安倍寧聞き書き


取材日時:二〇一四年八月十九日
取材場所:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ事務所(泉ガーデンタワー三十階)
取材者:神山彰・日比野啓・中野正昭・鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
監修:安倍寧

イントロダクション


 今回のインタヴューを引きうけてくださった安倍寧氏の名前と顔は、一定世代以上のテレビ少年だった人々にとっては、直ちに目に浮かぶはずである。肩書としては、「音楽評論家」が一般的であろうが、これまでの業績や守備範囲からすると、到底それに収まるものではない。「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」という本企画の趣旨からいっても、安倍氏のような広範な分野で活躍された方は、正に願ってもない最適な存在ということができる。
 まず、音楽と演劇との関連でいえば、ミュージカルをあげなくてはならない。二十一世紀の現在でこそ、ミュージカルは大劇場の殆どの公演を占める大きなジャンルだが、一九六〇年代はじめまでは、それは戦前からの音楽入り喜劇という感じで受けとめられていた。
 ブロードウェイ・ミュージカルが日本で紹介され、安倍氏もその現場に接する、その時代の濃密な思い出は安倍氏の著書『ショウ・ビジネスに恋して』(角川書店)に詳しく語られているが、改めて、このインタヴューでも伺うと、まだ私が小学生だったその頃の背景にある当時の東京の街並みや人の気配がひしひしと感じられるようだった。
 二つ目に、劇団四季との関係である。その創設メンバーの一人であり、主宰者でもあった浅利慶太とは、慶應義塾大学入学時以来の交友があり、日生劇場開場(一九六三年)にも深く関わった。日生劇場開場前後については、公式記録以外にも、浅利慶太、石原慎太郎がそれぞれの立場から、興味深い挿話を含めて、回想を残している。しかし、安倍氏も含めて、驚くのはその当時の彼らの若さである。まだ、二十歳代の彼らが、老練の実業家、政治家を動かし、文化運動を立ち上げ、動かしてゆく力量は、その後の世代から失われてしまったように思える。
 そのことと関わる三つ目の特徴は、ある時期まで、芸術の世界で、パトロンとして大きな役割を果たしたにもかかわらず、一般に演劇人が交流を持たないことが誇りであり、あるいは交流を持つことを憚り、拒否しなければいけないことが前提であったような財界人とも、安倍氏が面識だけでなく、交流があることである。そのことにより、その回想は、演劇人によくある仲間内だけで通じる思い出話でなく、意外な人脈の面白さというだけでない、開かれた世界への広がりを持ち、ある時代の濃密な記憶を促し、その時代の精彩を放ち、陰影も深くなる。
 更に、安倍氏のインタヴューの貴重さの四つ目は、演出家に比べて、あるいはそれ以上に大きな功績があり、力量も必要である「プロデューサー」の役割について言及してくださったことである。安倍氏自身がその役割を担ったこともあるからだが、当時はその世界ではある程度著名ではあっても、時代の推移とともに忘れられてしまう、「プロデューサー」やあるいは、いわゆる「呼び屋」のような人々にまで、言及されてくださったことは、実に嬉しく、重要であった。演劇だけでなく、当然ながら、音楽、美術等々の文化現象や異文化受容には、必ず、芸術家、演者だけでなく、いわば「文化的仲介者」が存在し、重要な役割を担っている。だが、そういう、表にでることのない、「作品」や「業績」として発表されるとあたかも、「自立」した存在のように扱われ、後景に退いてしまう、多くの、しかし、極めて意義のある「文化的仲介者」の役割について、安倍氏は、彼らの存在を実に生動感ある語り口で語ってくださった。それが、演劇でいえば、吉田史子(ふみこ)、演芸でいえば湯浅喜久治(きくじ)というような人たちである。現在では伝説化して、知る人ぞ知るという存在になっているが、リアルタイムで当時を知る人々にとっては、その名を逸して、あるジャンルを語るなどということがあり得ないほどの大きな位置を占めていたことが安倍氏の直話から実感できた。その周辺やそこから派生する奇妙で意想外な人脈の面白さも格別だった。
 安倍氏は、一九三三年(昭和八)の生まれだから、丁度、教育制度が旧制から新制に入れ替わる時代に、青春の時期に差し掛かった世代である。戦後の駿才が集まる、まだ旧府立一中の名残をとどめた、都立日比谷高校に入学した。そこでは、江藤淳とも同期で、戦後間もない時期の『三田文学』の人々の貴重な証言者でもある。早逝した山川方夫の回想を綴った「「ボン」時代の思い出」(『山川方夫全集』第七巻・筑摩書房)などは、渋谷にあった酒場とそこに集った人々の思い出を記した一文だが、戦後間もない時代の東京の街並みが目に浮かぶようなエッセイである。そこからも想到できる記憶力の確かさと、仕事や交遊での人脈の広さとは、その多くの著書や今回のインタヴューでも伺うことができる。
 このインタヴューでは、高校の同級生が文学座アトリエ会員になっていたことから始まり、一九五〇年代までだけでも占領下のジャズ関係者たちの米軍キャンプ巡りの話、その頃の新劇ブームの時代、劇団四季や劇場の思い出、そして初期テレビの周辺の人々等々にいたるまで、話題も人物も多岐にわたり、時間が経つのが早く感じられた。もちろん、話題は一九六〇年代以降にも及んでいるが、正に、安倍氏が、音楽、演劇に限定することなく、戦後文化史全般に渡る、貴重な証人であることが実感された。
 安倍氏の同世代までの他の方々に話を伺って共通して感じることだが、生地、環境、友人関係等々の違いがあっても、演劇が、一人の人間が成長するうえでの「通過儀礼」であるかのように、深く鮮やかな思い出として、少年期、青年期の記憶に色濃く刻まれていることが痛感される。演劇というより芝居の思い出は、その芝居や劇場にいろいろな性質の違いがあっても、その人の肉感的な思い出として、それぞれの成長や人格形成と分かちがたく結びついている。
 これは、安倍氏をはじめとする今回の企画の対象の方々が、演劇や周辺ジャンルの世界を生業とするからというだけではないと思う。演劇が、戦後のある時期までは、映画がそういう役割を果たしたように、正に、生活感情や青春の回想の一部なのだ。芝居のことを話そうとするのでなく、青春の一時期を回想することが自ずと芝居の思い出に導かれる。そういう幸福な時代は、どうやって、いつ頃から失われてしまったのだろうか。
 確かに、ある時期から、演劇を語ることは、「幸福」と結託してはいけないので、そんな感情を批判的、否定的に語るのが「本質」であり、それが「純粋」「真剣」であるかのようになってしまった。演劇は豊かでも、幸福でもいけないかのように。
 しかし、安倍氏の声を聴いているときも、その声を反復しつつ、原稿を見直しているときも、演劇を語ることが「幸福感」に繋がる時代を感じた。演劇を幸福に語ること、幸福という語彙と演劇が繋がること――それを改めて考え、実感できるのも、私にとっては、この一連のインタヴューを行う大いなる歓びなのである。
 なお、安倍氏は現在も「安倍寧オフィシャルブログ 好奇心をポケットに入れて」(http://ameblo.jp/abe-yasushi/)を公開し、頻繁に更新中であることも申し添えておきたい。(神山 彰)

