田中林輔聞き書き


取材日:二〇一七年三月十二日
取材場所:クリスマス亭
取材者:神山彰・児玉竜一・日比野啓・川添史子
編集・構成:川添史子
監修:田中林輔・児玉竜一

イントロダクション


 田中林輔氏は、新国劇文芸部に所属され、長年にわたり活躍されている劇作家・演出家である。しかし、そのような人名事典風の「公式見解」では、語り切れない方であるのは、今回のインタヴューを一読されれば解るはずである。
 田中氏は戦後の新国劇の黄金時代、一九五七年(昭和三十二)に入団され、以後、その盛衰をともに生き、消長を見定め、一九八七年(昭和六十二)の新国劇解散までの、丁度三十年、一世代を生き、新国劇の晩年を見届けてきた存在である。
 シアター・ゴアや演劇研究者、批評家でさえも、五十歳以下の方には、率直に言って、「新国劇」が持っていた「世界」の広がりは、知識としては持っていても、実感できにくいのではないかと思う。それは、演劇史的な意味とか、価値とかでなく、日常会話や、周辺娯楽に何気なく浸透していた、「新国劇」のもろもろのイメージについてである。
 つまり、これは新派も同様だが、歌謡曲、映画からテレビコマーシャルに至るまで、庶民が無意識に親しむメディアに、新国劇の演目、主人公像、名台詞、設定などが、自明に共有されているものとして使われていた。
 田中氏が新国劇に入団した、一九五七年(昭和三十二)は、新国劇創立から四十年、澤田正二郎歿後二十八年しか経過していなかった。現在から換算すれば、昭和五十年代(一九七〇年代中ごろ)に出来た劇団であり、澤田歿の記憶が昭和の終わる頃、美空ひばり歿とほぼ同じという時間感覚の時代である。
 それは何を意味するか。田中氏の入団した頃には、澤田、倉橋仙太郎という人たちはいなかったが、彼らの周辺にいた人たちはまだまだ若く、中高年ならば、澤田を知る人たちが観客だった時代である。
 私はその年、小学校入学で、まだ、子供のチャンバラやメンコのモデルは「アラカン(嵐寛寿郎)」だったから、もの凄い老人になったような気が自分でもするが、当時から庶民生活に浸透してきたテレビを通しての知識で、マセタ子なら、島田正吾や辰巳柳太郎の名前を聴けば新国劇と答えられたかもしれない。映画やテレビで散々見ていた、石山健二郎や美川洋一郎(後の陽一郎)が、新国劇にいた人だなどというのは、これは学校や家庭で教わる訳でなく、それこそ、どこで知ったか教わったか解らない知識であり、民俗学でいう「心意伝承」(?)みたいに、遊び仲間同士は知っていたものだ。勿論、小学生は新国劇など見ていないし、実態も知らない。それでも、三木のり平の桃屋のコマ―シャルの「国定忠治」や「月形半平太」のパロディが新国劇だというのは、これも同じく「心意伝承」に近い。
 また、当時のテレビは舞台中継がやたらに多かったから、そこで、子供の私は新国劇の別の側面である、「現代劇」を知った。菊島隆三の『男ありて』の島田正吾の老監督が捕手のマスクを被る悲痛な面持ち、北條秀司の『王将』の辰巳柳太郎の坂田三吉が妻の危篤の電話を受ける気迫、関根名人とのやりとりの台詞の妙から来る哀感。それらは、そんな言葉など知らない小学生の耳を通して胸に迫り、目を通して情を潤わし、私の「演劇的記憶」の奥底に保たれている。
 中学生になり『演劇界』などいろいろな雑誌など読むようになると、新国劇が、スポーツものや戦記もの、法廷ものなど、多くの様々な「現代劇」(当時は戦争ものは、大人は何らかの形で全員が共有した記憶を持つ「現代劇」である)を上演していることを知るようになる。
 こうした、さまざま雑多な記憶が、田中氏の声を聴き、話を伺い、話題を追い、出てくる固有名を辿りながら思い出した。
 まさに、このインタヴューから甦るのは、田中氏個人や、更には新国劇という劇団の命運や消長を通して語られる、昭和戦後期の庶民の心性の変遷でもあるように思えてくる。
 いまでも、田中氏が最も仕事を意欲的になさっている、笠原章代表の「劇団若獅子」では、、客席から「シンコクゲキ!」と声が掛ることがある。ロビーで見かける田中氏、今回のインタヴューに応えてくださる田中氏の、あの姿勢のいい、滑舌のいい話っぷりは、やはり、私が子供の頃、漠然と感じていた「シンコクゲキ」のイメージを体現している一人であることを思わせるのである。(神山彰)                              

父親譲りの芸能好き


神山 昭和九(一九三四)年山口県生まれでいらっしゃいますね。
田中 はい。おやじが明治二十年(一八八七)、おふくろが澤田正二郎先生と同じ明治二十五年(一八九二)生まれで、年寄りの子供なんです。当時の言葉で「恥かきっ子」なんて言いますけれど、おふくろが四十二歳のときの子供ですから。じいさんが嘉永六年(一八五三)で黒船が来たときの生まれ、ひいじいさんが文政四年(一八二一)生まれです。だから明治維新のときには、ひいじいさんはもう年寄りで、じいさんはまだ十歳前後ですから、どちらも奇兵隊には参加していません。
 僕は山口県のいわゆる長州、今で言う防府市、駅名で言うと昔は三田尻(現在の防府駅)で育ちました。三田尻というと、坂本龍馬が宇和島から三田尻港へ着いて往還道を越えて萩へ行ったという歴史的な土地。いわゆる長州征伐の幕府軍と戦うときはそこから船を出したという。だから史跡が残っておりますね。年代的にはちょうど国民小学校に通いましたから、中学は新制中学第一期。まあ、ほとんど勉強しなかったですね。終戦に近いころは、運動場は全部畑、サツマイモを植えたりしていました。ゲートルを巻いて山へ行って、松根油(しょうこんゆ)を集めたり。それを精製して飛行機の燃料にしたんですが、もう粗悪なものです。防府に飛行場があったんですね。だからよく墜落していました。シナリオライターの白坂依志夫さんは防府の通信学校だか兵学校に通っていらしたそうですよ。
神山 芸能にご興味を持たれたのは?
田中 私のおやじが素人浄瑠璃をやっていて、竹本登笑(としょう)という素人芸の名前を持っていた。ですから私も文楽がとても好きでした。ちょうど終戦後、文楽が三和会と因会の二派に分かれたでしょう? 高校時代、学校の講堂で両派を呼んだ公演もありました。[二世野澤]喜左衛門さんなどが、前乗りして、かばんを持っていわゆるプロデューサーもなさっていました。足元を隠して床を作れば文楽は道具がいらないんですよね。よく考えたら、喜左衛門さん、[二世桐竹]紋十郎さん、それから[四世吉田]文五郎さん、豊竹山城少掾さん、いわゆる国宝級の名人がいらして、町回りをやるんですよ、トラックに乗って町場に出て人形で招きをやられて回られていました。
神山 旅での町回りは映画では見たことがありますけど、そんな一流の方もなさっていたとは思わなかったです。
田中 私のうちが魚屋で料理屋もやっていたので、おもだった方はみんなうちへ泊まっていただいていたんですよ。
神山 すごい顔触れですね。じゃあ、紋十郎なんか若かったでしょう。
田中 紋十郎さんも若かったですねえ。紋十郎さんとは新国劇へ入ったあと、銀座で飲んだこともあります。
神山 昭和二十八年(一九五三)日本大学芸術学部へ進まれました。
田中 両親が年寄りなものですから、山口銀行にでも勤めて面倒を見ようと思って高校は商業科に行ったんですね。そうしたら大正七年(一九一八)生まれの次男の兄貴が、「俺が大学に行きたいときはおやじが人の保証人になって田畑を手放したり、田中家が大変だったからそんな状況じゃなかったけれど、林輔、これからは大学を出ないとだめだぞ。俺が全部面倒を見るから行ったらどうだ。好きなことをしろ」と言う。それで「映画監督になろう」と日大の映画コースに行ったんです。じゃあなぜ私が舞台の世界へ入ったかというと、やっぱり文楽が好きだったおやじの血が流れている気がします。
 血といえば余談ですけれど、一番上に明治四十五年(一九一二)生まれ、フィリピンのクラーク基地で戦死した長男がいるんです。戦死といっても飢え死に、石ころ一つで帰ってきまして、この長男に子供がいなかったので私はそこの養子に入りました。それでこの兄貴は若いとき、家出して月形龍之介一座に入っちゃったことがあったそうなんです。おやじは「放っておけ」と言ったそうですが、長男ですからおふくろが「それはダメだ」と。それでおやじが太秦まで迎えに行ったということがあった。だから、私が演出でちょっと名前が出るようになったとき、「おい林輔、兄貴が一番喜んでいるんじゃないか」と次男の兄貴が言ってくれたことを覚えています。
神山 最初、映画にご興味を持ったきっかけはなんだったんですか?
田中 黒澤明の『酔いどれ天使』[一九四八年四月]『野良犬』[一九四九年十月]を観て、その後、日活が復活したんですよね。(辰巳柳太郎主演の)『国定忠治』[滝沢英輔監督・一九五四年]なんて、なかなかいい映画を残していましたよ。でも映画はまだ下火でした。
神山 新国劇は以前からお好きだったんですか?
田中 次男の兄貴も芝居好きで新国劇のファンだったんです。それで大学生のときは東京で芝居が掛かったときなんかに兄貴がチケット代を払ってくれて、番頭さんに「弟が行ったら観させてやってくれ」といってくれた。明治座で、北條秀司も、長谷川伸も、剣劇も観ていました。「こういう芝居があるんだ」と思って、新国劇へ飛び込んだわけです。

