたね。大橋さんたちの後には鴻上[尚史]たち、それから浅井孝一やスズカツ[鈴木勝秀]といった連中が出てきて。あれで「早稲田の劇研ってすごくアグレッシブだね」と言われるようになる。僕がいたのはちょうどその初めのころだったんだと思います。
日比野 大月的な口吻を借りると、「盛って」いましたか、その人たちは。学生が世に出ていくということに、一時的な全能感を感じていた?
大月 大橋さんたちの代にはハッキリとありました。そこに今思えば、世代的な違いが出たんだろうと思う。大橋さんというのがまた、親父は明治学院大学で都市社会学をやっていた大橋薫さんで、本人も麻布高校出身。大学も修士までは行ったと思います。で、麻布のボンボンでしょ。車に乗って学校にくるわけですよ(笑)。樋口さんはもろにヒッピーみたいな格好をしていた人だけど、いくら愛知の千種高校だったかな、全国的な名門出身でもやっぱり田舎者ですよね。大橋さんは全然違う。そういう自分に悪びれるところもなかったし、そういう雰囲気に結局、みんなが持っていかれたようなところはあったのかなと思います。これは本人に聞いてみなきゃわからないけど、大橋さんはおそらく、遊びの一環として芝居をやっていたし、「やるなら面白い方がいいじゃん」と考えていた。なにしろ当時、自分たちで自前でテント芝居をやったんですから。鉄パイプとイントレ、ブルーシートから平台から何から、照明機材も音響系も何もかも調達して、しかもそれらを持って学生若い衆だけでトラックで地方を回ろうというんですから、考えたらむちゃくちゃですよ。それが大橋さんたちの早稲田「新」劇場の旗揚げ[一九七七年]ですね。ちょうど僕が大学入って劇研に首突っこんだ年で、年上だった樋口さんたちとは別に大橋さんが劇研の中で、言わば分派活動を盛大にやって、年下の連中を糾合して一気に主流派に持ってった。
日比野 実際に地方をまわったんですか。
大月 京大と名大に行きました。そのときに、自分たちでルートをつくって芝居を企画して、なおかつそれを支えるというスタッフワークができたんですよね。あれはやっぱり、すごかったと思います。「スタッフの劇研」っていうふうに言われていた記憶があるんですけど、鉄パイプで舞台組んで、ブルーシートでテントつくって、今みたいにいい機材もない時代に、レンタルしたトラックをみんなで運転して、役者みんなでバラしたり組んだりしながら公演してた。それこそ後に風の旅団とかああいう人たちがやったようなスタイルを、学生が自分たちで設計して、名大の学連や京大の西部講堂に話をつけてやっていたんです。西部講堂の中にもテントを張ったんですよ。阪大でもやったかもしれません。とにかく名古屋と関西についていって手伝わされたのを覚えています。僕が行ったのは確か二年目で、そのときは役者で出てもいます。で、そのときの芸名が大月熊八、[早稲田興行でのペンネームとなる]熊だったんです(笑)。
日比野 二年目ですと、それこそ大月さんご自身も分派活動をされていたのではないですか。その後、一九七八年の十月の公開エチュード『銀河鉄道の夜』で演出をされた後に劇研を退会なさっています。
大月 どうだったかな。入会してすぐにやらされたのが、大隈小講堂で岸田理生の書き下ろしを樋口さんが演出した『墜ちる男』。今振り返っても、わけが分からない(笑)。その後大橋さんについていったわけだから、まだ一年坊主だったのかもしれませんね。いい芝居でしたよ。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を翻案した構成芝居で、樋口さんが露骨に寺山エピゴーネン的な芝居だったのに比べて、大橋さんは鈴木忠志に傾倒してたわけですけど、でも当時の早稲田小劇場的なテイストよりももっとずっと素朴で、ああ、これは自分たちの感覚に近いものだな、というのがはっきりわかった、そういう芝居でした。とにかく「明るい」のね。あと「笑い」がある。良い意味で「軽い」、闊達だったんですよ、役者の身体なんかも含めて。だから年下の連中なんかも理屈とか理論じゃなくて、おもしろそうだよね、っていうんでみんなついてったって感じでしたね。早稲田界隈でも評判になったし、地方から戻って「凱旋公演」と称して、今度は大隈前に無断でテント立てちゃった。当然、大学当局といろいろ揉めたみたいだけど、まあ、そういう時代だったんでしょう、なんとなくなし崩し的に押し通して、その後も処分みたいなことはなかったんじゃないかな。その後もそれが既成事実になったのか、何度かテントを立てるようになってったはずです。
日比野 それが、劇研が大隈裏でテント芝居を始める嚆矢だったわけですか。
大月 そうですね。大隈裏より先に大隈前に張っていたんです。
日比野 俳優で出ていたといっても、当然スタッフワークもされていたんですよね。
大月 もちろんです。音響もやらされたし、設営はもちろん、裏方仕事は全部やりました。文化祭状態で、脳内ドーピングが入っていたんでしょうね。「えー、なんでこんなことをしなきゃいけないの?」とは思わなかったし、楽しかったですよ。制作として裏を仕切っていたのは、後に東急エージェンシーに行った東野雅昭さん。彼は有能でしたね、やっぱり。それからクリエイティブ・アート・スィンク(CAT)って、照明のプランニングなんかをやる会社がありますね。あれは当時のスタッフワークを支えていた人たちが立ち上げた。そういう、それこそ[赤坂の有名ナイトクラブだった]ニューラテンクォーターに照明のバイトにいっていたような連中が、若い人を使いながら鉄パイプを組んだりしてた。よくやったなと、今考えても恐ろしいけど(笑)。
日比野 そういう広がりを持った活動を、大橋さんは遊び感覚でやっていた?
大月 彼自身がそういうふうに言うかは分からないけど、僕から見ても明らかに、ほかの、アングラかぶれで一生懸命、寺山だなんだとっている人たちよりは楽しそうでした。いわゆる街の遊び人ですけどね、今思えば。でも、ほかの人とは全然違った。もともとスタッフ出身ですから、やっつけ仕事もうまくて、みんなを乗せるムードメーカーでもあって。
日比野 たとえば大月さんが鴻上尚史にインタビューした資料を読ませていただくと、鴻上さんにはよくも悪くも、早くから上昇志向があったという感じがするんですが、大橋さんにはそれはなかった?
大月 ないと思うね。だったらもっとうまく立ち回れたところはあったと思うし。あとになったらまた違ってきたのかも知れないけど、少なくとも最初の段階で自分たちの芝居をしたいと立ち上げた時のモティベーションってのは、何か一発おもしろいことを、自分たちの感覚に近いものを作りたい、そんな向こう意気が一番大きかったんだと思う。だって、当時で言えばやっぱ彼の芝居の方がケタ違いにおもしろかったし、上だったもん。「海賊トラヒゲ」ってあだ名をつけられてたくらいの、マチ育ちのやんちゃ坊主がそのまま大きくなったような人だったから。ただ、なにせ大学教授の息子だし、本人も大学院まで行ったような人だから根は真面目だったんだろうし、なにしろ出発点が鈴木メソッドだったわけで、古典の戯曲を叩き台にして再構成した早稲小的な「構成芝居」にどんどん執着していって、役者の身体をどう鍛えて解放してゆくのか、的な方向に好んで煮詰まっていったような印象がありますね、傍から観てた立場で無責任に言わせてもらえば。またそれが当時の演劇ジャーナリズム界隈である程度評価されたというのも、大きかったんじゃないかなあ。ただ、僕は最初の頃の、やんちゃで遊び人なマチ育ちのボンボンという大橋さんしか記憶にないし、そういう人だから作れた舞台だったんだろう、と思ってます。いい意味で「ああ、苦労を全く知らない人ってこんなに自由になれるんだ」なんて思いながら、ひそかに眩しかった。
日比野 そういうバックグラウンドを持った人が鈴木忠志のエピゴーネンのようになっていくというのは、面白い話です。
大月 そこまでアタマで芝居してる人ではなかったはずなんですよね、はじめの一歩は。それにいい役者がいたし、そういう仲間と一緒になってワーッといこうぜ、みたいな感覚だったと思うんですけどね。確か、結婚したのも役者さんだったのかな、佐木美奈子さん。それからこれは後にも活躍してますけど、久保酎吉、影山泰、これは二人とも夜間の学生で、久保さんは二文[第二文学部]で千葉の薬屋の息子だっけか、影山さんは神戸出身で社学[社会科学部]だったかな。それまで全然くすんでて、地味で目立たない役者だったのが、大橋さんのところでいきなりはじけて光り始めるようになっちゃった。後には白井晃なんかも二人の弟分的に合流してゆきましたね。
日比野 大橋さんは俳優を乗せることに長けていた?
大月 うん、少なくとも僕の記憶にある大橋宏とそのアンサンブルはそうです。「あぁ、楽しい芝居ってやっていいんだ」と。樋口さんのは楽しくなかったから。やってても分からないんだもん。亀が木をかじってどうのこうのとか、わけのわかんない台詞がいっぱい出てきて、まさに寺山のエピゴーネンだった。大橋さんの旗揚げだって、結局鈴木忠志のメソッドではあると思うんです。シェイクスピアで構成舞台をやって、というのはね。ただ、ノリがやっぱり楽しかった。鴻上たちの旗揚げもそうです。「あ、こいつらやっぱり楽しそうでいいな」って。
 これは当時から思ってたし、今でもそう思っているんだけど、とにかく自分たちで何かをやってみたいっていう初期衝動、それだけで美しい瞬間が生まれることってあるじゃないですか。音楽であれなんであれ。それを芝居で可能にしてくれる場所が劇研なら、それは大事にしなくちゃいけないと俺は思ってたんですよ。でも結局、アトリエという財産をめぐるいろいろなヘゲモニーや政治が出てきちゃって、僕は嫌になっちゃった。アトリエは電気代ただで、二十四時間使えるわけですから。当時、大橋さんには吉井仁志さんという人がサブでついていて、今も大道具の仕事をしている人だと思うけど、彼がそういった政治レベルの番頭をやっていた。今ならもうちょっと違う付き合い方もできただろうけど、当時は僕も子どもだったから、汚いなと思った。きれいごとだけど、自分たちの後に入ってきた後輩たちにだって、「あ、芝居って面白いんだ」って思える瞬間に立ち会える可能性は残してやらなきゃいけないんじゃないかって思っていましたしね。もちろん、初めから大橋さんがいちばん上というわけじゃなくて、樋口さんをはじめとするボス的な先輩たち、何年も留年しているような人たちがいて、そういう人たちとの間での葛藤もある中で、ヘゲモニーを握っていくわけ。またそのやり方を後輩が見て、さらに洗練された形で繰り返していくんですよね。そのへん、七〇年代前半の学生運動の残り火がある種のカルチュアとして燻っていたところがあって、表だってそういう政治的な、セクト的な要素は全く出てこなかったけれども、ただその分、人間関係とか閉じたサークル的人間関係内でのヘゲモニー争いの手口とか、そういう微妙で微細なところで、ある「空気」や「雰囲気」はまだ残っていたんだろうな、と後知恵だけど思います。鴻上たちになると、具体的にはわずか二学年しか違わないんだけど、ほんとに、あ、これは全く違う種類の世代がやってきた、という感じがはっきり明確にしましたからね。八〇年というひとつの区切りはそういう意味では具体的だった、身近なところで。「新人類」ってもの言いは後になってのことだけど、彼ら「新人類」感覚で大橋さんたちの共有していた「政治」を良くも悪くも別の形に翻訳改変して、取り込んでいったんだな、と思っています。
 鴻上が第三舞台をつくったころには、僕はもう劇研にはいなかったけど、当時もそんなにきれいじゃなかったとは思いますよ。もちろん、彼の場合はPARCOや紀伊國屋なんかとつきあいながら、知恵をつけていったところもあるだろうけど、どうやって物事の主導権をとっていくかというやり方はやっぱり、大橋さんをひな形に学んだんじゃないかな。
日比野 第三舞台も早稲田「新」劇場と同じように、役者たちのアンサンブルの良さで評価されていましたよね。それも劇研の伝統のようなものになっていたんでしょうか。
大月 伝統かどうかは分からないけど、大橋さん的なものが受け継がれたところはあると思う。でも俺は、看板俳優だった岩谷真哉が死んで、鴻上たちは芝居を辞めると思ってたんだよね。だって、岩谷がいなきゃ成り立たないアンサンブルだったから。だから岩谷が事故でなくなった時には「これは鴻上もきついだろうな、しばらくできねぇな」と思ってたんだけど、平然と続いていきましたね。考えたら、もうその時にすでに「上昇志向」ははっきり自覚してたんだろうし、劇研なんてのも単なる足場でしかない、といった感覚があったんでしょうから、当たり前の選択だったんだろうけど、でも個人的にはある種の失望というか、ああ、そういうことか、そういう了見で芝居やってんだ、的なわかり方をするできごとではありましたね。