新聞劇評の時代


神山 今日は昭和三十年代から四十年代くらいまでのお話をお伺いしたいと思っています。まずは戦後すぐの、最初の演劇的な記憶をお聞かせいただけますか。
安倍 昭和二十五年(一九五〇)だと思いますが、文学座のアトリエ公演です。なぜ観に行ったかというと、高校の同級生でアトリエ会員になっていたやつがいて、その話を学校でしていた。彼が観たのは芝居じゃなく、芥川比呂志さんの詩の朗読でしたけど。中原中也の『お道化うた』という有名な詩で、「ベートーヹンか、シューバート? 俺の記憶の錯覚が、今夜とちれてゐるけれど、ベトちやんだとは思ふけど、シュバちやんではなかつたらうか?」というのがあって。それを芥川龍之介の息子、すなわち芥川比呂志が朗読したのを真似してみせたのが面白かった。それで興味を持って、僕も会員になって観に行ったんです。当時のアトリエ公演は、会員制度で一般の人には切符を売っていなかったんですよね。
 最初に観たのは、二本立てで、その一つは福田恆存の『堅塁奪取』(五〇年一一月二三日大阪・毎日会館での初演時は加藤和夫・高原駿男・福田妙子)。稲垣昭三が出ていたかな。それから小池朝雄。内容は忘れてしまったけど、二人の男の「掛け合い漫才」みたいなものでした。もう一本は三島由紀夫『邯鄲(かんたん)』。これも面白かった。もちろん当時の僕は能なんてものもほとんど知りませんでしたが、「邯鄲の夢」という故事をこんなふうに換骨奪胎しているのか、ということを目の当たりにして、勉強にもなりました。確か、お金持ちのお大尽が出てくるんだけど、その執事が「うちのだんな様は都新聞の芸妓欄をお読みになって」というんです。僕は当時から東京新聞の夕刊を読んでいたから、そこで言われてる都新聞が國民新聞と一緒になって東京新聞になったことも知っていて、すぐにそれがピンときて面白かった。東京新聞というのは昭和二十年代から、当時の芸能界をリードするような新聞だったんですね。芸能欄は夕刊の三分の二か半ページくらいだけど。
神山 そのころはもう、伊藤寿二(ひさじ)なんかが書いていた?
安倍 そうそう。伊藤さんは活躍していた。通称は寿二(じゅうじ)。舞台装置をやっていた伊藤寿一さんというお兄さんもいました。安藤鶴夫さんはまだ書かれていたかな。だいたい昭和二十年代の半ばから後半ですから、歌舞伎や商業演劇の批評が安藤さんから戸板康二さんに変わったか変わらないかというころです。新劇はもちろん尾崎宏次さん。尾崎さんも安藤さんも都新聞以来の記者だった。それから民藝の日色ともゑのお父さんの日色恵。この人は後に文化部長までやったんじゃないかな。ともかく、そういう書き手がいっぱいいたんですよ。須田栄が書いていたコラム『千夜一夜』も面白かった。僕は後に伊藤寿二さんと親しくなって、ずいぶん原稿を書かせてもらった。そういうこともあって、『邯鄲』を観たことと、東京新聞を読んでいたこと、その芸能欄が面白かったこととが、自分の中で繫がっているんです。
神山 なるほど。そういう感覚は、十代の記憶をたどるとよくありますね。
安倍 記者の流れで言うと、やはり東京新聞で、バレエ評と、尾崎さんの後に新劇評を書いていたのが中川鋭之助。画家の中川一政の長男で、通称鋭ちゃんといって、スレンダーな好青年でした。彼は早稲田大学の学生だったときに、服部・島田バレエ団にいたので、踊れたんです。それで舞踊評をやっていた。東京新聞は今でも全国舞踊コンクールをやっていますが、そういうこともあって、舞踊評に非常に力を入れていた。この人は後に浅利慶太に引っ張られて、劇団四季の役員を務めたこともありました。僕は若いのにいろいろ読み比べたりして、「尾崎さんに比べると(鋭)の批評は甘いな」なんて思っていましたけど。鋭ちゃんの前は、文化部の記者で江口博という人が舞踊評のトップだった。だから私が東京新聞を読み出したころは、舞踊は江口博、新劇は尾崎宏次、歌舞伎は安藤鶴夫から戸板康二へ変わるころ。宝塚とか新派とかそういうものを書くのが伊藤寿二。寿二さんは長身で苦みばしったいい男でした。
神山 昭和四十年代まではだいたいその顔触れですよ。
安倍 伊藤さんには息子がいて、東宝の演劇部門の取締役になったんだけど若くして亡くなってしまって。
神山 伊藤厚さんのことですか。
安倍 そうです。彼が生きていれば、お父さんの話もまだ聞けたはずですが……。寿二さんは、市川染五郎(現・松本幸四郎)がブロードウェイで『ラ・マンチャの男』(一九七〇年)に主演した時、その舞台を観ていた唯一のジャーナリストじゃないかな。なかなかの人だったから、亡くなったときには青山斎場で盛大な葬式がありました。今の芸能記者ではそんなことはないですね。宝塚の大スターや有名女優、歌手がずいぶん参列していた。今でも覚えているのは、加茂さくらが、誰かに「伊藤さんは派手なことを喜ぶから、派手な格好をしてきてくれと言われた」と、華やかな格好で来てみたら、みんなが喪服を着ていて、「私だけ恥かいちゃった」って、ぶうぶう怒ってたこと(笑)。
 そういうわけで東京新聞は芸能界のリーダーシップをとっていたし、個人的にも思い出がある。また、その中心にいたのが看板記者でもあった伊藤寿二さんだったわけです。江利チエミの結婚も、美空ひばりの結婚もスクープしたのは伊藤さんでした。当時は(寿)という署名だったかな。(伊)だったかな。東京新聞よりも伊藤さん個人が有名なくらいで、SKD[松竹歌劇団]の楽屋では「伊藤新聞の東京さん」と呼ばれてました。NDT[日劇ダンシングチーム]の踊り子も「伊藤新聞」と言ってましたね。芸能ジャーナリズムのトップを走る東京新聞、都新聞の伝統を引き継ぐ東京新聞にもかかわらず、それを看板にしない、威張らない人でした。東京新聞には由原木七郎という漫画と記事と両方こなす人がいて、この人の芸能コラムも印象に残っています。
神山 昭和二十年代には、アサヒ芸能新聞なんて、小さな新聞も沢山出ていましたよね。
安倍 後の週刊アサヒ芸能ですね。あれは初めのうちは芸能専門の週刊新聞で、なかなか面白かった。映画雑誌の話になりますが、当時は世界映画社が「映画之友」と「映画ファン」、近代映画社が「スクリーン」と「近代映画」を出していて、二社がライバル関係にありました。「映画之友」と「スクリーン」が洋画専門、「映画ファン」と「近代映画」が邦画専門でした。この四誌は邦画、洋画のどちらの世界においても非常に権威がありました。もちろん一般読者も沢山いました。
神山 それこそ双葉十三郎が書いたりしていましたね。僕も読んでいました。
安倍 常連では、双葉さん、淀川(長治)さん、清水千代太さん、清水晶さん、清水俊二さん、野口久光さんがいました。植草甚一さんも忘れちゃいけない。
神山 当時の演劇の書き手で、日下令光(ひのしたれいこう)さんというのも新聞記者ですか。
安倍 毎日新聞の人です。吉田奈保美という、黒柳徹子のマネージャーをしていた人と結婚した。奈保美さんは、演歌師みたいな芸人で石田一松という人がいたでしょう、彼が国会議員になった時にその秘書をしていた。多分、一松の関係で芸能界にかかわるようになった。田村町の辺り、今の西新橋の裏手の小さな木造の建物に事務所がありました。僕は最初共同通信の和田秀夫さんという記者に連れていかれました。当時は俳優の有島一郎や漫才師からコメディアンに転向した南道郎のマネジメントをしてました。いろいろな人をやっていて、大阪から東京へ出てきた森光子も、菊田さんが吉田奈保美に預けたんです。
神山 当時の演劇ジャーナリズムの影響力は、今とは比較にならないくらい大きかった。
安倍 ええ。とりわけ芸能界の幕内に影響力があったし、僕みたいなファンにとっても重要な情報源でした。例えば内外タイムスに橋本与志夫さんという記者がいました。この人は後に『日劇レビュー史』という名著を残した。日劇のすべての公演の記録と寸評が載っていて、あの本があるから当時のことがよく分かる。内外タイムスという新聞も、いろいろな際どい記事を売りにしてはいたけれど、東京新聞と匹敵するくらい芸能面では充実していたし、スクープも多かった。そこで新劇を担当していた与倉透が、後に神山先生の同僚になる。
神山 そうです。国立の演芸場に来て。
安倍 それから、アンダーグラウンド演劇では石崎勝久がいました。蜷川幸雄が出てきたときに、非常に応援したジャーナリストです。彼はストリップにも強かった。
神山 産経新聞の佐貫さんは覚えていらっしゃいます?
安倍 佐貫百合人(さぬきゆりんど)も知っています。新劇に強かった。新劇人の溜り場だった新橋の飲み屋の「蟻屋」について書いた『蟻屋物語』は名著です。内外タイムスには映画では斎藤正治がいて、大島渚たち松竹ヌーベルバーグを応援していた。非常にいい記者がいっぱいそろっていましたね。