新国劇へ入団、島田正吾の書生時代


神山 昭和三十二年(一九五七)に新国劇に入団、研究生になられます。
田中 島田正吾は明治三十八年(一九〇五)生まれですから、ちょうど二十九歳違い、私が新国劇に入ったときは五十一歳でした。親子ほどの開きですから、<育ての親>という感じでしたね。
神山 どうやって入団されたんでしょうか?
田中 昭和三十一年(一九五六)に新宿コマ・スタジアムと梅田コマ・スタジアムが建って、その翌年の七月に新国劇が初めて梅田コマで公演をやったんです。当時は松竹東京本社に稽古場がありまして、その公演の稽古中にお願いにあがりました。役者になるつもりはなく文芸部志望だったんですが、当時、文芸部はすでに満杯状態。それで「お前は俺のそばにいろ」と言われ島田の書生になりました。うちは研究生のことを書生というんです。その日からもう島田家に行って、内弟子のように住み込みで、楽屋では掃除、お茶くみ、洗濯、それこそ下着まで洗いました。最初にまず「物を教える以前に人間として教育する」とおっしゃったんです。後で考えたら、澤田先生が島田に対してそう教育されたんですね。人間修業なくして演劇修業なしということなんです。それが今でも、ものすごく印象に残っていましてね。
 座長は主役ですから、その書生は忙しくて、基本的には舞台にあまり出られないんです。なので、ほとんど出たことがないんですけれども、新国劇は人海戦術でやる芝居が多いので出ないといけないことがある。私の文芸部の先輩に池田幹彦という方がいたんですけれど、あの人も島田部屋だったんです。あの人は出るのが嫌で、押し入れの中に隠れちゃって出なかったこともある(笑)。でも舞台に出ると、帯の締め方、手甲、脚半の付け方、全部覚えさせられちゃう。それが後に演出するようになって、大きな武器になりました。上手から下手へ走ったりなんかしているうちに、体の中に劇場の寸法が叩き込まれます。私などは商業演劇ですから、ひのき舞台の間口が、理屈ではなく自然に体の中に入り込んでくる。だから芝居の間が分かる。これはいい経験をさせてもらいました。
 最初に入ったのが梅田コマ公演だったでしょう? これが四本立てだったんですよ。辰巳の『丹下左膳』、島田の『鞍馬天狗』、あとは『南の太鼓』と『海猫とペテン師』。三日三晩徹夜で働く。昔のコマは楽屋が地下でしたから、窓がないんです。いつ夜が明けたか、日が暮れたか分からない。本当にえらいところに入ったなと。ロビーに小道具を取りに行ったりなんかするときにも、走ると怒られるものですから、でも走らなきゃ間に合わない。でもいいところだなと思ったのは、先輩たちが「お前は座長の書生だから走っても、俺たちを通り越しても構わない」と言ってくれた。でも、こんな生活が何カ月か続いてくると「えらいところに入ったな」と、ちょっとケツを割りたくなるんですよ。そんなとき、辰巳が「田中、お前、よくやるな」と褒めてくれた。それで辞められなくなったんです(笑)。
神山 田中先生が入団なさったころで一番古い方というと、秋月正夫[堀田金星]さんぐらいの年代でしょうか?
田中 久松喜世子先生、野村清一郎先生もいらっしゃいました。
神山 映画で有名になった、石山健二郎さんもまだいらっしゃったのでは? あとはテレビドラマ『七人の刑事』で有名になった美川陽一郎さんとか。
田中 美川さんは二枚目系で、私が入る四、五年前までいらしたと思います。黒川彌太郎さん、大友柳太郎[戦後に柳太朗と改名])さんも元劇団員でした。黒川さんは、一九八四年の四月、新国劇が倒産して初めて浅草公会堂で公演をやるときに特別出演してくださいました。『国定忠治』の日光の円蔵をやっていただくことになっていた。その稽古のときに私が演出していて、島田の川田屋惣次、辰巳の忠治で緊張なさったんでしょうね、自分の師匠たちの前ですから。「あ、様子がおかしいな」と思ったら、すーっ、バターンと倒れられた、脳卒中でした。すぐ救急車を呼びましたけれど、間もなくして亡くなられました。これが各新聞誌で記事になり宣伝になって、うわーっとお客が押し寄せた。もうそれこそ、一万円札を踏ん付けて段ボールに押し込むぐらいに大入りになった。本当に新国劇への親孝行というか。

