宝田明聞き書き


第十一章 宝田明聞き書き
取材日:二〇一六年三月一日
取材場所:山海亭 王子
取材者:日比野啓・神山彰・鈴木理映子
取材立会い:木暮恵子(宝田企画)
編集・構成:鈴木理映子
監修:宝田明・木暮恵子

イントロダクション


 宝田明氏は、極めて知名度の高い俳優であるから、改めて紹介も説明もいらないだろう。ここでは、ミュージカル俳優としての宝田氏について触れることにしたい。
 日本初のブロードウェイ・ミュージカルの翻訳上演は東宝による一九六三年九月の『マイ・フェア・レディ』(東京宝塚劇場)なのは、よく知られるが、その翌年十一月やはり江利チエミ主演で上演された『アニーよ銃をとれ』(新宿コマ劇場)も大層な評判を呼んだ。そこでフランク・バトラーを演じたのが宝田明氏である。芸術祭奨励賞を受賞したこの役が、大きな転機となり、宝田氏は半生をミュージカルとともに歩むことになる。『キス・ミー・ケイト』(一九六六年二月、東京宝塚劇場)のフレッド、『サウンド・オブ・ミュージック』(一九六八年九月、梅田コマ劇場)のフォン・トラップ大佐といった、ハンサムで男らしいが、愛嬌があって滑稽味すら感じられることもある、いかにもアメリカン・ミュージカルらしい男性主人公を次々と演じ、さらにそれが一九七〇年七月『マイ・フェア・レディ』再演のヒギンズ教授を演じて、日本のミュージカル俳優の第一人者としての地位を築く。
 その後、『ファンタスティックス』(一九七一年四月、渋谷ジァン・ジァン)で、ミュージカルのイメージを転換するような舞台を作り上げ、『リトルショップ・オブ・ホラーズ』(一九八四年八月、博品館劇場)のような作品では、ミュージカルの観客層を広げることに一役買った。『マイ・フェア・レディ』から半世紀以上が経ち、現在の日本では毎月複数の劇場でミュージカルが上演されるようになっているが、そこまでに至る日本のミュージカル史を作り上げてきた一人が、宝田氏なのだ。出演したミュージカル作品は本文で触れた以外にも数多いものがある。
 東宝の演劇担当重役だった菊田一夫が宝田氏を抜擢し、重用したのは、それ以前に日本劇場のレヴューなどでの「歌えるスター」ぶりを知っていたからである。私は残念ながら、日劇での宝田氏を見てはいない。しかし、子供の頃から、銀幕のスターとしての宝田氏の歌声と姿とは、耳と目に焼き付いている。テレビで見た、スタンド・マイク時代の、肩を軽く揺らしながら歌うタキシード姿の長身。東宝映画の三人娘(美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ)シリーズなどで、設定や筋立てと無関係に突然歌い出す宝田氏の歌声。それらは、私の少年期の最も柔らかく、懐しい思い出というだけでなく、感受性のある部分に影響している。レヴュー好きの私としては、日劇や浅草国際劇場のグランド・レヴューを抜きに、欧米での原作上演との関連だけで語るのは、「日本のミュージカル」の特質を見逃してしまうと思っている。今回、日劇時代の思い出を伺えたのも大きな収穫だった。
インタヴューで力を込めて語っておられるように、宝田氏は長年にわたり、情熱を傾けて『ファンタスティックス』の上演を続けた。渋谷にかつてあった小劇場ジァン・ジァンでの上演に至るプロセスなど、あの時代の演劇シーンの重要な側面であり、一九六〇代末から七〇年頃にかけて、所謂「アングラ」以外の多くのジャンルでも様々な「実験的試み」がなされていたことの例証にもなっている。リアルタイムで二十歳前後だった私の実感や思い出を補強するものだった。
 近年でも『タイタニック』の船長や『ファンタスティックス』のエル・ガヨの風格や、歌い方を目にし、耳にするとなにともいえない幸福感に襲われる。それは、近年のようにピン・マイクを付けて動き回り、歌詞聴きとれぬまま歌い上げて喝采という時代と違う、品格と落着きある、懐しい歌い方に接せられるからだろう。
 当たり前だが、舞台は個人的な思い出によって語り継ぐことしかできない。そうして夥しい芝居好きは、その思い出を語り継ぐことで記憶を繋げてきた。私は今でも五十回CDを聴いたという研究家や批評家の解釈より、一回しかその生の舞台に接していない人のホンの一言の断片から、その肉感性や官能的な声の肌理を実感することがある。この宝田明氏の回想もそういう現場を知る人でなくては得られない実感に充ちている。今回のインタヴューでは、制作、演出、作詞、編曲など、スタッフの実態や思い出に触れていただけたのもよかった。現実の舞台表現は、演者や演出家以外のスタッフの知恵や勘によって巧みに作られるところが多いからだ。
 なお今回は、近年語られている満洲のハルピン時代の筆舌に尽くしがたい思い出や、映画作品には触れない予定だったが、成瀬己喜男の話題だけは伺ってよかった。成瀬監督のレンズの使い方による効果の違い、『放浪記』での高峰秀子との挿話など、映画史の貴重な証言になっていると思える。(神山 彰)