遊◎機械/全自動シアター、第三舞台の登場


日比野 当時の劇研の中のアンサンブルには早稲田「新」劇場のほかに、早稲田新機劇がありましたね。今日はそのお話も聞きたいなと思っているんです。彼らは、いわゆる大橋イズムとはどんな距離を持っていたんでしょうか。
大月 あぁ吉澤[耕一]君たちね。彼らは僕より一級下で、やっぱり一年の頃に大橋さんのところにオラオラと連れていかれて「面白いな」と思っちゃった連中です。でも、大橋さんよりはもうちょっと軽やかでしたね。それは、吉澤くん自体が新劇人の息子だったということもあると思うけど。
日比野 そのとき吉澤さんのところに集っていた人たちが、そのまま遊◎機械/全自動シアターになるわけですか。
大月 そういう流れをつくったのは、むしろ、白井[晃]じゃないかな。それと嫁さんの高泉淳子。その辺りになると僕は付き合いがないから詳しくは分からない。高泉さんは俺が抜けた後に入った人で、「白井とつがいだな」とは思っていたけどね。それで結局、彼らが看板になっていくというか、あの二人の世界というものを打ち出していくというふうに持っていったのかなと思います。
日比野 彼らの芝居はご覧になりましたか。
大月 うん、覚えていますよ。大橋イズムはあるけど、第三舞台の方に近い感じ。年代というか登場順は逆になるけど。そこには微妙な世代差があって、大橋さんたちの芝居にしても、その上の人たちのものからすれば確かに軽くなっていて、これなら普通のお客さんにも身構えずに見てもらえるだろうという感じがした。だからもう、そこにはアングライズムはないんですよね。
日比野 なるほど。鴻上さんは、その新機劇から出てきたわけですね。
大月 そう。変な役者でしたよ、鴻上というのは(笑)。
日比野 コンプレックスが強いというか、鬱屈した感じでしたか。
大月 いや、やっぱりお笑いをやりたがっていたよね。それこそ昔小松政夫なんかがよく出てたコントで「キントト映画」ってあったじゃないですか。あれのパロディーをよくやっていた。
日比野 そうすると初期衝動はあくまでもお笑いだったと。じゃあ、どういう段階で理屈がついてくるのか。それが劇団にとっては重要なことでもあると思いますが。
大月 僕自身もそうだったけど、劇研に入ると勉強させられるじゃないですか。活字で。「てすぴす叢書」かなんか読まされてさ。[水品春樹の]『舞台監督の仕事』[一九五三年、未来社]とか。
日比野 クリーム色の表紙のね。
大月 そうそう。で、『劇的なるものをめぐって——鈴木忠志とその世界』[一九七七年、工作舎]の読書会をやらされるわけですよ。「なんだか分かんないな」と思ってたけどね(笑)。だから僕のときにはまだ、そういうブッキッシュな学習もありました。ただ、鴻上は僕よりも二年後に入ってるから、やってるかどうか……。吉澤たちのときはむしろこっちがチューターとして、先輩の見よう見まねで教えましたけどね。でも、あいつらも分かってなかったと思います。
 ただ、演劇「研究会」なんだから、芝居だけ打ってればいいってもんじゃない、演劇理論というか、意味づけ、理屈の方からも勉強するんだって意識は、そのころにはまだ残っていましたね。大隈裏に蘭(らん)って喫茶店があって、そこでスタッフなんかも含めて勉強させられてたし、書く人や演出する人の間では論争のようなものもあった。寺山派対唐派みたいなね。どっちにしろコピーなんだけど。
日比野 大月さんご自身も「勉強させられた」という感覚でいらしたんですか。
大月 嫌々じゃないですよ。だって何にも分かってないから、芝居のこと。それで「鈴木忠志という人がいるのか。じゃあ、公演があったら観にいこう」なんていって、利賀山房まで行きましたからね。あるいは花園で唐さんがテントやるなら観にいこうかとか。だから、そういうかたちで、実地で、それは東京だからできたことでもあるけど、本に書いてある理屈がどういうかたちで芝居になっていくかっていうことを勉強することもできましたしね。