文芸部へ移り、『真田軍記』を手掛ける


日比野 当時、内弟子は先生お一人だったんですか?
田中 いえ。先輩に今井雄太郎さんという、池波正太郎先生の弟さんがいらっしゃいました。新国劇は、本来なら三年書生をしたら上の大部屋へ上がるんです。ところが私はおやじ(島田)のそばがいいんで、そのまま置いてもらっていました。そうこうするうちに池田幹彦さんが文芸部を辞めるということで、昭和三十七年(一九六二)、文芸部に移りました。
神山 昭和三十八年(一九六三)六月明治座公演の、川口松太郎(劇化脚本・演出)『真田軍記』の補作をされていますね。
田中 文芸部に移ると辰巳からは「お前ね、ただ楽屋にいちゃだめだぞ。足で企画を探せ。いろいろな人と付き合え。昼間から酒を飲んだっていいんだから」と言われていました。ある日辰巳が「何か新しい企画はないか」と言って来たんです。それで新歌舞伎座公演で大阪に滞在していた時、中座の前にあった古本屋に入って……。
児玉 天牛書店ですね。
田中 はい。そこで井上靖の『真田軍記』を見つけたんです。これに入っている短編「むしろの差物」「本多忠勝の女」を一つにするといいと思いついた。「これは辰巳の出し物だ」と持っていったら「やろう。誰に書かせる?」と聞くから「やはり川口先生じゃないでしょうか」と伝えました。それで「松ちゃんに頼もう」となって本が出来上がってきたのが、公演の前の月。
 そうしたら辰巳が「おい田中、ちょっと来い。これは新派の芝居だぞ」と言い。「お前の企画だから、書き直せ」と言う。えっ!と思いましたけれど、先生の本を二場だけいただいて、残りは三日三晩徹夜をして書き直した。その舞台稽古の演出に川口先生がいらした時、辰巳から「お前からあいさつだけはしておいてくれ」と言われたので「先生の筆を汚しまして申し訳ございません」と謝ると「うん、いいよ、いいよ」と……あの先生は声が高いんですよ(笑)。「よくなればいいの」とサラリと言って、それで先生がお書きになったところまで演出なさって「後を頼むよ」と言ってすっと帰られた。私が二十九歳の時です。
 この公演が各紙、三宅[周太郎]先生、アンツルさん[安藤鶴夫]から何から大絶賛で大当たりしたんです。長瀬直諒さんの装置もよかった。その公演中、楽屋から頭取部屋へ辰巳先生が下りてきて、筆書きの封書をぽんと投げて「お前にだけ読ませる」と渡された。川口先生の毛筆で「俺の負けだ」と書いてあった。
神山 それは大したものですね、あの人がそう書かれた。
田中 その時の『真田軍記』大詰めでの辰巳演ずる真田昌幸の引っ込みのことはよく覚えています。戦いに敗れた豊臣方の昌幸が、孫いとおしさに幸村と共に、最後の別れにと訪ねた徳川方の長子信之の沼田城大手門前。城主信之が留守を理由に開門を拒否する嫁の本田忠勝の娘・月姫。怒った緒形拳演じる幸村は花道を走り去る。辰巳の昌幸はひとり深々と降る雪の中、孫に持ってきたみやげの鎧を鎧いびつの上に飾って、自分のまんじゅう傘を被せ、いとおしさに抱きしめ、心を残し、さびしく立ち去ろうとするとき、大手門が静かに開き、孫源三郎の手をとり月姫が、また重臣のひとりが第二子内記を抱き、そっとその後ろ姿を見送らせようとするとき、たまらず源三郎が「爺い!」と声を発する。思わず立ち止まる花道七三の辰巳。振り返り会えば災いが及ぶ敵味方。涙をふるって正面にきまって蹌踉とつづら折れに去る切ない辰巳。稽古では見せていないものを本番で見せられて、「うまいなぁ」と幹事室で見て泣きましたね。重臣役の野村清一郎という人は、芝居をしないで芝居をするすごさがありましたし、香川もうまかった。いろいろなことを教えられました。その舞台のあと、島田から「今度、俺に一本書け」と言われて、『馬喰一代』の潤色を手掛けました。
神山 同じ年の九月、明治座ですね。
田中 本当は、あの主人公のキャラクターは辰巳ですよね。演出は映画監督の内川清一郎さんで、舞台演出にしては情感が足りなかった。いろいろ本を直されましてね。抵抗するところは抵抗しましたが、終わってから島田が、「林輔よ、散々だったな」と言いました。それで次に大山克巳の『森の石松』を書いたんですが、島田に「ダメだ」と言われた。
 辰巳は「まあ俺たちが役者ぶりで何とか見せられるよ」とおっしゃったんだけれど、島田はぐっと辰巳をにらんで、「お前、何を言うんだ」と目を三角にした。それでボツです。もうポスターもできていた。悔しくて、おやじの前で泣きました。後々、演出をするようになってからこのことを考えてみると、「あのとき、おやじが私の芝居をボツにしなかったら、天狗になっていたかも分からない」と思いました。島田ってそういうところがあるんです。親心だったんです。その後、あとから入って来た土橋成男さんが書くようになりましたが、自分は脚本が書けなくなりました。
 その頃、明治座の制作部長が『真田軍記』のときに引き抜きに来たんですよ。「今の給料の三倍出すからうちへ来てくれないか」と。それでおやじに報告したら「お前、行くのか?」と聞くので「いえ、行きません」とこう言った。「おう、それでいい」で話は終わり。あのときに向こうへ行っていたらサラリーマンですからね、もうとっくに舞台の仕事から離れていましたよ。
 それから何十年後、新国劇も七十年の歴史に幕を降ろしてから、原田大二郎が龍馬、財津一郎の勝海舟で『坂本龍馬』を書いてくれないかと言われて、書き上がったものを島田に見せたことがあります。そうしたら夜中に電話をかけてきまして、「お前、これは力作だね。俺はこれに刺激されて、今、真山青果『坂本龍馬』を読み直しているんだよ」とおっしゃった。『坂本龍馬』は澤田先生が昭和三年[一九二八年八月・帝国劇場]におやりになって、そのあと島田もやっているんですよ。力作だと褒められた途端、涙がぶわーっと溢れ出て、電話口で泣きましたね。それからは本を書いたら読んでもらうようにしてきました。

緒形拳の思い出


神山 緒形拳が大河ドラマの『太閤記』の主役に抜擢されたのが一九六五年、昭和四十年です。
田中 あの時は劇団で総会を開いて、出演の許可が出た。
神山 そうですか。緒形さんは『遠い一つの道』[一九六〇年六月・明治座]で評判になったでしょう、菊島隆三が書いたボクサーの舞台。
田中 あの時はまだ研究生。あの舞台をNHKのディレクター吉田直哉さんがご覧になって、緒形に目を付けられたんですよね。しかし『太閤記』は見事でしたね。緒形は、最後の太閤になってからの老けがよかった。彼はだいたい老けが好きなんですよ。同じ菊島先生の『男ありて』[一九五八年六月・明治座]では天野新二が主役をやっていたんですけどね、緒形が出てきたので彼は辞めたんです。
神山 新国劇創立七十周年の記念公演では緒形さんが『王将』[一九八七年八月・御園座/新橋演舞場]をやりましたね。
田中 はい、話がずいぶん飛びますが七十周年を祝って緒形が特別出演をしました。あのときは辰巳の愛弟子の緒形に『王将』[の坂田三吉役、辰巳の持ち役の一つ]を譲らせて。辰巳は譲りたくなかったでしょう。さびしい思いをさせましたが、劇場側が興行上、緒形にやらせたがった。実際、『王将』を読売ホールでやったときすでに北條先生が「田中、辰巳のパワーが落ちたな」とおっしゃっていたんですよ。あの役はパワーがいるんです。
 七十周年の『王将』の稽古中のある日、島田、辰巳、緒形、私と北條先生になったときに先生が「ガタ、やっぱり俺は辰巳に合わせて背広を縫ったんだ、お前にはちょっと寸法が合わないな」というダメの出し方をした。うまいダメの出し方だなと思いました(笑)。辰巳にとっては大変名誉な褒め言葉でもありましたね。
児玉 『王将』には藤山直美さんが出たんですよね。
田中 三吉の娘、玉江役。そのとき最初、寛美さんから「両御大とのひのき舞台なんて、まだうちの娘は出せません」と言って断られたの。それを何とか口説いたんです。ところが北條先生は[このキャスティングを]あまり気に入らなかったんですよ。
児玉 あのころの直美さんは今とは全然違いましたね。
田中 今はもう大変な女役者ですね。『王将』では、島田が関根名人の持ち役を譲って、これも愛弟子の若林豪が出ることになっていたんですよ。そうしたら北條先生から「田中君、ちょっと来てくれ」と呼び出された。昔、松竹本社の稽古場前に、新国劇と深いかかわりのある小料理屋があったんですね。そこで「若林はダメだ。島田に戻せ」と。「先生、扮装写真のポスターがもうできているんですよ」と言っても、頑として聞いてくれません。すぐ御園座の横山さんが来て、劇場側としては別にかまわないと言う。そこで若林を説得のために、島田と私と横山さんと、若林のマンションへ行って説得に行き、師匠の島田が自分の弟子に「別の役で出てくれ」と頭を下げたけれど、若林は「先生、申し訳ないけど、私もいっぱしの役者です」と言って断った。立派なことを言うなと思ったけれど。それで、島田が「俺は役者として若林の言い分が分かる」と言うんで、ポスターを刷り直したんです。若林にはかわいそうなことをしました。そういうことがありましたね。

