熊倉一雄聞き書き


取材日:二〇一四年八月二日
取材場所:テアトル・エコー
取材者:日比野啓・中野正昭・鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
監修:熊倉一雄

イントロダクション


 小太りで髭の毛端をピンと整えた男が、次々と難事件を解決してみせる。推理小説家アガサ・クリスティが生み出した名探偵、エルキュール・ポアロだ。これまで様々な俳優がポアロを演じたが、原作のイメージにもっとも近いのは、デヴィッド・スーシェ演じるTVドラマ『名探偵ポワロ』(ロンドン・ウィークエンド・テレビ製作)だといわれている。日本でもNHKで放送されて高評価を得てきたが、その一方で、確かにスーシェの容貌や仕草はポワロにぴったりだが、その声はどうにもポワロらしくない、という意見が少なくない。妙な話だが、日本語吹き替えを担当している熊倉一雄の声の方が、スーシェ自身の声以上に、スーシェ演じるポワロの雰囲気に合っているというのである。冷静な観察眼の中にどこか滑稽味を漂わせた熊倉ポワロの声の演技が、スーシェの肉体の演技を超えて、見る者の印象を決定づけたわけである。
 俳優・熊倉一雄と彼が代表を務める劇団テアトル・エコーは、「アテレコ師」と揶揄されることもあった吹き替えを「声優」という演技者へと育てたパイオニアである。当然その背後には演劇修行への切磋琢磨があるのだが、熊倉一雄とテアトル・エコーの歩みは、日本の演劇史の上に実にユニークな足跡を築いている。
 舞台を観て「楽しい」とか「面白い」と感じるのは、いかにも単純な感想だが、この「楽しさ」「面白さ」の幸福感がまた次も劇場へと脚を運ばせる理由になっているのも事実だろう。楽しみたいと思う観客と楽しませようと努力する劇団の関係は、演劇を支える基本的な欲求だと思うのだが、これが日本の所謂「新劇」と称される劇団になると話は別になる。舞台を素直に楽しむ以前に、先ずは作品がもつ芸術性や思想性についての鹿爪らしい主義主張を理解するよう求められる。そうしたなかで熊倉一雄とテアトル・エコーは、芸術性と娯楽性の両方を合わせ持つ演劇を、小劇場を通じて模索してきた。
 テアトル・エコーは、戦前の新劇団、テアトル・コメディのメンバーだった北沢彪(一九一一—一九八〇)を中心に昭和二十五年(一九五〇)に勉強会「やまびこ会」として発足、昭和二十九年(一九五四)に劇団テアトル・エコーと改称した。新劇といえば思想劇や社会劇が大多数な中で、テアトル・エコーは国内外の喜劇の上演に力を入れ、マルセル・アシャール、ニール・サイモンなどフランスやアメリカの良質な喜劇作家を紹介したり、キノトール(一九二二—一九九九)(や井上ひさし(一九三四—二〇一〇)ら新しい才能に演劇の場を提供した。小劇場を主体としたミュージカル上演の試みも、テアトル・エコーならではの活動だ。
 今も昔も劇団を維持するには経済的な苦労がつきまとう。戦後の新劇団の多くが、映画や放送の仕事でこれを補ったが、こうした懐事情が口外されることは稀である。が、テアトル・エコーの場合、放送界との繋がりが劇団を他にないユニークな存在にしている。日本テレビの元技術職員だった熊倉一雄を介したテレビ吹き替えの仕事は、劇団の経営を支えただけでなく、現在の声優の確立を促した。作・演出家のキノトールはラジオ『日曜娯楽版』で、井上ひさしはテレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』で名をなした放送作家である。テアトル・エコーは、昭和四〇年(一九六五)に恵比寿にあった稽古場の二階に定員七十九名の「屋根裏劇場」を開場し、つづいて昭和四十五年(一九七〇)に本格的な小劇場テアトル・エコーを開場させ、さらに平成四年(一九九二)には劇場・録音スタジオ・ビデオ編集室等の総合設備を持つエコービルを建設するなど、現在では日本の小劇場演劇のひとつのモデルをなしていると言うこともできる。
 戦後のメディアの展開から孤立したポーズを取ることなく、むしろ上手く歩調を合わせながら、自分と観客を嬉しがらせる舞台を追い求めてきた熊倉一雄とテアトル・エコーは、戦後演劇にあった知的で軽やかな精神、演劇と放送をつなぐミッシング・リンクを紐解いてくれることだろう。(中野正昭)