鈴木忠志の影響力・つかこうへいのドラマトゥルギー


鈴木 劇研時代に勉強させられたのは、いわゆるアングラ第一世代の著作が中心だったんですか。
大月 大橋さんが鈴木忠志でしたから。まずはそれを教わりました。当然そこから、ほかのものにも手を延ばして。みんながそうしてたかは分かりませんけど、僕はそういう本の中から、芝居ってなんなのか「そうか、こうやって新劇というのは否定されたんだ」ってことを理解していった。また、僕はつかこうへいさんが大好きでしたから。で、つかさんっていうのは、早稲田小劇場から出てますから。実は鈴木理論の演出のある部分っていうのは、つかさんがもっとも正統に受け継いでいるんじゃないのかと俺は当時から思っていたんだけど、誰も聞いてくれなかったな。
日比野 その通りだと思います。
大月 まぁ、当時は全然聞いてもらえなかった。ということは、みんな、そういう勉強の仕方はしていなかったということだと思います。だけど今でも俺はそう思ってるし、後に取材でご本人とも何度かやりとりしたことがあって、何かの弾みでオーディションを手伝わされたことがあるんですよ。池袋あたりで。一九九〇年前後かな。とにかく、つか事務所のオーディションやるからお前も見てくれなんて言われて。そこで見ててもやっぱり、つかさんのドラマトゥルギーというのは、鈴木忠志のある意味正統な継承なんだろうなって、僕は思いましたけどね。
日比野 つかさんに取材をされたというのは……。
大月 昔、講談社に『VIEWS』という雑誌があって、そこで僕、劇評を書いてたことがあるんです。ちょうど、講談社に、やっぱり早稲田で芝居をやってた小柳津純っていう奴がいて。確か彼はスズカツのところにいたんだと思うんだけど、そいつが「大月さん、芝居やってたなら劇評をやりましょう」と。それでたまたまつれていかれたのがつかさんのインタビュー。それまでは面識もありませんでした。ただ、向島三四郎さんたちの、つか作品を上演する「暫」っていう劇団が、高田馬場の東芸劇場で公演してるのを観に行ったり、彼らに劇研のアトリエを貸したりしたこともあって、周辺の人たちとの縁自体はありました。当時の暫には、風間杜夫さんも出ていたんじゃなかったかな。
日比野 つかこうへいは特に演劇論を書いてませんから、大月さんはその作品を観るなかで、鈴木忠志の影響を見てとったわけですね。
大月 確かに演技論としては何も残ってはいないけど、役者の鍛え方みたいなことはずっと書いているでしょう。いわゆる口立て芝居のね。僕も自分の集団[早稲田興行]でそれをやろうとしてジタバタしてたわけだけど。そういうことと鈴木さんの身体論はやっぱり関係あるよね、と思っていた。
日比野 大月さんご自身は当時、つか作品以外ではどんなものをご覧になっていたんでしょう。
大月 唐さんの芝居はもちろん観ていました。でも、純粋な観客としての好みでは六八/七一黒色テントの方が好きでした。紅[テント]より黒だった。なんでだろう。新劇ベースの確かさ、それでいて大掛かりでしたよね。紅テントってどっかで熱さ一発みたいなところがあって、唐さんが気持ちよければいいというか、あの当時ですでに観客も「あのおっちゃん楽しいんだろうな」と思いながら観るのが至福である——という状態になっていたから。それからやっぱり僕は、秘法零番館が大好きでした。つかさんと竹内銃一郎さんをつなげるのは無茶な話かもしれないけど、当時の雰囲気の中ではアリだよねと思ってた。小出修士さんが好きだったけど、役者をやらなくなっちゃったもんね。木場勝己さんはずっとやってますよね。
日比野 ええ。それこそ、さっきお話に出た久保酎吉さんと一緒にこまつ座の井上ひさしの芝居にもしょっちゅう出ています。
大月 そうなの? 今、目眩がした(笑)。でも、木場さんと久保さんならうまが合うかもしれないな。
日比野 ちなみに新劇は全然ご覧にならなかった?
大月 関西にいるころだから、中学か高校のときに、劇団四季の『エクウス』を観ました。母親に連れていかれたんだけど、なんでだろう。おっかなかった記憶があります。子どもからしたら、あれはおっかない。そもそもわれわれ世代、七〇年代の小学生は、吉本新喜劇直撃、という感じでしたから。名古屋あたりまではあれが教養だった。
日比野 松竹新喜劇の方はどうですか。
大月 テレビで観ていました。あれはあれで楽しんだし、それが関西の普通なんですよね。大学に入って、多少は新劇を観ておかなきゃとも思ったけど、やっぱりろくに観なかった。そのときにはすでに文学座も俳優座も偉くなっちゃっていたから、否定すべきものとして最初に勉強しちゃったこともあって。ただ、俳優だったら、そういうところに行ってもよかったわけです。でも、それすら潔しとしない雰囲気がもうできあがっていたから。中には舞踏に走る奴もいましたね。金粉塗ってね。それこそアスベスト館とかによく行ってたな。