新国劇、苦難の時代


田中 新国劇は独立劇団として常に経営的な危機を意識していましたが、四十年代に入った頃から演劇界が徐々に変化してきました。劇団は島田・辰巳からの代替わりがうまくいきません。大衆は曲者ですから。昭和四十二年(一九六七)の劇団創立五十周年の年には、澤田正二郎の遺訓であるところの「団体運動の威力を示せ」を守って、若手を中心に総力をもってやろうという話になって榎本滋民さんに書いてもらった『あゝ同期の桜』[二月・新橋演舞場]が大当たりでした。海軍飛行予備学生第十四期だった西村晃さん、京都の千宗室さん[現玄室]に軍規指導に入っていただきました。日頃から研究生のいろいろな素質を見ている私が文芸部担当としてキャスティングをやって、島田、辰巳に了解を取る。大山克巳、緒形、それから昨日今日入ったような若手研究生の若林豪らを抜擢しました。そうしたら青年部、大部屋の連中から私が呼び出しを食いましてね、「来たな」と思いましたけれど、案の定「なぜ我々が特攻隊の役に入らないんですか」と……「それは自分で考えてください」というようなことで、答えようがないんですよね。上の幹部で入れたのは吉田柳児さんぐらい。突き上げられました。
 『あゝ同期の桜』の稽古は、みんな泣きながらやりました。新国劇の稽古というのはご存じのようにすごいんです。変なことをするとひっぱたかれますし、辰巳は口より手が先に出るタイプですから「ばかやろう、何回教えればいいんだ」と怒鳴られる。若いやつはそうやって育てられました。
 幕が開くと、研究生たちは新国劇のアカが付いていない分すごくフレッシュで、榎本さんと「キャスティング、成功したね」と言い合いましたし、とにかく作品が素晴らしかった。久松、野村の大幹部さんにも遺族の声で出演してもらいましたし、最後の特攻見送りのときには、全員総出演。それがストップモーションになってナレーションが入り、最後学徒の手紙を読むころには観客はみんな、涙、涙ですよ。「今帰りたまえかし若き学徒のみたまよ」という最後の献辞がまた素晴らしいんです。
 話がちょっと飛びますけど、十一年前に若林豪が『同期の桜』をやったんです[二〇〇六年四月・九段会館]。キャストはオーディションで選び、若林の長男がかつて大山が演じた役をやりまして。これもよかったですね。幕を開けると第十四期予備学生の生き残り役のモノローグから第二次大戦のあの時代へ入って行く。榎本さんはその数年前に事故死されていましたけれど[二〇〇三年一月、自宅の火事で死亡]。
神山 榎本滋民さんとは、『あゝ同期の桜』の前年九月に新宿コマで『天保水滸伝』をやっています。
田中 私が演出をしました。
神山 以前、田中先生が『天保水滸伝』の舞台の(茨城県の)潮来へ行ったら、土地の人が全然知らなかったと書いていらっしゃいましたね。
田中 僕と美術の仲川吉郎と、東宝のプロデューサー池野満さんとロケハンに行った時ですね。『天保水滸伝』の話は過去の遺物となっていました。
日比野 舞台装置を作るためにロケハンに行くというのは、普通のことだったんですか?
田中 はい。今は「美術」と言いますけれど、昔は「装置」と言いました。美術となると、時代の衣装、かつらといった拵えから、掛け軸や屏風といった小道具まで、本当は全部の交渉をしなければいけないですけれど、今は美術家でそんなことまでできる方はいないんじゃないですか。演出家が全部やらないと。障子に漢詩を書くならこれにしようとかってことを全部判断する。『同期の桜』の装置は中嶋八郎さんで、これがよかったんですよ。飛行場のあかね雲なんかも、ベルナール・ビュフェのような鋭い洋画のタッチで、いわゆる普通の空の背景じゃないんです。あれは見事でした。
神山 新歌舞伎でも真山青果ものは中嶋さんの方がいい。向き不向きがありますよね。
田中 あの方のお師匠さんは伊藤熹朔さんです。それにしても『あゝ同期の桜』は新国劇でなければできない芝居で、これで息を吹き返すかなと思っていたんですけれども、なかなかそうはいかなくて。そんなこともあり、当時フジテレビのディレクターで元新国劇の文芸部にいた嶋田親一さんという方の口利きで、フジテレビの鹿内春雄社長さんと島田、辰巳をくっつけたんです。それで業務提携が始まった。我々もサラリーマンで、毎日、河田町へ行きました。
児玉 毎日ご出勤になったわけですか?
田中 そうです。新国劇のフロアができて、映画、テレビ出演など、この部署でいろいろな交渉をしていく。それで『あしたのジョー』[一九七〇年六月・東横劇場]をやったりしました。
児玉 『あしたのジョー』は映画も撮りましたね(長谷部安春監督・一九七〇年・東宝)。辰巳柳太郎が演じた丹下段平は、なかなかの傑作でした。
神山 鹿内社長が後援するという形で提携を始めたのが昭和四十年代。そのころから経営状態が苦しかったことは間違いないですね。
田中 はい、昭和三十六年(一九六一)頃から、新国劇のホームグランドであった明治座と東宝劇団、森繁劇団が提携、翌年には東映歌舞伎が誕生、当時の映画スターが華やかな舞台を繰り広げるようになり、新国劇と同類の芝居が展開されるようになりましたから。昭和四十三年(一九六八)緒形拳が辞めたときからでしょうね。その前に総務の浜田[右二郎・総務]が辞めて、東宝に行かれた俵藤丈夫さんを再び理事に戻したんです[一九六四年五月]。俵藤さんがお戻りになったときには、相当の改革があるという話は聞いてました。それがああいう、劇的な亡くなられ方をして……[代表就任の日に急逝]。それで文芸部長の金子市郎と、幹部俳優の小沢慶太郎[蔵重]を担ぎ出し二人体制でやろうということでしたが、うまくいくわけがないんです。
 やっぱり時代の波はもう防ぎようがなかったんですね。いろいろなゲストを呼んでやったんですけれども、なかなかうまくいかない。古い体制から新しい血を流し込もうとしたんですが、お客様が許さないんです。緒形を売りだそうとしても、やはり島田、辰巳の芝居でないと納得しなかった。これはね、ありがたいようで困るんです。
 余談ですけれど三月四日が澤田先生のご命日で、毎年墓前祭をやるんです。今年は創立から百年にあたるので、劇団若獅子の連中もみんなで集まり、久しぶりに団歌を歌ったりしました。澤田家、俵藤家の方もいらしたんですよ。澤田家ご長男の正太郎さんは亡くなっておりますが、そのご夫人も、お嬢さんたちも皆さん。ご親戚の小川虎之助さんのお嬢さんもみえていましたね。
神山 小川虎之助の孫というのが、僕の勤務先の明治大学の演劇学専攻にいたんですよ(笑)。試験の答案に書いてあるんで知ったんですが。
田中 そうですか。
日比野 そのころの客層を伺えますか。
田中 昔からの男性客が中心。昔はご主人がみんな自分で財布を握っていましたでしょう。それが、給料が銀行振り込みになると奥さんが握るようになる。そうすると観客層の中心が女性客になってきたんです。新国劇は写実だから汚いんですよ。ご婦人方はきれいな衣装をご覧になりたいから、新派の方へ流れてしまう。それから、もともと新国劇のお客様は食べて飲むんです。昔のお客様は二十分、三十分ぐらいの一幕を見た余韻をロビーへ持っていって飲んだり、一服吸って、それから、さあ、次の幕が開くよというリズムだった。ところが、テレビの影響でどんどん芝居を転換していかないといけなくなった。ストーリー芝居になっちゃっているわけですよね。その役者の芸と、芝居の余韻なんかを観るお客様がいなくなっちゃったんです。演劇はやはり時代とともに生きないとだめなんですね。そして演劇もスターに頼るようになった。
