福田逸聞き書き


取材日:二〇一五年一月二十二日
取材場所:明治大学 駿河台キャンパス構内
取材者:神山彰・井上優
参加者:奥景子・宮川かほり・稲山玲・佐々木英恵(明治大学大学院生)
編集・構成:井上優(協力 奥景子)

イントロダクション


 福田逸氏(一九四八―)は、劇作家・演出家・文芸評論家福田恆存氏(一九一二―一九九四)の次男で、翻訳家、演出家として活躍し、明治大学商学部で教鞭をとっている。父恆存氏の仕事を引き継ぐ形で現代演劇協会の理事を務め、また劇団昴を拠点に多くの作品を演出・製作している。
 このインタビューは、ご自身も演劇の実践家であられる逸氏に、父恆存氏の業績に関しての証言をいただくという形になり、逸氏にはいささか語りにくい部分もあったのではなかろうかと思うのだが、実際は、かなりざっくばらんに、波乱に満ちた恆存氏の演劇人生を振り返っていただき、たいへん実りの多い時間となった。
 福田恆存というと、現代でも再演されている戯曲作品を多く執筆・演出し、また、シェイクスピアの翻訳・演出でも現代演劇に多大な影響を残した人物として知られるが、このインタビューの中で明らかになるのは、大衆性を持った娯楽作品としての演劇に対する嗜好である。実際、ここで語られる、劇団雲と並行して主宰した欅での、現代の言葉で言えばほぼ商業演劇と言っていい娯楽作品の上演に対しての恆存氏のこだわりや、川口松太郎、菊田一夫といった商業演劇の巨人たちへの共感は、今となってはほぼ忘れられてしまっている福田恆存の姿を見る思いである。(例えば、近年盛んに刊行されている福田恆存論や回想の中に、そうした記述はほとんど見られない。)
 また、インタビューの後半で明らかになる、逸氏の(父の仕事を引き継ぐ形での)歌舞伎演出の取り組みも非常に興味深いエピソードであろう。
 今年の頭に行われたインタビューであったが、公開が大幅に遅れたのは、ひとえに井上の怠慢であり、福田氏にご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい。(井上優)

岩田豊雄の思い出


神山 最初にお断りを。福田先生と敬称で呼ぶと、恆存[つねあり。こうぞん、とも]氏のことか逸[はやる]氏のことか分からなくなるので、恆存さん、逸さんとお呼びしてよろしいですか。『獅子文六先生の応接室』[二〇〇三年]で、筆者の福本信子という獅子文六[岩田豊雄]のお手伝いさんだった人が「年下の人で岩田豊雄のことを先生と言わないのは福田恆存さんだけだった、それが印象的だった」と書いています。それも思い出して、福田さんでいいかなと。
福田 父から「先生と気軽に言うな」と何度も言われました。自分が教わったわけでもない人間を先生と呼ぶのはやめろ、と。政治家のように、先生と呼ばれると喜ぶ連中もいるけれど、本当に師でない人を先生と呼ぶのは嘘だと、盛んに言っていました。
神山 恆存さんは「岩田さん」という呼び掛けに失礼があるとは思ってなかった、ということですよね。でも芝居の世界だと、新派は水谷[八重子]先生、花柳[章太郎]先生だし、新劇でも、杉村[春子]先生なんて言いますね。歌舞伎は屋号で呼ぶからいいんですけど、中村屋[十七世中村勘三郎]だけは先生でした。
福田 そうですね。役者が先生になって。
神山 役者が先生になったら困っちゃうと思うんですがね。
福田 やはり河原乞食を自称していてほしいと思います。
神山 このオーラル・ヒストリー・アーカイブは、商業演劇に関わった方を対象としています。恆存さんは新劇だけでなく、松竹や東宝でも仕事をなさっているわけですし、逸さんご自身のお仕事もお聞きしたいと思っています。
福田 岩田豊雄さんといえば、今突然思い出したんですけど、私は子供のころに大磯の岩田邸に行ったら、「この子どこの子?」と岩田さんに言われたことがあって。父の妹の福田妙子、その亭主の加藤和夫という役者、その二人に連れられて行ったので、岩田さんには彼らと私との関係が分からなかったんでしょうが。でも岩田さんの、気取らないとも言えるけれど、ちょっとぶっきらぼうな物言いに接して、子供ながらに、少し嫌な気持ちになった、それが印象に残っていますね。
神山 岩田さんって大柄なんでしょう。
福田 大柄でしたね。
神山 六尺ぐらいある。
福田 顔も大きな方だったし、威圧感がありましたね。
神山 そうですか。この福本さんというお手伝いさんがいらしたときは、岩田さんはもう赤坂に越していらしたようです。それでも大磯には時折、別荘みたいにして帰られていたと書かれています。
福田 岩田さんが亡くなってしばらくは岩田邸として残っていたのですが、息子さんがお売りになった。やっぱり相続が大変なんでしょうね。十数年くらい前までは、建物が残っていました。知人がその庭を借りてチェロのリサイタルをやったこともあった。サロン風のパーティですが。その後、敷地が分割されて売りに出されたので、岩田邸のあったところには今小さな住宅が幾つも建っています。
神山 そうですか。岩田さんが亡くなったときは、息子さんはまだ小さかったでしょう。
福田 高校生ぐらいかな。お年を召してからのお子さんで、とてもかわいがられていた。「この子どこの子?」と私に言われたときには、まだお子さんがいらっしゃらなくてね。

