甲斐京子聞き書き


取材日時:二〇一六年七月十日
取材場所:サンパール荒川・会議室
取材者:神山彰・中野正昭・大原薫
編集・構成:大原薫
監修:甲斐京子

イントロダクション


 甲斐京子氏は、松竹歌劇団(SKD)の最後の男役トップスターで、現在も、女優・歌手として舞台での活動を続けている、まことに貴重な存在である。
 私が、初めてSKDの舞台に浅草国際劇場で接した、昭和四十四年(一九六九)には、まだ入団していなかったというから、その頃の記憶にその名前のないのは、仕方がない。当時は、まだ、小月冴子が出ていて、圧倒的オーラを放っていた。倍賞美津子がソロで歌い、ダンスでは、春日宏美、藤川洋子の時代なのだが、私を魅惑したのは、今回のインタヴューでも触れているが、小月冴子のフィナーレでの実に何でもないようなステップと、少しだけ左肩を下げてスーッと銀橋に入っていくときの動きだったのである。
 甲斐氏の名前の記憶は、正直言って、国際劇場閉場後、SKDが浅草を離れて、歌舞伎座に出演した頃からである。昭和五十八年(一九八三)の歌舞伎座筋書(プログラム)を見ると、「甲斐京子はこんどの公演から大幹部に昇進した」とあり、平成元年(一九八九)には「大幹部筆頭。SKD男役のトップに立つ(略)春日宏美から千羽ちどり、そして甲斐と名門SKDの男役トップの座を受け継いできた」となっているが、インタヴューにもあるように、実はこの年松竹はSKDの向う二年間の活動停止を発表していた。
 このことは、正に、文字通り、甲斐氏がSKDの「昭和最後のスター」だったことを意味する。単に演技や歌の巧拙や、知名度だけでなく、それぞれのジャンルで、その固有名詞を聴いただけで、ある時代の匂いや気配を想起できる存在が「スター」だとすれば、甲斐氏はその資格を持っていることになる。
 SKDのОGが創り上げたSTAS(スタス)の活動は継続しているものの、千羽ちどりが二年前から、STASのメンバーから引いてしまった現在では、かつてのSKD独特の身ごなしや空気や歌い方を、男役の大幹部として経験した存在で、公的な舞台で活動しているのは、甲斐氏だけになってしまったのである。
 甲斐氏に限らず、このオーラルヒストリー・アーカイヴのインタヴューの魅力は、その語り口の面白さにもある。甲斐氏が入団した頃は、小月冴子はもちろん、川路龍子も健在だったから、その憧れの二人の大先輩に接した際の、ちょっとした口ぶりなどの魅力は、「東京おどり」の大看板を憶えている私の世代のSKDファンには実感できるもので、実に懐かしい思いがした。そして、レヴューだけでない世界を作り出そうとしたころのSKDドラマスクールや周囲のスタッフの思い出。それらを、実に生動感と実感溢れる語り口で、計らずも「あの時代」の濃密な空気を感じさせてくれた。
 従って、SKDの晩期の実態や経過の話が、今回の眼目でもあるのは間違いない。
 しかし、現役女優である甲斐氏に伺いたかったのは、SKD以後の様々な「商業演劇」の舞台や劇場の思い出でもあった。ミュージカルから新派、新宿コマ劇場の喜劇、東宝現代劇系の芝居。そこで共演した、今も人気を継続しているジャニーズ系の人たちから、今や忘れられたアイドルや歌手、物故してしまった池内淳子、由利徹という著名な主役陣から、橋達也のような大衆演劇のベテランの思い出まで。地方巡演の話。それらは、多彩な人脈というよりも、少しずつ回想を伺うと、正に、二十世紀末前後の時代の流れや推移の中での商業演劇の変容だけでなく、凡庸な感慨を述べるようだが、それぞれの人生の浮き沈みや陰翳、明暗が目に浮かぶようだった。
 川路龍子の衣裳の好み、振付の竹邑類や篠井世津子、松見登、演出の山田元彦、寺崎裕則、近年の高平哲郎までのスタッフの思い出も現場の舞台人ならではの実感に溢れ、楽しい。
 現在では、甲斐京子氏は、大きく分ければ二つの面で活動している。 
 一つは女優として。商業演劇が変質し、かつての東宝現代劇で上演された演目群が影を潜めてしまいがちな現在、有吉佐和子の『芝桜』や『華岡青洲の妻』に出演して、重要な役で出演している甲斐氏の舞台に接すると、かつて自分が見てきた舞台で他の女優が演じた記憶をたどるのが実に楽しい。「役どころ」という言葉もあまり使わなくなったが、戯曲の中での「役どころ」を抑え、掴むというのは、セールストークだけはやたらに巧くなって役の内面などを語りながら「役どころ」を摑めていない、近年の俳優とは随分違う経験と鍛錬のたまものだと思う。それだけではない。それらの舞台から、あの頃の客席の気分、演劇雑誌の論調までもが、不意に甦ることすらある。なにしろ、それらの芝居の初演がもう半世紀も前なのだから。
 二つには、SKD時代を彷彿させる歌手として。年に数回のコンサートなどに出かけると感じるのは、浅草国際劇場のような大劇場で培った立ち位置や歩く姿の見事さである。「歩く芸」は歌舞伎の入門書や解説書には必ずあるが、実態として廃れてしまい、私はこの二十年の歌舞伎で「歩く芸」の見事さに接した記憶がない。様々な賞賛に包まれていても、角々のキマリや歩く姿の悪い人がどうして絶賛されるのだろう——つまり、歌舞伎も内面表現になってしまったのだ。私のように「歌舞伎は見た目が九割」と思っている古い観客にとって、「レヴューは最高」である。「姿は悪いが内面の優れたレヴュー」なんてある訳がない。正にレヴューは「歩く芸」の典型である。
 私の演劇的記憶の重要な成分、要素である、冒頭に触れた小月冴子のSKD風の「歩く芸」の名残など、STASでの千羽ちどりが引退した現在、甲斐氏でしか接することはできない。数年前、「ピーターズレヴュー」にゲスト出演した際のタキシードにシルクハットの昔風の男役スタイルでの甲斐氏の立ち位置や引込みの足取り、気配などは無類であった。インタヴューでも触れたが、いつからの伝統なのか定かでないが、相当な重量と聞く巨大な羽根を背負って出るようになってからの宝塚のフィナーレは背筋を伸ばしている姿勢を保つしかないから、銀橋に入る時の姿に特徴がなくなってしまったというのが極私的嗜好である。私がSKDやNDTのレヴューで愛した、銀橋に入る時の左肩をすっと下げる動き、引込むときの正面向きを維持した不思議なステップ。それは、甲斐氏も小月冴子のステップがどこが違うのか必死に見ても解らなかったという、芸の秘訣なのだろう。
 それにしても、劇評は自分にも書けそうな気がするが、レヴュー評は難しい。橋本与志夫など、よくあんなに長文のレヴュー評を書けたものだ。そういう才能も消えかけていることを、私は甲斐氏の歯切れのよい語り口を聴きながら、頻りに考えたりしたものである。
(神山彰)