 澤田正二郎が関東大震災の後、日比谷の野外劇をやったでしょう。何十万という人が見て涙し、明日に生きる希望を与えた。そのときの演し物が『地蔵経由来』と『勧進帖』、そして最後に『高田馬場』でチャンバラを見せたそうですよ。『勧進帖』はいわゆる歌舞伎十八番、市川宗家に気をつかって「帳」を「帖」の字にしたもの。それは壮観だったらしいですよ。劇場で見られない『勧進帖』だったという。その後の年明けには、震災の跡地に母校の早稲田から大テント借りて芝居を打った。演劇ほどお客に感動を与えるものはないと思いますし、これが我々の使命だと思っているんです。本当に人間が生きていく力を与えられると思うんですよね。
日比野 新国劇の観客は五十代から六十代の男性が中心で、代替わりがなかった。
田中 最後まで澤田、島田、辰巳の新国劇で、役者の代替わりもできなかったんです。どこかでバトンタッチしていかないといけない。新国劇起死回生のフジテレビとの提携では、テレビで人気の若手の参加、また若手新人のテレビへの売り出しなどで劇団内に不協和音が、島田、辰巳にも運営部の演劇創りの方向性に不満が募ってきました。
神山 昭和四十年代に入ると「若獅子の会」が始まり、第三回公演、高田保脚色『人生劇場』吉良常篇[一九七三年三月・紀伊國屋ホール]では演出をされていますね。
田中 あれはフジテレビと提携しているときでした。島田、辰巳が三十代の頃、島田の吉良常、辰巳の飛車角が大評判をとった作品。井手吉男の吉良常、藤森達雄の飛車角で、笠原章はまだ入座したばかりでした。人形町に玉ひでという鳥料理のお店がありますでしょう。ここの先々代の社長さんが新国劇の後援者で、かわいがってもらっていたんですが、「おい田中、『人生劇場』よかったよ」と褒めてくれました。私が書生時代、帰るのが遅くなって電車もバスもなくなると「うちに泊まればいい」なんていってくれるようなおやじでした。紀伊国屋書店の田辺茂一社長にも「久々に大正ロマンを観た」と言われた。
神山 そうですか。若獅子の会の最初のころは藤森達雄さんが主役をやっていますよね。藤森さんはどちらのお弟子さんなんですか。
田中 辰巳です。緒形の兄弟子。真田健一郎と名前を変えてドラマの『鬼平犯科帳』なんかにずっと出ていましたけれど。亡くなりました。
神山 そうですか。井手良男も亡くなりましたし。
田中 彼は島田の弟子だった。ニヒルな感じでね。『姿三四郎』で檜垣をやれば、彼は新体操ができるので、とんぼがきれるんですよ。トランポリンをセットの後ろに入れて、ぽーんと飛んだ。何か雰囲気のある俳優で、惜しいことをしました。
日比野 「若獅子の会」とは別に、昭和三十年代には、「青蛙会」というのもありますね。
田中 青蛙会というのは、清水彰、波多昇、松木悟朗、郡司八郎といった中堅幹部たちが、大阪の毎日ホールなどを借りていろいろなことをやった公演です。八月が夏枯れで、一カ月、新国劇は興行を休んでいたんですね。ちょうどそのころ、池波正太郎先生がまだ劇団の座付き作家のようにして入っていらっしゃったんで、池波先生に頼んで、『白い密使』や『黒雲峠』といった作品を書いてもらった。そのあとに『国定忠治』や『月形半平太』をやったりして。新国劇の公演スタイルで、若手だけで興行をやっていたんです。
神山 昭和四十七年(一九七二年)、フジテレビと提携を解消。昭和五十年代に入り、名古屋の建設会社経営者・宮川正信さんという人に後援者が代わります。
田中 資金繰りがうまくいかなくなりまして、大山のファンであった宮川さんにお願いに行ったんです。私たちは反対でしたし、大山本人も大反対していましたが……それでお金を出してもらい、何とか息をついて、四・五年やりましたでしょうかね。
神山 吉川潮さんの本『芝居の神様』に出ていますけれども、宮川さんにやっぱりいろいろな反発がおありになって、田中先生も一度、義憤に駆られて辞表を書いたそうですね。
田中 あの時はいろいろな人が反発を持って辞めていったんですよ。美術の仲川吉郎も辞めました。私が宮川に辞表を出したら、島田から「おい田中、芝居が終わったらちょっと俺の部屋へ来てくれ」と言われた。部屋に行ったら辰巳と二人が座っていて「お前、辞めるのか」と言うので、「はい」と言ったら、「俺たちを見捨てるのか」と言われまして、そうしたら涙がばーっと溢れてね。「いいか、林輔、破くぞ」と目の前で辞表をびりっと破かれて、それからおやじのそばを離れることはなかったんです。
神山 じゃあ、吉川さんの本にある通りですね。
田中 もうね。あの両おやじには怒られもしたけれども、かわいがられもしました。でも結局宮川さんもダメで。当時は劇団が何千万円という切符を持って興行をやるわけですから、もうさばき切れなくなってきて、それで倒産ということになったわけです。でも何か最後にもう一旗あげようと、辞めてた仲川吉郎さんの名前を借りて、「ナカガワ企画」という有限会社を設けて、それで何とかやっていこうということになった。そのときに大山さんがフリー宣言をしたんです。島田、辰巳の三代目だといって、あれだけ若い連中みんなでもってみこしを担いだのに。両御大にも恩義がありますよ。本来は「俺も何とか頑張るからみんなで頑張ろう」というのが大山の立場なのに、内容証明書一本で辞められたのでね……両御大も怒っていました。亡くなっても、今もって役者の道義として許せないところです。他舞台で大山さんとご一緒のときは、そういうことは一切言いませんでしたけれども。
 債権者会議では、藤浪小道具が「うちの幹部連中を育てていただいたのは新国劇のおかげだ、おっしゃるようにやります」と言ってくださいましたし、業者はみんな「いつでもいいです、待ちます」と言ってくれたんです。しかし松竹への借金が一番多額で……松竹が「ノー」と言ったら、業者はそれに従うしかない。それで債権の一割を返済ということになり、それで島田、辰巳がみんな返した。五年ぐらいで全部返済できて、きれいな体になった。ですから、七十周年のときには負債は一切ありません。結局あの二人がテレビや他舞台で働いて全部完済したわけですから。
児玉 倒産直後になるんでしょうか、昭和五十五(一九八〇)年に一度、スタジオアルタ制作で、「島田、辰巳特別公演」[一二月・読売ホール]として島田さんと辰巳さんでお出になったことがありますね。負債の関係で「新国劇」という名前を使ってなかったんでしょうか?
神山 嶋田親一さんのプロデュースですね。
田中 嶋田さんが「新国劇」という名前を使うことを遠慮してああいう形になりました。そういえば、小林旭さんが新国劇に金を出すと言われたこともあるんです。仲川が旭さんの舞台美術をずっとやっていて仲がよくて、「実は新国劇にまとまった金を出すから、何とか続けてほしい」という話がきた。それで赤坂の金龍という料亭で、私と両御大と仲川で、小林ご夫妻とお会いしたんです。
日比野 それはいつごろの話ですか。
田中 解散直前、七十周年記念公演をやる前です。ところが島田、辰巳は、もう宮川の代で倒産という状況になり、新国劇ののれんに泥を塗っていると思っていた。これでまた小林さんに迷惑を掛けることはできない、儀礼的にはお会いしましたけれども、あのときにはもう、おやじたちの肚は解散で決まっていましたから。俺たちの名前じゃもうどうしようもない。新国劇というのは俺たちのものであって俺たちのものじゃない。澤田先生のものなんだということで、七十周年記念公演の前には「林輔、こののれんはこの公演後に澤田家にお返しするんだ」ということで、やりました。ということは新国劇の旗を降ろす、解散です。

