関矢幸雄聞き書き


取材日時:二〇一六年五月十五日・二二日
取材場所:関矢氏住居であるマンションの会議室
取材者:日比野啓・神山彰・鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子
取材立会い:花輪充
監修:関矢幸雄・花輪充

イントロダクション


 関矢幸雄氏は一九二六年生まれ。海軍飛行予科練習生(予科練)を修了、海軍水雷学校久里浜分校にて人間機雷・伏龍として訓練を受ける。戦後復員し、人形劇団・青旗(せいき)舞台に参加する一方で、東京演技アカデミー(夜間部)入所、坪内士行に教えを受ける。
 一九五一年四月俳優座養成所に第三期生として入所するも、同年十一月日比谷公会堂で上演された石井漠・津田信敏らの創作舞踊合同公演で檜健次の踊りに感銘を受けて弟子入りして俳優座養成所は中退。檜の妻である藤間きよえに日舞も学び、一九五二年『地霊』で高松宮賞、一九五四年『黒い沼』で第十一回全国舞踊コンクール・創作舞踊部・一位(文部大臣奨励賞)を受賞するなど、舞踊家としてキャリアを積む。
 一九五七年七月東宝『パノラマ島奇譚 夢の国虹の島』に振付として関わったことから、『金色夜叉』(一九五八年二月)、『オンボロ天使』(一九五八年七月)など、菊田一夫による一連の東宝ミュージカルの振付を担当するようになる。といっても当時の俳優たちで踊れる人たちは少なかったから、俳優の動きや位置を決めるのがもっぱらだったという。その後も一九六三年九月『マイ・フェア・レディ』など、東宝ミュージカルでの仕事を続ける。
 一方で、一九五七年十月に上演された『怪しき村の旅人』を振付・出演したことから青年座とも縁ができ、一九六二年四月新劇合同・東京大阪労演による福田善之作『真田風雲録』の振付を担当するなど、新劇や独立系での仕事も増える。一九六五年十二月俳優小劇場の新人公演『宴』では作・演出・装置・作曲を担当し、「動きと音による劇的表現の客観的認識、又は舞踊表現と演劇表現の間」を目指した。いずみたく率いるオールスタッフプロダクションでも、『ふうてん』(一九六六年十一月)『聖スブやん』(一九六八年七月)など次々と振付を担う。
 だがなんといっても、関矢氏の仕事で一般にもっともよく知られているのは和製ミュージカル映画『君も出世ができる』(一九六四年・東宝)の振付だろう。プロダクションナンバーの「アメリカでは」では、ペンキ屋に扮した泉和助・高見映がマシンガンを構えながら銃声のかわりにタップを踏む、当時の平均的な感覚からするとウルトラモダンな振付(元ネタは『トップ・ハット』のフレッド・アステアだ)を関矢氏が自家薬籠中の物としていたことを示す。
 その後も日劇や東宝『屋根の上のヴァイオリン弾き』(一九六七年九月)などでの振付の仕事、長門美保歌劇団によるオペラ『ボッカチョ』(一九七七年七月)などでの演出の仕事を請け負う一方で、七〇年代になると劇団風の子演劇研究主任スタッフとして、「遊びのなかの演劇」というテーマで児童劇の可能性を探求するようになる。一九八四年には素劇舎を設立、劇の素、表現のはじまり、あるいは、はじまりの表現、それは何だったのか、どこからはじまったのか、などを探求し、暗示するものなしで表現する、表現者と観客だけで成立する演劇を目指すようになって現在に至る。このような「素劇」の方法論は、劇団一九八〇の公演などで実地に応用され、この聞き書きの直前の二〇一五年二月にも、「素劇 楢山節考」の構成・演出を担当するなど、九十歳を超えても現役で活躍している稀有な存在である。その表現理念は初期から一貫して「動きと音による劇的表現の客観的認識、又は舞踊表現と演劇表現の間」を目指すことであったことはいうまでもない。
 聞き書きは関矢氏の健康を考慮して、二回に分けて行われた。関矢氏の次男であり、東京家政大学教授の花輪充氏には取材に立会っていただき、またその後の原稿にも目を通していただくなど様々な点でお世話になった。この場を借りてお礼を申し上げたい。ご高齢ということもあって、「暴力舞踊家」とかつて称されたこともあるというその片鱗は全く伺えず、終始穏やかにお話しいただいたが、自分の表現の方法論のことになると少年のように目を輝かせて語られ、若き日の熱い情熱を未だに失っておられないことがわかり嬉しかった。(日比野啓)

「浅草育ち」の舞台人


日比野 本日は、関矢先生のこれまでのお仕事の中でも、商業演劇を中心にお話をうかがいたいと思っております。先生は、戦中は人間機雷伏龍としての訓練を受け、復員後は人形劇団で、一九四六年に高田藤三郎や北田正武によって創立された青旗(せいき)舞台に参加されました。また、小学校の教員をされながら、東京演技アカデミーで坪内士行先生に学ばれたそうですね。
関矢 そうです。青旗舞台というのは美術家集団で、ほとんどが美術家で朝鮮の方から帰ってきた方たちでした。洗足池の側にあったドイツ人か誰かが住んでいた屋敷、「化け物屋敷」なんて呼ばれてましたけど、そこへみんな復員してきて、二階の部屋でそれぞれ暮らしていた。模型飛行機をつくる、ドラマもよく書いていたのでも有名な北村小松もいました。私は軍隊生活や学校で、日本的な集団行動ばかりやってきましたから、芸術家集団なんていうのは、全然違った世界でした。自由だかなんだかわからない、そこにいたと思ったらもういない、集まっているんだか離れているんだかもわからない。芸術について語り合うということもなく、ただ、作品をつくって、穏やかに暮らしているんです。
 それで、銀座の美術倶楽部だか、絵画の展示会をやるところで人形劇をやらせてもらったんです。その時に集まっていた連中、名前はもう思い出せませんけど、観客と観せる側とのいろいろな対談も面白くて。もちろん戦争の話なんかしない。何かひとつの作品が面白い、面白くないというような表現の世界の話。そういうことにいちばん影響を受けました。
神山 予科練に入る前から芝居はお好きだったんですか。
関矢 私は両国の震災記念堂の隣にある安田工業学校に行っておりまして。当時の中学校というのは非常に自由だったんです。生徒にも講釈師の神田ろ山の息子がいたり、浅草が近いこともあって、いわゆる芸人風な雰囲気があった。だから学校の帰りに浅草に行くと、まず寄席に立ち寄って。学校に入ってすぐ「明治一代女」なんて歌を覚えましたね。「浮いた浮いたと浜町河岸に……」なんて、そんなのをみんなが歌ってるんです。私はその頃は今の品川区、荏原区に住んでいましたから、比較的山の手です。それがいきなり、両国の江戸っ子の子どもたちと一緒になるんですから、非常に面白い中学時代でした。しょっちゅう浅草に行ってエノケン、ロッパを観たり。それから大人のチャンバラ。学校帰りといえば、浅草に行くか、そうでなくてもそんな話を誰かに聞くか。今でもあるらしいですが、松竹座という芝居小屋の側にびっくり食堂というのがあったんです。そこへいくとなぜか金がなくてもカレーライスが食べられる(笑)。まぁ、誰かが出してくれたんでしょうが。ですからお腹が空いたっていうと、四、五人でそこへ行って、カレーを食べて芝居を観て、講釈師のお父さんや何かに会って話を聞いたりなんかする。職人の親方の子も何人かいましたから、家から出る時にはおかみさんが火を打つような、昔ながらのきちっとした家も多くて、日常が芝居みたいなところもありましたね。そういう影響もずいぶん受けていると思うんです。実は最初は海軍の学校へ入ろうとも思っていたんですが、そこに落ちて、安田工業へ入ったのが、私としてはいちばんよかったことなのかなとも思います。浅草には当時、永田キングなんてアメリカ帰りの芸人なんかもいて、日本人の芸とはまったく違うモダンな表現をしていました。そういうものを観て楽しんでいましたから、浅草へ行ったのか、安田工業へいったのかも分かりませんが(笑)。
日比野 では、おうちのご両親自体は堅い方だったんですか。
関矢 いやもう、おやじもおふくろも芝居は大好きで。越洗社っていう洗濯屋なんです。越後から出てきたので、越後の越に、洗う、社と書いて。出入りしていたお客さんの中に新渡戸稲造という人がいて、そこへ行くと「君の店の名はすごいよ。エッセンスにも通じる」とえらい褒められたそうです(笑)。ともかく、両親とも洗濯業なんだけど、なぜか芝居は好きで、ちょうどその頃関西から来ていた曾我廼家五郎を観て、笑いながら泣いてるんです。だから「そりゃすごい芝居なんだろうな」と思いましたし、そのうちに私も「やっぱりうまいんだな、この人たちは」と分かるようにもなりました。
神山 国際劇場にもいらっしゃいましたか。
関矢 ええ、それはもっと後のことですけどね。
神山 というとやはり六区の方が良かった?
関矢 私らの頃はターキーが国際劇場に出ちゃった頃ですかね。私の場合は、妹が宝塚の大ファンでしたから、ターキーよりかは宝塚でした。
日比野 それはお母様が連れていかれたんですか。
関矢 最初はそうですね。その母がいちばん好きだったのは新派で。あれ、きっと泣きにいってたんでしょうね。芝居を観ては泣いて、さっぱりするというような。ですから子どもながらに、浜町の明治座に連れていかれたりしたのを覚えています。