日劇レビューの時代


日比野 宝田先生は、一般の方々の間では、映画スターと思われているかもしれませんが、実は日本のミュージカルの初期からずっと活躍してこられた本当に貴重な舞台俳優でもいらっしゃいます。ですから今日は舞台、特にミュージカルのお話を中心にお聞かせいただければと思っております。
 さっそくですが、宝田先生は、東宝に入社された二年後、一九五六年二月『春のプレリュード』から、日劇レビューに五、六本、続けて出演されています。同じ年の九月、翌年の十二月、一九五八年十二月、一九五八年四月。一九五九年以後はずっと、毎年一月に上演された『新春スター・パレード』に出ていらっしゃる。
宝田 よくお調べですね。私はもう、とっくに、忘却の彼方だった(笑)。一九五四年に東宝に入って、ポンポンと映画に出て。一本目は『かくて自由の鐘は鳴る』[一九五四年六月公開]という福沢諭吉の伝記映画で、私は諭吉が故郷の中津藩に帰ってきたら必ず一刀のもとに切り捨てると心に決めている、増田宗太郎という青年壮士の役でした。この人は実在の人物で、諭吉と議論するうちにすっかり心酔して「自分は間違っていた」と考えを改め、後に西南の役で華々しく亡くなるんです。東宝に入ってすぐでしたから、大抜擢でしたね。
 それで、「お前、芸名はどうするか?」と聞かれたんですが、「そんなの会社の方でお決めになってください」と言ったら、「お前は東宝の“宝”という字を持っているからそのままいけ」と。それで二本目が『水着の花嫁』[一九五四年七月公開]、三本目が『ゴジラ』[一九五四年十一月公開]。そういう感じでポンポン出ているうちに一九五六年ですね、この『春のプレリュード』に出ろということになりました。『新春スター・パレード』は、当時はまだなかったんですね。
日比野 そうですね。当初はさまざまな名前のレヴューに出られていました。日劇レビューへの出演は、会社からの指示だったんでしょうか。
宝田 もちろん。僕は何を歌ったのかな。
日比野 ソロは、第三景「春の歩道」のようです。
宝田 「春の歩道」。おそらくその情景にふさわしいジャズを歌ったと思います。もちろんダンサー八名をバックにして。
神山 このころの東宝では、社長は別としても、藤本真澄さんがいちばん偉い人という感じだったんですか。
宝田 そうです。映画の筆頭は藤本さんで、演劇担当は菊田一夫さん。この両雄の上に森岩雄さんがいらして、お二人をうまく使っていました。このときは、『新春スター・パレード』の前身みたいなもので、藤本さんから「お前、歌を歌ってるから出ろ」というようなことで出たんですけれど。
神山 これは三人娘のシリーズ[美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが共演した『ジャンケン娘』(一九五五年十一月公開)とそれ以降の作品]にお出になるよりも前ですか。
宝田 前ですね。とにかく毎年出ていたんですね。
神山 『罌粟と太陽』全十景[一九五六年九月]です。山本紫朗が構成・演出を担当しています。
宝田 これは面白い。岡田茉莉子や河内桃子が出ている。
神山 河内桃子さんは、私どもからしますと俳優座のイメージしかないんですが、宝田先生とはなんでご一緒だったんですか。
宝田 東宝のニューフェイスの六期で一緒なんです。
神山 それで日劇にも出ているわけですね。
宝田 そうです。私は一次試験から六次まで、半年くらいかけて苦労しながら、「もう落っこちるだろう、落っこちるだろう」と思ってましたが、あくどく生き残って。ところが最終審査にいったら、見慣れない顔の人間が来ている。「君たちはなんですか」と聞いたら、「私は六期生で」というんです。「あなたがた、試験をやってないね」というと「僕らは聴講生です」とぬけぬけ言ったのが岡田眞澄という男。それから藤木悠、そして「私は大河内桃子でございます」と言って出てきたのが、[昭和戦前期に新興財閥の一角を占めた]理研グループ総裁、大河内正敏男爵のお孫さんの河内桃子でした。六期で一次試験から受けていたのは僕だけでしたよ。三次くらいから合流したのに佐原健二という男がいましたが、彼は[雑誌『平凡』が実施していたミスター平凡コンテストで選出された]準・ミスター平凡ということで入ってきた。だからまぁ僕は、「東宝の六期の由緒正しき保守本流は俺だぞ」というようなことを言って威張っていました(笑)。河内桃子は『ゴジラ』にも一緒に出ていますね。そんなことでまぁ、あのころは映画の新人も人気が出たら日劇に出す、というのがありました。東宝には劇場がありましたからね。東映や大映だと、[映画の]劇場挨拶くらいでしょうけども。そういう意味じゃあ、僕は東宝に入ってラッキーだったと思いますね。