昭和二十年代に帝劇で見た風景


神山 さきほど、お話に出た東京新聞のジャーナリストが活躍していた時代、昭和二十年代の後半から三十年代ぐらいにかけて、秦豊吉(当時の東宝社長)の帝劇ミュージカルスが出てきますが、これはご覧になっていますか。
安倍 その辺りは記憶が曖昧です。ただ『モルガンお雪』(一九五一年[昭和二六])は明確に覚えています。文学座アトリエに通っていたののほかにも、日劇のファンという同級生が二、三人いて。その中に有名な振付家で当時まだ踊っていた益田隆と知り合いというのがいたんです。それで『モルガンお雪』という芝居に益田隆が出ている、楽屋を訪ねればただで見せてもらえるぞというので、連れていってもらった。二回行ったと思います。そのうち一回は舞台袖で観ました。益田は秦豊吉の一、二の子分ですし、帝都座の額縁ショーなんかにも絡んでいました。多分座内でも顏が利いたんでしょう「この坊やをちょっと横で観させておいてあげてよ」くらいのことを言ってくれたのかもしれません。じゃなきゃ、追い出されちゃうもん。洋舞の振付は全部益田さんで、日本舞踊は花柳かつら。ヌードダンサーがたくさん出ていて、パール・濱田というダンサーと舞台脇で話しました。昭和二六年の二月です。
神山 当時はまだ占領下でしたから、アーニー・パイル[劇場。一九四五—一九五五年の米国占領下、GHQに接収された時期の東京宝塚劇場の名称]は、やっぱり入れないんですよね。
安倍 ええ。だから残念ながら行ったことがない。
神山 千田是也の兄の伊藤道郎なんかが活躍していたでしょう。
安倍 風の便りには聞こえてくるんです。ちょっと後にベティ・ハットン主演の『アニーよ銃をとれ』(一九五〇年)という映画が封切られますね。ベティ・ハットンはアーニー・パイルでワンマンショーをやっているんです[一九五二年三月]。もちろん、それも米軍の慰問ですよ。そういうものを観ていたらなあと今更ながら思います。
神山 宝塚歌劇も帝国劇場でやっていたころですね。
安倍 帝劇の戦後は、それこそ復興をするんだというんで、久保田万太郎の『銀座復興』(一九四五年十月)から始まって、いろんなことをやっていました。
日比野 バレエはご覧になっていましたか。
安倍 バレエも観ました。ただ、これも僕がレビュー好きだという観点から観に行ってたこともあって、当時やっていたはずの、小牧バレエ団、貝谷八百子バレエ団、谷桃子バレエ団なんかは、観ていないんです。
 当時、益田隆と並ぶ存在に[ダン・ヤダ・ダンサーズを主宰していた]矢田茂という人がいました。これは小牧さんのところをやめた人たちが東京バレエ・グループをつくったり、服部・島田をやめて青年バレエができたりした時期だから昭和二十年代後半になるけど、小牧脱退組の東京バレエ・グループの旗揚げ公演で、ジェローム・ロビンスの有名な作品『ファンシー・フリー』をアダプトしたものを観た記憶があります。そこに確か矢田さんも絡んでいたと思います。矢田さんは帝劇の中にスタジオを持っていて、それこそ僕が益田さんのつてをたどって帝劇ミュージカルスを観に行ったときにも、稽古している姿を見かけました。廊下側にガラスの窓があって、通りながらのぞけたんです。男子を教えていたんだけど、当時はタイツなんかなかったのかな。皆、海水パンツを履いていた。