ランドリーボーイから演劇青年へ


日比野 ご両親の影響、それから中学時代の浅草体験を経て、戦後は東京演技アカデミーに入られるわけですが、その時にはもう、俳優を目指そうというお気持ちがあったということですか。
関矢 いや、そうではないんです。兵隊から帰ってきたら家も焼けてしまって、両親がどこに行ったかも最初は分からなかったんですね。ただ、生きているということは書いてあったので、戦友の家に居候して。そのうち再会できたんですが、父も母も焼夷弾の直撃を受けて、親父はほとんど全身の皮がむけちゃったような状態。おふくろは足をやられて。そんな具合だけど、どうにか親戚の力もあってまた洗濯屋を開業したら、進駐軍の仕事が入ったり、わりといい仕事が続いていたんです。だから私は、東京駅のホテルの仕事を、叔父と一緒にまわってやったり。そんな中、星製薬という会社がありまして。
日比野 作家の星新一の。
関矢 そうそう。そこを進駐軍が接収していたんですが、その仕事を私が受けて、父の店のランドリーボーイ、洗濯の出張所をやっていた。予科練から帰ってきて、敵だった米兵の洗濯物を集めていたんです。これは文化の違いなんでしょうが、ものすごい汚して、汚したから出した、というような言い方をするんですよね。やっぱり恥ずかしさや何かがあっていいはずなのに、いきなりバンと出してきますから。私も若かったし、やり合うようになって、すぐに辞めさせられました(笑)。でも、そんな経験や、ほかにも市ヶ谷の国際軍事裁判所にオート三輪で洗濯物を運ぶ仕事をしていたこともあって、やっぱりアメリカ人と喧嘩相手になったり、仲良くなったりするわけです。そうするうちに、向こうの音楽、それから映画を観るようになりました。映画はスゴい。全然レベルが違いましたね。『素晴らしき哉、人生!』(一九四六)なんて観て、大感動して、これは早く勉強しなくちゃと思った。それで演劇もいろいろなものを観るようになりましたね。いちばんビックリしたのはソーントン・ワイルダー。確か文学座だったと思うんですけど。
神山 『わが町』をその頃やっていたと思います[初演は一九四一年七月文学座・国民新劇場。演出:長岡輝子。戦後の第一回再演は一九四八年六月・日劇小劇場。演出:菅原卓]。
関矢 そうです。ちょうどその頃[当時文学座研究生で、一九五六年より演出部に所属、のち劇団NLT・浪漫劇場を旗揚げする]松浦竹夫(一九二六―一九九八)と知り合いになって。松浦が書いているのを読んで、何本か観たりしていました。「ワイルダーは若い頃、中国の演劇に影響を受けたらしい。どうもそれがもとになっているんじゃないか」というので、中国の芝居にもすごく興味を持つようになりました。その後何年かして京劇が来日したのを観てびっくり仰天しました。後になって中国で崑劇を観る機会もあったんですが、あれも驚きましたね。お茶を飲みながら観るというスタイルにもビックリしましたが、ものすごく大きなものを単純なやり方で表現しているんです。だから、私自身も、とにかく自分で考えて舞台をつくっていくしかない、という時に、どこから考えるか。散々悩んだ末に行き着いたのが、子どもに見せる芝居を考えなきゃダメだ、ということだったんですけど、それに気がついたのも、中国の演劇に関心を持ったことと関係があると思っています。
 この七月に九十歳になるんですが、また芝居をやるんです。昨日も稽古をしていました。もちろんこの歳になると身体もガクンと利かなくなってくる。それはちょっと辛いけど、やっぱりできるうちは芝居がいちばん面白いと思う。だいたい私が「やりたいな」と思うところまでは近づいていると思います。これも、子どもに観てもらう児童劇です。
日比野 復員され東京演技アカデミーに入った頃からすでに児童劇に関心を持たれていたんですか。
関矢 そのときは思っていませんでしたが、いろいろやればやるほど自分の子ども時代を思い出したんです。それでやっぱり子どもの時に体験することが大事じゃないかなと。大人と一緒に芝居を観る機会が大切ですね。

多彩な恩師たち


鈴木 東京演技アカデミーには、熊倉一雄さんもいらっしゃったそうですね。
関矢 一緒でしたね。いつも人が集まってくる、いい人ですよ。もう一人、名前は忘れちゃったけど、ものすごくいい声の俳優がいて。早く死んじゃったんですけど。
日比谷 熊倉さんは、楽劇科に通ったとお話しくださったんですが、先生は何科だったんでしょう。
関矢 私は勝手に舞踊科だと思っていますけどね。[舞踊家の]檜健次(一九〇八―一九八三)先生もそこにいらっしゃいました。
日比野 そうすると東京演技アカデミーの中には舞踊科、楽劇科、そしてストレートプレイを主にする俳優科のようなものがあったということですね。
関矢 そういうふうに分かれていた覚えはないんですが、だいたい自分の行きたい講義に出るんです。檜先生の授業が週に一日だとすれば、あとはもう付いてまわる。
日比野 いわゆる鞄持ちのような?
関矢 そうです。先生は「鞄持ち」なんて扱いはしませんでしたけど。ただ、一緒に話をして歩くんです。
日比野 生徒さんは何人ぐらいだったんですか。
関矢 少なかったですね。二、三十人はいたと思います。東横線の都立大学だったかな。すぐそばに江口隆哉の舞踊研究所があるの。丘の上にダーンとそれが建っていて、そのふもとに使わなくなった工場があって、そこを校舎に使っていました。坪内士行先生が来ると、みんなワッと前に集まって。落語を聞いているみたいに楽しい授業でした。
日比野 この東京演技アカデミーは一年あまりで潰れてしまったそうですね。
関矢 そうなんです。いろいろな問題があったらしいんですが、やっぱりボスのような人がいて、その方と坪内先生たちとの間がうまくいかなくなったようです。
日比野 関矢先生はその後も坪内先生と交流されますよね。
関矢 坪内先生がいちばん、私にとって、舞踊家としての支えになることを言ってくださいました。いつも笑いながら話を聞いて。聞いているとまた落ち着くんですね。奥さんは元宝塚の方で。今でもお元気かな?
神山 数年前にお亡くなりになりました。百歳近かったかと思います。娘の坪内ミキ子さんはお元気ですね。
関矢 そうですか。小川町アパートの家に呼ばれていって、お酒をごちそうになったりしました。坪内先生が「君ね、賞を取ったことある?」って聞くんです。「賞を取ったらいろいろ[挨拶回りに]行かなきゃいけないところがある。そういうことを知ってる?」って。「全然知りません」と言ったら「そうなったら僕が案内するから」と約束してくださって。その後初めて舞踊コンクールに出て賞をもらったんです。私と家内[舞踊家・花輪敏子]で踊った作品[『黒い沼』]で[一九五二年・第九回全国舞踊コンクールにおいて]。そうしたら約束通り、「どこへ行けばいいか、ついていってあげよう」って、いろいろしてくれました。それですごく助かったんです。賞をもらったといったって、喜んで賞金を使うというわけにはいかないんですね。結局は舞踊協会というところにお返しすることになるんです。お金は手つかずで、お祝いの会が続くし、日舞の何先生、何先生って、挨拶にうかがう順番もあって、それもバカにできない。
神山 先生のお話を聞いていると、ただ単に授業で習うというのではなく、昔の徒弟制度のように、一緒にいろいろなところに行って、話を聞いたり、体験するっていうのがつくづくよかったんだなと思いますね。今はそういうのはいけないという雰囲気もありますけど。
関矢 私が小学校三年生の時に九州から若い先生がみえてね。「田中熊造」という、私はそれを本名だと思っていたけど、どうも誰かが勝手につけた渾名らしいです。で、この先生がある日突然黒板に「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んべからず。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声」って漢文を書くんです。「これは歌です、詩吟といいます。みんなも私のあとについて唄ってください」といって。それで、みんなでこれを暗唱しましました。そうしたら後になって、僕だけ、先生の明治大学の同級の友達が兵隊へいくときの壮行会の余興の芝居に「小学三年生」という役で出されたんです。「君、あの詩吟を唄ってくれたまえ」と。それで「あぁ、ここで歌うために仕込まれたんだな」とわかりました。でね、この詩吟を、僕はもう九十歳になる今も唄えるわけです。ちょっと前まで漢字でも書けた。先生本人は勝手にやっていただけでしょうが、教育というのは面白いですね。だから勉強の教え方も、今のやり方がよいのか、昔の方がよかったのか……何もかも時と共にだんだんよくなるわけじゃないなと思いますね。

