守美雄聞き書き


取材日:二〇一四年九月二日
取材場所:明治大学駿河台キャンパス構内
取材者:神山彰・日比野啓・舘野太朗・和田尚久
取材立ち会い:菊池明(早稲田大学演劇博物館特別研究員)
編集・構成:和田尚久
監修:守美雄

イントロダクション


 『広辞苑』で「小芝居」の項を引くと〈規模の小さい劇場。また、そこで行われる歌舞伎興行。笹櫓。緞帳芝居〉とある。ここで示される語義のほか、こせついた演技、枝葉末節を肥大化させた演技のことを、いまでも「小芝居」と言ったりする。こちらは褒め言葉ではなかろう。
 今日、大劇場での商業演劇公演にたいして、小資本の演劇公演を「小劇場」と呼ぶことが定着しているが、「小芝居」という概念はこれに似ているようで違う。かつて、「小芝居」は「大芝居」の下位に置かれる、ひとつの階級として存在した。
 何をもって「小芝居」というかは時代によって違いがあり、ひとまとめには出来ないが、おおざっぱにいえば、江戸時代の歌舞伎興行は幕府の管理下にあり、劇場の運営、興行の計画も官許されたものでなくてはならなかった。江戸における芝居小屋の数は制限され、幕末期には興行場所も特定の地域に限って許された。しかし、実際には寺社の境内、あるいは両国広小路などの盛り場で芝居の興行をする一団があり、幕府はこれを黙認、ときには摘発した。これが「小芝居」である。官許された「大芝居」にたいして非公認の芝居をそう呼んだのである。
 明治維新以降の「規制緩和」で、芝居小屋の数や立地条件に関する規制が緩められると、東京市内各地に新興の芝居小屋が開業した。法令上、「大芝居」と「小芝居」の区別はなくなったわけだが、実際には、両者を区別する感覚は演者の側にも観客の側にも残存した。すなわち、江戸時代に官許された「正統な」大芝居の出演者およびその子孫を中心とする一座の興行が「大芝居」であり、そこに含まれない、もと下回りの役者、旅の役者、あるいは何らかの事情で大芝居を離脱した役者たちが参加する芝居は「小芝居」だと認識された。
 こうした「感覚」は、幕内の人々には強くあったらしく、大芝居と小芝居の間の役者の行き来はあるにはあるが、小芝居の役者が大芝居に出て出世したというケースはほとんど無い。中村翫右衛門は小芝居の役者、中村梅雀の子であったが、その出身ゆえ大芝居にいても出世の見込みはなく、そうした因習への不満が前進座結成の契機になったと繰り返し語っている。大芝居が近代化以降、九代目團十郎や五代目菊五郎など「名優」の存在により、次第に演技、演出様式が整理されていったのにたいし、小芝居はこのような「完成」ないしは「固定化」への意識が薄かった。それが大芝居にはない「個性的演技」につながったとも言えるし、大芝居の人々の目から見て、約束事にない、まさに「小芝居」をしていると低く見られたことも想像にかたくない。
 東京の小芝居は明治後期から大正時代にかけて大いに隆盛し、阿部優蔵『東京の小芝居』には三十軒以上の芝居小屋および一座が紹介されている。小芝居の興行は、有名俳優たちが出演する大芝居の興行よりも安価であり、演目も、たとえば九代目團十郎の手がけた「活歴物」のような〈意識の高い〉出し物よりは直接的な情感に訴えかけるものが好まれた。それを支持したのは、一夕の楽しみとして芝居を愛好した東京市民であった。あえていえば、役者と同様、観客の側にも階層があったのである。
 右にあげたような要素がからまりあい、小芝居には大芝居とはことなった伝承やスタイルが確立された。たとえば「切られお富」「女団七」「小栗判官」「てれめん」というような演目および演出は小芝居で大事にされ、おもしろく育てられたのである。
 墨田区の本所にあった寿座(寿劇場)は、昭和二十年(一九四五)三月の空襲で焼失するまで興行を続けていた、東都最後の常打ちの小芝居であった。明治、大正には数多く存在した小芝居の小屋も、昭和二十年には寿座一軒を残すのみになっていた。社会構造の変化によって、「小芝居」を支えていた階層(彼ら彼女らの多くは芝居小屋のある地域に居住し、余暇の楽しみとして「映画」ではなく「芝居」を選ぶ)が存在しなくなっていたのだと考えられる。  終戦後の昭和二十四年(一九四九)、かつての寿座に出演していた坂東鶴蔵・坂東竹若・松本高麗之助たちが一座し、上野池之端の都民文化会館で歌舞伎の上演をおこなった。これが「かたばみ座」旗揚げの契機である。彼らはその年、翌年と二度の興行を成功させ、昭和二十五年(一九五〇)三月に劇団「かたばみ座」を結成する。
 「かたばみ座」は、はじめ上記都民文化会館を本拠地としていたが、昭和二十六年(一九五一)に同会館が失火から消失。その後は浅草松屋デパート内のスミダ劇場を本拠に、名古屋、仙台などでの地方公演も含めながら昭和三十年(一九五五)までの興行を続ける。しかし、同年なかばごろ、資金難から鈴木仙八が経営していた王子デパート内の王子劇場に本拠地を移し、あとは上野松坂屋のホールなどで短期間の公演を打ったり、またスミダ劇場に戻ったり、あるいは鑑賞組織の都民劇場や学生サークルの大学歌舞伎研究連盟との提携でホール公演などを行いながら、昭和四十五年(一九七〇)まで活動を続けた。
 このインタビューでは、「かたばみ座」とはどのような劇団であったかという主題を中心に、「小芝居」をとりまく文化、それを成立させていた時代の記憶を守美雄氏に伺った。守氏は大正十一年(一九二二)生まれ。子供のころより芝居見物を好み、寿座をはじめとする小芝居の観劇経験も数多い。早稲田大学を学徒動員のため繰り上げ卒業後、昭和一八年(一九四三)一〇月東京新聞に入社。翌年五月に召集され、満州で終戦を迎え、シベリア・ライチハで四年間の抑留生活を余儀なくされた。昭和二十四年(一九五九)に帰国後、東京新聞に復帰。当初、取材対象として接近した「かたばみ座」に、次第に深く関係するようになり、昭和二十七年(一九五二)に浄瑠璃からみずから脚色した『曾根崎心中』を初演。これは宇野信夫脚色・演出による大歌舞伎の復活上演(一九五三年)に先駆けてのことであり、注目に値する。さらに昭和三十年代以降は「かたばみ座」の経営者として劇団運営を手がけた。「最後の小芝居」である「かたばみ座」をその内外からつぶさに見てきたかたである。(和田尚久)