大磯の自宅〜昭和二十年代の福田恆存


神山 恆存さんが大磯に移られたのは戦後ですね。
福田 そうです。戦争末期に静岡の掛川に家族を疎開させ、兄はそこで生まれたんです。自分は単身で二宮の友人宅に寄寓していて、それで隣町の大磯の雰囲気が気に入ったんじゃないでしょうかね。それで、岩田さんとか、[劇作家・随筆家の]高田保さん[一八九五‐一九五二]なんかが住んでいらしたこともあって、戦後すぐに大磯に住むようになった。大磯でも二度引っ越して、一度目の引っ越しで山下汽船の別荘に間借りして、私はそこで生まれた。次に越したのが、大磯の東小磯にある、高田保さんの家の筋向かい。狭い路地に建ってる貸家で、隣に住んでいる医者が持っていて人に貸している家だった。そこに、昭和二十四年[一九四九]頃から数年住んでいたんです。
神山 福田さんのご一家が。
福田 ええ。今、私が住んでいる家に引っ越すまで。私が小学校一年になった年の暮れに、今の家に越したんです。そのころは文学座の人がよく遊びに来てました。記憶として確実に残っているのは、日塔智子という女優がバドミントンをして遊んでくれた。そのときの遊んだ記憶というのがはっきりあって、その写真も残っていて。彼女が来ていたのだから、ほかにも役者が来ていたはずです。
神山 その頃ご覧になった舞台の記憶はありますか。
福田 うーん。そもそもこの頃は、父の演出したもの、父の作品でないと連れて行ってもらえなかったんですよね。大磯から東京は当時大分時間が掛かりましたし。
神山 そうなんですか。
福田 ええ。だから見に行ったという話を聞かされているのは『キティ颱風』—じゃないな、確か、これは昭和二十四年に発表、文学座による上演が昭和二十五年でしょう。私は昭和二十三年生まれ。『龍を撫でた男』かな。
井上 『龍を撫でた男』は昭和二十七年[一九五二]に三越劇場で上演されています。
福田 そうすると、三越劇場かもしれないですね。叔母が私をエレベーターに乗せて、上がったり下がったりして遊ばせていたようです。
 だから幼い頃に父の作品を舞台で見ていた記憶は残念ながらないんです。いくつのことだったか覚えてませんが、最初期の舞台の記憶で今でも鮮やかなのは、歌舞伎座です。演目は分かりませんが、上から桜が垂れているもの。幕が開いたときの華やかな原色の華やかさが印象的だった。これは小学校低学年の頃だろうと思いますね。幼稚園で連れて行ってもらえたとは思えないので。
 それと相前後する頃でしょうか、『ハムレット』[一九五五年]は、先ほど出た加藤和夫という叔父がホレイショーをやっていたので、叔父のことが印象に残るものだから、一緒に演じていた、ハムレット役の芥川比呂志も記憶しています。同じく共演者だった杉村春子のガートルードになると、もうはっきり覚えていないんですが。
神山 『ハムレット』は東横ホールですよね。
福田 はい。ホレイショーが殺される前に言う最後の科白、"Good night, sweet prince"[第五幕第二場]ですが、叔父が「おやすみなさい、王子様」と言っていたのをはっきりと記憶しています。今出ている福田恆存訳だと「おやすみなさい、ハムレット様」になっていますから、たぶん、初演後に直したのでしょう。初演のときは "sweet prince" をそのまま訳したんじゃないでしょうかね。だけど「王子様」だと童話みたいだから、あとで「ハムレット様」に変えたんじゃないか。「おやすみなさい、王子様」という音の連なりが、いまでもはっきりと頭に残っています。
神山 東横で『ハムレット』をやったのは……
井上 初演が昭和三十年[一九五五]、翌年に再演もされていますが。
神山 東横ホールだからね、昭和三十年というと逸さんは七歳。それなら憶えていても不思議じゃないですね。
福田 そうですね。
神山 話が舞台の記憶からずれますが、恆存さんがアメリカへ最初に留学されたのもその頃ですね。
福田 昭和二十八年[一九五三]から昭和二十九年[一九五四]ですね。
神山 そのときは船で行きました?
福田 クリーブランド号という船で行きました。あの当時としては豪華客船だった。今でもクリーブランドという豪華客船がありますけれども。
神山 横浜港に見送りに行きましたか。
福田 行きました。これはもう鮮明に覚えていますけれども、父がいなくなるという思いと、横浜という港の、普段経験してない異国情緒ですね。船の中で人がごった返していて、家族一緒にいると思ったら母の姿が見えなくなっていて。父はいるんですけれども、私は父と一緒にアメリカにこのまま行かされちゃうんじゃないかと怖くなって泣きだした記憶があって。
神山 そして桟橋で何百というすごい数のテープが投げられる。
福田 そう。若い皆さんはぴんとこないでしょうけど。自分も投げて、父が投げたテープを受け止めて持っていたのかどうか分からないですけれども、船がだんだん離れていくとテープが伸びてピンとなる、それが面白くて、寂しさよりもわくわくしていましたね。
神山 以前お話を伺ったときに、[フランス演劇研究者の]安堂信也[一九二七—二〇〇〇]さんもフランスまで船で行ったんですって。自分が船で行った最後の世代だろうと仰っていました。安堂さんは恆存さんより少し年下ですよね。
福田 そうですね。
神山 [ドイツ演劇研究者の]岩淵達治さんにも話を聞いたのですが、岩淵さんは飛行機で行ったと。「当時、飛行機で行くのは珍しかったんだ」と言っていました。
福田 ただ、父もどこかで書いていたと思いますけど、飛行機という選択肢はあったらしいんです。でも、船での外遊を経験して見たかったので船にしたらしい。
神山 恆存さんがアメリカへいらしていた間、絵はがきなんかが来た憶えはございますかね。
福田 あります。「カン君、ヤン君へ」という宛名になってるものが多い。というのは、兄貴の名前は適[かのう]。だけど「カノウ君」だと言いにくいので、いつの間にか短く縮めて「カン君」になった。一方、私は逸[はやる]だから「ハン君」になりそうだけれど「ヤン君」。ものすごい利かん気で、何でもかんでも嫌だ、嫌だ、いやーん、いやーん、と言っていたのでヤン君。クリーブランド号の写真のはがきも何通かあって、いまだに取っておいてあります。クリーブランド号に乗船しているときに送ったのか、アメリカに着いてから送られているのか、わかりませんが。
 父はまた、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロのピエタ[聖母子像]の写真の絵はがきを送ってくれています。アメリカからイギリスに渡ったあと、ローマに行ったんでしょう。私はちょうど小学校に入ったころで、股関節の骨の病気をするんです。成長過程で骨がきちっと固まっていかずに溶けてしまう。今でも少し右足の股関節がゆがんでいて。ギプスを約一年はめていたんですけど、それを知った父は、「お母さんから足のことを聞きました、とても心配しています、早くよくなるように」というようなことを書いてきてくれた。私は、大人になってから、父がピエタの写真を使ったのは、死んだ息子イエスを悲しむ母親マリアに父としての自分の立場を重ね合わせていたのだ、ということが分かりました。
神山 帰っていらしたのは翌年ですか。
福田 翌年、昭和二十九年[一九五四]の秋、九月ですね。このときは飛行機だったんですけれども、帰ってきた夜に話してくれたのは、台風と飛行機が追いかけっこをしていたんだよと。最後に飛行機が勝ったので、無事に着陸できたんだ、というようなことを。