「舞踊家でいく」まで


日比野 松浦竹夫さんとはどういうふうにお知り合いになったんですか。同い年でいらっしゃいますよね。松浦さんは一九五〇年に文学座に入られていますが、先生とお知り合いになったのはそれより前ですよね。
関矢 そうですね。東京演技アカデミーの後、私は俳優座の三期に入りました。で、やっぱりああいう芝居をする人たちには、すぐに飲み会があるんですね。そこで出会ったんです。面白い話をしているな、と思ったのが松浦さん。ただ、あの人は海兵ですから上からなんです。海軍の話をしていると突然偉くなっちゃう(笑)。軍では上だというので。それで「私は終戦の時には伍長だった」とか、それでこっちは「俺は伏龍だった」とかなんとか威張り合って。私は実施部隊でやってきたと話したら「そんなことよくやってきたな。誰だこんなことを考えるのは」と。俺たちも不思議でしたけどね。軍隊は辛かったけど、半分は遊びみたいなとこもあったんですよ。(松浦のように)海軍で大勢の中でやっていくのにはまた違った辛さもあるんでしょうけど、伏龍は役が決まっていますから。六十メートル間隔で自分の居場所をつくって、そこに潜る。だいたい一日十二時間くらい。潜水服着て、ただ潜って、棒の先に機雷をつけて水陸両用の船が通るのを待っている。頭の上に船が来たら、それで爆破するっていうんですけどね、ついに一回もないんです、それで成功したことは。それより前にみんな爆撃でやられちゃう。完全に無駄なことでした。でも、おかげで海の中でタコを採ったりして遊ぶことも覚えて。それは面白かったな。
日比野 俳優座劇場の養成所に入所されたのは、一九五一年の四月ですね。同じ三期生には、愛川欽也さんや安井昌二さんなど、そうそうたるメンバーがいます。
関矢 有名な俳優もずいぶん出ましたよね。全部知ってるんだけど、「やぁ」「ああ、そう」とか「うん」くらいの話しかすることがなかったんです。とにかく子供っぽくてね。
神山 先生とは年の差がありますからね。俳優座時代に青山杉作さんや千田是也さんとはあまり交流されなかったですか。
関矢 千田先生にはその後もずいぶんお世話になりました。たくさん仕事をさせてもらって、ブレヒトもやりました。青山先生とは、非常に穏やかに話をしたという思い出だけですね。
神山 青山さんはタクトを振りながら指導されたそうですね。
関矢 そうでしたね。「全体に流れているものを感じるか」としょっちゅう言われました。ただ、私は感じられないもので(笑)、「どうしたらそれが分かるんでしょう」と聞いたことがあります。そうしたら、「舞台というのはそこにあるいろいろなものを感じることが大切なんだ。たとえば公園に行くと君、感じるだろう」とおっしゃった。それはそうですね。日比谷公園なんて、人もそれほどいないし、東京新聞社で舞踊コンクールが始まったところでもあって。あの頃は綺麗だったんです。先生は「舞台でもそれを感じるだろう、君は」というんですが、舞台では感じなくて(笑)。
神山 俳優座の養成所でも、バレエのレッスンはあったわけでしょう。
関矢 ええ、真木竜子さんがいらしていました。あの方も一生懸命されていましたけど、クラシックバレエの基本は辛いし、疲れますね。簡単に言われちゃうんです。「あんた、足の甲が全然出ないじゃない[足の甲の部分が盛り上がるようになっていると美しいとされる]。ダメね」って。男で足の甲が出るなんていうのは少なかったですけどね。
日比野 俳優座養成所に入所された年の十一月に、先生にとっては決定的な転機となる、檜健次さんの作品をご覧になったそうですね。それですぐ養成所はお辞めになったんですか。
関矢 養成所に心理学者の南博さんが講師でいらっしゃってたんです。で、私が考え事なんかしていると「おい、何を考えてるんだい」なんて声をかけてくださって。「いやあ、このまま俳優座で勉強し続けていいものかと考えていました」と言ったら、「どこか行きたいところはあるのか」と聞かれたんです。それで「何か動きの勉強をしたい」と答えたら「舞踊の方へ行くといいよ」と。どうしてかというと、三十までに体を鍛えれば、役者は楽になれるから。舞踊は今からやっておかなきゃ、というんです。それで檜門下に入って最初に出た『地霊』という作品が賞をとった。男三人で踊る作品で、私はまだ先生のところに入って三か月でしたけど、海軍体操の選手でしたから。海軍体操は全身を使う動きなんです。それが役に立ちました。ちょうどその時に俳優座でも何か芝居をやるということになって、さぁ、困った、どうしようかと南先生に相談したら、「舞踊家になった方がいい」と言われたんです。
日比野 ということは『地霊』で賞をとったときにはまだ養成所に在籍されていて、二足のわらじをなさっていた。
関矢 そうそう。私はほとんど出席しなくて、月謝滞納、出席日数不足で二年でやめることになったんです。
日比野 その後の一九五四年[・第十一回全国舞踊コンクールにおいて]、『黒い沼』で賞をとられるということなんですね。
関矢 そうなんです。あの頃は若い人を教えたり手伝ったりして、一年に一作、三分半くらいの踊りをつくっていました。それで結構いろいろな人が賞をとってくれるので、これは面白いなと思ったんです。そのうちに今の家内と結婚したのを記念して『黒い沼』をつくりました。それが高松宮賞というのをもらったんです。それで「じゃあもう、舞踊家でいこう」ということになりました。