戦前の芝居小屋


神山 守先生は子供の頃から小芝居をご覧になっていたのですか?
守 子供のころ、ぼくのうちは早稲田南町の漱石の家のすぐ隣にあったんです。近いところに早稲田座という芝居がありまして、ここへ行きました。昭和のはじめ頃ですね。
神山 名前だけ聞いたことがあります。
守 早稲田の鶴巻町にありました。昭和七年(一九三二)ごろに映画館に変わっちゃって早稲田キネマとなりましたけど、この早稲田座というのが三流ぐらいの小芝居で、寿座に出ていた連中もみんなここにいました。
それから四谷の大国座(大黒座とも。注一)。これは後に、新宿歌舞伎座という名前になりましたが、結局つぶれちゃいましたね。あと、神楽坂には金語楼の寄席で神楽坂演芸場。これがなかなか盛んで、昭和七年ごろの不況のときに入場料は十銭だったんですよ。それで、金語楼の人気で満員の客を集めまして、金語楼の寄席なのに浅草からレビューガールを呼んでレビューをやらせたりね。
神山 金語楼というのは、我々が知っている山下敬太郎の金語楼ですよね。
守 ええ。神楽坂の周辺には、落語家の柳橋だとか粋な連中がたくさん住んでいました。
神山 なるほどね。
守 それで、素人義太夫が方々で掛かるんですよ。町屋の主人とか神楽坂の料理屋の主人というのは、結構お金を持っているのでね。道楽にやりたいんだけど、聴く人がいないわけよね。
神山 ああ。それはつまり『寝床』ですね。
守 聴く人を集めるために僕なんか行くと、坊ちゃん、よく来ましたと言って、柏餅なんかを呉れるんですよ。その柏餅が神楽坂の紅谷か何かのいい柏餅なんだ。うちで食うのと違って。それで、その義太夫を聴くよりも、そのお菓子を食べに行く。そういうわけで、私は小学生の一年ごろから、よく義太夫を聴いていたの。
のちには浅草の東橋亭で、女義太夫を聴きに行ったりもしました。戸部銀作なんかと一緒に行くと、いやぁ、いいんですよ。
神山 浅草に女義太夫をやる小屋があった?
守 吾妻橋の近くで「東橋亭(とうきょうてい)」と書きまして、今の浅草の地下鉄の駅のすぐ近くの、おんぼろの倉庫みたいな建物の二階だったんですけど、ここにはまだ明治の「どうする連」がいましてね。
神山 まだいました?
守 はい。さわりになると「どうするどうするどうする」という声がかかるんですよ。それを僕たちの仲間の戸部と私と、あと室屋という戦争で死んだのと、あれは島田といったかな、そういう連中で女義太夫を聴くんですね。すると女の方が色気はあるし、それで声が高いでしょう、内容がよく分かるんですよね。明治時代にあれだけ盛んになったのは、ああ、これだからだなというのがわかりました。旦那衆の素人義太夫と女義太夫をよく聴いていると、やっぱり女義太夫の方がプロだからはるかにうまいんですよ。
神山 それはそうですよね。
守 聴かせるところを知っているわけね。ところが、たまに文楽が(東京に)来て、山城少掾なんかを聴くともっとうまい。山城なんかのじっと、じっくり語るやつを聴くと、ああ、女義太夫なんて安っぽいなと思う。
神山 山城が古靭太夫のころですね。
守 そうです。だけど、女義太夫の中でもうまいのはいまして、(竹本)土佐廣だとか竹本素女ね。
神山 素女に関しては、ご本をお書きになっていますね。
守 あ、よく知っていますね、もう四十年も前。この間、神田で見たら三千九百円になっている。もとは三百円の定価で出した本なんですよ。いま三千九百円になっているから、あれ、おかしくなっちゃって。

国劇研究会


守 みなで義太夫に通っていたころは、菊地さんのいた演劇博物館の地下の倉庫みたいなところに……。
菊地 ああ、そうでした。
守 一室を河竹繁俊さんが提供してくれてね。
菊地 薄暗い部屋でね。
守 そこで、戸部なんかと議論するわけですよ。
菊地 もう一人ね。楠山正雄先生の息子さんもまじえて。
守 そうそう。東京新聞にいたころ岡鬼太郎が死んだとき、僕が劇評に楠山さんを推薦したの(注二)。それで、楠山さんに歌舞伎評を書いてもらったことがある。彼は英文学者だけど大変歌舞伎をよく知っていて、なかなか近代的な評論を書く人でした。
菊地 あの集まりは国劇研究会といったでしょう。
守 そうそう。それは、坪内士行さんが付けたの。
神山 そうなんですか。
守 坪内士行さんが、歌舞伎を主に研究するなら国劇研究会という名前がいいだろうと言ったので、それでそうしたんですよ。そのときに十人ぐらい、部員がもっといたかな、みんな戦争反対の人たち。
神山 ああ、そうでしょうね。
守 ミリタリズムは大反対だけど表面では口に出せない時代ですから。それで、腹の中じゃあ、この世の中の体制がしゃくに障ってね。そのなかで、戸部は兵隊に取られないで済んだの。それから、もう一人僕の友達ではヤジマ君(漢字でどう書くかお教え下さい)というのが、兵隊に取られなかったのだけど、そのころは、やせて兵隊にならないような体の人までみんな取られたんですよ。だけど、戸部とそのヤジマ君というのは取られなかった。後で思うと、そのころ徴兵官というものと地元の人の「付き合い」というものがあるの。つまり、徴兵検査にも闇があった。それで、こいつは何とかして逃しちゃうというね。二人とも大地主の息子でした。
神山 あ、そうか。
守 徴兵官の軍人たちが、みんな賄賂をもらっていたわけだ、大変な賄賂を。
菊地 だから、六代目の息子も。
神山 そうですね、梅幸がね。
菊地 梅幸は帰された。
神山 それを、永井荷風が『断腸亭日乗』で書いていますよね。
守 日本の軍国主義だって、それはいんちきなもんですよ。
神山 失礼ですけど、先生は大正十一年(一九二二)?
守 大正十一年。
神山 戸部さんが九年(一九一九)ですよね。それで、菊地先生が十二年(一九二三)でしょう?
菊地 そう。震災の年。
守 あんたはよく生きたね、私もね。
神山 皆さん九十歳ですからね。
守 私は昔は記憶力がある程度いいと言われて、大正天皇の最後のときのラジオ放送をまだ覚えているんですよ。
天皇陛下の今日の召し上がりものは、卵黄一個というんでしょう。こっちは、まだ六歳ぐらいですよ。そうすると、「卵黄一個」が「団子一個」と聞こえるんですよ、卵黄というのが(笑)。大正天皇の最後のときの召し上がりものを言う、そこだけは頭へ残っていまして。それで、「JOAK、こちらは東京市芝区の愛宕山東京中央放送局でございます」と言うのが、頭に残っていますよね。だから、ラジオ放送は当時鉱石のラジオで、こうやって耳にレシーバーを当てて聴く。東京の中で、でもまだ一万人ぐらいしか聴取者がいない。
神山 そうでしょうね。
守 レシーバーを貸し合って、家族で片方を当てたり何かして聴いたんですけどね。真空管ができない前の時代でしょう、いわゆる鉱石ラジオ。なかなか周波数が合わないんですよ。それでも、その当時としたら大変なぜいたくでね。それで、六代目菊五郎なんかの芝居も聴くんですよ。

寿座の思い出


神山 本所の寿座についてお伺いしたのですが。
寿座に初めていらした記憶ってどのぐらい、昭和十年(一九三五)ぐらい?
守 もう昭和六年(一九三一)ごろに、おばあさんに連れられたの。
そのときは、まだ升席でした。のちに、寿劇場って変わったのが何年ぐらいだか忘れちゃったけど、それから椅子を置くようになった。両側は座る方(桟敷)で、椅子を置くようになって。
菊地 私が寿座に行ったころ、おばあちゃんに連れられていったときは、平土間の席は、もう椅子でした。長い椅子で。二階の桟敷の方はちゃんと座るかたちで、布団にあたって、炬燵みたいな火鉢を貸してくれて。
守 当時の芝居や寄席では「炬燵」といって、火鉢の中に墨がひとつで炭団か何かが入っていて、煙草を吸うひとはキセルをこう使う。それが温まりにもなるんです、寒いときには。
神山 そうですってね。
菊地 母親がこうやると温かいよと、自分のショールか何かをこうやって。二人でそれにあたって。
神山 当時はね。芝居小屋に暖房がないですもんね。
守 食堂というものが特になかったから、弁当を売りに来てね。小屋の人とそういう付き合いがあった。
もうひとつ、いまは無いのは「留め男」という男がいて、群衆がうっかりして、舞台へ上がったりするのを止めたりするんです。
神山 芝居でも、『幡随長兵衛』に出てきますよね。
菊地 お客に向かって座っているんですよね。
守 寿座には新之助がいたでしょう。
神山 ええ、市川新之助ね。
守 新之助は九代目団十郎の娘さんをもらったから、本来なら大歌舞伎にいるべき人なのですよ。
神山 そうですよね。
守 だけど、たっぱ(背丈)が低かったので、大劇場には向かなかった。それを自分が自覚していた。演技は大変うまかった。それで、勉強熱心なところもありまして、『鳴神』をやったときがあるんです、小芝居のときね。歌舞伎十八番を小芝居でやることは非常に少ないんですが。
それをどこで学んだかというと、『鳴神』は二代目市川左團次が復興して、そのあとは前進座がやったでしょう。
神山 長十郎がやったんです。
守 そうね。それで前進座の連中を呼んで勉強したんです。
神山 そうですか。
守 うん。たっぱが小さいのに『鳴神』を寿座でやるので、僕はそのときうまくいくかなと思ったんですが、それも結構うまくやりましてね。そうしたら、前進座は偉いですよ。新之助が言っていましたが、役もめをすることがなくて。昔から、あそこは会員制(劇団制)でしょう。それで教えてくれと言ったら、喜んで坊主役の役者までみんな来て細かく教えてくれたと。それで、寿座は感心していましたよ。

