薄井憲二聞き書き


取材日:二〇一四年九月七日
取材場所:芝パレスホテル
取材者:日比野啓・神山彰・唐津絵理・鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
監修:薄井憲二・唐津絵理


イントロダクション


 舞踊史研究家・舞踊評論家の薄井憲二氏は、一九二四年三月に東京で生まれた。第四代日本バレエ協会会長であり、京都バレエ専門学校で長年教鞭をとられ指導者としても活躍なさってきた薄井氏は、同時に(旧制)成城学園中等科在学中からバレエ関連資料を渉猟してきたコレクターでもあり(その大半を私たちは薄井憲二バレエコレクションとして兵庫県立芸術文化センターで見ることができる)、第二次世界大戦以前より東勇作(あずま・ゆうさく)バレエ団に所属したバレエ・ダンサーでもあった。
 今回の聞き書き取材では、研究者・評論家としてのご活躍が広く世に知られるようになる一九八〇年代以前のお話をもっぱらうかがった。すでに『日本バレエ史』(新書館、二〇〇一年)所載の「薄井憲二 バレエ・リュスに憧れて」(『ダンスマガジン』第八巻第七号[一九九八年七月]に掲載)のなかで、青年期から壮年期にかけての半生を薄井氏は語られているが、今回私たちの聞き書き取材では、徳富蘇峰の家の近くだった東京・大森のご生家やご両親のこと、幼少の頃よりご覧になっていた宝塚歌劇・歌舞伎・バレエ・ダンス・レビューの印象、戦後の一時期盛んに行われた共産圏との文化交流への参加、東勇作やその周縁の人々の思い出など、多岐にわたるお話を伺うことができた。
 十七歳のとき舞踊評論家・蘆原英了の勉強会に参加されて以来、バレエ・リュスをはじめとするヨーロッパの最先端のバレエ・ダンスを吸収することにつとめ、敗戦後四年間のシベリア抑留を経験したことからロシア語にも堪能な薄井氏は、舞台芸術全体について深く広い見識をお持ちであり、その見識にもとづいて、ご自分の所感や判断を歯に衣着せぬ言葉で語る論客である。ときにその鋭い舌鋒は蘆原英了や東勇作、また戦後の日本バレエ界を牽引した服部・島田バレエ団の島田廣、小牧バレエ団の小牧正英などの人物月旦にまで及んだ。言うまでもなく、それは積年の恨みつらみを述べる、というような性質のものではない。文字に起こしたことで多少その印象は変わるかもしれないが、薄井氏の口ぶりからは、とうに鬼籍に入った人々たちを生きているときと同様の冷徹さでご覧になっていることが伺えた。死者を遇する際、生者に対してと同じような敬意と尊敬を払っているからこそ、その人々を語るにあたって些かの手心も加えず、自分の印象を有り体に述べる、その率直さに取材者の一人として私は心を打たれた。
 もっとも、こんなふうに「つねに現在形で語る」のは、薄井氏の驚嘆すべき記憶力もあずかってのことかもしれない。今年二〇一五年には九一歳を迎える薄井氏だが、七十年以上前にご覧になった舞台を、昨日あったことであるかのようにあざやかに目の前に再現してみせる薄井氏のお話の見事さに、私たちは黙って聴き入ることしかできなかった。「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」で取材をお願いした人々、これからお願いする人々はみな、自分が観客として見た舞台の記憶をこんなふうに生き生きと語る。強烈な体験というのは案外早く忘れ去ってしまうもので、それはその体験に「打ちのめされた」自分を早く忘れたいという一種の自己防衛本能のようなものだ。だが打ちのめされたときの自分の「傷」とともに、その強烈な体験をいつまでも「今」のことのようにして覚えている、そんな希有な時間感覚を持っている人々に私たちはときどき出会う。舞台芸術にただ関わるというだけではなく、舞台芸術に「取り憑かれた」人たちは、そういう時間感覚を持っている。
 そういう人たちの中でも薄井氏は、固有名詞の正確さにおいて際立っていた。ある舞台が素晴らしかったといい、その特徴を事細かに述べることと、その舞台に、どんな俳優/ダンサーが参加していたか記憶していることは別のものだ。舞踊史研究家としての薄井氏の職業意識ゆえにその能力が磨かれたこともあるだろうが、それ以前に一片の事実すらゆるがせにしないその態度は、薄井氏が現実と向き合う姿勢を反映しているようにも思える。一言でいえばそれは誠実さ、ということだが、そんな言葉には収まりきらない、生きていくうえでの広い意味での「真剣さ」とでもいうべきものを取材中、私はたえず感じ取っていた。
 とはいえ薄井氏の生真面目さは、持ち前のユーモアによって裏打ちされていることも急いでつけ加えておかなければならない。自分が体験したことがどんなことであれ面白そうに話す薄井氏の話しぶりに私たちは魅了された。ときにはゴシップに近いお話(残念ながら、この紙面には載せられないようなものも含まれる)を伺いながら、私たちは時が経つのを忘れて大いに楽しんだ。比喩ではなく、あっという間に三時間半が過ぎ去った。その雰囲気は紙面にも再現されていると思う。
 最後になったが、薄井氏との楽しい時間を過ごすきっかけを与えてくださった、愛知県芸術劇場シニアプロデューサーの唐津絵理氏に謝辞を述べたい。唐津氏に仲介の労をとっていただかなければ、バレエ界の重鎮である薄井氏と私たちが接触することはかなわなかっただろう。紙面には現れていない部分でも色々助けていただいた。重ね重ね感謝する次第である。(日比野啓)

バレエ道への前史。新劇・宝塚歌劇に親しむ


神山 先生は戦前からバレエを学ばれていましたね。幼い頃から舞台に親しむような環境にいらしたのでしょうか。
薄井 私が生まれたのは大森の山王一丁目です。ちょっと小高いいいところで、隣には徳富蘇峰が住んでいて、その勝手口とわが家の庭の門とが向かい合っていた。[第二次世界大戦で]兵隊に行って、帰ってきてからもしばらくそこ。わりあい広い土地だったから持ちきれなくて、私が帰ってきた時にはずいぶん減っていて驚いたけど。山王何丁目かに、東山千栄子さんが住んでいて。ボルゾイという大きな犬があるでしょう、あれを三匹ぐらい飼っているのよ。それで書生さんか女中さんかにしょっちゅう散歩させていた。私の母はあの人と女子学習院の同級生だったんですよ。
神山 東山千栄子って華族なんですか。
薄井 違います。でも学習院[東山入学当時は華族女学校]です。高等科だけですけど。私の母親は小学校からずっと女子学習院なんですね。で、女学校の上にちょっとプラスの部分[高等科]があって、母はそこで英語とフランス語をマスターしたので、八十六歳で死ぬまで読み書き会話ができました。僕もそういうのを見ているから言葉に興味を持ったのかもしれませんが。ただ、そういう場所では「高等科だけ」というのは軽蔑されてしまうんです。
神山 今のわれわれには思いもつかないことですね。
薄井 そうそう。初等科一年のときからの同級生が大倉財閥の奥さんになった人がいたそうです。大倉伊曽子さんってバレエの人がいたでしょう。小石川の、今Kバレエカンパニーになっているところを建てた……あの方は大倉さんの縁つづきで、遺産であの場所をもらったそうです。ご主人はちょっと変わった人で、富田輝雄さんといったのが、大倉啓生になった。
 で、東山千栄子の話に戻ると、あの方は女優になったので女子学習院の同窓会組織から除名されました。それで誰も口をきいてくれなくなって。母が亡くなってから何回忌だったかでお呼びしたときに「同級生は誰も挨拶もしてくれなかったけど、薄井さんだけは家も近いし、道で会うとしっかりおやりなさいよ、なんて肩を叩いて言われて嬉しかったです」とおっしゃいました。そんなことで、うちには新劇の切符もくるから、私は[一九二七年に東山千栄子がラネーフスカヤ夫人を演じて以来当たり役となった]『桜の園』を観ています。だから戦後モスクワ・マールイ劇場の『桜の園』を観たときには「こんなふうになるんだ」と驚きました。ロシア語は演劇的なものならだいたい理解はできるけど、やっぱりすべて分かるわけじゃあない。それでも何か違うものが漂っていました。
神山 東山千栄子も一時ロシアにいたそうですね。
薄井 どこかの実業家にお嫁に行って、ペテルブルクで過ごして。そのときに演劇を観て「これは素晴らしいものだ」と思って、帰ってきて女優になった。
神山 中年になってから女優になったのは有名ですね。新劇はほかにどんな作品をご覧になりましたか。
薄井 当時観た新劇で感激したのはソーントン・ワイルダーの『Our Town(わが町)』を築地小劇場がやったとき。とても印象的でした。だって、舞台装置がないんだもの。町の人たちが死んで、お墓に入った後で話す場面でも、ただの椅子に座っているだけだったりして。よくできていた。『LIFE』か何かの雑誌に、老婦人が劇場の切符売り場で「この芝居は舞台装置があるの?」と聞いて、「なかったら切符を買うわ」って言ってる漫画が載っていて、よけいによく覚えています。二年くらい前に新国立劇場でもやりましたね。
日比野 先生がご覧になったのは一九四一年で、築地小劇場はもう、国民新劇場になっていました。長岡輝子の演出です。
薄井 そうか。じゃあ築地とはいえないね。荒木道子も出ていたでしょう。とても上手だった。
日比野 当時は、お姉さまと一緒に、宝塚歌劇もよくご覧になっていたとか。
薄井 それは小学生のとき。最初に観たのは『トゥランドット姫』[一九三四年八月・花組公演・東京宝塚劇場]です。「鞭の踊り」というソロがあったの。それはすごく印象的でした。神代錦(かみよ・にしき)だったかな……その人は何を観ても踊り専門の人でした。(注一)それから一九三九年ですが、『祭禮の夜』という作品のことはよく覚えています。(注二)音楽はストラヴィンスキーではないんですが、物語は『ペトルーシュカ』そのままでした。私はまだ一四、五歳でしたが、その時はもうバレエ・リュスの『ペトルーシュカ』のことは知ってはいましたから、行ってびっくりしました。でもわりあい面白くて。ペトルーシュカが天津乙女で、バレリーナが雲野かよ子、天津乙女の妹ですね。それからムーア人は園井恵子で、不破伴左衛門かな。(注三)雲野かよ子が出雲阿国で天津乙女は名古屋山三なので。
神山 不破伴左衛門です。名古屋と張り合うのだから不破ですね。
薄井 初演は園井恵子ではないようですが、私は東京で観たから。後になって本当の『ペトルーシュカ』を観て、あぁ『祭禮の夜』の方がよかったなと思うところが一カ所だけあったんです。それは「ムーア人の部屋」で、園井恵子が無聊を慰めるために投扇興で遊んでいるところ。扇子を投げるなんてしゃれているでしょう。バレエ・リュスの本によると、フォーキンはあの場面で行き詰まって機嫌を悪くしてリハーサルを止めて帰ってしまうんです。この前、翻訳したので知った新知識ですけどね。で、次の日ニコニコして現れて、「いいことを思いついたよ」と、ヤシの実を持って遊ばせる場面を作り上げ、振付できない部分を埋めた。だからヤシの実で遊んでいる場面は面白くないの(笑)。投扇興の方がしゃれているじゃない。
神山 ですけど先生、その当時の中学生でよく投扇興が分かりましたね。
薄井 うちにあって遊んでいたから。小学生の時から好きだった。
神山 私は歌舞伎の楽屋でやるので知っていましたが、普通家庭ではやりませんでしょう。でも、先生だけじゃなく、宝塚歌劇のお客さん全体がその趣向を投扇興だと分かっていたということですよね。
薄井 百人一首なんかをするようなうちでは知っていたでしょう。
日比野 当時の『歌劇』では、岡田恵吉が作及び振付、銭谷光三が振付となっています。作曲は岩河内正幸。(注四)
薄井 そう。作曲家も、当時の宝塚の雑誌で「これは面白い作品だから、一生懸命心を尽くして作曲しました」って言っていらっしゃるけど、演出家も振付家もみんな、ストラヴィンスキーのこういう手本があるなんてことは言っていないの。(注五)だから、誰かがバレエ・リュスを観て思いついたことだけど、誰にもそのことは言わなかったのかもしれません。