入団面接で「SKDに骨を埋めます」と言ったんです


神山 甲斐さんは九州のご出身とお聞きしたんですけれども。
甲斐 そうです。
神山 小さいころからダンスや日本舞踊とかの稽古をなさっていた?
甲斐 まったくそういうのはないんだけれども、私が物心つく前、二歳か三歳くらいから、美空ひばりさんが好きだったんですよ。幼な心に魅了されて、こういう世界に入りたいなと思ったきっかけは、ひばりさん。
神山 なるほどね。九州にいて、SKDの公演はご覧になっていたんですか?
甲斐 テレビがうちに来てから、舞台中継を見たんですね。そのころは、テレビでいろいろな中継をよくやっていたんです。
神山 そう、やっていましたね。
甲斐 小学校に入ってからはそういう世界のことは忘れていて。でも中学に入って、また「そういう世界に入りたい」と思い出して、そのころは『平凡』だのいろいろな雑誌で[スター発掘の]募集していましたから、親に内緒で勝手に手紙を出していたんです。それが親に見つかって「そんなに好きだったら、ちゃんとしたところに入らなきゃダメだ」というので。それで、うちの母親がSKDが好きだったので「SKDがいいんじゃないか」と言い出して、初めて国際劇場に母と二人で見に行ったんです。
神山 そうですか。それが昭和四十三年(一九六八)ごろ。
甲斐 いや、昭和四十一年か四十二年あたりだと思います。
神山 それで昭和四十三年に試験をお受けになった。
甲斐 はい。
神山 松竹音楽舞踊学校は築地の東劇にあったんですけど、そのころ面接は東劇で?
甲斐 はい、そうです。
神山 そのときは、大澤健造さんが団長さんですか?
甲斐 そうです、大澤先生に面接していただきました。
神山 大幹部の小月[冴子]さんや川路[龍子]さんは。
甲斐 川路さんは退団されてましたけど、小月冴子さんが座長(トップ)でいらっしゃいました。
神山 甲斐さんの芸能生活二十五周年か何かのプログラムのときに、大澤さんが「甲斐は入団試験の面接で『SKDに骨を埋めます』と言った」と書いてましたね。
甲斐 そうなんです、受験のとき、児童劇団に入っていたとか、踊りを十年やったとかクラシックバレエを習っていたなどという受験生がたくさんいたんですよ。私は、お稽古事何もやっていなかったので「とても無理だな」と思って、それで面接に賭けたんです、一六歳で(笑)。
神山 ああ、そうだそうだ。「入学試験の面接担当はこの私」と、大澤さんがお書きになっていますね。甲斐さんの二四期は、受験に来たのは何人くらい?
甲斐 私が覚えているのは、四〇〇人ぐらいいました。
神山 四〇〇人ぐらいいたんですか。それで採ったのは、四〇人ぐらい。
甲斐 いや、五十何人採ったんですよ。多かったんです。
神山 昭和四十三年に入学なさって、レッスンは築地じゃなかったですか。
甲斐 はい、ずっと築地の東劇でやってました。
神山 [東京大空襲で]焼け残った、場所は今と同じですが前の建物の東劇ですよね。そのころの音楽舞踊学校の先生方というのは。
甲斐 先生方はほとんど、団員になってから振り付けて下さる先生方でしたね。
神山 そうですか。そうすると松見登さんとか。
甲斐 はい。それから、花柳瀧蔵先生、西崎真由美先生、新井重美先生。それと、山口国敏さん。
神山 山口国敏さんは、戦前からの有名な方でしたね。
甲斐 はい。
神山 レッスンはダンスが中心になって、歌はどなたが教えていたんですか。
甲斐 歌は、私は音楽舞踊学校のときには相良先生という女の先生が、二年間教えてくださいました。声楽専科とジャズ専科に分かれて、ジャズはヘンリー倉田さんという先生が教えてくださいました。
神山 その後にドラマ・グループを作った件との関連でお聞きしたいんですが、学校では芝居や台詞を教えるというのは、特にないんですか?
甲斐 学校時代は「拙者親方と申すは……」から始まるのをやるぐらいで。
神山 『ういろう売り』ですね。
甲斐 はい、そうです。そういうのをちょっとやった記憶があったけど、芝居の稽古は、そんなになかったような気がしたんですね。
神山 そうですよね、レヴューの劇団ですから。正式に座員になられたのが昭和四十五年(一九七〇)ですね。
甲斐 はい、昭和四十五年。
神山 座員になると、紋付き袴の制服も貸与されて。
甲斐 はい。
神山 そのころの国際劇場はSKDの公演と歌謡曲の歌手のショーをやっていましたが、稽古は歌謡ショーの期間にやるんですか。
甲斐 そうです。稽古は国際劇場でやってました。国際劇場は稽古場が三つもありますからね、そちらの稽古場で。
神山 そんなにあったんですか。
甲斐 はい。大きな第三稽古場と、中位の大きさの第一、第二で、三つありましたから。
神山 やっぱりレッスンは相当厳しかったでしょう?
甲斐 そうですね。必ず、朝十時からやってました。ラインダンスは特に、いつも一番早いんですね。
神山 甲斐さんは男役でスターになられるわけですけれども、それは自分の希望なんですか。
甲斐 ひばりちゃんが好きだったと言いましたが、ひばりさんは映画の時代劇でやった男役に魅了されていたというのもありました。「歌って踊って、お芝居をして」というのに憧れがあって、国際劇場を初めて見たとき、緞帳がパーンと開いたら、もうお化粧の匂いがするんですよね。当時は分からなかったんだけど、あれはドーランの匂いなんです。百何人という方のドーランの匂いがぱっとして、それで「うわあ」と思いました。洋舞から日舞から、歌にといろんな景があって。途中に「ニチナカ」という日本物の山場の景、踊りありちょっとした台詞もある場面で男役もいて。そのときに「ああ、ここに入りたい」と思ったんです。
神山 いや、僕もその匂いは分かりますよ。一階前方の席ですと実感できました。いい匂いでしたね。ひばりさんの男役に甲斐さんが憧れたというのはわかりますね。その当時に実際に稽古をつけていたのは、先ほど日本舞踊ではお話に出た瀧蔵さんや西崎さんで、洋舞は。
甲斐 洋舞は松見登さん。それから名物ラインダンスの先生・新井重美さん。それから、篠井世津子さん。
神山 篠井世津子さんは退団後も振付なさってますね
甲斐 そうです、STAS[SKD解散後、四人のОGが中心に作ったレヴュー・グループ]でも振付されてますね。
神山 僕がSKDで覚えているのは、男役の方が後ろ姿を見せないでいる。小月さんなんかも、左肩をすっと落として、正面向きのまま銀橋に入っていくのが、形がいいと思ってね。男役はなるべく後姿を見せないという指導はありましたか。
甲斐 それはそのときの振付によりますが、入っていくときの形というのは、よく分かります。
神山 あの一瞬の肩の動きがたまらなくよかったですよ。
甲斐 ちゃんと見ていらっしゃいますね。「出と引っ込み、それが一番大事なんだ」とよく言われました。ちょっと気が抜けちゃう場合もあるんですね。だから最後の最後まで、それは一番神経を使いました。
神山 確かにそうですね。SKDは最後、宝塚みたいなすごい羽根を付けましたか?
甲斐 男役は付けないですね。
神山 付けないですよね。
甲斐 関西は何でも芸風がこってり系。関東はさっぱり系。それがお衣裳の方にもありますね。レヴューのラストでは、SKDの男役はエンビ服、宝塚はエンビ服の上に豪華な羽根をという風に。それぞれ良さが違いますよね。
神山 そうですか。SKDの舞台で覚えているのはもう一つ、大道具の屋台崩しと本水を使った大仕掛けのもの。それと、吊り物も多かった印象があるんです。日劇も本水を使うんですが、吊り物は、バトンの数が多いのか、SKDがとても多かった記憶がある。
甲斐 やっぱり東洋一の劇場でしたからね。間口はもちろんの事、奥行がありますものね。[国際劇場で映画とSKDのレヴューの二本立ての公演をやっていたとき]、一部の寅さんの映画をやっているスクリーンの後ろで裏方さんがキャッチボールをして、たまに球がスクリーンに当たっちゃう(笑)。そのぐらい広かったんですよ。
神山 有名な屋台崩しは、当時は三輪祐輔さんが美術を担当された。
甲斐 もちろんお名前は知っているんだけど、私たちはあまりお会いしないんですよ。
神山 じゃあ、[美術の]三林亮太郎さんとかも、お会いしない。
甲斐 はい。たとえば、舞台稽古とかにいらっしゃったんだろうけれど、国際劇場は広くて、直接はお会いしなかったですね。

小月冴子さんはとても正直な方でした


神山 プログラムで見ると、衣裳に所[治海]さんと[SKDの大幹部だった]川路龍子さんの名前が入っているんですけれども、その頃は川路さんが衣裳をやってらしたんですか。
甲斐 やっていらっしゃいました。私も川路さんの衣裳を着せていただいて。
神山 なるほど。僕もさすがに川路さんは映画でしか見てないです。『燃える上海』の川島芳子役は特に印象的でした。
甲斐 はい、とても素敵なんです。
神山 小月冴子さんはどうでしたか。
甲斐 私が入ったときは、小月先生がトップだったんです。普通だったら年齢が親子くらい離れているものですから、小月先生と言っているんですけど。小月先生は楽屋入り前に必ずコーヒーを飲む方で、普段は楽屋口のそばの「シルクロード」、日曜日はシルクロードはやっていないので、「コロナ」というところに必ずお寄りになるんですよ。別に「来い」とも言われないのに、私はしょっちゅうそこにくっついて行って、お話を聞いたりしてたんです。
神山 それはいいですね。うらやましい。
甲斐 小月先生って、ちょっと気分屋さんなんですよ。機嫌がいいときはいいんだけど、機嫌が悪いときは行きづらいんだけれども、それでも「おはようございます」と言って、勝手に前に座っちゃったりして(笑)。そのうちに何だかだんだんご機嫌がよくなるんです。私から見たらレヴューの神様みたいな方だから。普通だったら下級生の前で悩んでいるところなんか、見せないじゃないですか。でも、小月先生は、何でも偉そうにしていらっしゃらない人なのね。ご自分が芸のことで悩んでいらっしゃる時は、「お前さん!!舞台というのは、なかなか思うようにはいかないね」なんておっしゃったりして。それ以来、尊敬は勿論の事、大好きになっちゃいました。
神山 そうですか。
甲斐 人間的な方というのかな。でも、この世界に入って思ったのは、これでいいということがないから、上級生でもいろいろな壁にぶつかったり悩んだりしてらっしゃる。そういうことを正直に出す方と出さない方といらっしゃいますでしょう。でも、小月先生は私たちみたいな下級生に対しても正直に出して下さる。私は本当にお世話になったんです。
神山 小月さんが亡くなって、もう五年くらい[二〇一二年十二月没]。
甲斐 はい。
神山 僕が小月さんで覚えているのは、フィナーレで、銀橋でただステップを踏むだけなんだけど、それが違うんですよね。
甲斐 そうなんです。階段の降り方とかね。ラスト前って下級生は振付が数多くついて、上級生になるほど、振りが少なくなる。大幹部になったらほとんどなくて、見得を切っているみたいなものでね。その頃は、「いいな、上級生になったら振りが少なくて、簡単で」と思っていたんですね。そしたら、とんでもない。振りの数が少ないほど難しい!!
神山 そうでしょうね。川路さんは小月さんより上ですから、直接川路さんとお話はされませんでしたか?
甲斐 [小月さんに]お食事とかに連れて行っていただいたときには、必ず川路さんがいらっしゃいました。
神山 それはすごい、貴重な経験ですね。
甲斐 そうなんです。「甲斐ちゃん、甲斐ちゃん」と言ってくださって。何かもう、「川路さんとこんなに仲良くさせて頂いていいのかしら」と思いましたね。SKDをお辞めになって、川路さんが勤めていらした先にもよく行きましたし、その近くのうなぎ屋さんでよくご馳走になりました。川路さんは、普段も素敵ですよ。もう、竹を割ったような方。男っぽい方ですね。それで、小月先生の方が女っぽいですよ。

