中村哮夫聞き書き


二〇一六年三月十四日
取材場所:喫茶室ルノアール四谷店
取材者:日比野啓・神山彰・鈴木理映子
編集・構成:鈴木理映子

イントロダクション


 中村哮夫氏は一九三一年東京生まれ。慶応義塾高等学校二年生のときに加藤道夫と出会って演劇の面白さを教えられ、慶應義塾大学文学部国文科で折口信夫、久保田万太郎に学んだ。一九五四年東宝撮影所助監督となり黒沢明監督に師事したのち、一九六二年からは東宝演劇部へ移籍して菊田一夫のもとで舞台演出の腕を磨いた。演出家として一本立ちしたのはこのすぐ後にあるように一九六三年五月の東宝喜劇『江分利満氏の優雅な生活』(明治座)だが、一九六三年十月『カーニバル』(芸術座)で初めてミュージカルを手がけて以来、ときに菊田らの演出補というかたちをとったこともあるものの、『王様と私』(一九六五年四月)『ラ・マンチャの男』(一九六九年四月)など東宝ミュージカルの多くの作品を演出してきた。同時に、二期会をはじめとして外部での音楽劇演出も積極的に行い、一九七一年四月渋谷ジァン・ジァンで上演された『ファンタスティックス』(出演・宝田明、友竹正則、天本英世)のような小劇場ミュージカル、一九八二年八月サカモト・ミュージカル・カンパニーによる『ロン・ひとりぼっちのおおかみ』(作:山崎陽子)のような日本語創作ミュージカルの道を切り開いた一人でもある。一九九六年には「永年のミュージカルにおける演出の功績」を認められ第二十二回菊田一夫演劇賞を受賞した。
 「僕たちのときには[東宝や四季のミュージカルのような]お手本は何もなかった」と語る、まさに日本ミュージカル黎明期の生き証人である中村氏を目の前にして、またひそかに漏れ聞く「現場ではオッカナイ人」だという噂を耳にして、私たちはいつになく緊張していた。聞き書き取材者のうち、すでに神山は東宝商業演劇全般について聞き書きを行い、日比野は演出家協会の催しで同席させていただく機会があったので、二人とも初対面ではなかったとはいえ、今回の聞き書きがどんなものになるのか、不安がなかったといえば嘘になる。
 だが、目の前に現れた中村氏は私たちのそんな心配を吹き飛ばすかのように、じつに率直に、かつ真摯に私たちの問いかけに答えてくださった。ご自身が演出された作品のなかでも成果が上がらなかったものについてはそうはっきりと言明し、また当初は演者たちが翻訳ミュージカルのナンバーを原調で歌えず、三音ないし四音下げることがあったことを証言していらっしゃるのはそのよい例だ。起きたことをありのままに語ろうという心構えもさることながら、語り口そのものが歴史家が史実を語るような客観的なものになっていたことが印象的だった。万太郎門下の俳人ゆえに、自分が関わっていたことをつねに一歩引いて冷静に観察していたからか、演出家として長年培われた現実主義的な態度なのか、それはよくわからない。しかし、功なり名を遂げた人のなかにあってもそれほど多くない、肝の据わった方だとお見受けした。という若造の評言はさておき、このウェブサイトに掲載した写真でもわかるように、実に良い笑顔で話し続けられるので、お話を聞かせていただいている間も大変楽しい気分でいることができた。
 もっとも、ここでの中村氏の発言はどこをとっても日本のミュージカル史上大変重要で、ただこちらがにこにこと笑って聞いていられるようなものではない。長時間にわたる取材で聞かせていただいた内容には、日本近現代演劇について書かれた数多の書物にも全く出てこない文字通りの「裏ばなし」も含まれている。貴重な証言をぜひ読んでいただきたい。(日比野啓)

加藤道夫との出会い


日比野 中村先生はご著書『久保田万太郎――その戯曲、俳句、小説』の「あとがき」で久保田以外の「師と呼ぶべき人物」を四人挙げていらっしゃいます。それは折口信夫、加藤道夫、黒澤明、菊田一夫ですが、加藤道夫の薫陶をはじめて受けたのは慶應義塾大学の演劇研究会でしょうか。
中村 いえ、はじめて加藤さんと出会ったのは慶応高校二年のときです。加藤さんはその四月から新任の英語教員として赴任されてきて、その二年後には去ってしまうのですが、最初の印象が強烈だった。「こんなの、つまらないだろう」と教科書を打ち捨て、『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーンをガリ版に刷ってきて生徒に読ませた。生徒がうまく読めないと見るや、朗々たるキングズ・イングリッシュでご自分で読み始めてね。その声に魅了されて、僕の演劇人生が始まったと言ってもいいんです。何しろそれまで演劇には何の興味もなかったんですから。
日比野 今度[加藤の]『なよたけ』の演出もされるとか[日本の近代戯曲研修セミナーin東京第14回、二〇一六年九月]。
中村 そうです。演出家をこれだけ長くやってきて加藤作品を手がけるのは今回がはじめてなんです。演劇人生の始まりに加藤道夫と出会い、それが終わろうとしている時期に再び加藤道夫にまみえることになるのは何という運命の照応であろうかと思っています。

『マイ・フェア・レディ』のころ


日比野 そんな中村先生の演劇人生をこれからお聞きしていくわけですが、年譜を追いながらお話を伺えればと思います。中村先生の東宝での初演出は一九六三年五月の東宝喜劇『江分利満氏の優雅な生活』[明治座]です。原作はもちろん山口瞳ですが、脚色はどなたがなさったんですか。
中村 相良準という人です。この人は昔楠田清という、東宝撮影所の監督だったんですが、共産党員だったんです。ところが、東宝争議の後、左翼の追放があったので、相良準というペンネームで書くようになった。森繁劇団とか商業演劇の作家として、相当活躍されていた方です。
日比野 じゃあ東宝争議の大立者というか…。
中村 それほどではないですが、中堅という所でしょうか。当時の東宝には、佐藤勉さんという強力なプロデューサーがいて、その人から「お前、これをやれ」と言われたので、素直にやりました。ただ、売り出し中の八波むと志[江分利満]と宮城まり子[その妻・夏子]が共演していて、二人の醸し出す雰囲気はわりと面白かったと記憶しています。
日比野 この作品はストレートプレイで、その後『蒼き狼』(一九六三年九月)を演出された後、『カーニバル』(一九六三年十月)で初めてミュージカルを手がけられます。
中村 『蒼き狼』は一九六三年の九月一日に読売ホールでオープンしているんですが、それはなんと、かの有名な『マイ・フェア・レディ』初演と同じ日なんです。ですから、読売ホールと東京宝塚劇場の間で小道具の人が行き来していて、何かと情報が入ってきました。「今、向こうの幕が下りて、カーテンコールは大感激だった、菊田さんは泣いていた」とか。日本のブロードウェイミュージカルの第一作の初日が、あれだけ近くで上演されていたのに僕は観られなかった。もっと言えば「参加できなかった」という残念さも残っています。『蒼き狼』はいい芝居でしたがね。
神山 『蒼き狼』は、池部良が降りて、井上孝雄が代役で出演した…。
中村 いえ、それは『敦煌』(一九六〇年十月)で、同じような題材でもう一作といってつくったのが『蒼き狼』です。これは市川染五郎の主演で、脇役も良くて、素敵な作品になりました。
日比野 『カーニバル』の演出は、名前としてはフランキー堺ということになっていますね。フランキー堺さんは、実際はどの程度演出としての仕事をされていましたか。
中村 なかったとは言いませんが、あのころは売れっ子で忙しかったですから、時々出てくるという程度。いない間は僕がやっていました。ただ、菊田さんほど全然来ないというのでもなかった。菊田さんはもう、初日の顔合わせに来たら舞台稽古までもう来ない、演出補に任せちゃいますから。この作品では浜木綿子の歌声が印象に残っていますね。日本のミュージカルの初期の歌い手の中では抜群でした。非常に澄んだソプラノの綺麗な歌声で、聴かせました。後年で言えば、毬谷友子とか、ああいう感じ。ドラマティックというよりはリリックソプラノ。あれは浜木綿子でもっていたミュージカルで、それに尽きるといってもいい。相手役は[一九六三年に文学座を退団し、劇作家・福田恒存を代表として現代演劇協会・劇団雲を結成する]神山繁。あの人もいい声をしているんです。歌の専門的な技術は持っていないけど、音質はいいし、立派に浜と対抗できていました。この作品は以後再演がないのが大変不思議です。音楽座でもやっているけれど、全然違う形で脚色しちゃって原作とはわからなくなっているし、アレンジしたものはほかにもあるんですがね。
日比野 その当時、ミュージカルの演出を任されるということについて、戸惑いはありましたか。
中村 それは比較的ないんです。ただ、今の人たちは東宝や四季のミュージカル、そのほかにもいっぱいのミュージカルを観て、「ああいうものをやりたい」と思って入ってくるわけですよね。でも、僕たちのときにはそういうお手本は何もなかった。僕は偶然、日本にミュージカルが初めて入ってきた時期に、東宝演劇部で菊田一夫さんの助手というポジションにいた。それで「おまえ、やってみろ」ということでなんとなく始めました。でも、もともと東宝の助監督だったし、映画好きでしたから『ウェストサイド物語』だとかもよく観てはいたんです。といっても、あれは背の高い、足の長い、目の青い人がやるもので、日本人がやるという実感はあまりなかったですけどね。ですから菊田さんの『マイ・フェア・レディ』は、コロンブスの卵みたいなもので、誰もできっこないと思っていたのを、曲がりなりにもやっちゃって、「えーっ」と新しい目を開かれた感じ。それで『カーニバル』をやってみろと言われたときにスッと素直に引き受けました。それに僕は、クラシック音楽好きで、オペラファンでもありましたから。確かに菊田さんについて、ストレートプレイをやるつもりでいましたが、音楽とドラマが一体になったものも面白いんじゃないかと思ったんです。それで、偶然のなりゆきで、その世界に足を踏み入れました。
日比野 現場の俳優たちは、「歌う」ということに関してどんな反応をしていましたか。
中村 浜木綿子は宝塚で散々歌っていますから、なんの抵抗もないですよ。神山さんは新劇俳優ですけど、歌に関しては素人で、とにかく先生について特訓する日々でしたから。このころの日本のミュージカルの現場では、「ミュージカルはどうあるべきか」なんてことを考える余地もなかった、というのが正しいと思います。どうやったらアメリカの映画のような素晴らしいミュージカルができるのか。台本があり、楽譜もあるけども、自分たちでそれを組み合わせて稽古していった経験も、それを見聞したこともないんですから。議論より先に、決められた初日までに、なんとかお客様にみせられるようにしなきゃならない、そんな現場感覚だけで、カーッとなって進めていたんだと思います。とにかく新しいものに向かって、どうやったらちゃんとできるかも分からないけど、夢中になってやりながら、方法論を探していたんでしょうね。いろんな作品を観たり、方法論を知ったり、ミュージカルとは何かということを考えたりしたのは、もっとずっと後になってからのことです。
日比野 東宝の社内や現場のスタッフはどうでしたか。特に現場の道具方には保守的な印象もありますが。
中村 東宝の演劇部は保守的ではなかったですね。菊田さん以外の幹部や古くからいるプロデューサーにはそういう部分もあったかもしれませんが、菊田さんやそのブレーンであったプロデューサーたち、中でも佐藤勉さんのような人はむしろ、無手勝流にでも何かやってやろう、という気概を持っていました。
神山 『カーニバル』は、芸術座での上演ですが、オケボックスはつくったんですか。
中村 ええ。大オーケストラではなくて、七、八人のオーケストラを下手の前の方に、斜めに場所を区切って入れた記憶があります。
神山 日本のミュージカルの初期のころは、一つの役を芝居のところは俳優、ダンスのところはダンサー、歌うところは二期会の人に頼んだなんてこともあったそうですね。
中村 『マイ・フェア・レディ』なんかは、そうです。もちろん、群舞やコーラスのところですけどね。そういう場面には、クラシック関係の人、バレエの人に入ってもらって。日劇ダンシングチームや二期会合唱団もいました。今だったら、どれもミュージカル俳優ができるんだけど、あの頃はなるべく歌や踊りは専門の人に渡していましたね。もちろん、それでも商業演劇としてお客様が来るようなスターも配置しなきゃいけない。そうすると中には歌えない人も出てくる。これをどうするかというのが大きな問題だったんですよね。
神山 一九六三年ですと、もうワイヤレスマイクはありましたよね。
中村 ええ。大きな重いやつですが。音質は今と比べると格段に悪かったですね。棒のようなマイクを胸元に入れていますから、雑音もよくありました。抱き合ったりするとガチャガチャいう。ですからその瞬間にスッとミキサーで抑えないといけない。でも、マイクを落とすとせりふも聞こえなくなっちゃうんです。