女役者


神山 寿座は女優も出ていましたか、女役者は。
守 寿座はもう歌扇は出てなかったね。
鶴蔵の後に女房になった、あれは何ていう名前だったかな・・・とてもいい子が昭和十八年(一九四三)ごろいまして、鶴蔵の後見を務めていたんです。 彼女は元は歌扇の弟子だったらしいのです、子供時分は。それが鶴蔵の弟子になりまして、一緒になった。歌扇の話をしなきゃね。
神山 お願いします。
守 中村歌扇というのは、大した女優さんでしたよ。
後にかたばみ座に行きました高麗之助とか竹若とか、そういう人たちと早稲田座なんかでやって全然引けを取らないんですよ、女役者でね。しかも、出し物が『女河内山』。
『河内山』を女でやるんですよ。女の言葉でたんかを切って。それを子供のときに見て面白いと思った。江戸時代の台本でも、女形の人が、従来ある役を女に置き換えてやったのがあるわけですよね。歌扇はたいした役者でした。
神山 見た目は細い感じがしますよね。すっきりしていて。
守 そう、でぶでぶの女じゃない。
だから、男役も出来るんですね。とにかくうっとりとしていたぐらいうまい役者でした。
神山 歌扇の妹で、歌江というのがいたのを覚えています?
守 よく覚えてないけど、いると聞きましたよ。
たしか、二人で一緒に出ていた芝居もあったと思います。
日比野 そうみたいですね。女が胸をすくたんかを切るという意味では、女剣劇はご覧になりましたか。
守 あれ(女の啖呵)は後の大江美智子だとか筑波澄子とか、そういうものに若干は伝わっていますよ。浅香光代までね。それは、やっぱり女役者の伝統じゃないですか。というのは、江戸時代に女歌舞伎が禁止されました。それから、女役者はどうしたかというと、大名の屋敷の中に入って狂言師になったんですよね。それで、奥女中たちに娯楽として芝居を教え、上演もし、それが明治まで生き残っていたんですよ。女役者の伝統は闇の中で続いていたんです。表面上は禁止はされているけど。
日比野 先生ご自身は不二洋子とか浅香光代、もっと以前の大江美智子などはご覧になっていますか。
守 大江美智子は、あれは剣劇がうまかったですよね。それで、非常にすごい暴力団のバックがついていた。
神山 「籠寅」といったそうですね。籠寅興行の保良浅之助という人です。
守 どこへ行くにも親分がいて、私が新聞記者で取材に行くでしょう。そうすると、帰りにこの中に五千円入っているの。
神山 「入れられている」のですね。
守 新聞記者が行くと、ほら、一行でも書いてもらえばいいでしょう。だから、インタビューでもしてくれりゃあ一番いいわけだね、宣伝になるから。それで、お金を先にぽんと入れちゃうのは、きっと大した親分だったんでしょうね。あの親分はずいぶんお金持ちだったんじゃないですか。
神山 それは戦後の二代目大江美智子の時ですね。
守 ええそうです。これは戦後の話です。だいたい、女剣劇があんなに盛んだったのは戦後なんですよ。これは僕が思うに日本の演劇史上、文化・文政の退廃の時期というのはあるけど、これほど極端に退廃して自由になった時代はないと思うんですよ、日本の演劇史上に。
もうめちゃくちゃでしたよ。慶應の高橋誠一郎先生とか久保田万太郎なんかが誘って、いわゆるエログロを見に行こうと言って行ったことがあるんです、昭和二十五~二十六年(一九五〇~五一)のころ、私が(昭和二十四年[一九四九]に)兵隊から帰ってきてから。そのころの浅草は栄えていましたね。それで、ストリップの合間にやる、ちょっとしたコントだとかショーがあるんですよ。これが戦前ムーラン・ルージュにいたコメディアンや八波むと志なんかが出てくる。
田谷力三が昔のペラゴロ、浅草オペラのファンに扮して、ほんのわずかだけど歌ったり、そういう出し物の間がストリップでしょう。だから、お客が入りますよね。もう解放されちゃってエロもグロも平気。あれは日本の演劇史上最も自由な、最も勝手だった時代だと私は思うんです。私は昭和二十四年に帰ってきて、その年、翌年と浅草に通って、うれしくて歓喜しましたよ。それまでソビエトの山の中にいたのが、そういうものに触れて。

安藤鶴夫


神山 そのころ東京新聞には安藤鶴夫なんかもいたわけですか。
守 ええ。安鶴の教えを受けて、僕も義太夫を習いたいと言ったら、「俺のおやじが太夫だから来い」って安鶴のうちへ……。
神山 都太夫。
守 都太夫のところへ行きましたよ。
神山 そうですか。
守 文学座の女優さんで何だったかな、たしか、金子信雄さんと結婚された女優さんでした(丹阿弥谷津子)。今はもう引っ込んじゃっているけど、有名な人が習いに来ていたんだよね。やっぱり女優さんだからうまいですよ、義太夫。こっちは付いていけないんですよ、新聞記者で忙しいでしょう。
そのころ、昔の後楽園の下に、安藤鶴夫が戦後ちっちゃいうちを建てて住んでいて。そこに行くのですが、義太夫の三味線は重いでしょう?
神山 重いですね。
守 それが何か陰気な気分になって、私はもうすぐやめましたよ。
安藤さんは義太夫はうまかった。おやじのを聴いているからね。NHKののど自慢に出たことがありますけどね。
神山 安鶴が?
守 うん。だけど、鐘が二つしか鳴らなかった(笑)。これは、義太夫というのはほんの二~三分やったってよさは分からないんです。
神山 そりゃあそうですね。
守 安鶴と尾崎宏次という記者がいたでしょう?
神山 新劇のね。
守 この人は基本に進歩的な思想を持っていたから、はっきりと理論的に割り切っていくわけ、すべてを。だから、新劇なんかの評には素晴らしい人でした。安藤鶴夫は情緒の方を主に歌舞伎を見ておられましたから、何かずっと感じることがあるらしくて、ああ、いいね、守君なんて言うんですよ。

小芝居の役者


守 戦後にいた八百蔵というのが・・・・・・。
神山 あ、八代目の市川中車ね。
守 市川猿之助の弟の。兵隊から帰ってきて見たらね。あのころ、十五代目羽左衛門が死んじゃって寂しくなった歌舞伎界で、後に左團次になったあの男女蔵ね、男女蔵と八百蔵に江戸の風情がありました。
神山 いい男でしたもんね。
守 そのころに旗揚げした竹若たちのかたばみ座を見に行きましてね。たしか、昭和二十五年(一九五〇)だったと思う。僕が帰ってきてた翌年だったから。そうしたら、松本高麗之助という古い風格を持った役者がいて、それで竹若と鶴蔵というのがいると、そこにひとつのほんのりとした雰囲気が出来上がるんですよ。
神山 その三人で。
守 ええ、三人でね。そうすると、昔逍遙先生が、江戸時代の歌舞伎というのはいまみたいにきれいなもんじゃなくて、もう深刻なもので、もっと陰湿な暗さがあるもんだ、なんていうことを書かれていましたが、そういうものをやらせると小芝居がいいんですね。
神山 ああ。
守 あの大劇場の華やかな照明では、陰湿な芝居なんて本当はできませんよね、本当言うと。たとえばかたばみ座でやった近松の『女の腹切』。
神山 あ、『長町女腹切』ですね。歌右衛門が出しました。
守 ああいうものをやると、大劇場は明るいから似合わないんですよ。それで、むしろ小芝居へ残ってきたんだと思うんです。
これも戦争中の話ですけど、戸部銀作が横浜に実川延蔵が来ているぞと言うんですよ。これは大阪の旅役者ですから、なかなかうまいんですよね。それで、それじゃあ、行こうと。私は、当時横浜まで行くのは電車賃も掛かるし、大変なんだけど行ってみたんですよ。
神山 それはどこですか?杉田劇場というのが、戦後直ぐありましたが。
守 いや、当時つぶれかけたような開成座といったかな。そこにお客がぎっりしり詰まって、何をやるかのかと思ったら『引窓』。しかし『引窓』なんていうのは舞台装置がいるでしょう。どうしてこの小屋でもって、これができるのかと思うようなもうおんぼろ小屋なんですよ。装置がほとんどないんですよね。そうしたら、何と天井から綱を一本下ろしてね……。
神山 はい。
守 それだけで『引窓』をやっているの。それで、それを引っ張るとぱっと(引窓が)開くの。つまり電気を明るくするだけなんです。だから、歌舞伎なんて装置などなくてできる。『引窓』をやるのに何にもなくてね。
菊地 綱だけ?
守 綱一本だけだ。それで、開閉すると照明がぱっと変わる。
神山 それは何年ごろですか。
守 昭和十八年(一九四三)。
神山 延蔵というのは、延三郎の弟子でしょうね。
守 それが田舎を回ってね。当時、浅草までは来られないけど、横浜あたりまでは来る田舎廻りの一座があったんです。
しかし、彼らは誇りを持っていたから、寄席芝居とは行動しなかった。寄席芝居とはやっぱり一線を画しましたね。そこは偉かったと思いますよ。
神山 それは坂東鶴蔵も言っていますね、私たちは寄席芝居とは違うんだということは。
守 そう。だから、困ったときは寄席にも出ると。しかし、我々は本格的なものをやらなきゃいけない、と。例えば『三人吉三』をやるとき、小屋が小さい ので二重を組まないで平舞台でやった例がある。これもちゃんとやればそれでもいいんですよ、平舞台でね。そういう方法もあるにはあるけれど、延蔵のはとにかく綱一本でやっていたから、私は偉いなと思って。それで、結構お客を引き付けているの。そこは、義太夫の力ですよ。
義太夫というものは、チョボが完全に語ってくるでしょう。だから、義太夫芝居はだいぶチョボに負うところが多いんです。特に大阪の芝居はチョボが優れていたように思います。
神山 そうですね。あれ、小芝居はだいたい弾き語りですかチョボは。
守 弾き語りじゃない。
神山 そうですか。やっぱり太夫と三味線は別で。
守 三味線弾きが来なくてやむを得なかった場合は、太夫もたいがい少しは弾きますからやったことがありますけどね。あ、話は変わるけど、糸操りの結城孫三郎。あれも初めは義太夫がちゃんと付いていたんですよ。それが、義太夫がお金をくれないので逃げちゃったんだ。それで、しょうがないから人形使いがしゃべるようになったの。それですから、あの結城孫三郎の先々代の一座は、本来は義太夫の太夫を使って正規なものをちゃんとやっていましたよ。