入団二年目から男役に


神山 ところで、甲斐さんも最初はラインダンスもなさったんですか?
甲斐 ラインダンスは一回だけやったんです。
神山 一回だけですか。
甲斐 私はもう、男役になりたくて、なりたくて。大澤団長が「甲斐君、君は男役と女役、どっちがやりたいの」と聞いてくれたんです。私は「甲斐君」と呼ばれてたんですよ。私はすぐ「男役をやりたい」と言って、入って二年目にはもう男役をやってました。
神山 僕がSKDのラインダンスで覚えているのは、つま先でトントントンとリズムを取ってから、「シックスティーナイン」とかその年を言って、ふっと足を上げる。あのトントントンというのがとてもよかった。宝塚のラインダンスだと、いきなり足を上げるけれど。
甲斐 ああ、あれで、一つの弾みがつくんですよね。
神山 お客さんも、トントンとやっている間に期待と気持ちがだんだん高まるんですよ。いつ足が上がるかと思って、ぱっと上がったときの、客席にジワが来る感じが、何とも言えない。それと、さっきお話に出た匂いです。あれは映像では甦りません。
甲斐 もう名物ですよね。[SKDのラインダンスを長年振り付けた]新井重美先生がとても愛情深い方で。新井先生というのは、もう大幹部に至るまですごい勢いで叱ってくださるんです。私はとても有難かったです。
神山 分け隔てなく、公平なんですね。
甲斐 だから、大好きでしたね。SKDの振付の先生方は、皆さん、私達団員のとても愛情深い方々ばかりでしたね。
神山 SKD時代のスタッフの方でいうと、山田元彦さんは。
甲斐 私より入ったのは先輩で、演出をされていましたね。奥さんが十九期の方なんです。
神山 プログラムを見ると大先輩のターキーさんのお名前が出てきますが、水の江滝子さんが直接いらしたことはありましたか。
甲斐 歌舞伎座での公演で、水の江さんの演出で『夏のおどり』の第一部『マイガール』というのをやったんですね。
神山 『マイガール』、昭和五十八年(一九八三)ですね。そのころだと結構お年だったですか。
甲斐 でも、そんな、年を取ってらっしゃらなかったですよ。結構しゃきしゃきしてらっしゃいました。でもね、よく笑ってらっしゃるんだけど、目が笑ってらっしゃらないときがあるんですね。よく、厳しい方でそういう方がいらっしゃるんです。SKDが歌舞伎座で夏の踊りをやるというので、亡くなられた藤山寛美さんにご挨拶に行ったんですよ。
神山 [新橋]演舞場で。
甲斐 演舞場のときかな。私とか高城(たかじょう)美輝とか、そのときの大幹部の人たちとみんなで、歌舞伎座の宣伝で新喜劇の舞台にご挨拶に行かせてもらった。そのとき、寛美さんと二人で顔を合わせてお話しして、笑ってらっしゃるんだけどね、目が笑ってないの(笑)。
神山 それはちょっと怖いですね。それは、水の江さんもそういうところがあった。
甲斐 そうですね。笑ってらっしゃるんだけど目が笑ってないという。
神山 僕が初めてSKDを国際[劇場]で見たのが昭和四十四年(一九六九)でしたね。そのときは甲斐さんは。
甲斐 まだ、出てないです。
神山 昭和四十四年じゃ出ていないか。さすがにね、まだ倍賞美津子さんがいて、小月さん、春日[宏美]さん、藤川[洋子]さんもいましたね。倍賞さんがソロで歌ったのは覚えているんですよ。その後、国際劇場もなくなってしまいましたね。
甲斐 そう、昭和五十七年(一九八二)です。
神山 SKDが歌舞伎座でやるようになってから、甲斐さんが本当に大幹部になられている姿は覚えていますけれども。
甲斐 そうですか。結構いろいろな方が見ていらっしゃるんですよね。よく国際劇場でも、前から二番目とかに市原悦子さんがいらしてました。
神山 いらしていたのは、分かるんですか?
甲斐 はい。どなたの関係でいらしたかわからないですが、二番目の席で(笑)。市原さんは結構お好きなんですよね。歌とかもお好きじゃないですかね。
神山 俳優座の青山杉作さんがSKDの演出をやっていらしたから、東山千栄子さんがSKDの演技指導をやっていたことがあるんですって。市原さんも俳優座なので、その関係でいらしてたのかもしれない。
甲斐 国際劇場のころ、寅さんの映画の中で[第二十一作『男はつらいよ~寅次郎わが道をゆく~』木の実ナナさんがSKDの団員役で出られとき、私たちも終演後に残されて、洋中[ようなか、洋舞の山場の景]のシーンとか何回も何回もやらされたりしたんです。私も楽屋のシーンでちょっと撮っていただいたんですが、そのときも渥美清さんが前から四番目の通路際の席から見てらして(笑)。仲間が「渥美さんが見ているわよ」というので、見たら、すごく真剣な顔をしてらした。何か怖い顔をして見ていらっしゃるんです。
神山 そうですか。僕もあの映画はもちろん見ていますが、小月さん楽屋でダメ出しするシーンがありましたよね。「あなた、こうしなさいよ」とかね。
甲斐 そうです。でも、楽しいですよね。SKD[の養成所である松竹音楽舞踊学校]に入るのは中卒から高卒まで、私は高一中退で入りましたから、学生気分じゃないですか。だから、入団したら社会人になるわけだけど、そんな意識も全然なくて。皆でわあわあいいながら、どちらかというと体育会系でやってましたね。踊りが中心で、汗びっしょりかいて、いい年まで青春をしてました(笑)。