『王様と私』を彩った俳優たち


日比野 『カーニバル』の後には『王様と私』(一九六八年十一月)に演出補というかたちで参加されます。主演の市川染五郎(現・松本幸四郎)とは『蒼き狼』でもご一緒されています。
中村  そうですね。染五郎とは『悲しき玩具』(一九六二年十月)もやっています[中村氏は演出助手]ので、よく知っていました。『王様と私』の主演候補にはいろいろな人が挙がったんです。[二世]尾上松緑とか滝沢修さんとか。
神山 でもそれじゃあ歌えないでしょう。踊りもあまりできないし。
中村 だからそれが、さっき言ったスターバリューです。その人が出たら面白いし、お客もくるだろうという。それも観てみたかったけどね。『王様と私』なら「パズルメント」という、しゃべるような歌一曲でしょう。だから結構できるんじゃないかっていう楽観もあった。そもそも染五郎があんなに歌えることだって知らなかったですよ。彼は早稲田大学時代に、ギターを弾いてフォークソングか何かを歌ったドーナツ盤を出していて。それが菊田さんのところにも来ていたのをみんなで聴いたんです。それで菊田さんが「こいつは歌える」と断言して、決まった。越路吹雪は最初から決まってました。そこが企画の出発点だったんですね。
神山 初演は大阪の梅田コマ劇場ですね。
中村 それこそ梅田コマダンシングチームが盛んなころで。『王様と私』には、大規模なバレエシーンがあるでしょう。劇中劇で十四分かかる。その中に当時のトップダンサーだった谷雅子が出ていました。悪い王様を踊ったんですが、それがとても良くて。僕が今まで演出したなかでも、悪い王様は彼女がいちばんという記憶があります。女性があの役を踊ったのはその時だけでしたね。お面をかぶっていますから、どっちみち性別はわかりませんが。
神山 その時からもう、立川(たつかわ)澄人[オペラ歌手、一九五三−一九八五。のち立川(たちかわ)清登と芸名を変えるが、この当時は澄人名義]は出ていましたか。
中村 はい。初演の恋人たちは立川澄人のルン・タと、淀かほるのタプチムでした。これも最初から決まっていました。あの二人の歌はクラシック系の曲想でしたから、オペラ歌手でポピュラーの世界まで進出していた立川澄人。淀かほるは男役でしたが、宝塚にいたときから女役もたまにやった。きれいなソプラノでした。それでこれはもう、ノブさん[淀]の役だと。菊田さんはノブさんを大変ひいきにしていたんです。宝塚出身の女性といろいろと噂もあったりしたけれど、ノブさんだけには、そういうことはなかった。本当に純粋に役者として高く買っていて、個人的には近づこうとしなかった。それで『サウンド・オブ・ミュージック』の主役もやらせているんです。演技と歌のバランス、それから人間的な魅力を大変高く評価していました。
神山 この時の子役はまだ[先代中村]勘九郎ではないですか。
中村 勘九郎が出たのは、だいぶ後です。九歳か十歳の勘九郎が出たことがありますけど、あれは何代目かの王子でした。
神山 しかし、梅田コマは広いですから、たとえば音響なんかも、芸術座でミュージカルをなさったのとはまた別のご苦労もあったんじゃないですか。
中村 音響は作本秀信さんという、NHK大阪にいた、当時の音響の第一人者の方がやってくださって。あの方はミュージカルの音響ということについて、その初期に、大変気を使ってくださったと記憶しています。
神山 この作品の翻訳は森岩雄ですね。
中村 森さんは若いときから文学少年で、詩を書いたり、文章を書いたり、翻訳をしたり、いろいろなことをやっていたんです。副社長にまでなったから、実業家というのが表の顔になったけど、実は久保田万太郎の弟子で、俳句をやったりもしてるんですよ。そういうもともとの志向があって、それで森さんは自分でやりたいと買ってでたらしいです。だから、僕が参加した時には森さん訳の初稿ができていました。菊田さんと森さんのあいだで、最初から、この翻訳をお願いするというのは決まっていたんだと思います。
神山 歌の部分は岩谷時子の訳ですね。
中村 ええ。岩谷時子の翻訳ミュージカル第一弾です。シャンソンの作詞や訳詞はやっていたけど、翻訳ミュージカルはあれが初めて。すぐに続けて『南太平洋』もやっています。あれはコウちゃん[越路吹雪]が出るというので、[マネージャーであった]岩谷さんが参加する流れが最初からあった。『南太平洋』も森さんの訳ですから、森岩雄はブロードウェイミュージカル輸入初期に携わった、強力な推進者の一人ですよね。
日比野 『王様と私』の翻訳には、共同で高田蓉子さんが入っています。
中村 高田さんというのは森さんの秘書で、ずっと秘書室にいたんだけど、確か帰国子女で、英語が堪能でした。それで、文学的なところは森さんがやるんだけど、ネイティブの人でないと分からないような言い回しについては高田さんが進言して。それで共同翻訳になったんですね。
日比野 一九八九年三月には、主演が松平健に代わって上演されますね。これはどういうきっかけだったんですか。
中村 大阪新歌舞伎座の意向がまずあったんです。松平健の公演が大変[客が]入っていたときで、松平自身にも何か新しいものをやりたいという気があった。それで、新歌舞伎座で東宝がミュージカルをやるなら、松平に『王様と私』をやらせたら、という話が劇場の方からありました。プロデューサーの佐藤勉さんがまだ生きていましたから、佐藤さんと新歌舞伎座との話し合いで松平健主演の『王様と私』という話ができあがったんだと思います。
日比野 松本幸四郎の方は、何かこだわりはなかったんでしょうか。
中村 佐藤勉がそうしなさいと言ったんだろうけど、松平が歌舞伎座の楽屋に挨拶にいったそうです。最初は少し冷たかったらしいけれど、最後には「私が大事にしていた役だから、しっかりやってください」というようなことを言われたそうです。
日比野 それはそうですよね。この時の『王様と私』には益田喜頓が出ていますが、これが最後くらいでしょうか。
中村 それに近いかもしれませんね。でもこのエドワード卿という役はずいぶん長い間の持ち役でした。初演はジェリー伊藤という人がやっていたんですよ。
神山 伊藤道郎の息子ですね。
中村 そう。これがとてもよかった。海外生活もしていたから、イギリスの外交官役がピタッと合っていた。喜頓はもう喜頓流に崩した、とぼけた面白い外交官でしたけど。「最後の引っ込み際に一言捨てぜりふを言いたいんだけど」って、その捨てぜりふをいろいろ考えて、「こういうのはどうでしょう、こういういのはいいですか」と聞いてきました。本当に袖に入る寸前に、パッとそれを言いながら引っ込む。しょっちゅうそういうことをしては楽しんでいた。
神山 目に浮かびます。喜頓を知っていると。
日比野 益田喜頓でも、やっぱり演出家にはお伺いを立てるんですね。
中村 喜頓さんは結構、お伺いを立てて言っていましたよ。普通の喜劇ならもう、喜劇俳優がアドリブを言うのは当たり前になっていますけど、ミュージカルに出ている時なんかは、わりとそういうところはきちんとした方でした。
日比野 この時は真島茂樹も久野綾希子も出ています。
中村 四季をやめたばかりの久野綾希子がタプチムで、真島茂樹が悪い王様だったんだな。真島とは、ずいぶんやっています。というか、彼が日劇の研究生だったとき、僕が授業を持っていたことがある。その時の生徒にいたんだから、いちばん古い知り合いです。彼が研究生から団員になったときに、帝劇が開場して『風と共に去りぬ』(一九六六年十一月)の公演があった。あの公演にも、日劇ダンシングチームは参加しているんですよ。ダンス場面をやったの。真島はアシュレー邸の宴会の場面があるじゃない。そこで腕を組んで歩いている通行人。ちゃんとステージングしているから、とてもかっこよく歩いていました。
神山 王様役は、その後、高嶋政宏になります。
中村 僕が久しぶりに演出したのが、一路真輝が宝塚を退団した後。『エリザベート』(一九九六年二月)で人気絶頂の時に宝塚をやめて、退団後の第一作が高嶋との『王様と私』だったんですね。「第一作に前衛的なものや変わったものをやるんじゃなくて、ロジャース・ハマーシュタインのようなオーソドックスなミュージカルをやれてとてもよかった」と彼女が言っていたのをよく覚えています。
日比野 それが一九九六年の九月です。
中村 『王様と私』はこの前また松平がやった(二〇一二年七月)のを観ましたよ。山田和也の演出になったというので、松平が気を使って、「観てください」と人を通じて言ってよこしましたから。

音楽は変えないが……


日比野 『心を繋ぐ6ペンス』(一九六六年七月)では、中村さんのお名前は、菊田さんとの共同演出となっています。
中村 これは僕が、だいたい、自分からやりたいと言った最初の作品です。「だいたい」というのは、これをやる予定があるということはもう聞いていて、でも、誰がというのは決まっていなかった。それで、「こういうものをやってみたいな」という話をプロデューサーの堀内さんという方にしたんです。そうしたら、これは菊田さんが演出なんだけど、中村にはずっと演出補をやらせてきたから、この作品で「演出」という名前にしてやれと菊田さんが言ってくれたようです。やることは同じなんですけど、それで「共同演出」というかたちでやりました。菊田さんの名前の方が、通りがいいということもありますし。
神山 翻訳は倉橋健さんですね。すごくいい日本語だったとか。ご依頼なさったのも中村さんですか。
中村 いえ、そうではありません。このころの東宝にはブレーンというか、いろいろな企画の相談に乗る学者、評論家が何人かいたんです。例えば尾崎宏次さんとか戸板康二さん。それと歌舞伎関係の人も一、二人。その中に倉橋さんもいらっしゃった。ですからこれも、僕がやりたいと言ったのは、倉橋訳の第一稿を読んだからです。
日比野 先ほども、当時は歌えない俳優が多かったというお話がありましたが、マーニ・ニクソンのような吹き替えを用意する発想はなかったですか。
中村 まずなかったですね。どうしてかな(笑)。裏で吹き替えると結局口が合わないと思ったんじゃないか。それはずいぶん下手な人もいましたよ。名前を挙げちゃ悪いけど、『南太平洋』の岡田眞澄(一九六六年五月・芸術座)なんてひどいものだった。ごめん。後年はまだましになったけど、そのころは。
日比野 宝田明さんは、宝塚の男役だったある女優が高い声を出せなくて、ご自身で文句を言ったとおっしゃってました。
中村 当時は、歌が歌えても、原調で歌えるか歌えないかという問題が大きかったのです。スターバリューを優先しているから、上が出ないという話はしばしばあった。そういう場合には音を下げるわけですが、半音や一音なら、そこまで音楽的に傷つかなくても、三音とか四音なんてめちゃくちゃな、聞こえ方がまったく違ってくるようなひどい移調の作業をしたこともずいぶんとあります。原調でやれるようになったのはだいぶ後のことです。越路吹雪も多少は下ろしていました。一音か、二音は。そのくらいは。
神山 江利チエミだって、そこまで音域の広い人じゃないから。
中村 そうです。チェミだって、たぶんあれは半音か一音下ろしている。あのころは、浜木綿子みたいな宝塚系のソプラノか雪村いづみあたりじゃないと、ソプラノの上の方の音は出なかった。だから多少の移調はごく普通でした。
日比野 今と違って、著作権の管理もそんなにうるさくはなかったですからね。
中村 ええ。後でまた話に出るかもしれませんが、最初はまったくの自由でした。つまり、台本は変えるな、音楽は変えるな。でもそれ以上の細かい指示はなかった。だから、音楽を変えるわけじゃない、キーを下すだけだ、という言い訳でやっちゃってたわけです。
日比野 向こうが知ったら、結構怒られたかもしれませんけど(笑)。
中村 怒ったかもしれない。ただ、最初は向こうも、日本でやってくれるだけで、東洋にまで広がるんだし、お金にもなるし、うるさいことをいうつもりはなかったらしいですよ。いろいろ言われるようになったのはもっと後年。これからお話をしていくうちにそうなります。