かたばみ座に関係することになったきっかけ


神山 守先生が、かたばみ座に関係するようになったきっかけは?
守 昭和二十五年(一九五〇)にかたばみ座が旗揚げをしたときに、新聞記者として取材に行きました。小屋は池之端の都民文化会館でした。昭和の初めに博覧会なんかをやったところです。
そのときに、なぜ「かたばみ座」という名前を付けたんだと聞いたら、俳優の鶴蔵だとか高麗之助、竹若たちの紋所が、みんなかたばみに関係ある剣かたばみとか何とかかたばみという紋なので、そこからとった。
もうひとつ、かたばみは雑草のごとく強い草だという意味もあるんです。はじめは取りあえず付けた名前だったのが、固定しちゃったらしい。
私が関係したのは、かたばみ座がもう落ちぶれて王子デパートで興行をしていたころです。
神山 池之端の文化会館を本拠にしていた時期があって、そのあと浅草松屋のスミダ劇場に移って、さらにそのあとですね。
守 王子デパートには鈴木仙八という代議士がいて、これもやくざの代議士だったんだ。鈴木仙八というのは、あのあたりの親分で、王子デパートというのを持っていたんですがお客が来ないんですよ、あんなところでデパートをつくったって。その七階だか何かのホールになっていて、そこで鈴木仙八が芝居をやろうと発案した。人集めにね。
そこにかたばみ座が入ったわけなんだけど、やはり小芝居は、上野だとか浅草の下町に近いところでなきゃ無理なんですよ、ことに、かたばみ座のような内容は。いちばん少ないときには観客が一日三人とかね……。雨でも降るとそういう日がありましてね。
私はしょうがないからとにかく上野へ出ようと。それで松坂屋のホールを借りて『長町女腹切』をやった。
神山 それは高麗之助の追善興行ですか?
守 そうだったかもしれません。(注三)
神山 松坂屋はいまとおなじ建物ですね。
守 当時、松坂屋には立派なホールがありまして。あそこでやったらかなり人が来ました。立地もいいですしね。
王子でやっているときは何で維持していたかというと、地方に売っていたんですよ。宇都宮だとか高崎、桐生なんかに一日十五万円ぐらいで、芝居を売るわけですね。それで、財政を賄っていたわけ。ところが、それもだんだん売れなくなってきまして、困っていたところに、昭和二九年(一九五四)ごろだったか、(会員制鑑賞組織の)都民劇場が採用してくれた。
都民劇場の鑑賞公演で『奥州安達原』の二段目を出したことがあります。
そのあたりが、かたばみの最後の立派な公演だったんじゃないですか。
神山 二段目は珍しいですね。二段目は、僕は一回しか見たことがありません。
守 先年、国立劇場で戸部銀作が(演出をして)二段目をやった。それで、僕のところへ電話がかかってきて、君がやってくれたから、今回国立であれができると言うから、ぜひやってくれと言ったんですよ。
あれは端場と言って、ちょっと三段目の前へ付くくらいの場面ですね。
神山 二段目は通称「文治住家」といいますね。
守 あの中でちょっと難しいところがあって、義太夫の三味線に乗っていかなきゃならない台詞のところがあるんだよね。そういうのは、かたばみ座の役者は昔から田舎でやっているから覚えている。その段取りを戸部が問い合わせてきたから、役者を連れていって、そこのところはこうですと教えたんです。いまちょっと具体的な台詞は思い出せないけれども。
寿座もそうでしたけど、かたばみ座も稽古なんていうのは(台)本がないんですよ。役者は子供のときからやっているから、だいたいみんな覚えている。
神山 昔はそうですね。
守 それで、新しいものをやるときだけ本を作る。書き抜きを渡すけど、もうほとんど本はなし。
昔の役者は体で覚えているでしょう。そうすると、もとの脚本にない、いいかげんな「付け言葉」までその通りやっている。総稽古なんていっても大したもんじゃなくて、役者と役者とがこのところはどっちの息でいきますか、これとこれとがあるんですけど、こっちの息でいきますか、こっちの息でいきますか、と。それを打ち合わせるのが稽古。
だから、新しいものをやるときは大変なんです。一応書き抜きを作って渡さなきゃならない。けれども狂言作者もいないでしょ。それで私が独りでやっていたんですよ。嫌になっちゃった。この中に小学校も出てない役者がいるんですよ。もとは田舎の役者で、女の役者でしたが文字というものを変体仮名しか知らないんです。
神山 変体仮名がわかるというのは、いまじゃ逆に教養があることになる。
守 明治初年までは、女には変体仮名しか教えないでしょう。お母さんから教わった字なんですよ。ずっと役者でいて、それ以外の知識がない。書いてやっても普通の字はほとんど分からない。
昔の台本を見ると丸とか三角が書いてある、というのも、以前は字の読めない役者がたくさんいたんですよ。NHKなんかに行くと、何だ、字が読めないのかと言うんですよね。だけど、昔の日本の演劇というのは、字を知らない役者がたくさんいたんですよ。
神山 いや、大歌舞伎だって知らないんですよ。私が国立劇場に入ったころは、まだ知らない人はいましたから。
守 字を知らないから、誰は三角、誰は丸というように、記号で書いたんですよ。それで、ほとんど体で覚えたのね。
だから、僕らが本で読んで覚えたよりもよく知っているんですよ。
神山 ええ。
守 だから、僕が本はこうなっているよと言っても、いや、こっちの台詞が正しいと役者は言うんですよ。体で覚えた台詞をね。ただし、いわゆる書き下ろしの台本と上演の台本は、だいぶ違うわけですよね。それは、役者たちがやっているうちによくも悪くも改訂されていますから、僕らが原作の本ではこうだよと言っても、なかなか応じないですね。

