芦屋小雁聞き書き


取材日:二〇一四年九月九日
取材場所:室町砂場
取材者:和田尚久・神山彰・日比野啓・中野正昭
取材立ち会い:西部寛子(小雁倶楽部)
編集・構成:和田尚久
監修:芦屋小雁・西部寛子

イントロダクション


 このインタビューでは、芸能生活六十年を過ぎて、いまも舞台や映画で活躍をされている芦屋小雁氏にお話を伺った。
 芦屋小雁氏は昭和八年(一九三三)、京都生まれ。はじめは商業美術(広告美術)の道に進んだが、兄の芦屋雁之助氏に誘われる形で芸界入りし、漫才師として初舞台を踏んだ。一九五〇年前後のことであったという。当時の漫才界では誰かの弟子になる必要があったこともあり、兄弟は当時全盛の漫才コンビ「芦之屋雁玉・林田十郎」の門下に籍を置いた。「小雁」という名前は、兄の「雁之助」とともに、師匠である芦之屋雁玉から命名されたもので、はじめの亭号は「芦之屋」であったが、やがて「芦屋」と改め、今に至っている。
 「才能」が開花するとき、大きなファクターとなるのが「時代」であろう。漫才師としてキャリアをスタートさせた小雁氏は、数年のうちに、コメディアン、俳優へと活動のフィールドを広げる。それには時代的な条件があった。
 一九五〇年代末から、六〇年代はじめにかけ、関西芸界では東宝や吉本が第二次大戦で途絶えた劇場経営を復活させ商業演劇の隆盛を準備しつつあった。また、同時期に関西の民放テレビ局が開局。ここでもドラマやコメディ番組が量産された。このとき、若く、モダンな感覚があり、笑い通じている小雁氏が貴重なタレントとして重用されたのである。若き才能と時代の幸運な巡り合わせ。
 関西の喜劇界には、同時期にキャリアをスタートさせた重要な人物がいる。脚本家、放送作家の花登筺がその人である。昭和三年(一九二八)、滋賀県大津に生まれた花登氏もまた、戦後の興行復興期、テレビ時代の幕開けという時代の渦中にあった。五〇年代前半からラジオ作者として活動を開始した彼は、やがて商業演劇やテレビ放送の世界に進出し、多くのショー、実演で小雁氏と一座をする。その大きな結実がテレビ番組『やりくりアパート』(一九五八年〜)と『番頭はんと丁稚どん』(一九五九年~)、そして劇団『笑いの王国』である。
 花登氏は、これは正確にカウントされたデータではないが、放送台本六千本以上、舞台戯曲五百本以上をものしたと言われる。その仕事の全貌を完全にはつかみにくいのと同様、キャリアにおける身の振り方にも不可思議な部分が多い。晩年にしるした自叙伝の著書のタイトル『私の裏切り裏切られ史』が象徴するように、彼の一生は周囲の人々との葛藤、軋轢に満ちたものだった。興行の世界はおおむねそうしたものであるとも言えるが、一代の作者、花登筺氏についても、間近にいた小雁氏ならではの記憶をお話しいただいた。
 東京には戦前からロッパ、エノケンといった近代型の「コメディアン」がいたのに対して、関西にはそうしたタレントがいなかったといわれる。いたのは曾我廼家劇や俄の系譜を継ぐ、伝統的な「喜劇人」であり、彼らは、現代人が、たとえば歌舞伎や新派をみるときと同じく、観客にある心理的程度の距離を意識させる「古風」な存在であった。
 小雁氏、また兄の雁之助氏、さらに弟の雁平氏を加えた「芦屋三兄弟」、また東京から関西芸界に参入した佐々十郎、茶川一郎らは、戦後に登場した、はじめてのモダンなコメディアンであった。この系譜の延長線上に、花登筺の、いわば門下生として出発した大村崑氏らがいる。
 彼らは関西の喜劇界に於いて重要な位置につき、多くの舞台、放送、映画に出演したが、ここで東京の「近代化」された喜劇界では小さくなった問題が浮上する。すなわち所属会社の問題である。大阪の喜劇界では、多くのタレントが東宝系、松竹系、または吉本系に籍を置き、所属会社によって活動範囲が限定される。(いまでも大阪の多くの「お笑いタレント」は吉本系、松竹芸能系のどちらかに在籍をしている。東京にも大手プロダクションはあるが、このようにはっきりとした区分けはない)。
 小雁氏のように引く手あまたのタレントには、さまざまな計画が持ちかけられるが、それらの事案はしばしば、契約会社の移動を必要とする。結果、小雁氏は東宝、松竹あるいは大映と契約会社を変えながら、縦横な活躍をした(小林一三の発案により一九五一年に発足した宝塚系の劇団「宝塚新芸座」にも一時期参加している)。
また小雁氏の周囲の人々も、あるときは同じ興行会社に一座し、あるときは離別し、また再会し――と狭い範囲での離合集散を繰り返す。小雁氏は、こうした「動き」の舞台裏や、登場人物各人の横顔を、デザイナーとして出発した人らしく、するどくスケッチしている。貴重な証言になったと思う。(和田尚久)

漫才師からコメディアンへ


和田 小雁さんの自叙伝的な要素もある御著書『シネマで夢を見てたいねん』を拝読したのですが、キャリアを振り返りますと、はじめは商業美術、広告のお仕事をされていて、その後、お兄さんの雁之助さんに誘われる形で漫才師になる。そのころは戎橋松竹なんかにご出演だった。
芦屋 はい、漫才で出ていました。
和田 そうしているうちに、一九五四年にOSミュージック[ホール]が開場するわけですね。
芦屋 そうでした。
和田 花登筺『私の裏切り裏切られ史』によりますと、戎橋松竹に出ている若い漫才師が面白いので花登さんがOSミュージックに誘ったというような書き方なんですが、その辺の経緯を教えていただけますか。
芦屋 僕と雁之助が漫才をやっていたころは、エンタツ・アチャコとか今次・今若とか、そこそこ有名で昔から活躍をしている「幹部」の人がいたんです。その人たちの漫才は男同士の漫才というのもあって、これはこれなりに面白かったんです。インテリっぽい要素があったりして、ラッキー・セブンとか、いいコンビもいて、学生さんたちが喜んで見ていたの。
 けれども、そういう漫才以外は全部三味線を持った、音入りの踊り入りの漫才というのが基本「上」に位置していた。昔ながらの音曲入りの掛け合いが漫才の主流だったんです。
 その中でしゃべくりだけで笑わそうというのは大変難しい。ぼくらがやっていたのは、ちょっと動きがあったりしながら会話をすすめる。雁之助もぼくも昔の凸凹コンビ[アボット&コステロ]とか、そういう喜劇映画を見て、ちょっと動きのある漫才にしようやないかと。その動きのある漫才をやっていたところで、花登さんがおそらく「あ、この子ら、おもろいな」という感じになったんじゃないかな。
和田 古い音曲芸能としての漫才師じゃなくて、コントなりステージができそうだなという。
芦屋 はい。コントまではいかなくても、ちゃんと動き付きでやっていたので。
 それで花登さんが声をかけてくれて、付き合いがはじまって。だけど、最初のころは、花登筺さんも売れてへんのでね。そのころはラジオのコマーシャルばっかり書いてはったんです。
 それでコマーシャルにちょっと出るかというような話になって何本か出してもらったりして、それで仲良く友達になって、お互いに仕事が…ぼくらは漫才といったって前座みたいなものだからあんまりお金ももらえない。花登さんもコマーシャル台本を書いてもそんなにたくさんもらえない。お互いに貧乏同士で、質屋通いは花登さんもして、僕もしてと。僕らが持っているものを持っていったり、花登さんの持っているやつを質屋に持っていくとか、質屋通いをしながら三人で生活していた。花登さん、のちに偉くなってからは、もうそのことは決して言わなかったけれども。

「ヌード能」と武智鉄二


芦屋 そんな時期を経て、だんだん花登さんが、いいチャンスをつかまえはって。そのチャンスというのがOSミュージックというところで「ヌード能」というものをやったんです。演出が——。
和田 武智鉄二ですね。
芦屋 ええ、武智鉄二さん。これはもう有名な人で。この人は歌舞伎界でもちょっと変わった、新しい感覚の持ち主でね。この人が能をヌードでやってみようかと発案して、それに乗ったのが花登さんなの。それで花登さんと武智さんが一緒になってやろうということになって、OSミュージックでヌード能を始めたんです。
 ヌード能だから踊り子ちゃんも全部集めてきちっと能を教えたり、当時、こういう形のヌードというのは珍しかったと思う。だから結構、お客さんがよく入ったんですね。それなのに、それ以降は続かず、それきりで終わってしまったのはちょっと残念で。
 それから花登さんはOSミュージックの板付き[専属]みたいになって、脚本を書くようになったわけです。それ以前は東京の日劇のミュージックホールで出来上がった出し物をこのままOSミュージックに持って来ていたの。それを、大阪は大阪のオリジナルで行こうと言って花登さんがホンを書いて、東京からヌードの人を呼んだり、関西からのヌードを集めたりして、その間でコントをやるのは僕らだということだった。
 それで雁之助・小雁と、それプラス、立原博さんという人がいらっしゃって、その人を加えて三人でコントをやっていた。そんなことをやっているうちに財津一郎が入ってきて、財津君もコントに入って、自分も歌を歌いながらコントもやったり。OSヌード劇場はよそよりはちょっと上品だからと言われて、お客さんもよく入っていて結構、順調だったんですけどね。
和田 OSミュージックは、経営は東宝ですか?
芦屋 東宝です。
和田 そうすると、経営からしても、東京に日劇ミュージックホールがあって大阪にOSがあってという感じだったのですね。
芦屋 そうです。
日比野 武智鉄二さんのそのときの印象は——。
芦屋 演出はしてもらっていたけど、よく覚えてないんだな。でも優しい人で、いろいろなことを教えてもらったりして。
神山 後に東京の明治座で『大忠臣蔵』[一九六三年・昭和三十八]をやったときも、武智さんと花登さんの脚本でなさっていますよね。
芦屋 はい、はい、ありましたですね。それはもうだいぶ後半ですけどね。
神山 武智さんは、私が国立劇場にいたときに一度だけ助手で付いたんですよ。歌舞伎の上演で。自主公演ではなく、現・鴈治郎の研究公演[青成会による国立劇場・青年歌舞伎祭での公演]の『百合若大臣野守鏡』[一九八一年八月]ですが。
芦屋 優しいでしょう。
神山 お書きになっていることは過激なんだけど、本当に静かな人でね。
芦屋 そうそう。それでやることはね。
神山 そう。ただ、もう『百合若大臣』の時は元気がなかったですが。
芦屋 僕ね、あのかたの演出で歌舞伎がちょっと変わるんじゃないかなと思っていたぐらい。だけど、歌舞伎はその時代[昭和二十年代~三十年代]はちょっとこう、落ちていたからね。時代の条件もあってなかなか。ただ武智さんは印象に残っていますね。
和田 ヌード能は当時の批評を見ても、相当話題になっていますね。
芦屋 そうですか。そうですね。
和田 それでまじめなお能の関係の人なんかは怒ったり。
芦屋 怒ったり(笑)。