初めての全役オーディション


日比野 一九六七年七月には、『ファンタスティックス』を芸術座で演出されます。
中村 これこそ、はっきり「やりたい」と意思表示しましたね。これも倉橋さんかな、さっき言ったブレーンの誰かがニューヨークで観てきて、非常に前衛的だけど大衆性もあって面白いという触れ込みで、菊田さんがやろうと決断した。その下訳を読んで、「僕はこれを是非やりたい」と言った。はっきり意思表示したのはあの作品が初めてです。というのも、そのとき、もう一つぶつかってた作品があったんですよね。『屋根の上のバイオリン弾き』がひと月違いだったんです。それで、佐藤勉さんは「中村くんには『屋根の上のバイオリン弾き』をやってもらうつもりだ」というから、僕はその両方を読んで、『ファンタスティックス』を選んだ。『屋根の上のバイオリン弾き』も素晴らしいミュージカルだし、大物なんだけど、僕はこの、小さな、シンプルな作品をやってみたいと思った。やっぱり、『マイ・フェア・レディ』、『王様と私』、『南太平洋』と、大きな作品ばかりやっていましたから、ミュージカルというのはそういう、派手で、複雑で、いろいろなものが寄せ集まったものだと思っていた。ところがこんなふうに「シンプル・イズ・ベスト」という言葉を絵に描いたようなものがある。僕自身、芸術ではシンプルなものがいちばんの価値を持っていると思っていたから、『屋根の上の』を蹴って、といっても「どう?」といったのは佐藤さんだけだけど、僕の中ではそういう気持ちで『ファンタスティックス』を取ったんです。
神山 この作品では、全役オーディションをなさいましたよね。
中村 今まではスターバリューでばかり配役をしてたから、上のキーが出ない人も、役に合ってない人も、歌や踊りが全然ダメな人もいた。そういうミュージカル初期の悪しき状況を変えなければいけない。ブロードウェイでは当然のように、百パーセント、オーディションをしているということも聞いていたわけですよ。それで菊田さんも、こういう新しい作品をやるならば、全部オーディションをしようと。それ自体を売りにしていこうという考えもあったんです。まだ「オーディション」という言葉自体が浸透していなかった頃ですから、菊田さんが「オーディションとは」という文章を書いて、募集の新聞広告にも出した。オーディションとはこういうもので、アメリカでは日常的にされているシステムで、これが芝居の中身をよくするものだ、というような文章をね。
日比野 プログラムにも掲載されていますね。
中村 そこでも繰り返していますね。僕もやっぱり、さっき言った、スターシステムや歌も踊りもできない人が出演するような状況には不満があったから、大いに賛成、その方式でやりましょうというと、菊田さんが「俺が書く」と言って書いた。
日比野 プログラムに載っている菊田さんの文章というのは、ほかのものも含め、自筆なんですか。
中村 だいたい自筆です。「だいたい」というのは、時には投げやりな仕事もあって、そういうものは文芸部にいた西村晋一さんという人にポンと渡されていた。脚本についても超忙しい時は西村さん又は安永さんという方に書かせていたという話もあります。そこのところは、僕は見たわけじゃないからわからないけど。
神山 『演劇明暗』[一九三七年、沙羅書店]という本を書いた西村さんですね。晩年は、新帝劇開場からの雑誌『東宝』の編集を数年担当して亡くなった……。
中村 そうです。ちゃんと気の入ったものは全部、菊田さんが自分で書いていますけどね。
日比野 『ファンタスティックス』のオーディションでは、竹邑類も候補にあがっていたそうですね。
中村 竹邑類がミュート役に決まりかけていたところへ、坂上道之助が出てきた。これはいろいろなかかわりがあって、同時期に『屋根の上のバイオリン弾き』があったでしょう。竹邑類は結局、そっちでバイオリン弾きの役をやったんです。ミュート役では二人は競り合っていて、同じくらいよかったけど、僕は「坂上がいいと思う」といったんです。そうしたらプロデューサーの佐藤さんが「じゃあ、竹邑はバイオリン弾きにしよう」と。それで決まったという経緯があります。
日比野 竹邑類によれば、自分でバイオリン弾きを選んだ、というんですが。
中村 しかし、こっちのオーディションも受けていますからね。まぁ、みんな両方やりたかったんです。ただ、同時期だからどっちかをとらなきゃならない。僕は最初から『ファンタスティックス』をやりたいと言ったけど、役者はそうはいかない。そういうジレンマがあったんです。
神山 新しい帝劇が開場した翌年ですもんね。
中村 竹邑類がバイオリン弾きをやったのは、初演だけ。そのずーっと後は坂上道之助が同じ役をやっています。昔は人材が少ないから、こういうことがよくあった。
日比野 この時、宝田明さんも佐藤勉さんに「エルガヨをやらせてくれ」と直訴したと聞きました。
中村 オーディションに名前が出たり、呼んでみようかという話が出たことはありませんでした。ただ、宝田さんは向こうへ行ったときにこの作品を観ているし、僕がはっきり覚えているのは、 ジァン・ジァン版をやるときに、僕と松江陽一と一緒に帝国ホテルで会って、『ファンタスティックス』をやってくれ、といったら、大喜びでやると言ったこと。
日比野 初演の時には、佐藤勉さんに話して一蹴された、ということだと思います。
中村 そういうことはあったかもしれません。ジァン・ジァンの時も、小劇場なんて海のものとも山のものともしれない場所に出るのは、まだ世に出ない人のやることで、宝田のようなスターが出るなんてことはない時期だったし、実際、東宝の重役の雨宮恒之さんなんて人は、「そんな小劇場の公演で映画撮影のスケジュールを邪魔するんじゃない」なんて言ったりしていたし。あの頃の宝田明は『アニーよ、銃をとれ』(一九六四年十月)とか『キス・ミー・ケイト』(一九六六年二月)みたいな大ミュージカルに出ていたわけですからね。映画のスケジュールもいっぱいで。エルガヨにはもっと、いろんな人の名前も挙がったんですよ。ヘンリーをやった天本英世がいるでしょう。彼はギターも弾くし、フラメンコの歌も歌うので、大変この役をやりたがってね。だけどヘンリーにした。オーディションには新劇系の名のある役者もずいぶん受けにきたけど、みんな歌が下手で。エルガヨのキャラクター、せりふについてはいい人もいたんですよ。でもみんな、歌がダメ。そこを変えたくてオーディションをしたわけだから、なんとか歌でとりたい、というので、イタリーかどこかへ行っていたオペラ歌手の栗林義信に連絡したんです。それで、「こういう作品があるけど興味はあるか」と聞いたら、「ある」というから、日本に呼び戻してオーディションを受けさせた。そのころはこっちから、こういう人はどうかな、とめぼしい人にはオーディションの誘いをかけていました。だいぶ後年になってからもそういうことはよくあった。
日比野 小鹿敦さんも出演していますね。
中村 彼は東宝現代劇の一期生で、本当に達者な男だったね。リズム感がある。だいいち『マイ・フェア・レディ』も経験しているから、ある程度歌えるということはわかっていた。歌って、もちろん芝居歌だけど、それが非常にうまかったから。
日比野 やっぱりオーディションを受けて?
中村 もちろん。この芝居は全部、友竹正則だってオーディションでした。でも彼はこういうアメリカのミュージカルに出たのはほとんど初めてだったでしょう。以後は常連になったけれど。
日比野 友竹正則は、その直前に梅田コマ劇場の『メイム』(一九六七年三月)に出ているようです。