NDTとレビューの人脈


神山 その頃NDTはご覧になっていましたか。
安倍 観ています。制作側の一番トップは佐谷功(さたにいさお)でした。支配人で演出もやっていた。秦豊吉の弟子でもあった。その下には佐伯譲などもいましたが、新進気鋭はやっぱり県洋二(あがたようじ)だな。越路吹雪なんて、県洋二を抜きにしては存在しえないよ。後に梅田コマ劇場で振付の腕を振るう山田卓もダンサーの一員で踊っていました。
神山 県洋二は、三島由紀夫の公開日記『裸体と衣裳』に出てきます。日劇の稽古を見に行って、県洋二の振付について、ずいぶん細かく書いているんですよね。
安倍 へぇ、そう。知らなかった。県洋二には、越路吹雪がちょっと惚れてたという噂もあったんだよね。それからモダンダンスの指導者の一人で、『舞踊辞典』を編纂した邦正美。邦さんは日劇のレビューも振付けていて、僕もそれを観ています。椅子を使った踊りで、この前、和田誠の『ビギン・ザ・ビギン』を読んでいたら山本紫朗さんの談話の中にでてきて、「あれは芸術的すぎた」と言われていましたが。邦正美とか矢田茂、益田隆、県洋二、後の世代では、山田卓。この人たちの系譜が、日本の戦後のショービジネスには欠かせなかったし、今後も誰かが受け継いでいくべきだと僕は思います。
 越路吹雪主演の『リオの黒バラ』(一九五二年[昭和二七])という作品の一部を、僕は後にSKDのレビューの監修をしたときに再現したことがあるんです。音楽は松井八郎で、構成は県洋二。ラテンだから音楽には、東京キューバンボーイズの見砂直照さんも入っていて、なかなか考えられているんですよ。
神山 舞台美術は三林亮太郎です。
安倍 越路吹雪演じる妖しい雰囲気を持った女がいろんな男と絡んで、カーニバルがあって、最後は別離。一応ストーリーがあるレビュー風のミュージカルなんですが、当時としては斬新でしたね。振付家が筋も踊りも、ドラマの盛り上がりも考えてつくった、そこが革新的でした。もちろん、越路吹雪というスターがいたから叶えられたことなんでしょうが。
神山 日劇の音楽のレベルはどうでしたか。
安倍 決して低くなかった。音楽監督というか指揮者としては、山内匡二、松本四郎の名前があり、お二人とも戦前戦中から日劇に関与されていた。どちらもたぶん、クラシックの素養のある方で、今でいえばポップスオーケストラの指揮者みたいな感じです。僕がよく観ていたころは、後藤博とディキシーランダースというジャズのフルオーケストラが入っていて、相当な水準でした。しっかりジャズが出来てレビューの伴奏としてはもったいないほどです。ですから日劇は、戦中からのセミクラシックと戦後のジャズ、両方の流れをきちんと持っていたんでしょう。
神山 昔は帝劇の洋楽部がありましたから、そこから流れてきた人も何人かはいたらしいですね。以前、瀬川昌久さんの話をラピュタ阿佐ヶ谷で聴いたときに、『銀座の踊り子』(一九五〇年[昭和二五])という映画のワンシーンを観せていただきました。あれは確か日劇の稽古場だと思います。
安倍 僕は観たことがないけど、川本三郎が書いています。フランキー堺の奥さんになる谷さゆりも出ているはずです。
神山 以前、劇団四季のパンフレットの中で、浅利慶太さん、林光さんとの鼎談で、林さんが高校時代に音楽を手がけられた俳優座の『フィガロの結婚』(一九四九年[昭和二四])の話をされていました。演出の青山杉作は浅草の国際劇場でレビューの仕事でも有名です。この時の『フィガロの結婚』はご覧になっていますか。
安倍 観ていないんです。ただ、東京新聞かなにかで、同世代のやつが抜擢されて、大人と一緒に仕事をしているというのを知ってびっくりしたのはよく覚えています。あれは、アメリカ軍の占領政策の一環で、「ピカデリー実験劇場」という名前で上演されたレパートリーの一つです。その中で僕が観たのは一本だけ。田村秋子主演の『ヘッダ・ガブラー』(一九五〇年[昭和二五])です。これは素晴らしかった。そのほかに看板を見て知っているのはスタインベックの原作の『廿日鼠と人間と』(一九五〇年)。尾上九朗右衛門(二代目)が出ていた。それから実験劇場ではなかったけど、ミュージカルの端緒としては中原淳一さんプロデュースの『ファニー』(一九五〇年)も話題になりましたね。シャンソンの高英男が主役で出ていました。

歌入り芝居とミュージカル


神山 日本で初めての本格的な翻訳ミュージカルは『マイ・フェア・レディ』(一九六三年[昭和三八]九月)ですが、それ以前にも、新宿コマのコマミュージカルもありましたし、労音ミュージカルもありました。浅草の国際劇場でも、内村直也が本を書いて、河竹黙阿弥の『島鵆月白浪』という散切り物を、ミュージカルにしたりしているんですよ。昭和三八年ごろです。SKDの磯野千鳥と水原弘で。昭和三十年代になりますと安倍先生も、そういったものをかなりご覧になっていたと思いますが、コマミュージカルというのはどうだったんでしょうか。
安倍 コマというのは結局、小林一三の最後の仕事です。三段の回転するステージを東西に(新宿コマ劇場と梅田コマ劇場、どちらも完成は一九五六年)つくった。ところが劇場機構が先を行き過ぎて、実際にそこで芝居をやるには使い勝手が悪い。それでもなにかやらなくてはならない。前の年(一九五五年)に東宝へ呼ばれた菊田一夫が中身を作ることになった。そういう流れで、新宿コマ劇場のこけら落としは菊田作・演出の『葉室烈人(ハムレット)の恋』(一九五七年[昭和三十二]四月)になったんです。ハムレットはエノケンかな。草笛光子がオフィーリアだった。
神山 コマミュージカルですと江利チエミの『スター誕生』や越路吹雪の『初めまして、ママ』なんかはどうでしょう。印象は薄いのでしょうか。
安倍 作品はともかくチエミは輝いていましたよ。要するに、当時は日本のミュージカルの夜明けでした。なんだか知らないけど「ミュージカル」というものが、アメリカのブロードウェイで盛んになっているらしい、日本でもそれをやろう、というところから始まった。
 その前に、日本人がミュージカルというものに触れることになったのは映画を通してですが、『王様と私』(一九五六年)とか『南太平洋』(一九五八年)みたいに舞台が映画化されるものではなくて、当時は音楽映画という言い方をしましたけれども、音楽家の物語、たとえばガーシュインをテーマにした『アメリカ交響楽』(一九四七年)、コール・ポーターを主人公にした『夜も昼も』(一九四六年)、あるいは『ベニイ・グッドマン物語』(一九五五年)、『グレン・ミラー物語』(一九五五年)、それから私などは後にビデオで見ることになるんだけれども、戦前からあるのは『ジーグフェルド・フォーリーズ』(一九四五年)。日本人はそういうものを通して、なんとなく「ミュージカル」を連想していたわけです。というのも劇中劇で舞台のシーンが出てきますから。
 でも、現実に本場の舞台を観たという人はほとんどいない。だからミュージカルという言葉だけが先行してしまった。もちろん、秦豊吉は外国の情報を集めていたし、ドイツにも長く行っていたし、小林一三の要請でアメリカにも行っているから、ある程度戦前の欧米の事情は分かっていた。でも、そこに映画の光景がオーバラップされて「ミュージカル」のイメージが一人歩きした結果、なんとなく「日本の芸能界、演劇界もミュージカルをやった方がいいんじゃないか」という流れができたんじゃないでしょうか。だから、イメージと言葉はあったけど、実体はなかった。
神山 芝居をやっていると歌が入る、というのが一般的なイメージだったでしょう。
安倍 そうです。必ずしも秦さんや菊田さんを始めとする作り手が単なる「歌入り芝居」をやるという段階でとどまっていたわけではないんだけど、どうしても菊田さんのような浅草出身の人が多かったから。浅草レビュー、浅草オペラの流れを引っ張っちゃって、何か筋があって、音楽が入っている。多分にレビュー的でもあった。筋は日本の古典的なストーリーを借りてきて、たとえば弥次喜多とか。
神山 お軽勘平とかね。
安倍 そうです。ですから『モルガンお雪』で、日本人と外国人との恋物語を劇化しようというアイデアはよかったと思う。秦さんは外国人記者を劇場に呼んで、アメリカの雑誌「バラエティー」に取り上げさせたりもしたしね。日本の新聞だけじゃなくて、外国のプレスにもアピールしようと考える、そこが秦さんのすごいところです。
日比野 秦さん自身も、これは日本独自のミュージカルで、海外の人にもアピールできる内容だというふうに思っていらしたんですね。
安倍 当時はひとつのストーリーがあって、ストーリーの中にドラマがあって、ドラマの発展のために音楽が使われる、あるいは主題歌が使われるというようなことまでは考えなかった、考えようもなかった。というのは、やっぱり彼らの頭の中にあるのはレビューですよ。
日比野 ナンバーとドラマ(物語)が有機的に結びつく「インテグレーテッド(統合)・ミュージカル」という概念そのものが、まだアメリカでも新しかったですから。インテグレーテッド・ミュージカルのひとつの完成形といわれる『オクラホマ!』の初演は一九四三年ですが、戦後になっても、アメリカのブロードウェイでかかるミュージカルでも、物語とナンバーが一体になっているといえる作品はそう多くはなかった。
安倍 それ以前は『ショウボート』くらいかな。
日比野 一九二七年初演の『ショウボート』は例外ですね。「初のインテグレーテッド・ミュージカル」と言われることもありますが、初演版の脚本を読むとそれほど統合されていないことがわかります。
神山 浅草由来のミュージカルというと映画の『エノケンの法界坊』なんかを思い出しますが、先生はエノケンはお好きではないですか。
安倍 そんなことはない。小林信彦や矢野誠一ほど一生懸命追いかけていなかっただけで。大変達者な役者だと思っていましたし。
日比野 安倍先生は日比谷高校のご出身ですが、当時の優秀な学生の間では、戦前からあるものは古くさい、というようなイメージがあったんでしょうか。
安倍 いや、歌舞伎が好きな人も結構いましたしね。
神山 ちなみに同級生には評論家の江藤淳がいますね。
安倍 そうです。本名は江頭淳夫といったんです。文化祭の時に何か作曲をして、講堂でオーケストラを指揮しましたよ。勉強ももちろんできたけど、英語しかやっていなかったし、見るからにシャープで切れるという感じでもなかった。一言で言えば、英語のよくできる高級文学青年。
 今もよく覚えていて、秀才だなと思うのは一つ上の渡邊守章。生まれは二カ月しか違わないんだけど、あれは嫌になるほどの大秀才です。東大教授をやって、今でも京都造形芸術大学で教えているでしょう、難しいことを。あの人のモーリス・ベジャール論とか、読んでも分からない(笑)。でも、今も会えば互いに「やあやあ」という親しい仲です。
神山 松井俊諭さんという府立一中[現・日比谷高校]出身の歌舞伎研究家の方に、後に新橋演舞場の社長から会長になった岡副昭吾さんが文化祭で『修禅寺物語』をやり、守章さんが楓で出ていたと聞きました。
安倍 僕もやはり文化祭の時、講堂で、岡副さんが『切られ与三』をやったのは観ましたね。