OSミュージックホールのモダンさ


和田 OSミュージックは、今のお話だと、ほぼこけら落としから参加されているということですよね。この小屋は、ひとつの番組を十日替わりぐらいでやっていくんですか。
芦屋 そんなに替わったかな。一カ月じゃなかったかな。十日替わりかな。踊り子の関西の女の子なんかは、そのままいるから、これが十日替わりなのかというのはよく覚えてないのよ。
 踊り子の人たちは稽古をするじゃないですか。たとえば十日間やったらちゃんと次の稽古をして初日を迎えるでしょう。だけど、コントの場合はそんなに稽古をしないんです。舞台に一遍出て、こうやろうと言いながらね。まあ、口立てみたいな方法で。はじめはそんな調子だったのだけど、花登さんはそれだけはいかんと。もっとちゃんとしたコントにしましょうと言って脚本をちゃんと書いて、お芝居に近いように持っていかれたんですね。だからそこのところは、僕らはやっていて面白かったな。殺人事件があったりして、それを解いていく、みたいな芝居がちゃんとあるんです。
神山 じゃあ、今で言うコントのシチュエーションがちゃんと作ってあって。
芦屋 そうそう。その流れの中で女の子も出ている。たとえば殺人がある。謎解きをする。それで落ちがちゃんとついていて一つのコントになっているということですね。
 あとは、僕なんかはチャップリンの『モダン・タイムス』[一九三六年]の装置を、舞台をちゃんと組んでもらって、この中へ入ったりするのをやりました。それは普通のコメディアンのコントじゃないみたいな感じでなかなか面白かったですけどね。
日比野 書き割りで作ったということですよね、『モダン・タイムス』の機械を。
芦屋 そうそう。それであれは全部[歯車が]回るやつだからね。
日比野 それは面白いですね。
和田 書き割りよりもうちょっと立体感のある装置なのでしょうね。
芦屋 そうそう、立体感、もちろん。立体感。
和田 初期の花登さんは、例えばチャップリン風のコントを書いたりするモダンなセンスはありました?
芦屋 ありましたね。やっぱりモダンなところがありました。今までの感じをやっぱり何とか崩していきたい、みたいなね。それまでヌード劇場でやっているコントというのは、だいたい決まっていたんです。やり方もネタも。だけどそれはもうやめようと。新しいのを作りましょう、という意思があった。
和田 東宝の、例えば小林一三氏とかそういう方がOSを見に来られるみたいなことがあったんですかね。
芦屋 なかったと思う(笑)。
神山 丸尾長顕[作家・演出家。宝塚少女歌劇団文芸部から日劇ミュージックホールのプロデューサーになり、ヌードショーを演出した]さんは来ていました?
芦屋 丸尾長顕さんは、一度ぐらいは僕ら一緒になったことがあるかな。
神山 東京の日劇は丸尾さんでしょう。
芦屋 そうです。東京の出し物がそのまま大阪へ来たときに丸尾長顕さんが演出したりというのはありますね。
神山 丸尾さんは、ちょっとお上品でエロがあるのがやりたかったという感じでしたもんね。
芦屋 そうそう、そんな感じですね。
芦屋 OSに出ている人たちは、みんな踊りはしっかりしていました。普通のヌードの踊りの人たちとは違ってきちっと習っているから。それで印象に残っているのはおっぱいだけ(笑)。毎日、朝から晩までずっとおっぱいばっかり見ているのよ。
和田 いわゆるストリッパーとは違うんですか。
芦屋 違います。
和田 違いますか。ダンサーということですかね。
芦屋 まあね。でもストリップはストリップやね。
神山 でもストリッパーとは言わない。関東だと、浅草のフランス座も川口や西船橋で見るのはストリッパーですが、日劇ミュージックホールに出る人は、ヌードダンサーと言っていたと思います。東京だとアンジェラ浅丘とかね。キチンとレッスンしたダンサーということでしょう。

映画出演


神山 僕は小雁さんであのころの映画で印象的なのは、扇雀さんが出た『女殺し油地獄』[一九五七年]。堀川弘通監督のね。
芦屋 あれが一本目です。
神山 あれはご兄弟で楽しかった。あれはあのお二人じゃなきゃできないです。やっぱり関西の風味があって。
芦屋 僕はそれまでに宝塚映画か何かでちょっと出たりしていたんですけど、雁之助と僕とで一緒に本格的な時代劇映画に出るというのは、あれがはじめてでした。
 配役をするときに、ちゃんと監督が劇場まで来て見て、この二人を使おうと使っていただいて。それで一番最初に喧嘩のシーンを撮りました。池の中で戦うんですよ、男たちが。それで僕らがこうやってのぞいて「うわっ、えらいこっちゃ」というようなことを言う。すると監督が、すまんけど君ら、それ漫画と違うんだからね、もっとリアルにやってくれないかと言う。それで雁ちゃんと、困ったな、どないするんやろうな、とか相談した覚えがあって、一番最初のシーンがそれで、すごく印象に残っています。
神山 公開が昭和三十二年でしょう。東京ではちょうど『ウエスタン・カーニバル』の第一回公演でね。日劇は映画と実演を組み合わせた番組でしたでしょう。それで東宝も『ウエスタン・カーニバル』は一回目だからどのくらい入るか分からないから、映画を何にするかいろいろ考えて不良少年ものが良かろうというので『女殺し油地獄』を選んだという。ロカビリアンと『女殺し油地獄』って変な組み合わせでね。僕は小学校一年だから全然覚えてないんですけどね。
芦屋 ああ、やった。面白いですね。
神山 後から見たら、あの雁之助さんと小雁さんが本当に印象的でした。
芦屋 あの映画は撮影日数がかかったんです。たしか三カ月ぐらいかかったのではないでしょうか。あの監督は特に黒澤さんのお弟子さんだったからしつこかった。岩井半四郎さんが馬に乗って、がーっと馬が立ち上がるところがあるんですけど、それが悪いと言って、一週間以上。
神山 そのシーンだけに。
芦屋 同じシーン。それで一週間以上、馬がわーっと立つでしょう。後ろに人がわーっと歩いているんですよ。それを毎日、一週間かかった。そんなことせんでも、なんぼでも撮れるのになと思うのにね。そんな感じだったですね。やっぱり昔の人はきっちり撮っていたんやねといま思う。よかったですよね。

東京育ちの大阪コメディアン


和田 今回、関西の戦後のコメディアンを調べていますと、例えば佐々十郎さんにしても、茶川一郎さんにしても、もともとは東京にいらした方が多い。
芦屋 そうなんです、皆さんそうなんです。「東京のコメディアン」として大阪にいらっしゃった。おそらく、東京でもはじめの仕事場はヌード劇場でしょう、それで大阪でもそういうものをやるからということで呼んだという経緯だと思います。
和田 これは三田純市氏が書いているんですけれども、関西にもともといる、例えば「曾我廼家劇」の系統の人とか俄(にわか)の系統の人とかとだと、モダンなお笑いがやりにくいと。
芦屋 できない、できない。それはあります、間違いなく。だからあの人たちは、立原博さんなんか特に辛口でちょっと司会者的な感覚の芝居だから、とてもスマートな感じだったですね。あと三浦策郎さんは、自分の友達を呼んで一緒に芝居をしようみたいな。
 東京から来た人たちも、やっているうちにみんな関西弁になってしまって、佐々やんも、関西弁はできないけど一生懸命やっていた。茶川一郎さんも関東の人ですけど、みんなだんだん大阪弁を習うようになりました。
 大阪にコメディアンがいなかったかといったらまあ、そういうことになるのかなと思うんですけれど、[伝統的な]「喜劇」の方はたくさんいらっしゃったから、若手をうまく引っ張ってたたけばそういう具合にいくんですけどね。それはしなかったんですね。
日比野 澤田隆治さんの「平成コメディアン史」という『ちくま』に連載されていた文章の中で、ご兄弟が漫才師からコメディアンに転向するときに、雁之助さんは少しためらいがあったと。小雁さんがむしろコメディアンに行こうというふうな意思があったと。
芦屋 そうそう、ぼくが誘ったの。だけど、あの人、しばらく出なかった。
日比野 それはやっぱり小雁さんのほうにモダンな指向があった?
芦屋 そういうことなんでしょうね、きっとね。僕はOSミュージックというところへ出ながら、すぐ反対側に北野劇場というところがあって、そこへも出ていたんです。雁ちゃんは出なかったんです。僕だけ出ていたんですね。
和田 出なかったというのは、出ることを望まなかった?
芦屋 出ないというの。本人は。もうミュージックだったらミュージックだけでいいと。もともとあの人、芝居が好きな人だから、いいかげんな芝居だったらもう出ない方がいいというような感じで出なかったんですね。それでテレビが好きかといったらあんまり好きじゃないとかね。やっぱり昔の役者さんみたいな感じでね。
 あの人は僕よりは三年か四年は古いんです。それはもうサーカスをやったり楽団をやったり、浪花節をやったり、奇術をやったり、いろいろなことをやりながら。そこへ僕が入っていって、奇術をやりながら漫才をやったりして。面白かったな、昔は。
 戦後すぐのころは雁ちゃんと二人で漫才をやるといっても、男同士の漫才はどこも売れないんです。余興と言って地方へ回っていくやつとかいろいろやって、漫才だけだとあかんと言わはるので、それで何か小さなおばちゃんとおじちゃんが、各地を回ってはる人がいまして。その人は一人で浪花節をやって漫才をやって、あるいは、お嫁さんとコンビでやったり、いろいろなことをしながら回ってはる人で。僕らはそこのところへ雇っていただいて、雁ちゃんと僕は奇術をやりながら漫才をやった。奇術と漫才、それと向こうは浪花節と漫才と。四つあるわけです。それをやりながらずっと巡業したりしていたんですね。コメディのほうへ行く前は。
和田 OSは分類すればヌード劇場ということだと思うんですけれども、北野劇場はどういう小屋だったのですか。
芦屋 北野劇場は、これはいろいろなパターンがあって、最初はお芝居もやっていたんです。あそこは舞台が非常に素晴らしくて、舞台を廻しながら沈んでいく機構があったり、立派な劇場だったんです。一軒家を建てたら、それが沈んだり、あがったり。そういうちゃんとした芝居もやっていたんですけれど、だんだん、そういうお芝居だけでは[経営的に]だめだと。それで結局、歌手の人のお芝居になってくるわけね。それで歌手の人を中心にしたショーということになった。それで北野劇場には専属のダンサーがいっぱいいた。だから専属のダンサーのショーがあって、ちょっとお芝居があって、映画があってという。
西部 レビューですね。
芦屋 レビュー。レビューと映画というパターンがずっと続くわけ。そのレビューのところへ僕らが行ってコントをやって、それでまたミュージックに帰ったりね。そんなことをしながら長いことやっていたんですけど、雁之助は、俺はそんなのはせえへん、と言って。あの人はちょっと役者根性があるから。そんな意見でしたね。
 面白いのは、夏は舞台上にプールも作るんですね。それでそのままぐっと沈めたら大きなプールになる。なかに鏡を付けてね。それでみんなが飛び込んだら泳いでいる。昔のミュージカルのあれですね。
日比野 エスター・ウィリアムズ『水着の女王』[一九四九年]の感じですね。
芦屋 そうそう。ばーっと形になる。それをやってみせて、夏場はそれが売り物。僕らはコントでそこへだーんと出てきて、何やと言って、あーっと言ってドッパーンとはまるわけ。はまったらすぐにずーっと閉まっていくから、閉まるもうぎりぎりのところでばーっと上がらないと上がれないの。だけど、そのタイミングまでは潜ったままでいないといかんみたいな。
和田 そうすると相当大きかったですか。
芦屋 大きいです。本当に大きい。立派でした。それで北野劇場と梅田劇場は隣同士にあるんです。正面玄関は隣同士だけど舞台だけはつながっているんです、こっちも、こっちも。こっちでやってるヌードを向こうからも見えるという。向こうのショーもこっちから見えるという。そんなところだったね。何かモダンでいいなと思ったけどね。今そんなのやってくれたらいいのにね。寂しい。
神山 北野劇場は、お客様は三千人ぐらい入るんですかね。
芦屋 立派なところだったですね。三階まで行けて。
神山 大劇[大阪劇場]とは違うでしょう。
芦屋 そう、大劇はまた松竹の系統やしね。
神山 大劇は松竹ですもんね。大劇も大きかったわけでしょう。三千人か四千人入るから。
芦屋 大きかったです。僕らも大劇にも行かないといかん。あちこち行ってました。
和田 細かい話ですけど、OSと北野劇場はどのぐらいの距離があったんですか、掛け持ちするに当たって。
芦屋 もう、ちょっと歩いたところだから。化粧したままで、廊下伝いでずっと行ったら行けるという。
和田 そんなに近いのなら雁之助さんも掛け持ちしてもよさそうなものなのに。
芦屋 なあ。それで時々アチャコさんが芝居されたりすると雁之助も出ていって芝居はしていたように思うけどね。
和田 そのころは、ご兄弟は東宝のコメディアンということになるんですか。
芦屋 そうなんです。そのときは東宝にいたということでね。それから松竹に移ったり、松竹から今度は「笑いの王国」へという流れがあるんですけど。それで途中で僕らは大映へ入ったりね。何かややこしいことをしているんですよ。
和田 『シネマで夢を見てたいねん』に、北野劇場と[映画館の]OS劇場と別にフォーリー劇場というのがあったと書かれていますが。
芦屋 それは寄席のあれでしょう。
和田 寄席なんですね。というと、そこに出るときは漫才で出ていたんですか。
芦屋 いや、[場所を説明し]ここに寄席があるんですね。それで梅田劇場はここにあるという。そういう感じでつながっている。みな東宝ですわ。OSミュージックホールがフォーリー劇場に改名したんです。それが名前が変わって「モダン寄席」みたいなものになって。そこでは僕が司会をやりながら漫才の人を紹介して、それで一つずつ漫才を見てもらうとか、ちょっと変わったことをしないといかんなと思いながらそれをやっていたんですね。
 そのときは、雁之助は出てなかったかな。よく分からない。一応漫才やっていたから一緒だと思いますけど。そんなことをしながら、そこでショーをやったりね。北野劇場に出ている女の子を連れてきて、モダン寄席だから漫才とかそんなのばっかりじゃなしにちょっとショーもやろう、みたいなことで。