『スカーレット』創作の実験と野望


神山 その後になりますと、森繁久彌さんとの『金瓶梅』(一九六九年二月)がありますね。「東宝ミュージカル/大型喜劇」と銘打たれています。
中村 ありましたね、帝劇でやった。しかし、ミュージカルというほどのものではない。歌入り喜劇というところです。
神山 森繁さん主演ですからね。
日比野 この時は関矢幸雄さんが振り付けを?
中村 そうです。『ファンタスティックス』も『屋根の上のバイオリン弾き』もそうですし、『マイ・フェア・レディ』からやっていますね。その前に『ブロードウェイから来た13人の踊り子』(一九六二年七月)と、もう一つ、『君にも金儲けができる』(一九六二年九月)をやって。つまり『マイ・フェア・レディ』をやるための試し路線です。で、それがとてもよかったので、『マイ・フェア・レディ』に起用された。
神山 『ザ・サウンド・オブ・ミュージック』(一九六五年一月)も『キス・ミー・ケイト』もそうです。
中村 あのころのものはほとんどそうでしょうね。関矢の弟子が坂上道之助で。だからしょっちゅう彼は、坂上をダンサーの中に入れてくれ、と言って、トップダンサー的に扱っていた。そのうち坂上も振付に興味を示して、後年、僕は坂上とずーっとやっていました。
神山 一九七〇年一月の『スカーレット』でも大変な規模のオーディションをやったそうですね。仲代達矢や北大路欣也も参加したとか。
中村 東宝としては、それは仲代が一番で、これもこっちから「受けてもらえませんか」と頼んだ。あとは、北大路、田宮二郎、今の吉右衛門にまで及んだ。日本にオーディションというシステムを植えつけていくためにも、受けてみてくださいと。ただやっぱりスターだと、「落ちるとみっともないから絶対にマスコミに知られないようにしてくれ」という話はありました。だから、それぞれ日にちを違えたり、帝劇でも裏口を使ったり。それでなんで最終的に宝田に決まったかというと、相当いろんな人を見た後で、今でもある帝劇の九階の稽古場に彼がやってきたんです。で、あそこは四、五段階段があって、稽古場の平場に降りるようになってるんです。そこを宝田が「おはようございます」と手を挙げながら降りてきた。その姿を見ただけで、演出のジョー・レイトンが「あ、あれはバトラーだ」と。それからちょっと面白かったのはね、このオーディションでは、相手役を僕がやったんです。誰か女優を呼ぶと、そこから情報が漏れるかもしれないから。男であろうと女であろうと、全部僕が読んだ。スカーレット役もメラニー役も読んだ記憶があります。
日比野 先日、先生が女形を五郎劇でなさった[二〇一五年八月十六日に開催された日本演出家協会主催「日本の近代戯曲研修セミナーin東京 第 十三回」で中村氏は曾我廼家五郎『面師の妻』の妻役を演じた]のはその延長線上にある(笑)。
中村 そうです。その時以来です。ところで『ステージ・ショウの時代』(森話社)の中のあなたの文章に『ビンズ・アンド・ニードルズ』(一九三七年十一月)が出てくるでしょう。『スカーレット』の作曲家、ハロルド・ロームというのは、あれを作曲した人ですよ。
日比野 そうなんですか。それは知りませんでした。『スカーレット』は、日本発の作品ですよね。原作は菊田さんの本とは別にありましたか。
中村 いや、脚本・菊田一夫だけ。これもまた菊田さんのアイデアで、われわれはブロードウェイ流のミュージカルのつくり方をよくわかってない。だから、スタッフを全部あっちから呼んで、それで彼らがミュージカルをつくるプロセスを見て、勉強しようということだった。これは大英断でした。すごく先進的な考えだったと思います。それで、演出のジョー・レイトン、作曲のハロルド・ローム、装置のデビッド・ヘイズ……というふうにスタッフを呼んだ。中でも編曲のトゥルーディ・リットマンというおばさんの仕事はとても勉強になりました。ハロルド・ロームはメロディメーカーで、メロディーだけをつくる。で、この編曲家が、オーケストレーションをやって、原曲をグンと立派にする。こういう人がいるんだということを知ったこと自体が収穫でした。後に僕は『ファニー』(一九九三年六月)というミュージカルをやりますが、それもやっぱりロームの作品です。ですから、僕が文化庁の研修で一年間ニューヨークに行ったときには、ローム家にしょっちゅう遊びに行って、非常に親しくなって、クリスマスも過ごさせてもらったりした。
神山 美術はデビッド・ヘイズですか。
中村 そうそう。デビッド・ヘイズが装置の図面を描くんですが、音楽の流れに合わせて美術の転換が変わっていくんです。始めに音楽ありき、です。だから、音楽がつくられるプロセスと、装置が変わっていく様子を初期の段階から見ることができたのは、外国人スタッフを入れたことの収穫だったと思います。また、ここからようやく、ミュージカルとはどのようにつくるのか、そのやり方を盗もうという意識が出てきて、実際に頭に入れることもできるようになった。それまでは、ただわーっと夢中でやっていただけでした。
日比野 図面や楽譜を向こうから送ってきてやりとりしたわけではないんですね。
中村 そうじゃないんです。スタッフまる抱えで、全部こっちへ来てやった。まず詩にメロディーをつける。ロームがポンポンポンとあまりうまくないピアノを弾いて、フンフンと唸る。その時にはもう、編曲のリットマンも横にいて、そこからどう音楽を展開させるかを考えている。それを日比谷の稽古場でやったんです。日本人のスタッフもそばに置いて。日本のミュージカル界でこれほど贅沢なことをしたのは、あれきりだと思います。ですから『スカーレット』の持つ意味はとても大きいんです。
日比野 そうすると稽古も長くかかりましたか。
中村 ずいぶんかかりました。本読みや歌、踊りの稽古から、半年くらいはかかったんじゃないかな。それだって全部仕上がって、さぁこれをやるぞ、というんじゃないんだから。台本も曲も直したりしながらの稽古です。だからこそ、贅沢でもあり、大変勉強になった経験です。
神山 菊田さんなしではできなかったことかもしれないですね。
中村 絶対できない。で、この『スカーレット』をロンドン・ニューヨークをはじめ、全世界でやりたいというのが菊田さんの最大の野望だった。不幸にしてそうはならなかったけど。その後『歌麿』(一九七二年五月)もそういう狙いでしたが、これも結局はブロードウェイには行けませんでした。
神山 『スカーレット』では、バトラー役の宝田明が、直前に怪我で降板しましたよね。急遽出演した北大路欣也はどのくらい稽古できたんですか。
中村 一週間か十日ですね。ただ、オーディションで歌を歌っていたし、せりふもある程度勉強していた。だから下地はあったんです。アンダースタディーのような制度は、そのころの日本ではなかったから急なことでしたが、彼のスケジュールが空いていてよかった。
神山 ただ、北大路は、それほどミュージカルの経験はなかったですよね。
中村 でも彼も声はよくてね。確かにオーディションでは、パッと宝田明に決めたんだけど、そのときから二番手は北大路だったんです。ほかの人は、名前は大きくても歌が落第だった。でも彼は歌も悪くなかった。だからこれは、北大路が昇格したという、自然の流れでもあったんです。
神山 スカーレット役の神宮寺さくらもオーディションで選ばれたんですね。
中村 はい。これは菊田さんがオーディションを受けろと指名したんです。それで、レイトンも気に入って。ただ、宝塚時代の名前[内重のぼる]ではなく、初めての名前にしたいというので、菊田さんが名付けた。僕は「ジングウジサクラ。なんだ、これは」と首をひねった覚えがありますけど。
神山 田宮二郎もアシュレーで出ています。
中村 東宝の思惑では、バトラーのつもりでオーディションに呼んだんです。そうしたら、ジョー・レイトンが、「いや、彼はアシュレーがいい」と言って。「アシュレーのせりふもやってみてくれ」というんで、急遽、僕がメラニーを読むことになった。彼とも親しくなったけど、あいつは自殺しちゃってね。
神山 田宮も結構歌ったんですか。
中村 宝田明ほどにはいきませんね。もうちょっと不器用でした。
日比野 あの時代のミュージカル男優では、宝田さんが頭一つ抜けていたんでしょうか。
中村 そうですね。『キス・ミー・ケイト』や『アニーよ、銃をとれ』で、江利チエミを相手に堂々と歌いあっていたわけだから。そういう人では、高島忠夫もいましたね。
日比野 高島忠夫は、今聴くとそんなにうまい感じもしないですが。
中村 そうですね。ただ、顔だけじゃなくて声にも、甘さとソフトな雰囲気があって、好感を持たせるところがあった。
神山 私の感じでは歌い方がいいんです。体の動きが。ミュージカルは音だけ聴くわけじゃないですから。単に体を揺らすだけなんだけど、実に魅力的でした。
日比野 ハロルド・ロームは、日本語の詞を聞いてメロディーをつくっていたんですか。
中村 そこが難しいところで、基本的に英語の歌詞で作って、その後、日本語の歌詞で歌ってみて、ちょっと直したりしたこともあります。複雑だったのは、いったん作った英語の詞を日本語に訳すと、言葉の量が違うから、意味が少し違ったり、足りなかったりするじゃない。「この言葉はどこへ行ったんだ」なんて、おかしな現象、翻訳ミュージカルのいちばんの弱点が出てくるんです。「それじゃ困る」と言われて直しても、今度は言葉が多すぎて困っちゃう。そんなことで、ずいぶんと、いったりきたりのやりとりがありました。
日比野 いわゆる一音符一音主義と一音符一単語主義の違いですが、日本の初期のミュージカルでも、一音に一単語のせる試みはされたんですか。というのは、歌でもそういう工夫がされていましたよね。たとえば美空ひばりは一音にちゃんと単語が乗っていた。
中村 試したことはあったけど、あまりうまくいかなかったというのが僕の印象です。全然しなかったわけでもないし、まれになんとかなったこともあるけど、全面的にはうまくいかなかった。
日比野 『マイ・フェア・レディ』では、わりと一音符一単語になっているようでしたが。
中村 「なぜ英語が分からない」なんていうのは、あれはしゃべる言葉の延長だから。メロディカルな歌だと、それができないんですよね。
日比野 単語が多いと、日本語としては聞きづらいなという判断も出てくるんですね。
中村 そういうことになるんです。特にメロディーを中心においた叙情性のある歌詞のものだと。逆にテンポが速くて変化があって、言葉をたくさん入れてもそのことが生きるような、しゃべり歌に近いものだったらできる。だから質によるということだと思いますね。
 『スカーレット』で僕が記憶しているのは、これは上演が一月で、稽古がすごく寒かったっていう印象です。原寸が絶対必要だとジョー・レイトンが言い張るので、今の赤坂サカスの辺りにあったテレビのスタジオを借りたんです。東宝の稽古場だと少し狭いんですよ。ところがそこには暖房がなくて、その寒い稽古場に一カ月ほど通いました。

『ラ・マンチャの男』開幕


日比野 一九六九年の四月の『ラ・マンチャの男』には、演出協力としてエディ・ロールの名前があります。
中村 これについてはいろいろ変転していて、いろんな記録のされ方をしていると思います。最初は振付だけだったんですが、振付と演出協力になったり、やがて演出になったり、「初演はエディ・ロールの演出による」というような書き方もあるんです。このエディ・ロールという人は、ロンドン版やオーストラリア版でも演出・振付をやっているんです。だから日本版についても、当人もそのつもりでいた。でも東宝は振付だけがエディ・ロールで、演出は僕ということにしていたんです。だから実際にやってきて、僕が「ここはどうなっているの」と聞くと「それは教えられない。私は演出じゃないんだから」みたいなことがあったんですよ。「そんな意地悪を言わないで教えてよ」と言ったら「だったら私の名前を演出に入れてくれ」というので、いろんな表記ができました。僕は演出協力でも共同演出でもなんでもいいから、むしろ彼からいろいろ聞き出した方がいいと思っていて、いろんなことを相談したり何かしました。それで「共同演出」になったんですね。
 さっき、初期のころは「台本や音楽をいじるな」という以外には、特に条件はなかったといったけど、今、キャメロン・マッキントッシュの作品は、全演出が売られているでしょう。そういう傾向はこの『ラ・マンチャ』の時から出てきました。台本を変えない、音楽を変えない。それは当然のことですけど、さらに元装置を使うこと、元振付を使うことという条件がついてきた。それは初めてのことでした。あの特殊な装置をそのまま使って、振付も変えないとなると、新しい演出をするなんてことはまずできない。間のせりふの演出を変えてみても、それほど変わるものではないし、ナンセンス。だから僕はむしろ、そういう制約があるなら、逆に元の演出通りにあっちのいいところを移し替えた方がいいと思いました。それで僕は日本人の俳優に、日本人の肉体と言語で、あの哲学的な主題を吹き込むこと、に集中しました。大分たってから、アメリカの関係者には「世界中でいろいろやっているけど、日本のがいちばん原演出が残っている」と言われました。
日比野 装置には真木小太郎の名前もあります。
中村 ハワード・ベイと真木小太郎というふうになっている。真木さんは日本側の協力者ということで、日本の劇場に合わせてサイズを変えたりした程度のことです。
日比野 そういうこともあったからこそ、幸四郎がブロードウェイに出たときにも、違和感なくやれた面があるんですね。
中村 装置と振付が同じですから、まずなんの違和感もなくやれたと思います。違っているのは言語だけであって、大きなところは変わっていない。僕はこの時初めてブロードウェイに芝居を観に行ったんですよね。今はもう、やる前に観に行くなんてことは当たり前だけど、このころはまだ外国に行くのは難しい時代で、菊田さんのような偉い人はともかく、一般のスタッフが行くようなことはなかった時代です。でも僕はこの時、『ラ・マンチャ』を五日間くらい観て、いろいろメモしてきているから、元演出の大きな動きやなにかは全部わかっていた。そのうえでエディ・ロールにも具体的に細部がどうだったかと聞いているわけだから、それは非常に元と近いものになるはずです。
日比野 音についてはどうですか。移調はしていたんですか。
中村 染五郎についてはなかったと思いますよ。アルドンサは三人いまして、草笛光子、浜木綿子、西尾恵美子ですが、これも下げていたということはないと思います。みんなソプラノですから、上は出た。ひょっとしたら西尾が半音ぐらい下げたかもしれませんが、明確に覚えてはいません。いずれにせよ音楽を損なうほどの下げ方はしていません。
神山 初演の時、僕は十九歳でしたが、あの頃からずいぶん、ミュージカルは動きが激しくなっていったと思います。こだわるようですが、当時のマイクはまだピンマイクではないですか。
中村 ええ、まだこういう[棒状の]ものでした。
神山 でもあんまりノイズの記憶はないですね。やはり新しい帝国劇場になってから、音響や何かの性能も変わったんでしょうか。
中村 変わったというか、スタッフも慣れてきていたんですよね。『ラ・マンチャ』の初演では井上孝雄のカラスコがうまかったのが印象に残っています。ドン・キホーテの敵役、対立者だけど、あの役がしっかりしていることが重要で、僕はあんなにいいカラスコは、あれ以来観ていないですね。
神山 井上孝雄は、東宝現代劇から出た最高のスターですもんね。
中村 歌はちょっとしかないから、芝居なんですよ。ドン・キホーテの理想主義に対立する現実主義という、作品の根幹部分をいちばん出せていたのが井上孝雄だったと思いますね。小沢栄太郎なんていうベテランが牢名主で出ていたのも、存在感があって、面白かったですね。歌はちょこっと、叙勲の歌くらいしかないし、あれもしゃべっているようなものだからいいだろう、ということで出てもらった。
日比野 小沢栄太郎や賀原夏子といった新劇系の俳優たちは、楽しんで出ていたんでしょうか。
中村 小沢栄太郎は、俳優座を辞めた直後で、人生が切り替わるときだったので、大喜びで出てくれました。この作品にも惚れ込んで。あの人が印象的なのは、『ラ・マンチャ』では袖は使わなくて、地下に待機場所があるんですけど、誰より早くそこに行くんですよね。あと、神父役は友竹正則。初演の配役はなかなか揃っていたな。
日比野 黒柳徹子も出ています。
中村 チャック[黒柳徹子の愛称]は家政婦で出ていました。その辺は少し客寄せ的な意味もあるんですよね。適役というよりもちょっと面白そうな人を一人入れようという。これはプロデューサーの感覚です。