ソ連・南アフリカで長期の海外公演


神山 SKDは非常に紆余曲折がありましたよね。僕が覚えているのが、小月さんが辞めた後、春日宏美さん、藤川洋子さん、それから甲斐さんの時代になるわけですけれども、その頃から、お客さんの入りが下降線をたどっているなというのは感じられましたか。
甲斐 はい、感じましたね。私が入った当時から、赤字で四大踊りを三大踊りにするとか、いろいろと聞いてました。
神山 そうですか。
甲斐 聞いてましたけれども、若いから、遠い先のことだろうと思って、あまり気にしないでやってきたところはありますね。
神山 国際劇場時代から、レヴューでなくてミュージカルという名前でやるようになった。山田洋次監督が『カルメン』をなさいましたね。
甲斐 はい、東京踊りでね。
神山 そのときのことは、何かご記憶に残っていることはありますか。
甲斐 私はお芝居の中でも踊りだけの闘牛士の役だったんです。演技の方はエスカミーリョ、ホセ、ミカエラ、カルメンの四人だけ。小月先生が特別に占い師の役でちょっとだけ出て、それがさすがだなと思った記憶があります。
神山 そのほか、松本零士の『銀河鉄道999』がありましたね。
甲斐 『銀河鉄道』は出ていないです。その頃はちょうどソ連公演に行ってましたから。
神山 あのころは、外国公演もずいぶんありましたね。
甲斐 南アフリカが、初めての海外公演だったんです。
神山 そうでしたか。
甲斐 それが最初三カ月の予定だったんですが、好評で半年に延びたんです。
神山 半年もいらしたんですか、アフリカに。
甲斐 そのときは、ちょっとホームシックにかかりましたよね。仕事としては嬉しいことなんですけど。いろんな商社の方が、毎週日曜日にお宅に招いて下さって、日本料理をご馳走してくださるんです。帰ってきてからも交流がある方もいらして、楽しかったですね。
神山 ソ連公演は結構長かったんですか。
甲斐 ソ連は三カ月ですね。何カ所か回りましたけれども、でも長いとは感じなかったですね。アフリカがあまりに長かったのでね。
神山 半年はあまりに長いですね。
甲斐 ソ連は二日間かけて行くんですよ。
神山 えっ、船で行くんですか。
甲斐 ええ、ハバロフスクまで、船で行くんです。二日かかるんだけど、一回目に行ったときは快晴で、船は揺れなかったんだけど、二回目のときにもう大揺れですよ。船室に海水が入ってきて、スタッフからキャストから全員気持ち悪くなって、ずっとベッドに倒れちゃって、私だけ。「朝食の時間は」とか放送が入るんですが、私と白人のかっぷくのいいおじさんと二人だけ、柱につかまりながら、揺れながら食堂に行ってました。
神山 食べるの。
甲斐 食事に出ていく(笑)。
神山 それはいいですね。
甲斐 すごいでしょう。私は皆さんに酔い薬を配りに回ったんですよ。私は何でも乗り物が好きなんです。その揺れを楽しんでいたので、酔わなかったんですよね。
神山 なるほどね。
中野 海外公演をいっぱいなさっていますが、ここの国のお客さんの反応はよかったとか、印象に残っている国はありますか。
甲斐 海外はみんな反応がいいですよ。寒い国の人はあんまり[感情を]表さないというじゃないですか。ロシアに行ったらじっと静かに見ているから、最初は「大丈夫なんでしょうか」とみんな気にしてたの。それが、ラストになるともうみんな感激してらっしゃるのが伝わるんですよ。でも、表し方が下手なんですね。
中野 海外では、甲斐さんは昭和五十一年(一九七六)にインドネシアの方に舞踊留学されましたよね。
甲斐 バリ島なんです。
中野 どうしてバリ島に。
甲斐 バリ島は個人的に一回行ったことがあって、当時はあまり観光化されてなくてとてもいい所でしたね。『東京踊り』でバリの踊りをやるというので、私と、同期だった志麻葵と灰原明彦先生という洋舞の先生と、三人で踊りを習いに行ったんです。あと、舞台で使うお面などを全部買ってきたんですね。それも、楽しかったです。
中野 この費用は、松竹から出たんですか。
甲斐 はい、もちろん会社から出ました。
神山 SKDのレヴューに特徴的なのは、日本の民謡のものがあることですよね、以前は宝塚にもありましたが。西洋題材のものと日本の民謡のものと、どちらがお好きでしたか。
甲斐 最初は民謡の方が好きだったんです。ずっとやっていくうちに、最終的には全部好きになったんですけどね。民謡が自分に合っているような気がしました。
神山 そうですか。国際劇場の最後の公演が昭和五十七年(一九八二)で『踊れ! ジュリアーノ』。
甲斐 はい。
神山 春日さんが表紙になったプログラムを持ってきたんですけれども、このとき甲斐さんも銀行家のカルロの役で載っている。この後、歌舞伎座に行くわけですけれど、当時、これでSKDは終わってしまうんじゃないかという感じはありましたか。
甲斐 ずっと、いろんな話が耳に入ってきていましたから。
神山 やっぱりそうですか。このときは関矢幸雄さんが演出だった、覚えていらっしゃいますか。
甲斐 はい。
神山 関矢さんとは先々月お会いして、お年も九十いくつですが記憶もはっきりされていて、昔の話を聞いて楽しかったですね。作詞は山田元彦さん。すぎやまこういちさん作曲で、振り付けは松見先生や篠井さん。
甲斐 この公演は途中から、[第五一回東京踊り、第一部:『民謡ファンタジー ふるさとの四季』に次ぐ公演として]二の替わりでやったんですよね。
大原 国際劇場がなくなった後、SKDは歌舞伎座で公演をやっていましたね。そのときの舞台を拝見しました。
甲斐 歌舞伎座は、普通は、女の人は出られないじゃないですか。亡くなった[六世中村]歌右衛門さんの楽屋を使わせていただいたことがあったんです。
大原 すごいですね。
甲斐 そうなんですよ。とてもじゃないけど、そういうところに入れないじゃないですか。一番お偉い方だから一番大きいお部屋なんです。私は置くものなんて大してないから、すきすきでね。最初に入ったときはもう広くて、何だか落ち着かない感じだったんですけど、不思議なもので、一カ月やっていますと、その楽屋が広く感じられなくなる。あれは不思議です。それで、私たちはレヴューをやるので、顔に銀粉とかいろいろなものを着けるわけですよ。そうすると、一カ月終わったころは、畳の目の中にその銀粉が入っちゃたりして(笑)。それで、もう一生懸命掃除機をかけて。ガムテープも使って、「大丈夫よね」と確認したんですが、後で聞いた話が、やっぱり残っていたらしいんです。でも、歌舞伎の役者さんたちは「SKDの女の子たちがやった後の楽屋が楽しい」とおっしゃっていたって(笑)。歌舞伎座でやったときは、歌舞伎の役者さんもご覧になったり、そういう形で結構交流もありましたね。

SKDドラマ・グループ


神山 SKDには国際劇場もあったころから、ドラマ・グループというのがありました。それは星野和彦さんがやってらっしゃいましたね。
甲斐 はい。
神山 ドラマ・グループで上演したのは『女だけのイヨネスコ』[一九七五年九月、渋谷ジァン・ジァン、星野和彦は演出:星野隆英としてクレジットされている]や、『女だけのカモレッティ』[一九七七年四月、渋谷ジァン・ジァン。甲斐氏は参加せず]。
甲斐 私ね、SKDに入ってからもお芝居の方が好きだったんですけど、このイヨネスコの芝居がちんぷんかんぷんで、何が言いたいのかちっとも分からなくて、分からないまま台詞を言ってただけで、好きな芝居も嫌いになりそうでしたよ(笑)。
神山 分からない、そうでしょう。だって、イヨネスコなんて新劇の役者がやったって、誰がやったって、やってる当人たちも分からないですからね。
甲斐 私はドラマ・グループの作品で出たのは一本だけだったと思います。そのときの台詞でたった一言、覚えているのが「僕は卵が大好きなんだ」。それがやたらと印象的で(笑)。
神山 特にSKDの客層とは合わないですよね。ドラマ・グループは『女だけのイヨネスコ』の前に『恋伝授手習鑑』ってやっているんですけど、これは覚えていらっしゃいますか。
甲斐 いえ、これは出てないと思います。
神山 ドラマ・グループというのは、同期、先輩も一緒にやったんですか。
甲斐 春日さんが筆頭で、やりたい人を募るというわけでもなく、会社から声を掛けられた気がします。
神山 SKDはレヴュー主体だから、台詞が苦手な人もいたでしょう?
甲斐 はい。SKDに入る人は、やっぱり踊りが好きな方が多いんですね。そういう人はSKDが終わったら、辞めていく方が多いですよね。あとは踊りの先生をするとか。でも私は「SKDはいつか辞めなきゃいけない、辞めたらお芝居の世界に行きたい」と思っていたんです。
神山 そうですか。ドラマ・グループの場合は、ドラマだから、台詞ができる人を集めたということはあるんでしょうね。
甲斐 そうなんでしょうね。私はお芝居大好きだったから……。イヨネスコは堪忍して!!だけど(笑)。
神山 ドラマ・グループのときは演目選定も全部、星野さんがやったんですか。
甲斐 そうです。SKDのときは全部与えられたものをやっていましたからね。
神山 後で知ったんですが、星野和彦さんは、昭和三十年代前半、日本教育テレビ[NET。現在のテレビ朝日]にいらして、退社後フランスへ行ってアヴァンギャルドの勉強をなさった方で、更に写真家としてフランスで認められるという経歴の方です。