笑いにおける大阪弁


和田 さっきの話にちょっと戻るんですが、コントなりモダンなことをやるときに、生粋の大阪弁でやるのか、あるいは東京弁に近い感じでやるのか。
芦屋 大阪弁。
和田 やっぱりそうなんですか。
芦屋 はい。
和田 東京から来た佐々さんたちは、ちょっと東京風?
芦屋 うん、風だけど大阪。
和田 東京風の大阪弁。
芦屋 はい。かえってそれが笑いにつながったりしてね。変ですしね。
和田 僕ら東の人間からすると、大阪に行って大阪弁を覚えてなおかつ笑いをやるってすごく難しいような気がするんですけどね。でもやったんですよね。
芦屋 うん。だからアクセントがおかしかったら、それはそれなりにお客さんは喜んだりしますしね。でも後半は皆、大阪弁をちゃんと使っていました。
日比野 東と西の芸風の違いみたいなのはありますか。
芦屋 あります。
 これは僕が関西人だから勝手に言うことであって、東京の人に聞かないかんと思うけれども、結局、言葉が少ないです、東京は。どうしても単純な言葉で。「何してんだ、てめえ」とこんなになるのが、大阪では「何してまんねん、そんな、あんた」となるわけです。これは大きな違いです。その滑らかな大阪弁の中で笑いをつくっていくというのは、これは笑いにはうまいことつながっていくんですけど、標準語みたいにカンカンカンカーンと言ったら面白くなくなったりするので、だから大阪のお笑いが面白いとか言っていたんですけどね。いまやもうね、どこがどこやらええかげん分からへんけれども。
 ただ確かに今でも、今日でも[「喜劇人まつり」として東京の三越劇場で]やらせてもらっていても、言葉にすごく味がない。それはちょっと僕は感じるので、うーん、ちょっと寂しいなとかね。少し何か味のある言葉があったらええのにと。それはもう無理やね。標準語はそうじゃないからね。
神山 僕の子供の頃の、明治大正生まれの人たちの声の記憶ですが、東と西では声柄が違ったような気がするんですよね。声の質、声柄が、関西の人の方が渋くて塩辛声というか、だみ声で。偏見ですかね、これ。
芦屋 いえいえ。
神山 全体に声が低くて、東京の芸人の方が声が甲高い感じ。これか私の感じではずっとあた。今は東も西も同じなんですけど。
芦屋 その通りです。そんな感じです。
神山 昭和四十年代までは、関西へ行くと、街を歩いている人でも声が低い感じで、だみ声で。これは偏見かもしれないけど。歌舞伎も関西は悪声が多かった。
芦屋 だみ声は多いです。
神山 だみ声とか塩辛声。渋い声ともいえたけれども。ある時期から同じ高さになっちゃいましたね、声自体もね。
芦屋 そうです。決定的に言えるのは標準語の「何言っているんだい、てめえ」と言うのを、大阪だったら「おい、お前何を言うてんねん」となるわけです。低いですね。「それはどういう意味や」とこう、下から入ってくるさかい、えっ、となったりするという。そんな感じかな。大阪弁と標準語の違いは。
和田 例えば松竹新喜劇なんかで、昔の千葉蝶三朗などをビデオで見ていると、例えばここに仲居さんが入ってきてビールを注ぐ、みたいな一場面、そこの部分だけを延々何か言いながらやり直すみたいなくだりがある。行って戻って、行って戻って、というような。同じ状況がなかなか進まないという。あれは東京弁ではやりにくい気がするんですよ。
芦屋 はい、できないですね。もっとあっさりしているから、すかっとこう、スマートにやれるわけです。
和田 そう。次にいっちゃう、みたいな。
芦屋 大阪はこういうときに必ず、おうおう、ちょっと待て、あのな、あの、それでほれ、何や、とこう言って入っていくわけ。言葉がつながっていくんです、ずっとね。それはやっぱりありますね。
和田 小雁さんは京都でいらっしゃいますよね。
芦屋 はい、京都ですね。
和田 そうすると大阪に対しても、京都人という意識はありますか。
芦屋 ありますけどね、僕は雁之助よりは大阪の方が多いので、大阪弁でずっとしゃべっていたので、この人は大阪の人やと思われているのでよかったんですけどね。雁之助はまだちょっと京都弁が残っていて、テレビをやっていても京都弁がちょっと出たりするんです。そういうのはありますね。
神山 小雁さんは意図して大阪弁を身につけた?
芦屋 そういうことです。はい。そうしないといけないから。だから浪花千栄子さんなんかでも、大阪弁やと言うてはるけど実は京都弁やった。そういうのはありますね。京都の人は、どうしても京都弁が出てくるという。
日比野 お師匠さんの雁玉さんも京都ですか。
芦屋 あの人は違います。大阪です。
日比野 なんですね。そうするとじゃあ、お師匠さんのところに弟子入りして大阪弁を身につけた?
芦屋 まあ、そう言いますけどね、落語もあれなんかもそうですけれども、師匠が一遍しゃべったことを聴いていて、それを、あ、こういう感じやな、と覚えて自分がこう、やるわけです。それをまた直してもらうという。
 僕らの場合は、芝居とか漫才でもそうですけど、一切教えてもらえない。教えない。見るんですよ、みんなのを。見て、その漫才を見ながら、こういう息か、こういうところへ突っ込まなきゃ、こうしないといかんなというのを自分たちで会得しながらやらないといけないというのが。だいたいそうだった。教えてもらえないんです。
日比野 そうして見ている中で大阪弁のイキを会得していくという感じだったわけですね。
芦屋 はい。

花登筺とその周辺


和田 花登筺さんの話に戻るんですが、当時はOSミュージックも北野劇場も、彼の自伝によればとにかく一手に書いていたと。そうすると東宝が使っている作者というのは花登さんに集中していたんですかね。
芦屋 そうかも分からないですね。つまり[一九五八年四月から一九六〇年二月まで大阪テレビ放送(途中より朝日放送)で放送されていたコメディドラマ]『やりくりアパート』とかがばっと表へ出て、それでヌード能なんかやったりして、花登さん自体がやっぱり第一線、新鋭の作家として売れてきたので、東宝もぐっと握っていたんでしょう。だから北野劇場のショーも花登さんが構成したり、ヌード劇場の芝居を作ったりということがあって、よその芝居にもちょっとこう、目を掛けたりしはったんでしょうね。
神山 あのころ、「笑いの王国」のころは、尼子成夫(あまこなるお)さんとかもお書きになっていましたね。あとは塩田誉之弘(しおだよしひろ)さんかな。
芦屋 塩田さんは直接関係なかったですね。塩田さんはどっちかというと、松竹家庭劇にいらっしゃったので。
神山 そうですか。尼子さんは——。
芦屋 尼子さんは弟子みたいなものですね、花登さんの。
神山 花登さんの弟子に当たりますか。あと宝塚に長くいた方で、宝塚新芸座の脚本を多く書いた方ですけど、香村菊雄(かむらきくお)さんとか、ああいう方はあまり縁がなかったですか。
芦屋 ちょっと縁がなかったですね。
神山 そうですか。だいたい商業演劇の劇作家は忘れられてしまって気の毒なんですけどね。
芦屋 はい。その通り、本当にそうなんです。
神山 相当売れた方でも忘れられちゃうんです。関西でも、本当に花登さんしかもう名前が残ってないような感じですよね。
芦屋 そう、残ってないの。忘れられる。
神山 土井行夫さんみたいな人は最近まで生きていた方なんだけど、土井さんだってもうね。
芦屋 ね。それから藤本義一とかね。それのもっと前は忘れられている。早いです。ちょっと寂しいですね。僕らはやっぱり好きな人もいらっしゃったし。京都伸夫さんとかも、なかなかいい作家なんですよ。
神山 京都さんは映画の脚本も書いていて、僕はあの人の脚本で見た映画はいいと思っていましてね。
芦屋 そうですね。確か宮城千賀子さんなんかのショーみたいなものをやったり、いろいろなことをやってはったんです。
神山 尼子さんはまだご健在だと思うんですけどね。
芦屋 まだ確かご健在です。
和田 『番頭はんと丁稚どん』は、北野劇場で掛けたそうですね。
芦屋 やっています。
和田 それが先なんですよね。つまり「番頭と丁稚」のコントをやって、それが非常に好評だったのでテレビに直したと。
芦屋 そういう可能性が大きいです——一本目はそうですね。佐々やんと崑ちゃんと僕でという感じですよね。それが好評だったのでテレビの方へ行ったんでしょう、きっと。だからテレビでやるものの前に実演があった。
日比野 花登さんのお人柄についてお伺いしたいのですが。
芦屋 僕がやっぱり一番苦労していたときから一緒にやっているんだから、花登さん自身は僕たちを本当の友達だと思ってくれていたんですけどね。
 そのうちに一つの仕組として「笑いの王国」をつくろうということになったときに、新人の子を探してそれを頭にしようという。それが大村崑ということですね。崑ちゃんは僕らが育てて、それで崑ちゃんを頭にして。それで派手に売り出した。
 そのとき、佐々やんと茶川さんは東宝にいたままなので、うちらの劇団には入ってこなかった。それでもお芝居は一緒にやったりするしね。