鉢の木会のこと、ほか


神山 また文壇や劇団関係者との交友の話題に戻りますけれども、恆存さんがご帰国なさった[一九五四年九月]頃には、もう鉢の木会の集まりはあったんですよね。
福田 そうですね。引っ越す前の――つまりアメリカへ行く前の家で鉢の木会があった記憶があります。あの会は最初父と吉田健一、中村光夫の三人で[一九四九年頃]始めたとか。
 鉢の木会というのは、謡曲の『鉢木』、一夜の宿を求めた旅の僧のために、大事にしていた鉢植えの木を切って薪がわりにしてもてなした、というあの話から来ていて。当時は世の中自体が貧乏で、三人ともすでに文筆家として名をなしていたとはいえ、原稿料はそれほど多いわけではない。だから料亭で食ったり飲んだりするかわりに、それぞれの家で手料理でもてなすというのを、だいたい月に一回ずつ持ち回りでやっていた時期があった。
神山 ほかに鉢の木会のメンバーというと、まず[西洋中世美術史研究者の]吉川逸治。それから大岡昇平。鉢の木会のことは逸話も含めて大岡がいちばん詳しく書いています。
福田 大岡さんは大磯に住んでいらしたし。
神山 恆存さんが[大岡昇平の]『武蔵野夫人』の劇化・演出をなさったのもその頃ですね。
井上 文学座で、昭和二十六年[一九五一]です。
神山 鉢の木会のことは、三島[由紀夫]の公開日記にもあります。
福田 三島さんは『仮面の告白』で世に出て直ぐでしょうか。いつだったかな。
神山 『仮面の告白』は昭和二十四年[一九四九]ですね。
福田 そうですか。
神山 当時逸さんはまだ小さくて、こういった人たちのことは漠然としか覚えていないでしょうけれども……
福田 鉢の木会に直接関係ないですけれども、大磯ロングビーチがまだロングビーチと呼ばれてないとき、プリンスホテルの付属で、二十五メートルのプール一つしかない頃のことです。プリンスに父の知り合いがいて、招待してくれるようになったので、家族四人でよく行くようになりました。私が小学校か中学一年か、たぶん小学生で、兄貴が中学くらいだったかな、そこで新婚の三島夫妻にばったり会って。
 奥さんは小柄で、当時はやっていたトランジスタグラマーという言葉がぴったりで、子供心にまぶしかった。こっちがませていたのかもしれませんが。三島さんのほうは、頭でっかちで胴長で足が短い。がっしりしていてアロハシャツか何かを着ていて胸毛が見えていた。そのときの豪放磊落な三島さんの笑顔とともに印象深く覚えています。
 それから、大岡昇平さんとはずっと行き来があって。今の家は大磯町大磯の山王町にあるんですが、そこに引っ越した後もふらっと訪ねてくることがあった。ある日私がいたら、呼び鈴も鳴らさずにずかずかと上がってきて「おーい、いるか」と言って。返事がなかったから上がってきたと。そういう感じの人なんです。
 それと、吉田健一さんの高笑い。酒が入ると「うひゃひゃひゃひゃ」という笑い方をするんです、これがもう、本当に字で書いたような笑い声。これが面白くてしょうがなくて、隣の茶の間に兄と二人で潜んで、その声が聞こえるのを待っていました。もちろん、私が幼稚園前後のころですから、話している内容はまったく分からない。高尚なことも話していたんでしょうけれども、ばか話もしていたんでしょう。鉢の木会の人々の記憶はその程度のことしかありません。
神山 鉢の木会には神西清[一九〇三-一九五七。翻訳家、ロシア文学者]もいました。神西も、住んでいたのは……
福田 鎌倉ですね。
神山 神西さんからは、ボールペンか何かをもらった記憶があるとおっしゃっていなかったっけ。
福田 いや、本です。ルナールの『にんじん』ですね。献呈署名は「カン君、ヤン君へ」になっていたと思います。
神山 『にんじん』は岸田國士訳ですか。
福田 そうだ、ごめんなさい、勘違いしていますね。岸田さんの訳だから、岸田さんからもらっているはずです。
神山 そうですか。[一九五四年に没した]岸田國士は、さすがに憶えてらっしゃらないでしょう。
福田 そうですね。ただ、小学校に入る前か、一、二年生のころですけれども、軽井沢にある岸田さんの別荘の近くの空き別荘にひと月家族で滞在したことがあるんです。そのとき岸田さんのお宅を訪ねて、岸田衿子さん[國士の長女・詩人]・今日子さん[國士の次女で女優]にお会いしたことは覚えています。けれど、岸田さんの人柄についての記憶はないですね。
神山 恆存さんが文学座にいらしたころ、演劇関係者以外ではとくに印象に残った方はいますか。
福田 なんといっても、『東京日日新聞』に連載していた随筆『ブラリひょうたん』で有名な高田保さん。目の前に住んでいらして、晩年でもうだいぶ衰えていらしたけれど、「おじちゃん」といって遊びに行くと、遊んでくれた。優しい方でした。私が幼稚園のときに亡くなったんですね。人の死というのがまだぴんとこない時期でしたが、亡くなったんだ、という記憶だけは強く残っています。
神山 高田保は戦前は新国劇に関係しているんですね、劇作も結構あるんです。以前、新国劇の大山克巳に話を聞いたときに、最初に高田保の縁で新国劇に辰巳柳太郎を紹介してもらったと言っていました。