テアトル・エコーのはじまり、アテレコのはじまり


日比野 熊倉さんは、[旧制]都立高等学校時代に初めて演劇に触れたとお書きになっておられます。それ以前舞台はご覧になったこともなかった?
熊倉 あんまりなかったですね。映画もほとんど観てないなぁ。本ばっかり読んでました。ところが高校生の時に先輩に誘われて、ゴーゴリの『検察官』のボブチンスキーという地主の役をやって。それが大ウケにウケたもんですから(笑)、そのまま都立高校理科演劇研究会というところに入って、いろんな芝居をやりました。そのリーダーが笹岡幸司。その後石山透という名前で脚本家になる人です。フランスものも、アメリカものもあったなぁ……。そうこうしているうちに太宰治の『カチカチ山』のタヌキ役もわりあいに当たったので、石山は一学年上で先に卒業しちゃっていましたが、じゃあ、一緒に劇団を作ろうと。それが感覚座です。名前は要するに「思想より感覚を」っていうことで、当時は思想劇が優勢でしたから、それに反撥する気持ちがあって。でも、一年で三本の芝居をやって、三十万円の赤字を出して、潰れてしまいました。
日比野 その赤字の原因はなんだったんですか。
熊倉 劇場を借りるお金、それから、装置です。河野國男さんという先生に美術を頼んでいましたし、照明もどなたか立派な方にお願いしていました。それとやっぱり、お客の入りが悪かった(笑)。入場料はとったんけど、ほとんどは知り合い、学校の友だち、そんなところでしたから。
日比野 ちょうどそのころ、テアトル・エコーの前身の「やまびこ会」という朗読会が、十人ほどの若者が北沢彪さんのお宅に集う形でスタートしますが、熊倉さんと彼らの接点はどこにあったんでしょう。
熊倉 十人ってことはないです。初めは二人くらいで。ただ、僕はそこには全然入ってないんです。
日比野 すると一九五六年に「無理矢理仲間に入れてもらった」と書かれている[『テアトロ』一九七一年八月号]のが、最初の出会いだったんでしょうか。
熊倉 ここに、テアトル・エコーの最初のころのパンフレットもありますが、最初はほとんどが彪さんの演出で、途中からキノトールもやるようになって……。
日比野 金杉惇郎の作品もやっていますね。日本人の作品をやろうという意識はあったんでしょうか。
熊倉 ええ、はじめはこんなところをやっていたんです。やっぱりキノトールと出会ったことから形ができてきた。でも、その頃はまだ僕は入っていなくて、東芸という劇団におりました。それで、第八回公演のジロドゥの『ベラックのアポロン』と津瀬宏の『弾痕』をやった時に客演をしたのが最初です。そのあと、キノトールの『恋愛の技術』(一九五六年)っていう芝居が国鉄労働会館であって、そこにも出演しましたが、その赤字が大きかったんです。どういうわけか、この時にやめる人も多かった。だから当時いた人の中では、芝居を続ける人よりも、ほかの面白いことをなさる人の方が多くて、芝居やってるのは牟田悌三くんとか、そのくらいじゃないかなぁ。
日比野 それが、劇団の危機になったと。この時、北沢さんはテアトル・エコーを離れたんですか。
熊倉 いや、それより前ですね。キノトールさんの作品を一本演出なさって、その次くらいからは……。もともとね、彪さんはそこまで乗り気じゃないのをみんなが無理矢理に、ってところがあったから。もちろん、その後もいろいろと「頑張れよ」みたいなことは書いてくださっていますけど。「旗幟を鮮明にせよ」なんてね。
日比野 北沢さんは後[一九五六年]に現代座を旗揚げされますよね。テアトル・エコーの活動にあまりに乗り気ではなかった、というのは、喜劇にあまり関心がなかったということなんでしょうか。
熊倉 そうじゃないかな。それと、はじめは二人くらいだったのが、だんだんと十人になり、二十人になり……と増えていった。それもきっと重荷になってきたところはあると思います。最初は朗読だけをご覧になってたんだけど、どうしたって人が集まれば芝居がやりたいという話になりますよね。でも稽古場もないから、先生のお宅に押し掛けて、十畳のお部屋と八畳のお部屋、応接間まで全部使って稽古させていただいていたそうです。だからそりゃあご迷惑だった節はあると思うんです。
日比野 劇団の再建の中心になったのは、梶哲也さんと熊倉さんですね。
熊倉 ええ、その赤字を梶くんが背負ったんですね。ただ、その時はとにかく、「劇団はもうダメだ」というんで、梶くんも残ったメンバーを、この人はどこへ行くといい、あそこへ行った方がいい、なんて劇団をバラバラにする方向のことを始めていたんです。それで、僕はまだ劇団東芸にいたんだけど、「ちょっと待ってよ」って言って。
 東芸はもともと、満州から帰国した新派の人が中心になった劇団で、ちょっとお年の方が多かったから、若い人を入れようっていうので、僕たちが入っていた。でも、僕たち自身も、別の若い人たちと一緒に勉強を始めちゃったりしてたもんですから、なんだか別のグループみたいになっちゃっていたんです。そういう時にテアトル・エコーがやめるなんていうんで、「ちょっとそれはつまんないんじゃないの」って。「それなら僕たちがココに入っちゃいましょう」って、僕が仲間を連れて入ることにしたわけです。それが、劇団の「再建」という言葉になっているんですね。「再建」なんていっても、しばらくの間は稽古場もないし、金もないしで、劇団として仕事ができるようにやるまでは、何年かかかりましたけど。
日比野 その時、熊倉さんと合流したメンバーにはどんな方がいらっしゃいましたか。瀬能礼子さんもいらっしゃいましたよね。
熊倉 瀬能さんは、僕が誘って、東芸から来たんです。沖殉一郎くんもそんな感じで入ってきましたね。全部で十九名かな。津瀬宏の誘いでマエタケ[前田武彦]もいました。彼は途中で抜けちゃったけど。もうずいぶん仕事してましたしね。津瀬宏ももう忘れられた人かもしれないけど、テレビのライターとして活躍していました。
日比野 ということは、お客さんは入っていなくて、赤字もあったかもしれないけれど、テアトル・エコーは、その時点でもう、知る人ぞ知る存在というか、時代の先端をいく人にとっては気になる劇団だったということかもしれませんね。
熊倉 あぁ、そうおっしゃっていただけると嬉しいです。でも、本当に初めてしばらくの間はどうにもならなくて……。結局ね、助かったのは、アテレコの仕事があったからです。NHKには劇団があったし、TBSにもKR劇団っていうのがありましたが、直接に局と繫がっている劇団はほかになかったので、最初はTBSから「あなたの方で何人か集めてもらって、そこに主役をぶちこんで冒険活劇をやりましょう」って話がありました。そこからアテレコの仕事が始まって。NTVでは「ヒッチコック劇場」というのをやらせてもらいました。 そうしてるうちにだんだんとお金も貯まってきて、芝居も楽にできるようになりました。また、「ヒッチコック劇場」では、声の方で実績のある連中をあっちこっちから呼んでいましたから、それで山田康雄や納谷悟朗のような人材がテアトル・エコーに入ってきたということもありました。『魔法使いサリー』の声をやっていた平井道子は、フェリス女学院の声楽科を卒業していて、ちょっと別のルートで、付き合いのあった指揮者に「この子、芝居やりたいって言ってるから」って紹介されたんですけどね。
日比野 平井さんは芝居の経験はほとんどなかったんですね。でもすぐにサリーちゃんで有名になりましたし、劇団の看板女優でもありました。
熊倉 そうです。もともとそんなにたくさんの人がいるわけじゃないですから。特に女の子はね。ただ、彼女は本当に始めっから良かった。テアトル・エコーでミュージカルをやりたい、っていうのが、われわれの夢だったんですけど、入って少し経った頃にその主役をやってくれました。あんなにちゃんと歌える子はそうはいませんでしたし、そういう意味でも、彼女はいろんなことができました。キノトールが脚色した『真夏の夜の夢』(一九六一年)という作品。でもこれもつくづく、大変でした。ミュージカルっていうのはお金がかかりますしね。ちゃんとバンドを頼まないといけないから。キノトールの戦友が進駐軍向けのバンドをやってましたから、それを使ってなんとか安くしようと頑張りました(笑)。だけど、みんな芝居をやりたくって集まってるんだから、歌える人だって少ないしね。次にやったミュージカルはもう、井上ひさしくんの『日本人のへそ』(一九六九年)ですけど、あれはピアノ一台でやりました。それは僕の方から提案して。ですから予算もそんなにかからなくて良かったですね(笑)。そのころはテレビなんかで子ども向けの歌を歌ってましたし、音楽家に友だちもいたりして。それで服部公一に全部おぶさって、作曲から演奏までやってもらったんです。演奏といっても、あの作品の演奏者には「役」があるので、これも大変でしたけど(笑)。