映画館での出会い


日比野 薄井先生ご自身が舞踊に目覚めたのは、映画の間に上演されたフラメンコだったとか。
薄井 そうそう。小学二年生の時に、有楽町に邦楽座という映画館がありまして。そこが漫画大会だというので親に連れていってもらったことがあります。そのアトラクションにセニョリータ・ヴァニタという人が出ていました。どさ回りのフラメンコで、東洋をまわって歩いていたんだと思います。でも大混雑で立ち見している人もいるから、子どもは見えないわけ。私の父は普段は私たちと一緒に出かけるなってことはしないんですが、その時はどういうわけか一緒で、肩車をして見せてもらいました。それで一瞬だけ舞台を観ることができたんです。ちょうどその時、闘牛士の衣装を着たセニョリータ・ヴァニタが、下手から上手に向かってケープを振りながらサーッと通りすぎた。それが大変なショックでね。うちへ帰ってから、羽織を使って真似をしました。それが僕のバレエの始まりだと思います。そこで西洋舞踊というものに出合った。
 また、それと前後してエリアナ・パブロワも二度ほど観ています。今の清泉女学院だと思いますが、二世の人を日本に連れてきて日本語教育をしましょうという趣旨で活動している方を母がよく知っていて。その学園祭にエリアナ・パブロワが出るというので、母と一緒に行ったんです。子どもですから「つまらないから勘弁してくれ」という気で観ていましたけどね。印象的だったのは、お弟子さんが六人くらい手をつないで踊ったりするでしょう。それでお辞儀をしたから「あぁ、終わった」と拍手をすると、すぐにまたアンコールでもう一度繰り返す。あれは「けしからん」と思いましたね。「なんであんなのを二回も」と(笑)。エリアナ・パブロワ自身は二回踊りました。ひとつはあの「瀕死の白鳥」です。[「瀕死の白鳥」をその代表的作品とした]アンナ・パブロワという名前も、「瀕死の白鳥」という題名もその時知っていましたから、[アンナ・パブロワの]来日は私が生まれる前でしょう。確か一九二二年。うちの戸棚にプログラムがあったの。後になってロンドンの博物館に貸したこともありますよ。エリアナ・パブロワの「瀕死の白鳥」で印象的だったのは、腕を曲げたところを客席から見上げると、ちょっとした太さだったんです。「死んでいく白鳥がなんであんなに太いんだ」と。あとはあんまり覚えてないですよ。ただ、もう一曲「調馬の踊り」というのがあって。
神山 調教のことですね。
薄井 そう。「調馬師の踊り」だったかもしれないけど、それが、子ども心に面白かったんです。ですから、最初にフラメンコ、次に「調馬の踊り」、それから『トゥランドット姫』の鞭の踊り。そこから、バレエの言葉で言えばドゥミ・キャラクテール、つまり何か意味を持った踊りが好きになっていったようですね、自分としては。それから、松竹楽劇団というのがやはり邦楽座に出ていたんですが、中学生になってからは、もう勝手に観にいっても歳で叱られもしなかったので、そういうものも観ていましたね。いちばん覚えているのは「ツィゴイナ・レーベン」っていうシューマンの合唱曲。
日比野 「流浪の民」ですね。
薄井 そうそう。踊りの場面があって、ジプシーの男たちの鍛冶屋が輪になって、順繰りに手に持った大きな槌で焼けた鉄を叩いていくのが面白かった。その時は笠置シヅ子が歌っていました。松竹楽劇団が出ない時に、石井漠の『カルナバル(謝肉祭)』を観たこともあります。石井カンナというバレリーナが出ていた。でもあれは、面白くもなんともなかったですね。
日比野 中学生以後になると、自分から積極的に舞台をご覧になっていたんですね。
薄井 そう。でも日劇には行かせてもらえませんでした。「日劇ダンシングチームなんてものは観てはならん、あれは下劣で良家の子女の観るものではない」と。松竹楽劇団はね、映画にくっついていますから、うちではよく分かってない。「映画を観に行くよ」でいいんです(笑)。
日比野 それはお父様の厳命で?
薄井 父は関係なし。母と、姉が三人、それから兄も一人いましたが、全員学習院で、皆で「ダメだ」と言うんです。余計な話ですけど、父は田舎から出てきた人だから。小唄勝太郎の『島の娘』という流行歌が好きでしょうがないんだけど、家じゃそのレコードをかけさせてもらえないわけよ。子ども心にも気の毒だったな。仕方がないからポータブルの蓄音機も一緒に買ってきて、自分の部屋で聴いたりしてました。それでいっぺんだけ、「あれを聴きたいから聴かせてよ」と言ったことがあります。どんなに父が喜んだか(笑)。父は富士山の見える田舎の人で、お見合い結婚で養子にきたんです。東大の応用化学を出て、三共に入って。その時にアメリカ留学もして、ベークライトを見つけたそうです。だから合成樹脂の歴史に父の名前は出てくるそうです。
日比野 歌舞伎はご覧になっていましたか。
薄井 歌舞伎は母親が好きでしたし、祖母も文久[一八六一—一八六四年]生まれでそういうものが好きでした。祖父は徳川幕府の家来だったのが、明治政府に移って、日銀で働いていたようです。それで気楽に暮らしていたんです。うちの一台しかないラジオの優先権は祖母にあって、長唄の放送があるとほかのものは何も聴けませんでした。さすがにもう出かけていく歳ではなかったけど、母はよく観に行きましたから、二カ月に一回くらいは連れていってくれました。ですから、今上演されているレパートリーは、ほとんど全部そこで観ています。
 ただ、自分でバレエを始めてからは、日本舞踊を観ると退屈だなと思っていましたよ。だって、バレエのソロなら三分くらいで終わるのに、『道成寺』なんて六十分ぐらいかかるんだもの。母は、『鏡獅子』の獅子になる前のお茶のお手前の場面で、袱紗をたたんで差し出す手がどんなにきれいか、なんて一生懸命に言うんだけど、分からないわけ、そういうのは。でもひとつだけ、『鏡獅子』の子役、胡蝶の精二人の踊りには感心しました。息を継ぐ間もなく、あぁと思わせるような踊りばかりがずっと続いて。一人はこの間亡くなった歌右衛門(六代目)の福助で、もう一人が梅幸(七代目)。それはいいなぁと思った。ほかの人がやっても、同じことをやっているようで面白くないんですけどね。だから日本舞踊をやっている人に「振りはみんな違うんですか」と聞いたことがあるくらい。ただ、後の芝翫(七代目)が児太郎で、もう一人がたか志[のちの七代目市川門之助]。その二人がやるのは面白かった。たか志は子ども心にも天才だと思ったなぁ。
神山 子役時代はすごく有名でしたね。その後、三代目市川松蔦を経て七代目門之助になった。たか志は十五代目羽左衛門に気に入られて、よく羽左衛門の子役をやっていたそうです。
薄井 戦後になると歌舞伎を観る余裕はなくなってしまったんですけどね。世の中が変わって貧乏にもなるし、バレエだって一生懸命追いつかなきゃならないんだもの。
 ほかに戦前でよく覚えているのは『盛綱陣屋』の信楽太郎。(注六)六代目[菊五郎]の名前はよく聞いてはいたけど、『道成寺』も『鏡獅子』も長いから感心しなかった(笑)。でも、『盛綱陣屋』の振りはなんともいえず上手で。花道の七三で、ちょっと転がったり向きを変えたり。あんなに狭いところで何分か踊って引き上げていく。息もつかさないという感じ。それから確か『春夏秋冬』か『四季』という題だと思うけど、歌舞伎座で菊五郎振付・出演のバレエがありました。秋の場面では、大勢が木の葉に扮して、くるくる回りながら倒れたりする。非常に退屈で、バレエを知らないとこうなるんだなと思いました。
神山 九条武子が書いた『四季』かもしれませんね。[『四季』は一九四三年(昭和一八)四月・歌舞伎座]
薄井 そうかな。芸妓と若侍が出てくる夏の場面がすごくよかった。六代目が芸妓で「暑い、暑い」と団扇で扇ぎながら下手から上手まで歩いてくる。それがなんともいえず上手なんです。十五代目羽左衛門の若侍が夏姿で、「お前、そんなことをいうんじゃない」なんてなだめている場面が印象的でした。それはひとつのタブローで、バレエになっていましたね。