二期会オペレッタ路線の始まり


日比野 一九七〇年の七月には二期会オペラ『メリー・ウィドウ』を手がけていらっしゃいます。先生はもともとクラシック音楽には親しんでいらしたそうですが、そうした関心からこのお仕事をされたんですか。
中村 好きだったというか、『王様と私』に出ていた立川清登ととても仲良くなって、「やって見る気はないか」という打診があったんです。それで菊田さんにも「こういうものをやってもいいですか」と聞いたら「どんどんやってこい」というので引き受けました。立川の最初のプランでは、菊田さんに本を書かせて僕に演出させようということだったらしいけど、忙しいということもあってか「中村に書かせればいいじゃないか」と菊田さんが言って、僕が脚本・演出ということになりました。これが東宝以外でした最初の仕事です。
日比野 これはフリーとしてではなく、東宝所属のままやられたんですか。
中村 フリーになるのは相当後のことです。東宝は、在籍中でも、東宝の仕事の邪魔にならなきゃ外部の仕事をしてもいいよ、という、わりと緩やかなところだったんです。ですから、外部演出については、一応届けを出してやっていました。二期会のときもそうです。
日比野 このときは、堀内完さんが振付をされています。
中村 はい。完さんとは初めてでした。二期会の方で前にも仕事をしていたので、「これは完さんに頼みたい」というので、僕は「いいですよ」と言って。オペレッタでは、二期会では前に『こうもり』もやっているけれど、その演出は栗山昌良さんという新劇系の人。だから相当オーソドックスというか古い形でやっていたんですね。それで『メリー・ウィドウ』はもっとミュージカルに引き寄せたやり方にしたいと。ただ、完さんも「ここでのプロはあなたとぼくだけだよね」って言ってたのはよく覚えている。歌にしろ、芝居にしろ、動きにしろ、われわれがどんどん引っ張っていかないと、あの人たちはなかなか腰が重いから、というような意味だと思ったけど。
日比野 二期会としても外部の力を借りて、何か新しいことをしようという意欲があったんですね。
中村 そうです。これで二期会のオペレッタが非常に脚光を浴び、新しい路線にもなった。
日比野 クラシック界は保守的で、ミュージカルという別の畑から人材を持ってくるなんていうのはなかなか難しいというイメージもありますが。
中村 このごろではしょっちゅうあることだけど、当時としては初めての現象でした。これもほぼ全役オーディションしました。主役は、プロデューサーでもある立川清登自身がやったんだけど、ほかの島田裕子や佐藤征一郎、それから林靖子なんかはみんなオーディションで選んだ。歌はみんなしっかりしているのはわかっているから、せりふと若干の動きをやってもらって。歌手としては実力もあって著名な人だけど、この作品には向かないからごめんなさいしてくれと立川さんに断ってもらったこともありました。林靖子の役はヴィラシエンヌといって、踊りもあるから、何人も何人も会って、やっと決めたんです。
日比野 ミュージカル的な演出はすんなりと受け入れられたんでしょうか。
中村 なんの抵抗もなかったですね。あるとすれば、クラシックの人は何をやっても音楽大学の先生みたいになっちゃうということくらい。特に男性はね。そう見えないのは立川清登くらい。あと佐藤征一郎も、そうじゃなかったから面白かった。
日比野 スタッフのことで印象に残っていることはありますか。
中村 中山禎一という人が会長で、畑中良輔が理事長。有名なクラシック歌手がみんな、上の方にいました。僕はずいぶん、そういう人たち相手に文句を言ったり、怒鳴ったりしたこともあった。その人たちが、というよりは、合唱団とかオーケストラっていうのは古いしきたりをずっと引き継いでいるようなところが多いんですね。たとえば何分稽古したら休憩するとかって決まりがあって。もちろん声のためにはそうかもしれないけど、芝居のためにはそんなにしょっちゅう休んでいたらやってられないって怒鳴った記憶があります。今はそんなことないと思いますけど、あのころは合唱団の力が強くて、二期会のスタッフも彼らのいうことを崇め奉っているところがあった。合唱団にそっぽを向かれると困るから、というような政治的な理由で。だから、そういう面でも、この『メリー・ウィドウ』が旧弊を打開するようなところもあったと思います。古典一辺倒だった二期会にオペレッタ路線というものができたわけですし。
日比野 二期会ではその後『こうもり』も演出されます[一九七一年二月]。
中村 あれはあんまりうまくいかなかった。まず、場所が日比谷公会堂だったんです。昔はいいホールでしたけど、その後新しいところがたくさんできた時代でしたから、やっぱり貧弱でしたね。設備も照明も。それでなんとなく、上野の文化会館でやった『メリー・ウィドウ』と比べても、後ろ向きな感じになりました。それと、さっきも言ったように『こうもり』は栗山昌良演出でやっていて、主要な配役もそのままでしたから。やっぱり前のときの演技が根強く残っていたんですね。いくら壊そうとしても壊れないくらい。ですから、『こうもり』をやってよかったのは、若杉弘[指揮者、一九三五—二〇〇九]と知り合いになれたことくらい。文化庁の研修のときにも、ヨーロッパでは若杉弘が方々を案内してくれた。

ジァン・ジァン版『ファンタスティックス』の伝説


日比野 一九七一年四月は、アトリエ41の『ファンタスティックス』です。アトリエ41というのは、松江陽一さんが設立されたんですね。
中村 そうです。松江陽一は東宝の撮影所の俳優で、その前には日劇のダンサーというか、研究生みたいなものでした。ダンサーだったのが、一年くらいで、ニューフェイスの何期生かになった。それで二、三年やっているうちに助監督だった僕と親しくなった。僕は一つ年下で、だいたい同年輩ですしね。そうこうするうちに彼は東大出で非常に優秀な男だったので、当時の文部省の制度か何かでイタリーのローマのチネチッタに留学した。で、帰ってきてからは助監督に転向し、やがてプロデュースの方に行って、黒澤(明)組のプロデューサーになった。『どですかでん』(一九七〇)と、『デルス・ウザーラ』(一九七五)は松江陽一制作です。だけど彼は東大劇研で芝居をやっていた男だから、芝居のプロデュースもやりたかった。それで、東宝をやめた後アトリエ41というプロダクションをつくって芝居と映画の両方をつくることにしたんです。将来、大きな劇映画をやりたいとは言っていたけど、ついにそれは実現していないですね。『馬の詩』(一九七一)というのを一本作ったな。木下亮の監督で、とてもいいドキュメンタリーでした。小一時間くらいのもの。それから演劇もやろうというので最初にやったのが、『ファンタスティックス』。その後アトリエ41では岩淵達治演出のブレヒト『ハッピーエンド』(一九七五年三月・ジァン・ジァン)なんかも手がけた。
僕ものちに、泉鏡花の『山吹』(一九七七年十月)もアトリエ41でやっています。
 自分の生涯の仕事のベストワンを選ぶなら、僕はこの『ファンタスティックス』にしますね。芸術座ではなくて、ジァン・ジァン版のね。宝田明のベストパフォーマンスも、このときのエルガヨだと思います。これは、芸術座版が赤字だったので、菊田さんに「もうやる気はないでしょう」と聞いたんです。そうしたら「うん、もうやらないので勝手にしていい」というので、「じゃあ外でやってもいいですか。友達のプロデューサーに頼んで外国と交渉させますけど」と散々念押しした覚えがあります。それで松江に交渉をさせて、やることになった。そのときにさっきもちょっと申し上げたように、宝田明を帝国ホテルに呼んで三人で話をしたんです。僕も松江も、撮影所で宝田のことはよく知っているし、「歌がいいし」というので。それがジァン・ジァン版『ファンタスティックス』のスタートだったんですね。
神山 松江さんは、アトリエ41をつくった段階で東宝を辞められたんですか。
中村 辞めていました。松江陽一というのは、映画界ではいろいろ噂のある男で、黒澤さんが東宝を辞めた後、黒澤プロの事務局長みたいなものに就任しているんですよ。それと、当時四騎の会というのを木下惠介、市川崑、小林正樹と黒澤さんとでやっていて、四人の大監督が一つのプロダクションをつくったわけですけど、その事務局長だかなんだかもやっていた。大会社でもないところで大監督と結んで、というので、大会社の経験もある松江が暗躍して、いろんな問題を引き受けていた時期があるわけです。アトリエ41ができたのは、それとほぼ同じ時期だから、またそういう団体とアトリエ41を掛け持ちしていたから、あれは黒澤プロの隠れ簑のようなものじゃないかと言われていたのを私も知っています。
日比野 あぁ、税金対策のような……。
中村 そうです。そういう悪口をいう人もいましたね。松江は今、マスコミと縁を切って、山の中に引きこもって、どこへも出ていかないんですよ。高尾山のあたりで仙人のような暮らしをしているらしいです。
神山 ジァン・ジァンの支配人の高島進さんという方は演劇には関心はなかったんですか。
中村 シャンソン喫茶を経営していたくらいですから、ポピュラー音楽の世界には、結構顔のきいた人ですよね。だけど、演劇では……ジァン・ジァンは、そういうふうに使われるようになって、偶発的にそうなったのかなと思います。私たちはあそこでやらせてほしい、という直談判に行ったわけですが、それはシャンソン喫茶だった時に、僕が「ここでファンタスティックスをやったらいいだろう」とあらかじめ考えていて。いくつかの候補の中でもベストだろうということで話に行きました。
 ジァン・ジァンの『ファンタスティックス』を見てミュージカルに目覚めたという人は多いですよね。青井陽治なんてそうですよ。甲斐正人もずいぶん通ったんだって。
神山 そうですか。やっぱりミュージカルというと、大きな飾り込んだ装置で派手なオーケストラを組んでものすごいお金をかけなきゃできないと思われていたのが、そうじゃなくてもできると証明したのは大きいですしね。甲斐正人さんは商業演劇の、新派や新喜劇でも名前を見ます。ミュージカルではないんですが、今さっきお話が出た『山吹』の主演は鰐淵晴子ですか。
中村 いや初演は文学座の新橋耐子で、これは私の強く望んだ配役です。俳優座劇場でやりました。今のじゃなくて旧俳優座劇場。再演で鰐淵がやった時[一九九二年九月]は、PARCOパート3でやったんです。演出はどちらも僕です。新橋耐子の初演が圧倒的によかった。その相手役をつとめたのが天本英世です。
神山 『山吹』の世界にぴったりですね。
中村 『ファンタスティックス』のヘンリーは旅役者で、こっちは人形遣いですから同じような系統のものだけど、彼の生涯の代表作はその二本ですね。