後退する政治性 肥大する「身訓」


日比野 大月さんは、早稲田の劇研を退会されてすぐに早稲田興行を立ち上げます。正確にはいつのことになりますか。
大月 劇研に正式に籍があったのは大学二年までで、二年の末には脱会してたはずです。だから七九年の春ですかね。うちの劇団の原型はその前の年の暮れだったかな、劇研の中の勉強会みたいな形で下っ端の学年や外の大学の連中なんかも含めて集めて、アトリエで試演会めいた公演をやった、それがベースだったかと。旗揚げってことになると、その七九年の初夏、梅雨の頃だったかなあ、明大前の宇宙館っていう住宅街の中にある小さな小屋で三日間、やったのが最初だったと思います。
日比野 旗揚げ当時はやはりつかこうへいに私淑していたんですね。
大月 そうです。関西育ちだから根は吉本だし、俳優にも関西出身の奴がいたから、傍目には「あいつらはお笑いやりたいんだな」みたいな理解のされ方をしていたんじゃないかな。あのころ、東京ヴォードヴィルショーはすでにある程度売れてきていたし、東京乾電池もぼちぼち注目されていました。だからもう、アングラは面白くないし、重いよね、っていう気分は、普通の感覚として僕らも持っていたし、新機劇なんかもそういった時代の気分を取り入れようとしていたんだと思います。「お笑い」の正義がそろそろ時代の表層にはっきり浮上し始めてた頃ですよね、今振り返ってみれば。「アングラ」ってのをその装いなんかも含めて茶化す、笑い飛ばす、っていうことをやっていいようになってきてた、大学のそういう小劇団的世間の中でも。吉本的な「お笑い」のセンスや感覚を当時の小劇場的舞台に持ち込むことは、まだどこか剣呑なところがあって、あまりうまくわかってもらえなかったんですし、何よりそういうのは「不真面目」だろうといった感覚も強かったかな。だから、つかさんの芝居も「お笑い」的な脈絡で飲み下しやすいように受容されて初めて、ある意味メジャーになれたってところはあったと思ってます。「飛龍伝」なんて初演時は衝撃のあまり客席がしんとなって声もなかった、てな劇評が当時出てたと思うけど、そういう「真面目な」感覚での笑いだの喜劇だのって能書きとは初手から違うところで、「お笑い」ブーム的なそれが襲ってきてたから、「飛龍伝」でも何でもとにかく反射的にドッカンドッカン笑いに行くような観客が紀伊國屋あたりではもう主流になり始めてた印象はありましたね。
 売れる前の乾電池は面白かったですよ。つか事務所への恨みだけで芝居しているようなところがあって(笑)。渋谷の教会の下にあったジァンジァンでやっていたころによく観に行ったけど、客がいなくて。舞台の上から(数軒隣の)PARCOに向かって、みんな揃って「つかメーッ!」なんて言ってた。だいぶ後になって、NHKのドラマの仕事でベンガルさんと一緒になったときにその話をしたら「いやぁ…」って笑ってましたけど。あれを芝居と言っていいのかというと、当時の感覚としては、(笑)って感じだったんだろうけど、僕は好きでしたね。あるときは本気のチェーホフをやったりもしてましたし。いつもの気分で観にいったら、最後まですべてがチェーホフだった(笑)。
日比野 今でこそ乾電池がチェーホフをやるのは当たり前ですけど、当時の乾電池にもそうした、どこか確かな手触りのようなものがあったということですか。
大月 そうなんです。柄本[明]さんて真面目なんだなと思ってね。でも、乾電池の始めのころっていうのは、本当にパンクでした。そう、「パンク」と「お笑い」のフュージョンって感じで。
日比野 一九八〇年代の小劇場を振り返ると、一方の極に軽さがあって、もう一方の極にはひどくつまらないテクニカルなことを突き詰めようというような風潮があったのかなと私は思っているんです。
大月 「アングラ」的な政治性は後退していく時代でしたよね。一九七〇年代の半ばくらいまでは、嘘でもイデオロギーを持っているように見せて、「そうじゃなきゃ舞台はもちろん音楽だって分からないものなんだ」みたいな状況があったけど。われわれのころにはもう、「イデオロギー? なにそれ、おいしいの?」状態です。少し上の世代にはそれこそ、吉本隆明を読む勉強会みたいなのに取り込まれる連中がいっぱいいましたけど。
 その違いが結果的に、芝居に関していえば、僕らはまさに豊かさの中で育った世代だったということなんでしょうね。つまり、「お笑い」というのが象徴的だけど、そういったものが政治性や理屈、重いものを凌駕し、洗い流していった。ただ、そこで残った軽さにやっぱり、資本との親和性が出ちゃったんじゃないかな。鴻上や野田[秀樹]がそうだったようにね。これが先行世代との大きな違いになった。
日比野 さまざまな理屈が洗い流された結果、純粋な技術論を追求する動きも生まれたんではないかと思うんですよね。たとえば、身訓[身体訓練]の意味がだんだんなくなっていって、身訓のための身訓になってしまうというような。
大月 ああそれはね。劇研の身訓がどんどんトライアスロン状態になっていく過程はありました。横で見ていても「どうしてそこまでやるの?」みたいなことが、鴻上たちの代ではもう、そうなっていましたね。僕らが入ったころは、吉浜駿さんって文学座の研究生に行って戻ってきた人が教えてくれていて。呼吸法とかね。で、せいぜい近くの箱根山[戸山公園]に行って帰って、身体を温めて発声練習、というくらいのものでした。それがたった数年で「なんのためにそこまで」というようなすごいことになっていく。走って水道橋まで行ったとか。だんだん、身訓自体が過剰化していくんです。それが気持ちいいんだろうけど。
日比野 聞くところによると、唐さんのところはそんなに身訓が厳しくなかったとか。
大月 いわゆる理屈の部分と釣り合いが取れていたわけですよね。あの時代の小劇場では、理屈の部分がどうでもよくなったぶん、そういう過激さがおさえられなくなっちゃったんだと思う。だからセキュリティーとしてのイデオロギーも必要なんですよ。鴻上とかスズカツのザズウシアターとか、みんなメチャクチャに身体をいじめるイメージが、八〇年代の半ばにはありましたからね。
鈴木 九〇年代に入ってからも、大隈講堂の周辺で発声練習する人たちはよく見かけました。
大月 そうでしょう。僕らのころは、大隈前ではやりませんでしたね。だから、九〇年代にはもう型になっていたんだろうけど、だんだんと自意識が肥大化していって、大隈講堂の前で、まさに示威的に発声練習してみせるということが普通になっていったんだろうと思う。

「自前」の精神と消費の波


徳永 時代と共に演劇からも政治色が失われ、「笑い」というものが前に出てくるなかで、テレビでも、東京乾電池が『笑っていいとも!』の前番組[『笑ってる場合ですよ!』一九八〇年十月〜八二年十月、「日刊乾電池ニュース」]に出るようになったりするわけですが、その辺りの、時代と演劇の「笑い」の接近を、大月さんはどんなふうにご覧になっていましたか。
大月 うちの役者も『オレたちひょうきん族』[一九八一年五月〜一九八九年十月]に呼ばれたことがあるんですよ。番組が立ち上げの時だったか、東京ヴォードヴィル[ショー]の連中なんかと一緒に誘われていた。結局断りましたけど、小劇場にそういう才能がいるんだということで、テレビや何かから釣り糸が垂れられ始めたのが、ちょうど八〇年代の始めなんじゃないかな。[当時ABCテレビのプロデューサーだった] 澤田隆治さんたちの仕掛けた漫才ブームが始まったか始まらないかくらいの時期。それでもう、既成の役者は面白くないという感覚が出てきたんでしょうね。柄本明さんはまさにそういう扱いだったし、風間杜夫さんもある意味ではそうだったかもしれない。関西では全然様相は違ったと思うけど、東京に関していえば、小劇場の世界が表のメディアの側から見た盛り場になっていた。
日比野 そういう誘いが来る時代になれば、大月さんは別としても、小劇場をやっている人たちの間に、一躍メジャーに躍り出た、というような意識を持つ人も出てきますよね。
大月 鴻上はそうだったんじゃないかな。おそらく野田も。それが素直な反応だった。
日比野 大月さんたちはなぜ、そういう誘いを断ったんですか。
大月 声がかかったのはさざなみ了造といって、いい役者でしたよ。今は銀座のバーで雇われマスターをやってるんだけど、大阪出身で、お笑いで松田優作をやりたかった人間。それこそ『探偵物語』の真似をお笑いでやっていたんです。だから、売れるならそっちに行ってもよかったんだろうけど、ちょうど[東京]ヴォードヴィル[ショー]の研究生になってたんですよ。確か久本雅美とか柴田理恵とも同期だと思う。でも結局テレビにいかなかったのは、「自分たちで全部なんとかしたい」っていう思いが彼にあったからだと思う。それについて本人と話したことはないけどね。やっぱり、自前であるということは重要だったんです。これは技術系の人たちに聞けばもっと分かると思うけど、劇研のアトリエにてもテントにしても、照明もせいぜいあの重い、六回路のトランスですよね。下手したら、石油の一斗缶に明かりを仕込んだくらいのものでやるわけです、最初は。音だってそう。ところがみるみるうちにそうじゃなくなって、全部がオートの調光、アトリエも学校が綺麗な施設をしつらえてくれる。そうなってくると、やっぱり、しょぼいけれど自分たちでやるんだという思いというか、そういう自前感を知ってるかどうかで大きく感覚が異なってくる。
日比野 ただ、野田秀樹のところに制作でいた高萩宏さんの本[『僕と演劇と夢の遊眠社』二〇〇九年、日本経済新聞出版社]を読んだりすると、自分たちが手作りでやってきたことに世間が手を伸ばしてきたけど、それを決してただで持っていかせるんじゃなくて、自分たちも一緒に上がっていくし、おいしいところもとる、というような意識がはっきりありますよね。つまり、基本的には常に自前でやっているんだよ、という感覚をすごく感じさせる。
大月 あいつらは東大だから、頭がよかったんでしょう。そういう説明ができること自体が普通じゃない。僕らはみんな馬鹿だったから、そんなこと考えてなかったですよ。鴻上だって、分かりやすい田舎者の上昇志向というだけで。
日比野 ただ、波が来ている感覚は共通して持っていたんですね。
大月 確かにそういう言い方は、大橋さんたちの間でもありました。波にうまく乗れるのか、いつ「ドーン」といくのか、みたいな。だけど、乗ってどうしたいのかって話を聞いたことがないんだ、不思議なことに。金がほしいとか有名になりたいとか、そういうことも言葉として聞いたことがない。
 だから、夢の遊眠社が、少なくともある時点までは、それこそ波に乗って資本に結びつく部分と自前感をバランシングしてたとすれば、おそらくそれがいちばん幸せな状況だったんだと思います。つかさんにしたって、俺はそこまでリアルタイムで知ってるわけじゃないけど、VAN99シアターから出て、紀伊国屋に行って。紀伊國屋ホールでさえ、狭い場所で身体一つでやっていたような芝居をアジャストしていくのは大変だった、どこかで書いていたけど、さらにPARCO劇場になったら、もうショーにしなきゃいけないわけでしょう。その違和感に苦しんでいるんだろうな、というのは客席で観ている僕にも伝わった。やっぱり東芸劇場みたいな間口三間くらいの狭いところでジャージとTシャツ着てやる『飛龍伝』っていうのがベースだったんでしょう。それは早稲田小劇場だって同じです。ショーアップしていく一方で、どうやってクォリティを失わないでいくかということは、永遠のテーマなんだと思います。ただ、あの頃にそこまで考えて芝居やってる奴はまずいなかった。
日比野 大月さんご自身はどうだったんですか。
大月 考えてはいたけど、芝居に限らず、要はお客さんを何人欲しいかという話でしょ。うちの劇団はどう頑張っても一公演で一〇〇〇人動員することができなかった。当時はそこが一つのハードルだった。うちは頑張っても五〇〇人を超すくらい。つまり一〇〇〇人を超えれば「波」も来るし、三〇〇〇人、五〇〇〇になった時にどうするかということになるんだけど、僕はそれを経験してないから分からない。