かたばみ座の「曽根崎心中」


日比野 守先生が台本を書かれた『曽根崎心中』上演のときは、役者も台本を覚えたわけですよね?
守 私は学生のときから『曽根崎心中』を歌舞伎でやったらどうかと思っていたんですよ。だけど、小芝居でやるのは大変難しくてね。というのは原作通りに白無垢と黒小袖でいったら、悲しくて暗くて小芝居のお客は見ていられませんよ。華やかなものを求めて来るわけでしょう。役者の鶴蔵も、原作通りの衣装ではだめだと言うのですね。
徳兵衛が黒で、お初が白無垢だなんていったら、本当にお葬式のような感じのになってしまうと。それで、しょうがないから鳥辺山風にやっちゃったの。 神山 『鳥辺山心中』。男女で対の衣裳にしたわけですか?
守 ええ。ちょっと衣裳も華やかにした、死んでいくのに。「一足づつに消えてゆく夢の夢こそ哀れなれ」というところを、荻生徂徠は「近松の根はここにあり」と着目した。徂徠という漢学者は、中国の唐や宋の詩の哀愁というものをやっぱり知っていたから、あれを評価した。しかし、その感覚を今の義太夫で表現しようと思ったって難しいですね。
神山 そうかもしれませんね。
守 僕はあれは清元か何かでやっちゃった方がいいんじゃないかなと思うんです。あの繊細な江戸末期の三味線の方が、義太夫で「でんでん」といくよりも合うんじゃないかなと思うんですけどね。
日比野 かたばみ座で『曽根崎心中』をやったときは、文楽ももうしばらくやっていなかったわけですよね。
守 そうです。
日比野 ということは、義太夫の曲も含めて全部お作りになったということですか。
守 そうです。義太夫は原作に基づいて書いていって、太夫を呼んで、おまえ、ここに節を付けろと言ったら、これでよろしいですかとべんべんとくる。その節を鶴蔵に聞かせてれでやれるかと言ったら、いいでしょうと。それで、合わせていったんですよ。
神山 その太夫さんは、かたばみ座にいつも出ている太夫さん?
守 座付きの太夫です。その三味線弾きが作曲をしたんだけど、なかなか思うようにいかなくてね。だから、繰り返すけど、私はあんな洗練された曲は幕末の清元か常磐津でやった方が、繊細な味が出るんじゃないかと思うんですよね。今にそういう人が現れるんじゃないかと思うんですよね。
神山 そういうときは書き抜きだけじゃなくて、ちゃんと本も作るんですか。
守 作りました。
和田 『曽根崎心中』は近松の筋、浄瑠璃そのままなのか、あるいは意図して脚色した部分はありましたか。
守 なるべくそのままにしようと思ったんだけど、実際にいくと、近松の原作のままでは、つじつまが合わなくなってくるところがあるんですよ。つじつまというか、役者の呼吸が合わない。というのはあれは本来、人形芝居でしょう。人間がやると、間も違えばいろいろなものが違ってくるわけで、間にいろいろな言葉を入れなきゃつながらなくなってくるんですよ。
日比野 そのときは通しに近い形だったんですか。
守 そうですね。たしか五幕くらいあったと思います。このほかの出し物とあわせて、三本立てのうちの一本として上演しました。
和田 かたばみ座の『曽根崎心中』は、大歌舞伎の上演(昭和二十八年[一九五三]。宇野信夫脚色・中村扇雀主演)よりも早いのですよね。推測ですけど、かたばみ座の上演を松竹や大歌舞伎の人たちが知って、この出し物はいけるんじゃないかと「発見」し、数年後に上演した可能性もあるな、と。
守 それは分からないけど、戸部がやった先の話の「文治住家」。あれも、かたばみ座の上演があったから復活が出来たともいえる。
初代の猿翁は非常に関心を持って見に来ていました。それで息子の段四郎や孫になる今の猿翁を見に来させたりしていましたけどね。
のちに、かたばみ座がもうほとんど興行をやらなくなってから、猿之助(二代目)が歌右衛門たちと一座を組んで中国、九州を廻る旅のときに、竹若を呼んだんです。出し物が『寺子屋』ほかで、彼は玄蕃を勤めました。
一座のなかに富十郎(四代目)がいて、彼は竹若の師匠筋(竹若は富十郎の父の彦十郎の弟子)に当たるのですよ。そういう関係で、富十郎が旅先で病気で倒れちゃったときに、竹若が『阿波の鳴門』なんかを代役したこともある。
 猿之助の一座の旅でも、人が足りなくなると今度は「寺子屋」の千代に廻ったり。つまり玄蕃と千代と両方出来る。つぶしがきくんですね。のちに猿之助が「竹若さんを連れていったからよかった。大歌舞伎の役者ではこうはいかない」と言いました。
神山 猿之助のほか、(守田)勘弥(十四代目)も来ていたといいますね。
守 勘弥の息子(坂東三田八(四代目):かたばみ座では守田謹弥の名前で出演)がいるんですよ。この息子が少しばかで、お稽古のときに腕を組んだりしながら見ていて怒られたりね。そのころの勘弥の相手は元芸者で、もうその人のことが嫌いになってきたんですね。水谷八重子と一緒になる前ですよ。戦後も、しばらく、菊五郎劇団に居たようですが、結局だめで。しまいには勘当みたいにして追い出しちゃったんだよ。その息子はしょうがないからデン助劇団に入ったり、いろいろなところに入っていまして、最後の頃のかたばみ座にも来たんですよ。
神山 そうですってね。
守 そういう事情を知っているから、僕は入れてやったんですよ。ちょっとした脇役にすると、うまくはないけどニンはいいんですよ。しばらくいたんですけどね。
神山 勘弥に似ていましたか?
守 似ている。偽物として通るくらい似ていました。鼻差しがいいんですね。
だけど、ちょっと頭がよくなかった。だから、なかなか芝居を覚えない。
のちに、かたばみ座のあんまり芝居をやらなくなってから、銀座のドイツ人がやっている「ユーハイム」というケーキ屋に勤めていたことがある。
それを聞いた勘三郎が店に来て、おまえ、ここにいるならまじめにやらなきゃだめだなんてね。昔の勘三郎ですよ、先代ね。