『オセロー』『明智光秀』『有間皇子』など


神山 このときもまだはっきりとしたご記憶がない時期かもしれませんが、高麗屋、八世松本幸四郎の『オセロー』[一九六〇年]ですね。文学座と歌舞伎が組んで……
福田 新劇と商業演劇と歌舞伎の俳優が同じ舞台に立った。プロデュースは吉田史子[一九三三—一九七四・演劇プロデューサー]。
神山 シコさんと皆さん呼びますね。あのころまだ二十代の吉田史子を松竹に紹介したのは、経済同友会を作った財界の今里広記だと、音楽評論家の安倍寧さんにお聴きしました。
福田 そうですか。
神山 高麗屋が東宝へ行くのは昭和三十六年[一九六一]だから、あれはその前でしょう。
福田 前ですか。やっぱり進取の気性に富んだ家系ですからね。
神山 高麗屋と恆存さんは、どういう経緯でお知り合いになったんですか。
福田 さあ、どうなんだろう。私が二人のつながりを認識するのは、この『オセロー』と、その前の『明智光秀』[一九五七年]からなんですけれども、どういう経緯で一緒に仕事をするようになったのかはちょっと分からないです。
神山 恆存さんは一九五六年に円地文子の『舌を噛み切った女』の演出を松竹でなさってますが、あれは梅幸・松緑の菊五郎劇団ですからね。
福田 そうなのですか、それは全然知らなかった。『明智』は連れて行かれて舞台を見たので、装置や演技、せりふ回しまで記憶にありますが、『舌を噛み切った女』は全く記憶にない。ということは見ていないというだけではなく、我が家でもそれほど話題になっていなかったということでしょう。話を戻すと、二人が知り合いになったのは、[福田恆存演出の]芥川比呂志の『ハムレット』[一九五六年一月東横ホール]を観た幸四郎が興味を持ったからか、あるいは文学座の誰か、たとえば杉村春子が歌舞伎俳優と共演をしてみたかったのか……
神山 それはあり得ますね。杉村は、中村梅玉[三世]のファンで、楽屋まで行ったそうですから。
福田 文学座からの話だったとしても、森雅之や他の人ではないでしょうね。
神山 高麗屋はお父さん[七世幸四郎]がああいう翻訳劇をやっていますから、高麗屋のほうで興味を持ったという可能性は大いにあり得る。
福田 そうですよね。
神山 『オセロー』は昭和三十五年[一九六〇]で、逸さんは十二歳ぐらいですから、ご記憶にありますよね。
福田 あります。劇場はサンケイホールでしたね。
神山 このとき高麗屋の楽屋へ行った記憶はあります?
福田 『オセロー』の楽屋には行ってないんじゃないかな。歌舞伎座の楽屋には何回か行った記憶がありますけれども。
神山 行ってないですか。
福田 連れていかれたかもしれないですけれども、記憶はないですね。
神山 『明智光秀』の初演は一九五七年ですが、高麗屋が東宝移籍後も何度も再演してますね[一九六三年[昭和三十八]十二月大阪・新歌舞伎座、一九六九年三月・帝国劇場]。
福田 ですから、どういう舞台だったかはっきり覚えているのは『明智』のほう。劇場での興奮も含めて。とくに最初の戦闘シーンで通路を兵士、雑兵が駆け抜けるという演出。座っていたらすぐ横を駆け抜けていくのでびっくりした。それから[二世中村]又五郎の……
神山 秀吉ですね。
福田 芥川の信長。二人はある種の秀吉像、信長像をうまく見せていたと思います。今、思い返しても彼らの口跡とか声音、演じてる姿を思い出します。それから森蘭丸をやっていた……
神山 染五郎ね。
福田 今の[九世松本]幸四郎。彼のかっこよさ。
 テレビでいう時代劇じゃなくて、せりふ劇としての本当の時代劇、シェイクスピアの翻訳を通過した福田恆存が作った時代劇の本質のようなものを肌身に感じることができたと思いますね。
神山 『明智光秀』は後にテレビでもやる[一九六六年十一月二十七日・十二月四日毎日放送開局十五周年記念番組『怒濤日本史[9〜10] 天下一統 上・下[明智光秀]』]んですけれども、その間にも再演していますよね。
福田 ええ。
神山 昭和四十一年[一九六六]。そのときに私はテレビで見ました。小柄な又五郎の秀吉が、大きな扇で煽ぐんです。あれがおかしかった。
福田 小柄であの顔だからまさに猿面冠者。私も扇を覚えています。
神山 扇が普通の小形のものならおかしくないんだけど、人に話し掛けながら、すごく大きな扇で煽ぐんですよね。
福田 あれはきっとわざとやっているんでしょうね。演出家の指示なのか、もしかすると又五郎自身がやりたかったのか。
神山 そうですね。
福田 面白くしようと思ってわざと大きな扇を選んだのかもしれないですね。あの又五郎っていい役者でしたよね。
神山 そうでしたね。歌舞伎の舞台裏での習慣で、水や飲み物、煙草、灰皿、薬、喉飴など一括して収めた岡持ちを持って、大幹部の弟子、付人たちが、舞台袖に控えているんですが、旦那の気持ちを受けていい間合いでさっと出し入れして、気分よく落ち着いて芝居できるよう計らうのも、弟子、付人の役割です。扮装して高合引という腰掛けに掛けて出を待つ旦那を大団扇で扇いだりもするんですが、歌舞伎では見慣れたそういう習慣も、新劇人からは実に芝居がかった大時代な景色に見えたんですね。文学座の役者たちは、面白がって「高麗屋ごっこ」といって真似をしたという話があります。
これは余談ですけど、私も高麗屋とは仕事で付き合いがありましたが、あの人は本当に座頭なんですね。稽古のとき。[一九七九年十一月・国立劇場上演の]『元禄忠臣蔵』で真山美保さんが演出で、高麗屋が内蔵助で「南部坂雪の別れ」で瑤泉院のところに来るんです。位置が下手寄りなんだけど、あの人は自分は真ん中に座るものだと思っているから、真ん中に座っちゃう。居どころがおかしいんだけど、誰も言えないから、雀右衛門の瑤泉院以下全体が上手よりの居どころになっちゃう。美保さんが私に言ってきてちょうだいと言うから、恐る恐る[舞台装置の全体がわかる]道具帳を見せて言うんだけど、全然動かなかった。もちろん本番になれば道具が飾ってあるからきちんと座ってくれるんですけど。
福田 [三世實川]延若が浪人役をやったのは、その時でしたか。
神山 井関徳兵衛は、そのずっと前[一九六九年十二月]です。「最後の大評定」の場の、あれはいい役ですから。
福田 あの時の、延若と幸四郎とのやりとりが印象に残っています。
神山 恆存さんの東宝でのお仕事は続きます。その後、芸術座でやったのが『有間皇子』[一九六一年]。八世幸四郎の息子、萬之助[現・中村吉右衛門]を主役の有間皇子にした。いわば萬之助のための芝居ですね。
福田 兄の染五郎の方が売れていて、その陰に隠れているけれど、萬之助もうまいなと父が思ったのでしょう。萬之助を有間皇子にして、父親の幸四郎が赤兄[あかえ]という役をやった。
神山 でも[『有間皇子』をやった]芸術座の客層と、新劇のお客さんとは違うから、難しかったでしょう。
福田 合わないでしょうね。
神山 耳から入ってきても分からないようなせりふでしょう。よくあれを菊田[一夫]が引き受けたと。
福田 ですね。
神山 その辺のところはご記憶はないですか。
福田 まったくないです。
神山 お父様はそういう話はなさらなかった。
福田 年齢的にいって、まだ私にすることはなかったです。萬之助を気に入っている、というニュアンスのことを話してくれたことはありましたけれど。ただ父は染五郎も気に入っていて、この前後に染五郎[現・幸四郎]の『ハムレット』をテレビでやっています。
井上 昭和三十五年[一九六〇]一月四日放送の日本テレビ。北村和夫、仲谷昇、小池朝雄、加藤治子といった文学座の面々と、三益愛子、それに染五郎さんで『ハムレット』をやった。
福田 ええ。だから今の幸四郎さんは、『ハムレット』をやったことによって、初めて歌舞伎とは違う世界を見たんじゃないですか。それに対しては本当に感謝してくださっているようで、現幸四郎一家、現染五郎一家とは今でも親しくお付き合いをさせていただいています。
神山 昭和三十五年というと今の幸四郎が十八歳、まだ暁星高校に在籍していたころですか。
福田 そうですね。
神山 『有間皇子』に話を戻すと、あれは芸術座としてはあまり入りのよくなかった演し物でした。
福田 よくないでしょうね。私はあの作品が好きなんだけど、一幕と二幕が長いんです。『戯曲全集』[文藝春秋、二〇〇八—一一年]を編集したときに、また読み直してそう感じました。一幕、二幕を短く詰めて一つにして、あとは三幕からやれればいいんですが、一幕、二幕がないと日本の歴史が分からない、それが分からないとなぜこうなったかということがわからない。導入[イントロダクション]として歴史の知識を説明している部分というのが、どう劇的にやろうとしても長いんですね。あそこでお客さんは寝ちゃう。とくに今のお客さんはあれだけの言葉の洪水は無理ですね。
神山 だめですね。『有間皇子』は初演だけで、再演はないでしょう。
福田 してないですね。ただ、別宮貞雄さんがオペラにしました。オペラだったらダイジェストにしているでしょうし、今やっても面白いんじゃないのかなと思うんですけれども。