変容する「笑い」と観客の顏


徳永 八〇年代の小劇場に波が訪れる前にも、時代の風、という意味では、アングラ第一世代の時期にもテントの周りを観客が取り囲んで、というような状況はあったわけですよね。そのことと八〇年代に吹いた風との違いはどこにあったんでしょう。
大月 それこそこれは、当事者の野田や鴻上に聞いてもらった方がいいかもしれないけど、分かりやすいところでいえば、女の子が増えた。アングラ先行世代の人気というのは難しいことを考える人たちのものでしたから。
 野田の芝居は俺も、まだ駒場でやってたころに「面白いと言われているらしい」というんで観に行ったんですけどね。面白くなかったですね、あれは。さっきも言ったような初期衝動の美しさを感じなかったし、「こねくっているな、頭がいいんだな」としか思わなかった。もちろん、ある文脈からすれば才能はあったんだろうけど、戯曲も読んだけど分からない。かといって役者に魅力があるっていうふうにも思えなかった。でも、今でもハッキリ覚えているのは、「あ、こういう面(つら)した奴らに世の中は占められていくんだな」と思ったこと。それは舞台上も客席も含めてね。「あ、こいつらに俺は負けるんだ」って予感があった。
徳永 舞台上にも客席にも、今までにはいなかったような顏を持つ人たちが増えていたわけですね。
大月 間違いなくそうだと思う。第三舞台の客層もそうだった。「お、楽しそうだな」という驚きで来ている人たち。それは、僕らが劇研で大橋さんの芝居を楽しいと思っていたのとは違って、消費者としての「楽しそう」だったんだよね。
日比野 八〇年代の小劇場の観客はよく笑う、というようなことを、当時の年配の劇評家たちはさかんに、恨みがましいほどに書いていますよね。
大月 それは違和感があったからでしょうね。
鈴木 ただ、それは八〇年代にいきなり始まったわけではなく、たとえばつかこうへいの芝居なんかも通過しつつ、出てきた傾向じゃないかとも思います。
大月 『飛龍伝』初演の劇評なんかを読むと、おそらく場は凍ってたんだということが分かります。つまり「笑い」として書かれてはいるけれど、観客もどう反応していいのか分からなかった。だからみんなドン引きしたんでしょう。「笑うとこだけど、笑っていいんだろうか」みたいなね。それが七〇年代前半の話。でもそれが、十年くらいの間に平気で笑えるものになっていってしまう。つかさんはもう亡くなりましたけど、その変化を目の当たりにし、客に対する恨み言も重ね、でもこいつらを喜ばせるしかやっていく術はないんだと、そういう葛藤を抱いていたんじゃないかな。でも、野田や鴻上にそれはなかったと思う。はじめから「笑い」の側にいたんだから。
 要するにどこに向かって芝居をするか、ってことだと思うんですけどね。劇場の広さ、観客の人数……同人誌なんかでもそうですけど、信頼できる客をどのくらいつかめるかということと、商業ベースでどのくらい動員できるかということのバランス、その中でのクリエイティビティをどう確保するか。鴻上たちにしてみれば、そこで悩んでいる暇さえなかったんだろうとも思う。彼らは俺の知らない世界を見たんだろうしね。それこそ俺は『朝日のような夕日をつれて』が何度も再演されて、さっき言ったみたいな新しいタイプの、女の子を中心としたファンがつきだしてから、興味を失ってしまったけど。
徳永 そもそも「笑い」は舞台作品において常に中心からズレているものだったのか、それともある時期には、ハッキリと評価の対象になったのか。大月さんはどうお考えですか。
大月 その質問は、どうして「喜劇」というものが別枠として存在したのか、ということにも繫がりますね。これは日比野さんのご専門でしょうけど、笑いを目的とする芝居が、別の箱に入れられる、ということは、「笑い」は芝居の要素の一つであって、それが全面に出てくるということは、あまりノーマルなことだとは思われていなかったということで。ただ、お笑いブームも含め、八〇年代には、笑わさなきゃ芝居じゃないみたいなところがあったし、客はとにかく笑いに来てた。なんであの時代にだけ笑いだけが突出して、みんなのニーズに合ってたのかは、いまだに俺も分からない。
 今、漫才ブームのころの録音なんかを聴くと、スピードが速すぎて何を言ってるのか分からない。それでもドッカンドッカン受けているわけです。何を観て、何を受け取っていたのか、今となっては分からないし、おそらく当時でも分かってはいなかった。だからもし、当時の芝居の映像があったとしても、何が面白かったのかはもう分からない可能性もあると思う。
日比野 ただ、当時の漫才ブームのお客さんと小劇場に来ていたお客さんとでは、また違っていたんではないでしょうか。
大月 基本的にはかなりの部分で重なっていたと思いますよ。そういうお客さんが来るようになったから市場も広がったわけで。
日比野 喜劇って純粋な技術の部分も大きいですよね。だからそういう技術を磨くしかないんだっていうような、一種の達観を持っていたような劇団も、当時はいくつかあったんですが、大月さんご自身にはそういう発想はなかったんでしょうか。吉本新喜劇の東京版をつくるぞ、とか。
大月 それはないですね。そもそもつかさんの笑いって、関係性の笑いでしょう。いわゆる身体的なものじゃない。だから技術の蓄積の上でというのとはまた少し違う。また、本質として笑いを極めるのと、お客が要求するから応えるのとも違うし。だから、僕にしても東京ヴォードヴィルショーや乾電池にしても、笑いそのものを目指していたわけじゃないんですよ。
日比野 当時の観客のアンケートはどうでした? 観客がどういう視線を持っていたか、何か思い出されるようなことはありますか。
大月 少なくともうちのお客さんには、笑いだけを目的にする人はいなかったと思います。それも一つの要素、味付けとして求めつつ、何かテーマというか、受け取るものは別にあるという感じ。結果「笑いあり涙あり」みたいなことになっちゃうんだけど
日比野 八〇年代演劇では、野田秀樹なんかを中心に「物語の復権」みたいなことも言われていましたからね。大月さんの早稲田興行のお客さんもまた、物語に惹かれてきていたということだったでしょうか。
大月 それはないと思うな。役者を見にきてたんじゃないのかな。そもそもそんな数がいないので、分からないけどね。でも恐ろしいもので、最近はブログやツイッタ−で早稲田興行の芝居を観たと書いている人がたまにいたりするので、ビックリします。ちょろっと感想を言ってたりして。いい意味で覚えてくれてるからこそ、そうやって書くんだろうけど、あれは恐ろしいなと思います(笑)。
柾木 笑いの変質ということで言えば、一九七〇年代と八〇年代を繫ぐところにいる存在として、別役実をあげることができるとも思います。別役のことはどうご覧になっていましたか。
大月 鈴木忠志との絡みである程度勉強はしたし、エッセーなんかも読んだけど、あまり意識したことはありません。[別役実作品を多く上演した]旧眞空鑑は観ていましたけど、別役さんというより、早稲小の流れだよなという感じ。だから、アングラと呼ばれるようなものに対しては、なるべくちょっと、避けた方がいいという感覚はあった気がしますね。僕や僕のまわりでは。それに比べると大橋さんなんかは真面目だったんじゃないかな。周囲がどんどん軽くなっていくなかで「何を難しいことを言い出したんだ」なんて僕も思ってましたから。