中国、北朝鮮、ソ連……東側との交流


神山 先生は帝劇の歌舞伎はご覧になっていますか。
薄井 いや、もう、帝劇の歌舞伎はない時代でしたから。帝劇で観たのは崔承喜[一九四二年十二月]。朝鮮の有名な舞踊家ね。二度くらいは観たけど、すごく有名でしたし、いつも大入り満員でした。始めは白い衣裳で太鼓を着けて踊るのが三曲くらい。民族舞踊ですが、あまり動きがなくて面白くなかった。そのうち三階から「崔承喜しっかりやってくれよな」なんて声がかかりました。たぶん韓国の人でしょう。だけど、びっくりするように綺麗な観音様になった演目もあった。台の上に立って全然動かない。上半身だけでやるんですけど、あんまり綺麗で飽きさせないの。それが唯一印象に残っている作品です。『観音菩薩』という題名だったでしょう。朝日新聞の批評に誰が書いたか知らないけど、「あの観音菩薩は身体の美しさを見せるだけでくだらない」とあった。人はそれぞれ違うことを思うものだなと、そのとき思いました。後で人に聞くと、「それは蘆原英了さんだろう」と言うんだけど。
日比野 その時はまだ蘆原英了とは出会っていないんですね。
薄井 知らないころ。崔承喜は戦後全然消息が分からないでしょう。私は一九六四年に平壌で崔承喜の娘に会いました。松山バレエ団の第二回の中国公演でゲストとして出ていてね。当時、パスポートには東ドイツと北朝鮮には行ってはいけませんと書いてあったけど。そもそもは中国の国慶節のために行っているわけです。それで毛沢東も一度観に来たし、マダム・マオ(江青)も周恩来も劉少奇も、いろいろな人が来ましたよ。面白かったのは、周恩来が来ると入口と裏口にガードマンが立つ。毛沢東がくると、それだけじゃなく、小道具で使う竹槍や刀も全部徴収されるんです。使い終わったらすぐさま集めて誰かが持っていく。あんな警戒厳重な国でも、それだけ怖れなきゃいけない状況だったんですね。どちらにしろ、あたっても死ぬような刀でもないのに(笑)。
 それで、この時の政府の要人の誰かが、このバレエ団を平壌に送って金日成たちに観せましょうというふうに決めたんです。共産主義の国の公演では、終わった後に必ず「どうでしたか。自由に批判してください。勉強になりますから」なんて交流会みたいなものがあるんです。崔承喜の娘さんにもそこで会いました。その時に聞いたのかどうか、記憶が定かではないんですが、崔承喜の旦那さんは映画監督で、出国しようと飛行場にいる時に夫婦ともどもつかまって殺されたそうです。娘の方は確か、「姫」という字で終わる名前だったけど、大変な美人で。向こうの人たちは『春香伝』をやりました。何か言わなくちゃいけないので、「女の人の踊りがよくできていて大勢出るけど、男性舞踊者が少ないですね」と言ったのを覚えています。崔承喜の娘さんは握手をするときに、ちゃんと握らないで、ちょっと触るだけでね。そんな人はめったにいないから驚きました。あの人の消息ももう分からないですけど。
神山 その頃の訪中には、日中文化友好協会の中島健蔵[フランス文学者・文藝評論家]なんかも関係していたんですか。
薄井 あったと思います。私はゲストだったけど、中国公演に参加するためには日中文化友好協会の会員にならなくてはダメですよというので、会費を払って会員になりましたから。ずいぶん長いこと会員やってましたよ。いいこともありました。京劇は中国に行ってから好きになったからね。京劇の切符をくれたりするし。
 僕が行った時は、松山バレエ団が共産主義体制に乗っかっていた、その最盛期だったと思いますね。作品は『祇園祭』といって、民衆が政府に反抗する社会主義文化的なところもあるけれど、そんなに露骨なものではありませんでした。踊りとしてはできあがっているし、私はゲストですからあんまり口出しもしないし。自分の作品もひとつ提供していました。宮城道雄の『春の海』に振付けた、ちょっと日本風な西洋舞踊です。ただ、中国に到着してレセプションやらミーティングで団長が演説するのを聞いて「あぁ、これは大変なところへ来てしまった。これが一カ月も続くんだ」と思いました。
日比野 小野幸恵『焼け跡の「白鳥の湖」』[二〇一三年・文藝春秋]で初めて知ったんですが、服部・島田バレエ団の島田廣さんも朝鮮の方だったそうですね。
薄井 そうです。白(パク)という名前でした。お父さんは相場師、つまり株屋さんだった。
日比野 両班[貴族階級]の出だということでした。
薄井 そのようです。お父さんに会うときは大きな広間で、お客さんがずっと並んでいて、順番で話をする。はるか向こうにいたお父さんが自分のところまで来ると「こんにちは。お目にかかれて光栄です」というようなことを言う。それだけの間柄だったと聞いています。両班ならよくあることですが、何人か奥さんがいらして、正妻のお子さんではなかったみたいですね。これは、後々の話ですけど、島田さんは日本の国籍になるんです。それで韓国のバレエ界はずいぶん怒ったようです。
 またそのきっかけというのがね、これは島田先生を頼って日本でバレエの勉強をしていた林聖男(リン・セイナン)という人に聞いたんだけど、島田さんのお母さんが百歳くらいで亡くなって、そのお香典を持って韓国に帰ろうとしたんですね。ところが、日本円を持ち込むのに申告していなかったというので、全部没収されてしまったんですよ。「別にイリーガルなことではないから申告すればよかったのに」と向こうの人も言うんだけど、島田さんは怒りやすい人で「瞬間湯沸かし器」と呼ばれていたからね。カンカンに怒って日本に戻ってきて国籍を変えちゃった。
日比野 薄井先生は、[モスクワで開催された]一九五七年の世界青年学生平和友好祭にも参加されていますね。
薄井 最初はモスクワへ行く気なんてなかったんです。だってそのときのお金で十二万円かかるんだもの。もちろんある程度はソ連政府が出したのかもしれませんけど、それでもわれわれは自腹で十二万円払わなきゃならなかった。最初はスポーツの人から労働組合から、全部ひっくるめて三百五十人くらいが行く計画だったんだけど、「そんなに大勢はダメです」ということになって、百五十人に減らされたの。それでバレエは私一人になった。現代舞踊の人の方がそういう場での活動は上手だから七人くらいはいたんじゃないかな。
 だから私は急遽、現代舞踊のナンバーを習って踊りました。でも、いつも私だけ間違うんです。みんなが座っているのに、私だけ立って終わったりして。バレエなら新しい作品でもなんとなく想像ができるんだけど、現代舞踊は全部覚えなきゃいけないから大変。印象的だったのは江口隆哉さんの「日本の太鼓」だったかな。岩手の「鹿踊り」をもとにした作品。このあいだ新国立劇場でリバイバルがあったので、観たかったんだけど。だって、私も踊ったんだから。難しい踊りで、鹿の角と旗印みたいなものが背中にくっついていて、それで床を叩かなきゃならない。歩いて叩き、曲がって叩き……そこからもうみんなとズレちゃって叱られて。でも、それがメインの演し物で、向こうでも結構評価された。
日比野 その辺りのお話は以前、『文藝春秋』でもお書きになっていましたね。
薄井 そう。あれは私の兄が文藝春秋だったので。平和友好祭のときは、有名な写真家の田沼武能さん、まだ駆け出しだった彼と一緒にいったんですよ。だけど、帰る時に日本の労働組合の人たちとモスクワでゴタゴタしたりして。そのとき初めて私は、「労働組合ってひどいものなんだ」と分かった。行くときから気がついてはいたんですよ。ナホトカからモスクワまで汽車で九日かかるんだけど、そのあいだに病気になる人が多かった。通訳が足りないから、私も手伝ったんだけど、言うことがとてもわがまま。また、そういう人に限って、行く先々で出くわすんだ。郵便局でも会って、何か政治関係の宣伝のために五十枚くらいハガキを出したりするのを助けたこともあります。これは恥ずかしいことだなと思って見てたけど。