かたばみ座が起用した「学士俳優」


神山 かたばみ座の俳優は、昔からやっていた人以外に、新しく入ってきた俳優もいましたか?
守 新しいのもいましたけど。来ると、お化粧なんかを覚えるでしょう。すると、みんな大歌舞伎に引き抜かれちゃう。
だから、大歌舞伎にいっぱいいますよ、下回りになっているの。それは、竹若がよく言っていますよね。ようやく目鼻がつくようになって、そうすると向こうが訪ねてきて引き抜かれちゃう。だから、かたばみ座にいて大歌舞伎へ行ったという人は五~六人いますよ。今もいるでしょう。
神山 歌右衛門のところにいた、加賀屋玉之介というのがそうなんですってね。
守 ずいぶんいてね。かたばみ座にいて、とんぼを習ったり顔の描き方を覚えていると、向こうは仕込む必要がないので楽ですからね。それで、大歌舞伎も下回りが足りなくなって人手不足でしょう。だから、ずいぶん向こうへ行きましたよ。馬をかぶって、馬になっているのもいますし。
神山 脇役では素人も出ていたんですか、あるいは地芝居の人とか。
守 脇役では、日大の学生を出したことがありますよ。日大の歌舞伎研究会の学生ね。一人はかなりうまくなったんですよ。鶴光といって鶴蔵の弟子になって十年ぐらいいましたので。立役中心ですが女方もできる人でした。
 ほかに女形のいい人が一人いて、その人は今は勤め人になって、どこかの会社のかなりのポストについているらしい。児島君と言いましたが。
神山 松竹の方で学士俳優が出たでしょう、大谷ひと江(後の嵐徳三郎)とか。あれと同時期ですか?
守 あれより前ですね。
神山 素人というと沢村寿という人がお金を出して、自分で出ていたという話を聞きましたが。素人さんで、ある程度切符を引き取るとかお金を出すとかして、芝居に出るという人がいた?
守 そういうのはあるんですよ。昔、音羽屋のところにいた役者で、今は役者をやめて大きな料理屋の主人になっているような人が出たいというのでね。その人なんかは切符を二百枚持つからとか言って、それで出ました。
神山 そういう人は腕はありましたか?あるいは、全然だめだったか。
守 いや、全然だめじゃない人がいてね。年配になってるけど、何か趣があるね。だから、本当の脇役にするといい場合があるんです、効果が上がる。芝居をよく知っていますし。
神山 地方の地芝居とか村芝居の人が、出たということはあるんですか。
守 それはないですけど、指導に行くことはありましたよ。地芝居では『太功記』なんかをやりましたでしょう。ことに、小田急線の相模、厚木のあたりは、むかしから地芝居が盛んでしたから。
神山 中車のところへ行った、中之助(後の松本幸右衛門)なんていうのはあの辺です。
舘野 升之丞さんもあそこに婿入りされましたよね。
守 厚木のほうですね。升之丞さんの嫁さんの実家は(二代目)柿之助といって地の役者(地方の職業劇団の役者)で、そこへ養子みたいに入りました(初代柿之助は五代目新蔵の弟子。二代目柿之助は初代の弟子で婿養子神奈川県内の祭礼芝居で太夫元兼役者として活動するほか、地芝居の振付も行った)。かなりいい家だったと聞いています。升之丞のことは、寿座のときから知っているんです。寿座で新之助の弟子として、かなりいい役をやっていたんですよ、まだ若くてね。戦後も大歌舞伎に移って、新之助に付いて。思い出したけど、僕は戦後に新之助と顔を合わせたら、守さんに会うのは恥ずかしいや、こんなところでばあさん役ばっかりやっているんだからと言っていました。
ばあさん役をやったことないのと言ったら、やったことないと言うんだ。だから、前に主役をやって出ているから知っちゃいるけど、やっちゃないんですよと言って。三升と同じ部屋にいましてね。
あの連中は団十郎の家で、家柄がいいでしょう。みんなおおらかなんです。三升はとても人がよくてね。
神山 もともと銀行員ですよね。
守 そうです。それで、慶應出だからですね。とても人がよかったから。戦後に海老蔵が団十郎(十一代目)になりましたけど、何か僕は正統でないような気がする、何か雰囲気がね。
細かく言えば、幸四郎家というのは、団十郎の弟子家なんですよね。
神山 そう、弟子筋ですね。
守 かたばみ座がみんな彦十郎さんの弟子系でしょう、竹若なんかもね。そうすると大歌舞伎の連中は、彦十郎という人は彦三郎の弟子筋ですよね。だから、みんな弟子の弟子だというんですよ。
それで、ことあるごとに弟子だ、弟子だというわけですよね。
和田 そうしますと、かたばみ座に継承された、珍しい出し物なんかもその彦三郎系の役者さんの体に入っていたということですか。
守 そうですよ。彦三郎の弟子の彦十郎という人は、腕のいい役者で非常に田舎をよく回っていたんです、関西なんかを中心に。同じ土地で芝居をするには、狂言を変えていかなきゃならない、行くたびにね。昔の小芝居は、二回芝居といって一日二回芝居をやるでしょう。二回やるとかなりの人が見る。だから、次には狂言を変えなければならないんです。寿座なんかも十五日くらいで変えていましたから。
神山 いわゆる「二の替わり」「三の替わり」ですね。
守 ええ。だから、かなりの芝居を持っていないと出来ない。鶴蔵は初めて小芝居に、踊りというものを持ち込んだんです。小芝居で昔は松羽目ものとか踊りは、ほとんどやらなかったんです。それはなぜかというと、お金が掛かる。
というのは地方(じかた)にお金が掛かるから。私も最後にやりたかったのは、『紅葉狩』なんですよ。だけど、これは長唄、清元、義太夫の三方掛け合いで、たいへんにお金が掛かるからできない。
私が実際にやったのは『勧進帳』を安くする方法。これも地方でお金が掛かる、長唄にね。よし、それだったら若い人の方が声はいいから、早稲田の長唄研究会を出した。それを九州へ持っていったんですよ。そうしたら受けたんですよ。じいさんが語るよりも、顔がいいし声がいいしね。
神山 山台に乗るから顔が見えますしね。
守 あれも若い人たちの方が、本当は声だっていい。だけど格があるから、そのいい役を長唄界じゃあ長老がいて譲りません。ああいうところを大歌舞伎は改革しないとね。
学生を起用するときは、三味線弾きだけ、玄人のいいのを雇っておくんですよ。三味線弾きもシンだけね。そうしたらもうできますよ。あとは、学生がついて弾けばいいんですがね。
神山 かたばみ座の普段の興行は、下座は二人か三人くらいですか。
守 本当は五人ぐらい欲しいけど、お金の関係で雇えないから、たいがい二人か三人でしたね。中で器用な人がいて、名前をカネさんと言いましたが、その人は三味線も弾ければ笛も吹く。笛も吹きながら太鼓もこうやって打つ。小芝居にはそういう人が向いているんですね。
神山 そう言う人がいたそうですね。女剣劇などにも。
守 一回、困ったことがあるんです。九州へ旅に行くときに、お囃子方の女の三味線弾きが東京駅まで来るには来たんですが、給料が安いから行かないと言うんですよ。それで同道しなかった。私は困りましてね。
ところが、かたばみ座の役者は、ほとんどみんな簡単に三味線を弾けるんです。役者連中が「心配しなさんな」と、「俺たちがやるから」と言うのね。私は博多に着いてすぐ三味線屋へ行って、三味線を一挺買ってきた。それ一人が三味線を弾いて、女の役者はたいがい長唄を歌えるんですよ、それでごまかしちゃった。
興行師が困るのはたいていそういうことなんですよね、頼んだ人が、お金の関係で旅の途中で逃げ出す。そういうことがあるんです。
菊地 そのころの役者は。
守 竹若、門三郎(後の市川白蔵)それから後期のころに入ってきた女猿さん(後の沢村可川)というね。女猿が猿之助の弟子で、これは達者な人だったですよ。女猿さんは面白いんですよね。 
「酒屋」のお園をやるんだがね、普通大芝居では、「今ごろは半七さん……」というところ、お園は火鉢の前で静かに黙ってじっと動かないで、そのさわりを聞いているような感じなんだね。女猿がやると別の型で、あのさわりのところを一生懸命針箱を持ってきて縫い物をしていたんですよね。それがおそらく女猿が田舎を回っているときに、関西の役者でそういうしぐさを見ていて、それをやったと思うんですがね。それで竹若がそれを見ていて、「あんな型があるんですね」と言っていた。おそらく義太夫ものなんかは、関西なんかじゃいろいろなふうに演出をしていたと思うんですよね。
今はみんな統一されちゃってひとつでしょう。だからそういう点だけでもね、小芝居がなくなったのが惜しいんですよ。歌舞伎にはいろいろな演出法があったということを残しておかないと。
舘野 旅ではどんな演目をかけていったんですか。
守 いろいろ試したけど、田舎は「でんでん物」――義太夫もの時代物を喜ぶんですよ。
舘野 やっぱり「安達三」であったり「太十」であったり、「(熊谷)陣屋」とか。
守 そうそう。そういうものを入れないと、何か軽く受け取られてしまう。つまり、世話物は江戸っ子のものなんですね。さらさらとして気持ちよくてね。
舘野 書き換え狂言とか、ややひねったもの『老後の政岡』、『本蔵下屋敷』などは、旅でやりましたか。
守 『老後の政岡』なんかは旅ではやらない。旅はやっぱり正式なもの、たとえば『先代萩』の「御殿」なんかをやらないと、やっぱりうけないですね。
菊地 一座は何人ぐらい?
守 三十人あれば何とかいくんですよ。お囃子を三人ぐらい入れて、役者がだいたい十二、十三人かな。それからかつらの人と小道具の人と、それで大道具はだいたい現地ですから。旅に行くのが総勢で三十人くらい。
歌舞伎芝居は五~六人でできるものが多いんです。そういうものを入れていくとですね、旅の場合は楽なんですよ。もっと少なく、たとえば『壺坂』なんて二人で出来ますし、三人でできる出し物もありますし。
神山 旅ではお金の面でだまされたりしたことも?
守 しょっちゅうありましたね。ただ僕はその前に竹本素女さんという女義太夫の方に、旅の苦労をよく聞いていたんですよ。田舎に行くと興行師がいるでしょう。お客がいっぱい入っているでしょう。芝居しているでしょう。ところが興行師が入場料を持って逃げちゃうのよ。そういう興行師がいるんですよ。そういう話をいっぱい聞かされていったからね、もう本当に注意してやりましたけど、やっぱり九州に行ったときにだまされましてね。あるやつが、そう悪いやつじゃないんだけど、自分で儲けようと思ったのね。ところが思うようにお客が来ない。お金を払わなきゃならない、だからどろんしちゃうんですよ。
こっちは宿屋で身動きができなくなって。
神山 やっぱり土地の、その筋のやくざの親分のところにあいさつに行くんですか。
守 旅ではなかったけど、池袋でやろうと思ったときは、極東組というのがいましてね、それで関口という親分がいたから、そこへ行って芝居をやるからよろしくお願いしますと挨拶しに行ったことがありましたね。だけど今は警察が強くなってきたから、もうほとんどそれはやらないで済むんですね。
菊地 旅の小屋では大道具がすごく強いですね。
守 そうね。
菊地 私もちょっと旅役者のまねごとをしたことがあるんですけど、行って幕へ触ると、幕を触るなっていきなり怒られた。それでこっちもどきどきしちゃってね、しょうがないから煙草屋に行って煙草を買って、すみません、これって。それから、うん、なんて言っておさまったけど。
神山 大歌舞伎でも裏方ではやっぱり大道具が一番怖いですよ。
守 関西と東京は、浜松を境にして変わるんですよ。浜松から向こうは、衣裳でも何でも関西風なんですよ。派手なの。それでだいたい浜松までは東京で、東京の方の舞台装置でも衣裳でも、ほとんど東京風に作るんだけど、向こうへ行くと、がらっと変わるんですよ。派手になりますね、関西の方は。
菊地 下座はどっち、上手、下手?下座の位置が違うでしょう。
守 上手側に下座(御簾)のある芝居小屋がありましたよ。九州か何かに。