ミュージカル劇団への転換


神山 ここからは「松竹ミュージカル」という名称が付くようになってからの時代の話を伺います。
甲斐 ああ、二年間休演したときからですか。
神山 そうですね。ブロードウェーからの外国人の先生で、バイヨーク・リーさんがいらして、バレエは牧舞踊団の牧阿佐美さん等がいらしたそうですが、指導の仕方は全然違いましたか。
甲斐 やっぱり外国の方は、日本の先生の教え方とは真逆ですよね。いろいろ褒めて、その人のいいところを引き出していく。外国の先生は「ワンダフル」とかあらゆる賞賛の言葉を言ってくれますから、特に場数を踏んでいない後輩の人たちは、みんな自信がつくんです。私は、すごく厳しいのと、すごく褒めてくれる先生の真ん中ぐらいが好きなんですけど。日本の先生でも、その人の性格を見て、叱ったり褒めたりしながらやる先生もいらっしゃいますしね。だから、その体制に入ってからは、団員全員が伸び伸びやっていましたね。
神山 そうですか。意外ですね。
甲斐 いや、それはそうですよ。だってSKDレヴューは群舞で、揃えることに一番意識がありますから。だから、SKDの人は「自由にやれ」といわれるのが一番弱かったんですよ。
神山 それは興味深いところですね。
甲斐 [SKDの]外で仕事をするようになってから、振付でも「この何小節は自由にやって」といわれることが多くて、最初は戸惑いました。
中野 バイヨーク・リーさんの指導は、通訳の方が入っていたんですよね。
甲斐 はい。バイヨーク・リーさんが来たときには必ず通訳の方が来ていたんですけど、バイヨーク・リーさん自身はそんなにおけいこはなかったんです。公演の舞台のステージングやら演出助手みたいな事をやられてました。
中野 その方がメインということですか。
甲斐 そうですね。振付の場合は体で教えられるじゃないですか。振付の先生の毎日の稽古は、通訳なしでやっていました。
神山 その振付の先生というのはリーさんと別の外国人の先生がいるんですか。
甲斐 別にいるんです。バイヨーク・リーさんも立ち会うときはあったんですけど、ほとんどは総監督みたいなもので、リーさんがいろんな振付師の方を海外から探して呼んできてくださった。
神山 なるほどね。記録とか記事によると、劇団四季からも来たと。
甲斐 劇団四季の先生方は多かったです
神山 浅利[慶太]さんはさすがにいらっしゃらなかった?
甲斐 浅利さんは最初にいらっしゃいました。そのときのことは印象に残っていますね。
神山 バイヨーク・リーさんや四季の方や牧阿佐美さんがいらしたというのは、昭和が終わるころですか。
甲斐 平成になってからじゃないですか。休演に入って、稽古体制は平成からです。

SKDで上演されたミュージカル


神山 SKDがレヴューでなく、ミュージカルとしてやった作品の話を伺います。ミュージカル劇団への転換が決まる前の昭和五十八年(一九八三)、サンシャイン劇場でやった『ニューヨーク人間図鑑』は結構評判がよかったようですね。
甲斐 私は『ニューヨーク人間図鑑』はとても心に残っている舞台なんです。なぜかというと、ニューヨークで働くいろいろな人を描く作品で、私がゲイの役をやったんですよ。自分では悩みながらやったんだけれども、要するに私としてはそこではじけられた。今まではレヴューの男役として、ちょっと「きれいきれい」で来たところがあった。外見だけを作っていたんですね。心の中が動いてなくて、要するに外だけで演じていたのかもしれない。でも、初めて、自分の中で演じるということに目覚めた。本当の舞台の面白さを知った。舞台に目覚めたんですね。そのときの初日のパーティに川路先生と小月先生がいらしたんですよ。それで、私は「叱られる」と思ったんです。ずっと褒められたことがなかったから。小月先生はちょっと斜めに構えて、川路さんとお二人で私の所に来て「甲斐ちゃん!!今までの舞台で一番いいよ!!」と言って頂いたんですよ。もう感激!!
神山 ああ、いいなあ(笑)。
甲斐 だから、自分の中からのものが出ていたんでしょうね。そのときはゲイの役だというので、奇抜なヘヤースタイルにしたり面白い動きや表情なんかを考えてやってましたから。ファンの人は「えーっ」と思って嫌がっていたんだけど、本人は喜んでやっていたんですよ。楽しかったですね。
神山 このとき振り付けが小井戸秀宅さんですね。
甲斐 ああ、小井戸さんですね。
神山 小井戸さんはあんまりSKDはやってないですよね。
甲斐 小井戸さんは国際劇場のときから入ってこられた。男役の振付とか、いろいろされてましたね。
神山 『ニューヨーク人間図鑑』では、千羽[ちどり]さん、藤川[洋子]さんも出ているんですね。
甲斐 レヴューと違って、下級生に至るまでみんな、いろいろな役が回るわけですよ。そうするとみんなが頑張るじゃないですか。そういう舞台がいいんだと思います。
神山 それで、伸びますからね。それともう一つ、SKDでやったミュージカルというと『賢い女の愚かな選択』[平成四年・一九九二]があります。
甲斐 それは休演に入って、初めてのミュージカルですね。これは高平[哲郎]さんが演出してくださいました。
神山 これも評判がよかった作品で、高平さんとはその後もずっとお仕事なさるわけですけれども、印象が他の方とは違いましたか。
甲斐 高平さんは、優しい方なんです。根が優しいんですね。
神山 そうですか。
甲斐 『賢い女の愚かな選択』は、四十人ぐらいのいろいろな女の人がいて、恋の相談やいろいろな相談をする。私と紅エミという後輩の二人が、その女の人たちの悩みを聞くカウンセラー役。女の人がみんな私たちのところに男性の相談をしに来るというお芝居なんですが、高平さんは「男性の相談に来るのに、男の人の顔が一つも見えない」と言うんです。それまでお芝居をやってこなかったのもあるけれども、「たとえ男性の役者が出てこないにしても、男の顔が見えなきゃいけない。『こんなに好きなのに』と言ってるのに、それがただ言葉だけになってる」と言うわけ。それが印象的でした。自分たちはみんな、必死だったんですけど。
神山 この間、高平さん演出の『桂由美物語』を拝見しましたがとてもしゃれたセンスの都会的ないいものでした。そのカーテンコールで高平さんが挨拶していましたが、甲斐さんがおっしゃるように優しい感じの方でしたね。
甲斐 そうなんです。最初は台本って長めに作るじゃないですか。私たちも一生懸命台詞を覚えるけれど、やっぱり時間的なものでカットしなくちゃいけなくなるでしょう。そうすると、みんなに悪いと思われるのかとても気を使って下さって。「ごめんね、あなたが悪いから、切るんじゃないよ」とか言って下さる。優しい方なんです。
神山 やっぱり、『ニューヨーク人間図鑑』と『賢い女の愚かな選択』というのは、甲斐さんのキャリアの中でも印象深い舞台ですよね。
甲斐 そうですよね。やっぱりすべて残っているのは全部変わり目、節目の時の舞台。そういうのが印象的ですね。
神山 時代は前後しますけど、『日本ミュージカル事始め』[昭和五十七年・一九八二]は出てらっしゃる?
甲斐 出てないです。
神山 『レヴューの誕生』[昭和六十二年・一九八七]はどうですか?
甲斐 やりました。
神山 これは三越劇場で、寺崎[裕則]さんの演出ですね。ご記憶はされてる?
甲斐 はい、寺崎さんはそのSKDの舞台でも演出してもらって、あとはオペレッタにも出させてもらっていますから。寺崎さんの演出はとても楽しいです。エネルギッシュでね。口から泡を吹いて、真っ赤になって怒るから。
神山 でも、その方がかえってやりやすいですよね。
甲斐 はい。情熱がすごいです。
中野 サンシャイン劇場で上演された井原高忠さん演出の『musical show Jazz Dance SKD』[昭和五十八年・一九八三]は?
甲斐 それは私は、出てないんです。これは普通のショーですよね。そのショーのときに宮本亜門さんが振り付けに入ったはずです。私は見に行きましたから、出ていないですね。
神山 昭和五八年ですから、甲斐さんが歌舞伎座で大幹部に昇進なさった年ですね。サンシャイン劇場というのはどうでしたか。やりにくくはなかった?
甲斐 いや、好きですね。私は国際劇場は別として、サンシャインと博品館が好きなの。あと、今はなくなったんだけどジァン・ジァン。小さいんだけど、あそこがいいんですよ。
神山 観客として見ても、雰囲気がよかった。
甲斐 最初見たときは「うわっ」と思ったんだけれども、あそこは半円形になっているでしょう。私たちがステージに立っているときに中心になるところが通路なんですよ。そういうところは本当はやりづらいんです。中心が通路で、お客様がいないわけだから。
神山 ああ、そうか。
甲斐 でも、あそこでお芝居的なことをやらせてもあらったときに、なぜか集中できるんですよ。やられた皆さんが同じだと思うんだけど、ジァン・ジァンは最初に見たときは「うん?」と思うけど、やったら好きになる。あそこは上が教会なんですよね。
神山 そうそう、山手教会。
甲斐 だから、いい気が来ている気がする(笑)。集中できるんです。美輪[明宏]さんや淡谷のり子さんも長く使ってらしたんですよね。だから私も個人的に何かやらせてもらうときは、ここを使わせてもらおうと思ったら、なくなっちゃったんです。
神山 博品館劇場は、袖が狭いですよね。
甲斐 そうなんです。でも、見る方としてはとてもいいし、実際の舞台より見ている方が広く感じるの。何だか、博品館は大好きですね。
神山 サンシャイン劇場は『ニューヨーク人間図鑑』の後は、『パリ大作戦』[昭和六十年・一九八五]に出演されてますね。
甲斐 はい。それも小井戸(秀宅)さんですね。
神山 博品館でやった『銀座少女歌劇団』[昭和六十二年・一九八七]は。
甲斐 『銀座ブギウギ[カンカン娘]』とか何回かあるんです。一回だけ出ていないのがあると思う。『銀座少女歌劇団』は出ているかもしれない。
神山 そうですか。このころはSKDは組織としてはあるんですよね。
甲斐 あります。
神山 SKDの組織として最後なのは、 [博品館劇場の]『夢が最高』[平成七年・一九九五]。
甲斐 『夢が最高』はおじさん役で出てましたよ。『賢い~』でSKDのミュージカルが明けて、いくつか作品をやって、その最後が『夢は最高』だと思う。
神山 『夢は最高』は、演出は。
甲斐 山田元彦さんです。