東勇作の素顔とその葛藤。『白鳥の湖』以後


日比野 そろそろ東勇作先生のお話もおうかがいしたいと思います。薄井先生は一九四二年から、東先生の門下でダンサーとしての道を歩まれました。薄井先生から見て、東勇作はどういう方だったのでしょう。
薄井 東のことは、大体『牧神——或いは東勇作』(東勇作同門会・東博子、二〇一〇年)に書いたとおりです。
日比野 私生活ではどんなご様子でしたか。戦後はゲイバーのマダムをやっていたこともあったとか。
薄井 そういう噂は聞いたことがありますが、実際にどうであったかは知りません。色々な意味でわがままな人でした。戦後は、田村町の辺りに東宝芸能学校というのがあって、そこで一九五三年の第一期生から教えてもいました。
神山 昭和二十八年。藤村俊二もそこの出身ですし、今の水谷八重子も在籍していました。
薄井 藤村俊二も一期生なんですよ。二期生には有名人がひとりいて、それが振付の土居甫。私は彼の個人教授も頼まれてしたことがあるの。演劇科だったけど、踊りが好きになってね。小柄だからバレエには向かなかったけど、成功してよかった。名前を見るたびにそう思っていました。あの人とは、もういっぺんくらい会ってもよかった。とにかく、そういう学校ができて、年数が経つと、つてを求めて入ってくる人も増えて、クラスも増えるでしょう。そうすると東先生も一人じゃやりきれないから私も行っていた。そのうち私の方が担当の時間数が多くなって。でも一銭ももらっていないから、これだけ時間をとられてはやっていけないというので、「すみませんけど、ほかの仕事がありまして」と辞めさせていただいたようなこともありました。
神山 そのころですと、秦豊吉はもういませんか。
薄井 いえ、います。東宝芸能学校の在校生の公演なんていうのが東京宝塚劇場であって、それは秦豊吉監修でしょう。当時日本舞踊の先生で来た若い人がいて、自分のソロナンバーがあって、『雨の五郎』か何かだったと思いますが、秦さんの鶴の一声でカットになりました。リハーサルを観て「これはつまらないからダメだ」と。その彼は落ち込んでいましたよ。僕自身は、違うジャンルの人だし、あんな偉い人は怖くて。お辞儀くらいはしたと思うけど。
日比野 薄井先生は東宝芸能学校をお辞めになったわけですが——。
薄井 そう。でも東勇作の弟子を辞めたわけじゃないです。私は東を尊敬していたから、死ぬまで辞めないし、時々相談に乗ったりもした。
神山 東先生はやはりカリスマ性のある方だったわけですね。写真で見てもすごくきれいですし。
薄井 そうです。東勇作を見てバレエを志したという人も何人かいますよ。一九三〇年代にあんなふうにできる人はいませんでした。どこに出しても恥ずかしくない。立派な身体だったけど、そんなに背は高くなくて一七〇センチくらい。初めて会ったときは東北訛りで変わった印象だったけど(笑)。自分でもルドルフ・バレンチノに似てると信じて疑っていませんでした。クラスを生徒に任せて出かけることもあって、そういうときは黒い帽子をちゃんと、ホンブルグに近いような、でも真ん中の凹んだふちの硬いものをかぶっていました。ちょっと顏にタルカムパウダーをはたいたりしてね。昔の人はそうだったみたいね。余計な話だけど、リファールがサザビーズのオークションにディアギレフの化粧箱を出したことがあって。そのなかにも大きなパフがありました。結局落札されなかったけど、あれはどうなったのかなぁ。
日比野 さきほど東先生は「わがままだった」と仰いました。そこには自身の理想とするバレエと現実の世の流れとの間での葛藤もあったんでしょうか。
薄井 この前バレエ・リュスの本を翻訳していて初めて分かったんですけど、バレエ・リュスがパリに出て行った一九〇九年には、パリの興行サイドでもロシアサイドでも、「バレエというものは今、世界にないものだから」と言っているんですよ。つまり「ロシアにしか残っていないんだから、ロシアバレエをやりましょう」ということでやったんですね。第一回はオペラ座でやるはずだったんですよ。その前にロシアオペラが『ボリス・ゴドゥノフ』をやって大評判になって。ロシア音楽って知られてなかったから、オペラとバレエを一緒にやるならオペラ座でやりましょう、っていうことになったんです。
 ところがロシアの内部事情でお金が足りなくなって、お金がかかるオペラはできなくなった。そうするとパリのオペラ座は「いやしくもこのオペラ座は国立の施設だからバレエなんて俗なものはできない」と言い出す。オペラ座にはバレエ団もあって、学校もあるでしょう。でも、調べてみると確かに一九〇九年には衰徴していました。レパートリーは二曲だけ、『コッペリア』と『エトワール』です。『エトワール』を手がけたジョゼフ・ハンセンは、モスクワのボリショイ劇場で『白鳥の湖』の最初のバージョンを改訂した人で、歴史的には業績があるんだけど、今は誰も覚えていない。その年は『エトワール』が五回、『コッペリア』が十九回上演されました。そんなに悪くはないけれど、パリのオペラ座としてはあるようなないような規模ですね。だから、ほっておけば滅びるようなものだ、という考えでいたんじゃないですか。
 ところが、一九〇九年にバレエ・リュスによる現代バレエの波がやってきて、以後は、ヨーロッパでもアメリカでも「バレエ」というものが再認識され、育っていく。ただ、日本では事情が違っていて、一九四六年に『白鳥の湖』全幕が来て、そこからバレエに目覚めるわけです。だから十九世紀のロシア・クラシック・バレエこそがバレエだという刷り込みが今も続いたままなんです。でも、東勇作はそうじゃない。一度だって四幕もあるような大バレエは自分ではしなくて、バレエ・リュスに傾倒していましたから、ちょっと時代とズレたようなところがあって気の毒だったですよ。そうしていろいろうまくいかなくなって、後援者だった自称・奥さんとも別れてしまうわけです。
 晩年は松山バレエ団で教えながら暮らしていて、それが唯一の経済的支えになっていたけど、将来の望みも失って、それが病気に繫がったんじゃないかと私は思っています。病院以外で最後に、渋谷で待ち合わせて会った時には、首の辺りが腫れていて。「先生それは問題です。がんということもありますから、看てもらわなきゃだめですよ」と言いました。それでもしばらく放っておいて、具合が悪くなってから、咽頭がんだと分かって、入院して亡くなるんだけど。
神山 その「奥さん」という久松昌(子)さんとの関係は、主に経済的なものだったんでしょうか。陶芸をやっていた方だそうですが。
薄井 『路上の霊魂』(小山内薫指導・村田実監督、松竹キネマ、一九二一年)という映画に子役で出ているはずです。この映画の主役の大日方傳と東勇作は非常に仲がよかったみたいです。それで一九四六年(昭和二一)に『白鳥の湖』を帝劇でやっているときに、大日方と一緒に現れたのが久松で、東に「うちにいらっしゃい、ちゃんと生活できるようにしてあげます。心配しなくていいです」と。当時は初台にスタジオがあったんですけど、借りたもので、立ち退きも迫られていてね。仙台のお母さんを引き取って、面倒もみていた。お母さんはいつ亡くなったのか、私が帰った時にはもういらっしゃらなかったけど、東が出征していない間は松尾花子[明美]さんが世話をしてた。松尾さんは神田の人で空襲で焼け出されちゃったから、一緒に住んで東の帰りを待っていたんです。当時、私はまだ帰っていませんから詳しいことは分かりませんが、この時、東は久松さんのところに移り、松尾さんは松尾さんで自分でどうにかするように決めたんでしょう。
 久松さんは長いことスタジオに住み込んだりしていた人を気に入らなくてね。松尾さんは、占いに凝っていていろいろ名前を変えて後には松尾明美になったんですけど、彼女も破門状をもらったりしてるんですよね。それから松山樹子さんも習いにきていたんだけど、ある日久松さんに帰らされるわけです。後に東は松山さんに「あんたが泣いて帰るのを見ていた。自分も心を痛めたし、本当に悪かった」と言ったそうです。
日比野 東宝芸能学校のこと、それから久松さんとの出会いは、戦後のことですよね。戦前の東さんはどのような経済的基盤を持たれていたのでしょう。
薄井 大倉喜七郎さんが後援者でしたから、そこから月給をもらっていたはずです。大倉さんには川奈聴松というペンネームがあって、作曲をするんです。だから川奈聴松の曲を松山樹子がソロで踊るなんていうことも、コンサート番組でやっていました。東には「バレエというのは西洋のもので、今はコックだってフランスに行って学ばせてもらってるんだから君もそのうち習わせてやる」なんて言っていたそうです。本人もそのつもりでいたけど、戦争でそれもできなくなってしまいました。それでも聞いた話によれば松尾さんと松山さんと二人分の月給ももらっていたそうですし、グランドピアノを貸してもらったりもしていた。そのグランドピアノを後になって久松さんが売ってしまってね。「あのピアノはどうした」と大倉家からの問い合わせがきたりして、ちょっと問題になったみたいですよ。
神山 戦後は財閥解体なんかもあって、大倉さんからの援助もなくなったわけですね。それで一九五三年から東宝芸能学校が始まって、翌年に『櫻咲く国』を発表される。
薄井 東先生の最後の大公演ですよね。東宝芸能学校の男子生徒が四人くらい入ってた。藤村俊二もいて、『櫻咲く国』は難しいから出なかったけど、最後の『今宵はヨハン・シュトラウスを』に出ている。
神山 『櫻咲く国』というと、SKDやOSKのテーマソングですね。関係はありますか。
薄井 あるかもしれない。東勇作は松竹少女歌劇の教師をしていたことがあるから。そのときに『櫻咲く国』というのが頭に入ったんじゃない? そもそも東は松竹少女歌劇で松尾花子を発見するんです。これはバレエに向いていると。その後東が日劇ダンシングチームの講師に移る時に、松尾さんもついて入団しています。
 そこでやっているうちに、オリガ・サファイアが来てね。二人はいい関係で東も彼女から教えてもらうわけ。で、彼女は一人で来ていて男のパートナーがいないから、二人でいろいろなことをやって。『ドン・キホーテ』のパ・ド・ドゥなんて、今はそこら中でやっているけど、日本で初めてやったのはオリガ・サファイアと東勇作だもの。ただやっぱり、その関係も、久松さんの存在で疎遠になっていく。
 私は一九四九年にシベリアから帰ってきて、バレエを再開したんだけど、その時東は新橋駅近くの貸スタジオ[東京美術倶楽部社屋・地階]でやっていて、借り賃も高かったんでしょう、週に三回しかレッスンがなかった。それで、オリガ・サファイアは旦那さんが清水さんという外交官で、私と同じ大森に住んでいたから、あと三回はそこに行っていいですかと聞くんだけど、やっぱり叱られますよね。そのころはよそと交流があっちゃいけないというような状態でしたから。
 本にも書いたけど、当時は劇場を借りるだけのお金がなくて、美術倶楽部の大広間で会をやったりする。切符の割当もあって、関係する人はそれを売らなきゃならないんだけど「バレエの人には切符を売らないでくださいね、振付を盗まれるから」なんて久松さんが言うわけです。東は黙ってそれを聞いてる。「どうしてそんなことを言えるんだろう」と私は腹が立ったけど、先生だからしょうがない、言いませんでした。
 最近までずっと、そういう雰囲気はありましたね。以前、ロシア・バレエ・インスティテュートが始まる時にも、「モスクワから先生が来て教えますから」とあちこちの先生に声をかけたけど、その手紙も破いて捨てられたりしたそうです。その先生の一人のところから二、三人来ていたから、「生徒さんをよこしてくださってありがとうございます」とお礼を言ったら、翌日からその三人は来られなくなりました。先生に叱られたんでしょう。今はそういうことも大丈夫だけど。
神山 オリガ・サファイアは一九四二年に『シェヘラザード』をやっていますが、これはご記憶にありますか。あれはハーレムの話で、当時東宝劇団にいた片岡右衛門という歌舞伎俳優がサルタンの弟役で出ているんですが。
薄井 作品は記憶にありますが、踊りがない役なら覚えていないですね。昔のバレエでは、マイムの役と踊りの役は厳然と分かれていて、マイムの人は踊らなかった。
神山 なるほど。エリアナ・パブロワの公演にも鈴木傳明なんて戦前の映画スターが出ているので不思議だなと思っていたんですが、それもマイムの役だったんですね。
日比野 東勇作バレエ団は一九四六年に服部・島田バレエ団と小牧正英と共に東京バレエ団を結成、東は『白鳥の湖』でジークフリート王子を演じています。東京バレエ団はその後解体され、小牧バレエ団の結成につながるわけですが、ここで小牧さんのお話も伺っておきたいです。
薄井 踊りは下手だし作品はつまらなかった。エリアナ・パブロワの妹のナテジタさんなんかも怒っていました。『牧神の午後』ではニンフと牧神が追いかけっこして戯れるような場面もつくってあって。そんなのあるはずないのは誰だって知ってるのに、ひどすぎると思った。
日比野 ただ、現実的には、『白鳥の湖』をきっかけに、小牧バレエ団にはどんどん人が来たし、海外からバレエ団を呼ぶ「呼び屋」としても活躍されました。
薄井 そうね。だから東も落ち込んだと思いますよ。自分の方が才能があるということは自分で知っていただろうし、恵まれないと思ったでしょうね。それであまり公演もしなくなってしまったし。橘秋子さんがうまくやっているというのもとてもうらやましかったみたいね。後援者に武者小路実篤もいるし、いろいろな人がいてスタジオも建ててくれるし、公演もできるんだから。