ついに来た、のれんを下ろす日


田中 七十周年の公演を最後に、島田、辰巳からは「のれんを下ろすよ」ということは聞いてましたので、これが最後だと思って準備しました。当時、御園座の長谷川栄一会長が、五千万円の赤字を覚悟で「新国劇の七十周年を祝ってやれ、今の御園座があるのは新国劇のおかげなんだ」という鶴の一声で劇場が決まった。それが決まった翌年、七十周年の年に松竹の新橋演舞場の新派担当の制作者が電話をかけてきたんです。空いてしまった一週間をやってほしいと。倒産時の借金の件でさんざん松竹からはいじめられていましたのでね、「できませんよ」と言って、私はわざと断った(笑)。そうしたら、重役が「田中ちゃん、ちょっと会ってくれよ」と。来るだろうという計算でした。それで本社で会って公演を決めて。倒産当時、劇団の売りが三千二百万円だったですよ。大道具と宣伝は劇場持ちですけど。あとの衣装、かつら、小道具は全部新国劇持ちなんです。それで二千六百万円でやりましょうと言って、ほとんどまけなかったですけれど。向こうは一週間劇場を空けるほうが損なので、それで決まったんです。
 それでまず御園座を五千万円の赤字でやりました。そうしたら、客がうわっとたくさん入りました。赤字をチャラにして、黒字で百万円残った。「一億百万円の興収だね」と言ったことを覚えています。それで新橋演舞場もこれがまたわーっと、三階の通路が千円ぐらいだったかな、そこまで入った。新聞紙をひいて座ってらっしゃいましたけれど。
児玉 まさに私、三階席の通路に座って見ました(笑)。
田中 そうですか。もう、よく入りました。もうこれが本当の最後だということは、両御大と私しか知らないわけ。しかし誰がしゃべったのか……これは辰巳だと思っているんですけどね……のれんを下ろすということが新聞に抜かれてしまった。読売新聞の依光孝明さんにね。本来あれだけの歴史のある劇団は、いろいろな興行主、お世話になった先生方へ、まず三人であいさつに行って、それから記者会見で解散を発表するところなのに、どこからか漏れてしまった。それからが大変。あの夏の暑いときに八十歳を越えた先生二人と謝って回った。北條先生も、宇野信夫先生も、それからまず松竹の永山さんにも。新橋演舞場の公演を永山さんと監事室で観たときがあって「田中さんね、緒形で新国劇を一度また入れよう。緒形でやろう」と永山さんがおっしゃったんです。私はもうのれんを下ろす話を知っていましたから「ありがとうございます」と言うしかなかった。
神山 昭和六十二年(一九八七)ですね。
田中 はい。しかしそれだけの大入りを取りましたのでね。最後に一花咲かせて、見事に新国劇ののれんを下ろしました。澤田正二郎が創立した新国劇の緞帳をおろしたんだというのが私の一つの自慢で、一人でそれを名誉に思っているんです。
日比野 そもそも解散をお決めになったのは、辰巳さんと島田さんと、どういう話し合いで決定したんでしょうか。
田中 どちらからということもなく両御大がもう肚で決めたんでしょう。二人は心が一つでしたからね。