劇を突き動かす菊田一夫の勘


日比野 一九七二年五月には『歌麿』が上演されます。これも菊田一夫さんとの共同演出ですね。
中村 これは本の練り方が足りなかったなと思います。さっきの『スカーレット』が理想的なミュージカルの作り方をしていたのに比べると、まず脚本が遅かった。作曲はいずみたくでしたが、これも遅れに遅れ、それで振付も遅れて、結局、いつもの商業演劇とたいして違わない時間のなさに追いまくられることになってしまった。日本でいちばんの売り物である浮世絵という題材をバックに世界に打って出ようとした、その壮大な計画や気概に比べて、さまざまな事の進行が遅れて十分な作り方ができなかったんですよね。まず、本がとても長くて、だいぶカットしたけど、それでもすごい長さだった。また、カットしていくうちに中身もぐらついてきて、あまりいい出来ではなかったです。
神山 あのころの菊田さんはもう、体調も相当衰えていたのではないですか。亡くなる前年のことですし。
中村 やはりそれはありました。昔は書いて書いて、カットしてもちゃんとその方がよくなったんですけど、このころにはもう、ズバッと切るような気力、体力がなかった。あっちをちょこっと、こっちをちょこっとというような切り方でかえってよくなくなっちゃうやり方をしていた気がします。この作品で印象に残っているのは美術だけですね。朝倉摂が初めて商業演劇で仕事をしてとてもいい成果を残してくれたと思います。
日比野 『歌麿』は後に、いずみたくが引き取って上演していますね。
中村 そう。藤田敏雄が本を書き換えて、最初は「菊田一夫原作、藤田敏雄補作」といっていたけど、だんだん「藤田敏雄作」になりました。内容もそういうふうに変えていったんでしょう。
日比野 いずみたくさんの仕事にはどんな印象をお持ちでしたか。
中村 いずみたくさんは、とても熱心に『歌麿』の曲を作ってくれましたが、僕はちょっと重いとか硬いという印象を持ちました。ただ、とても気が合って、一緒に飲みに行ったりした記憶はあるけど。脚本に問題はあっても、歌がよかったらそれはそれで成功ということもあるけど、あの作品では脚本もうまくいかなかったし、作曲も、彼のいちばんいい面を出せてはいなかった。だから何度も見直しながら自分のところでやっていたというのは、結局、最初のものに満足できなかったということでもあると思います。
神山 京マチ子とはこの時が初めてですか。
中村 ええ、僕はこの一回きりです。
神山 京マチ子の歌はどうでしたか。
中村 あんまりうまくありませんでした。やっぱり踊りですよね、あの人は。OSKですから。それは堂々としていました。歌では、やはり浜木綿子。後は水谷良重、染五郎が出ていましたね。
日比野 フランキー堺、友竹正則、小鹿番、沢木順。
中村 写楽は誰か不思議な人がやっていたな・・・・・・フランキーじゃないんですよ。フランキーは十返舎一九。四季にいた松橋登だったかな。
日比野 はい、そうです。
神山 菊田先生は、昭和四八年[一九七三年]に亡くなりますね。菊田さんが健在のころと亡くなった後では、東宝の演劇部は、変わったという印象はお持ちになりましたか。
中村 がらりと変わりました。
神山 そうですか、やっぱり。
中村 はい。菊田さんは、『スカーレット』でも、ブロードウェイのスタッフを呼んで、製作の最初の時間から共有していくというような、革命的なことができる人だった。『マイ・フェア・レディ』からそうだったけど、東宝の演劇を自分の意思で動かすだけの実力を持っていたんですね。そういう人がいなくなって、今度は中ぐらいの力を持った人が、大勢でせめぎ合うようになった。そうすると、東宝というカンパニー全体としてのまとまりがなくなっちゃう。プロデューサーたちは自分の勢力を拡張しようとして、親しいスタッフやキャストを抱え込んで、内部分裂みたいな感じになるし、失敗しないように冒険はしない。だから外からの刺激も受け入れず、内側で小さな揉め事を繰り返しているような集団になってしまったというのが僕の印象です。それは菊田さんのいた時とは雲泥の差です。東宝演劇のいちばんよかった時期は、菊田一夫のいた時代です。
神山 菊田先生が灰皿を投げつけるとか、あれは単なる伝説ですか。
中村 僕の目の前で投げたことはありません。怒鳴りつけられたことはありますが。灰皿はむしろ蜷川幸雄の方じゃないですか。僕が東宝演劇部にいくもっと前、『花咲く港』[一九四三年三月・帝国劇場]を書いたころとか、若くて血気盛んな間はそういうこともあったように聞きますが、僕の時代にはなかったですね。
神山 ミュージカルの演出でも、菊田先生は芝居のところだけでしょう。
中村 そうですね。
神山 あんまり細かいダメだしもなさらない。舞台稽古しか来ないということもあったそうですね。
中村 舞台稽古ではちゃんと見ていますよ。しっかりしたダメ出しをします。つまり技術的なことではなく、その役の土性骨についてです。ただ、踊りとか歌というところは、振付師や歌唱指導者に任せっきりで、という感じです。
日比野 評論家の安倍寧さんは菊田さんの東宝ミュージカルについて「レヴュウと喜劇をごっちゃ混ぜにしたまがいもの」だった、と書いておられます[『ショウ・ビジネスに恋して』七一頁]。菊田さん自身も『スイート・チャリティ』(一九七二年五月)のプログラムに、自分は二十何年やってきて、「浅草オペレッタ」と悪口を言われたこともある、と正直に書かれていたんですが、ご本人として、自分の感覚は古いというような意識はあったんでしょうか。
中村 それは僕、あったと思います。それこそ『スカーレット』で、ブロードウェイの連中を呼び込んで、彼らが舞台をつくっていくのを見る、というのは、自分の中にはない新しい方法を知りたい、参考にしたいという思いからでしょう。だから、その稽古場には、菊田さんはよく姿を見せていた。それから、僕たちにもよく言っていたのは、浅草時代はレビュー小屋の舞台の真下で、上でドンドンやってて、ほこりが落ちてくるようなところで、月に三本も四本も芝居を書かされていたんだと。そういうところで育った匂いは一生染みついて抜けないと述懐していました。
日比野 中村先生や年下の若い日本人スタッフとの間で齟齬のようなものはありましたか。たとえば、中村先生が稽古をされて、後で共同演出の菊田さんが出てきて、おかしなことを言うような。
中村 いえ、やっぱりいいことを言ってくれて、大きく直されることで、あの人ならではの天才的な、劇を突き動かす力が生まれた。『蒼き狼』なんか特にそうだったね。みんなで座って作戦会議なんかしているところへ、菊田さんが来ると「居つくな」と言うんです。要するに座りこませるなと。だから、みんなで立って動き廻りながら話したり。やっぱり作戦といっても、不安な状況にあるわけで、その場をもっとかき回していこうということなんですね。そういう劇的な勘の鋭い人だった。特に初期には、僕がやるとむしろ整然としてしまうのを、突き崩してくれるようなところがありました。