戦前のスターの記憶。戦中の交流


神山 東勇作先生は戦前、梅園龍子、益田隆と「益田トリオ」を結成されています。梅園龍子の踊りはご記憶にありますか。梅園龍子は踊っている映像が残っていまして、素人目には見事と言えるものですけど。川端康成が媒酌人をするほど熱中していたようです。
薄井 川端の『浅草紅団』にも出てきますね。私が観たときにはもう踊ってらっしゃらなかった。足の甲があんまりなくて、バレエには向かなかったみたいですね。東勇作がそう言っていました。益田隆の映像は残っていますか。
神山 あると思います。ジャズの評論家の瀬川昌久さんが一昨年「ラピュタ阿佐ヶ谷」で、映画の中のダンスの映像を見せる企画をやったんです。その中に、『笑ふ地球に朝が来る』[津田不二夫監督 製作=南旺映画 配給=東宝 一九四〇年]という映画の一場面で、梅園龍子の日劇の稽古場だったと思いますが、そこでの踊りもありました。
薄井 だったら東勇作も出ていたかもしれませんね。益田隆はずいぶん長いこと踊り続けていましたね。私は日本では観たことがないんですけど、ハルピンで一度会ったことがあります。昭和二十年(一九四五)の六月ごろかな。私はハルピン郊外の香坊というところの連隊にいました。ハルビンから一駅くらいのところですけど、新兵じゃなかなか外出なんて許されませんから、少しは楽に行動できるようになってからのことだったと思います。
 大通りにモデルンという劇場があって、そこを通りかかったら「益田隆舞踊団」と書いたのぼりが立っていた。直接は知らない人だったけど、楽屋に行って「私は東勇作の生徒です」と言ったら、「どうぞおあがり下さい」とお茶とお菓子をいただいたりしました。そこには私より前にもうひとり兵隊さんが来ていて、それが山中寿という日劇ダンシングチームの人です。貝谷八百子の第三回の発表会[一九四〇年三月二十八—三十日、第三回歌舞伎座公演]のときのパートナーですね。貝谷さんは、伊藤道郎の作品は、この人と踊っている。話を聞いたら同じ連隊でした。衛兵勤務で会ったこともあります。帰ってきてから会って「ハルビンの連隊で一緒でしたね」といったら彼は全然覚えてなかったけど。何か都合の悪いことがあったのかもしれないし、分からないんだけど。
 私は益田さんとはそれきりで、たぶん映画の間のショーだったから観る事ができなくて、結局舞台も映像も観たことがないんです。でも、ドイツのハラルド・クロイツベルクという、ノイエタンツの舞踊家についての本に写真が出ていた。オーストリアの古本屋で手に入れたんですが、クロイツベルクの写真も本当にきれいです。そこに彼の有名な作品で、精神病院の患者の話があるんですが、その写真も載っているんです。ソロで、はちまきのようなものをして、手には一輪の花があって。ちょっと「舞踏かしら」と思うような感じ。そのすぐ隣に、同じ格好をした益田隆の写真もあって「これは日本で盗まれた」と書いてあった。
神山 日本舞踊の方ですが、花柳寿美(初代)さんはどうでしたか。
薄井 何回か観ていますよ。第一回の公演には東勇作が出た。私は第一回は見ていませんが、新舞踊のときにいつも出ていました。寿美さんで私が観たのは『道成寺』です。だから、これはやっぱり女の踊るものじゃないなと思った。それより前に六代目を何回も観ているわけですし。
日比野 『牧神——或いは東勇作』にも、『九尾の狐』の写真が載っています。
薄井 烏帽子をかぶった若い衆が花道から恥ずかしそうに歩いてきたのを覚えています。もう少しちゃんと歩いてくればいいのにと思った。
神山 春日野八千代が花柳寿美の役をやって、花柳章太郎が六代目の菊五郎の役をやった映画で『情艶一代女』[野村浩将監督 製作=三上プロ 配給=東宝 一九五一年]というのがあるんです。邦枝完二の原作です。
薄井 初代の花柳寿美ですね。フィルムライブラリーには残っているでしょう。二代目の花柳寿美(宗岳)は一九五〇年ごろに東勇作のところへ訪ねてきて、今度新作をしますから出てもらえませんかという話をしました。『白鳥の湖』と同じような筋立てでしたね。でも、そのときはもう、久松さんがいたので出してはもらえなかった。それで断られた彼女は、島田廣さんと出会ったの。その後も島田さんとの縁は続いて、(その妻の)服部千恵子の息子は三代目の花柳寿美と結婚している。島田さんはいろいろな役職もしていて、もとから困るような生活ではなかったでしょうけど、アパートに一人暮らししていてね。「先生、これは自分のものなんですか」と聞いたら、服部の息子さんの縁、つまり三代目の花柳寿美の斡旋で住んでいるんだと言ってた。だから不思議な縁で、島田さんは後援者も得て、安定した生活も送ることができたんだね。