綺羅星のような作家たち


神山 新国劇ゆかりの作家についても伺いたいと思っております。中江良夫さんともお仕事をなさってますね。
田中 中江先生はムーランルージュ新宿座出身の方。『どぶろくの辰』[一九四八年十月・有楽座]なんて良かったですね。
神山 辰巳さんの『どぶろくの辰』は有名ですし、傑作ですよね。
田中 辰巳もムーランのファンでした。黒澤明さんもムーランのファンで、どこかの旅館に作家が寄って『野良犬』のシナリオに取りかかっていた際、中江先生が、刑事がピストルを盗まれたというエピソードを発案したそうですよ。中江先生は昔、大戦後の混乱した新宿の警察で刑事していたんですってね。[コメディアンの]佐山俊二さんは弟さんで。
神山 中江さんは昔話なんかをよくなさる方でした? 
田中 寡黙な先生で自分からはべらべらしゃべらない方なんですが、飲むとすごかったです(笑)。
神山 八木隆一郎はどうでした?
田中 八木先生も中江先生も、すごいロマンチストで酒好きで。池田幹彦さんから聞いた話なんですけれど「八木先生は酔っ払うと電信柱に抱き付いて泣くんだよ」と聞きました。大変なロマンチストだったらしいです。八木先生が井上正夫に書き下ろされた『海の星』[一九三九年九月・浅草国際劇場]を島田と緒形が演りましたが大変よかったです[一九六一年七月・明治座]。一九六五年『沼津兵学校』[六月・明治座]の久しぶりの再演の初日を見られず亡くなりました[五月十二日脳溢血で死去]。
神山 『湖の娘』[東宝/新国劇提携興行・一九四六年二月・東京有楽座]は、シアターχで川和孝さんの演出で数年前に見ましたが、泣かされました。あれも島田さんがやったのは本当によかっただろうなと思いましたね。
田中 昔、辰巳も何か一つ[八木隆一郎]作品をやっているはずですよ。新宿第一劇場でやった『黒潮』でしょうか[一九四七年四月]。
神山 そうですか。
田中 杉良太郎が明治座に初めて出たときの『清水次郎長』[一九七三年一二月]では、中江先生が「演出は田中君に」と言ってくださいました。本来は東宝の津村健二さんだったです。ところが津村さんが急病で、急遽、私に替わった。この杉良が大当たりしましてね。その後、明治座で『国定忠治(忠治御用旅)』[一九七四年十月]、『下北の弥太郎』[一九七五年十二月]、これはじょんがらを使ってやりましたけど、すごい芝居でした。『平手造酒』[一九七七年十二月]『ふりむけば夕陽』[一九七九年十月]も含め何本か中江先生の作品をやって、杉の財産演目になりましたけれど。
神山 『雪の日の円朝』[一九六二年一月・明治座]は安藤鶴夫です。
田中 はい。島田は扮装がうまくて、『桂三木助』なんかの時は三木助によく似ていましたね。
神山 あと印象深いのは、小幡欣治さんの『慶安の狼』丸橋忠弥[一九六五年二月・新橋演舞場]。あれはいいですよね。数年前、松竹座の歌舞伎公演で見ました。松竹の安孫子正副社長が新国劇で見た印象が強くて提案したそうです。
田中 すさまじい作家でした。よく原稿を取りに行きましたね。また飲めるので、私と合うんですよ。あの当時、花登筺さんも東京へ進出してきたんですよ。浪花千栄子さんが新国劇に出演された『花外楼物語』[一九六五年一月・大阪サンケイホール]なんて、良かったですね。
神山 池波正太郎さんはいかがでしたか。
田中 島田、辰巳の新国劇になって、長谷川伸先生、高田保先生、北条秀司先生、池波正太郎先生から授かった恩恵はたいへんなものです。私が入ったときは、まだ池波先生が盛んに書いていた。一度、あれは何の芝居だったかな、辰巳と大げんかをしたことがあるんですよ。『高田馬場』だったかな? 新宿のコマ劇場で池波先生が辰巳の部屋のドアをドーンと閉めて出て行かれた。そうしたら辰巳が無礼者と怒鳴って、それが隣の私の書生部屋まで聞こえる。
神山 ちょっとした芝居の一幕ですね、それ。
田中 装置が気に入らないとか何かのことで、もめたんです。私が入座した年は明治座は火災で休演中のため東京読売ホールで二週間、井上靖原作、池波正太郎脚色『風林火山』と、菊島隆三原作、村山知義脚色『どたんば』の二本立て公演。狭いホールで鎧物の芝居、たいへんでしたが、名脚色で感動の舞台でした。原作の井上靖先生は小説と演劇はもう違うから、どう脚色してもいいとおっしゃる先生でしたが、それにしても劇化、名脚色でした。島田の山本勘助も、辰巳の武田晴信も、もう五十歳を過ぎていたけれどもすごいパワーでした。それから池波先生の、最初で最後の三尺物で……。
児玉 『雨の首ふり坂』[一九七三年二月・新橋演舞場]。
田中 一幕は一言もせりふがないんですよ。島田のあの寡黙で陰鬱な芸を生かして。
神山 池波さんは『名寄岩』[一九五六年一月・明治座]、『牧野富太郎』[一九五七年三月・新橋演舞場]とか……。
田中 最初は『鈍牛』[一九五一年八月・新橋演舞場]、次の年が『檻の中』[十月・明治座]、その次の年が『渡辺崋山』[四月・明治座]。もうそれはいろいろなものをお書きになった、素晴らしいですよ。それであの性格ですから、もうしょっちゅうけんかになるんです。「リンちゃんな、俺はけいこ場に来るときは血の滴るビフテキを二、三枚食ってくるんだよ」とおっしゃっていました。そうだろうなと思いますね。あの俳優たちを相手にね。私は作家としてはもう大変尊敬していたけれど、おべっかを使うのは苦手でしたからね。だからあまり最後はお呼びじゃなかった。最初に話したように、弟さんが私の兄弟子でした。
児玉 弟さんはその後どうされたんですか?
田中 新国劇を辞められて、東映の大部屋へ行かれて、それから後はもう役者を辞めて大阪の方で結婚されたそうです。この前、亡くなったと聞いております。
神山 さっき名前が出ましたが、菊島隆三はやっぱり仕事がやりやすかったですか。
田中 そうですね。紳士ですから。あの先生は足がお悪いんですけれども、ゴルフが大好きでらして。
神山 じゃあ、島田さんも辰巳さんもゴルフをやるから合ったでしょうね。
田中 木曽駒に御園座の寮があったんです。だから毎夏、辰巳は菊島先生の運転で、島田は友人の木曽駒カントリーの理事長の別荘へ行っていました。辰巳ともそこで一緒になって。我々は御園座の劇場の横手に有名な肉屋さんがあって、そこから買ってきて、すき焼きパーティーをやる。
神山 やっぱりそれは先生、いろいろご苦労が多かったでしょうけれど、いい時代でしたね(笑)。
田中 本当に苦労の仕甲斐のある時代でした。
児玉 でもあれですね、島田、辰巳はあれだけ舞台で年中顔を合わせていて、休みのときもゴルフをわざわざ一緒にやるんですね。ゴルフもきっと対照的なんですよね、二人は。
田中 そう。これがまた対照的。島田はうまいです。辰巳はダメ。よく、ちょろをするんですって。そうしたら島田が肩で笑う。声を出して笑うと、マナー違反ですから。「肩で笑いやがって」と、辰巳がカッカさせられてスイングが狂う。
神山 辰巳さんは、お酒は本当に一滴もやらないんでしょう。
田中 はい。ところが酔っ払いの演技はもうすごいですよね。人の癖をよく観察していた。だから私が酔っ払うと、お前はこうだよとやってみせてくれるんです。