小劇場版『イルマ・ラ・ドゥース』の成功


日比野 『イルマ・ラ・ドゥース』(一九七二年十一月)は、これも、ジァン・ジァンで初演された作品です。
中村 これも大好きな、ベストいくつかの中に入る作品です。宮城まり子がプロデュースしています。「これをやりたい」というので、自分で台本と音楽の権利を買ったそうです。
契約がどうなっているかは知りませんでしたけど、「直していいですか」と言ったら「いいわよ、勝手に直して」というから、だいぶ書き換えました。本当は三十人くらい出るような規模のミュージカルなんですよ。それを六、七人でやれるよう、小劇場版にしたわけです。一人が何役もやって、転換も客の目の前でするという演出プランを練ってね。僕が勝手につくった本だけど、この小劇場版はすごくうまくいって、それこそ野口久光さんとか蘆原英了さん、野村喬なんかにも、「本がいい」と褒められました。これは嬉しかったです。
日比野 翌年三月にジァン・ジァンで再演、その後紀伊國屋ホールでも再演[一九七四年六月]されています。
中村 紀伊国屋の前に、ヤクルトホール[一九七三年四月]でもやりました。地方公演もやりましたよ。特に芦屋のルナ・ホールというところがとてもいい劇場で、印象に残っていますね[一九七三年三月]。
神山 ミュージカル俳優としての宮城まり子さんはどういう人でしたか。
中村 最初は大衆的なポピュラー歌手として出てきて、それを菊田さんが拾い上げ『まり子自叙伝』(一九五九)っていう芝居を芸術座でやって。そこから本格的な舞台を経験し、『ブロードウェイから来た十三人の踊り子』なんかにも出ていました。ただいわゆる翻訳ミュージカルに出たことはなかった。僕はストレートプレイの『風と共に去りぬ』で長く付き合って。彼女はプリシーというお茶目な女中の役でしたが、それで親しくなっていたので「中村ちゃん、私、権利買ったからやって」と言われたんです。何を買ったのかと思ったら、この『イルマ・ラ・ドゥース』。全部自分で買ったというので、これはびっくりしました。
日比野 宮城さんは、やっぱりミュージカルをやりたかったんですね。
中村 やりたかったんです。もともと歌手であり、それで芝居もやるようになって。「ブロードウェイミュージカルの主役は、もっとキレイな人だったりするし、私のような役柄で主役になることはありえない。それなら自分でやっちゃおう」っていうことでした。莫大なレコードの売り上げのお金は持っていたから。「買っちゃって、自分のやりたいものを自分でやるんだ」っていう思い切りのいい女でした。相手役の細川俊之は、まだミュージカル俳優という感じではなかったんですよ。文学座にいて、歌が歌えるというので、美輪明宏の音楽劇に出ていてね。それを観て「あいつ、歌えるな」と思ったので、僕は全然面識なかったけど、声をかけた。あとはまったく、僕の身内みたいなメンバーです。友竹、宮野[忠善]、安宅[忍]は東宝現代劇だし、新宅[剛]、川端[真二]はNLTですから。
日比野 佐々木功になったのは・・・・・・ 。
中村 再演です。
神山 このとき、[事実上の伴侶だった]吉行淳之介が挨拶に来たんでしたね。
中村 初演の舞台稽古のときかな。後ろの方で見ていて、終わってから深々と頭を下げて、「ありがとうございました」と言ってね。やっぱり心配していたんだね。
日比野 女優のお遊びだと言われかねないですから。
中村 だから吉行さんとしては、大金を使って、それであまり出来がよくなくて、悪評を浴びたりしたら、と気にかけていたんだと思います。それが、舞台稽古の通しを見て良かったというので「ありがとうございました」と言って。あとでご馳走にも呼んでくれました。
神山 三越劇場の『旅情』(一九七四年十一月)については、まだ聞いていませんね。
中村 これは東宝のプロデューサーに小島亢というのがいるのはご存じないかな。若手で優秀だったんだけど、非常に早く死んだんです。もっと長生きしていたら、東宝のプロデューサーとして、いろいろなことができたと思います。『旅情』は、その小島が持ってきた企画で、その頃東宝と三越劇場が提携した定期公演をやる話が起こったんです。それには映画でもよく知られた『旅情』がいいだろう、ノブさんと宝田で、というところまでは決まった話として僕は頼まれた。これは岩谷さんの訳詞だったな。コウちゃんだけじゃなく、ノブさんもずっと岩谷さんの詞でやってたの。僕が非常に記憶に残ってるのは、これは金森馨という装置家を使ったんですよ。金森は四季の装置をずっとやっていたでしょう。四季の人を東宝で使うのは、最初は許されなかったんですよ。でも、吉井澄雄や沢田祐二がやるようになって、照明家がやるなら、今度は金森を引っ張り出そうといって、小島に交渉させた。だから、それまでの東宝よりは少しモダンな装置を狙ったんです。舞台の前面に[ヴェネツィアの]木の杭が立っていて、どんな場面にもそれがあった。とても面白い装置。
神山 三越劇場ですと、奥行きもないし、装置も大変だったでしょう。
中村 そっくり変えたりはできませんからね。だから、あるどこか一カ所にライトを当てて、芝居や歌が進行している間に、後ろの装置だけを変えてていくんです。
神山 プログラムに道具帳が出ています。
中村 出ているね。杭は書いていない。杭は最後に立てたんだよ。それから、これには石井好子さんが出ていましたね。懐かしいな。
神山 ミュージカルに出るのは珍しいですよね。
中村 これ一回だけなんです。その後も出ない。これで懲りたというか、演技的にはとても不器用な人でした。歌う時はいいけど、せりふを言う時は本当にカチカチになっちゃう。それから佐々木功も出たかな。珍しいのは松金よね子。[テアトル・]エコーの芝居を観たら、熊倉一雄の助手みたいな役で出ていてピカピカ光っていた。まだ無名だったけど「あの子を呼んでくれ」と言ってね。だから[プログラムでは]熊倉一雄が文章を寄せている。大西睦美はダンサーで、新コマ[新宿コマ劇場]のある時期を代表する、大変実力のあったダンサーです。荒井洸子は今でもいろいろな作品に出ています。
日比野 佐々木功がミュージカルをやっていたということを、私は今回調べるまで知りませんでした。
中村 いわゆるミュージカル俳優としてはやっていませんでしょう。
日比野 先生の作品には、ほかに二度出ています。
中村 僕の作品以外にはないと思います。『ファンタスティックス』のエルガヨもやっています。宝田の後のエルガヨは上條恒彦で、その次が佐々木功なんです。最初のつきあいは何かな。
日比野 『イルマ・ラ・ドゥース』の再演は一九七四年六月ですね。
神山 そうすると『旅情』の方が早いですね。
中村 これが初めてだとすると、小島ってプロデューサーが連れてきたんだね。
神山 われわれが知ってる佐々木はロカビリーの印象ですけど。
中村 それからアニメの主題歌宇宙戦艦ヤマトですよね。でも、佐々木功は[新演劇人クラブ]マールイにいたんです。だから芝居が好きなんです。そうだ、僕はマールイで演出したこともあって、金子信雄、丹阿弥谷津子夫妻と親しかったんですよ。二人は東宝の商業演劇にも出ているから。それで僕はマールイの芝居を観ていて、佐々木功が出ているのも知っていたの。そういうつながりはありました。プログラムにも金子信雄が文章を寄せてます。
神山 [金子信雄にとって最後の舞台になった]『釣堀にて』で演出をされたのはずっとあと[一九九三年十一月・俳優座劇場]ですよね。
中村 そうです。金子信雄はその翌年に死んだんです。

『その男ゾルバ』と藤田まこと


日比野 『シュガー』(一九七四年一月)のお話も伺えますか。
中村 『シュガー』は面白かったね。これは僕も大好きです。
日比野 堀内完さんが演出協力ということになっていますが。
中村 そうですか。振付だけではなくて? 
神山 川西清彦さんも振付で入っていますね。
中村 堀内、川西と二本立てでした。だから、どういう機微で、そういう記録になったのか、全く思い出せないです。これはともかく、堺正章と、当時の津坂匡章、今は秋野大作というんだけど、この二人の女装がなかなか面白かったですね。余談だけど、津坂の今の女房は、ジァン・ジァンの『ファンタスティックス』のルイザを初めにやった温碧蓮という女優なんです。その彼女を僕は『シュガー』の女性バンドに入れたんです。それで知り合って結婚したから、「僕がいなかったら結婚してなかったぞ」とよく言っていた記憶があります。
神山 このころは、訳詞で福井俊さんという名前がよく出てきます。
中村 福井俊はどういう人かというと『ラ・マンチャの男』から入ってきています。内藤法美の紹介だった記憶がある。非常に硬派な文学青年でしたね。その後の仕事は知らないけど。
神山 このころだけで、その後あまり名前が出ないんです。
中村 『シュガー』では、由美かおるがかわいかったし、財津一郎がバラを口にくわえて女装している津坂に勘違いして抱きついちゃうっていう最後のところもとても楽しかった思い出がある。
日比野 堺正章さんの歌はどうでしたか。
中村 芸人の軽い歌という感じ。でもそれが、この作品にはとても似合っていたんじゃないですか。
神山 芸人ということでは、少し後になりますが、藤田まことの『その男ゾルバ』(一九八六年十一月)がありますよね。
中村 文化庁の研修でニューヨークに行った時だったか、初演版[一九六八年十一月・インペリアル・シアター]を観たんです。[映画版の主演で、のち一九八三年十月ブロードウェイ再演でも演じた]アンソニー・クインじゃなくて、ハーシェル・ヴェルナルディというミュージカル俳優が主演でした。主役も相手役の女優もとてもよくて、「これをやりたい」と思ったんです。それで東宝へ連絡を入れて、『ゾルバ』を森繁さん、ニコっていう青年を染五郎、相手役は草笛光子なんて、配役予想まで書いて提案したんだけど、どうも地味でいまひとつ乗らないということで、やらなかった。そうしたら、後に新宿コマ劇場でやることになったんですね。コマの北村三郎という人(この頃は重役だったかも知れない)に『その男ゾルバ』をやりたいんだと話したら、ちょうど向こうでも「中村さんにゾルバの演出をお願いしようかと思っていた」って。
 さっき、自分にとってのベストワンはジァン・ジァン版の『ファンタスティックス』だと言いましたけど、それに次ぐくらい好きなのが『その男ゾルバ』なんですね。東宝という組織の枠組みの中でやっていたら、会社なり、プロデューサーがスターを配役して、僕が参加するころにはもう、いろいろなことが決まっちゃっていたと思います。『ラ・マンチャの男』なんかもそうでした。配役はもちろん、演出上でも向こうでやったものを変えないという条件がある。だから、自由な発想をする余地がないんです。もちろん『ラ・マンチャの男』は素敵な作品で好きだけど、そこにどれだけ自分のオリジナリティがあったかというと、それほどあるとは言えない。でも『その男ゾルバ』には、そういった制約があまりなかったんです。台本と音楽は変えない、というオーソドックスなこと以外には。振付は向こうから呼んだんですけどね。ジョン・ミネオという人ですが、彼は、元の振付通りでなくていい、とこっちの演出に合わせてくれるという、柔軟な男でしたから、やりやすかったです。
日比野 主演の藤田まことさんは、どういうことで決まったんですか。
中村 藤田まこととは以前、別の喜劇で一緒にやっていたし、コマとも「藤田さんでやりましょうよ」ということになりました。彼も最初は映画版を観て「これはすごい役だ」と気に入っていたらしく、その後向こうの舞台も実際に観に行ったんです。その時はもう、アンソニー・クイン主演版でしたけど、それを観て「これは俺の役だ。生涯の代表作にする」という意気込みで帰国しました。だからすごく熱心に稽古していたし。ノリにノリまくってやっていましたね。歌が上手いのにもビックリさせられました。噂には聞いてきましたけどね。もともと歌手志望で、演歌歌手の前座をやったこともあるくらいだから。いい低音を持っているでしょう。音質と芝居心とテクニックが全部合致して、役者の歌としては最高にうまかったと思います。
神山 懐メロミュージカルとタイトルでうたっていた『望郷の詩』(一九八八年十一月)でもよく生きたでしょうね。
中村 古い歌を歌いまくってね。あれも歌入り芝居としてはレベルの高いものでした。
神山 東海林太郎が得意でしたね。
日比野 藤田さんも借金の問題がなければ、もっと舞台をされたんじゃないでしょうか。
中村 やりたかったんですよ。でも、できなくなっちゃった。だから最後まで、会うたびに「またやりたいですね」と言っていたんだけど、実現しなかった。残念です。
日比野 『望郷の詩』では中村八大さんが作曲で参加されていますね。
中村 それがあんまり印象にないんです。既成曲を使ったでしょう。だからいわゆるミュージカルの曲を作ってもらったということではないんです。ですから、それほど深く協力して仕事をしたという印象はないですね。

日劇『シカゴ』の夢


神山 日劇で演出された、天地真理主演の『君よ知るや南の国』というのもありました。
日比野 一九七五年五月ですね。
神山 振付は縣洋二です。天地真理は国立音楽大学附属高校の声楽科卒業ですが、どんな印象でしたか。
中村 声楽科を出ているんですか。それは知らなかった。信じられないですね。だって声が出ないんだもん。マイクで精一杯ボリュームを上げました。表情も乏しいし、タレントしては能力の低い人で、かわいいだけ、という印象でした。それで僕はイライラして、怒鳴りまくっていた記憶があります。
神山 そうでしたか。
中村 この作品を担当した日劇のプロデューサーは橘市郎という人ですが、彼はいろいろなことにかかわっているんです。ジァン・ジァンの『ファンタスティックス』の初演では僕の演出助手でした。今は京都造形芸術大学のホールの春秋座で客員研究員・顧問プロデューサーをしています。彼はもともと日劇の演出部にいたんですが、応援スタッフのようなかたちで『スカーレット』にも参加していて、そこから今までずっと付き合いがあるんです。
神山 『スカーレット』には、NDTの人たちが出ていましたから。
中村 僕は本当は、日劇では『シカゴ』をやりたかったんです。あれは今、方々でやって人気レパートリーになっているけど、まだ日本では知られてない頃に向こうで観て、「是非やらないか」と東宝と連絡をとった記憶があります。一九七五年か七六年くらいのことです。今よくやっている演出のじゃない、初演版ですよ。当時だと草笛光子と水谷良重でどうかと言ったと思います。でも、これも今ひとつ東宝が乗らなくて。もったいなかったですね。今は階段状の装置を使ってますけど、初演版はちょうど、丸い盆踊りの屋台みたいな感じだったんですよ。だから日劇の丸さにちょうど合っている。「劇場の見かけと舞台装置とが同じスタイルになると面白いよ」とさんざんけしかけました。今や世界的に有名なレパートリーになりましたから、僕は先見の明がありすぎて、かえって実現に至らなかったのかもしれない。
日比野 ブロードウェイでの初演(一九七五年六月)は二年ほどで終わっていますから、日本ではそれほど話題にはならなかったのかもしれません。
中村 そうですね。でも、本質的な良さは今も変わらないと思います。
神山 あのころの水谷良重は、細くて、足も長くて、すごいリズム感があって。
中村 そうですよ。スタイルがよくて、ダンスにもキレがあった。だから僕らはもっと彼女をミュージカルに使うべきだったね。
神山 すごくうまいというのではなかったですが、とても魅力的でしたからね。
中村 生気があってね。
日比野 先生の作品では、『ボーイング・ボーイング』(一九七一年八月)のほかに水谷さんは……。
中村 ミュージカルでは『歌麿』に出ています。ただ、いちばん良かった記憶はストレートプレイで芸術座の『夜汽車の人』(一九七一年十月)という作品です。
神山 萩原朔太郎の話ですか。
中村 そうです。その悪妻の役。これは素晴らしい演技でした。
神山 あれは片岡孝夫[現・仁左衛門]と染五郎のダブルキャストでしたね。
中村 はい。今の歌舞伎界の大物二人で、とても贅沢なことでした。