蘆原英了の批評眼・その足跡


日比野 薄井先生は一七歳の時に舞踊評論家の蘆原英了さんの勉強会に参加され、そこでの講義を通じて、西洋舞踊の基礎知識やバレエ・リュス・ド・モンテカルロ等の当時の先端的舞台芸術に触れられました。薄井先生から見た蘆原英了さんはどんな方でしたか。
薄井 蘆原英了さんの偉いところは、一九三三年に最初にフランスに行って、その時に知り合ったミシェル・ラリオーノフとナタリア・ゴンチャローワという美術家の夫婦を、その後もしょっちゅう訪ねて助けていたの。二人ともバレエの世界では大人物なのにパリで困窮していた。パリ・オペラ座を再生させたセルジュ・リファールともずっと親交があった、ラリオーノフの描いたディアギレフの顏のデッサンなんてものも蘆原家にはあった。蘆原さんの奥さんに「うちが本で潰れそうなんです」と頼まれて国会図書館に紹介したのは、私と私の兄で、整理も手伝いました。国会図書館の方では「引き取りましょう、ご用があれば先生は見にくればいいから」と言っているうちに膀胱癌で再起不能になってしまわれた。今思えばあの時に、ディアギレフの肖像画をもらっておけばよかったんだけど。あれはいったんは東勇作に貸してあったものなんですよ。引っ越したりする時に返したんじゃないかしら。ロンドンでディアギレフ展があった時に、東が売れないかというので、私が代わりに手紙を書いたことがありました。返事はなかったですけどね。写真のコピーもなくてただ連絡しただけで、日本からの売り物なんて当時は信用されなかったんだろうけど。ですから、国会図書館には今も、ナタリア・ゴンチャローワの舞台装置や衣裳の原画が二十枚くらいあります。世界中だれも、それがどこにあるかを知らないんだから……これは知らせるべきです。上演されたものはもちろん、上演されなかった作品の舞台装置、衣裳の原画もあります。
 蘆原英了さんは、どういう踊りがよくて、どういうものが悪いというのは本当には分からなかったと思います。どうしてそう思ったかというと、戦後に蘆原さんが口を利いて最初にやってきたのが、オペラ座のエトワール四人とピアニスト一人の公演。確か読売新聞社がスポンサーで日比谷公会堂でやりました。ガラガラでしたね。いちばん高い席が五百円だったんですけど、一九五二年ですから、まだ五百円というのはねぇ。私はいつでも楽屋を通って入って観ていました。どうせガラガラだから構わないと思っていたんですね。
 それで、その時にセルジュ・リファールも来ていたんだけど、蘆原さんはリファールのファンだから賞讃する。でも公平な目で観ると、彼の作品にはいいものもあるけど、くだらないものもある。バレエ・リュスでは一曲しか振付けていない。あの公演のときも踊り手としてはあまり感心しない。踊らなかった時期もあったようで、もうお腹が出ちゃっていて。踊りの中で倒れる場面があると客席も揺れるほど。もっとも、[建物の]つくりも悪いんだろうけども。
 リファールは正規のバレエ教育を受けていないんですよ。ただ偶然に通りかかるようにして、面白そうだということでバレエを始めた。ゲイだから、ゲイとバレエというのは切り離せないところがあって、そういうところも吸引力になったんでしょうけど、ディアギレフ・バレエ団に入っても使い物にならないでしょう。でもビックリするようないい男でスタイルもいいから。ディアギレフに命じられて整形外科で鼻を削ったんですよ。鼻が高すぎると。それでだいぶいい男になったんです、エキゾティックに。それからミラノのチェケッティのところに住み込んで個人授業を受けます。当時の状況を書いた手紙が残っているんですけど、今の技術水準から言えば、ノーマルクラスです。それでもなんとか通用するようになって、ディアギレフ・バレエの最後のスターになりました。そして、一九二九年に縁あってパリのオペラ座のディレクターになり、功績を残します。カリスマ性のあった人ではあります。
 蘆原さんは一九三三年、リファールのいちばんいい時にパリで会っています。その時初めて蘆原さんはロシア・クラシック・バレエを観た。『薔薇の精』とか『眠れる森の美女』の青い鳥、それから『ジゼル』なんかをやっていて、そういうものを観て、感心して帰ってくる。自作の『牧神の午後』もありました。ニジンスキーのものに似ているんだけど、ちょっと自作。どの作品も写真で見る限り、あんなにきれいな人はいないです。「どうしてリファールの写真はあんなにきれいなんですか」と、二年くらい前にパリの人に聞きました。そうしたら「一枚の写真に半日かかります」と。トライアルでやってみて、ああでもないこうでもないとやり尽くしてようやく合格のものができるわけ。
神山 蘆原さんが踊りのことを分かっていなかったというのは、リファールに限ったことではないんですね。
薄井 日比谷公会堂の公演の一、二年後だったと思いますが、毎日新聞の招きで、『欲望という名の電車』のバレエ化で有名なスラヴェンスカ・フランクリン・バレエ団の公演がありました。ゲストはアレクサンドラ・ダニロワで、その時に私は彼女の伝記を急いで翻訳して間に合わせるようにもしました。蘆原さんは時々横に座っていましたが、「ダニロワはダメだね。ポーズが悪い」「しっかり稽古していない」と言うわけです。そんなことないんですよ。あれは偏見で、自分が関係していない公演だとそういうことを言うんです。ダニロワのようなあんなにきれいな磨き上げられたバレリーナらしいバレリーナというのは今まで見たことがないもの。十八番だった『美しきダニューブ』の部分を踊ったのがいちばん印象的だった。
 あれは、レオニード・マシーンが自作自演したバレエ・リュス・モンテカルロの作品で、とてもよくできていて。このときはフレデリック・フランクリンというイギリス人とダニロワが踊った。原作はもっと前で、一度辞めさせられたマシーンが再びディアギレフ・バレエに戻った時にディアギレフに「あれをやりたい」と頼んだけど、ディアギレフは「あんな甘ったるいのはダメだ」とやらせなかった。一九二五年の話、ディアギレフの面目躍如です。
 ダニロワの公演に話を戻すと、『オール読物』って雑誌があるでしょう。その編集後記に「ダニロワの公演が終わってダニロワが帰ります。もうあの人が見られないかと思うと悲しいです」なんて書かれてた。そのくらいの反響はありました。ほかにも、ダニロワは『コッペリア』が上手だったし、たとえば『白鳥の湖』とか、そういうものの主役よりも、もう少し意味のある役、ドゥミ・キャラクテールの方が得意でしたね。『コッペリア』は音楽がよくできているから、スカートの端を持ってステップを踏む、その間合いがすごく上手だった。手からダイアモンドがこぼれ落ちるような美しさでした。あんなことができる人はもういないでしょう。一度だけコンクールで観たキューバの人が似ていたけど、やっぱりそれは同じ社会主義国のロシアの影響でしょうね。有名なマイヤ・プリセツカヤの弟でアザーリ・プリセツキーなんていう人は長い間キューバにいて、最初の奥さんも向こうの人だった。そういうバレエのニュアンス、ステップの間のつなぎ方を習っているわけです。今はそういうものが教えられなくて、バレエはスポーツにみたいになっちゃったから面白くないわけです。
 それからもう一つ『マドモアゼル・フィフィ』という演目がありました。振付はザッカリー・ソロフという人。アメリカ在住のユダヤ人で、たぶんモダンもやっていた人です。これはコメディーで、ミュージックホールのスターの楽屋で二人のファンが鉢合わせして、それがお父さんと息子だったという話でした。それがわりあいに面白かったんですよ。このソロフという人は才能があるなと私は思ったもん。これは映像が残っているはずですが、蘆原さんはそれも「あんなものは世界で通用しないよ」と言います。今の、モダンの作品として立派に通用するのに。
日比野 蘆原さんは、サーカスやミュージックホールの匂いがするような作品は褒めそうな気もします。
薄井 サーカスも専門家でしたからね。
神山 僕なんかは蘆原英了というとラジオの『午後のシャンソン』の印象が強いですね。本当に長いおしゃべりで、曲が始まるまでずいぶん待ちました。ただ、しゃべり方に魅力がありました。それは間違いない。
薄井 シャンソンのことはほかに話す人があんまりいなかったしね。音楽でも楽譜の読める人ではなかったんだけど。でもカリスマ性がありましたよ、ラジオでも、もちろんバレエの世界でも。