浅草レビューから日本のミュージカルへ


神山 『マイ・フェア・レディ』の日本初演の前年(一九六二年[昭和三七])には『ブロードウェイから来た13人の踊り子』という公演もありました。
安倍 『週刊平凡』に解説記事を四ページ書きました。『週刊平凡』は、単なるミーハー向きではなく時代の動きも追いかけていた雑誌だったんですよ。
日比野 そのとき、菊田一夫にトイレで会ったとお書きになられていました。
神山 そのころの菊田さんはまだ若いでしょう。
安倍 五十代でしょうね。外国映画や進駐軍放送でアメリカ・ミュージカルをかじっている二十代の生意気な青年からすると、菊田さんに対しては「浅草の体験しかないのにミュージカルなんて分かるのか」というような先入観がありました。また、僕らの先輩である蘆原英了さんが、「エノケンの不幸は座付き作者の菊谷栄を戦争で失ったことだ」なんてことを言うわけです。つまり、菊谷が生きていればエノケンは違った、菊田ではダメなんだ、菊谷を戦争で失ったことはエノケンの運命を変え、日本の音楽入り喜劇の運命を変えたというようなことを吹き込まれた。それでどうも菊田に対する好意がなかったのかもしれない。
日比野 蘆原英了さんとどういうかたちでお知り合いになったのでしょうか。母校の慶應義塾大学つながり?
安倍 いやいや。私はもう物書きを始めていましたので、ご挨拶に伺ったんです。そのころ、後にラテン音楽の評論家として有名になる、岸洋子の歌の訳詞なんかもやっている永田文夫という人が、『シャンソン』という雑誌を自費出版に近いかたちで出していて。京都のお金持ちの人でしたが、僕はその手伝いをしていた。そんなことから蘆原さんとも縁ができたんです。また、蘆原英了さんの大叔父さんの藤田嗣章という人が、画家の藤田嗣治のお父さんで、軍医の最高位の軍医総監にまでなった人でね。僕の母方の祖父もやはり軍医で、その人の伝記『陸軍軍医中将藤田嗣章』を書いていた。だから、お訪ねしたときに「私は中村秀樹の孫です」と言ったら「あの中村さんのお嬢さんの息子さん」とすぐに分かってくれました。祖父が編纂執筆したその本は今、藤田嗣治を研究するうえでの第一次資料になっています。
神山 安倍先生から見た菊田さんのミュージカルというのは、やはり、浅草的なものとブロードウェイ的なものとの混交だったんでしょうか。
安倍 そうだと思います。浅草レビューに関係した作者、俳優は皆、戦前のアメリカの短編喜劇映画に影響を受けています。マルクス兄弟とか、ロイド、チャップリン、ローレル&ハーディ…。たとえば益田喜頓はバスター・キートンから名前をとっているわけですね。ああしたドタバタ、いわゆるスラップスティックというものを短編映画で勉強して、同じようなことをやるわけです。その一方で、歌の方はオペラ、オペレッタからきている。「ディアポロの歌」(「岩にもたれた」『フラ・ディアボロ』)とか、『リゴレット』の「風の中の羽のように」も歌の場面ではよく使われていたんでしょう。それからレビューのラインダンスなんかは、パリのフォーリー・ベルジェール。こういうものを観てきた人、映画で勉強した人たちが、そこから自分なりのイメージを膨らませ、ごった煮のようにして舞台をつくっていた。それが『モルガンお雪』なんかにも反映されていたんです。
神山 そういう和洋折衷の例が、秦さんや菊田さんの東宝ミュージカルだったわけですね。
安倍 そうです。でも、宝塚ではその前から筋のある作品はつくられていました。同じ菊田さんが書くのでも宝塚で書かれたものの方がむしろ、ドラマの起承転結を保ちながら音楽や踊りを入れていく、そのバランスがうまく保たれた秀作だったという気もします。『花のオランダ坂』(一九六二年[昭和三七])なんかは、いろんな素材を玉石混淆のまま土鍋で煮込んだレビューじゃなく、ドラマがちゃんと発展していく作品でしたしね。それから、日本のミュージカルとしては高木史朗の『虹のオルゴール工場』(一九六三年[昭和三八])が優れていた。信州の工場で働く女性たちを扱った作品です。
日比野 宝塚で書いた作品の方が優れていた、というのは、スタッフや組織の違いもあるんでしょうか。東宝ミュージカルスは菊田一夫をトップとするピラミッド型の指揮系統でつくられていたけれど、宝塚の場合にはもっとさまざまな人がさまざまなかたちで関わっていたということは関係していたんじゃないですか。
安倍 おっしゃる通りだと思います。やっぱり劇団という組織があり、伝統もあった。たとえば菊田さんが宝塚で何かやろうとするときに、いちばん頼りにした優秀な助手が鴨川清作でした。早くに亡くなってしまいましたけど。だから、僕が伝え聞いたところによれば、菊田さんは鴨川を東宝演劇部に引っ張って、柱にしたいと考えていたようです。やっぱり、宝塚には小林一三が育ててきた優秀な人材、その流れが脈々とあった。昭和三十年代でも、しっかりした組織の中に、いい人材がいたんです。そこへいくと東宝の場合は、菊田さんだけが小林に連れてこられて、後は岡田教和をはじめ、菊田さんご自身が集めてきた。キノトールなんかも関係していた。つまりは自分の個人的な弟子や仲間しかいないから、苦労されたと思います。
神山 秦豊吉の人脈とも全然合わないでしょうしね。
安倍 そうなんですが、結構ダブっているところもある。でも菊田さんというのは、今考えてみるとやっぱり偉い人です。作品作りでも成果を上げていた。
神山 それはもう、東宝の重役で、プロデューサー兼劇作家兼演出家ですから。
安倍 東宝って、僕なんかが外から見ていても叩き上げの現場の職人は少なくて、大学出の社員が多い「エリート集団」というイメージだったから、そういう場所に入っていくのは菊田さんも大変なことだったと思う。でもやっぱり小林の目からすれば、菊田さんしかなかったんでしょう。菊田さんは「ミュージカル」という名前がひとり歩きしているようなときに、自分なりに浅草の伝統にのっとって、試行錯誤を繰り返した。それでやっぱり本場から学ぼうというので、まずは『ブロードウェイから来た13人の踊り子』を持ってきて。じゃあ今度は丸ごとやってみてはどうかと考えたのが『マイ・フェア・レディ』です。
 菊田さんは、東宝のエリート集団の中では庶民派だったでしょう。だから、ヒギンズ教授にイライザが育てられるというドラマとかフレデリック・ローのハイブロウな音楽より、イライザやその酔っぱらいの父親を中心とする庶民階級の人々に共感したんじゃないかな。あくまでも推測ですけどね。オックスフォードだのケンブリッジだのなんてことには興味はなかったと思う。その後『オリバー!』(一九六〇年)を新帝劇に呼んだ(一九六八年[昭和四三])のも、あれはもう、明らかに自分と同じ境遇の孤児の物語だからでしょう。でも、菊田さんはそうして、『マイ・フェア・レディ』を日本語で上演し、『オリバー!』を招聘するということで自分の夢を果たされたし、日本のミュージカルに立派なレールを引かれたと思います。