振付家デビューの頃


日比野 一九五七年の七月に『パノラマ島奇譚』で振付をされますが、これは青山圭男さんからのご紹介だそうですね。
関矢 ええ。青山先生というのは、私らにとっては、遥か上の人でしたから。青山先生とは何者かということも知らないんですが。ただ、ある種の先輩からは「気をつけろよ」なんて言われましたが、それすらどういうことだが全然わからなかった。
日比野 手を出されないように……ということですね。
関矢 そうです。ただ、私はやっぱり海軍気質というのか、何かいやらしく感じるようなことがあれば「貴様、何をするか」とぶん殴ったりする方だから、むしろ警戒されていました。朝日新聞かなにかに「暴力舞踊家」と出たことがありますよ。舞踊界のなかでも、何かといっては一杯飲んで、喧嘩になってたんです。私がちょっと乱暴だったんでしょうね。鼻血が出たとか歯が折れたということもしょっちゅうあって。それで新聞に書かれた。「今後一切そういう手を使わない」というような念書を書いて、舞踊協会のみんなの前で謝りました。
日比野 『パノラマ島奇譚』のスタッフクレジットには、青山圭男のほかに、益田隆と渡辺武雄の名前があり、先生のお名前は出ていないようです。
関矢 そうかもしれませんね。だけど、あの作品では突然デカい場面を任されてびっくりしました。
日比野 益田隆さんとお仕事された記憶はありますか。
関矢 ずいぶんありますよ。ただ、場面は違うんですよね。だいたいは青山先生が中央のスターが引き立つような場面を担当されて。私はもっと大勢を動かす群舞で、というふうに決まっていましたから。その頃ステージングと言っていましたけど、どういうふうに人間をさばきつつ、役を生かすか。いろんな人間が一気にわーっと出てくるような場面をつくらなきゃいけない。浅草の芝居をずっと観ていた影響か、やっていて面白かったですけどね。
神山 そういう場面に出てくる方々は、踊れはしないんですよね。
関矢 ほとんどできないですね。だから、台詞はないんだけど、前の芝居の流れが生きてくるようにつくりました。そうすると役者も乗りますから。
日比野 演出は菊田一夫ですが、どんな印象をお持ちですか。
関矢 菊田先生はありがたかったですね。「まず、この場面を考えてください」と、まかせてくださるんです。それで、「こうしたい」って話すると、時には大笑いしてくれたりして。「それはいい、やってください」と。ですからこの頃には『雲の上団五郎一座』(一九六〇)だとか、ずいぶんいろいろやらせてもらいました。
神山 『パノラマ島奇譚』『雲の上団五郎一座』といえば、エノケンですよね。当時はすごく偉い人という感じでしたか。
関矢 僕は子供時代から大ファンでしたから、そういう気持ちが出ちゃうんですね。エノケンさんの具合が悪くなった時に、車の上でなら出ていいというので、僕はその構図が目立つような構成を考えたんです。そしたら突然「私はこういうのは大嫌いだ。私なんか出ないでもいいんだ。出るんだったら、いりゃあいいんだ」とおっしゃいました。「あぁ、すみませんでした」と思いましたね。それでエノケン一座の古い二枚目役者に「小さいときからファンだったと話さなきゃ」と言われましたが、「そんなことは今は言わずに結構です」と。もちろん、大ファンで、エノケンがいたからこそ浅草にも行ったという事実はありますけど。そのうちエノケンさんは亡くなられたので、やっぱりそれきりになってしまいました。喜劇でもなんでも、人と出会い、影響を受け、また別れる……そういうものなんだと実感しました。古川ロッパさんにしてもそうです。ロッパさんも最後は怒ってばかりいて、東宝でもほとんど役がつかず、飲んでばっかりいました。どうしてこういう人を使わないのかとも思ったけど。
日比野 同じ年の十月、青年座の『怪しき村の旅人』で初めて、振付として先生のお名前が出ます。これは、俳優座養成所時代のつながりでなさった仕事ですか。
関矢 原作は武田泰淳ですよね。この作品には愛着があって、いつかまたやれたらと思っています。当時はわけがわからないままやっていたけれど、今になると確かに日本というのは怪しき村だな、ますます怪しくなってきているなと感じますから。
日比野 先生は幽霊の役で出演もされています。
関矢 そうです。舞踊家が何人か出てやりました。
神山 音楽はペレス・プラードです。当時はラテンの全盛期でしたが、本人は来日したんですか。
関矢 成瀬昌彦が惚れ込んじゃって。「とにかくこれを聞いてよ。これでやってよ」と電話してきたんです。
神山 ペレス・ブラードの曲は日劇でもよく使われていました。何度も反復できるし、やめるときは途中でぱっとやめられるから、振り付けしやすいという話を聞いたことがあります。
関矢 そうなんですよ。ちょっと妖しい感じもありますし。
日比野 この頃からさらに商業演劇のいろいろな方とおつきあいされていくことになりますね。たとえば『金色夜叉』(一九五八)でご一緒された有島一郎さんや三木のり平さんはどんな方々でしたか。
関矢 有島さんも三木のり平さんも、あんなに笑わせるお芝居をしていても、根はものすごく真面目ですから。仕事もやりやすい面と、両方ありました。
日比野 真面目すぎて困っちゃうというようなことですか。
関矢 そうです。

踊らない俳優、踊らないミュージカル?


日比野 この時代の新劇ではミュージカルをやるのがちょっとしたブームになっていました。一九六二年には『真田風雲録』に参加されます。
関矢 新劇合同で雰囲気もよかったですね。作曲の林光さんも含めて、とにかくみんな千田先生をすごく信頼していて、まとまりがあった。私なんかはむしろ「あんまり勝手なことやらないでくれよ」と注意される方でした。別に勝手なことをやるつもりはないんですけど、「ここのところで何人出るのをお願いします」なんて任されるとつい。役者も「何かやらせてください」っていうしね。バク転だとかいろいろやると客は喜ぶわけですけど「こんなところでバク転はいらないんだ」「ごめんない」なんてことがよくありました。『真田風雲録』は映画もあって、それもやりました。福田善之さんはよくあんな、非常にしっかりした本を書かれましたね。あれ以来ずっと、真田一門の人気は続いているじゃないですか。猿飛佐助と霧隠才蔵は最近出ないけど。
神山 本当にそうですよね。当時の新劇の役者の動きというのはどういう印象でしたか。
関矢 動くのはダメでしたね。嫌がっていました。
神山 やっぱりそうですか。最近、仲代達矢が読売新聞に回想録を書いていたんですが、やっぱりバレエのレッスンは出なかったとありました。佐藤慶なんかと一緒になって「俺たちは俳優になるんだから踊りなんてどうだっていいんだ」と、全然体の動きを稽古しなかったそうです。
関矢 だから私が動きをつけにいくというと、みんな無視しましたよ。「私はいいです」なんて言われて。
日比野 バク転したりトンボを切ったりという話もさっき出ましたが、先生は、子供の頃から歌舞伎はご覧になっていたんですか。
関矢 よく観ました。やっぱり歌舞伎のギバ[立ち回りで、投げられたり蹴られたりしたときに、飛び上がって尻もちをつき、足を開いて前に投げ出す動作]で、パーンと座ったりなんかするのを盛んに練習しました。ああいうのは面白い。下手に練習すると怪我しますけど、バク転や宙返りも基本としてやっとかないとダメだと思います。歌舞伎の人は大変ですよね。鬘をつけたままパッとまわるというのは、普通とはバランスが違いますから、頭の引き方で調整しないと……。
神山 そうそう。今でも時々、鬘が飛ぶことがありますね。
関矢 ねえ。ああいう技を身につけるには時間が必要なんですよね。
日比野 新劇の俳優さんたちは歌舞伎はそれほど観なかったでしょうし、バク転やトンボがお芝居だというふうにはなかなかならなかったでしょうね。
関矢 ならないね。だけど、それじゃ今は、これからはもっと、困っちゃうでしょう。今ごろ慌ててやっているかもしれません。
神山 さきほどお話に出た青山杉作先生は、ずっとSKDの演出をやっていたでしょう。俳優座の中にはそのことをバカにするような人も多かったそうですけど、その感覚とも通じるようなところはありますね。
関矢 そういう雰囲気はありました。
日比野 同じ一九六二年に椎名麟三の『われらの同居人たち』で、いずみたくさんの作品に参加されます。そしてその後も、オールスタッフ・プロダクションで、いずみさんとのお仕事をたくさん手がけられますが、いずみさんにはどういう印象をお持ちでしたか。
関矢 あの人は何もしないように見えるけど、天才でした。「どうやって曲ができるの?」と聞いたら「車を運転してると浮かんでくるんだ」って。「浮かんだものは消えちゃうじゃん」と言ったら「いや、ちゃんと残るんだ」と言ってました。へぇと驚きましたね。一度浮かんできたメロディーはいつでも思い出せるそうです。いったいどういうことになっているのか。みんなで「天才だ」と言い合いました(笑)
日比野 ご自身がミュージカルにかかわることについて、どうお考えだったんですか。舞踊家としての仕事とは別に考えていらしたんでしょうか。
関矢 僕は言葉はわかりませんが「すごいな」と思うのは、アメリカのミュージカル映画の舞踊です。アステアの映画なんか観ていても、あの踊りが出てくることで、何かもう、わかっちゃうというか。すごく深いところまで感じるものがある。ああいう表現については、日本は劣っているし、勉強しないとダメだなと思いましたね。日本だとどうしても日舞的な、言葉の意味を表現する踊りになっちゃう。
日比野 この頃は日本でも独自のミュージカルをつくっていこうという動きがあって、いずみたくさんはその急先鋒になっていくわけです。関矢先生としても、そうした意識はお持ちでしたか。
関矢 それをやろうということで、いずみたくさんともずいぶん話したんです。でも、反対意見の人たちも強力にいたんです、いずみさんの周りでは。だからあんまり僕とは合わせないようにしていたと思います。ご本人がということではなくて。
日比野 日本のミュージカルはどちらかといえば、歌ものミュージカルの方を積極的に受容してきましたから。アステア=ロジャースは、日本人の中にも好きな人は多いですが、特に当時は、ダンスミュージカルというものに対しての感受性があったわけではないと思います。ですから、いずみたくさんのようなメロディーメーカーが、ミュージカルをつくられること自体にも反対される方はいたでしょうし、ましてや先生のようにダンスについて深く考えていらっしゃる方とのコンビというのは、望まれなかったのかもしれません。いずみたくさんなら、メロディーで売っていくべきだと考える方の方が多かった。
関矢 そうですね。いずみたくさんと別れざるをえなかったのは、そういうことだったと思います。