躍進する女性作家、軽やかな新世代


徳永 野田秀樹さんたちとほぼ時期を同じくして、女性を中心とした劇団が登場しますよね。青い鳥、それから如月小春さん。
大月 如月さんとは会ったこともないんだよ。東大の劇団綺畸(きき)で、吉見俊哉の彼女だったと聞いてたくらい。芝居はいっぺんだけ観たかな。でも何がいいのかは分からなかった。それこそ、野田と同じで頭でこねくっている感じで。
徳永 周りの評判はどうでしたか。
大月 これが早稲田の悪いとこなんだけど、あの手の芝居は最初から観ないんですよね。「すごいかどうか分からないけど、俺たちには関係ないよね」みたいな。要するに「東大が芝居やっちゃいかんよ、俺たちの居場所なくなるよね」って雰囲気がありました。
徳永 青い鳥はどうだったんでしょうか。
大月 タイニイアリスのフェスティバルで一緒になって、木野花さんとシンポジウムに出た覚えもあるけど、自分たちにとって切実なものだとは感じなかった。ただ、如月さんたちよりはまだ、芝居としては「へえ、なるほどね」という感じがあったけど。それこそ何をしたいのかっていう初期衝動のようなものは伝わってきたし。
日比野 青い鳥は共同創作で、口立てに近いことをやっていたわけだから、ある程度共感するところがあってもおかしくなかったのかなと思いますけど。
大月 そうですね。でも共同創作のわりにはストーリーもかっちりしていて、作家性みたいなものを感じさせましたよね。木野さんも元は学校の先生ですから、そんなにグチャグチャしたものにはならない。そこは僕らとは違うなとは思ってた。
中野 八〇年代になると、シティボーイズや宮沢章夫のようなかたちで、劇団というわけでもない、サブカルの時代にうまく乗っかった人たちも出てきますよね。
大月 宮沢さんはちょっと俺は分からないや。芝居もちゃんと見てないし。ただ、さっきの話の流れで言うなら、その辺りから笑いとか軽さみたいなものが、さらにカジュアルになって、いわゆる小劇場という言葉自体からも影がなくなっていったと思う。「アングラ」なんて言われることもなくなって。だから、世代的な違いもあるし、俺が変だったのかもしれないけど、自分から観にいこうという気はなかった。竹内銃一郎さんの芝居なら、「今度は何するんだろう」なんて、ベンチマークのようにして観ていたところはあったけど。

お笑い、少女漫画、音楽


柾木 大月さんは八三年の『銀の鉄騎兵』で、ポスターを漫画家の御厨さと美に頼んでいます。
大月 御厨さんはちょうど『裂けた旅券(パスポート)』を『スピリッツ』に描いていたころで。大好きだったので、無理矢理会いにいって頼んだら「最近こういう話多いんだよな、俺」なんていいながら引き受けてくれたんですよ。
日比野 そのころ、演劇で漫画を使ったポスターっていうのは、よくあったんですか。
鈴木 花輪和一や林静一なんかのガロ系の作家は、早くからアングラ演劇で使われていましたが、少年漫画、コミック的なものだと、劇団☆新感線くらいでしょうか。
中野 あとは流山児祥が七〇年代の終わりくらいに大友克洋とやっていますね。
日比野 漫画文化と演劇の接点みたいなものは、当時どうなっていたんでしょう。
大月 一般教養として漫画を読むというようなことは七〇年代半ばにはもう、ある程度普通になっていたと思うんです。ただ、芝居の世界でそれをリスペクトして使うようなことは、まだあまりなかったかもしれません。どの辺からなんだろう、はっきりとやり始められたのは。野田なんかは少女漫画の影響があって、と多少言われていた時期もあったと思うけど。
日比野 それで実際に萩尾望都の『半神』[初演・一九八六年]をやったわけですからね。
大月 そうだよね。だからああいう感覚が結局、ある種の新しい、たとえば女の子を中心としたお客さんに通じたところはあったんだろうと思います。
日比野 少女漫画は、また別の世界という感覚ではないんですか。
大月 あぁ、でも、僕らが最初のころにポスターを描いてもらってた沖倉利津子さんも少女漫画家だよ。当時の『別マ[別冊マーガレット]』だと、くらもちふさこは別格としても、沖倉利津子も、今でも覚えてる人はいるんじゃないかな。あれはたまたま、うちの役者が沖倉さんの同級生だったので「会わせろ」といって、家まで行って描いてもらった(笑)。
日比野 じゃあ、早稲田興行では初期から、そういうかたちで漫画文化と手を組んでいた?
大月 劇団として、というよりは俺が頼んだってことでしょうね。今でも全巻持ってるんですけど「おてんばセッチシリーズ」というのがあって。後のジブリなんかもそうなんだけど、三多摩の日常をどう描くかっていうのを、沖倉さんは当時からやっているんですよね。
日比野 少女漫画にはいつごろから触れていたんですか。
大月 中学生のころ。ちょうどその時期に僕みたいな大人の皮をかぶったおばさんみたいなやつが少女漫画を読むというのが出始めるんですよ。七〇年代の半ばですよね。宮台真司だって、あれは少女漫画読みでしょう。いっぺんどこかでトークをやったことがあるんだけど、大島弓子のことを語りたくてしょうがないんです、あいつ。自戒を込めていうけど、男で大島弓子が好きというのはまずい(笑)。ただ、ある時期の大島弓子は確かに神がかってましたから。あれに比べるといまだに萩尾望都は薄いと思っちゃう。なんでだろう、男で少女漫画を読む奴はみんな大島弓子にいっちゃう。ある時期まではほんとにそうだった。
徳永 その当時だともう、男性が一般教養として少女漫画を読む、ということはひとつのモードとして確立されていたんでしょうか。
大月 いやいや。最初は漫画好きの女の子に薦められて読み出したし、『平凡パンチ』なんかの裸が載っている雑誌を買うより、『マーガレット』を買う方がよっぽど恥ずかしかったですよ。
日比野 大月さんの中では、漫画を読むということと演劇とはあまり繫がっていない感じなんですか。
大月 そういうふうに考えたことは今の今までなかったけど、同じ人間のやることだから、関係なくはなかったんでしょうね。『ぱふ』の編集部にも出入りしてましたもん。「会ったことない」って、竹熊[健太郎]なんかに怒られてたけど、確かに何回か西新宿の編集部に行った。だからそういう「漫画読み」のハシリですよね。
柾木 まだふゅーじょんぷろだくとと分かれる[一九八一年頃]前の?
大月 全然前の話です。これはでも、たとえば洋楽趣味とも地続きの話でね。七〇年代前半の女の洋楽ファンのある部分は少女漫画読みだったんですよ。たとえばディープパープルのファンクラブを仕切ってた竹田やよい。彼女はまだ描いてるでしょ。それから柴門ふみ。ケン吉という名前で初期の「ぱふ」に描いていた。それが『島耕作』[を書いた弘兼憲史]にひっかかっちゃうわけ。少女漫画、洋楽。彼女も徳島の田舎者だしね。野田秀樹も少女漫画読みだったと俺は確信を持ってるけど、そういう感覚にシンクロするような新しいお客さんが八〇年代の始めにあるかたまりとしてマーケットに登場する。『宇宙戦艦ヤマト』の夏休み特集に高校生がいっぱい並んだりして、アニメが大きいお友達のものになり始めたのと同じころですね。
日比野 そこで同じように少女漫画読みであった大月さんと、野田秀樹たちを分けていたものはなんだったんでしょう。
大月 それは、俺の方が性格が悪かったし。田舎者かどうか。それからさっきもいったように少し上の人たちとシンクロしちゃっていたってことはあるんだろうと思います。
日比野 田舎者とおっしゃいますが、大月さんの地元・神戸はモダンな町ですよね。
大月 そうでしょうね。亡くなった親父の本籍地が神戸なんですよ。祖父は尼崎で軍需で鉄工所をやっていて、いい暮らしをしてたみたい。結局戦争でダメになってしまったんですけど。で、俺を育ててくれた母っていうのは実は叔母さんなんです。昔はよくあったじゃないですか。兄弟に子どもがいないから、一人くれ、みたいな感じで。だから僕も小さいころから神戸にいたし、個人的な思い入れもあります。それこそ野坂昭如さんが書く昔の神戸の町は、すごく分かる気もするし。ただ、モダンかどうかというのは後づけで勉強することであって、そんなに恵まれていた記憶はない。
日比野 早稲田に行けば、それこそ大橋宏さんのような人がいて、それなりの文化的な格差を感じることもあった?
大月 それはもうハッキリとありました。こっちは田舎の公立高校出身ですから。
徳永 その、野田さんたちと大月さんとを分ける線に音楽は関係していますか。野田さんは『長崎は今日も雨だった』をカーテンコールで流したり、最近でも尾藤イサオさんの『剣の舞』を使ったことがありますし、昭和歌謡をよく取り入れる印象があります。つまり、大月さんがブルースで、野田さんたちはポップスというか歌謡曲、という志向性の違いも、両者の感覚を分けたのかなと思うんですが。
大月 あいつの生活体験の中の昭和はその程度ってことじゃないですか。そういう音楽の使い方、流行歌との距離の取り方は、つかさんがうまかったよね。昔「特権的効果論」って原稿で書いたこともあるんだけど、つかさんはやっぱり、それまでとは違ってた。
日比野 でも小劇場演劇で最初に歌謡曲を使ったのは、鈴木忠志だった。
大月 もちろんそうでしょう。いわゆる異化効果としてね。ただ、つかさんの場合はもっと時代に即したかたちでそれをやっていたんですよ。だからハマるとものすごい効果があった。だけど、お笑いも漫画も音楽もすでに一般教養になっていた時代だから、多少の濃淡はあっても、みんながそれを享受していたわけで。どういう触媒を通して、どんなふうにフュージョンして、それがアウトプットされるかは、人それぞれとしか言いようがない。
日比野 大月さんの場合は「関西」という変数もあったんじゃないですか。
大月 あると思いますね。いまだに上田正樹や近藤房之介が好きだし、吾妻さんもYoutubeなんかで見て、かっこいいなと思うしね。