「笑いの王国」発足時


和田 「笑いの王国」の発足のときは、花登さんから、東宝を抜けて新しい劇団を作りたいという意思があった?
芦屋 うーん、そうでもないですね。東宝の色はちゃんと残しておこうと。それで俺たちで劇団をつくろうじゃないかということになって、雁ちゃん、崑ちゃんと僕と三人が何とかやりましょうということになって、「笑いの王国」という一つの事務所をつくって生徒を集めたんです。笑いを学ぶ生徒を。もう百人を超えるくらい来ましてね。それを全部自分たちで教えながらコメディアンを育てようということになったんですね。それでその劇団ができた。それを今度は興行側が買いますね。買い手としては、東宝にしてみたら色がちょっと合わないのか、松竹あたりが買いたいということになって、だんだん、そうしているうちに東宝から離れて松竹の方へ移ったみたいなことで。
和田 そういうことなんですか。旗揚げ公演は中座ですよね。
芦屋 そうですね。だから「笑いの王国」は[松竹系の]「大劇」もあるしね、ぎょうさんありました。出るところがね。
日比野 松竹としては、ドル箱になりそうだからとにかく取ってきちゃいたいというような思惑があって。
芦屋 そうでしょうね、おそらく。
日比野 花登さんとしては、東宝から独立したいとかいう気持ちではなくて、まず自分たちの劇団をつくって、そこで生徒さんを集めてやりたいという気持ちがまずあったと。
芦屋 花登さんは非常にうまかったですね、話すのが。そういうことについては、東宝へも縁を切らないように、何かあったときには東宝へ行こうと。それでこっちには松竹もあるという感じでね。完全に松竹の中というわけではないけど、「笑いの王国」というのが一つできたから、それはだいたい中座とか、松竹系統の劇場に出ていたんですね。えらかったですね。八本立て。昼四本、夜四本。
神山 まあ、でもあのころの芝居は歌舞伎だってそうですからね。
芦屋 そうですね。
日比野 ただそれを全部一人でやっていたんだから。
芦屋 いや、ほかの作者の人もいましたけどね。でも役者が大変。僕ら何本も出ないといかんの。
神山 花登さんは執筆は早かったと聞きますけど、忙しくてなかなか脱稿できないときもあったでしょう。そうすると装置なんかはもうできているんですか。
芦屋 もちろんそうです。もう最初に自分で案を出して、こういう感じのやつを作っておいてくれと言って。
神山 最後は神社にするとか、それは決まっているわけですね。最後は病院でいこうとか。
芦屋 そうそう。そうです。
神山 菊田一夫さんなんかだってそうですもんね、東京では。
芦屋 だいたい同じですね。もうぎりぎりまでホンはでけへんからね(笑)。そんな人が多かったですもん。菊田さんだけ有名だったけど、そんなことはない。
神山 「笑いの王国」の発足は昭和三十四年[一九五九]ですね。ちょうど東京に芸術座ができるのが昭和三十二年。花登さんは運がよかったのと思うのは、ちょうど芸術座ができたので東京の方にずいぶん引っ張られるようになったんですよね。
芦屋 そうです。だからそこでうまいこと、東宝にもこう。
神山 うまいことね。運だけじゃなくて才能をお持ちだからできたんですけど。
神山 芸術座ができたころ、森光子さんはまだ関西にいらした?
芦屋 もうちょっと前かな。一緒に。僕らはテレビができるちょっと前ぐらいにラジオで「漫才学校」[ABCラジオ放送のミュージカル演芸番組。一九五四年一月九日から五六年十月二十日の土曜八時—八時半放送]というのがあって。これは[ミヤコ]蝶々さんがやっていたんですけど、後半は森ミッちゃんがやることになったんですよ、校長先生を。それで森ミッちゃんがやっているときに僕らはレギュラーで入っていた。そのときは一緒だったですね。森ミッちゃんが先生で、僕らは生徒。
神山 生徒なんですか。じゃあ、森光子の教え子という設定ですね。
芦屋 そういうことですね。

雁之助のセンス


芦屋 「笑いの王国」は――何年ぐらいやったかな?
和田 昭和三十四年からの五年間ですね。
芦屋 五年ぐらいやったんですね。笑いの王国はメンバー的にはそういう感じで、『番頭はんと丁稚どん』が売れていたから、これをベースにした出し物をやっていたけど、それだけではもたんでしょ。何か考えようと。
 なにせ四本もあるわけだから。それで、一本目は若手でみんなで頑張って、中はちゃんとした芝居を作って、最後はぱんぱんとお笑いにしようという。こういうパターンにしてやっていったんですけど、真ん中の芝居がなかなか花登さんから出てこないんです、うまいこといいのが。で、雁之助が案を出したりして。
神山 中山十戒という名前で。
芦屋 いや、その名前じゃなしに、もう陰で。こうした方がいい、この芝居はこうしましょう、みたいな形でね。それで花登さんはそれをホンに書いていた。だから雁之助が言った芝居は後で使ってない、全然。いい芝居がたくさんあるんだけど。
日比野 そういう芝居の筋立ても含めて、雁之助さんの意向が「笑いの王国」ではかなり大きかったと。
芦屋 大きくなった。それで、大きくなると崑ちゃんなんかは困ってくるのね。そういう、いろいろなことがあるから、どこかでもめないといかんことも出てくる。そういうことです。
日比野 小雁さん自身の実感としては、東宝系のショーに比べて、「笑いの王国」というのはちょっと古いという感じがありましたか?
芦屋 うん、そうなんですね。でも『番頭はんと丁稚どん』が面白いからそれはそれでいいんですけどね。もう少し何か新しいのが欲しいなとは思った。
日比野 もうちょっとレビューとかショーみたいなものをやりたい感じがあった。
芦屋 そうそう、やりたい。だから大劇とかにはよく出してもらってやっていたんですけれどもね。
神山 あのころはまた歌手にものすごい人気が出ていたから。マヒナスターズなんかも出ていましたよね、ご一緒に。フランク永井とか。
芦屋 そうですね。あれはうまいこと花登さんが握っているんですよ。フランク永井とかそういう連中の信用を握っている。それでうちらの劇団の中へ放り込んで歌を歌ってもらったり、ショーをやったりして。だからそういう才覚がとてもある。
和田 学校をつくったお話にしても、要するに「育て好き」なんですか。
芦屋 育て好きなのかな。そうでしょうな。そこからわっと出たかといったら誰も出てないけれど。結構たくさんいて。もちろん二座ぐらいか、三座までいかなくても二座ぐらいはあっちでやってこっちでやってという規模になっていたから、分類しながら役者は使い分けしていました。それにしても雁ちゃんと僕と崑ちゃんはどこかへ出ていかないといかんみたいな。芝居も掛け持ちしたりね。

貼り紙事件 「笑いの王国」の崩壊


和田 「笑いの王国」には座頭とか座長みたいなのはあったんですか。
芦屋 結局、崑ちゃんを座長ということにしようということで、みんなであがめて。
和田 ただし実際の先輩後輩でいうと、ちょっとそこはアンバランスなわけですね。
芦屋 アンバランス。そうです。お芝居になったら雁之助がほいっとこう、出てしまうので、まあ、煙たいところがあったんでしょうけど。だから花登さんもそれは承知の上で、雁ちゃんがこういう芝居が好きだったらこういうふうに作ろうと言って。それでだんだん芝居が濃くなってくるんですよ。「笑いの王国」の場合ね。それで、これではいかんなという。
 あとはお笑いになってきたら、お笑いの中で雁之助は、ちょっとほかしているんじゃないけれど、つまらんことを言って笑わせること、アドリブを言う。花登さんは後半、アドリブは嫌だと言わはったけど、雁之助は平気でアドリブを言ったりして笑わせる。そうするとほかの役者さんが嫌がったりする。
 特にその当時は花登さんのお嫁さんがいらして、由美あづささんという人が。その人が、雁之助さんがいつも私のことをこういう具合に言うのよ、とかいうことを寝物語にお父ちゃん[花登]に言うんでしょう。それでお父ちゃんが怒ってね。あくる日、これぐらいの紙を書いて「アドリブ一切禁止」やと。舞台でこういうことを言ったやつがいるけど、今後、そういうことを言わないでくれと貼りだした。みな分かっているのよ、雁之助しかおらへんので。
 みんながそれを見るので僕は貼り紙を破って、花登さんに、言って悪いけど雁之助にこれを直接言ったらいいと言った。その方がまた本人が分かっていいからと。花登さんは書くのがどうのこうのと言うから、よし分かった、勝負つけよう、表へ出なはれと。僕は喧嘩するつもりでわーっと言ったの。それが一つの分かれ目のあれです。
日比野 その事件は花登さんバージョンではちょっと違う話になっていて、『私の裏切られ史』によると、貼り紙をしたのは、雁之助さんが化粧をしないでスッピンで舞台に出ていったからだと。そのことについて貼り紙を――貼り紙をしたということ自体は同じなんですね。それを見た小雁さんが怒って文句を言いに行ったというお話になっている。流れは同じなんですけど。
芦屋 同じなんですよ。ネタが違うだけで。
日比野 似たようなことを何度もやっていたということなんですかね。
小雁 そうそう、そういうこと。でもメークの問題は僕ら覚えてないしね。雁ちゃんは、たしかに遊びがちょっと度が過ぎるということは、あることはあるんですよね。あの人は笑いを取るときにかんかーんと笑わせたりするので、ほかの人がやっぱり嫌がったりするんですね。ちゃんと芝居をしているときはちゃんとやるのに、お笑いになったらもう何かこう、めちゃくちゃになってくるんですね。
日比野 もしかしたら花登さんのお話は、花登さんの都合のいいように少し変えていて、結局は小雁さんがおっしゃるように、アドリブ禁止令の貼り紙だったかもしれない。
芦屋 そう、それです。
和田 あと重要なのは、花登さんの本では、奥さん経由で吹き込まれているという部分は一切書いてない。
日比野 あ、いやいや、ちょっとあります。ちょっと書いてあります。
芦屋 ありましたか(笑)。
日比野 ええ。そこは素直に。
芦屋 僕はあの本は読んでないから大丈夫。読んだら腹が立つから。
和田 元宝塚の方ですね。
日比野 「笑いの王国」が終わるとき、やっぱり花登さんが大村崑さんを連れていったんですか。
芦屋 そうです。
日比野 あのときは、花登さんは最初から大村さんと一緒に出ていくつもりだったんですかね。出来事を追うと、花登筺が東宝に行くと、その後で東宝の仕事をされるわけですね、大村さんは。
芦屋 そう。
和田 だから付いていったように見えるんですよね。
日比野 そうそう。澤田さんとの「ちくま」の鼎談では、大村さんは偶然、東京に移ったら花登筺さんと一緒にやるようになったという言い方をされているんですけど。
芦屋 全然、全然。
神山 どうしても雁之助さんというと、『おもろい女』の芝居を思い出してしまうのでね。あれはもうほかの人にはできないですもんね、まさに。
和田 すごく興味深いのは、小雁さんの書かれたご本なんかを読んでいますと、雁之助さんご自身の趣味は、アメリカのミュージカルとかモダンなものがお好きなわけですよね。
芦屋 そうなの。だいたい僕が仕込んでいるからです。
神山 でも実際に舞台でやるのは、やっぱりちょっと古い感じのお芝居が。
芦屋 そうなんです。それでうまいしね。だからそれはそれでいいんですよ。ただこんなことだけではいかん、若いのをちょっと入れないとあかんと僕は言いました。映画もそうなんです。映画のフィルムを集めるときも、これにしようやないかと言って。あの人、歌劇は嫌いだけれども歌劇を集めさせたり、それからミュージカルを集めようと言って僕がミュージカルと言って、そうしたらあの人はミュージカルのコレクションが増えたり。
 でもまあ、あんなにフィルムをためたというのはね。僕らは六百本以上集めていたんだからあほや。家三軒ぐらい買えるぐらいあったね(笑)。
神山 昔はフィルムが高かったですからね。
日比野 だって日本で小雁さんのうちにしかないフィルムが何本もあった。
芦屋 何本もあった。はい、もう。

作家としての雁之助


和田 雁之助さんに関して、役者ではなく台本作者としてはどういう評価をされていますか。
小雁 うまいですよ。うまいです。これはやっぱり絶品というやつがたくさんあるんです。さっきの「笑いの王国」の芝居の中にもあるんですけど、名前が表に出てないから分からないですけれども、いいのがいっぱいありますね。ああ、やっぱりうまいな、とかね。喜劇のものも作るのがうまいし、ちゃんとした芝居を作るのもうまかった。
神山 それはだいたい中山十戒という名前で発表した?
小雁 中山十戒ばかりじゃないと思うけど。ほかの名前も使った。
和田 それはいわゆる口立てじゃなくて、本当に書く?
芦屋 それはもちろんちゃんと書いて。
和田 じゃあ、書くことはお好きだったんですかね。
芦屋 好きやったよね。
神山 東京でも東横ホールなんかで喜劇座をやったときは、雁之助作品がありましたね。
芦屋 そうです。雁之助の本です。
神山 小雁さんは、覚えていらっしゃると思いますが、[集団就職のために東京に出てきた青年労働者の親睦会]「若い根っこの会」を題材にして何かやったのは覚えていらっしゃいます? 東横ホールで。
芦屋 『どんぶらこ』ね。あれを東横でやったの。それで新派の人を入れたり。
神山 そうですね。新派の方が入っていますね。
芦屋 それはもう「笑いの王国」を離れてからの時期ですけどね。
和田 そういう芝居は、団体の皆さん[組織の会員]が見るということなんですか?ちょっと話はそれますけど。
芦屋 うーん、そうでもないね。「根っこの会」の人たちも一応見られるけれども、そればっかりじゃない。一般の人が来ます。
神山 それは何本立ての一本ですものね。
芦屋 そうですね。
神山 あとほら、雁之助作として[後述の劇団喜劇座の事実上の旗上げ公演として一九六四年七月南座で上演した]『雁四郎一番手柄』とか[中座で一九六八年八月に上演した]『お祭り雁六』とか捕物帳みたいなものもありました。