新内と小芝居


神山 竹若が、『蘭蝶』を得意にしていたでしょう。あのときは新内を使う?
守 小芝居と新内というのは、もう密接な関係があります。新内というのは幕末に出来たけど、清元なんかに比べるとちょっと浪花節に近いというか、やや下品なところがある。だからこそ、小芝居に非常にいいし、『蘭蝶』なんかの幕末の雰囲気に合う。『蘭蝶』だとか『明烏』なんかが、新内は大きいのでね。
『蘭蝶』なんていうものは小芝居のもので、大歌舞伎でもいつかやったけどやっぱりよくないです。それは庶民の切なさのようなものを・・・それは卑しいものなのかなと少し思うんだけど・・・新内は深刻に語りますからね。
戦後、東京新聞を辞めてから報知新聞の嘱託をしばらくていしたんです。そのときに隅田川を流す新内があったんですよ、まだ船でね。料理屋のへりのところへ着けまして、それで新内を船の中でやって、料理屋ではお金へ袋に入れて、船頭がさおの先に付けたかごを出すと、そこにお金を、一万円なら一万円入れるんです。オリンピックよりあとにまだいました。

かたばみ座の「女役者」


神山 かたばみ座は女の役者は結構出ていましたか?
守 おもに二人いました。一人は蔦江さんというひと。もう一人が仲江さん。
この人はその師匠が明治の三崎座の女歌舞伎の系統なんです。
仲江さんというのは上品で、この人は都民劇場の公演でも、「文治住家」か何かにも出ていました。
蔦江さんというのは、さっき言った変体仮名しか知らない人ね。彼女は変体仮名だけ読めるんだけど、ほかの人は読めない。だから僕が台本を蔦江さん用に「翻訳」していたんですよ、しょうがないから。

かたばみ座をとりまく人々


神山 かたばみ座初期の、池之端の都民文化会館のときは葛原工業という会社の須田さんという人が関係をされていたと聞いています。
守 葛原工業というのは、かなり大きな会社でね。初期にかたばみ座のスポンサーだったの。
日比野 調べたら、同じ名前の会社で、日本ではじめてシャンプーを製造した会社がありました。同じ会社だったかどうかまではわかりませんでしたが。
守 須田さんというのは、葛原工業のお使いみたいな感じでやっているうちに、本人が興行に関係するようになっちゃったんですね。イッちゃん、イッちゃんと呼ばれていました。
神山 お客さんは浅草界隈、下町のおかみさんが多かった?
守 多いね。戦前の寿座のときもすごかったんですよね。亭主の半纏を引っかけて、はちまきをして、貧乏徳利って、こんな昔のかたちでお酒を一杯飲みながら、「よっ、成田屋」なんて掛け声をかけるおかみさんが、寿座なんかにもいましたよ。
寿座というのは本当に庶民的で、舞台と一緒になっていたような感じで、ちょっと「そそり」なんてやりますと、お客さんの舞台に役者が飛び込んでいったりね。 神山 下町のおかみさん連中は、御祝儀をあげたり?
守 うん。かたばみ座がやってこられたのは、僕らが安い給料をやっていても、主役の連中たちは御祝儀が入るんですよ。芝居をやっていれば。だから幕を開けてさえいれば我々が給料をやらなくても、彼らは食っていかれるの。ただ下の役者には入りませんよ、御祝儀は。だけど上の役者には入る。
だいたい楽屋に行くということは、まず大歌舞伎だったら下足番に御祝儀をやって、迎えに来た出方にやって、そして役者にやってというのが礼儀なんですよね。最近の女の子たちは、ケーキか何か持ってくる。そうじゃなくて楽屋へ行くには、昔はそういう決まりがあったわけです。
かたばみ座の楽屋へ来る奥さんたちは、ちゃんと御祝儀を、中身は安くてもみんな渡して入ってくる。
神山 雑誌の記事ですが、守さんのお話で、高麗之助という人は「役納め」がうるさかったとかありますね。
守 高麗之助は、古い格式を持った役者でしてね。
例えば写真を撮りますよというでしょう。そうすると、はっといって居住まいを直して、それでぱっとたもとを持って、ふっと手を隠すんです。明治の人の写真を見ると、女の人なんかよく手を隠しているでしょう。
昔は、手を出すものじゃなかったらしいですね。それで、たもとに隠すようにした。高麗之助は依然としてそういう風格だった。
それから旅に行くでしょう。そうすると部屋なんかでも、自分は古い名題である、その誇りが強かったから、だから鶴蔵なんかと一緒じゃ嫌なの。
神山 部屋割りは難しいや。僕も苦労しましたよ。
守 かたばみ座の役者なんかは、みんな給料は安いし食うに困っているんですよ。けれども、旅に行くときは二等車じゃなくちゃ嫌だというのが、たくさんいるんです。それはやっぱり昔の格式を重んじているから。大歌舞伎だと昔は名題になると二等に乗せたんです。つまりお相撲の幕内、幕下の区別みたいなもので、そうことをとてもやかましく言う人でしたよ。
神山 かたばみ座の役者にはプロマイドはありましたか。
守 プロマイドとしては、あんまり撮っていないですね。むしろ戦前の寿座にはありましたが、かたばみ座にはまず無い。
ほんの何枚か、誰かが『鶯塚』か何かの写真を撮って、それをぼくは池之端の下町資料館に寄付しました。最後に残った小道具の鐘なんかと一緒にね。
神山 そうですか。失礼ですけど、そのころの資料というのは、守さん自身は お持ちではない?
守 僕のところにはないですね。・・・というのは、僕の家は本当言うと、かたばみ座の話は鬼門なんですよ。最後はやっぱり五百万円ぐらいの借金を負いましたからね。しょうがないから杉並の家を売って、それで西武線の東大和に家を建てたんです。そうすると、五百万円が出るんですよ、差額で。そういう芸当をやってのけまして(笑)。
だから、あんまりうちでは出せない話題なんだ。

片岡右衛門


神山 東宝劇団にもいた、かたばみ座に出てた片岡右衛門という役者についてお伺いしたいのですが。
守 右衛門は、いわゆる巧者というんじゃないけど、ニンがよかった。ふっと構えたときなんかは、やっぱり風格があってね。ただ、踊りがうまいという人 じゃないの。
神山 写真で見ると、すごいいい男ですよね。
守 いい男です。僕は羽左衛門の代わりにしようかと思ったんだけどね。かりに『切られ与三』なんかやったら、あれは田舎に行ったらうけますよ。
神山 話を子供時代に戻しますけど、早稲田の南町から本所の寿座まで通っていらしたという。当時はけっこうな距離がありますよね?
守 当時、早稲田から市電が出ていて、それがずっと万世橋まで行くんですよ。須田町のところね。そこで乗り換えて本所緑町まで。当時七銭。
和田 両国橋を都電で渡っていくわけですね。
守 そうです。片道七銭で、値上げになってから十銭ぐらいになりましたかな。それで行って、五十銭の入場料。結構一円持っていくと何とかいけたんですよ。
和田 当時は寿座の観客は、ほとんどが本所とかあの辺の方ですよね。
 そのなかに、守先生のような演劇マニアが混じっているという比重だったの でしょうか。
守 だけど山の手からも結構行きましたよ。寿座は最後の劇場は小芝居になっちゃったから愛好者がね。その前は四ツ谷の大黒座、というので、後に新宿歌舞伎座といった劇場とか、鶴巻町の早稲田座、この辺では三崎座って芝居があったし、門前仲町には深川座ってたくさん小芝居があったんですよ、昭和の初期までは。それがあったから、芝居好きの人が市電に乗っていろいろなところに行ったわけですね。
私の祖母なんかは浅草の宮戸座にやっぱり市電に乗っていきまして、ずいぶん時間がかかったけど、今よりのんきな時代ですからね。