『マイ・フェア・レディ』、喜劇俳優たちの素顔


日比野 そろそろ『マイ・フェア・レディ』の話もお伺いしたいのですが、先生は一九六三年の初演から参加されていたんでしょうか。
関矢 そう。最初からですね。全く、なんのイメージも持たないうちに、いきなり、「これをやるんだ」と知らされたんですが、題名を聞いても知らないんです、こっちは(笑)。資料ったって、ときどき送られてくる写真ぐらいで、どういうものかもわからないまま、つくっていましたね。でも、僕の中では、ミュージカルであの作品を超えるのは、ついに出てこないですね。もちろんいろんなミュージカルがありますけど、作曲から何から、スケールが大きいですね。滝弘太郎と「あれが最高だな」なんてしょっちゅう話していましたよ。
神山 そのときはやっぱり、菊田一夫さんも意気込みが違いましたか。
関矢 それはそうですよ。江利チエミさんと高島忠夫のコンビですから。アメリカへ行って観てきた人はみんな、「日本じゃできねぇよ、無理だ」というんです。「観てこいよ」なんて言われてもそう簡単に行けませんしね。ちゃんと江利チエミで「成功したね」なんて感動して泣いたりなんかした後で、菊田先生から「一週間あげるから観に行ってきてくれ」と頼まれて、初めて向こうで観ました。『屋根の上のヴァイオリン弾き』(一九六七)からちょっと経った頃かな。そうしたら、もう全然、すごいんだよ。驚いちゃった。自分たちはよくやったなと思いました。知らないからできた。
神山 江利チエミは歌手だし、高島忠夫も歌えたけれど、あとの人は歌えない人もいたでしょう。それに踊れる人もほとんどいなかったはずで、それでよくやったと思うんです。
関矢 そうなんですよ。
神山 益田喜頓にしても、朗読のような感じのつぶやき型の歌でしたしね。
関矢 そうです。だからみんな、マイクがなかったら何もできない。
神山 今と違って胸のところにマイクを仕込んだりしますから、動きも制約されますしね。
関矢 役者たちももともとあんまり動きたくないのを、なんとかして動かしているんですから。ただ、八波むと志はよく動きました。あの人の奥さんが私の家内と同郷で友達だったこともあって、いろいろな意味でよく知ってたんですけど、初日に事故で亡くなって。残念でしたね。
日比野 ほかの喜劇役者の方はいかがでしたか。益田喜頓さんなんかは。
関矢 動かないですね。ほかの舞台のときですが、喜頓さんではこんなことがありました。松浦竹夫の演出で、私が振付。それで、動きのだめなところを役者に伝えるわけです。私は喜頓さんがいろいろ動いて、パッと決まるときにセンターにいるように振付たんです。それで「お分かりでしょうけど、最後、右に一回まわって、パッと右足を出すとセンターに行けますから」というと、突然「お前、やってみろよ」というんです。「はあ?」と聞いたら、「お前、やってみろよ、できないから」と。それで、松浦もいるところで、口でリズムをとりながら、タッタッタッタッ、タとこうなるんです、とやってみせた。ちゃんとできているんです。そうしたらさらに機嫌が悪くなっちゃって、喜頓さんはパッといなくなっちゃった。松浦はそういうとき黙っていて、「俺がどやしてやろうか」とかなんとかいうと「よせよ、みっともないからやめろよ」と。でもそれ以来、喜頓さんは全然言ってこなくなって。言いすぎたことを悪いと思ったのか……そういうところもありました。僕が思うに喜劇役者ってものすごく難しいですよ。なんでだか怒っていて、突然機嫌がよくなったり……大変です。三木のり平さんも難しかった。
日比野 ちょっと下手なことをいうと、すぐご機嫌ナナメになってしまうと?
関矢 いったんナナメになったらずっとナナメですからね。
神山 エノケンみたいに動ける人が、健康でずっと長生きしていればよかったんでしょうけどね。でも、先生がお仕事をなさった頃にはもう、エノケンは足が悪かったんでしょう?
関矢 そうなんです。残念でした。
日比野 東宝では翌月のフランキー堺演出の『カーニヴァル』(一九六三)にも参加されていますね。演出については、実は、中村哮夫さんがずいぶん働かれたようですが。
関矢 それは記憶にないんですよね。やったような、やらなかったような……。
日比野 そうですか。当時のクレジットというのも、どういう基準か分からないところがありますから。先生が主体的にかかわった作品でも、お名前が見つけられないものもありますし。一九六四年七月の『努力しないで出世する方法』は先生の振付ですね。演出は松浦竹夫さんです。
神山 それこそ、フランキー堺主演の映画版(『君も出世ができる』)がありましたね。それも先生が振付なさっていた。フランキーは、少なくとも映画では結構動いている印象はありました。
関矢 あの人は「やってみたい人」なんですね。だから、どんどんやってみよう、ということで。後半は歴史物だとか文学臭のする方へ行っちゃいましたけど。
日比野 『努力しないで出世する方法』は、松浦さんとの初めてのお仕事だったんでしょうか。
関矢 いや、松浦さんからは、小出しに「ちょっと来てよ」というような感じで呼ばれて、「こういうところを君だったらどうやる?」なんてことがよくあって。「この場面には、この役は出なくていいじゃない」なんていうと「それはあるな」なんて言って、ちゃっかりその通りにする。そんなことはよくありました。あの人ほど、人を稽古に呼ぶのが好きな人はいなかったんじゃないかな。終わると軽く飲んでね。
日比野 松浦さんが松浦企画を立ち上げ、ミュージカルをやろうということになったきっかけはなんだったんでしょう。先生の影響もあったんでしょうか。
関矢 それもあったんだろうとは思うけど、演出がしっかりしてないとだめだという考え方でしたから。「面白いけどさ、演出がしっかりしなきゃ」ってよく言われました。「どういうことだよ」って聞くと、「だからさ、やっぱり本筋がきっちりしてなきゃ」「世間にも、とにかく枝葉が茂っちゃって、中身は危ないという舞台がよくあるぞ」と。そんなことも含め、いろいろな意味で、松浦さんは僕のことを心配してくれていました。