ミュージカルの実地研修(?)


中野 そもそも、熊倉さんがミュージカルを上演したいと思われたのはなぜなんでしょう。
熊井 だいたいあれはアメリカから来たもので、それはそれでどれも気楽でいいんだけど、僕が面白いなと思ったのはルネ・クレールなんですよ。『自由を我等に』(一九三一年、注一)という映画を観て「これはミュージカルだ」と思ったんですね。台詞はほとんどないんですが、それが面白かった。これが、ひとつのミュージカルの「根」になったわけです。で、実行に移してやろうと思ったのが、感覚座の最後の作品で『架空の動物園』。変な作品で、腕もなくてね。歌うことも踊ることも、そのころの高等学校の生徒じゃ、ホントにダメでした。悔しくて、それで解散してから、東京演技アカデミーっていう学校の楽劇科に入りました。楽劇科っていうのはミュージカルを勉強するところなんですけど、まわりは女の子ばっかりで(笑)。みんなよく踊れるけど、僕はできないから、参りました。
 ただ、男性は貴重でしたから、その後もいろんなところに呼ばれましたね。日劇にもちょっと出たんですよ。日劇には必ず三人の男性コーラスがいるんですが、それまでやっていた人が帝劇に出るっていうのでいなくなっちゃった。ほかに誰かいないかって探してたところにうまく潜り込んだんですが、三人の中でいちばん踊りがダメなのが僕。残りの二人は上の階のミュージックホールに上がってしばらくやってました。私はそのまま下で写譜屋になりました。写譜屋ってわかりますか? 楽譜を手で写すんです。当時は初日の直前になると、作曲家がグワーッと新曲を書いてくるんですが、それを元にバイオリンならバイオリン、ピアノならピアノと、パート譜をつくらなきゃならない。バイオリンなんて七パートくらいありますから、いっぱい書かなきゃいけないけど人手が足りないんです。だから、ほかの仲間は上の階で歌ってたけど、僕は下でチョコチョコそんなことをやっていました。でも、それもなかなか面白くて勉強になったし、何より、その仕事をしてるおかげで、[越路吹雪の主演した]『モルガンお雪』とか『マダム貞奴』とか、帝劇ミュージカルスのゲネプロをほとんど観ることができました。実に面白かったですね。で、「これは、自分にはできないわ」と最終的に思った。
日比野 そこには菊田一夫さんもいらっしゃいましたよね。菊田さんはどんな方でした?
熊倉 菊田さんは偉い人でした。それから、コーちゃん[越路吹雪]なんて、ホントに素晴らしかったし、コメディアンもみんなちゃんと芝居ができていた。いい時代でした。
中野 熊倉さんが、外国のミュージカルや帝劇ミュージカルスを観たことが、後に、その小劇場版としてのテアトル・エコーのミュージカルに繫がっていったのか、それとも、何か小劇場独特のものを自分たちで模索した結果がミュージカルに行き着いたのか。その辺りはどうお考えですか。
熊倉 そんなことまでは考えていなかった(笑)。小劇場ミュージカルになっちゃったのは、お金がないからでね。