テレビ、ラジオへ。変わりゆく時代、観客


安倍 それからもうひとつだけ、日本のミュージカルの成立ということについて言っておくと、これを見てください。僕が古本屋で見つけた『可愛い女』のパンフレットです。で、上演が昭和三四年(一九五九)ということは、『マイ・フェア・レディ』より先にやっているわけですよ。本を書いたのが安部公房、音楽は黛敏郎、演出が千田是也、主演はペギー葉山。大失敗作だけどね。ただ、こういう発想の元には、労音、労演といった組織のお客さんの存在があった。
日比野 ミュージカルというものに、新たな大衆芸術の可能性を見出そうという考えが当時の労音、労演にあったからこそ、こういうこともできたわけですね。
安倍 だから両面あると思うんです。新しいエンターテインメントとしての側面と、新しい表現形式の追求ということと。ちょうどそのころ、東宝に来てからの菊田さんがどこかで発言されていて印象的だったのが、昭和三十年代初めから半ばくらいになると、若い世代の多くの人たちはラジオ、テレビを通じて音楽に囲まれて育っている、だから音楽の入った興行を劇場もやらなきゃいけないと。それと、いまの商業演劇、つまり歌舞伎、新派、新国劇を若い世代は観に行かなくなるだろうとも言っていましたね。その言葉はよく覚えている。
日比野 あの時代特有の進歩主義というか、今後の演劇はドラスティックに変わっていくし、未来はもっと明るいというような見通しを菊田さんもまわりの人たちもしていたのかなと思います。
安倍 菊田さんは『鐘の鳴る丘』『君の名は』の大流行作家でしたから。しっかりと大衆の気持ちをつかんでいた。小林一三が誰かに頼もうというときには菊田さんしかいなかったのでしょう。
神山 特に昭和三一年(一九五六)に秦さんが亡くなってからはそうですね。
中野 菊田さんや秦さんの下にいた、小崎政房とか水守三郎については何かご記憶にありますか。
安倍 小崎さん、水守さんは名前だけしか知りません。あの方たちは浅草、それからムーラン・ルージュの出身で、いわゆる軽演劇畑の作家でしょう。
中野 そうですね。小崎、水守、中江は戦後に東宝嘱託として東宝文芸部に籍を置いていました。水守は戦前から日劇ダンシングチームに関わり、小崎は空気座を組織していたので、秦豊吉とのつながりで入ってきたのでしょうね。三人は矢田茂とも同じ劇団(ムーラン・ルージュ新宿座)で親しい間柄でした。帝劇ミュージカルスはじめそれぞれかなりの数の作品に関わっているのですが、脚本が個人名だったり文芸部名義だったりで、東宝内での立場が曖昧なんですね。それからコマ劇場でも仕事をしています。
安倍 その辺りの人でいちばん有名なのは伊馬春部。
中野 はい。ただし、伊馬は戦後の東宝の舞台には直接は関わってないです。
安倍 そのグループで忘れてはならないのは阿木翁助。テレビ黎明期の重要人物です。後に正力松太郎に請われて日本テレビの制作責任者に就任しました。
神山 新宿コマというと、当時は東宝の中でもセカンドラインという印象はありました。
安倍 そういう向きはありましたね、確かに。日劇は“大踊り”を除くと流行歌手ものが中心で、コマの場合には芝居がかったものをやるという違いもありましたけど。ダンシングチームひとつとってもコマは日劇に劣っていた。僕が覚えているので新宿コマ劇場で興行的に成功し、話題にもなったのは神彰が呼んだボリショイ・バレエくらいです。もっともあれは貸し小屋だったけれど。
神山 五十年代の東宝で、映画でも演劇でも非常に重要な位置にいたのが、重役で、プロデューサーだった森岩雄ですが、安倍さんは直接交流はされていましたか。
安倍 ええ。お会いすれば立ち話くらいはしましたね。大変な紳士でした。
神山 『私の芸界遍歴』でしたか。あの本を遺してくださったことは、とても有り難かった。
安倍 森さんも小林一三が「お前、行け」というので戦前から欧米の視察に行っていましたね。やっぱり、外国を見て勉強しろという、大げさに言えば“思想”のようなものが、小林にはあった。それから、社団法人の映画演劇文化協会をつくったのも森さんだと聞いています。あれは東宝傘下の財団で、自社株の配当金を回して運営して来たらしい。要するに森さんは、会社は決算のときにもう利益を出している、そのうえ自社株につく配当をもらうのは二重取りじゃないかと考えた。そのお金は何か別の、有用なことに使うべきではないかという発想から、あの協会がつくられたんだそうです。今も、名画を午前中から観る「午前十時の映画祭」だとか、ミュージカルの『王様と私』『南太平洋』を全国に回す企画をやっていますよね。森さんは、そういう見識をお持ちの方でした。