大阪の作者たち


芦屋 喜劇座という劇団にいたときには、一応、茂木草介、藤本義一、土井行夫。この三人が専属の作者だった。皆それぞれ色があって面白かったです。やっぱりうまいのは茂木さんやね。茂木さんはほんまうまかったな。あの人は大阪弁の台詞が、非常にしゃべりやすいホンを書いていらした。いい芝居がぎょうさんありました。ちょっと奇抜なのは、やっぱり藤本義一ね。
和田 やっぱり大阪の芝居というのは関西の作者の方がいいですか。
芦屋 そうでしょうね。茂木さんが書かはるやつは本当の大阪の流れをちゃんと守って、藤本義一さんは大阪というのはあんまり考えない。『トーチカの五人男』[上演年・劇場不明]とかね。どんなんやといったら戦争物やね。そういうのを平気でぱっとくださるから、それはそれなりに面白かったですね、お客さんから、あまり面白いと言われなくても、わしらやっている者は面白かった。ちょっと変わったことをね。
和田 さっきの「笑いの王国」の最後の方での「貼り紙」事件ですが。色々あって、雁之助・小雁兄弟も、後には大村さんなんかも離れちゃうわけですよね。ということは、花登さんがその十年ぐらいの間にやっぱり変わってしまった部分があったのでしょうか。
芦屋 それはそうです。ということは、つまり僕らがそうやってお芝居をやっているうちに、だんだんほかの劇団のホンを、例えば松竹新喜劇、それから新国劇というような芝居にも書かれるようになって、そっちに流れているうち、今度はテレビの方でも根性物がどうとかで。根性物が出てきたら、もう僕たちの笑いはあんまりいらない。お笑いはいらないという感じになってきた。それで、使うのだったら崑ちゃんを使っておこうかという流れになって。だから結構いい芝居がたくさんあったでしょう、テレビはね。いい芝居というよりも——。
和田 当たった芝居ですね。
芦屋 テレビドラマでね。ただ、雁之助と僕の二人は花登さんとは喧嘩しているけど、僕だけは呼んでくれるんです。喧嘩したってね、一番、喧嘩した本人なのに、ちょっとおいで、とか言って呼ばれて、何ですかと言ったら、お前ちょっとテレビ出ろよと。はい、それなら出してもらおうかと。それで結構たくさん出ているんですね、そういうドラマには。
神山 花登さんの根性物というか商魂物みたいなのは、やっぱりオリンピック以降ですよね。
芦屋 そうです。
神山 伝説が生まれるでしょう、新幹線の中で一本書いたとか。
芦屋 そうです。車中で書いたとね。
神山 あのころからやたらにこう、商魂物みたいな、根性物みたいなものを花登さんが書くようになった。
芦屋 はい。だから書いてはるけれど、一番そこが偉いところで、御本人もたくさん書いてはるけれど、もっとたくさん仕事はあるので、だから尼子ちゃんとか、ずいぶん悩んでいた。東宝の男の人。
和田 花登門下のような作者のかたですね。
芦屋 そのころ、若手でいてはる人が三人ほどいたんです。みな花登さんのホンを書いて、それを花登さんが直して自分のホンにしたり。
神山 やっぱりそうですか。菊田一夫さんもそうですけれども、やっぱり実際に書いたのは弟子筋の若い人で。
芦屋 ええ。それを全部直して。
神山 最後にちょっと見て直して、花登さんの名前で出すわけですね。商業演劇はそういうのが多いからね。
芦屋 うん。やっぱりあんな、八本九本と請け負ってるんだもん。
和田 貼り紙事件の後、雁之助・小雁兄弟は[一九六四年に]「喜劇座」を立ち上げる。これは小雁さんと雁之助さんが松竹に残り、新たな作者を迎えて劇団を続けていこうという経緯ですか?
芦屋 そういうことです。それで結局、茂木さんと藤本義一さんと土井さんがいらっしゃって、三人の本を作っていって、ここはこうしてこういう具合にしたいな、なんて言っているうちに、見ているお客さんが、喜劇座という名前なのに、見たら喜劇じゃない。九州の芝居を見るつもりが北海道へ行ったみたいな感じだと言わはるようになった。
神山 文芸路線なんですね。
芦屋 雁ちゃんが偉いのは、司馬遼さんと山本周五郎さんのところへちゃんと行って、すみません、やらせてくださいと言って玄関で頭を下げてお願いして。それならやらせてやる、その代わり大阪だけにしておいてくれよというような約束がいっぱいあって。だからうまいこと雁ちゃんは有名な作家のところへは行って原作をもらってきて。その本もヒットした有名作だけじゃなくて、今まで書いてはる中のちょっとしたものを全部いただいたりしてね。それでいいホンをつくった。
 だけど、その路線をやり過ぎたので、僕らもそれをいい気持ちでやっていたけど、お客さんにそう言われたらそうやな、お笑いやってへんな、ということになっていくんですよね。
日比野 茂木さんとか藤本義一さんを引っ張ってきたのはどなた。
芦屋 それはもう僕たち、雁之助と二人で。
日比野 最初から。喜劇座を旗揚げするときに。
芦屋 はい、そうです。お願いして。
日比野 彼らに目を付けたきっかけはあったんですか。
芦屋 大阪の新劇の劇団の作家さんですね。やっぱりそれは新喜劇でやってはるような作者の人たちとはまったく違うので。この人たちに頼もうやないか、という判断です。だから少しは芝居を新しくしようという考えがあった。
和田 言ってしまうと、松竹新喜劇よりちょっとレベルを上にしたいと。
芦屋 はい。もう新しい芝居を作りたかったんですよね。
和田 そうしますと例えば中座なんかでも、松竹は松竹新喜劇もあり、喜劇座もありという、二つ劇団があるのですね。
芦屋 はい、そうです。それでもうしょっちゅう交互にやっていたんですけど、やっぱり寛美さんなんかはよく見に来ていた。それでまあ、何も言わんけど、見ておかんとちょっといかん、みたいなものがあったのだと思いますけどね。
日比野 逆に松竹新喜劇に誘われたりも?
芦屋 それはありました。もっと前ですけどね。喜劇座をつくったときぐらいのころ、渋谷天外さんが何だったらうちに来ないかと言ってくれはった。二人揃ってね。それで新喜劇の芝居やで、と二人で考えて「これはちょっとやめておこうか」ということになったんですね。
 それからもうだいぶ後ですね、寛美さんがふーっと出てきはったのは。そのときはぎょうさんいたんです、また。明蝶さんやら五郎八やら、いっぱいね。そこの中に僕ら二人が入っていったら、またちょっと大変やなと。寛美さんも下の方にいてはったのでね。
神山 「笑いの王国」の初期は顧問みたいな名前で、今東光さんと天外さんと秋田實さんの名前が並んでいる。
芦屋 そうなんです。
神山 今東光や秋田實の人物にかんして印象はありますか?
芦屋 秋田先生は僕ら知っているけど、今東光さんはあんまりね。[小説を舞台化した]お芝居はさせてもらっているからね。
 秋田さんは、僕らが漫才をやっているときからの付き合いですから。昔、その当時エンタツ・アチャコさんとかワカナ・一郎さんという漫才を、[作者として]もう一世風靡してやらはるようになって、あの人も大学出だから、そこそこインテリな感覚があってよく売れていたんですよね。その辺はよかったんですけど、後半になってきたらやっぱりだんだんとあれになってきて、僕たちも書いてもらったんですけど、これちょっと面白くないなとか、もうこの人あかんで、というようなことを言ったことがあるような気がするんですよね。
神山 やっぱりちょっと古くなっていた?
芦屋 古いです。はい。やっぱり時代の流れというのはありますね。

面白かった舞台人たち


神山 小雁さんは子供のころ、ミス・ワカナはご覧になっています?
芦屋 見ています。知っています。
神山 見ていますよね。終戦後ちょっとまで生きているんですからね。やっぱりワカナはすごい感じしました? 
芦屋 うん、まったくね。七色の声みたいにいろいろな声が、子供の声やらいろいろな声が出る。それで歌は歌わはるし漫才は面白いし。それから一郎さんは、何言うてんのお前、何やねん、とそれだけしか言うてはらへんの。だけど面白かったです。お芝居では曾我廼家五郎さんも見ました。
神山 見ました? もう声はあんまり出ていなかった?
芦屋 ちょっとしゃがれ声で。
日比野 家庭劇の十吾さんは?
芦屋 面白いね。もうこれは最高に面白いですね。やっぱり喜劇座になってからかな。頼まれてよく行きましたけど。雁之助と僕と。
神山 あれは読み方はトウゴさんですか。
芦屋 いろいろな言い方をしはるのよね。僕らはトウゴさんと。
中野 トウゴが最初で、戦時中にジュウゴと呼ばれることが多くなり、時代的にそれでいいやと否定しなかったので両方の読み方が定着したという説があります。戦後はジュウゴと呼ばれるのを好まなかったという話も。
芦屋 十吾さんは面白い人。面白くて、とにかく僕らがやっているお芝居でご一緒すると、自分たちが持っているお芝居をやらしてくださるんだけど、ざら版紙にせりふが書いてあるんですよね。それが台本。大きい字でがーっと書いて、五枚ぐらい。それで二時間の芝居(笑)。どないすんねん、これ、というような。これをずっと書いてはる。それで正確にそれを読むのかと言うと、それ違う、ここに書いてあるのは筋書きだけ、あとは自分で考えなさいと。そういう芝居をする。その当時は全部そうだったの。だからすごかったですね。皆さん引き出しを持っていらしてね。
 だからお芝居をやると、役によって、自分が息子だったら息子の役で、かりに真面目な息子なら、それに似合う台詞を自分でいっぱい持ってはるのよね。それでお母ちゃんが何か言わはったら、そのストックで突っ込む。お母ちゃんはそれに反応して、言い返す。これ全部アドリブ。アドリブで言わはる。ホンに書いてあるのは筋書きだけだから、その通りには言わないわけ。
 僕らがそれを言うでしょう。それでちょっと知ったかぶって、えらいことをちょっと言うと、十吾さんのお母ちゃんは知らん顔して楽屋へ入ってしまうの。お母ちゃんがおらへんと芝居にならへん。そうなったらうわーっとなってばーっと走って連れ戻しに行くの、楽屋まで。それで座っているやつを引っ張って、こうやってだーっと連れてきて座らせて、また芝居を始める。そんなことがしょっちゅうあって。面白い方だったね。
 それで幕がすーっと下りると、あのなあ、とこう、じっとしてはるわけ。それで、あそこなあ、ああと違うの。ここはこうやの、とか言って。それで、ああ、そうか、なるほど、そうかと思う。けど、あくる日にやったら今度は全然違う芝居をやると。そんなことは平気だったですね。やっぱりすごかった。演出もうまかったしね。
神山 十吾さんはやっぱり楽屋ではわりと静かでしたか?舞台で見るような感じでしょうか。
芦屋 はい、そうです。あの感じ。
日比野 ただ、だめ出しはすごく厳しかったと。
芦屋 それは厳しかったですね。
和田 喜劇座当時、松竹新喜劇に客演はされたことは。
芦屋 ないです。ただ、合同でちょっとやるか、というときはあるんです、たまに。劇場で一カ月やるんじゃなしに、ちょっと何日か一緒にやろうと。
和田 催しとして。
芦屋 はい、催しとして。それはありました。
ほかに面白かったのは、誰だったかな。歌舞伎座で十吾さんと芝居をやったときに、伊藤雄之助さんと明蝶さんと、それから浪花千栄子さんとか、そんなごついのばっかり出ていて、雁ちゃんも僕も出ているの。それで幕がすーっと下りたら伊藤雄之助さんは、すーっと逃げて帰る。必ず十吾さんに何か言われるものだから。そういうのがあって面白かったですね。
神山 それは千日前の歌舞伎座ですか。
芦屋 そうです。もう笑うわ。それが毎日だからね。幕が下りたらそこで言われるのだからね。あそこはこうと違う、とか言ってね。
神山 千日前の歌舞伎座は上にスケート場か何かがあったあれですか。
芦屋 いや、それじゃないです。そこに元歌舞伎座があったんです。それが向こうへもう一つ移動して。
神山 だとすると新歌舞伎座ですか?
芦屋 新歌舞伎。そうです。
神山 そうか。松尾國三さんの。
芦屋 はい、そうです。