キノトール(木下徹)のこと


日比野 テアトル・エコーで活躍された作家では、キノトールさんのこともおうかがいしたいんです。というのは、今、キノさんの書いた戯曲はほとんど読めなくなっていて。
熊倉 あら。でもあの人は、ほとんどラジオ・テレビの作家だったから。
日比野 劇団がスタートした一九五四年にはもう、いらっしゃったんですよね。戯曲を手がけられたのは、テアトル・エコーが最初だったんですか。
熊倉 そうだったかもしれません。『スパイの技術』とか『紳士ならびに淑女の諸君』なんて作品もその頃に書いていらっしゃいます。『スパイの技術』は三部作のひとつで、『恋愛の技術』と『殺人の技術』もやりました。
日比野 座付き作家だったという理解でよろしいのでしょうか。
熊倉 うーん、キノさんもね、劇団の活動にどっぷり入るっていうのは嫌で、ラジオやテレビの台本を書きながら、気楽になさっている。そこにわれわれの方が食いついちゃったというわけです。劇団再建後の第一作の『ドライアイスの海』(一九五七年)もキノさんですし、その後も何本か書いていただきました。
日比野 あくまでもそれは、劇団からの依頼というかたちだったんですね。
熊倉 そう。でも、だんだん、偉い人だから「友だち」っていっちゃいけないけど、お宅におしゃべりにいったりして、くっついているうちに、文芸演出部に入ってくれたんです。だから初めは、そんなに……でも、途中から首を突っ込んでくれちゃったんですね。
日比野 一九六九年に井上ひさしさんが座付き作家として参加されますが、その頃からキノトールさんの作は減っていきますよね。
熊倉 そうかな。そういう気持ちは全然ないです。井上くんは六本書いてくれて、その後はホントに売れっ子になっちゃったから、「もう、あなたはこんな小さなところにいないで、広いところに飛んでいきなさい」っていうつもりでしたし、実際に頼んでいません。キノさんの場合には「書かないでくれ」とか「やめてちょうだい」とかいうことは全然言いませんでしたし、最後まで一緒に呑んだり騒いだりしてました(笑)。『ゲバゲバ90分!』ってテレビ番組があって、そのライターにキノさんも入っていたのが、テレビの[台]本としては最後だったんじゃないかと思います。なんにも残っていないとしたら、それはつらいですね。
日比野 梅田晴夫さんが作っていた同人誌『プレイハウス』にキノトールさんは戯曲を発表されていて、国会図書館で読めます。ただ、それ以外のものはあまり見かけないですね。書かれたものを読む限りでは、ずいぶん洒脱な方だなという印象を持ちました。熊倉さんの方から見たキノさんはどんな方でしたか。
熊倉 なんというか、大人(たいじん)という感じです。いろいろこだわらずに、気楽にわれわれとも話をしてくれる。本当に気楽な仲間です。 中野 キノさんの作品の中でも、特に熊倉さんの印象に残っているものはありますか。
熊倉 やっぱりね、彼自身の体験をベースにした『青年がみな死ぬとき』が、いちばん良かったなぁと思います。あれは海軍の飛行兵、特攻隊の話でしたが、彼らと、当時ベトナムから日本に来ている連中がいて。そういう若い子たちが、いろいろなふうに死んでいくという芝居でした。
日比野 喜劇ではないんですね。それをテアトル・エコーで上演したんですね。
熊倉 ええ、喜劇ではないです。お客さんもちゃんと入りました。うちでやっているものにも幅はあって、すべてがコメディーだとはいえません。ただ、確かに最初はコメディーが多かったし、特にフランスのものをよくやっていましたね。マルク・カモレッティの『ボーイング・ボーイング』をやった時には、向こうのエージェントに「ウチは小さいところでやっているので[翻訳上演権を]お安くしていただけませんか」なんてことをいって、「大きいところでやって、もっと人を集めなさい」って言われたなぁ(笑)。でも、少し負けてくれたんですよ。
日比野 『ボーイング・ボーイング』は、海外じゃ大劇場でやっていますから。これは、恵比寿のエコー劇場で一九六八年に上演されています。 熊倉 えぇ。ですから同じ恵比寿ではあるけれど、こことは別の小さい劇場の頃ですね。飛行機であっち行ったりこっち行ったりしながら、何人もの女性と付き合うっていう話(笑)。向こうじゃすごくウケたんですよね。