二年間の休団、そしてSKDの解散


神山 この間、SKDは残念ながら団員がだんだん減っていってしまうんですけれども。
甲斐 そうですね、はい。
神山 甲斐さんは最後までずっと残ったわけですけれども、後輩たちもどんどん辞めていくのに不安感はありましたか?
甲斐 みんなが辞めていくことというよりも、SKDが新宿厚生年金でレヴューをやった[平成二年(一九九〇)『東京踊り きのう・今日・明日』]のが最後になったんですよ。そのとき残った人は最初は結構いたんだけれども、二年間の稽古の辛さもあって、体を壊す人とかが出てきちゃって。まあ、会社としては、うまく言えないんだけれども、SKDはお荷物みたいなところがあったわけですよね。
神山 ああ、松竹にとってはね。
甲斐 はっきり言っちゃうと、これだけ赤字続きの劇団を世間にいろいろ言われないような形で、こう何か……。
神山 うまく解散に。
甲斐 みたいなのがあったんでしょうけれども。私はずっと前向きにやってましたから。要するに、「みんなの心次第で、先はどうなるかわからない」と、後輩たちにもそういうイメージをずっと持ち続けてやっていましたから。どこかで分かっていた部分はあっても、もしかして変えられる力はあるかもしれないというので、最後までやってました。
 ミュージカル劇団として、「平成七年(一九九五)『夢が最高』の舞台を最後に解散」と決まったときも「お客様にお礼という形で舞台をやらせてもらえないですか」と言ったんです。次に進むにも、自分たちにけじめをつけるつもりで、お客様にお礼を言う意味で自分たちでやろうということになったんです。それでいろいろな寄付を集めて。
神山 それが平成八年(一九九六)博品館劇場『From SKD』ですね。
甲斐 そうですね。この時、団員は十六名になったんです。
神山 そのころは永山[武臣]さんは。
甲斐 松竹の会長でした。最後の博品館をやるときにも挨拶に行かせていただいたら、ポケットマネーで寄付していただきました。
神山 そうですか。あのころは、レヴューそのものの評価が今と違ってあまり高くなかったんですよ。日劇も宝塚も。残念でしたね。
甲斐 そうなんです。
中野 SKDの正式な解散の通達が松竹から来たときは、ある日突然来たんでしょうか。それとも事前に「もう先はない」という雰囲気が作られた上で来たんでしょうか。
甲斐 はっきりした決定的なことを言われたのはある日突然でしたけれども、噂はどんどん入ってきていたから、まあ、冷静でしたね。
神山 SKDが解散したことに対して、そのときは何か思いはおありでしょうね。
甲斐 遂に来たかと思いましたね。覚悟はしてたので、先ず形は変われどSKDの団員として最後の最後まで残った十六人が、次に進むためにしなければいけない事を考えましたね。それは長年SKDをご支援頂いた、SKDファンの皆様への最後の公演をやる事でした。
『夢が最高』の公演は、SKD最後の公演として銘打ってなかったので、団員の自主公演として、松竹、ファンの皆さん、その他沢山の方々のご協力を得て、公演の準備から稽古、本番と、十六人が力を合わせて最後の公演をやり遂げる事が出来ました。今も忘れない、最後の舞台が終わった後の十五人の下級生のひとりひとりの顔。舞台に燃焼しきった後のなんと清々しい表情。十五人の輝いた顔が今も目に焼き付いているんですよ。「あー!!本当に良かった」と心から思いました。SKDの最後の最後の舞台に立ち会った最後のリーダーとしての肩の荷をおろした瞬間でしたね。

男役から女優へ、男優との共演


神山 それでは、SKDとしてレヴュー最終公演が『東京踊り きのう・今日・明日』。そして、松竹ミュージカルとして最初の公演は、先ほど話に出た『賢い女の正しい選択』。
甲斐 『賢い女の正しい選択』は二年間稽古をやって最初に開けた舞台ですね。これは女性ばっかりの公演で、その次から男優も出演するようになったんです。
神山 青山劇場の『砂の上のサンバ』[平成五年・一九九三]や『お気に召すまま』[平成六年・一九九四]ですね。男優が出るというのは、違和感はありましたか。
甲斐 いや、私は別に違和感とかないんだけれども、私たちSKDの人たちはお芝居に慣れてないから出られる男優さんが大変だったみたいですね。
神山 なるほどね。稽古のときから相手が戸惑っているというのは感じましたか。
甲斐 『砂の上のサンバ』のとき、塩野谷[正幸]さんが「この四〇人の女の人を相手にやっていくのは大変だ」と自分でおっしゃったんですよ。「俺はできない」と(笑)。
神山 ああいう人でもそんな気の弱いことを(笑)。男優が出るようになるころから、甲斐さんは男役から女性の役をやるわけですね。
甲斐 ええ。
神山 ご自身は、戸惑いや違和感はなかったですか。
甲斐 いや、違和感はなかったです。自分自身は「変わっていかなきゃ」と必死だったから。私はSKDを辞めたらお芝居の世界にいきたいと思っていて、そこでは男役をやるわけにはいかない。いずれは女役をやらなければいけないわけだから、自分に戸惑いはなかったけれども、見ているお客さんは抵抗があったみたい。
神山 それはそうでしょうね。
甲斐 『賢い~』のときは幕を開けて最初は、私自身は評判がよくなかったんですよ。自分では必死だったんだけれど、いつも身近で厳しく言って下さる人たちが見に来たときに、幕が上がって「ああ」と思ったんだって(笑)。要するにスカっとした男役から女になって、というのもあるんでしょうけれど。舞台の立ち方でも、男役の安定感のある靴から安定感のないヒールで、しかも女役だから脚を広げるわけにはいかないじゃないですか。だから、暗くなってスポットが当たって、歌を歌っていても安定感が悪い。ふらふらしちゃうんですよ。それが慣れなくて、死ぬほど苦しかったんです。倒れそうになって「大丈夫かしら、誰か支えてくれないかしら」みたいな感じでね。
神山 そうすると、気持ちの上でというよりも、体の方がつらい、慣れないということですか。
甲斐 [女役に]慣れないというのもありますね。
神山 ああ、それはあるでしょうね。
甲斐 男役だと男の立ち方をして堂々として立っているから、日本物で着物を着ても堂々としちゃうんです。そうすると肩幅もいかつく見えたり。みんなはこうやって中に折って肩を下げているのに、それが堂々としているから、[女役をやり始めた]最初のうちは着物に着られているみたいに見えてしまうんです。
 何年かたって、松竹衣裳のいつも着付けをしている人に「あら、甲斐さん、このごろ変わったんじゃない」と言われたんですよ。けいこ着の浴衣を着ていても肩が落ちているというわけですよ。燕尾服を着て体につくまで十年かかるのと同じで、着物だってみんなそうなんですよね。
神山 そうですか。
甲斐 ええ、自分では全然分からないんですよ。
神山 要するに、女性になってきたということですね。
甲斐 由利徹さんとご一緒した『花盛り江戸っ子気質』[平成九年・一九九七]のときの舞台写真が残ってるんですが、肩がいかついの。四角という感じなんですよ。
神山 女役になって、お客さんの方に抵抗があったとお話がありましたけど、実際どうだったんでしょう。
甲斐 女に変わったら、みんなずけずけと言い出した。
神山 そうですか。
甲斐 今までは男役で、下手でも何でも、たとえ転んでも舞台の批評は甘かったですね。男役の場合は違う意味で見ている部分があるんじゃないですか。それが女になったら突然、厳しくなった。
神山 それは面白いですね、やっぱり、憧れの対象じゃなくなっちゃったんですかね。
甲斐 何か同類として、女として見るから厳しいですよね。だから逆に、私は嬉しかったですよ。
神山 なるほどね。スターとして見るんじゃなくて、共感を持って見られるようになったと。レヴューというのは共感とは別の、別世界の楽しみですものね。