菊田一夫・川口松太郎のこと


神山 当時の東宝の取締役は菊田一夫さんで、特に芸術座は菊田さんがレパートリーの選定もやっていたと思うんですけど、逸さんは菊田さんとは直接……
福田 お会いしてないですね。子供を仕事の場に出さないというのが父の方針でしたし。
 ただ、東宝だったと思いますけれども、中学生くらいのとき、少年期に、草笛光子さんの楽屋に連れて行かれまして。白塗りをしている訳ですよね、だから肩のところまでガウンを下ろして、全部化粧を落としているところを見ることになって。匂うような女性というか、成熟した女性の美しさに圧倒されたという変な記憶はあります。
 それで一気に草笛光子ファンになり、という訳じゃないでしょうけどスタンダールの『赤と黒』を見に行った。大岡昇平脚色で、ジュリアン・ソレルを吉右衛門が演じた[一九六六年]。大学一年生の時でしたが、吉右衛門と草笛だからというので見に行った。
 あの当時ちょっとスタンダリアンとはいかなくても、主人公のジュリアン・ソレルが大好きでした。たしか銀座にジュリアンという喫茶店があったんですよ、ソレルから取った。そこに入り浸るまでいかないですけれども、大学生の分際で行くなんてこともありました。あの頃、その年齢でジュリアン・ソレル気取りの若者はそんな気分でした。
神山 そういえば、『赤と黒』も、大岡さんと菊田さんが喧嘩をして、初日を開けさせないとか揉めたのを憶えておられますか。
福田 それは知りませんでした。
神山 随分騒動になっていましたよ。
福田 そうでしたっけ。かすかに記憶にはありますね。トラブルがあったという。
神山 商業演劇の世界では別に珍しくないけれども。
福田 そうですね。
神山 もちろん初日は開きましたが、そこに両者の落としどころを感じました。
福田 『有間皇子』と『明智光秀』も断片ですけれども記憶に残っていますし、やはり白鸚の演技というのは覚えていますね。彼にはまさに座頭と呼べる、立ち役の格好良さと言うか、すごみと言うか、そういうものを感じましたね。
神山 『明智』は高麗屋当人もすごく気に入っていて、東宝へ行ってからも何度もやっていますね。
山田五十鈴さんでもやりましたよね。
これは勝手な推測ですけど、恆存さん、菊田さんや川口松太郎さんとはすごく馬が合ったと思うんですよね。
福田 と思いますよ、私も。
父は、こういう言い方はどうかと思うんですが、人の悪口を言うなら家でというのを徹底していたんですけど、菊田さんや川口さんの悪口というのは一切聞いてないし、川口さんに関しては褒め言葉しか聞いていません。役者に関しても同じで、自分の劇団の役者もぼろくそに言うのと、あいつはいいと言うのがはっきりしていましたね。
神山 恆存さんが一番嫌がったのは、新劇人が変に大衆ぶることでしょう。
福田 教養主義が嫌いでしたから。
神山 そういう意味で、菊田さんや川口さんみたいな、大衆の息遣いが分かって喜怒哀楽が分かっている人とは、本当に馬が合ったんだと思うんですよね。
福田 それは後半で出てくる話とも繋がると思います。雲、欅――雲の分裂、その辺に絡んでくるのは、そうした話ですからね。父が、娯楽としての演劇というものを意識していたということは間違いありません。父は、商業演劇を決して馬鹿にしていませんでした。

文学座の分裂~雲の発足(一九六三年)