作品選び、作家選び。 井上ひさしとの関係


日比野 劇団の作品選びは、合議制だったんでしょうか。
熊倉 一応そうですね。ただ、結局、「これが面白い。この辺りのものをやろう」って決めるのは、キノトールさんが中心だったと思います。ただ、僕たちもそんなに幅を持ってるわけじゃないので、後になってくるともう、いろんな方が私たちがやっているようなことをおやりになってしまう。だんだん専売特許みたいなものがなくなっちゃってたところに、アメリカから、酒井洋子さんという、頭がニール・サイモンでいっぱい、という人が帰ってきた。それで、うまい具合にコネクションができて、彼の作品をやるようになりました。酒井さんはまた、珍しく翻訳が面白くてね。
日比野 舞台にのりやすい言葉ということですか。
熊倉 浅草の人ですから。結構べらんめえみたいなのがでてきたり。
日比野 ニール・サイモン以外にも翻訳喜劇は多く上演されていますよね。翻訳の言葉で「これは舞台にのせづらい」というようなご苦労もあったんでしょうか。たとえば、映画の吹き替えでも、いわゆる翻訳調の日本語、というのがありますよね。
熊倉 うーん、申し訳ないけど、アテレコの世界では結構、直しちゃうことがあったから、[舞台でも]抵抗なくそうしていたのかなぁと思います。
日比野 ニール・サイモンの作品は一九八〇年代に入ってから上演されるようになりますが、その前、一九六九年から七五年までの六年間には、井上ひさしさんの作品がずらりと並びます。井上さんに戯曲の書き下ろしを、と口説いたのは熊倉さんですが、この時期にもキノトールさんを中心に作品を決めていくという体制だったんでしょうか。
熊倉 それはもうダブってます。昔は全国に労演[勤労者演劇協議会]って、何本も芝居を呼んで観せる鑑賞会のような組織があったんだけど、ちょうど世の中の方向が変わってきた時期に、井上ひさしの『十一ぴきのネコ』(注二)が、転換期に合った作品じゃないかっていうので、呼ばれたことがあるんです。こういうことで出かけていっていいものか、っていう協議をみんなでしたんですが、その時に決断をくだしたのもキノさんです。キノさんは「井上ひさしという人を絶対に、日本中に知らせなさい」って言いました。それで「じゃあ、やってみよう」と、その作品で本当に日本中を歩きました。ですから、キノさんと井上くんはそんなに話をしたことはありませんけど、そういうふうにクロスはしています。だいたい、井上くんの最初の作品(『日本人のへそ』)も、劇団を挙げて歓迎されたというわけじゃなくて、「なんだこれは。どうやってやるの?」っていうような雰囲気の中で、しょうがないから「私が全部やりますよ」と演出も引き受けた。それが思いのほか、当たって市民権も得たわけですが、だからといって、その後もうちが「井上劇団」のようになってしまうってことはなかったですね。
日比野 ただ、『日本人のへそ』にもある、ちょっとグロテスクな要素は、実はキノトールさんの作品にも共通するもののような気がします。井上さんはエコーの芝居をそれ以前から観ていらしたんでしょうか。
熊倉 いや、観ていないですね。ですからまぁ、なんとなく両者ともそういう方向を持っていたということでしょう。ただ、井上くんについては、僕はラジオの時代からテレビの時代に至るまで、付き合いが長かったから。「この人に書かせれば絶対にうちの芝居になる」という自信を持って交渉したんです。 日比野 戯曲の完成までには、ずいぶんと時間がかかったそうですね。第一幕があがってから、第二幕までにも長い間待たされて、最終的に台本を渡された際には、熊倉さんはどんな感想を持たれましたか。「これはちょっとわかんないよ」という部分はあったんでしょうか。
熊倉 あの作品では、いっとう初めに井上くんと、頭からおしまいまで、全部、箱書きをつくったんです。で、「これで行きましょう」なんて言ってたんですが、途中からガラッと話が変わっちゃった(笑)。でも、これが、私は面白かったんですね。だから、そこで止めるなんてことはなく、私の方が追っかけて、追っかけて。この頃は「わからないなぁ」なんて思ったことは、ないですね。「ちょっとコレ、きついな」と思ったのは『珍訳聖書』かな。難しかったですね。これは。犬の警察の話から始まるんだけど、どんどんどんどん世界が変わっていっちゃう。で
も、それくらいかな。ほかの作品は面白くて面白くて。
日比野 さきほども少しお話に出ましたが、井上作品をやることについては、皆が賛同していたわけでもなく、ずいぶんと抵抗があったんですね。
熊倉 そういうこともありました。それと、どこまで井上くんをつなぎ止めていくのか、という問題も出てきましたね。つまり、私たちも「この人はもっと飛べる人だ、どんどん違うこともできる人だ」と思っていたし、直木賞をとってからは特に、ちょっとした集まりにも編集者が同席していたりする。こっちは貧乏劇団で気持ちだけでやってもらっているけど、あちらは出版社とくりゃ、どうしたって叶いませんよ。
日比野 井上さんご自身はどう考えていらっしゃったんでしょう。エコーだけでない、どこか別の場所で仕事をしてみたいというお考えもあったんでしょうか。
熊倉 そういう気持ちはあったと思います。出版社だけじゃなく、演劇のプロデューサーだって、どうしたって「こりゃあ面白いのが出てきた」となれば掴もうとしますし。
日比野 ただ、井上さんにしてみれば、テアトル・エコーは「庭」というか、いちばん好きにやれた場所だったんじゃないでしょうか。というのは、中期以後の井上さんの作品は、どんどんアヴァンギャルドではなくなっていきますから。
熊倉 そうですね。つらくなっていきますね。
日比野 熊倉さんからご覧になった井上さんということでよいのですが、そこは意図的に、より多くの支持を得られる方向に舵を切られたと思われますか。 熊倉 まぁ、でも、そういうふうに動いていかなきゃならなくなっちゃってたでしょ。大変ですよ。
日比野 そういうお話をご本人から聞いたことはありますか。
熊倉 そりゃ言わない。一緒にお茶を飲むくらいですよ。あの人東北の方で大学みたいなの[生活者大学校]をやってて、そこに呼んでくれたこともあるけど、そのくらいですね。だんだん忙しくなって……。ホントに頭のいい人で偉いよね。よくあそこまで頑張ったなと思います。とうとうぶっ倒れたけど、あれはしょうがないね。大変なチェーンスモーカーだから。どんどん吸っちゃうんだから。「やめた方がいいよな」なんて自分でも言うけど、ダメなんだ。 日比野 井上ひさしさん以後、特にこの方と決めて作品を依頼することはなくなったのではないですか。
熊倉 あまりないですね。松原敏春くんにお願いしたのは、結構面白かったんですけど。あとは岡本蛍。彼女はうちの創作戯曲募集に応募してきた人で、今も時々書いてくれていますが、面白いですよ。あと、続けてつきあっているのは小川未玲くらいかな。