「バレエ一九五七」の試み


日比野 先生は一九五七年に「バレエ一九五七」という団体を結成され、公演を二回されています。その辺りの話もお伺いしたいのですが。
薄井 これはバレエ団というよりは、私と由井カナコ、中田トシ、都築秀子の四人が集まって公演をしようかということでした。でもやっぱり経済的にも難しいし、四人が作品をつくるということも大変だった。そのとき振付をした一人がヴィタリー・オシンズという人がラトビア人。バレエが本職なんだけど、アメリカの市民権がほしくて軍隊へ入って。たまたま厚木に配属されたので、日比谷のアメリカ文化センターに来て「自分はバレエを教えられるけど、何かプロジェクトを考えてくれないか」ということで、私はそのオーガナイザーの助手を務めたことがあります。こういう先生が週に一度クラスを持つので来ないかという話をして、いろいろな人が来た。すぐ辞める人もいたから、あんまり役立たないと思った人もいるんだろうけど、私には役に立ちました。知らないことをうんと習った。あとでボリショイ劇場から来た先生のクラスにいったとき「あぁ、オシンズに習ったのと変わりないな」と思いましたね。彼はフォーキンがラトビアに行ったときに直接習っていた人でもあって。
日比野 じゃあ、薄井先生はフォーキンの孫弟子なんですね。
薄井 もう一人フォーキンから『レ・シルフィード』を習ったマイケル・ランドというアメリカン・バレエ・シアターの人がいて、そこでも私は孫弟子ですけどね。とにかく一九五六年くらいにオシンズと知り合って、翌年、彼が振り付けた『感傷的なワルツ』をやるわけです。
日比野 一九五三年に服部・島田バレエ団から脱退した人たちが「青年バレエグループ」をつくるという出来事がありましたから、バレエ一九五七にもそうした独立への意識を重ねてしまうのですが、東先生のところを出るというような発想はなかったのですね。
薄井 ありませんでした。もちろん「バレエ一九五七」については、東としては止めることはできないけど、褒めたことでないとは思っていたかもしれません。私だけでなく、もう一人東勇作の生徒が加わっていたしね。堀内完の奥さんの秀子さん。
 私自身は、東勇作が公演じゃなく発表会をするようになった時から自分の作品も発表していたんですよ。必ず「面白くない」と叱られましたけど。でも時には、誰かがこんなふうに褒めていたよと教えてくれました。だから、別のところで作品をつくるのはよく思っていなくても、振付そのものは悪くはないという程度の評価はしてもらっていたと思います。自分でバレエをつくるようになってからは、NHKが二カ月に一回、教育番組のときに新しいバレエを放送しようというので、三回ぐらい参加したことがありました。そのころは版権の問題もあまり考えないから、リファールの『白の組曲』なんかを使って、よく分からないところは自分なりにつくったものを出したりして。そういうのはやっぱり東に叱られましたね。でも、自分でも気に入ったのがあったからわりあい楽しくやっていたんですが、ちょうど三回が終わった辺りに、ある人がNHKの係の人に「どうして薄井憲二だけが振付をするんですか」と聞いてきたそうで、それで「薄井憲二がやる」というのはやめになったと聞かされました。一年ぶんくらいは考えて意気込んでいたから私もガッカリして。それでバレエは辞めようと決めました。ちょうど京都バレエ専門学校から誘いがあったので、いちばん確実な収入源はバレエを教えることでしたし、行くことにしました。最初は二年の約束だったんですが、やっているうちにあちこちに付き合いができてしまって、ついに今日まで帰れない状態になってしまいましたが。
日比野 それが一九六七年のことですね。『日本バレエ史』(新書館、二〇〇一年)の中でも、テレビで歌手の後ろで踊るような仕事を頼まれるようになって嫌だったと薄井先生は語っておられました。
薄井 それも多少はありましたね。美空ひばりの後ろで踊ったこともあるんだもん。「こういうことをするためにバレエを習ってきたんじゃないんだけどな」とは思った。でも、そうしなきゃ食べていけなかったからね。
日比野 小牧さんの『白鳥の湖』は大評判になったし、一九五二年十一月にソニア・アロワが来日したときも満員だったと聞いていますが、このころにはもう、そういった勢いはなかったのでしょうか。
薄井 ソニア・アロワのときは、前売り券を買うのに、日劇の周りを人がグルッと取り巻いていました。私も並びました。彼女は偉いですよ。『眠れる森の美女』全幕を教えて、自分で踊ったんだから。コンサート番組で『ドン・キホーテ』のパ・ド・ドゥも踊ったけど、それも教えて、演目にはない『レ・シルフィード』まで教えて帰ったんですよ。『レ・シルフィード』は小牧バレエでももうやっていたけど、ちょっと違うものだったんです。『白鳥の湖』も最初に出てくるところからいい加減だったけど、彼女はそういうものも全部直していった。とてもよく働いたと思います。ソニア・アロワが教えてからパッと変わった。だけど、「それまで自分は知りませんでした」とどこかでちゃんと言えば納得できるけど、勝手に変えて、それで知らん顔をして……っていうのはどうかと思いますね。
神山 日劇でバレエの公演があったというのは、当時は普通のことでしたか。バレエというと帝劇や第一生命ホールもあったと思いますが。
薄井 違和感はなかったですね。日劇には戦前、ダニー・ケイがマーカス・ショーで来ていましたね。それから『パンテージ・ショウ』の二回目を観に行きました。あんまり面白くはなくて、後ろ向きに鉄砲を撃って的にあてるアクロバットだけ覚えてます。踊りは全然覚えてないな。それからトラヤノフスキ・バレエ団というのがハルピンから来て、それを観に行ったけど、あれはバレエではなかったですね。