舞台裏で活躍した女性たち


安倍 これはひとつ、忘れないうちに話しておきたいんですが、菊田一夫さんの横には面白い女性がいたんです。上西信子というんですが、ご存知ですか? 関西にある大気社という有名な空調の会社のお嬢さんで、[一九一九〜二〇〇〇、早稲田大学教授で、アメリカ演劇を研究し、翻訳家・評論家・演出家としても活躍した]倉橋健さんの教え子です。神戸女学院から早稲田に行ったんですが、早稲田の演劇科はつまらないというので、途中でやめて、ニューヨークに行き、そこで海外視察に来た菊田一夫と出会う。東宝では当時、大平和登がニューヨーク駐在員をしていましたが、映画の仕事で忙しかったようです。それで彼女が『オリバー!』の招聘に深くかかわることになる。
 実は一九六六年の秋、僕もニューヨークにいくことがあって、東宝の宣伝部にいた大河内豪[一九三四〜一九八五、堤清二にスカウトされ銀座セゾン劇場の開場にかかわる]に「じゃあ『オリバー!』の子役たちに取材してきてくれないか」と頼まれたことがあるんです。「上西というのがすべて手配しますから」と言われていたんだけど、向こうについたら彼女、「安倍さん、私は明日から新婚旅行だからお手伝いできません」と言うの(笑)。仕方がないから子役エージェントの電話だけ聞いて、連絡をとりましたけどね。そのときに結婚したのがコロンビア大学の教授で、三島由紀夫の研究をしていた学者のアイヴァン・モリス。まぁ、その後二人は別れてしまって、上西は『オリバー!』のプロデューサーのサー・ドナルド・アルベリーと再婚します。アルベリーはキャメロン・マッキントッシュのメンター(師匠)でもありますから、東宝が『レ・ミゼラブル』をやろうと決断したときにも、上西は重要な役割を果たしています。彼女は今、七十代半ばくらいだと思いますが、この人の証言もどこかで聞けるとよいですね。
神山 当時活躍した女性では、吉田史子(ふみこ)についても、今日はお話いただきたいと思っていました。
安倍 僕が日本の戦後演劇史、興行史のなかでひとつ重要だと感じるのは、舞台裏での女性の活躍です。吉田史子というのは、日本の演劇で、最初にプロデュースシステムを確立した人です。実践女子短大を卒業して、ニッポン放送に就職したんですが、当時のニッポン放送の女子の定年は二十五歳だった。今では考えられないですね。それで吉田は二十五歳で辞めて、もともと好きだった芝居の製作をやり始めた。旗上げは俳優座劇場でやった遠藤周作の『女王』と吉行淳之介『水族館にて』の二本立てではなかったかな。遠藤さん、吉行さんに書き下ろしてもらった小品です。そういう小さな公演からやりはじめた。いちばん大勝負に出たのは一九六〇年(昭和三五年)のサンケイホールでの『オセロー』。
神山 松本幸四郎[八世・後の白鸚]主演ですよね。
安倍 福田恆存翻訳、演出。先代松本幸四郎がオセローで、イアーゴーが森雅之。デズデモーナが新珠三千代、エミリアは加藤治子。つまり、歌舞伎と新劇と、森さんみたいに映画と演劇を自在に行き来する俳優とを集めて公演したんですよね。三十二、三歳でこれをやってのけたんですから凄い。東宝、松竹、明治座のような興行資本ではない、新劇でもない独立したひとりの女性がプロデュースシステムの先鞭をつけたのです。
日比野 その企画、最初から吉田さんが考えられたんでしょうか。
安倍 たぶん福田さんじゃないのかな。
神山 昭和三五年だと、福田さんはまだ文学座にいたわけですよね。それで誰かパトロンを探して・・・・・・。
安倍 いや、全部彼女の自己資金で、金貸しから借りたんですよ。その金融業者の名前も知っています。彼女は自分で吉田事務所というのをつくって、俳優のマネジメントなんかもしていました。後に石坂浩二を売り出したのは彼女でした。それとやっぱり、子供のときから宝塚を見ていたのかな。宝塚のOGを何人か抱えていました。例えば鳳八千代や福田公子。朝丘雪路もやっていた。
日比野 吉田さんは吉本にもかかわっていましたね。ニッポン放送から吉本のラジオ部にいかれて、その後吉田事務所を設立した。
安倍 よくご存知ですね。吉本のラジオ部というのは、銀座四丁目の古くさいビルにあって。当時から自主制作番組をつくって、民放各局に売っていた。そのなかに、文化放送が午後に流してた、NHKの「舞台展望」のような演劇評論家たちの座談会番組があって、尾崎[宏次]、安藤[鶴夫]、戸板[康二]といった諸先生が出ていたと思います。吉田さんはその担当で、それで、演劇界に顔が広くなったんです。ちょっと脱線しますが、ラジオって当時は、本当に重要な媒体でした。僕個人の体験としても、藤井肇さんがNHKラジオ第一放送でミュージカルのことをしゃべっておられた番組が、とても印象に残っている。『南太平洋』のSP盤をかけて、「男の役の方はエチオ・ピンザというオペラの人。相手役はブロードウェイ女優のメリー・マーチン。この組み合わせがとても画期的なんです」なんて話をされていて。僕は十代後半くらいまでそれを聞いていましたが、とてもいい刺激を受けました。この藤井さんは後に日本テレビの音楽部長になられて、その中から『光子の窓』『11PM』なんかを手がけた井原高忠が出てきます。
神山 吉田さんは昭和四九年[一九七四]に若くして亡くなってしまいますよね。
安倍 彼女のプロデュースでは尾上松緑と朝丘雪路主演の『項羽と劉邦』(一九六一年/昭和三六年)という舞台もありました。あれは松竹の大谷竹次郎に『オセロー』のすぐ後「吉田さん、次に何かやってくれないか」と言われてつくった。話は『オセロー』に戻りますが、やっぱり各界を横断するようなキャスティングを組むのは大変で、いろいろな妨害もあったんです。たとえば大阪公演には新珠三千代が出ていない。これは当時新珠が東宝の専属で、東宝の映画担当だった藤本真澄が貸さなかったからですよ。だから大阪では、加藤治子がデズデモーナをやっています。そういうことがあるなかで、彼女に仕事を頼んだ大谷はさすが偉いと思います。
神山 大谷さんと吉田さんをつないだのは、実業家で松竹の重役でもあった今里広記だそうですね。今里さんと吉田さんの話は、辻井喬の回顧録『抒情と闘争』にも出てくる。
安倍 今里さんは当時日本精工社長で、なかなかの芸能通だったこともあって、松竹の社外役員もしていた。おそらく、役員会か何かで、誰からともなく吉田史子の話が出たんじゃないでしょうか。演劇部長だった永山武臣さんあたりからかもしれない。それで「そういう女性がいるなら会ってみよう」と、今里さんから吉田に連絡が入った。彼女に「安倍ちゃん、今里さんて一体どういう人か知っている?」と聞かれたけど、僕もよくは知らない。「調べてよ」と言われて、ダイヤモンド社のライブラリーでカードや新聞の切り抜きを調べたことを覚えています。今の東急文化村の裏の神山町に大邸宅があって、訪ねていくと、本郷・天満佐の主人の出張お座敷天ぷらでもてなされたそうです。今里邸にはお座敷天ぷらの出来る設備があったのです。昔はそうやって、政財界の人たちが芸能界の若手に目をかけるということがよくありました。
神山 当時は、政界、財界にも、芝居や音楽の世界への関心があったということですね。それこそ旧制高校時代の思い出なんかも交えつつ、そういったことをよく語っていた。
安倍 そうです。政財界にも芸能一般が好きな人が多かった。やっぱりそれは、一つには、歌舞伎を見るということが趣味であり、教養であったからだと思います。また、皆さん、花柳界に出入りをされていましたから。そうすると、小唄や端唄のひとつも唸れないようじゃさまにならない。そういう趣味と実益を兼ねたような面もあったと思います。
神山 昭和三十年代、四十年代までは、歌舞伎の筋書きでも必ず最初に政財界の方のあいさつがありました。それも通り一遍のものじゃなく、どこかで自分の記憶とつながっているものなんです。子供のころによく連れられて行ったとか、旧制高校時代に友人と、とか。そういう記憶は、ちょうど花柳界がだめになってくるのと軌を一にして、昭和五十年代ぐらいで断ち切られてしまいますけども。日本生命の弘世現さんなんかも、水谷八重子と夏川静江の『青い鳥』(一九二〇年[大正九])の思い出が強くあったので、日生劇場で子どもの企画をやるようになった、とおっしゃっていました。