『ファニー』ハロルド・ロームの手紙


神山 もう少し先のことになりますが『ファニー』(一九九三年六月)はいかがでしたか。
中村 マルセル・パニョルのマルセイユ三部作『マリウス』『ファニー』『セザール』は、文学座が三越劇場で上演したのを、昭和二〇年代、まだ学生だったころに観ています。だから懐かしかったし、いろいろなことをやりたいと思っていたから、これは喜んで引き受けました。梅田コマ劇場の水野匤雄さんという支配人が、慶應の劇研の先輩だったんです。その方から来た話で、僕は大喜びで。『ファニー』は生涯好きな戯曲です。『マリウス』と『ファニー』それからモルナールの『リリオム』。『リリオム』も僕は『回転木馬』という題名で演出したことがあります。ストレートプレイで、岡田眞澄が主演[一九七四年九月・三越劇場。台本:辻久一、美術:朝倉摂]。後に名古屋文化振興事業団でミュージカル『回転木馬』を演出した[一九九二年二月・名古屋市芸術創造センター]こともあって、あの素材自体が好きなんですね。『ファニー』は、パニースが宝田明、セザールが財津一郎という、すごい贅沢をさせてもらいました。このオヤジ二人がしっかりしなきゃ面白くない芝居だからといってね。マリウスは福井貴一だったかな。
日比野 榛名由梨とミッキー・カーチスも出ていました。でも東京ではやらなかったんですね。
中村 宝田明も財津一郎も大ベテランだし、島田歌穂もその頃はもう人気が出ていたけど、そんな渋いメンバーじゃ、東京でやっても客が入らないだろうという判断だったと思います。話はありましたけどね。思い出されるのは、マルセイユだからなんとか客席に海の匂いをさせられないかといって、専門家にも相談したりしたこと。いろいろ実験したけど、うまくいかなかったですね。下手をすると悪臭になっちゃう。懐かしい思い出です。それからこれは『スカーレット』のハロルド・ロームの作曲です。ロームはこの時もう、癌で死の床についていたんですが、ローム夫人が日本まで来て観て、そのビデオを病床の彼に観せたそうです。感激して泣いたんだって。ローム直筆の「よくやってくれた」という手紙ももらいました。それから数カ月後に亡くなったそうです。
日比野 『ファニー』の後には東京エンターテイメント倶楽部の主催で『二人でお茶を』(一九九五年二月)、『紳士は金髪がお好き』(一九九六年十一月)を演出されています。
中村 これは松本某という悪名高い(?)プロデューサーがいてね、新劇界でいろいろ揉め事を起こしたような人だけど、その人が何故かいろんなミュージカルのプロデュースをするようになったんです。僕は朝倉摂の仲介で頼まれました。松本の仕事の装置は全部、摂ちゃんがやっていましたから。ただ、博品館劇場は狭いから、どうもうまくいかなかった。大劇場でやるようなミュージカルの快感は得られなかったですね。要するに装置が流動的にならないんです。『ファンタスティックス』みたいに装置がないものならいいけど、ここで選んだ二つの作品はそうじゃないから。豪華なセットが音楽とともに動く、視覚と聴覚が関わりあって流動するという妙味が出ない。だから、こういうミュージカルをやる劇場ではないというのが僕の感想で、自分ではこの二つはあまり成果は上らなかったと思います。
日比野 博品館劇場では、その前に『ザ・クラブ』(一九九四年六月)を手がけていらっしゃいます。
中村 『ザ・クラブ』は何人かの演出家でやっていて、僕はそのうちの一回をやっただけです。だからどれだけほかのと比べて違うのかということもわからないんです。

創作ミュージカルへの取り組み


日比野 あまり知られていない作品かもしれませんが、一九九八年九月には『ブルーストッキング・レディース』[バリオ・ホール]が上演されます。これも小規模の作品ですね。
中村 はい。作曲は甲斐正人。これが彼との出会いです。その時のプロデューサーが、さっき言った橘市郎です。橘は甲斐正人と日劇時代にいろいろ仕事をしていましたから、それで彼を僕に紹介した。このことが後のわらび座の仕事にもつながります。この作品は尚美学園という学校の製作になっているでしょう。尚美がミュージカル科というのをつくったんですよ。その記念に一つミュージカルをつくろうというので、脚本募集をしたんです。雑誌「青鞜」の平塚らいてうを中心とした、女性ばかりの少人数ミュージカルです。『イルマ・ラ・ドゥース』くらいの規模です。僕は少人数ミュージカルがわりと好きで、『ファンタスティックス』、『イルマ・ラ・ドゥース』、『ブルーストッキング・レディース』というのはその意味で大きく記憶にとどまっています。
日比野 この企画は、尚美学園の方から先生に持ち込まれたんですね。
中村 そうです。当選した脚本を僕に演出してくれと頼まれ、その本の直しから参加しました。ほかのスタッフやキャストは僕が決めて。当時、ミュージカルに出て、高い評価は受けているけれど、スターではない人、実力のある女性たちを連れてきて、大変中身の濃いものができたんです。主役の平塚らいてうは、オペラの人で塩田美奈子。今も活躍しています。高村光太郎の奥さんの智恵子を藤田朋子がやって。彼女も面白い女優でした。
日比野 話が前後しますが、サカモトミュージカルカンパニーというところで一九八二年八月に『ロン・ひとりぼっちのおおかみ』を演出されていますね。これはいわゆる児童向けの作品ですか。
中村 そうなんですけど、坂本博士としては本格的なミュージカルをつくりたいという希望がありました。ただ、彼のところはミュージックスクールを持っているから、現実的にはそこの子供も出さなきゃというので、そういう本を選んでやっていました。台本作者の山﨑陽子さんという人は宝塚の元男役[旗雲朱美]で、背の高い、颯爽としたかっこいい女性でした。結婚して子供を産んで、それから自作の童話を子供に読んで聞かせるということを始めて、童話集を出したんです。それが面白いというので、それでサカモトミュージカルでも第一回から毎回、山﨑陽子が脚本を書くことになりました。元宝塚の人だから、大舞台の仕組みや歌と芝居が入り組むさま、その華やかさも体感している特殊な作家です。そういう脚本があって、坂本は出演もしてたけど、作曲家としての腕もある人だった。
 ですからサカモトミュージカルは、日本の創作ミュージカルとしては相当高いレベルの作品をつくっていたと思います。でも、どうしても生徒を出演させて、父兄に切符を売ってもらうという組織のあり方からは逃れられなくて、結局児童向きということになっちゃった。作家も作曲家も力があって、僕が演出した時には坂上を呼んで振付をやらせたり、相当スタッフも充実していたので、もっと上へ行ってもよかったんですけどね。友竹正則も客演しましたし、淀かほるを主役にしたこともありました。僕はあそこで十年くらいのうちに、三、四本はやっていますが、あれはいい仕事でした。中でも『ロン・ひとりぼっちのおおかみ』はよくできたと思っています。
日比野 創作ミュージカルで、大規模なところでは、わらび座での『アテルイ』(二〇〇一年八月)、『銀河鉄道の夜』(二〇〇四年四月)もあります。
中村 僕のミュージカル人生の中でも特に印象深い仕事でした。いちから脚本にも音楽にも、美術にも参加し、それらが同時に流動していくミュージカルの快感を十二分に発揮できました。装置は朝倉摂で、これもいいスタッフワークでした。何より甲斐正人との共同作業は大変うまくいって、創作ミュージカルの中でも、特にこの『アテルイ』の曲が最高じゃないかと思うくらいでした。
日比野 これはわらび座から、先生に声がかかったんですか。
中村 そうです。わらび座も民俗芸能的なところから出発して、新劇の演出家が入った作品をいくつかやっていたんです。でも、もうちょっとブロードウェイミュージカル的なものも取り入れたい。ということで『ラ・マンチャの男』だとか、僕の演出したものを観て、プロデューサーが連絡をしてきた。それで一度会いましょうということになって、向こうへ行ってみたら、ちゃんとした劇場があって、歌唱力、舞踊力の高い俳優たちがいた。もちろん、それは民俗芸能に裏付けられたものなんだけど、そこにブロードウェイ流を注入して、いいところの接点というか総合的なものを出せたら素晴らしいなと思いました。それで、甲斐正人や朝倉摂のような一流のスタッフを秋田に連れていったんですね。そうしたら二人ともすごく気に入っちゃって、常連になって、何本も仕事をしました。
日比野 『銀河鉄道の夜』では市川森一さんが脚本を書いています。
中村 僕が頼みました。向こうからプロデューサーが来て、市川森一や甲斐正人、朝倉摂も交えて東京で打ち合わせをすることもあれば、こちらから田沢湖の方へ行って、オーディションしたり、配役したり、向こうの大道具と朝倉摂とで話をしたり。装置は全部劇団でつくっていますからね。稽古は全部向こうでしました。だから僕は一本やるのにも、何カ月も、相当の日数を秋田で過ごしています。行ったり来たりしながら、ほぼ一年くらいをかけてつくったんじゃないでしょうか。
鈴木 『アテルイ』や『銀河鉄道の夜』は、その後も繰り返し再演されていますから、わらび座のオリジナルミュージカル路線の基盤を築いた作品といえるかもしれません。また、こうしてお話をうかがうと、日本のミュージカルの現在が、歌舞伎、新劇、歌謡界や映画界、そして民俗芸能など、いかにさまざまなジャンルの人材、才能によって、つくられてきたか、改めて実感させられます。
中村 佐渡寧子という女優がいるでしょう。『オペラ座の怪人』のクリスティーヌや『キャッツ』のグリザベラのような、四季の主要なミュージカルの主役をやっていた。『ファンタスティックス』の何代目かのルイザで、髙嶋政宏と一路真輝の『王様と私』のタプチムもやっていて、僕とはずいぶん縁が深いんですが、その佐渡寧子が去年四季を辞めたんです。それで僕が出した久保田万太郎の本(『久保田万太郎—その戯曲、俳句、小説』)を読んで、「久保田万太郎のせりふを勉強したい」と言ってきて。そうしたらもう一人、同じようなことを言ってきたのが町田マリー。
日比野 パラダイス一座(二〇〇六〜一一)で先生と共演されていますね。
中村 そうです。久保田万太郎には、ちょうど女二人の「冬ざれ」という芝居があるので、姉さん芸者を佐渡寧子、妹芸者を町田マリーで、勉強会を始めたところです。ミュージカルや小劇場をやっていた女優が、久保田万太郎のせりふを言ったらどうなるか、その実験をちょっとしてみたくてね。