神山 当時の日劇というのはどうですか。お客さんは入っていましたか。
宝田 入っていました。舞台の前の銀橋のところにも人がいっぱいでした。最前列と銀橋のあいだがちょっと空いていますね。あそこに二列くらいに並んで立って観ている人たちがいましたから。
神谷 ドアが閉まらないぐらいだったと聞きました。立ち見の人もいっぱいで。
宝田 そうです。
日比野 宝田先生としては、そういったショーに出ることには、当初はあまり乗り気でなかったんでしょうか。
宝田 とにかく映画を年間十本くらいずつ、多い時には十三本、十五本というようなことでしたから。まぁ、乗り気じゃないといっても、会社の命ずるままに「はい、やります」とやらなきゃいけなかったんですがね。レパートリーもあるわけないので、こういったオリジナルの歌を歌わせてもらったりしてたんですね。そのうち、スタンダードナンバーを歌うようにもなりましたが。夏の場面で日劇のダンサーと一緒に南アメリカの南国風の音楽にのせて「ラクカラチャ」と歌うのがありました。歌詞が覚えられないので、麦わら帽子の内側に、マジックもないですから墨で「ラクカラチャ、ラクカラチャ、今宵も踊ろう、ラクカラチャ、ラクカラチャ」と書いて。サビのところかなんかで、うまく帽子を脱いで、ちょっと見ながらやっていました。
日比野 映画の撮影の合間に出演なさってたわけですから、舞台稽古の時間もほとんどなかったのではないですか。
宝田 日劇の上に立派な稽古場がありまして、そこで稽古したんですが、ご他聞にもれず、映画の合間を縫ってやっていましたから。みんなができあがってるところへスッと入っていくような状況でした。ですから後にミュージカルの時にやったような、一ヶ月以上かけて一生懸命に練習していたわけではなかったですね。稽古は三、四回というところですかね。生バンドですから音合わせには出なきゃいけない。動きについては本番前、初日の前に一回場当たりをするという程度で。
神山 山本紫朗さんの『日劇の思い出』で読んだんですが、あの当時は、ペレス・プラードが全盛でラテンがものすごく流行ったでしょう。それで、なぜラテンがレヴューに向いているかというと、どこで終わってもいいからだというんです。また、伸ばそうと思えば繰り返しでいくらでも伸ばせるし。
宝田 私もね、歌詞を忘れて「ラクカラチャ、ラクカラチャ、ラクカラーチャ。ラクカラチャ、ラクカラチャ、ラクカラチャ」って、全部ラクカラチャって歌ったことがありますよ(笑)。ダンサーたちが笑ってね、もう踊りもめちゃめちゃになっちゃった。振付にはね、県洋二さんだとか、いろんな人がいました。それと、東宝には大阪梅田に北野劇場があって、あそこにも北野ダンシングチームというのがあったんです。それで日劇と入れ替わりでショーをやっていました。正月の日劇の第一週は越路さんが出て、その間僕は北野劇場でやって。第二週は越路さんが大阪、僕と司葉子とか数名が東京日劇に出演しました。
日比野 そのころはまだ新幹線もありませんから。
宝田 そうです。ですからもう、特急で何時間かかったんですかね。
神山 「つばめ」なら八時間から十時間はかかったでしょうね。
宝田 そうです。それも夜行でね。
神山 北野劇場はものすごく大きかったそうですね。その頃のマイクというのは、スタンドマイクだけですか。
宝田 そうなんです。
神山 そうすると歌い方もだいぶ今とは違ったでしょう。
宝田 ええ。それでやっとできたのが、鉄火巻きみたいなマイクで、それを女の人は胸の谷間に挟むんですが、変に出っ張ったりなんかして。男は持つか、タキシードの上衣の内側に小袋を作ってそれに入れてました。よくドンッドンッって落っことしました。大阪ではお笑いのダイマルラケットとか、ミヤコ蝶々とか佐々十郎とか大村崑とか、いろんな連中が出てました。
神山 大劇[大阪劇場]にはお出になってないですか。
宝田 出ていません。当時大阪で出演したのは北野劇場で、映画とショーの二本立てでした。その後[一九五六年十一月に]梅田コマ劇場ができて北野劇場のショーはなくなり、全て梅田コマになりました。あの頃にはもう、大阪に僕のファンクラブが誕生していました。田園という大きな喫茶店にファンが大勢集まっているところへ、映画上映の間に顔を出したりしたもんです。メーキャップして、タキシード着たままね。