アメリカでは……VS日本の伝統


日比野 一九六七年九月には、森繁久彌主演の『屋根の上のヴァイオリン弾き』が初演されます。先生はこの作品の演出をされたんですか。
関矢 最初はね。あの頃はミュージカルの大半がアメリカ産だと誤解されていたところがあって、観に行くならいろいろ調べてきてくれと美術家や大道具関係から注文がたくさんきたんです。色を見てきてくれ、衣装を見てきてくれ、できたら写真も撮ってきてくれとか。中でも面白かったのは、転換。東宝のミュージカルの最初の頃というのは、転換十五分が当たり前だった。菊田先生が一つ覚えた言葉があって、音楽の先生が「それだと足りません」というと、「リピート」っていうの。何度もそれをやって、ようやく次の幕になる。ところが私が向こうへ行った時に計ってみたら、七秒で転換したんです。「そんな馬鹿な」とみんないうんですけど、「アメリカでは、ちゃんと転換用のレールが敷いてあって、道具がこっち側に全部つくってあって、レールの上に押してくるだけです。人力で、機械じゃないですよ」なんていうと、みんな「はぁーっ」と感心するようになった。「アメリカでは……」なんて言葉が流行ったりして。
 ところが『屋根の上のヴァイオリン弾き』では、舞台監督が権力者で、ある場面をどうしても日本のやり方で転換すると言い出したんです。「日本のやり方が一番いい」と言い張るから、「向こうから来ている演出助手にやってもらった方がいい」という私と大論争になった。大道具だって全部舞台監督の子分ですから「こっちの大道具で転換した方がいっぺんでできます」という。「じゃあ、そういうふうにやってください」といったんですが、それがもとで私はこの作品から外れることになった。結局、日本式の転換がされたのはごく短期間だけで、すぐに向こうのやり方に変わったそうです。だから『屋根の上のヴァイオリン弾き』で、東宝の舞台はドンっと変わったんです。当時、アメリカだとなんでもボタンひとつでやっているみたいに日本人は考えてましたけど、私が知る限りはだいたい人力。袖でサインを出して、パッと動く。ミュージカルは人間がワイワイガヤガヤ集まってつくるわけだから。あれから日本もだいぶ改まったと思いますけどね。
鈴木 それにしても、初期のミュージカルは、本当に手探りだったんですね。現地で資料を集めるのも簡単ではなかったと思います。
関矢 こっちは何も分からないから「はい、はい」と引き受けちゃってね。で、向こうへ行ったらいちばん前の席なの。指揮者のすぐ後ろ。で、言われた通り録音機を置いたりするから、指揮者だって、胡散臭そうに振り返って見るわけ。隣のお客だって、あんなにそわそわした客は見たことがないでしょう。そしたら、案の定、帰ってから大問題になった。日本は何から何まで盗みとっちゃうと。それからですよ。向こうから美術家でも振付家でも、オリジナルの人が来なきゃダメだというようになるのは。東宝もそういう契約をしたんじゃないかな。それまでは私も何も知らないで、とんちんかんながらやっていたわけ。だって知らないんだから。向こうの人が来て「日本のは日本ので面白いよ」と言ってたけど、そうでしょうね。こっちは勝手なことやってるんだから(笑)。
日比野 記録としては『屋根の上のヴァイオリン弾き』の演出、振付はサミー・ベイスということになっていますが、これは先生が降りられたんですね。
関矢 サミー・ベイスとはずっと一緒にやってきて、私たちは非常にうまくいっていたんです。でも、裏方はダメでしたね。日本の劇場には親方、棟梁というのがいて、その人にお伺いを立てないと、何も決められない。今はそういうことも変わったでしょうけど、あの頃はね。名古屋や大阪、九州に行っても、必ず親方はいますから、お酒を一本持って挨拶に行くんです。それをしないと非常にやりにくくなっちゃう。
日比野 東宝はほかと比べても、わりと近代的という印象がありましたが。
関矢 ええ。松竹、大阪の新歌舞伎座なんかはもっと古かったですからね。もう誰に通じているのか分からないくらい。だけどやっぱり日本全体が古かったんだと思います。新しい帝劇でも、神様が祀ってあるでしょう。で、ミュージカルをやるときでも、いまだにみんなあそこへ挨拶します。もちろん、神様がいたっていいんだけど、ああいうのはちょっと今のスピード感とは合わないんじゃないかと思うこともありましたね。神様がいたってけが人は出るんだし。それよりはもっと違うやり方を考えよう、ってよく言っていました。大道具だって、あらかじめ作っておいたものを袖からスッと出せばすぐなのに、舞台上で組み立てようっていうんだから、時間がかかりますよね。
神山 昔の道具は「飾りこむ」というくらいで。キャスターで押してくるんじゃなくて、「飾りこむ」のが職人の腕の見せどころだったんですよね。そういう誇りみたいなものと衝突なさったというのはよくわかります。
関矢 そうなんです。道具の話では、伊藤熹朔先生のこともよく覚えています。稽古の時に寝ていらっしゃったんですけど、パッと目を覚まして「おい、違うよ!」と道具の位置を注意されていた。それで本番が開いても、徹夜徹夜だったりしたものですから、やっぱり寝ていらしたんですね。その日はちょうど客席も空いていたんですけど、途中で「おい、違うよ、大道具」って大声で(笑)。「今にやりそうだ」とはみんなで言ってたんですが、本当になるとは。あれは大笑いしました。

テヴィエが森繁になるか、森繁がテヴィエになるか


日比野 『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主演は森繁久彌で、ほかに越路吹雪、淀かほる、市川染五郎[現・九世松本幸四郎]が出ていますが、この方たちとの仕事はいかがでしたか。
関矢 みなさんそれぞれわきまえていますから、本当によくやってくれたと思います。市川染五郎さんなんかは、すべてが初めての体験だったわけでしょう。いちばん面白がってやっていたと思います。ただやはり、さっきも言ったけど、喜劇人の方はゲン担ぎとか、何かの調子で急に機嫌が悪くなったり、本番中にも助手の人に大声を張り上げたりっていうことが多くて。注意しようものなら、逆に「大声出すな」ってすごまれたり。ちょっとピリピリした性格の方が印象に残っていますね。
神山 森繁はどうでしたか。
関矢 あの人は器用ですから、パッと瞬間的になんにでもなれちゃう。なったように見せるというか、そういう見せ方が抜群にうまいんです。だから何が本当で何がうそか、普段話していても、本気なのかそうじゃないのか分からないところがありました。ある時突然、一万円札をだして「これ、奥さんに」というんですよ。「なんですか」と聞いたら「大変だろう、こんなに夜遅く帰るんだから奥さんも大変だろう。だからさ」と。家内もびっくりして、うちでは今も語り草です。要するに「これから飲め」っていうことだったんでしょうけど、十二時すぎてるし、私は眠くてね。ともかく、そういうのが、あの人の「みんなのことを考えているんだ」という一つの方法でした。三木のり平さんと一緒に、毎日のように「反省会」というのをやってね。ただ飲むだけなんですけど、役者もそういうのは大好きですから、よく集まって。反省会で出た名言を「反省会名言集」にして回し読みしたりなんかしてましたね。
 森繁のテヴィエは適役だったと思います。まだ役者が決まる前に、菊田さんに相談されたんですよ。「森繁だと思います」といったら「君もそう思う?」と。それがやっぱり、ぴたっと役にはまって。というか、テヴィエがだんだん森繁になっていくんですけど。ああいうふうに役と一体化するというのが、森繁さんの夢だったのかもしれないですね。ただ、私は逆に考えていましたけど。というのも向こうへ行った時に観た俳優がものすごくうまくて。
日比野 テヴィエの役はゼロ・モステルですか。
関矢 じゃないんですよ。その後日本にも来た人ですけどね。どういう感じかというと、ある時、森繁さんと若い連中が飲みながらパントマイムごっこをしたことがあって。その時に向こうから来ていた演出助手も「赤ん坊をやります」とやってみせたんです。そしたら、髭面のままでヒョッと赤ん坊になっちゃう。みんな一瞬、唖然としました。つまり、彼は表現というものの中で赤ん坊の特徴を正確に伝えていた。アメリカで私が観たその俳優もそういう技を持っていたんです。だから森繁さんのテヴィエは日本調で、面白いんだけど、浅いな、なんて生意気なことを陰で言ったりもした。それと、パントマイムのヨネヤマママコが、ヨーロッパから帰ってきたときに森繁さんの『屋根の上のヴァイオリン弾き』を観て「商売がうまいね」と言ったんです。深い意味は考えないけど、人の心をキュッとつかんじゃう。熾烈なところは隠して、いいところだけ、人間ってこうでなきゃいけないっていうのを見せているってことを言っていたと思います。私にはそれが忘れられないんです。日本人はまだ表面的なところを観ているだけなんだと。訴え方の深さという面で、文学作品や近代劇、新劇がこれからどう変わっていくかという時に、日本のミュージカルは全然追いついていないと改めて考えさせられました。
神山 確かに『屋根の上のヴァイオリン弾き』の日本版は、ユダヤ関連の部分がわかりづらいこともあって、設定をずいぶん変えていましたね。しかも森繁のキャラクターがありますから、人情話的な部分が前面に出て、感動はするわけですが、先生がいうような広がり、背景の深さは僕も感じなかったです。
関矢 それも善意で、全力でやっているんですけどね。ミュージカルなんて特に、この芝居を観れば世界中が良くなっちゃうみたいに思えるようにつくられているでしょう。でも、それでいくら興奮したり、熱っぽく語っても、すぐに忘れてしまうし。私はヨネヤマママコの一言で、芝居としての面白さと、国を追われてバラバラになっていく現実をどう伝えるか、難しいことを考えさせられました。また、世の中にはいろんな国があり、いろんな思いをした人がいて、考え方も表現も多様なんだとも気がついた。だからもっと世界を見なくちゃいけないと思いましたね。そこで芝居の見方が変わったし、その後はかえってあまり観なくなっちゃいました。森繁さんの『屋根の上のヴァイオリン弾き』はよくやっていたけど、それも私がやっていた時に観たきりで、その後は一回も行かなかったので、えらく怒っていたと思います。