「てなもんや三度笠」の周辺


和田 テレビの作者ですけど、香川登枝緒さんと接点はございました?
芦屋 うーん、僕は――雁平ちゃんが一番親しかったので。僕はあんまり親しくないんですね。雁ちゃんも親しくないんです。要するに、藤田まことさんが出てきたときに出てこられた人だから、その人のお芝居をやるとかやらないというのは一切なくて。だからテレビ局で『てなもんや』に出してもらったときに作者として会う程度のもので。もともと大阪の人ですけどね。
 はっきり言って僕らは、この人のホンは大したことはないな、と思っていたんですけど、やっぱり偉いのは澤田さん。澤田さんがこのホンに対してこう演出しようというのをはっきり持って作られるので。澤田さんの力が大きかった。
神山 澤田さんが香川さんのホンをうまく直すからよかったということですね。
芦屋 そういうことです。
日比野 稽古中に香川さんを怒鳴りつけたという伝説がありますよね。
芦屋 もうしょっちゅう、そんなことは。
和田 そうですね。澤田さんの直しの要求はすごかったといいますよね。
芦屋 ああ、もううるさかったですね。
日比野 でも香川登志緒も「蛙の面に小便」でまったく動じなかったと。
芦屋 動じない。そうです。そういう人です。
神山 もっと古い人ですけど、長谷川幸延はあまり面識がないですか。
芦屋 ないですね。原作の芝居で出ているかも分からないけどね。えーと、あの人がやっていたな、北條秀司さん。仲がよかったから。
 北條さんでは、『将軍』とかいう芝居があったね。『将軍』にお前出てくれと。はい、そうですか、分かりましたと。それで、ホンを見たけど、あ、こんな息子さんの役できませんわと、僕は平気で言うの。悪いけど先生、これは無理ですわ。僕はあほな役専門だからこんな役はあきませんねんと。そうか、お前あほか、よし分かったと言って、それで自分でせりふをちゃんと変えて面白くしたんですよ。それで出してもらった。ただし、きついのはものすごくきつかったですね。雁ちゃんなんかもうごっつう何か言われたりしていたから。うるさい人やなこの人は、と思ってね。
日比野 でも北條天皇といわれた人でありながら、役に合わせて書き直すことはいとわなかったということですよね。
芦屋 そういうことです。あの人は変な役者が好きなのかも分からんね。僕から見て、この人下手なのにな、と思うけど、ずっと守ってはるとかね。そんなのがあるんですよ。そういうのが多かった。
日比野 『てなもんや』に話を戻しますと、藤田まことさんと共演をなさって、その後、新演技座の旗揚げ[一九七八年七月・中座]にもお兄さんと一緒にされていますね。
芦屋 はい。本当はね、新演技座というのをまことさんがつくって僕たちと一緒にやろうという話だったの。それがモットーだったんですけど、雁之助自身は、喜劇座みたいなものをちゃんと守っていきたいので新演技座をつくってそっちにいくのはちょっと、ということになったんですよね。僕は構わないんです。僕はまことさんと一緒にやってもいいなと思っていたんですけど、結局それはもうならんじまいに。あとは客演で僕はしょっちゅう出ているけど、雁之助は少ないんです。
日比野 新演技座というのは藤田まことと、座付きの竹内伸光と二人だけの劇団なんですよね。
芦屋 そうですね。
日比野 本来はレギュラー陣という形で小雁さんとか雁之助さんが入って。
芦屋 本当はね。そうしたかった。
日比野 けれども、雁之助さんが反対なさっていた。
芦屋 そんな感じですね。
日比野 逆に言うと小雁さんが新演技座旗揚げに参加しようと思われた理由は。
芦屋 やっぱり向こうは結構モダンだし、面白いなという。明るいしね。僕は付いていってもいいなと思っていたんです。
和田 香川さんが書いているのを見ると、藤田さんも根っからの大阪人とはちょっと違う感じがあるという。
芦屋 うーん、関東の人ですね、もともと。
和田 どこか東京の雰囲気があるというふうにいいますね。
芦屋 そうそう。
神山 だってお父さんが藤間林太郎ですもんね。
芦屋 はい。そうなんですよ。やっぱり面白かったですよね、まことさんもなかなかね。その当時は面白かったですね。のちにはちょっと「堅め」のほうに入っていかれたから。
日比野 やはり日本の役者さんって、面白いことをやっていても、だんだん地位を築くと——。
芦屋 堅いものをやる。
日比野 森繁久彌さんがその典型で。
芦屋 もうそうなるんだよね。いや、そういうのばっかり続けろといっても無理なんだけれども、堅いものをやりながら、やっぱりお笑いを忘れてはあかんというのがあると一番いいんですけどね。

印象的な共演者たち


神山 あとさっき大劇のお話を伺いましたけど、フランク永井とかマヒナスターズとか、橋幸夫さんとも一緒に出たことがあると。
芦屋 はい、そうです。
神山 高田浩吉は?
芦屋 あります(笑)。
神山 どんな方でしたか?
芦屋 やっぱりもう普段も化粧して。それで少しやっぱり女っぽい方だからね。僕はあの人と一緒に食事して、僕が女形か何かで、「全然感じ違うがな」。あの人が女形だったら分かるけど、あの人がやくざのがっとした役で、僕が女形で出ていって、「小雁ちゃん、ここ教えるからな」とか言って教えてもらいまして。
神山 高田浩吉は、信じられないけど明治生まれなんですよね。
芦屋 そうなんですよ。
神山 それで橋幸夫なんかと一緒に出て歌っていましたもんね。
芦屋 はい。あの人の一番最後は、うちの劇団でやったやつ。
西部 うちですね。御園座の年忘れ十二月公演で。
芦屋 何だったかな。
西部 桂小五郎をされました。『珍選組』という雁師匠の書き下ろしの作品で、お嬢さんの美和さんが幾松をされて。もう本当に最後ですね。
芦屋 もう歩けないような感じで。それをお嬢ちゃんがこう、うまいことして。
西部 幾松ならずっと横にいられるからというので、その役を雁師匠が作られて。本番でピストルを撃つのがあったんですけど、あるときピストルを持って出るのを忘れられたんですね。そのピストルがバーンで幕、暗転になるんですけど。それでどうされるのかと思ったら、バーンと口でおっしゃって、さすがすごいな、動じないという。
芦屋 喜劇座で僕らものすごくよかったなと思うのはエノケン先生、森川信さん。だからそこそこ有名な喜劇人の人も一緒に出してもらって。エノケンさんなんかは絶対関西で、合同でやられることはない。けれども、僕のところにちゃんと入ってくださって、『孫悟空』と『坂本竜馬』と二本立て[一九六六年九月・南座]でやらせていただいた。
神山 そのころはエノケンさんはまだ動けたんですか。
芦屋 いやもう動けないけど、でもまあ、いろいろ工夫をして大丈夫でした。ちゃんと最後までやってくれたのでうれしかったですね。そういうことがあるので、結構いい目をさせてもらっています。やっぱりエノケン先生と出ておかなかったらあかんわね。東京の人だからとかそんなことじゃなしに。
 うちのところで一番多かったゲストは誰かな。
神山 喜劇座には志ん朝さんもよく出ていましたよね。
芦屋 志ん朝さんが喜劇座にはたくさん出ているの。あの人はやっぱりうまいし、よかったですね。
神山 志ん朝さんは東京でも芸術座にずいぶん出ていたし。
芦屋 そうですね。結局僕らが大好きでいつも来てくださるので。
日比野 志ん朝さんは、芝居の師匠は三木のり平だとおっしゃっていました。
芦屋 なるほど。
和田 漫才出身の共演者は?
芦屋 忘れてはいけない、いとし・こいしさん。いとし・こいしさんは、僕らのお芝居はずっと一緒にやっているので。
和田 いとし・こいしさんも、さっきの話で言うと音曲ではない漫才ですね。
芦屋 そうです、そうです。もう話術だけで。面白かったです。
神山 そうですねえ。テレビの司会などでも面白かった。それまでの、捨丸や春代という人たちまでは、やっぱり子供心に、まだ言っていることがよく分からないですから。
芦屋 ああ、そうか。そうやね。
神山 だから子供の耳では、明治・大正生れの世代の方の関西弁は分かりにくいんですよね、正直言って東京の人の耳にはね。
芦屋 そうでしょう。
神山 三木のり平さんとはご一緒には。
芦屋 もちろん僕らはあります。
日比野 三木のり平さんはどんな方でしたか。
芦屋 のり平さんは僕もそんなに詳しくはないのであれですけど。あんまりべらべらしゃべられる人と違うのでね。だからその辺がちょっと難しいな。面白い方なんだけどね。ただ——
日比野 お芝居をして、演出をされたときに——
芦屋 うまい。それで明治座で『四谷怪談』をやったの。京塚さんと[一九七六年七月『喜劇・四谷怪談』]。僕も出ていて――何の役だったか忘れたけど、そのとき、のり平さんは二役やったわけね、伊右衛門と宅悦かな。はじめ、これを交互にやるとか言っていらしたんですけど、宅悦を小雁ちゃんやってくれないかと言って。それで頼まれて僕は宅悦をやったりして。それなりに仲良くはしていたんだけど、あんまりしゃべってないかな。
日比野 それはわりと伝説的な『四谷怪談』で、ちゃんと討ち入りの話から続けるという設定でやっていたんですよね。
芦屋 そうそう。
和田 脚本は小野田勇ですか。
日比野 いや、三木のり平作、演出です。

終戦後の大阪にて


神山 小雁さんは戦争中は疎開なさったんですか?
芦屋 疎開はしてない。
神山 疎開はしてないわけですね。では大阪の空襲のときも。
芦屋 京都です。
神山 そうすると、戦後すぐに藤原釜足さんとかああいう人が、大阪なんかで芝居をしたのをご覧になっているでしょう。
芦屋 そうです、そうです。はい、覚えています。もうもう。
神山 澤村國太郎とか。
芦屋 はい、見ています。というのは、戦後すぐに僕は年を隠して――小学三年? 四年か。
西部 終戦が十二歳、小学校六年生。
芦屋 終戦がそうか。ちょっと年を上に言って、高島屋の宣伝部でちょっと[広告の]絵を描いたりしている間に、花月劇場という京都の看板を描いたりして。その時分から、ゲイ・フォーリーズという名前があって、藤原釜足さん、泉和助さんとかね。もうあの辺の人のものを一通り全部見ています。
神山 [元宝塚少女歌劇団の]霧立のぼるなんか出ていました?
芦屋 はい、出ていました。
神山 僕は霧立のぼるが新派に来てから見て、きれいなのでびっくりしたね、子供心にね。まあ、結構いい年だったんだけど、すごくきれいに見えるんですもんね。
芦屋 そうそう。それで中村メイコちゃんも姉ちゃんと一緒にやってはって。なかでも釜足さんは面白かった。
神山 剣劇はご覧になっていますか?
芦屋 もちろん見ているんですけど、いいところを見てない。僕は今でいうとどさ回りみたいに、ちょっと二流か三流どころの。でも面白かったですよ。すごいのはやっぱり金井修さん。
神山 金井修は有名ですよね。
芦屋 彼は立ち回りがうまかった。覚えています、子供時分にね。
神山 あと辻野良一という、関西ですごく人気があった剣劇。
芦屋 はい。これも知っていますね。辻野良一はぎょうさん見ていますわ。それから中野弘子。この人はよかったですね。女剣劇。
神山 あと関西の女剣劇で、東京にはほとんど来てないんだけど、大内侚子という。
芦屋 大内侚子。あの人も有名だったけれども、それは——。
神山 中野弘子より落ちます?
芦屋 ねえ、それは。でもそこそこいいところまでいって。その人たちはのちに松竹芸能というところへ入って僕たちと一緒にいつも芝居をしていた。普通の芝居を。
神山 そうですか。普通の芝居も入っていたんですか。そのころはもう勝[忠男]社長のころですか。
芦屋 そうです。