日本の喜劇、 テアトル・エコーの喜劇


日比野 ほかの喜劇を上演する劇団とはどんな関係にあったんですか。たとえば飯沢匡さんとのおつきあいは?
熊倉 ないんです。だってあの人偉い人だもんね。そりゃあ顏を会わすことはありましたけど、恐れ多くて……。あんなに颯爽とキレイにちゃんと洋服も着こなして、足を組んでスッとしてらっしゃると、「すいません」って言いたくなっちゃうから(笑)。「やろうかな」って思った作品もあったけど、その時はみんながのってきてくれなかったんですね。
日比野 飯沢さんが、テアトル・エコーの活動について論評なさったことはあるんでしょうか。
熊倉 それはあまり、うかがったことはありません。
日比野 日本の喜劇の伝統をつくろうとしていた飯沢さんにとって、テアトル・エコーはその理想を叶えてくれた存在だったと思うんです。
熊倉 なんといっても[金杉惇郎・長岡輝子夫妻を中心に戦前の一九三一年に結成された]テアトル・コメディご出身ですから、あの人は(笑)。NLTには、一度借りられていったこともありますけどね。なんでも決まってた方が降りちゃって、その穴埋めだったようで。まあ、あそこの女優さんとうちの安原[義人]が結婚したりもしたし、うちの劇場をお借りくださることもありますし、なんとなくお付き合いがあります。喜劇では、里吉しげみさんのところ[未来劇場]もよくやっていると思います。水森亜土さんとは舞台以外の仕事でのお付き合いが多かったけど。
 やっぱり難しいのは、アメリカの芝居とフランスの芝居とは、すごく味が違うということですね。演技そのものが難しい。アメリカの芝居の方が、このごろの私は楽にのっていかれるような気がします。フランスの芝居は意外と、人と人とのつながりが深いんです。だから、いい気持ちのところばかりじゃないですね。きつくて、苦くて。もちろん、アメリカの戯曲にだってそういうものはありますけど、フランスの方がなんとなくつらいなって気はします。それこそ私どもがアシャールの『海賊』(一九六六年)をやってるときに、テアトル・コメディ[当時は文学座]の長岡輝子さんが、「『海賊』はアシャールのまだ若いころの作品だけど、これから先に是非やってもらいたいのは『じゃがいも』。これは難しいんだけど」ってどこかで書いてくださったんです。それでやってみたら[一九七二年]、ホントに難しかった(笑)。やっぱりなかなか、人と人とが憎み合っているのに、繫がるところは繫がっているというようなところには届かないですね。面白かったけど、帽子を脱ぎました。もう一度やってみたいですけどね。年とってからわかることってありますから。若いころにはどうしても分からなかったことも、年をとるとわかる。
中野 日本の喜劇というと、関西の松竹新喜劇なんかもありますが、熊倉さんはそういったものについてはどのようにお考えになっていたんでしょう。
熊倉 松竹新喜劇ではないけれど、[同じ関西の]宝塚新芸座が帝劇で『道修町』[菊田一夫作、一九五三年三月]をやったときに、どういうわけか呼ばれたことはあります。秋田Aスケ・Bスケなんて人がいましたね。まぁ、どうも、お邪魔だったようですが(笑)。やっぱりね、劇団のありようというのは難しいもんです。あそこは、きちんとしてますね。われわれのようにフワフワしてれば、誰でもかれでも「熊ちゃん」で済んじゃうんだけど。
日比野 松竹よりモダンなはずの東宝の宝塚新芸座ですら水が合わないというか、「きちんとして」いて古臭い、という印象を当時の若者としてお受けになった(笑)。松竹新喜劇はもっと上下関係が厳しかったと聞いています。なにしろ「藤山寛美先生」の世界ですから。
熊倉 あ、そうか「先生」なのか。そういえば、僕は気が回らないものだから、主役の人たちより先に楽屋風呂に入って怒られちゃったこともありました(笑)。
鈴木 先だって[二〇一四年六月に]こまつ座が上演した『てんぷくトリオのコント』には、熊倉さんの役も登場しましたね。喜劇ではなく、お笑いやコントを劇団としてやろうということは考えませんでしたか。
熊倉 てんぷくトリオ、あの人たちも面白かったですね。でもやっぱりね、てんぷくとか脱線とか、特に脱線トリオは恐ろしかったです。テレビのお昼の番組か何かで何度も一緒にやりましたけど、まぁ、参った。凄い。一度リハーサルして、私どもがすごいウケたりなんかして「ちょっと向こうが凹むんじゃないかな」なんて思ってると、本番はガラッと変わってしまって、もう、なんにもやらせてもらえない(笑)。てんぷくの方がまだ柔らかかったです。でも、ああいう芸人の世界というのは面白いですね。まだみんながヒロポン打ってる時代にも一緒にやったことがありますけど。
日比野 じゃあ、あっちの人たちにはもう、太刀打ちができないというようなお気持ちもあったんですね。
熊倉 というか、ちょっと方向が違うから。うちの連中を連れていって、どうこうなんてできないもの。しかし、いろいろ経験させてもらって、面白かった。時代も面白かったんですね、やっぱり。今はつまんないね(笑)。
日比野 こうしてお話をうかがっていると、テアトル・エコーは、他の喜劇をやる集団とも一線を画していたし、一九六〇年代後半からのアングラ演劇の動きとも無縁でしたし、かといって新劇でもない。なんとなく「孤高の存在」という気がします。それは自ら一本の道を切り拓き、歩き通してきたということでもあると思いますが、それは自分たちの意志だったのか、それとも時代との対応だったのか、どういうふうに振り返られますか。
熊倉 うーん、こうしかできないという道を歩いてきただけのような気がしますね。ただ、劇団っていうのはやっぱり、構成員が死んだり、いなくなったりするととっても痛いんですね。劇団の動きそのものに響いてきますから、その辺が難しいなぁと思います。今はなんとか、素敵な、フレッシュな子がでてきてくれればいいなと思ってるんですけど。このままいくとだんだん、下火になってしまいますから。というか、私だって、そろそろねぇ(笑)。