国際劇場、レビューの終わり


神山 安倍先生はあまり、SKDはご覧にならなかったそうですが、国際劇場の最後のころには、監修をつとめられてもいます。それはやはり、永山武臣さんの依頼でしたか。
安倍 そうです。確かにSKDはあまり観ていなかったけど、エイト・ピーチェスはダンスのうまい、色っぽい大人のチームで、よく覚えています。淡路恵子と草笛光子が入っていたのが、スリー・パールズ。当時は日劇でもSKDでも、そういうふうにグループをつくるのが流行っていました。SKDを手伝ったのは当時松竹の副社長だった永山さんから「国際劇場をもう一度浮かび上がらせる方法はないのか」と相談を受けたんです。僕は「もう、手遅れだ」と言ったんですけどね。大きな軍艦に貝殻がいっぱいついているような状態で、それを掃除するのは難しいと。それでも新しいスタッフも集めて、いくつかの大レビューをお手伝いはしたんだけど、やっぱり新しい血を注ごうにも、古くからのスタッフもいるわけで、なかなか混ぜ合わせるのは難しかった。音楽監督を村井邦彦にしたり、まずはビジュアルを変えなきゃというのでデザイナーの花井幸子を衣裳に起用したり・・・・・・いろいろやったけど手遅れだった。ただ、国際がなくなった(一九八二年[昭和五七])以後も、僕がかかわったレビューは歌舞伎座でやられていました。そこは松竹の人情に厚いところで、名前も出してくれたし、お金もちゃんとくれた。ありがたいことです。「劇場がなくなってもSKDはやめにしちゃいけない、毎年八月だけは、歌舞伎座でレビューをやりましょう」とこれは永山さんらしい温情主義だったんですね。でももう一九八〇年くらいには、SKDも日劇も含めてレビューというジャンル自体がダメになっていましたから。日劇でブロードウェイ・ミュージカルの『グリース』(一九七七年[昭和五二])をやったこともありますが、それもうまくはいかなかった。パリのムーラン・ルージュからヌードダンサーを連れてきたり、いろんなことがありましたけど、どれも最後の悪あがきだったと思います。あの頃、赤坂、六本木のディスコへ行くと、踊っている普通の女の子のほうがレビューの踊り子よりカッコよかった。つくづくレビューは時代遅れだと思ったことがあります。
神山 宝塚とコマ(ダンシングチーム)と日劇とSKDと合同で、日劇で公演をやったこともありました。
安倍 世界的にレビューというものがなくなってきたんだから。これはしょうがないよね。
神山 僕なんかの子どものころの生活水準からすると、レビューの世界は格段に華やかに見えました。でも日常生活自体がだんだんよくなっていくと、それほど虚構の世界が豪華に見えなくなった、ということもあったのかもしれません。三島由紀夫の歌舞伎だって、三島の死後はそれほど華やかには見えませんからね。

海外ものを「勉強」する、イノセントな時代


鈴木 さきほど日本のミュージカルと宝塚歌劇団の組織、人材というお話が出ましたが、宝塚は、海外のレビュー、ミュージカルの輸入元でもありますよね。
安倍 やっぱり宝塚の果たして来た役割というのは大きいよね。池田彌三郎か戸板康二かどっちか、あるいはお二人が一緒のときだったかもしれないけど、先生方が「僕たちの青春時代、ヨーロッパというものに触れる窓は二つあった。一つは宝塚の舞台、もう一つは東和商事のドイツ映画、フランス映画。この二つなんだ」とおっしゃったのをよく覚えている。たとえば『モン・パリ』という歌を知ったのは宝塚のレビューを通してだし、『会議は踊る』(一九三一年)なんかのウィーン音楽は、東和映画で学んだと。
 宝塚ではブロードウェイ・ミュージカルも断片的に素材をピックアップして使っていました。たとえば『ウエスト・サイド物語』(一九五七年)。「トゥナイト」を最初に使ったのは宝塚の高木史朗です。『華麗なる千拍子』(一九六〇年[昭和三五])の中で、音楽は確か編曲者の吉崎憲治の名前だけで、レナード・バーンスタインという表記はなかった。そのことを、作曲者を明記せずに勝手に舞台で使うなんて著作権的にも良心的にもおかしいって、コラムに仕立てて東京新聞の伊藤さんに渡すと使ってくださいました。ちなみに『ウエスト・サイド〜』のダンスを最初にコピーしたのは、朱里みさをという振付家です。朱里エイコという歌い手の母親ですけどね。その朱里が堂々とジェローム・ロビンスの振付を日劇の“大踊り”で使っているんです。僕が劇場で会ったときには、「ブロードウェイで観てきて素晴らしかったからやった」なんてむしろ威張っていましたけど。
神山 そういう時代でしたよね。
安倍 そう。だから、ある意味では作り手たちも観る人たちも純真無垢だった。また、そういう時代があればこそ今があるとも言えるしね(笑)。
神山 それこそ歌謡曲だって同じようなことはずいぶんありますし、言い出したらきりがないですよ。
安倍 そういう中から、いずみたくだって登場してくるわけですよね。僕はこのごろ、いずみたくは日本のロイド・ウェーバーじゃないかと考え直していて。作曲家でミュージカルのプロデューサーになった人は、日本のミュージカル界では、いずみたくしかいないんですよ。そういう視点で彼を論じると面白いんじゃないかと思うけど、その話はまた今度、別の機会にしましょう。