神山 それで、有名な昭和三十八年[一九六三]の一月の話ですが、前にちょっと雑談で、家に人がたくさん出入りしていたのを憶えていると伺いました。
福田 そうですね。緊迫感というか緊張感、それから母を含めて家の中に何かこう、いわば戦争勃発前という雰囲気があって、父がいつになく忙しくしているのと、何か父の身辺に普通ではないことが起こっているという印象はありましたね。役者の出入りが多かったという印象です。昭和三十八年というと私は十五歳、中学生で、外で遊んでばかりだったんですが、家に帰ってくると、そういう雰囲気があったり役者がいたりで。小池[朝雄]さんが来て盛んに話をしていたり、何人も来て宴会をやっていたりということもありましたから、そういう意味では、ただならぬというか、ちょっと非日常的な時間に感じました。
 ちょっと話が飛びますが、私が小学校六年生のときに、六十年安保のときには死をどこかで意識していた、殺されることもあり得ると意識していたと、父がそういう話をしたことがありまして。[昭和三十八年は]そのときの緊張感とはちょっと違いますけれども、やはり一大事に感じていました。
そうしたら毎日新聞がすっぱ抜いて。その三面記事にでかでかと載っているのを見て、何かとっても大きいことなんだと、むしろそれで知らされたところもあります。
神山 あのとき、一月にはまだ[文学座創設者のひとりの]久保田万太郎さんがご存命だったんですよね。五月に亡くなったから。
そのころのときの証言というのは随分たくさんあって、文学座に残った人の証言と、「雲」の人たちの証言、これは藪の中みたいな感じで……
福田 そうですね。どっちもそれぞれにとっての真実だと、私は考えています。
神山 でも、十年ぐらい前、荒川哲生さん[一九三一年 ― 二〇〇三年・演出家]に金沢まで行って話を聞いたら、絶対、杉村さんは知っていたはずだと言っていましたね。
福田 知っているというのは?
井上 分裂のことですね。
神山 不意打ちを食わされたみたいだと言われていますが、杉村さんは知っていたはずだと、荒川さんは盛んに言っておられました。
福田 杉村、福田は分裂前の往復書簡がありますからね。
たしかに、『女の一生』を中国へ持っていったとき[一九六〇年]、作品の終わりを中国向けに変えてしまった問題で、既に不穏な空気はありました。
神山 あれは戌井市郎さんの結末改作版でしたね。
福田 まずそれに対する福田恆存の怒りというものがありまして。文学座というものはそういうところなのかと、そういう人間としての疑問をぶつけて、その遣り取りが結局は平行線のままで。そこで、杉村さんが、自分が中心になると言い出した。そのうち自分は主役を張れなくなって若い人に取られてしまうから、今は自分がヒロインをやると。一方、彼女がいつも主役のヒロイン役を持っていってしまって下の若い女優が育たないという不満も当然ありました。そういうことも分裂の原因になりました。その他諸々、今の我々に分からないこと、私の知らないことも、きっとたくさんあったのでしょうね。
神山 その後で、例の三島由紀夫さんの『喜びの琴』があったでしょう[注・一九六三年、この作品の上演取りやめによって、文学座はこの年、二度目の大量脱退事件を起こす]。あれもまた同じことですよね。
 杉村の魅力あるところは認めるけれども、と脱退組は言いますね。『喜びの琴』で脱退して、劇団「NLT」になる、その前に脱退した組は「雲」になっている。その間の消息には色々な証言がありますが、この『獅子文六先生の応接室』というのは、サブタイトルが「「文学座」騒動のころ」というんですけど、割と客観的なんじゃないかな。全然利害関係がない人なので。
井上 杉村さんが岩田亭を訪ねてきたときのことが書いてありますよね。
神山 そう、後の中丸美繪の『杉村春子 女優として女として』[二〇〇三年]にある杉村さんの話と全く違うんです。ところで、後の「欅」になるのは、「雲」の旗揚げから二年後でしたよね。雲の旗揚げ公演は『夏の夜の夢』でしたが、あれは日経ホール? サンケイホール?
井上 砂防会館ホールですね。
福田 旅もやりましたね。あれは何年だっけ。
神山 昭和三十八[一九六三]年です。
井上 四月に『夏の夜の夢』、その後に『ジャンヌ・ダルク』。
神山 『夏の夜の夢』は三月二十八日初演。
井上 三月二十八日ですね、ただ戯曲全集の年譜だと四月になっています。三月二十八日に、文学座再開公演と初日が被るというのがあったようですね。ほとんど同時期に小山祐士さんのお芝居で文学座が再開するという。
神山 この『夏の夜の夢』上演中に逸さんは高校生になられたんですよね。
福田 はい。もちろん、舞台も観ています。財団法人の現代演劇協会の記録だと、四月二十五日から五月九日まで旅をしていて、私の住む大磯の隣町の平塚にも来たんです。そのときだったと思いますけれども、旅先だから人手が足りなかったのか、母が切符のもぎりをやっていた記憶があります。そのくらい人手が足りなくて、でも何と言うんでしょう、その場の様子を見て、俺たちでやるんだという空気がロビーにまで広がっていたと言いますか。
 それは砂防会館でもそうだったと思います。やはり初演を見たときには、良い芝居を選んだなという感じがしました。旗揚げ公演に明るく楽しい芝居を持ってきて、お客さんが大喜びをしていたのを覚えています。私もとにかく楽しめましたからね。そういう意味では熱気の伝わって来る舞台でした。上手かったのかどうか、そのころの私に判断がつきませんけれども。
神山 振り付けが薄井憲二[一九二四ー]さんなんですね。薄井さんは、九十何歳ですけど、八月にインタビューをしたんですよ。この話を聞いておけば良かった、そのときは私も気が付かなかったんですが。
 現代演劇協会は最初からこうしっかりした組織だったんですか、後援者とか理事会人事とか。
福田 初めから財団法人にしようという方向で、小林秀雄さんや鉢の木会の方々に理事をお願いしていました。ただ、脱退がすっぱ抜かれたこともあり、法人認定に時間がかかったりで、財団法人の方が遅れて出発した形になっていますけれども。
 財団組織にしようとしたのは、税金対策なのかもしれない。その辺は私も分かりません。
神山 分裂と言うと芸術や政治の話になりがちですが、お客さんの動員のこと、「商売」が大きかったと思うんですよね。
福田 それは大きいですね。
神山 当時は労演[勤労者演劇協議会]の力というのが今では考えられないくらい強大でした。
福田 今でも旅公演は大きいですよ、東京公演だけだったら必ず赤字です。新国立劇場もそうですよね、あれを商業演劇とは私はあえて呼びませんけれども、やはりスターが出演して、その人が何千人も集めてくれなければ、芝居なんてできません。単純に言ってしまえば、一万円以上のチケット代を設定しなかったら成立しませんよね、舞台って。
神山 でも、当時、雲は既に労演から排除されていましたよね。
福田 完全に排除されていましたね。乱暴に言ってしまえば、右翼か左翼かで言えば、労演は完全に左な訳ですから。そういう繋がりは全部切られる訳ですよね。
 ところが、そういう時代だから、捨てる神あればということで、拾ってくれた神が財界の方々でした。特に関西系財界人、関西と九州と新日鉄、藤井丙午[一九〇六― 一九八〇]さんは新日鉄でしたね。この間、次世代の党で落選された藤井孝男さんのお父上ですけれども、社長をしていた藤井丙午さんたち財界人が中心になってくれて。それから、浦和高校からの父の友人で警視総監だった原文兵衛[一九一三―一九九九]さん。そういう、むしろ保守系の人脈の方たちが動いてくれたこともあって、寄付金集めができました。
 もちろん役者の稼ぎもありましたけれども、その財界の援助というのがあって、当時のお金で三千万円くらい、実際に劇場が建ってしまうほどに寄付を集めている。今のお金に換算したらいくらだか分からないけれども、数億、あるいは十億単位だろうと思います。
 当時の父は、役者はチケットのことは気にするな、お前たちは芸術に専念しろ、財政は親分の責任だからということを言っていました。それが後で災いするとも言えるんですけど、役者がチケットを売る習慣というのが雲、欅、昴にはありませんでした。欅は、それぞれ顧客というのを個々の役者が持っていましたし、世俗的な意味でネームバリューもありました。ところが、雲は違いました。いくら芥川比呂志、小池[朝雄]、神山[繁]、仲谷[昇]、岸田今日子のようなテレビスターがいても、やはり飽きられて次のスターが出てくる訳で、そうするとだんだんチケットが売れなくなっていきます。そのときに売ろうという努力をその先輩たちはしてない、経験・習慣がない。そうすると後輩にもチケットを売るという習慣は生れない。雲から昴になって、私の一番の苦労はそこにありましたね。
神山 お客さんの動員ということでは、杉村さんも結局は、その労演から見放されるのが一番怖かったんじゃないか、と言われていますよね。
福田 そうですね。逆に労演が一致団結して杉村を……
神山 応援していると書いてあったことがありますよね。
福田 足を向けて寝られないぐらいの恩があったんでしょうね。
神山 先程、財界の話が出ましたが、その昭和三十八年というのは丁度、日生劇場が開場した年ですよね。あの頃の財界人というのは文化に理解がありました。とにかくお金を動かしてくれるという意味では政治家も、今の財界というか、今のお金持ちとは全然違いましたね。
福田 ちょっと前のメセナなんていう言葉が出ていた頃よりも、昭和のあの三十七~三十八年頃のほうがはるかに、そういう動きがありました。それと安保騒動以来、一時期は日本が左傾して共産化だってあり得るという危機感を肌身に感じていた人間たちが財政界にいた訳で。その状況の中で、言論界で孤軍奮闘していたのは福田恆存な訳ですから、そういう意味で福田が芝居をやるというのなら助けよう、という雰囲気は確実にありましたね。
神山 当時の財政界の人たちは、旧制高校出身でしたね。
福田 父はその友人に恵まれていました。
神山 やはり旧制高校と新制教育の人では全然質が違いますよね。
 私の国立劇場での経験でも、旧制世代の理事長と新制世代の理事長では同じ文部官僚でも全然違いましたよ。文化資本の蓄積というか、昔の方は記憶の厚みが全然違う。
福田 経験自体が違う。
神山 だから、法学部や経済学部で全然違う世界に入っても、演劇や芸術に対して、青春の一時期を過ごした懐かしさがあったんだと思います。そういう懐かしさがなかったら、お金を持っていたとしても出しませんよね。
福田 それがある意味、教養主義に繋がってしまうところもあるんですが。
 私の世代の大学生というのは、やはりニーチェを読んでないと恥ずかしいとか、ドストエフスキーを知らないと恥ずかしいというのがありましたけど、今は、誰それ?という時代になっていますよね。
さらに旧制高校といわれている時代には、大学生にとってデカンショ、つまりデカルト、カント、ショーペンハウエルは当然だった訳ですから。その世代の友人が高橋幹夫[一九一七―一九八九・警察庁長官]さんや原文兵衛さんなどですね。当初の現代演劇協会の理事や評議員、それから翻訳をしてくれた方というのはみんな、そういう方々と繋がっていました。