デザイナー芦屋小雁


和田 小雁さんは舞台美術を自分でされたことはあるんですか。
芦屋 美術はどうだったかな。やってないか。
西部 くるみ座。
芦屋 ああ、くるみ座ではやっていたね、京都のくるみ座というところの、僕のお師匠さんになる人と二人で物づくりをして、舞台装置を全部。
西部 毛利菊枝さんの劇団です。
和田 キャリア的には、当然されていてもおかしくないですね。
芦屋 やっていてもよかったんですよね、本当はね。商業美術で高島屋なんかに委託で入っているときから、もうこれは絵の勝負やなというような感じでね。ウインドー装飾も好きだったので、ウインドー、それから舞台装置とかね。それをやったらいいな、なんて思っていたんですけど。でもそんな仕事があんまりなかったんでね。
和田 筒井康隆さんも、作家になる前は百貨店の装飾を[乃村工藝社で]されていたんですよね。
芦屋 そうですか。
和田 そうなんですよ。
西部 いま小雁さんのやるお芝居はすべて、広告美術、チラシ、ポスターは小雁さんが担当で。
芦屋 はい。もうポスター描いたり。

梅田コマ劇場


神山 僕は新宿のコマ劇場は何度も見ているんですけど、梅田のコマはとうとう見られなかったんですよ、梅田コマはやっぱり芝居はやりにくいという感じですか。そうでもないですか。
芦屋 そうでもないです。新宿コマの方がやりにくいです。周りのこれ[上手、下手の角度]がきついのでね。普通、ここでこう動かないといかんやつをこっちを向かないといかんとか、こう歩いていて、どこまで来たら見えるのかとか。計算しなくてはならない。盆が少し大阪の方が小さいです。
神山 小さいんですか。いや、梅田コマは、ほかの役者さんに聞いても、それからスタッフの方もすごくやりにくかったと言うんですけどね。
芦屋 そうでもないです。まあ、やりにくいって言っても、やっているうちに慣れてしまうんじゃないの。
 ただ袖にいる感じがちょっと違うのでね。こっちの袖にいて、舞台が円形になっているから向こうの袖の人が出ているのか出てないのか分からないのはあるけどね。
神山 新宿コマは屋台を組むと、何かすごく奥になっちゃったような気がしますね、僕たちが客席から見ていると。
芦屋 そうですね。

映画の演出 映画のスター


神山 勝新太郎さんとは映画だけですか。
芦屋 映画だけ。一緒に御飯食べたりしたこともあったけど、強い人でね、ワンマン的やね。だから大映にいたときは[市川]雷蔵さん派、勝さん派とはっきり二つに分かれていた、役者がね。
神山 そう聞きますね。脇にいる方も全部。
芦屋 そうなんです。だからちょっと広場があったら、そこで相撲をやっているのは勝さんのところ。それで相撲をやってない、静かにしてるのは雷蔵さんのほうとかね。そんな感じだった。
 僕らはどっちかというと勝さん向きの方の仕事が多いので、まあまあ、一緒にわーわー言いますけど、本当は雷蔵さんと一緒にやりたいなと、そればっかり言っていた。それで雁ちゃんと二人で、うらやましいなと。見てみい、あそこでブランコで本を読んでいるのは雷蔵さんやで、雷蔵さんはええなあ、とか言って。そういうスタイル。分かるでしょう。もう相撲と、ブランコで本を読んでいるのとはね。実にそういう感じの人だったですね。ええ感じだったですね。二本くらいは雷蔵さんと出ているかな、僕らも。
和田 マキノ雅弘監督とは。
芦屋 マキノさん。これは面白いですね。マキノさんは、雁ちゃんは三本出たかな、僕は映画は一本も出て――いや、あの一番最後だけ。『悪名一番勝負』[一九六九年]。あれだけ。その前は舞台で一緒に演出をしてくださった。そういうのはあったけど、僕はそれしかないです。
 ところがそのずっと前からマキノさんはよく知っているんです。うちに遊びに行ったり、お前、どないしてんねんとかいろいろ話を聞いてくださったりして。面白い監督さんやね。素晴らしいです。
和田 それは京都でですか、縁があったのは。
芦屋 そうなんですよ。旅館に泊まっていらして、そこの旅館へ僕らがちょっと遊びに行ったりして。まあ、しょうもない話ばかりしていたけどね。でもなかなか偉いなと思うのは、やっぱり演出をされたときに、映画でも、女の人が何か持ってきて、しゅっとこう、やったら、あ、そこ、そういうのと違うと言って全部自分がやる。形をね。こういう形やでと。もともと女形だからきちっとやらはるんです。ものすごくきれいで、うまいなと思うね。だから、ラブシーンがむちゃくちゃうまい。
 ここに一つの木があったら、この周りを男と女がこう、回っていく芝居をつけて、カメラを一緒にこう、うまく回して、実にええなあ、この人の映画、というようなね。
和田 舞台では喜劇座で『次郎長三国志』を演出されていますね[一九六五年三月・中座]。
芦屋 そうなんです。『次郎長三国志』をやりました。それ一本だけですよ。ぽこっと出て舞台でやった。何でかといったら、雁ちゃんや僕らは、そういうお友達みたいな付き合いがあったので、それで無理にやってもらったという。
和田 現場での段取りが巧い監督だったと言いますね。
芦屋 僕ら、芝居をやっていても、何かしゃべりながら、ここはこうやでと言ったら、あほか、お前はと言う段取りがあるとしますでしょ。すると、お前、そこ、ぐるーっと回ってしゃべれや、とかね。これだけの動きをつけてくれはる。一般の役者ではちょっと考えにくいことを、カメラがこうだからこういうふうにこう、回ってしゃべって、これだけの長さをしゃべりながらこう行けとか、そういうのをみんな教えてくれる、細かい。だからやっぱり映画を見たら、なるほどな、という感じで。
和田 マキノ監督の本を読むとすごく具体的で、要するに男女が一緒にいるシーンでも、すでに関係のある男女はこういうしぐさをする、まだ関係前の男女はデートでもこういうしぐさをするということが、まるで踊りの「型」みたいな感じなんですよね。
芦屋 そうそう。
和田 そうやったらそう見えるという。面白いんですよね。腰の位置が違うとか、そんな話だったと思いますけど。
神山 長谷川一夫さんとはご一緒されましたか? 大映では。
芦屋 あれは雁之助。それから雁平。
神山 小雁さんは出てない。
芦屋 ない。でもお食事なんかは雁ちゃんと僕なんかでね。
神山 長谷川さんは、そういうときは楽しいでしょう。
芦屋 雁之助のことが好きなんです。
和田 やっぱりそれは芸の質として雁之助さんが。
芦屋 男としてもそうかも分からないね。その辺はよく分からない。優しい人だしね。
神山 そうですってね。いまのマキノさんの演出法のはなしで思い出したんですよ。長谷川さんもそういうところがありましたでしょう。つまり形で見せる。女の人が、袖をここまで見せると違うとかね。ここまで出しちゃうとこう見えるとか。
芦屋 手甲脚絆のね、手甲がこんな短いやつがあるんですけど、これは長谷川さんが考えられた。普通はここまであると。それを短くしたらちょっと粋にできるとかね。あとは照明にうるさいとかね。当てるのが違う、これ当たってへんよ、とか言って。やっぱりそれだけ古いし、それはもう正解やもんね、何ていったって。
西部 脚絆をこういうふうにカットするのも長谷川先生です。
芦屋 そうそう。
西部 脚が長く見えてきれいに見えると。長谷川先生の開発されたものが、結構いっぱい時代劇ではありますね、小道具とか。
和田 細い股引を作るみたいな話ですね、脚がすっと見える。
神山 長谷川一夫は歌舞伎座でも東京の東宝劇場でも三階席からしか見たことないんですけど、本当は小柄なんですよね。だけど今思い出す長谷川一夫というのはこんなに大きい。不思議ですね。
芦屋 大きく見える。ねえ。そうですね。
神山 昔の方はだいたい。勝新太郎だってそんなに大きくないでしょう。背はね。
芦屋 皆小さいです。はい。
神山 不思議なものですね、やっぱり役者さんってね。
芦屋 顔の大きい人は多いけどね(笑)。
神山 それはそうですね。
芦屋 アラカンさんもそうですし。千恵蔵さんも大きいな。右太衛門さんはまた大き過ぎるしね。
西部 右太衛門さんはすごく大きいです。右太衛門さん仕様で小道具の大きさが全然違いますから。扇子も編み笠も全部特注で。
神山 それじゃなきゃつり合わないということなんだ。
和田 小雁さんのご本には[新国劇の]辰巳柳太郎さんのお話がよく出てきますね。
芦屋 はい。もう僕、大好きだからね、それは。お父ちゃんも僕のことを喜んでからかって遊んでいたんです。舞台でもからかわれるんです。
神山 辰巳さんは、二十五日間一カ月あると、これは聞くはなしですが、はっきり言ってちょっと手を抜くことが多かった?
芦屋 いや、そんなことないです。
神山 そうですか。
芦屋 はい。ただ手を抜くのは、台本をもらったときに、おい、俺はこんなせりふいらんでと言って黒い筋をいっぱい入れる。
神山 台本をカットするのですね。
芦屋 ここだけでええという。実にそうなんです。ホンというのはやっぱりたくさん字を書かないと台本にならんのでね。だけど、要領だけでいったらここだけでいいじゃないかと。よく見たとき真っ黒けだったです。わーっと思った。
 それで面白いのは、舞台で、こいつはしょうもないことを、アドリブを言いよるぞと思って、待ってはるんですよ。それで笑うようなことをぱっと言ったら喜んだり。そこの辺の遊びが非常に面白い。それは島田さんでは——。
神山 それは全然違いますわね。
芦屋 全然なかった。辰巳さんもやっぱりそういうのはうまいことウケてくれて。それであかんときはばーんと殴られるんですよ。笑わせ過ぎたら。

喜劇人と作者


和田 私は一応、放送の台本を書くのが本業なんです。その立場からすると、役者さんご自身が台本を書かれると、非常にぴたっとくるのではないかと思う。つまり自分でやる生理が分かったうえで台本を書くわけだから。たぶん書くだけの人の台本って、役者さんからすると、分かってねえなと思うことが実際は多いんじゃないかなと想像するんですよね。
芦屋 いや、僕はまた逆に言って、そうやって分からん部分を書いてくれはるからこそ役者は探求して、これをこうしようかとか、ここはこの方がいいなとか、こんなので一遍やってみようかということになるので、やっぱり作者がいてはる方がいい。そういうことです。だから尊敬します。大変。でも僕はその通り言ってないから(笑)。
和田 喜劇人も自分で筆を執る人と取らない人に分かれますね。
西部 そうですね。渋谷天外さんもね。
日比野 藤山寛美と曾我廼家五郎の違いですよね。
芦屋 でも、僕はなるべく書かんでおこうと思うことの方が多いですね。やっぱりやる側に立っているでしょう。自分で書いて何もかも覚えてしまうとちょっとこう、つらい。もらったホンを、うまいことこういう具合にしようとか工夫している方が役者としてはええなあとか思ったりするんです。
 というのは、僕も一応本を書いてお芝居をやったり、子供の本を書いたとか、それから映画の監督をやったりもしまして。それをやりながら思うことはやっぱりそういうこと。やっぱり俺は役者だけでええのかなとか、役者の方が面白いなとか、そんな感じでね。監督も面白いですけどね。
西部 向き不向きもあって。雁之助さんは書かはるのが好きですからね。
芦屋 そうそう。
神山 やる側の人で書く人は、作家がいないからしょうがないから自分で書き始める人もいますよね。
和田 そうでしょうね。大衆演劇なんかは、座頭がイコール作者でもあるというか。
芦屋 僕らの知っている友達で都若丸君というのがおりますけど、あの子が子供の時分からずっと一緒だった。雁之助が気に入って、この子はうちの劇団で使うと言ってずっと使っていたんです。そこそこちゃんと芝居も。
日比野 というか、大衆演劇で一番ですよね、あそこ[都若丸劇団]は。
芦屋 はい、一番ですよ。うまいです。ホンはうまいし、芝居もうまいし、踊りもうまいし。
日比野 私も大阪へ行くたびにあれは見に行っています。
芦屋 あそこの本は何百本とあるんですけど、1つの筋があったら、これの枝葉でいっぱい作っていかれるのでホンがたくさんできるね。同じ本でもそこから枝葉を作って、[いろいろなバリエーションを]作るから。いいホンもあるな。