アテレコの時代、「声優」の登場


熊倉 最近は、アテレコの昔の仲間がどんどん死んでいくのも嫌ですねぇ。今は「声優」なんていうけど、昔はそんなの考えられなかった。
日比野 それも熊倉さんたちが拓いた道ですよね。
熊倉 結局はね。当時はドラマも生放送だったけど、アテレコは声だけだからってことで、お金にも差がついちゃってた。「さんまの開きじゃあるまいし、生(出演)の七掛け」なんていうおかしなヤツもいたけど(笑)、初めはそんなことでやっとこさやっていたのが、そのうち「このごろの外人は日本語がうまくなったね」なんて言われるようにもなって。そしたら、女の子の追っかけがくるようになったの。そのころから市民権を得るようになったんですね。「なんだろう、すげえなこれは」と思いましたね。とにかく始めの二、三年はダメでしたから、今みたいに「声優」なんて言われるとビックリします。僕たちのころは「声優」っていえば、NHK[NHK東京放送劇団]の立派な声の役者、巌金四郎とかね、あ、知らない?(笑) 日比野 ごめんなさい、知らないです。そういった声優の仕事は、いわゆる新劇団の人たちもやっていたんですか。
熊倉 新人会や三期会は一生懸命やっていましたね。
日比野 俳優座、民芸、文学座といった老舗の劇団ではどうだったんでしょうか。
熊倉 それはもう、「あんな仕事はできないよ」っていう雰囲気はありました。『ヒッチコック劇場』をやっていたときに、無理矢理お願いしたことはありましたけど。「そんなことできないよ」なんて言われたんだけど「大丈夫です。しゃべりはじめは(合図がわりに)背中を叩きますから」なんて言って(笑)。題名忘れちゃったんだけど[第十三話「狂熱の町」一九六五年九月十七日放映(“Shopping for Death”)]、ジョー・ヴァン・フリート(Jo Van Fleet, 1914-1996、ワーナー映画『エデンの東』でジェームズ・ディーンの母親役をやった名優です[熊倉註])っていう向こうの役者が良かったですね。いい役者を観るのはすごくいい勉強になるんです。こんなときにこんな仕草をするんだ、とかね。で、いちばんいいのは、長いシリーズをやること。僕は『名探偵ポワロ』をもう七十本やりました。ついこの間、ポワロも死にました。こっちはまだ生きてるんだけど(笑)。あれもデヴィッド・スーシェって役者がすごくいいんです。初めは若くて無理してたのに、だんだん年を重ねていくと、ホントにいいんだよね。ほかにもいろんな役をやって、忙しくって、ブロードウェイにも出て、なかなかしょっちゅうはポワロの撮影には出られなくて本数も少なくなっちゃったんだけど。

アテレコの時代、「声優」の登場


熊倉 最近は、アテレコの昔の仲間がどんどん死んでいくのも嫌ですねぇ。今は「声優」なんていうけど、昔はそんなの考えられなかった。
日比野 それも熊倉さんたちが拓いた道ですよね。
熊倉 結局はね。当時はドラマも生放送だったけど、アテレコは声だけだからってことで、お金にも差がついちゃってた。「さんまの開きじゃあるまいし、生(出演)の七掛け」なんていうおかしなヤツもいたけど(笑)、初めはそんなことでやっとこさやっていたのが、そのうち「このごろの外人は日本語がうまくなったね」なんて言われるようにもなって。そしたら、女の子の追っかけがくるようになったの。そのころから市民権を得るようになったんですね。「なんだろう、すげえなこれは」と思いましたね。とにかく始めの二、三年はダメでしたから、今みたいに「声優」なんて言われるとビックリします。僕たちのころは「声優」っていえば、NHK[NHK東京放送劇団]の立派な声の役者、巌金四郎とかね、あ、知らない?(笑)
日比野 ごめんなさい、知らないです。そういった声優の仕事は、いわゆる新劇団の人たちもやっていたんですか。
熊倉 新人会や三期会は一生懸命やっていましたね。
日比野 俳優座、民芸、文学座といった老舗の劇団ではどうだったんでしょうか。
熊倉 それはもう、「あんな仕事はできないよ」っていう雰囲気はありました。『ヒッチコック劇場』をやっていたときに、無理矢理お願いしたことはありましたけど。「そんなことできないよ」なんて言われたんだけど「大丈夫です。しゃべりはじめは(合図がわりに)背中を叩きますから」なんて言って(笑)。題名忘れちゃったんだけど[第十三話「狂熱の町」一九六五年九月十七日放映(“Shopping for Death”)]、ジョー・ヴァン・フリート(Jo Van Fleet, 1914-1996、ワーナー映画『エデンの東』でジェームズ・ディーンの母親役をやった名優です[熊倉註])っていう向こうの役者が良かったですね。いい役者を観るのはすごくいい勉強になるんです。こんなときにこんな仕草をするんだ、とかね。で、いちばんいいのは、長いシリーズをやること。僕は『名探偵ポワロ』をもう七十本やりました。ついこの間、ポワロも死にました。こっちはまだ生きてるんだけど(笑)。あれもデヴィッド・スーシェって役者がすごくいいんです。初めは若くて無理してたのに、だんだん年を重ねていくと、ホントにいいんだよね。ほかにもいろんな役をやって、忙しくって、ブロードウェイにも出て、なかなかしょっちゅうはポワロの撮影には出られなくて本数も少なくなっちゃったんだけど。