新派の思い出


神山 子供のころにご覧になった歌舞伎以外のお芝居で記憶にあるものは。
守 当時の新派というのは猛烈にうまかったですよ。河合とか喜多村など技がうまくて、たまに歌舞伎座に出て昔の吉右衛門なんかと並んでいても河合や喜多村は負けないですよ。しっかりと貫祿がある。よく考えてみると新派の連中は、家柄もなくてたたき上げてきたでしょう。だから抜群に演技はうまかったんですよ。
やっぱりあれは明治の歌舞伎みたいなもので、明治の情緒があるものは、相当の洗練があった。「湯島境内」でも何でも芝居がまとまっているし、とてもいいんですよ。ただ今の時代では、もううけなくなっているけど、演技はうまかったですよ。
 のちに、新派の方で伊井(蓉峰)とか何かがみんな死んじゃってから、梅島昇が、あれのときはまだ二流の位置だったんですけど、彼が大黒座で「湯島」をやったんですよ。そのとき僕はうまいな、こんなうまいやつは歌舞伎にいたらいいなと思うぐらい感心した。
 新派の人たちはソフト帽を、しゃっと斜にかぶったり、外国映画の影響もあったか知らんけど、とても雰囲気があるんですよ、情緒がね。僕は温床で育った歌舞伎役者よりも、腕があるなと思った。
新国劇も辰巳や島田はとても技はうまかったですよね。ことに翻案ものの『白野弁十郎』。あれなんかを新国劇がやると、なかなか素晴らしいですよね。ちゃんと外国劇を消化しているという感じがしてね。
それから三好十郎という人が書いた戯曲をやっていた、文化座という新劇がありますね。
神山 鈴木光枝の。 守 この文化座を僕は戦争中からよく見ていたんですが、三好さんの『獅子』という作品を築地小劇場でやっていたのを見ていたんですよ。
そうしたら芝居を見た翌日か何かに招集が来て、ぼくは満州に連れていかれた。そこで佳木斯(チャムス)という町の勤務になって、日曜日には外出が出来るんですね。それで町に出たら文化座が来ているんですよ。昭和二十年だった。
神山 慰問公演で。
守 ええ。ポスターが張ってあるんですよ、佳木斯の町に。しかも築地で見た『獅子』をやっているんですよね。その日しか町を歩けないから、すぐホールへ行って聞いたら、すぐ脇に文化座の連中が泊まっているというんですよ。そこのホテルにその足で行きましてね。そうしたらそこへ出てきたのが早稲田で同級生の押川昌一君。彼が文化座の演出部にいるんですよ。彼は明日公演があるから来いというんだけど、兵隊さんは外出できないんですよ、自由には。
 しかたなく別れて、それから一月後に日ソ開戦になった。それなもので文化座の連中は満州で帰れなくなっちゃって、女の子はソビエト軍に犯されるというので、みんな坊主になっちゃったの。男装をして、そして二年かかって帰ってきたと聞いています。
そもそも文化座が満州へ渡ったのはなぜか聞いてみたら一説があって、日本国内では空襲でもって全然公演するところがなくなっちゃったので、海軍の報道部へ頼んだところが潜水艦で行けというので、それに乗ってきたというのね。
異常なことでしょう。海軍の潜水艦が文化座を乗せていくなんていうことは。これは日本の演劇史の秘話ですね。
菊地 守さんもシベリアではずいぶん苦労したんですか。
守 食べるものはソビエトが支給してくれたの、ちゃんと。向こうは捕虜を労働力に使うつもりだから。日本人が栄養失調でたくさん死ぬでしょう、そうすると向こうの司令官はクビになる。死なないようにやれというのが、向こうのスターリンの命令だから。だから、向こうの兵隊さんと、こちらと、食べるものが同じなんだ。
神山 強制労働はきつかったですか?
守 強制労働というけどね、やっぱり社会主義の国だからきちんと八時間の労働なんだ。それで休息の時間もちゃんとあるから、日本よりも楽なの。それから、それほど責任がないでしょう、捕虜だから。
神山 責任はないですね(笑)。
守 だから氷点下のなか、こんな大きな手袋で土を掘るんですよね。バールで、岩をぽんとやって。僕らの力だとこのくらいの小さいかけらが飛ぶ程度ね。ところがロシア人の労働者がやると、このくらいの(大きいの)が飛ぶんですよ。
それでも文句は言わないの。結局今考えると、それぞれに責任がないでしょう、社会主義は。

かたばみ座の財産


和田 かたばみ座の活動を振り返って、一座として得意にしていた出し物は?
守 かたばみ座のお客さんは御殿物といって、きらびやかな打ち掛けなんか着たもの、これは喜びますね。お金がかかっていますしね。世話物だけ出していたんじゃ、こっちは楽だけど喜ばれないんですよね。それこそ『壺坂』なんか二人だけでやれる。それで衣裳も簡単でしょう。こういうのは安く済むんですよ。ところがそれだけ出していたら、結局うけないから、だから大きなものをやらなきゃならならない。
だから、かたばみ座では衣裳はお金がないのに無理をして根岸衣裳というのを使ったんですね。根岸のおやじというのは、とても芝居をよく知っていて、たいがいどんな衣裳も心得ていたんです。
和田 大歌舞伎であまり出ない演目で、かたばみ座らしかったものは。
  守 正式な外題を思い出せないのだけど、黙阿弥の世話物で、「鈴木主水という侍は」という歌が出てくる芝居があったんですよね。そのときに台本がなかったので、竹若はたいがい覚えているんだけど、そのときは台本があったらいいというので、河竹先生の家に借りに行きました。その芝居の中で、その歌が入るんですよ。瞽女が歌っていたという歌が、「鈴木主水いう侍が」何とかというそれが入るんです。
神山 『鈴木主水』という芝居がありますよね。それでしょう。
菊地 観客としての思い出だけど『老後の政岡』を、新之助がやるんですよ。そうしたら口を開けたら金歯がぴかっと光ってね。そういうことは平気なのね。今の役者で金歯をぴかぴかする人はいないでしょう。
神山 竹若、鶴蔵というのは人柄もよかったですか。
守 仲よかったですね。あれは同じ彦十郎門下の兄弟弟子で十二~十三歳のときから知っているんですよ。竹馬の友。
彦十郎というのは、大変うまかった人らしいんですよね。その芸にあこがれて入門をした。鶴蔵は抜群に切符を売ることがうまかった。それで鶴蔵が死んじゃったら、かたばみ座は大痛手で。
神山 そういうこともありますよね。
守 踊りの師匠をしたせいもあるけど、王子あたりでも二百~三百枚の切符は鶴蔵が一生懸命売った。だから竹若の芝居がいいといっても、切符を売る人にはやっぱり遠慮しなきゃいけない。だからそこは難しいところで。
神山 二時間の約束が二時間半にもなりまして、貴重な楽しい話をありがとうございました。

注釈


一、 『全国主要都市劇場略史』には「大国座」とあり、『演劇界』昭和三八年(一九六三)九月号には「大黒座」とある。大黒堂のあった寺の跡地にできたので、それに因んでできた劇場であり、初代沢村宗之助が出演中没したのでも知られているが、二通りの表記が併存していた。なお、この大国座は「山手劇場」「新宿松竹座」を経て、松尾国三に買い取られた昭和九年(一九三四)九月に新宿歌舞伎座に改称する。以降、「新宿大劇」「新宿松竹座」を経て、空襲で焼失した。混同しやすいが、昭和四年(一九二九)「新歌舞伎座」の名で開場した劇場は昭和九年(一九三四)九月に新宿第一劇場に改称した(さらに戦後は「新宿松竹座」になる)。つまり昭和九年九月に両者で名前を入れ替えたことになる。

二、 守氏は昭和一八年(一九四三)九月に学徒動員のための繰り上げ措置で早稲田大学を半年早く卒業。同年一〇月より『東京新聞』に勤務した。岡鬼太郎の死はその直後、同年一〇月二九日だった。

三、 同じ松坂屋での公演だが、高麗之助追善公演は昭和三一年(一九五六)七月、『長町女腹切』は同年九月。