「日本のバレエ」を探して


日比野 戦後すぐ、バレエ団がいくつも結成されて、それなりにお客さんが入っていた時代から、徐々にそうした流行が落ち着き、観客も減っていく、その辺りの感覚はどんなものでしたか。
薄井 そのころからだんだん、外国人が主役でくるとか、外国のバレエ団だったら行くけど、日本のは行かないという傾向がでてきたと思いますね。だからバレエ一九五七の第二回の公演も一応満員にはなりましたけど、それは自分たちが必死に切符を売ったからであって、一般で切符を買ってきてくれた人はほとんどいないんじゃないですか。最初の公演のときはプレイガイドでも売れていたようですけど、次の年にはもう。そういうものにお客さんが来る時代じゃなくなったんですね。
日比野 一九五八年三月十二日に日本バレエ協会が設立されますけども、そこにも今お聞きしたような厳しい流れのなかで、ここは大同団結しなければという意識が働いていたんでしょうか。
薄井 それもありました。ただ、本当のきっかけは一九五七年にボリショイ劇場が初来日したこと。それまではいろんなバレエ団がお互いに憎み合ってるから、なかなか集まったりはしなかったんですが。
日比野 では、本当に純粋に皆さんがボリショイ・バレエに感動して……。
薄井 そうです。貝谷八百子さんの姪で、近藤玲子さんという戦前からバレエをやっている方がメンバーに入らないというので揉めたこともありましたが、私も設立メンバーの一人だからよく見ています。あのときも小牧正英が主導権を獲るので大変だったんだけどね。第二回の公演(一九五九年)で、リムスキー=コルサコフの『金鶏』をやったんだけど、口ではいかにも綺麗でうまくいくような話をしていて、実際にはめちゃくちゃなバレエで。つまらないし、恥ずかしくて観ていられない。「嫌だな」と思ったけど、「重要なプリンスの役なんだ」と言われて私も出演しました。プリンスは二人で、私は岩村信雄と組んで女の人の主役を扱うようなパートでした。まぁ、あの人は振付の才能がない人だと思いましたね。
日比野 日本バレエ協会は、委員の合議制という形で運営されますね。
薄井 「会長なんてものをつくっちゃダメです」と小牧が言うんです。みんなを同格にして、「会費はとるし、いろんな事業もするけれど、お金は常にゼロになるようにしましょう」と。残ったりすると問題になるから。それで設立したときには、加盟十六団体で十六人の理事がいたわけです。
日比野 それより少し先のことになりますけど、一九六五年に服部、島田両名がパリ・テアトル・バレエに参加しますよね。五〇年代の後半から六〇年代になると、バレエを取り巻く環境がさらに変わってきたということなんでしょうか。
薄井 そうでしょうね。服部・島田バレエ団は代々木上原にとても立派なスタジオと土地を持っていて。どうして急にパリに行くことになったのか、噂はいろいろとありますが、ちょっと謎です。
日比野 当時の資料を読んでいると、このままでは日本のバレエがジリ貧になるという意識が、関係者全員にあったのかなという気がしてくるのです。
薄井 そのころには今の東京バレエ団の前身になる学校もできて、バレエの基礎知識については徐々に知識が増えていたんです。私も二年間生徒でいたけど、あれは大変な知識の源泉で、たくさんのことを学びました。そういうかたちでだんだん知識は増え、バレエの裾野も広がった。
 ただ、その一方で明けても暮れても『白鳥の湖』四幕とか、十九世紀のバレエばかりやっていたわけですから、このままではダメだということも感じてはいましたよね。特にジャニーヌ・シャラ・バレエ団で初めてベジャールの作品を観たときには、大変なショックを受けました。あんなに面白い現代バレエは初めて観た。ベジャールを観て初めてバレエが新しくなったことが分かったもの。オシンズの振付でも多少は分かったけど、新鮮味が全然違う。
 でも東勇作は「ちっとも面白くない」と言うんです。それは世代のギャップかもしれないけど、私は若かったから「バレエはああいうふうにならなきゃダメだ」と思いました。だから私は、基礎的なバレエの知識も固まってきたし、新しい刺激も加わった、この先は公的な援助で大きなお金が動かないと日本のバレエは変わっていかないだろうというようなことを考えていました。
日比野 ベジャールにはアクチュアリティが感じられたわけですね。
薄井 そうですね。六〇年代にはローラン・プティ・バレエ団も来ましたが、その時の公演はショーの部分が多かった。演奏も小編成だったしね。いろんな面で感心もしたし面白かったし、分かりやすいんだけど、衝撃的だったのはやっぱりベジャールですね。後になるとベジャールはだんだん難しくなっていって、ローラン・プティの方がフランス風で人に受け入れられやすいんじゃないかと思うようにはなりますけど。
唐津 ベジャールはなんの作品だったか覚えていますか。
薄井 『オ・ボルタージュ』。高電圧って題名からしてすごいでしょう。説明を読むと、電線が張り巡らされていて、電気の女神がメッセージを発信して……とか。あれ、今観ても面白いんじゃないかと思うけど。ベジャールは残すべき作品がずいぶんあるのに、このまま失われてしまうのかしらと思うと悲しいですね。
 ベジャールの二十世紀バレエ団が最初に来たのは一九六七年だったけど、日本人の団員も一人いました。東勇作の生徒だから私の後輩ですけど。そのときもやっぱり感心しました。『ボレロ』はもちろんだけど、もっと感心したのが『白鳥』という演目。男の白鳥が三羽、インドの女性のところを訪れるという話です。そのときはジョルジュ・ドンと、パオロ・ボルトルッチ、それからマンハイムにいた佐藤勇次のカンパニーのディレクターだった、ジェルミナール・カサド。交代もあって、ポーランドのダンサーが混じったときもあるけど。
 三人とも当時のスターだから上手だし、踊りもよくできている。よく考えられていますよ、あんなステップのコンビネーション。音楽にも合っていて、流れもきれいで、新しい。でも、その後上演しないんですよね。私は東京バレエ団がいるから彼とは友だちになれないけど、一度パリのオペラ座の楽屋ですれ違ったんですよ。向こうはこっちが日本人だから知り合いだろうと思って近づいてくる。だから「こんにちは」と挨拶して、「私はあなたの作品では『白鳥』がいちばん好きだけど、どうしてやらないんですか」と聞くと「今あれをできる踊り手はいないんです」と言ってた。
神山 余談ですが、僕が国立劇場で勤務していたときにベジャールが観にきまして、『忠臣蔵』を見たいと言うんです。「今『忠臣蔵』はやっていません」というと、「どうにかならないか」というので、ビデオを全部、大序から十一段目まで全部コピーしました。ですから私は『ザ・カブキ』には大変な貢献をしています(笑)。
薄井 そうですね。
日比野 現在のバレエは「スポーツ」のようになってしまったとさきほどおっしゃいましたが、その一方で世界的なコンクールでたくさんの入賞者を出すなど、日本のバレエの状況は好転した部分もあるのではないでしょうか。
薄井 とにかく裾野は広がりましたね。それは悪いことではないと思います。バレエで食べていける人が増えたわけでしょう。舞台には出ないけど、子どもを教えたら生活できる。だから、もしプロのバレリーナになれなくても先生として生活できるなら、とバレエを志す人も増えるかもしれないし、男の踊り手は熊川哲也を観て「自分もああなればスターになれるんだ」と思うかもしれない。熊川よりちょっと前、ヌレエフが現れてしばらく経ったあたりから、男のスターで切符が売れるようになってきたんですよ。それもあって、男がバレエを志すということにも違和感がなくなってきましたね。これはいいことです。ただ、私はバレエ原理主義だから、やり方がまずいなと思うし、困っていることもあるけど(笑)。
 日本のバレエの土台も固まってきたことだし、一般の関心もあるし、それで新国立劇場がちゃんと運営されて、世界に威張れるようなレパートリーをつくれればね。私は新国立劇場の設立準備委員というのをしていました。その時には初代の芸術監督に島田廣さんが決まっていて。あの人が偉かったのは「バレエ団をつくったら、その団員は、女性なら大学を卒業してどこか会社に勤めて初任給をもらったときよりもちょっと多いくらいを払うようにしてください」と、それは口を酸っぱくして言ったの。だけど文化庁は始めからその気はないのに、希望だけ言わせておいてね。あれは悪い。それから、踊り手の教育のシステムはロシアに倣わなければダメということも島田さんはよく分かっていた。一九〇九年の時点からロシアにしかバレエはないというような状況だったわけですから。その後革命もあり、いろいろな政治的圧力があって変なことも起こるけど、教育のシステムは原則的には変わっていないです。
 その証拠に、ヌレエフとかバリシニコフとかマカロワとか、みんなロシア人でしょう。世界で有名になる人はね。島田さんはそれを取り入れようとロシアの先生を呼ぶようにしたし、レパートリーもロシアバレエを中心にして、それから日本のバレエもつくっていこうと準備をされていたと思います。東京バレエ団が何回目かのロンドン公演をした時に、あっちのバレエ雑誌が、「東京バレエ団は二十年間何の進歩も見せなかった」と書きました。それは要するに「日本のバレエが生まれていない」ということなんです。ベジャールやノイマイヤーがつくった日本では駄目だというのです。ロイヤル・バレエだってつまらないイギリス・バレエをたくさんつくっているんだけど、自国のバレエではあります。「日本は日本のバレエをつくらなければいけない」と考えたんでしょう。それで島田さんはそのための準備をしたんです。
 実際、島田先生の時代にはある程度の成果はありました。瀬戸秀美という、バレエの写真を撮り続けている写真家が、新国立劇場でも撮影していますが、日増しに上手になっているのが分かったと言っていました。レンズは恐ろしいですね。バレエの詳細は分からなくても、上手くなったことは分かる。その後、ロシアのシステムをやめてからは、今度はどんどん下手になったとも聞きました。そういうことは文化庁がちゃんとした方針を決めて、新国立劇場でどういうものをつくりましょう、と決めないと、どんどん悪くなる一方です。
 この前の芸術監督のデヴィッド・ビントレーが、日本のバレエの人に会いたいということで話をしたことがあるんです。そのとき私は「あなた国立の劇場のディレクターなんだから、民間でできないものをやってください」と言いました。あの劇場の準備の段階から、私はストラヴィンスキーの『結婚』を薦めていたんです。グランドピアノが四台いるし、歌のソリストも五人、そのほかにコーラスもいる。そんなものを民間じゃできないし、録音じゃ面白くないしね。もともとスラリとした体型の人が暮らす土地のバレエじゃなくて、ロシアの農民の話だから、日本人がやってもちっともおかしくないし、群舞が多いから、日本人向きでもある。外国であの群舞を観ると後ろの人なんかは怠けているもの。そうしたら次のシーズンに登場しましたね。誰も私の提案によってやったとは言わないし、私も百%そうだとは言えないけど、実際にあの舞台を観ることができて感激しました。群舞も一生懸命やっていてね。だから手紙を書きました。「私はアメリカでもヨーロッパでも何十回もこの作品を観ているけど、あなたたちの『結婚』がいちばんよかったです」と。ストラヴィンスキーの曲は十代のときに初めてレコードで聴いたんだけど、変な音楽だと思ってた。でも今聴くととてもいいですね。それは時代が変わったということでもあって、今なら当時よりずっと受け入れられやすいだろうし、ああいう作品がレパートリーとして残れば本当にいいのにと思います。


一 一九三四年に『トゥランドット姫』(原作・原案・振付=白井鐵造、作曲=須藤五郎、山内匡二)は、まず宝塚大劇場で三月に月組公演、五月に花組公演を行っている。東京宝塚劇場でも、月組公演が六月、花組公演が八月に行われた。薄井氏のご記憶によれば、草笛美子がトゥランドット姫を、奈良美也子がアスナラハンの王子カラフを演じたので、これは八月の花組公演ということになる。また神代錦も花組公演のみ出演している(草笛は月組公演でもトゥランドット姫を演じた)。一方、当時薄井家は避暑のため八月は大磯の別荘にずっといたので、この時期に宝塚少女歌劇に見ることはなかったはずだ、とも薄井氏は述べる。解決できないこの「食い違い」を注記のかたちで残しておきたい。

二 一九一一年六月、バレエ・リュスによってパリ・シャトレ座で初演されたストラヴィンスキー作曲のバレエ『ペトルーシカ』では、ペテルブルグの見世物小屋でペトルーシカ・踊り子・ムーア人の三体の人形が魂を吹き込まれ、ペトルーシカとムーア人は踊り子を自分の恋人にしようと争う。一方、名古屋山三(郎)は歌舞伎の始祖とされる出雲(の)お国の恋人であり、『参会名護屋』(一六九七年)を嚆矢とする「鞘当物」で、不破伴左衛門と恋の鞘当てを演じる(ただし「鞘当物」で二人が争うのはたいてい傾城葛城)。『祭禮の夜』では、ペトルーシカ・踊り子・ムーア人の三角関係を、名古屋山三・出雲お国・不破伴左衛門の三角関係に擬している。

三 『歌劇』『宝塚少女歌劇脚本集』では、六月宝塚大劇場・月組公演、七月東京宝塚劇場・月組公演ともに、不破伴左衛門役は相良昌代となっている。当時園井恵子は星組に属し、この時期はすでにベテランの域に達していたので[一九四二年に退団]、不破への配役は考えにくいが、病気などの事情で交代があったと考えられる。

四 『歌劇』第二三一・二三二号(一九三九年六月・七月)『宝塚少女歌劇脚本集』(昭和一四年七月・月組公演)による。

五 岩河内正幸「作曲に就て」(『歌劇』第二三二号[一九三九年七月])に、「これは面白い、……何か野心的な曲を書いて見ようと思ひ、全体の作曲に約一ヶ月かゝりました」とある。

六 六代目尾上菊五郎が信楽太郎で出た『盛綱陣屋』は一九三八年六月・歌舞伎座。