歌うスターからミュージカル俳優へ


『戦後ミュージカルの展開(近代演劇の記憶と文化)』(森話社・二〇一七年)をご覧ください。

ミュージカルの「日本語」づくり


神山 『アニーよ銃をとれ』のプログラムを見ますと、倉橋健の訳詞、中村メイコの詞と出ていますね。
宝田 はい。中村メイコと御主人の神津善行が音楽監督、僕とチエミの四人で「ここをこう変えよう」「いや、おかしいよ」なんてやったんです。オリジナルそのままというんじゃなくて、ここは一拍休んだ方がいいとか、オケもブレイクさせようとか、技術的なことにもグッと入りながら、どうすれば日本の観客に理解され聴きやすいかを考えました。この経験は以後ずっと私の気持ちの底辺にありましてね。つまり、日本語と英語の壁をどうするか、楽譜の中にどう日本語をはめていったらいいか。倉橋健さんなんかも書いていらっしゃいますけど、どうも音と日本語のアクセントがうまく合わないんです。とってつけたようになっちゃう。『キス・ミー・ケイト』でも、稽古ピアノをやる滝弘太郎と一緒になって、歌詞のフレーズを変えたりしました。作詞家にオリジナリティがあるというのは百も承知ですが、「歌うのは俺で、お客様は日本人だ」生意気ですけど、そう思いましてね。机の上で譜面に歌詞を書き込むのと、実際に歌う立場とは違いますから。「雨」はアクセントを「あ」のほうにおいて歌いたいし。最初のうちは遠慮しいしいやってたんですが、歌詞がお客様に伝わらなければ意味がないとの考えから、そのうちどんどん歌詞を変更してやるようになりました。『マイ・フェア・レディ』なんかもずいぶん私が変えましたけどね。それでできた歌詞が今も使われているようです。やっぱり稽古場で、役者が歌っているところで、あるいは動きに合わせて、つくらなきゃいけません。リチャード・ロジャースやハマースタイン・ジュニアだって、みんな稽古場で音をつくっていった。ところが日本の場合、作曲家や作詞家が稽古場になかなか来ない。これが不思議でしょうがなかったんですよね。
日比野 みなさん来ないんですか。
宝田 ええ。渡したら渡しっぱなしで。岩谷時子さんはわりと来てくださいましたけど。
神山 菊田一夫さんが演出なさるのは、芝居のところだけですか。
宝田 そうですね。いざ立ち稽古になったときに菊田さんが入ってくるんです。歌の方はそれ以前に完璧にしておきました。ですから、菊田さんは歌には触らなかったですね。
日比野 菊田一夫は、音楽を解さなかったという説もあるようです。
宝田 そうですか。だからあんまり稽古場に来なかったのかな。