様々な舞台に出演して


神山 SKDを辞めてフリーになられてからもいろいろな方とご一緒なさっていますよね。高平哲郎さんのことは前も話に出たんですけど、竹邑類さんは。
甲斐 竹邑類さんは国際劇場のときからです。とてもお世話になりました。『ダンス・ソング・ドラマ』でも何回か演出をやっていただいて。
神山 竹邑さんはエネルギッシュな方ですよね。
甲斐 竹邑先生は独特な世界があって、最初は理解できなかったんですよ、でもね、竹邑先生は一人一人のキャストのいいところ、悪いところがよく分かっていらして、役をはめるのがうまいんですよ。だから、「甲斐さん、そんな疑問を持たないでも竹邑さんの言う通りにやっていけば大丈夫だから」と誰かに言われました。その通りなんですよね。竹邑さんは演出から衣裳のことからすべてやってくださるんです。私が男[役]だったらいいんですけど、女になったらまた厳しいんですよね、竹邑さんも(笑)。「あんな歩き方しちゃだめよ」とか。
神山 『花盛り江戸っ子気質』[平成九年・一九九七]では、由利徹さんとご一緒されましたが、由利さんみたいなタイプの役者さんとはそれまでおそらくやってないですね。最初はやりにくいとか、ありましたか。
甲斐 いいえ、もうそんなのじゃなくて、必死だったのね。花園神社というところで稽古したんですよ。落語のような長屋の物語でね。私はそんなにたくさん台詞はなかったんだけど、みんなはたくさん台詞があるんです。それなのに稽古日数が少なくて「これでやっちゃうのかしら」と思ったけど、でもやっちゃうんですね。それで、[本番が始まって]中日に入って、大家さんの役をやっていた人見明さんが倒れて、私の旦那さんの役をやっていた橋達也さんが大家の役になった。旦那の役に別の人が入って、役がみんなずれたんです。「今日終演後に稽古をやりますから」と言われて、一回だけ稽古をして、もう初日をやっちゃうんです。「どうやるの」と思ったけど、何とかなっちゃうんですよね。長年の経験なんでしょうね。それに私は感動しました。
神山 あの人たちは、大衆演劇の口立てでずっと芝居をやってましたから、そういうのも苦しくないんでしょうね。
甲斐 私も橋さんに「大変でしょう」と聞いたら「ううん」と言っているから、すごいなと思って。信じられない世界だと、[フリーになって]最初にやって思いました。
神山 そうですね。
甲斐 それをやってから次は、池内淳子さん主演の『白足袋の女』[平成十年・一九九八]で、商業演劇の舞台を初めてやらせてもらいました。この舞台に出たときに、「ああ、外の世界、いろいろあるけど、いいものだな」と思ったんです。最初はどんな世界だろうなと心配するところもありますよね。でも、同じ舞台をやる人同士、みんな同じだと思った。池内さんは稽古が長くなきゃダメな人なんです。私はそういう方がとても助かるんですけど。
 『白足袋の女』のときに、齋藤雅文さんが脚本だったんです。私は初めてで、顔を合わせてすぐに本読みに入るんですよ。私は後ろの方にいて、元新派の大鹿次代さんが座ってらしたんだけど、隣にいるということもわからなかった。私はみんなの前で声を出すことも慣れてないから、どきどきしてるわけ。それで漢字を読み間違えちゃったんですよ。頭ではわかってるんですけど、花柳界を「ハナヤギカイ」って読んでしまった。それも大きな声で。
神山 大きな声で言っちゃった(笑)。
甲斐 隣で大鹿さんが「違うよ、カリュウカイよ」とか言って。それともう一つ、「手綱」を「テヅナ」と読んで、「違うわよ、タヅナ」って二回間違えて大笑いされて。間違うと、後ろの方にいる私をみんなが一斉に見るわけ。そのとき一番前にいらした齋藤さんが、私が間違うたびに、眉間にしわを寄せていたのが印象的で(笑)。
神山 そうですか。
甲斐 それで、立ち稽古に入ったら、台詞も覚えていないのに、台本を片手にもちながら、皆さんがもうその役になっていらっしゃるんですよ。女中さんなら女中さんの役にね。演劇の世界ではそれが普通なのかもしれないけど、私からしたら「何事」と思ったわけ。もう最初からできていると思ったから。
神山 まあ、花柳界の世界だったら、こういう役だったらここに座るとか、その人の格によって居どころがありますからね。
甲斐 そうなんでしょうね。でも、私としたらびっくりしちゃいますよ。私は台本を持ちながらなんか、何もできない。いろいろ不器用だから、二日目の立ち稽古から青ざめちゃって。しかもそのときは、池内さんと私が二人芸者上がりの役で、池内さんはしっかり者の芸者で今はちゃんとした料亭をやっている。私はちょっとだらしない姉さん芸者で借金したりしてるんです。私が池内さんに偉そうな態度で「マッチャンね」なんて言うわけ。
神山 まあ、役だからね(笑)。
甲斐 井上思さんが演出で、私が初めてだというのが分かっていたんですよね。だから一から十まで、演劇というものの基本的なことを全部私に教えてくださった。私はもう嬉しいから全部聞いて毎日一生懸命やっていたら、池内さんが井上さんのそばに来て、「先生、甲斐さんにばっかり言わないで、私にも言ってください」とかおっしゃるのね(笑)。そのときに、「ああ、この方、いい方だな」と思って。いい方というか、正直な方ね。前に小月先生が正直に自分を出すと言ったみたいに、いっぺんに池内さんのことが好きになっちゃって。
神山 ああ、それはよかったですね。
甲斐 [SKDの]外では演出家さんが言うものということで、役者さんはあまり人のことを言わないんですね。でも、何年か後に池内さんとは『華岡青洲の妻』でもご一緒して、そのときいろいろ注意して下さった。それがとても嬉しかったという印象がありますね。
神山 高平哲郎さん演出の『上を向いて歩こう』[平成十一年・一九九九]、私は残念ながら拝見してないんですけれども、このとき不破万作さんとご一緒されましたよね。不破さんは唐十郎の状況劇場にいた人で、今まで甲斐さんがご一緒された人とは全然またタイプの違う人だったと思うけど、二人で何か面白いポーズを取ってる写真を見ましたが、不破さんは楽しい人でしたか。
甲斐 楽しい人、すごくいい方ですね。あと、三木のり平さんの息子さんののり一さんとご一緒して、よくいろいろな話をしていましたね。
神山 『上を向いて歩こう』というのは、坂本九の歌を題材にしている?
甲斐 いえ、そうではないんです。主役の中山秀征さんが私の息子の役でした。
神山 日生劇場の『雨に唄えば』は東山紀之さん、薬師丸ひろ子さん出演で、ジェイムズ・ロッコが演出・振付、高平哲郎さん演出・翻訳・訳詞という作品にも甲斐さんはお出になっていますね。タップが有名な作品ですが、外国人演出家のことは覚えていますか。
甲斐 覚えています。
神山 日生劇場はいい劇場ですよね。
甲斐 いいですね。見る方も、出る方もいい。
神山 その後、甲斐京子芸能生活三十周年記念公演の『心ひそかに』[平成十二年・二〇〇一]があります。
甲斐 これも高平先生にお願いしたんです。
神山 このときのプログラムに載っていた、篠井さんとの対談が印象的ですね。
甲斐 これは私自身の裏と表をそのまま舞台にした作品なんですね。
神山 これが二〇〇〇年、平成十二年の公演ですから、もう十六年前ですね。
甲斐 そうですね、早いものですね。
神山 甲斐さんは『男の花道』もお出になっていますね。
甲斐 そうですね、明治座の『男の花道』は松井誠さん主演。巡業でピーターさんが主演の『男の花道』にも出させてもらっています。それから、『香華』をやらせてもらって。
神山 ピーターの『香華』は僕も見ました。
甲斐 ああ、そうですか。それから『ピーターズレヴュー』になる。
神山 『ピーターズレヴュー』は、バックダンサーに今でも日劇出身のNDTの方を使うんです。だから懐かしい感じがする。男の人の取るポーズがいかにも「日劇」という感じなんです。
甲斐 ピーターさんはいつも同じ人を使っているみたい。三十年ぐらい同じ人を使っているそうですよ。
神山 そして、舟木一夫さんの『月形半平太』。舟木さんとは一度だけですか。
甲斐 はい、一度だけです。
神山 『華岡青洲の妻』は、水谷八重子さん主演の公演にもお出になってますね。
甲斐 はい、水谷さんは『香華』でもご一緒させてもらいました。あと、何年か前に『牡丹燈籠』の巡業に行ったんですね。それは池内さんが行く予定だったんですが、池内さんがお亡くなりになって、八重子さんになったんです。
神山 そして、ダンス・ソング・ドラマ4 『甲斐京子の夢劇場in ASAKUSA』で、平成十七年度芸術祭大賞受賞。これも十年前ですか。
甲斐 十年になりますね。