日生劇場とのかかわり


神山 じゃあ、時代的に日生劇場の話にいってから、もう一回欅に戻らせていただきましょうか。当時の社長は弘世現[一九〇四―一九九六]さんでしたね。弘世さんは、現代演劇協会の評議員にもなられていますし、日生劇場にすごく尽力された方です。日生には塩野義製薬がすごいお金を出したそうですね。
福田 塩野義は雲でも宣伝を流していました。企業も財界の一部という意識が相当あったでしょうね。
神山 恆存さんは日生でたくさんお仕事をされていますが……
福田 組織には所属していませんでした。ただ、浅利慶太さん、石原慎太郎さんが入ったということがあって、その二人との親しさがあってこそ、あそこでのちょっとした関わりは起きたんだと思います。
神山 浅利さんと石原さんのお二人は、回想録で日生劇場の開場に言及されています。浅利さんが言っていたのかな、日生劇場をやっていくには、福田恆存と千田是也と武智鉄二の三人を固めてしまわないと、ということでその三人に交渉したんだと。ちょうど一九六四年だから、シェイクスピアの何年祭?
福田 四百年祭。
神山 それで、日本にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを呼べないから、ベルリンオペラにしたんだと。そのときも恆存さんに話を持っていったというような話をされています。その頃、逸さんはまだ高校生でしたよね。
福田 そうですね、そのときのことはそんなに覚えていません。というのも、私は自宅が大磯で。当時、東京にいたら違ったんでしょうね。もっと身を持ち崩していたかな。
神山 『リチャード三世』や『孔雀館』[一九六五年]はご覧になったんですか?
福田 『孔雀館』は見ていませんが、『リチャード三世』は見ています。やはり父関係のと、日生でしたっけ、松緑がやった『オセロー』[一九六九年]は観た。
神山 岩下志麻さんがデズデモーナの。
福田 いや、玉三郎の。
神山 玉三郎のときは、演舞場ですね。
福田 そうか。あれも見ましたが、私が芝居を盛んに見られるようになったのは大学になってからなんですよね。それまではやはり父が作・演出したものです。ただ、雲が出来てからは雲のものはほとんど見ています。アートシアターのものは全部ではありませんが、『動物園物語』[一九六三年]とか。日生の『リチャード三世』はもちろん記憶にありますし、『悪魔と神』も見ていたと思います。
神山 『悪魔と神』[一九六五年、浅利慶太演出]は、私もまだ中学生で見ていないんですけど、プログラムに書いてあったことがすごく印象的でした。そこで浅利さんと福田恆存さんが対談していて、歌舞伎役者にサルトルが分かるものかと新劇人は言うけれど、とにかく台詞は意味より調子なんだと、歌舞伎役者の口跡というか調子をもっと活用するようなものをやらないとだめだと言っていたのを憶えているんですよね。
 勘三郎[十七世]といえば、「三谷昇というのは名優だね」と言うんですよ。どうしてですと訊けば、あいつは俺が『リチャード三世』をやったときに顔をやってくれたと。だから名優だと。中村屋らしいなと思いました。
福田 三谷は絵描きですもんね。絵が好きでもう盛んに描いています。今の片岡鶴太郎じゃないけれども、画伯と言っていいくらいですよ。悲しげなピエロの仮面のような絵をずいぶん描いているんです。だから、メイクも得意だったんじゃないですかね。
神山 あのときの勘三郎、十七代目ですけれども、台詞が入りませんでしたよね。
福田 入りませんでしたね。うちで父が愚痴っていましたよ、全く入ってないと。戦いのシーンで倒れると、もう力を抜いて足をばたばたしているだけで、台詞は何を言っているか分からない、出てこないと。全く覚えられなかったらしいですね。プロンプター付け通しだったそうです。それで父の中村屋嫌いが母にまでうつっていて、母は亡くなった十八代目の勘三郎まで嫌っていました。私は違うんですけれども。
神山 中村屋[十八世]と一緒にお仕事をされていますもんね、『新書太閤記』[一九九六年]などで。
福田 彼は演目によって、舞台で遊び過ぎるところはあるけれども、古典をやるときはすごいですからね。やはり勘三郎が亡くなったのは本当に惜しい。生きていればそれこそ立ち役として最高の役者になったんじゃないかと。あえて名前を挙げるならば、亡くなった團十郎、幸四郎、吉右衛門を超える役者になっていっただろうなと、私は思っています。とにかく、先代の勘三郎は、その『リチャード』で台詞を覚えてくれない、覚えてくれなきゃ演出のしようがないという父のぼやきが我が家ではありましたよ。
神山 あと、日生劇場は寺山修司さんが関係していますでしょう。現代演劇協会の評議員ではないのですが、委員の中に寺山さんの名前があるんですよ。何だかすごく意外な組み合わせですよね。
福田 水と油のような感じですけど。
神山 このときのいきさつは憶えています?
福田 いえ、最初の頃、草創期には私は関心がなくて、すみません。
井上 浅利さんのご縁じゃないんですかね。
神山 寺山の『血は立ったまま眠っている』を四季が日生でやっている[一九六〇年]から、浅利さん関係で入ってきたんだと思うんですけれども、まあ……
井上 不思議ですよね、ちょっと。