創作ミュージカルの隆盛。「踊り屋」の試行錯誤


日比野 少し年代はさかのぼりますが、一九六四年には『ファンタスティックス』の振付をされていますね。
関矢 古い話で私もあまり思い出せないんですが、とにかくあんな小さい小屋[芸術座]でやるということも、あまりなかったですからね。ああいうこじんまりしたやり方でもミュージカルができる、楽しめるんだ、ということに衝撃を受けました。特に好きだというようなことではないんですが、驚いた。ですから、同じ小屋ではないにしても、そういう小さい作品が、あまり大仰でないかたちでできるようになるといいなとは思いましたね。
日比野 後に中村哮夫さんたちが渋谷のジァン・ジァンでやっておられましたよね。
関矢 そうですね。私もジァン・ジァンは、何回か使わせてもらいました。ただ、私も当時はいろいろと迷っているときで、あまり考えないでやっていたのか、あまり印象には残っていないですけど。
日比野 この六十年代後半、先生はすごい量の仕事をされています。たとえば労音の仕事では一九六七年の四月にすぎやまこういち作曲の『青春の歯車』、その後一九六九年七月に山本直純、五木宏樹作曲の『リンゴの花咲く街』、同じ年の十二月にやはりすぎやまこういちさんの曲で広渡常敏さん演出の『だから!青春』があります。
関矢 労音はあれだけ夢中でやってたわりにはあんまり記憶がないんですよね。ちょっと運動っぽいのが好きじゃないというのもあるのかもしれません。「演劇運動」なんて言われると、それは運動には違いないけど……と思っちゃう。付き合いもあんまりできないんです、運動の人たちは。
日比谷 東宝でいう「反省会」のようなものはなかった。
関矢 そうですね。
花輪 私は子供の頃ずいぶん観に行った記憶があります。父につきあって、それこそ『青春の歯車』なんて何回も。いちばん最初に緞帳にスポットがあたって、それが駆け抜けていくような場面があって。そういうものを父は嬉々として僕に見せたがっていたという印象はあります。すごくエネルギッシュなミュージカルでした。
日比野 大変失礼ですが、労音のギャランティはよかったんでしょうか。
関矢 覚えてないですね。ただ特別いいというものでもなかったと思います。
日比野 この頃、古巣の俳優座でも振付の仕事を何度かされています。
関矢 千田先生は最初、私が[俳優座養成所]三期[生]だと知らなくて。途中から「なんだ、君は三期か」と。それからはずいぶん、扱いが荒っぽくなりました。でも、なにかオリジナリティーのある作品によく呼ばれて、いろいろやらせてもらいました。
神山 さきほど新劇の変化にミュージカルがついていけていなかった、というお話がありましたが、新劇の方では踊りや動きについての考え方は進んでいたんでしょうか。
関矢 やっぱりどういうわけか、ちゃんとした役者は踊りなんかやらないんだというようなことを言われましたね。ちゃんとした、ってねぇ(笑)。踊りなんか使わないで演技で見せるんだという。踊りだってちゃんとした人間が踊っているんだと、言いたくなりますよ。千田先生だったと思うけど、私のことを時々「踊り屋さん」というんです。それでね、ダンスパーティーで女優さんと踊ってる時に、疲れたり、トイレに行きたくなったりすると「踊り屋さん!」と大声で呼ばれる。「この人とちょっと踊っていて」って。で、帰ってきたらスーッと交代されて。「踊り屋」というくらいですから、振付なんてもう、ドーンと下のレベルに見られていましたね。殺陣師の方が上だったと思います。
神山 千田先生は伊藤道郎の弟なんだから。お兄さんのことを考えたらそんなふうには言えないはずですけどね。
関矢 ねぇ。伊藤先生には「うちへ来ない?」とずいぶん誘われましたよ。でも、あそこでは、真木竜子先生が教えていらっしゃいますからね。それが嫌で養成所を離れたくらいですから。バーから離れないで五つのポジションばっかりやらされると、本当に嫌になっちゃう。もっと、自然な運動が私は気に入った方だから、バレエ的な「パ」という、あの動きは今観ても楽しめない。テレビなんかで明るい顔をして、パーっと踊っている姿も、どうしても「辛いだろうな」「辛いのによくあんなに明るい顔して」というふうに観ちゃう。そういうことができる人は確かにいるんですけどね。モダンダンス系統の踊りなら演劇に役に立つとは思うんだけど、クラシックバレエだけではどうも接点が難しいかもしれないと思いますね。

コマ劇場「ドラマティック・ダンス」の試み


日比野 先生は日劇ダンシングチームの教授をされていたこともあったそうですが、それはどういうきっかけだったのでしょう。
関矢 私は東宝第一演劇部と契約していまして、そこは日劇も一緒なんですね。それと日劇にも海軍の軍人だったのが何人もいまして。まさかジャズダンサーになっているなんて思わなかったですけどね。それでいろいろな仕事をすることになりました。日劇には振付のうまい人も何人もいました。ちょっと女っぽい男の人もいっぱいいましたよ。いつだってどこだってそういう人はいるんだけど、日劇は特に目立ってましたね。でもそこでもいい仕事をさせてもらいましたし、いい仲間がいました。県洋二さんもいました。
神山 あとは小井戸秀宅もいましたね。私の場合は、テレビのショー番組で名前を覚えたんです。先生は初期のテレビではお仕事なさいませんでしたか。
関矢 ショーはやらなかった。幼児番組ですね。「おててが、ブラブラブラブラ〜パッ!ストン!」とか。
花輪 [『うたのえほん』初代たいそうのおにいさんだった]砂川啓介なんかが出ていましたね。
関矢 そういう幼児向けの遊びをよくやっていました。
神山 日劇では、一つの番組に大勢の振付の方がかかわっておられるわけですけど、その分担はどうなっていましたか。先生はどんな場面をつくられていたんでしょう。
日比野 『日劇レビュー史』によると、一九六七年の『春の踊り』では、先生の「テレフォン」という作品が特別に素晴らしかったと書いてあります。「ミュージカル時代への一つの試みとしては面白かったが、最後の締めくくりがもう一つ」ともありますが。
関矢 そうですか。あの頃、コマ劇場の方ではわりと実験的なことをやらせてもらっていたんですけどね。コマ劇場で「ドラマティックダンス」というのがあって。
神山 それはコマのダンシングチームの人たちが踊るわけですよね。
関矢 そうです。私がいちばんよく出会って、つくったのは梅コマの人ですね。民族舞踊もやりましたし、「ドラマティックダンス」もつくりました。結構長い作品で、踊りで物語を進めていくのがあって、若い村人の結婚の場面があるんです。新宿コマでもやりましたけど、そのうちの二組が本当に結婚しました。どちらも子供も大きくなって、娘さんたちが踊りをやっているかどうかは知らないけど、私の具合が悪くなるつい数年前までは、時々お会いしていました。一度、向こうから私が亡くなったと聞いたと連絡がありました。お互いに亡くなったんじゃないかという年頃になったんですね。ただ、そんなふうな人間が生きる、死ぬ、というようなことも、明るくさわやかに、時には陽気に元気が出るような表現にできないか、というのが私の一つの考えなんです。悲しみで泣かせるとかいうんじゃなくて、もっと深い感動、それで元気になるような作品ができるんじゃないか。梅田コマ劇場でも東京のコマ劇場でも、そんな風に考えて作品をつくっていました。それはよかったなと思っています。本当に。
神山 そういった場面というのは、本公演のミュージカルの中でつくられたんですね。新宿コマの支配人の酒井肇さんなんかも積極的でした?
関矢 そうです。でもそういう舞台の記録はほとんど残っていないんじゃないですか。
神山 残念ながらそうですね。
花輪 以前テレビで、新春隠し芸大会って番組がありましたよね。あの番組で「テレフォン」をやって負けたことがあるんです。こちらが九十八点か九十九点で、向こうが百点。テレビを見ながら、ずいぶん熱っぽく話していた記憶があります。「クローン」って作品(これもコマ劇場)も何回も見せられましたね。さっき話に出た『君も出世ができる』のノッポ[高見映]さんがダンスで出てきたのもその流れだと聞いています。ノッポさんをNHKの方に紹介したのも、どうも父のようです。元は振付助手のような感じだったようです。数年前にノッポさんとお仕事をさせていただいたときにもその話が出ました。
鈴木 お家で仕事の話をされることもよくあったんですね。
花輪 そうですね。結構家族ぐるみで、いろいろ気かれることもあったと思います。『プロミセス・プロミセス』は相当苦労して演出した作品で、箱根に旅行にいくときも、いつでもどこでも、カセットテープに入れた曲を聴かされるんです。ですから、もう覚えてしまいますよね。そうしたら「お前が覚えられるんだったらいい曲なんだろう」なんて言ってました。

身体で伝える「感動」とは?