松竹と東宝


和田 今年[二〇一四年]の二月、松竹新喜劇に参加されましたよね。
芦屋 新喜劇の芝居は僕も何本かやっているんです。だけど、それには付いていけないという意識が、頭のどこかに入ってしまっているんですね。そんなにくさくやらなくてもいいのにとか、そこまで言わなくてもいいのになとか、いっぱい抵抗が出てきて、それで新喜劇の芝居は嫌やなとか、そういう感じなんだね。もう少し現代的にやればいいのにとか。でも今でも昔のことをきちっとやってはる。それは面白いです。完璧にできているんですけど、それが嫌やという、そんな感じかな。
和田 二つの会社を行ったり来たりされて、東宝の色、松竹の色は、大づかみに言うとどんなものでしょう。
芦屋 それはありますね、ちゃんと。東宝の色は少しスマートにせないかんとか、こういうすかっとしたものを作らないといかんと。松竹はそうじゃない。自分の好きなように、ぐっと気に入るようにやらないかん。お客さんが喜ぶようにやらないかん。
神山 東宝というのは上から、こういうふうにやってくださいという命令が降ってくるみたいな感じ?
芦屋 でしょうね。それはあるでしょう。
神山 それは小林一三以来の伝統みたいな感じで。
芦屋 ええ。
神山 松竹の場合はむしろ自由?
芦屋 自由というよりも、やっぱり新喜劇があったり家庭劇があったりしたから、そのくささとか、そういうものをそのまま守っていきたいのでは。人情劇で、笑いがあって泣きがあるという方向性がはっきりしているんですね。
神山 私、国立劇場で歌舞伎と新派の制作をやっていたんですが、やっぱり両方と付き合いがありましてね。松竹ははっきり言って丼勘定なところがあったんです。
芦屋 そうです、はい。
神山 ね。もう大ざっぱでね。東宝はちがいますね。
芦屋 そう、何もかもきちっとしている。
神山 僕はでも、芝居の制作は、何となく松竹の方がやりやすいんですよ。その当時のはなしですが。
芦屋 僕らも東宝の森繁さんのところに出るときなんか、やっぱり向こうはきちっとして。ただ、森繁さんならある程度許してもらえるんです。
神山 森繁さんは別格ということなんですね。
芦屋 お前、今日な、一ついいこと言えやとか言わはるので、泣かすような台詞を考えて言ったら本人も喜んでね。台詞を毎日変えたら、今日はよかったなとかよく言ってくれはるんやけど、雁之助がやり過ぎたら、やったらあかんと言われたりね。やっぱりうまいですね。そんなことを言われながらも、森繁さんをうまいこと転がしていくのが雁之助だった。僕らがちょっと変なことをしたら、森繁さんは喜んでいるけど、やりすぎると、そこまでやったらいかんとかね。そういうのはちゃんとよく言ってくれた。でもやりますけどね(笑)。
和田 森繁さんというのはアドリブはうまい人でしたか。
芦屋 うまいですよ。実に達者な人やからね。そこそこ違うことを言っても、きちっと自分で会得してやられるから。
神山 森繁さんはよく山茶花究と一緒にやっていましたね。
芦屋 山茶花さんがだいたいそういうのを教えているんですね。山茶花さんはアドリブがうまかった。あの流れは雁之助にもあります。支えながら自分で笑わせて、自分で押さえて。それはまったく雁之助も同じ。だから雁之助がいて重宝したのは、森光子さんがいて、それから山田五十鈴さんがおって、森繁さんがおる。

さまざまな舞台出演


神山 花登さんは別格だと思うんですけれども、それ以外の作家さんで、この人のものはやってよかったとか、またやりたいとかいうふうなお名前を挙げられるとすれば。
芦屋 雁之助の芝居が一番かな。何でかといったら役者をみんな知っているからね。この役者はこの台詞がいいとか、こうした方が役に立つとか、そういうのを考えて書く。茂木さんもちゃんとそういう役者の感覚を知ってはるね。やっぱり役者の雰囲気を知ってなかったら座付き作家にもなられへんし。
 だけど役者はそれに甘えていたらあかんのね。全然知らん人で、こんな芝居どうしたらいいのやと悩まなければ役者の値打ちがないので。
日比野 小雁さんは宮本亜門のミュージカルにも出ていますね。
芦屋 一番最初の何やったかな、あのミュージカル。
西部 『月食』[一九九四年一月・アートスフィア]。
芦屋 そうやった。『月食』をやるときに、小雁さんに出てくれと。行きまっせと言うて。そのときは、お坊さんみたいな役でね。それで、堅いことを言っているんですよ、ずっと。あなたはこういうことを知っていますか、とかね。だけど、どうも合わんなと言われて。そうやろ、こんなのできへんでと言ったら、分かったと言って。作者の人は誰やった。
西部 橋本治さん。
芦屋 橋本治さん。あの人が、はい、分かりましたと言って全部書き換えてくれた、漫才風に。面白いですね。君、漫才って知っている? と僕が言うと、へっとこう言って、こういう漫才があるのよとか。そういう具体的な話で笑わせるとか、そういうのを作ってくれはった。うまいこと作られるなと思って。
西部 小雁さんのために踊りの稽古をやりなおして。
芦屋 そうそう。一番前で踊らせてもらうはずやったけど、演出家が、もう一回いくよと。それで、小雁さん、すみません、二段目に行ってください。はい、分かりました。二段目に行ったら、三段目、四段目で、後ろへ回されて。そうか、やっぱり踊りがあかんのかなと。全部ダンサーやからね。ぼくは背が低いでしょう。だから余計に目立って。女の役とかいろいろな役をやらされ。面白かったですけどね。ミュージカルの経験は結構あるんですよ。東京でやったミュージカルで『7DAYS』[一九九四年六〜七月・初演は同年六月・新神戸オリエンタル劇場] というのがあったんです。
西部 青井陽治さんでした。
芦屋 誰が呼んでくれはるのか、僕もよう分からん。それなら行こうかということで。一番面白かったのは前進座。これはやっぱりすごかったですね。皆、がちっと固まっているときですよ。
神山 前進座にお出になったことがありましたか。
芦屋 稽古場があって、ぼくは東京まで出ていって、長いこと稽古しました。朝行ったら全員がざーっと並んで、おはようございます、だーんと。わっ、これ、こんなところで芝居する、かなわんなと思いながら、まあ、いいわと思って。
 それで一生懸命やったら、演出の人が、すみません、小雁さん。何ですか。あんなにきっちり芝居しなくていい、普段の小雁さんでやってください。あ、それでいいですかと言って。本番では毎日、ほかの役者さんを笑わすことばかり考えて。何とかして笑わそうとね。笑う人はぎょうさんおるんやけど、絶対笑わない人も一人いてはる。
神山 それは——。
芦屋 名前は忘れた、年のいった人で。女の人はみんな笑うし。前進座の翫右衛門さんはもう笑わんように一生懸命やってくれはった。それでも、ある日に何か言ったら翫右衛門さんが笑ってしまって。こんなことではいかんなと思って僕はなるべくおとなしくしていたら、千秋楽の日に今度は翫右衛門さんが僕を笑わせようと。ぼくはもう大笑いしてしまって、さすが。
神山 翫右衛門さん、うまかったですからね、何をやってもね。
芦屋 僕もびっくりした。シュワッチィって、あれは何や。
西部 ウルトラマンです。
芦屋 ああ、ウルトラマン。時代劇ですよ。時代劇なのに、シュワッチィなんて、わーっと言わはる。そんなこと言わはる人じゃないのにもう大笑いしてしまって。
神山 それもすごいですね。小雁さんに受けるためだけにそれをやるんですからね。
芦屋 そうそう。
和田 一九七〇年前後かもしれませんね。ウルトラマンのはやったころからすると。
日比野 逆に翫右衛門がわざと古い感じでやったのかも。
和田 なるほど。ちょっとずれた感じで、もうあまりはやってないのに。そうかもしれませんね。
芦屋 翫右衛門さんとやったのは民話劇[作品名不明]なんですよ。民話劇だったから僕を使ってはったと思う。ぼくは、ちょっと年寄りのおじいさんの役だったけど、それをやっている間に花道で一遍も欠かさず奥さんとこっちを見てはるんですよ。僕、毎日ネタを変えなきゃいかん(笑)。一人で真ん中でしゃべるところがあって、いろいろな話を、笑わさないといかんと思って。
神山 奥さんが見ているって、翫右衛門さんの奥さん。
芦屋 一緒にね。それを大阪と名古屋も廻ったな。
神山 前進座ってギャラはどうだったんですか。
芦屋 どうだったかな。分からん。僕はまず金銭的にはどうでもいいんです。
西部 その当時、所属はどこだったんでしたっけ。
芦屋 所属は芦屋事務所。
西部 じゃあ、たぶん正規の出演料くらいには取っていらっしゃると思います。
芦屋 かも分からんな。
和田 芦屋事務所というのは、ご兄弟両方が所属を?
芦屋 そうです。
和田 これほどご兄弟、離れないで活動されている方って珍しいんじゃないですか。
西部 すごく仲がいいんです、やっぱり。
和田 普通、仲がよく見えても事務所は別だったり。
芦屋 いや、あれなんですよ、長いこと生活しているからね。
西部 家も近所なんです。どっちかが引っ越すと必ず一緒に引っ越ししはるんです。それほどやっぱり仲がいい。
日比野 今日、うすうすは分かっていたんですけど、やっぱりお兄さんと芸風というか、目指す方向が微妙に違っていらっしゃるのが——
芦屋 ——のがいいんですね。
日比野 それでずっと一緒にやってこられた。
芦屋 ——でもだんだん喜劇というのが寂しくなってね。何とかしたいなと思ってもね、難しいわ。何とかしたいって、昔のものを残したいとかそんなことはなくても、笑いに将来があったらいいなとか思うんですけど。
神山 本当に商業演劇自体がだんだん厳しくなって、一月公演を打つというのはすごく難しいですよね。新派、新国劇だって全然。新国劇はもうないですけれども。前進座といっても大変だから。
芦屋 そうやね、新国劇もないし、新派もね。
神山 今、歌舞伎と宝塚だけになっちゃいましたからね。
日比野 宝塚といえば、宝塚新芸座の一番最後の方に一座としてご参加なさっていますよね[一九七〇年三月、梅田コマ劇場での「春の大型喜劇特別公演」の際、芦屋小雁は宝塚新芸座の出演者と同座。自身の宝塚新芸座への初出演は同年十月創立二十周年特別公演で、特別出演として。七二年六月・中日喜劇として宝塚新芸座が中日劇場に出演したときに同座するのを最後に、以降数度特別出演として同座。宝塚新芸座は劇場を七二年八月に閉場・最終公演は同年十一月朝日座]。
芦屋 はい、しています。
日比野 あのときには東宝所属なわけですか。
芦屋 東宝です。だけど、それが厳密にはちょっとよく分からないな。東宝だけれど、僕らの会社は名前が違ったので、東宝の子会社です。だからちょっとよそへ行こうかというので行けたの。そんな感じかな。
日比野 東宝に行って、松竹に行って、それで笑いの王国というのも松竹ですよね。
芦屋 はい、そうですね。
 日比野 それで喜劇座も松竹。その後、東宝に戻るという。
芦屋 ええ。梅コマの裏[の映画館を改装してそこ]に劇場をつくるからここへ戻ってきなさいと言ってくれるので戻ったんです。だけど、できなかったんですよ、劇場が[結局店舗ビルになってしまった]。それでもう解散みたいな状態だったですね。
和田 後年、花登さんのお芝居にご一緒されたとき、今日あったような昔話は出ました? 当時こうだったねとか。それはやっぱり触れないですか。
芦屋 触れない。というより、僕がしゃべらないの。今日は珍しいですわ。僕はあんまり古い話はしたくない。だから普通の人で、昔こういうことあったなと言ってるのを聞いても、ああ、そうかと言うぐらいで、自分でこんな話というのは言わないの。
 古いことより新しい方がいいというのが、前進しか考えてないので。だからあんまり言わないです。でも今日ぎょうさん言っているからあれだけど。
日比野 ありがとうございます、貴重な経験を。