恵比寿のおいしいお煎餅屋として


日比野 これは今だからお話いただければ、と思うのですが、熊倉さんはこれまでずっと、テアトル・エコーの顏でいらっしゃって、辞めるとか、他劇団に移る、たとえば東宝のようなところから声をかけられるといったことはなかったんでしょうか。
熊倉 全然ありませんでしたね。ただ、井上劇団をつくろうという動きがあったことはあります。こまつ座ができるずっと前、井上くんが一、二作書いたくらいの時期でした。
日比野 それは井上ひさしさんの作品をやることについて、劇団の中でも意見が分かれていたので、「それなら熊倉さんをかついで別の集団をつくろうよ」という井上支持のグループができたということですね。
熊倉 そうです。テアトル・エコーの何人かが中心になって。そりゃあ劇団ですから、危機はあります。でも結局、動かないで、このまま(笑)。自分がつくってきた劇団なんだから、やっぱり私はここを守っていこうっていう気はどうしても。しょうがありませんね、これは。沼の主みたいなもので。
中野 少し話が戻ってしまうのですが、テアトル・エコーが再建されてすぐのころに、江戸川乱歩が後援会長をしていたそうですが、その経緯はどういうものだったんですか。
熊倉 あれはね。われわれが『婦人科医プレトリウス博士』(一九五八年)って、シャーロック・ホームズとワトソンが出てくる芝居をやったんですが、その中に偉い人たちが集まって「プレトリウス博士の行動はどうもけしからん」って、会議する場面があるんです。でも当時のわれわれはまだ若いから、「そんな(偉い人に見えるような押し出しの強い)俳優が五人はいないとダメだけど……」なんて考えているうちに、誰のどういう関係からか、山村正夫先生という推理作家の方と話がついて。そこから、いろんな人が毎回一言だけしゃべってくれるという会議の場ができあがったんです。それで江戸川乱歩先生も木々高太郎先生もいらっしゃって、出演してくださった。その時に「テアトル・エコーの会っていうのをつくって応援してやろう」という話になりまして、何をやったかというと、その先生方で一本芝居をつくったんです。
中野 いわゆる「文士劇」をやったんですね。
熊倉 そうです。キノトールの『スパイの技術』をやりました。みんなで仲良くいろいろわいわいして、飲んで、それで、終わりになりました(笑)。
日比野 一九五〇年代後半は推理小説ブームだったので、そのことはテアトル・エコーが本当に時代と切り結んでいたということでもあるのかもしれません。錚々たる推理小説作家たちが出演したわけですし、そのこと自体が、テアトル・エコーの立ち位置を示している。つまり、当時の新劇とはまた違う、「面白いことをやる文化的な集団」というノリがそこにはあったんじゃないでしょうか。
熊倉 それですね、気持ちは。恵比寿のすみっこでおいしいお煎餅焼いてる、みたいな。そういうつもりでやりましょうって。あんまりいいお煎餅が焼けなかったかもしれないけど(笑)。
日比野 本当にユニークな存在なんですよね。
熊倉 まぁねぇ。この建物にはアテレコをやっていた関係で、録音スタジオもありますから、そういうお仕事もやって生き延びているんです。そうじゃなきゃとっくに潰れていたんじゃないかな。昔は恵比寿の別の場所に劇場があったんだけど、時代が[バブルの]時代でね。そこが邪魔になったので、更地だった今の場所と取っ替えてくれ、これだけの建物も建ててあげますよって話があって。あれで酷い目にあいました(笑)。終わってみると、こっちが払わなきゃいけないものがいっぱいありましたから。……商売人にはかなわない。
日比野 最後に、熊倉さんのこれからの夢、やり残したことなどをおうかがいしておきたいと思います。
熊倉 あぁ、やりたいことだらけです(笑)。この年になって、ちょうど合う芝居というのもあるはずなんです。今もなんとなく、考えているのはあるんです。劇団の公演で、日本の作家の書き下ろしで。
日比野 それは楽しみですね。熊倉さんも出演されますか。
熊倉 もちろん。演出は誰かにやってもらいますが、私も今も、研修生の指導で、太宰治の作品(『こぶとり』)を演出しているところですけど。
日比野 もし、俳優か演出家のどちらかしか選べないと言われたら、熊倉さんはどちらを選びますか。
熊倉 やっぱり役者がいいな。でも演出家っていうのは面白くて、役者で舞台に立っちゃうと見えなくなっちゃうものが、演出家として座って観てるとすごくよく見える。「あぁ、こうやればいいんだ」なんて分かる。これは面白いもんです。
日比野 選びきれないんですね、本当は。
熊倉 うん、どっちもやりたい(笑)。どのくらいまでできるかわかんないけど(笑)。もうじき九十だから、百歳まではいけるかな。

注釈


一、 『自由を我等に』(一九三一年)。ルネ・クレール監督、ジョルジュ・オーリック音楽のフランス映画。作中で表題曲をはじめ何曲か歌われるので、これはミュージカルである、という評価がされた。日本では翌一九三二年に公開されたが、一九四九年一月には帝劇でも上映された。四八年以降次第に増えていった帝劇での映画上演の一環であった。

二、 『十一ぴきのネコ』。井上ひさしが『日本人のへそ』(一九六九年二月、第三十四回公演)『表裏源内蛙合戦』(一九七〇年七月、第三十六回)に続き、テアトル・エコーに書き下ろした作品で、ミュージカル仕立てになっている。一九七一年四月初演(第三十八回公演)、七三年七月再演(第四十五回公演)。