幽体離脱 早稲田興行の活動と胸の内


日比野 早稲田興行の活動の話に戻りますと、大月さんは早稲田を卒業されたあと、成城大学の修士課程に進まれます。その時にはもう、民俗学を専攻しようという意志がはっきりとあったんでしょうか。
大月 半々ですよ。というか、あまり深くは考えてなかった。もともと歴史をやりたいという気持ちはなんとなくあって、たまたまつきたかった先生[野口武徳]が成城だったので、受けたら通っちゃったという。だから、三十歳くらいまでやってみて、食っていくメドがつくかどうか、そのときまでには何か考えておかないと、と思っていた。僕、精神科で看護師をずっとやってたんですよ。一九歳から八年間。そのバイトで稼いで大学に行き、芝居もやり、という無茶を二十代半ばすぎまでやっていたことになります。
日比野 大学院に行くときに芝居をやめるという選択肢はなかったんですか。
大月 かけらもなかった。まだ続けられるかなと思って。だから、進学することが続けるための方便になっていたところもあったのかもしれないです。
日比野 むしろ修士になってからの方が、本格的な活動をされています。
大月 結局そうですね。学部生のときよりも自由度があがるから。
日比野 周りの役者はどういうかたちでついてきていたんですか。
大月 うちの連中はみんな中退です。卒業したのもいるけど、主な役者は。今は商業演劇に出てるやつもいますしね。だから「なんかこれで食うしかないよな」みたいなことはそれぞれに思ってたんだけど思いますけどね。
日比野 大月さんの方で「俺についてこい」みたいな感じで焚き付けたというようなことは?
大月 はっきりそう言った記憶はないけど、そういうふうに見てくれてたんでしょうね。今にして思えば、彼らなりの充実感はあったんだろうと思うし。
日比野 ライターの山中伊知郎さんも出てらっしゃいましたよね。
大月 あれはひどい男です(笑)。劇研から一緒で、うちでは制作もやってた。司法試験に行き詰まって劇研にきて、年は僕らより五つくらい上で、昔から丸坊主で。いしかわじゅんさんのまわりで一時期うろうろしていて、かみさんがいないからって何かで募集して、それで結婚したとか。そういう話はちらほら聞いています。昔からアナーキーでパンクなんですよ。変わってないもん。
日比野 当時の大月さんとしては、芝居と大学院と、どっちがメインでどっちがサブみたいなことは考えていなかった?
大月 うん。あまり考えないようにしていたのかもしれない。
日比野 でもその一方で、自ら代表作とおっしゃる作品はこの時期にできる。だから頭では逃げることを考えてはいたけれど、身体はまだ逃げていなかったという……。
大月 そういうことでしょうね。ただやっぱり回数を重ねると、情報誌とか新聞とかを通じて、それなりの評価は出てきますよね。だから、よくも悪くも「このままいっても、おそらく……」というのは、みんな感じ始めていたと思う。
日比野 早稲田の劇研との付き合いは続いていたんですか。
大月 大橋さんたちも新機劇の連中も、こっちの芝居は観にこないよね。中には来てくれるやつもいたけど、外に出ちゃうともう視界に入らなくなるんだろうと思う。つまり、劇研的世界から見る芝居とは違うところにスピンアウトしたんだというふうに見られてたんじゃないかな。
日比野 それでも、自分なりの演劇が正義であるという確信はお持ちだったんですよね。
大月 いや、正しいかどうかなんて分からない。仲間意識の中の共同性でずっとやっていける人は幸せだとも思うしね。学問でもなんでも。ただ、僕は後悔もしてないし、しょうがないよなというだけで。
日比野 俺は俺で勝手にやるから、売れている奴らも含めて、ほかの奴らも好きなことをやってればいいよ、という感じだったんですか。それとも、最終的には俺が考えているような方向の演劇に変わっていくんだから、みたいな状況意識をお持ちだったのか。
大月 どうだろう。自分たちが正しいとは思わないけど、なんでもっと分かってくれる人が増えないんだろうとは思ってましたよね。表現なんてなんでもそうだろうと思うけど。
日比野 この時代の大月さんがお書きになっていた早稲田興行通信なんかを読むと、非常に透徹した意識で当時の演劇状況を捉えていらっしゃいますよね。
大月 かわいげないよね、やっぱりね。幽体離脱じゃないけど、自分で読んでても思うもん、「こんなこと考えてたんだ」とかって。
日比野 ただ、恨み節的なところはないですね。
大月 それを言うのはみっともない、という美意識もありますしね。
日比野 でも八〇年代演劇全体に対する違和感はあった?
大月 それはありました。別に芝居だけじゃなくてね。たとえば、福田和也や宮崎哲弥に対する違和感。それは年齢とかじゃなくて、さっき言った、野田の芝居を観た時に感じた違和感とも通底しているような気がします。
日比野 なんでもスイスイとうまく泳ぎ抜いてしまうような、水の中でも抵抗がない人たちというか……。
大月 はじめから超伝導、みたいなね。世代的にはそっちが主流になっていく時代に行き合ってしまったんだけど、自分はたまたま大学から東京に来て、少し年上の人たちのカルチャーとシンクロしていた面があって。それでちょっとズレているんじゃないかな、とある時期から思うようにはなりました。
鈴木 八〇年代演劇と呼ばれるものにかかわっていた人たちは、演劇論を書かないんですよね。本を出しても、エッセーか演技論くらい。だから、大月さんのような俯瞰した視線で鈴木忠志のような前世代との繫がりも踏まえて何かを書く、ということ自体が珍しかったのではないかと思います。
大月 俯瞰してたらプレイはできないんですよ。野球でもなんでもね。
日比野 そういう両眼的な思考があってこその大月さんだったとは思いますが。
大月 まぁでも、見えない方が楽なんだよね。鈍いとかそういう意味じゃなくて、世間並みの感覚を持っていることの幸せって、やっぱりあると思うんです。普通の人は平気な状況でも、変なところで俺はダメージを受けているんだろうとも思います。
日比野 そういう敏感さを持ちつつ、少なくとも八〇年代の半ば[一九八五年]までは現役の演劇人だったということに、僕は興味を持ちますけど。
大月 役者たちはその後も別の劇団をやったりしてたんです。さざなみが中心になって、G-BOXという劇団をつくって。観に行くと「またやらないの?」なんてかまをかけられたりもしたけど、俺はもう、わざと聞こえないふりをしていたんですけどね。このへんは正直、再起動する自信も目算も持てなくなってたってのはありますね。ひとりでできる表現じゃなくて、それもいろいろしちめんどくさい人間関係をやりくりしながら本チャンという生の一発勝負をしてゆく、ってのは考えたら、そうそう気楽にできるようなもんじゃないですよね、ましてある程度トシ喰って分別だか何だかうっかりできちまったりすると。こっちがヘタに大学なんかに身を置いちまったりした分、そういう信頼関係というか人間関係をもう一度別の形で構築してゆかなきゃならないわけですし。と言って、他の人の書いたホンを偉そうに演出する演出家でござい、と言い張れるほど厚かましくもないですし、何より演出の才能、俺にはないな、と思い知ってますから。