新国劇を支えた脇役たち


神山 これはきりがないでしょうけど、脇役の方の思い出も伺いたいと思います。一番古い方は野村清一郎さんで、秋月さんはどうですか。
田中 やっぱり秋月正夫は、いわゆる役者らしい役者でしたね。私が入った当時は石山健三郎、河村憲一郎、岡泰正と個性豊かな役者が揃っていました。島田、辰巳は、ああいう名脇役がそろっていたから、名舞台が残せたと思います。
神山 新国劇は女優さんの名前があんまり出ないので気の毒だと思っているんですけれど、[沢田の相手役として活躍した]久松喜世子さんは別にして、二葉早苗さんはよく出ていましたでしょう。
田中 はい。秋月先生の奥様。二葉早苗さんは『王将』をやると玉江、『月形半平太』でいうと染八です。澤田先生の時代は娘役でした。
神山 僕の世代なんかが知っているのは香川桂子さん、外崎恵美子さんなんですけれど。
田中 久松先生は別格ですが、私は香川ファンでね。当時五本の指に入る女優といえば、水谷八重子さん、杉村春子さん、山田五十鈴さん、森光子さん、それで香川だよと言っていました。現代劇はもう外崎さん。『男ありて』の奥さんの役[きぬ江]です。
神山 あの人はムーラン・ルージュでしたっけ。
田中 はい。斎藤豊吉さんの奥さん。だから中江先生は、「もう外崎さんに俺は頭が上がらない、よく小遣いをせびりに行ったんだ」と言っていました(笑)。
神山 そうですか。あと初瀬乙羽さんは宝塚から新国劇に移られて。
田中 秋月、初瀬両優は島田、辰巳の苦難時代に志願して入られた。やっぱり『無法松の一生』の車宿のあのおかみは初瀬さん。あれを新派で、私が演出をして、吉岡夫人を[初代]水谷八重子さんでやったことがあります。無法松が夫人への恋情を祇園太鼓の乱れ打ちに乗せて連打する場面、やぐらの上の無法松と吉岡夫人がばっと上と下で目線が合うところ、私の演出では、吉岡夫人は動かないんですね。でも初日の日、どんちょうが下りる前にすーっと花道へ歩きだしたんですよ。そのまま揚幕まで。この歩き方のうまさ。「ああ、こういう演出があるんだ」と教えられました。終わって頭取部屋へ座っていたら、八重子さんが「失礼しました、了解も得ずにああなって」とおっしゃる、ですから、「いえ、先生には教わりました、これからはあの演出をなぞらせてもらいます」とお話して。それで香川さんに相談したら、香川さんは「分かる」と言っていました。いても立ってもいられない心情なんだと。この舞台は北條[秀司]天皇が観に来てくれまして、幹事室で二人で見ていたら、大詰めの車宿が[市川]翠扇さんで、「田中、あれはミスキャストだね。あれは、お前のところの初瀬乙羽だよ」と。翠扇さんだと役者が大きいと言うんです。主役で緞帳が下りてない。主役の無法松は台詞がなくて腕がストンと落ちる、それに車宿のおかみさんが「わーっ」と取りすがる。無法松の死ではなく翠扇の役が幕を取っていると。芝居というのは本が大事だけれども、やっぱりキャスティングが一番大事だと、これもまた教えられました。
 私の考えでは演出がその次。キャスティングが決まったら演出は楽なんですよ。私は本にうるさいとよく言われるんですけど、本を預かって、けいこ場へ行くときまでに納得していないと役者を動かせません。役者はただの人形じゃないですから、「なぜ私がこっちから出てきて、どうしてこっちへ行くんですか?」といっぱしの役者は聞いてきますよね。こちらも得心した本があるから、それに対して演出ができる。
 そして、商業演劇は職人でないと本が書けない。二幕構成の第一幕には何かやはり見せ場をつくってやり、次の二幕への期待をさせて幕を下ろす。そして大詰めには最高の見せ場でもって幕にする。またスターをドラマで立ててやる。だから職人でないとできない。芸術家とか作家とかへちまもないよと。お客さんのほうが、人生経験豊富ですから「あんなものじゃ泣けないよ」とか「笑えないよ」と言われてしまいます。お客様は、やっぱりうそ事を見たら面白くも何ともない。うそのない芝居、人間を描いた、人間の心でドラマを進めようということでやっていましたけれども。そういう意味では、文芸作品のほうが楽なんです。
 だから照明も舞台美術も、いわゆる泥絵の具で写実に飾ることも本によってはありますが、存在感のある役者だったらセットはいらない。例えば柱一本だけでもドンとあれば時代劇はできる。田村正和は、そのスターの存在感で何本かやっていました。その代わり照明に金を掛ける。とにかく転換なしで幕が下りるまでは緞帳なしでどんどん見せていこうという構成舞台にし、また妹尾河童さんともよく話をして、照明も全部新しい機材でやりました。
神山 音楽は、例えば橋場清さんなんかは、本ができてこなくても先に音を作るんですか?
田中 いえ。やっぱり本があって打ち合わせています。
神山 パターンはいくつかあって、それをはめていくという感じですかね。
田中 いえ、主演者がもっている情感にも合わせます。橋場さんは、二人がまだペイペイのころからの仲なので、いろいろな注文を付ける。ダイナミックにしろとか、ここは泣かせろとか言って。だから録音のときに立ち会うんです。録音になってからは、そういじれませんけれども、「ここはバイオリンを」といったことは注文できますから。昔は下座音楽で全部生でやっていたんですけれど、今の舞台では西洋音楽の要素は大事です。新派は邦楽の杵屋さんのところがいらっしゃるから歌でも何でも、浪音でも小豆で、生で演奏しておられる。その方がテープよりも劇効果が上がります。ところが今、二十五日間それをやったら人件費が掛かりますでしょう。『国定忠治』の「天神山の場」の山颪の太鼓の音はテープではだめなんです。生音の方がいい、ですが今はテープです。
日比野 新国劇は、いつごろからテープを使うようになったんでしょうか?
田中 昭和四十年代に入ってからですね。それで四、五人いた音調部というものを整理しました。昔は全部生でやっていましたが。舞台監督が「天神山の場」の幕あきに打つ柝にも決まりがあるんです。柝も下座囃子の一つではないでしょうか。
神山 新派は文芸部の人も柝を打つでしょう。先生は打っていましたか?
田中 私どもは舞台部と文芸部が別個で、柝は舞台部が打っていました。『国定忠治』の柝が打てるようになったら通常、別の人には譲りません。辰巳が「別の人ではダメだ」と言う。役者との息が大事なのです。

新国劇野球部


神山 ゴルフの話が出ましたが、新国劇は、野球も盛んだったでしょう。島田さんの著書『ふり蛙』に、澤田さんのところに行ったら最初に、「君、野球できるか」と聞かれたエピソードが書かれていますけれど。新国劇に所属していた曾我廼家五郎八の自伝を読んだら、澤田先生のところに行ったらやっぱり「野球できるか」と聞かれて、入れたと書いてありました。彼は甲子園のすぐ近くの鳴尾で野球をずっとやっていたんですってね。
田中 はい。だから私も文芸部になってから若い人の入座の面接のとき野球ができると言ったら「オーケーだよ」みたいな感じで(笑)。まあ、余程の訛りがない限りほとんど拒まなかったですね。
神山 あのころは歌舞伎も菊五郎劇団の人なんか野球が好きで、しょっちゅう試合をやっていたそうですが。
田中 そうですよ。強かったのが新国劇と日劇。日劇は旗照夫兄弟が、うまいんです。新国劇では藤森、緒形がうまかった。私が入ったころはトップボールって準硬式でやっていたんですよ。新国劇は最初は硬式です。報知新聞主催で芸能人野球大会なんていうのがあって、芝居の前に、みんな神宮外苑の草っ原でよくリーグ戦をやっていました。対戦相手は日劇とか文学座、それから菊五郎劇団。
神山 一時「新国劇ニュース」って会報が出ていたでしょう。あれなんか見ても、よくみなさんが野球のユニホームを着て、写真と記事が出ていますね。
田中 はい。島田はうまかったですよ。辰巳はできないんです。昔、芸能人野球大会を難波球場に見に行ったことがあるんです。そうしたら島田がショートを守っていましてね、ダブルプレーを取りました。坊屋三郎さんが出ていました。打って、ファーストへ走らずにサードへ走って、お客をどっと沸かす。
 劇団ではよく、名古屋御園座に行くと中堅幹部以下は楽屋泊まりですから早朝に、「丼試合」というのをやりましてね、劇場そばにあるうなぎ屋なんかの丼を賭ける。だいたい実力が合っている人とじゃんけんして、辰巳組と島田組に分かれるんです。一度、辰巳組で私がピッチャーをやったんです。いつもは必ず「俺にも投げさせろ」と、辰巳が必ず一回投げるんですが、その時は勝っていたので「先生、代わりましょうか」と聞いても「いやいや、最後までお前が投げろ」となった。勝ちたいものですから(笑)。それで勝って楽屋へ帰ると、藤森達雄君が、「田中君、おやじが呼んでいるよ」と言うから辰巳のところへ行ったら、「これをお前に」といって、金一封をわたされて、三千円入っているんです。当時、研究生の給金です。それで負け組の島田に、「先生、辰巳のおやじさんから殊勲賞で三千円もらいました」と報告したら、「おお、よかったな」と喜んでくれました。
 面白いのは、舞台のチャンバラで、野球での負け組が勝ち組をやっつけるんですよ。辰巳の組がもし負けたときは、辰巳が立ち廻りのとき勝ち組の奴を追っ掛けていってずばっと斬る。この野郎と(笑)。これはもう楽屋内のオチで笑うんですけど、お客様は分からないから殺陣の内の手順だと。しかし楽しい劇団でした。三百六十五日、家族よりもべったり一緒にいましたから。辰巳、島田の仲は男夫婦(めおと)といいますけれども、奥さんよりも関係が深いんですよね(笑)。だから二人はよく「おい、俺たちは二人で一人前だよな」とお互いに言っていました。
 大衆演劇といえど、人間の業を描き、文学的かおりを失わず舞台の格調を保つ。今もって、天から「林輔、しっかりしろ!」と両おやじの声が聞こえます。なんだか取り留めない話をしましたが、お許しください。