国際劇場そして小月冴子との共演など


神山 ここまで、甲斐さんの足跡をたどってきました。ちょっとお聞きしたいんですが、ファンの方の気質というのは、甲斐さんから見て徐々に変わっていったというのは感じましたか。
甲斐 ファンの方というのは、私から見たら同じような気がします。ファンの方のいろいろな楽しみ方があるみたいで、「この人を自分が育てたい」というのは、今もあるんじゃないですか。
神山 たとえば、春日さんなら春日さんのファンとか、藤川さんなら藤川さんの、甲斐さんのファンというのは、それぞれ違った特徴があるんでしょうか?
甲斐 それは分からないけど、要するに人間はいろいろな波動みたいなのがあって、同じものに引き付けられる人は似たところがあるのかもしれません。私のファンの人はうるさい人、厳しい人が多い。私はSKDでは不器用で「下手だ、下手だ」とずっと注意されてきたから、お客さんにも意見を聞きたい方なんです。国際劇場のときには、長い期間やっていましたからね。初日が開いて不評でも、千穐楽までに時間があるじゃないですか。不評だと逆に何かやる気が出て、少しずつでもよくなってやろうというのが、毎日毎日の楽しみになっていくわけ。そういうのはお客さんに聞かないと分からないから。ファンの人や見た人に聞くんです。それに、うちのファンの人は言葉に発しないにしても、例えば、まずいときにはすごくブスっとして見ていたりとかね(笑)。
神山 正直ですね。
甲斐 正直な人が多い。でも、私にとってはそれは悪いことじゃないです。
神山 国際劇場くらい広い劇場で、お客さんの顔というのは分かりますか。
甲斐 もう真っ暗で分からないです。だって、その前にオーケストラボックスがあるんですもの。本舞台だって結構奥行きがあって、オーケストラボックスがあって、エプロンステージがあってお客さんだから、遠いですよ。それくらい距離があるから、ああいうお化粧になるんですね。初めて上級生の舞台化粧をそばで見た時、ビックリ!!お化けまつげというのを付けて、目を三、四倍大きくしたり、お化粧をとったら、誰が誰だかわからなくなる位!!でも、もうそれでちょうどいいくらい。特に後ろの方の客席に行って観たら、何が何だか分からないぐらいですよ。
神山 分からないですよね。
甲斐 だから私たち、群舞をやっているときは「動く大道具」と言っていたんです。
神山 いや、でも、大勢出てバックダンサーもいるというのが、グランドレヴューの大きな魅力ですよね。僕は歌謡曲のショーでもバックダンサーの踊りが大好きですから。
甲斐 やっぱりレヴューは楽しいですよね。
大原 SKDは音楽舞踊学校時代は、男役と女役は分かれてないんですか。
甲斐 分かれてないです。
大原 入団して二年目から男役をされていたとおっしゃってましたが、ご自分ではどういう男役像を目指していらっしゃいましたか。
甲斐 男役の人はみんなそうだと思うんだけど、自分の好きな、理想の男の人を演じると思うのね。ほかの映画俳優でも役者さんでも[見て]、顔や外見的なものだけじゃなくて、中から出てくるもの。自分の憧れの男らしさをやりたいと思うんでしょうね。
中野 先輩の男役を見て、「あの人のような男役をやりたい」というのもある?
甲斐 それも真似します。いいと思ったものは全部真似します。私の場合は小月さんの物真似をしていた。そうしたら、団長に「お前、真似するんじゃない」とか言われちゃって(笑)。
神山 でも、真似したくなるのは分かりますよ。僕らのようなただのお客さんでも真似したくなりますものね。
甲斐 そうですよね。小月先生の思い出で、巡業に行くときに、小月先生が座長で、普通私が男役の二番手なんてめったにないことなのに、私が二番手になっちゃったんですよ。「わあ、大変だ」と思いながらお稽古に入って、必死で踊りを覚えますよね。そのとき小月先生も、そのとき年齢がおいくつだったのか分からないけど、だんだん覚えづらくなるんでしょうかね。私たちより全然覚えが悪いんですよ。私たちに「お前さん、ここはどうだったっけな、教えてくれ」と言われて、私は「小月先生も覚えられなくなったんだな」と思っていたんです。そして、完全に覚えて舞台に立ったら、もう、私たちは置いていかれちゃうぐらいの大きさなんです。後ろにいても分かるんですよ。前に向かってばーっと放つエネルギーが、ついていけないぐらい。そういう人と同じ舞台に立てる事が喜び、幸せで、小月先生の真似をしていたんです。そういうところばっかりね(笑)。それで怒られました。
 小月先生に一回褒められたのは、民謡の「五木の子守唄」で私が群舞の一番トップで、ちょっとだけ小月先生と対等に向かい合って、お扇子で付け回しをする所があったんですよ。私、嬉しくて、嬉しくて!!
神山 それはそうですね。
甲斐 それは踊りではなくてお芝居的なものだったんですが、私はそういうのが好きで、ましてや相手が小月先生だったら嬉しいじゃないですか。私の中では踊りより気持ちよくできたんですよね。そうしたら、小月先生に朝のご挨拶のときに「お前さんとこうやって付け回しするときがあるでしょう、あのとき、お前さん、やるなと思ったわよ」と言われたんですよ。だから、下級生でもそういう意気込みだとか、中から出てくるものは伝わるんだなって思いましたね。私も後輩とやっていてそういうのを感じるときもありますから。だから「そういうのって全部分かるんだな」と思って、そのとき嬉しかったのを覚えています。あと、『弥次喜多』もやったことあるんです。
神山 ああ、『弥次喜多』、写真を見たことあります。
甲斐 『弥次喜多』で、私はあほな十手持ちの親分をやったの。役どころでは弥次さん喜多さんよりは偉いわけだから、小月さんよりも前に出て、十手を肩に当てながらお説教したりするんですよ。もうそれが気持ちよくて(笑)。だって普通のレヴューでは絶対できないじゃないですか。
神山 それはそうですね。
甲斐 そのときは「あんた、嬉しそうよ、すごく」とか言われて。そういうのって全部出るらしいんです。懐かしいですね。
神山 国際劇場という大きい劇場で公演をするというのはどうでしたか。
甲斐 国際劇場ができたとき、ターキーさんは「これはSKDをだめにする」みたいなことをおっしゃったんですって。
神山 ああ、国際劇場は広いですからね。
甲斐 私は、それはすごく分かるんです。国際劇場は好きな劇場ですが、SKDがまだ少人数で、小さい劇場で、外の男優さんも入ったり、女性だけでやったりしていた時期に入りたかったと思うんです。
神山 でもそれは、昭和の初めだから、ちょっと無理ですけどね。
甲斐 そう、無理だけど、その時代に入りたかったと思ったんです。国際劇場はある意味、大きすぎちゃって。レヴューで団体で見せるからいいんだけれども、一人一人が舞台の上でいろいろなものを磨くには、私は小さい劇場の方がいいと思いましたね。
神山 SKDに入ると、「何列目のどこを見なさい」とか、視線の送り方を教えてくれるわけですか。
甲斐 群舞やラインダンスの景では、目線を指示されますね。国際劇場時代、私は入団二年目から、代役に恵まれまして、色々やらせて頂きましたが、中でも一番大きな代役が二十三歳位で、「夏の踊り」で千羽ちどりさんの代役に入った時、踊りのときはまだいいんですよ。でも、一人ででべそのところからばっと出てきて、じっとして歌った時、だんだん、自分の身長が低くなっていくのを感じたんです。望遠レンズで引くみたいな感じで。自分でも「これは何なんだ」と思って、それが嫌でね。要するに空間があまりにも広すぎて、どうしていいかわからないんです。
 ある人にその事を言ったら、「いや、それを感じるということはいいことなんだよ」と言われたんです。「同じ舞台人で同じ経験をしても、感じない人もいる」と。私はまだいろいろなことを分かっていない時期から、自分の小ささを感じたんです。これを克服したいと思って、ずっとやってきたわけですよ。あるとき、一人でじっとして歌っていても空間を感じなくなってきたというのが、成長につながるんです。
神山 そうですよね。
甲斐 そうやって感じることが、私は多いんですよ。それを感じない方が、伸び伸びとできるわけですから、その時はいいのかもしれない。でも私は舞台に立って、自身の足りないものをすごく感じる舞台人なので、それをひとつひとつ克服しようと向かっていったんです。SKDのときはね。レヴューというのは、国際劇場は特にそうだけれども何しろ大きいから、空間を埋めるというのが大事なんです。
神山 それでは、長時間に及びましたので、この辺で。どうも、有難うございました。