日比野 菊田一夫演出では一九七〇年五月に『マイ・フェア・レディ』[帝国劇場]もおやりになっています。
宝田 先ほど申し上げたように、まさか自分がやるとは思いませんでしたね。自分が演じるとなると、映画版のレックス・ハリソンの歌いぶりが気に入りまして。「歌は語れ、台詞は歌え」といいますけども、あの人の音の中に乗って語る見事な歌唱を、何度も聞いて勉強させてもらいました。ですから私なりに、プロフェッサー・ヒギンズを演じきったと自負しています。東宝の森岩雄社長が観に来られて終演後楽屋にいらっしゃり、大変褒められて金一封をいただきました。
神山 宝田先生の二回目の『マイ・フェア・レディ』[一九七八年六月・東京宝塚劇場]では、曾我廼家鶴蝶さんのヒギンズ夫人がものすごくよかったのを覚えています。松竹新喜劇の方だから、宝田さんの演技とはタイプが違うんですけど、なんともいえない魅力がありました。
宝田 いや、実は一九七六年十一月にも文化庁移動芸術祭で全国二十箇所で公演をやりました。この時のイライザは雪村いづみでした。だから東京宝塚劇場の『マイ・フェア・レディ』は三回目。
神山 それは失礼しました。
宝田 でも、鶴蝶さんのような達者な人の芝居をみるのは、やっぱり楽しみですね。
日比野 当時の日本の観客にとって、アメリカのミュージカルというのは、まだ馴染みの薄いものでしたよね。お客さんの反応はどういうものだったんでしょう。レビューをやっていた時の熱狂ぶりと比べてどうでしたか。
宝田 確かにカタカナのミュージカル作品といっても、理解されにくかったですね。しかし人間の感情の喜怒哀楽は彼我ともに変わりませんからね。歌舞伎だって音入りだから、立派なミュージカルです。昔はエノケンさんの『ちゃっきり金太』とか宮城千賀子さんの『狸御殿』のようなシネミュージカルもありました。だから日本人の心の中でも違和感はなかったと思いますね。今は、ミュージカル全盛期、高いロイヤリティ(日本上演権料)を払っていますが、日本発のミュージカルが、評価され、世界で上演される日が来るのを祈っています。

成瀬巳喜男に絞られる


『戦後ミュージカルの展開(近代演劇の記憶と文化)』(森話社・二〇一七年)をご覧ください。

『ファンタスティックス』開幕!


『戦後ミュージカルの展開(近代演劇の記憶と文化)』(森話社・二〇一七年)をご覧ください。

さまざまなテイストを味わって……


『戦後ミュージカルの展開(近代演劇の記憶と文化)』(森話社・二〇一七年)をご覧ください。

ふたたび『ファンタスティックス』


『戦後ミュージカルの展開(近代演劇の記憶と文化)』(森話社・二〇一七年)をご覧ください。