日比野 コマ劇場でも日劇でも、先生が当時振付で腐心なさったのはどのようなことだったんですか。
関矢 私の考えている「ドラマティックダンス」は言葉じゃなくて、心の中におけるいろいろな現象を表現するというものでした。それでいろいろな方向で試していましたけど、コマ劇場でやって、一つ成功したのはラヴェルの『左手のためのピアノコンチェルト』という作品です。それが非常に長期間やれることになった。
日比野 一九六五年一二月に俳優小劇場の新人公演で『宴』という作品をおやりになっています。この時のプログラムに先生は「動きと音による劇的表現の客観的認識、または舞踊表現と演劇表現の間」ということを書いていらっしゃいます。
関矢 それは私の一つの始まりですね。今、言われたことで、昔の私に出会ったみたいな気がしました。もういっぺん読んでいただけますか。
日比野 (読み上げる)「動きと音による劇的表現の客観的認識、または舞踊表現と演劇表現の間」。
関矢 そうです。やっぱり表現する方法をもう少し大事なものとして認識してやらなきゃだめじゃないかという気持ちになって。どういうわけか、私らの表現は言葉を動きに置き換えたり、言葉を通して動きが思いを説明しようとするように思われている。つまり表情とかそういうもの。それがずっと身近なものだから、そっちへ偏りすぎちゃう。それから「いい顔」。小さい時からみんな「いい顔」や「笑顔」をしているでしょう。それがいちばんわかりやすいんだけど、感情とは別に「いい顔」ができちゃうのが普通になると、人間自身がはっきりしなくなる。人間は、もっといろいろな表現を必要とするわけで、声も使うし、あらゆる知能、能力、いろんな思いを使いながら、「文化」と称するものをつくり続けてきたと思うんです。だから、気づかない面がいっぱい発生しているのに、気づかないことは気づかないでいいんだ、みたいなのはね。舞踊だって本当は、笑顔やなにかで作られるものじゃない。やっぱり、全身がじっとしていられなくなってくるような、感動現象だと思うんですよ。この「感動」という言葉も、それだけ先に覚えちゃうと、本当はそんなことないのに「感動した」「感動した」っていうことになっちゃうからあまり使いたくなくて。もちろん、演劇でも舞踊でも感動してもらいたくてやっているわけだけど、感動すると、生き方の根本的なところから生命力が湧き起こるのを感じるでしょう。なんとかそれを舞踊と演劇、両方でつくりあげたい。そう思ってやってきたんだけど、なかなか簡単にはいかなくて。いまだに迷っているところです。その迷いも決して無駄ではなくて、どこかで私のやりたい表現も見つかるだろうとは思っていますが、やっぱり寿命もありますから、あまりのんきなことも言っていられないんだけど。
 今、私がかかっている仕事が、最後の仕事だとすると、ようやく昨日、やっと輪郭というか、流れというか、一つの継承の仕方が見えてきまして。この一カ月くらいかけてやっと。それで今日は、ちょっとほっとしたところでもあるんですけどね。そのことが何よりいちばん頭にあるので、今日のお話もまとまっていないかもしれないけど。

和製ミュージカルの担い手たち


日比野 今お聞きしたような表現についてのお考えを応用していくような形で、先生はその後もたくさんの舞台の振付を手がけてこられました。一九七五年には、有吉佐和子さんの山彦の会のミュージカルに参加されますね。
関矢 『山彦ものがたり』ですね。山彦の会というのは、いろんな人がやっていますけど、この芝居とは別だと思っていただいた方がいいです。
日比野 原作・演出の有吉佐和子さんはどういう方でしたか。
関矢 『山彦ものがたり』ではものすごく喜んでくれました。難しい人だと聞いていますけど、私の前ではそういうことは一度だけでした。突然怒鳴り声で電話をかけてきましたよ。私が振付をやった『日本人万歳!』(一九七七)の時です。
日比野 五世中村富十郎、緒形拳、新珠三千代、宮城まり子、前田美波里、友竹正則が出演しています。
関矢 そうそう富十郎さん。これはすごい作品だったと思いますが、あまり評判にはならなかった。宮城まり子が、最後にアカペラで日本の国歌を歌うんです。あの頃から、「あれ、有吉さんはちょっとおかしくなったんじゃない?」と噂が立ちました。それにしても当時は、前進座を中心に、すごく有吉さんの作品が上演されていました。
日比野 宮城さんは、どんな印象でしたか。
関矢 あの人は一生懸命やる人でした。普段はあんまりしゃべったことがないですけど、一度だけ、自分でプロデュースをしてやる作品の時に家まで呼ばれまして。「なんでしょうか」ってうかがったら、「すみません、今度は先生にお願いすることはやめました」というわけ。「そうなんですか」といったら「坂上道之助さんで」というから、「どうぞどうぞ。喜ぶと思います」と。そうしたら帰りしなに「すみません、こんなことを言ったら失礼ですけど、先生は怖くてとてもできないと思いましたって。「そうですか」と言って、それきりです。「強い」なんて、いつのことを言われたのか、全然わかりませんでしたけど。
神山 お約束の時間も迫ってきましたので、最後に一つ、菊田一夫さんの『歌麿』(一九七一)についてお聞きしたいと思います。あれは、「ブロードウェイに持っていきたい」という大変な意気込みでつくられた舞台ですが、評判が悪くて失敗作と言われています。先生はどうでしたか、近くでご覧になっていて、やはりうまくいかないと思いました?
関矢 なんでまた歌麿だったのか、とか、そこらへんの経緯は私にはわからないんです。ただ、あれは最初から無理でしたね。本ができていない。話を聞くだけでも、「これはだめだな」と思いました。
神山 それはどうしてなんでしょう。あれだけ力を入れて。
関矢 菊田先生もどこかいらついているというのはありましたね。
神山 体力が落ちていたんでしょうか。根気が続かなかったのかもしれませんね。菊田さんも翌年亡くなりますし。
関矢 そうなんです。私は、最後、病気で寝たままの菊田先生のところへ呼ばれたことがあります。そうしたら「関矢くん、お願いがある。私の伴侶に是非、踊りを教えてやってください」というんです。「もちろんいいです」というと「それだけ、お願いします」と。伴侶って誰かなと思ったんですが、彼女のことだったんですね。
神山 西尾恵美子。鳳八千代の妹で。
関矢 そう。その後、[演出家で梅田・新宿コマ劇場のレヴューを多く手がけた]竹内伸光が、「宝塚じゃなくて、本物のベルばらをやろうよ。俺が書くから」というので、「面白いからやりましょう」ってことになって。梅コマを何日か借りてやったんですよね[ミュージカル・ロマン『ベルサイユのばら』一九七五年四月。出演:にしきのあきら、森田日記、友竹正則)。それに西尾恵美子も出ていました。ただ、『ベルばら』なんだけど、予算がなくて、ちょっと盆を回したりするくらいで、道具もほとんどない。大冒険です。何もないところでやるんですから、俳優の力も必要ですしね。ところが俳優も少人数でしたし、大変な不入りで終わってしまいました。彼女ともそれっきりになってしまいました。