アート化する小劇場、生き延びる新劇的技術と伝統


日比野 これは同時代の体験、というよりも、現在の、評論家としての大月さんにお聞きしたいんですが、さきほども話に出た吉見俊哉、それから東浩紀もそうですが、どうしてああいう評論家の中には演劇をやめた人が多いのか。
大月 東もそうなんだ。
日比野 東大のBISHOPという劇団の出身。ちなみに私がやっていた劇団(劇団イェルサレム。のちシアターマーキュリーと改名)の同期は、ほとんどが大学の教員になりました。
大月 編集者やなんかでも、小劇場演劇の周りにいたという話は、ある時期「あれっ?」というくらい聞きましたね。だから出版とかメディアとか、そういうところに行った奴まで含めれば、結構な濃度なのかもしれない。
日比野 そのいちばん単純な説明は食っていけなかったからやめてそっちに行った、ってことなんでしょうけど、そこでやっぱり演劇という表現の限界を見てしまったのかなという気もしていて。
大月 でも本当に役者をバリバリやっていたというような奴はそこまでいませんよね。その場のどこかに加わっているという感じで。
日比野 東浩紀を最後の世代として、今マスコミに出ている若手の評論家とか、そういう人たちと演劇の関係はもう切れている。別の言い方をするとそれは、演劇というものが一つの教養であり、若者文化であった時代が終わってしまったということでもあるんですが。
大月 そうなんでしょうね。少し前にNHK教育テレビの番組で、長塚圭史のインタビューをしたことがあって。全然予備知識もなしで、いろいろ話を聞いたんだけど、芝居に対する感覚がもう、違っちゃっているんですよ。もう完璧にアートになっちゃってる。
 だからアート番組というか、『美術手帖』みたいな感じで小劇場が紹介されるのが、もう普通なんですよ。われわれのころはアートなんかじゃないもん。よくも悪くも「恥ずかしいよね、アート」みたいな感じ。
日比野 確かにわれわれの時代[一九八〇年代]まではまだ、生き方だったんですよね。
大月 そう。いいか悪いかは分からないけどね。ただ、関西はちょっと状況が違ったんだろうとは思う。京都という学生街があったから、そこである程度囲われて、幸せにやっていける部分があったし。劇団☆新感線なんて、あれだけ時代がズレているのに可能だったというのは、「幸せなんだな、こいつら」と思った記憶がある。東京はもうPARCO的なもので焼け野原になってたもん。そとばこまちもそうだよね。あの生瀬[勝久]くんというのは、俺が高校のときにやってたバンドのドラムの弟なんです。確か宝塚の市会議員の息子で。ともかく、関西の小劇場というのは、八〇年代的な匂いをだいぶ後まで引きずってた。初めて新感線を劇場で観た時にはもう九〇年代になってたけど、すごく懐かしい感じがしたもん。あと、南河内万歳一座とかね。彼らが初上京したときに東芸劇場だったかな、何か手伝ったような記憶が今話しててよみがえった(笑)。
日比野 南河内万歳一座ってよくも悪くもアングラの匂いを宿していましたよね。
大月 アングラ的なるものが、たとえ形だけでも関西の方には残れたみたいですね。風の旅団とか、昔の映像を観ると目眩がしますよ。
中野 九〇年代に出てきた松尾スズキや三谷幸喜についてはどう思われますか。
大月 松尾スズキは俺、『VIEWS』の劇評を書いたときには評価していたと思います。まだそんなに売れる前でしたけど。三谷は映画とか、ましてや[NHKテレビの]大河[ドラマ]なんてやっちゃいけない。舞台をやらせた方がいい。それなら平和利用できる才能なのに、と思っています。『十二人の優しい日本人』は確かによかったし。
 だけど皮肉なものですよね。小劇場ブームっていうのは、アングラの流れから出てきて、あれだけ盛り上がったのにもかかわらず、結局『あまちゃん』なんかもそうだったけど、あそこで支えた役者って小劇場のそこで支えていた役者さんたちって、結局ある時期までの小劇場シーンで言えば、決して主流というか脚光浴び続けてきた流れから出てきた人たちってわけでもなかったじゃないですか。さっき言ったように当時バカにされていた「新劇」的な芝居、それは舞台そのものだけでなく演技やそれを支える方法論みたいなものも含めて、いわゆる当時の小劇場的なトンガったものとは違う、良くも悪くも伝統的な保守的な「お芝居」「演劇」の枠組みを守ってきたあたりからきっちり経験を積んで、テレビその他の大きなメディアのニーズにビジネスとして応えられるプレゼンスを技術と共に身につけてきた、どっちかと言えばそういう役者さんたちだったって印象が強いんですよね。渡辺えり子や木野花にしても、こちら目線からすると当時の小劇場シーンのストライクゾーンにいたともちょっと言い難いし。俺なんかも含めた当時の人たちが、馬鹿にしていたような新劇ベースの流れの中で技術を磨いた奴が結局仕事をしてるっていうのは、反省すべきことだなと思いますね。花組芝居だってそうでしょう。劇評書いてたときに俺、ベタ褒めしたもん。見事なものだと思った。あれは江古田の日芸出身ですよね。あの連中の芝居、ミュージカルなんかも、早稲田的には全然視野に入ってこなかった。馬鹿にしていたわけですよ。でも、アリとキリギリスじゃないけど、あっちが勝ちですよ。
日比野 大月さんにしても、知識や技術、伝統といったものへの志向は、最初から持っていたわけじゃなかったということですね。
大月 あまり意識してはいませんでしたね。だけどやっぱり、はちゃめちゃやってるだけで続くわけないじゃないですか。当たるときは当たるかもしれないけど、いざスランプになったときに、どうやって打っていたのかっていう方法意識がなきゃ戻れないでしょう。みんながみんな長島[茂雄]じゃないんだから。そこで今おっしゃったような、伝統とかある種の型、それを可能にする技術にぶち当たるんだろうと思います。でも、やってた当時は若気の至りで、あまりそういう意識はなかったと思いますね。
日比野 でもたとえば吉本新喜劇と松竹新喜劇を対比して、吉本にある一種のインタープレイに関心を持ってもおられましたよね。
大月 ですね。当時の吉本はまさに体ですからね。で、松竹はお話。どっちも好きだったんですけどね。インタープレイというのもやり続ければもちろん訓練になるんでしょうけど、それとは別の現前性を持っているものじゃないですか。
日比野 むしろそちらの方を信じていた?
大月 でしょうね。初期の状況劇場だってそうだと思います。唐さんはいろいろ理屈を言ってたけど、要はそれが楽しくて、「これが面白いものなんだ」と思ってやってたと思う。ジャズだって同じだと思います。そういうものに価値を見出すような状況が当時はあったということです。