欅のこと


神山 欅にお話を戻します。欅は四年後、一九六七年の『億万長者夫人』からでしたよね。
福田 一九六七年の三月に旗揚げ公演がありました。ただ、立ち上げたのはその前年です。劇団欅結成披露というのが一九六六年の三月八日。
神山 私は七十年代になってから支持会員になったので、雲と欅はよく見ているんです。その頃は知りませんでしたが、欅に分かれたいきさつは、向坂[隆一郎、劇団雲の事務局長]さんが非常に詳しく書いていますよね。ちょっと後で揉めた方ですけど。
福田 『追悼号』にですか?
神山 『回想の向坂隆一郎』[一九八四年]という本に載っています。
福田 実は、あれはあえて読まないでいるんです。その後ずっと現代演劇協会で私と一緒に仕事をしてくれた事務局長の杉本了三さんが、ご家族が読んだらどう思うかという言い方をしていたので。まあ、いずれ私は父のことも含めて色々書くときが来ると思うし、そのときにでもじっくり読んでみるつもりです。時を置いて客観的に見られるようになってから。
 ただ、私は、向坂さんがどう動いたかよりも、福田恆存がなぜ雲を作った二年後にもう一つ劇団を作ろうと思ったのか、そこが気になりますね。雲は、経済的にも、劇団の社会的地位も、まだ何も安定もしてない時期でしたよね。そんなときにもう一つ劇団を作るというのは新しい発想と言えるかもしれません。でも、一つ財団法人を作って、そのときそれを考えていたかというと、絶対あり得ないだろうと思います。欅は、宝塚出身の鳳八千代さん、解散した「にんじんくらぶ」の岡田眞澄さん、山本安英さんの「ぶどうの会」の久米明さんなどで新しい芝居を作ろうとしてできた劇団です。いわゆる新劇畑ではない人たちと新しい芝居をってことで。そう考えたのは、やはり福田恆存の中にある進取の気性とも言えるし、自分が今いるところに対する不満というか、いつでも殻を打ち破って次へ行こうとするところがあったんだと思います。
 国語問題協議会もそうですね、自分で作っておいては飛び出していくという。
それと同じで、鉢の木会は長く続いたけれども、そこでもやはりごたごたがありました。特に国語問題協議会と雲を見ていてつくづく感じるのは、欅を作らなければ雲の分裂には至らなかったということ。これは間違いありません。
 これは私の見立てというか、あくまでも推測ですけれども。雲の演目を見ると『夏の夜の夢』には当然、岸田今日子さんが出ていますよね。『ジャンヌ・ダルク』は岸田さんが主演ですよね。文学座を離れてやっと主演ができる、こんな良い役ができると彼女が言っていたのが一九六三年。アートシアターの『恋人』というのも岸田さんが出ていますよね。『ロミオとジュリエット』は岸田さん主演ではありませんでしたが、『夏の夜の夢』はすぐ再演されました。女優陣、男優陣は良い役をどんどんやれた訳です。そんな中、『罪と罰』[一九六五年]では、岸田さんはもちろん出ていますけれども、高橋昌也さんのラスコーリニコフに芥川比呂志さんのポルフィーリィ検事、それからヒロインのソーニャが若手で抜擢された谷口香さん。『じゃじゃ馬ならし』[一九六六年]は小池さんとやはり岸田さんが主演、その年に欅でしょう。岸田さんがこれに嫉妬しないはずがない。次の一九六七年には、鳳八千代さんをヒロインに本を書いて、自分たちのためには『罪と罰』の脚色はしてくれたかもしれないけど、本は書いてくれなかったんです。ここは非常に大きいと思いますね。自分は欅が好きだと、欅の役者が好きだと、父は盛んに言っていました。さっきの先生呼びの話とも繋がるんですが、雲のやつらはみんな俺のことを先生と言う、欅のやつらはみんな福田さんと呼んでくれると言うんです。要するに仲間なんだと。話していて楽しいし、対等に付き合えると。それなのに、雲の連中は崇め奉る。要するに雲の上の人にしちゃうということですよね。それで居心地が悪かったみたいなんです。
 にんじんくらぶであれ、宝塚であれ、ぶどうの会であれ、世間を渡ってきた人間たち、世慣れた社会人たちと付き合えたことで、雲と欅の違いが分かってしまい、さらに、さっきの話ですが、教養主義に陥っていく雲を見てしまった。エンターテインメントを忘れて文学の世界だけに入っていってしまう、そういう姿を雲の役者に見てしまったんだろうと思います。
 それに比べて、寄せ集めの、今で言えばタレントということになる、にんじんくらぶの岡田眞澄さんに、宝塚に、ぶどうの会の久米明さんといった人たちのほうが、人間として大人だった。大人と子供という言い方は違うかもしれませんが、人間付き合いができるかどうか、対等の付き合いができるかどうかということですね。それが欅に肩入れしていった理由の一つです。うちでもはっきり言っていましたから、間違いありません。
神山 川口さんや菊田さんを悪く言ったことがなかったという、さっきの話も……
福田 そこへ繋がるんです。左翼の新劇は教養主義で気難しいというか、小難しいというか、何だか分かった気になっている状況、お客さんが劇場に行って勉強した気になって帰る状況、そんな教養主義の日本の新劇の歴史を打破したかったのではないかと思います。だからこそ文学を大事にしようという意識があって、それで市民劇、あえて市民劇という言葉を使って、財団法人の車の両輪として、雲は文学路線と世界の名作路線、欅は娯楽路線、市民が楽しむ市民劇、楽しませる市民劇という路線を取った訳です。車の両輪と言ったけれども、川口松太郎や菊田一夫も客を楽しませることに芝居の真髄を見ていた。芝居の本質は娯楽だということ。先ほどの話に繋がるところが欅の路線なのでしょうね。
神山 そうですよね。さっき『悪魔と神』のときも話しましたけど、新劇の側、教養主義的な立場から言えば、松緑にサルトルなんか分かるわけがないと言う。ならば新劇の役者でサルトルを分かっている人はいるかというと、実はいないですよね。とにかく松緑は、ちゃんと台詞を覚えるし、見事な調子として聞かせる訳ですよ。
福田 それと同じで、例えば、私は、岡田さんにはあんまり感じなかったけど、藤木孝さんの台詞が好きなんですよね。彼は一種の怪優ですし、元々ロカビリアンということで随分損をしていると思うんですが。あの人は役者として大変面白かった。ミュージカルでも良かった。藤木さんのリサイタル、三百人劇場でやったんですよ、一度だけ。父が歌を歌っちゃえよと唆して、一度だけ歌手復活。三公演だったかな、歌ったんですよ。藤木さんと相談して、私が構成と演出やりました。
神山 見たかったですね。
福田 面白かったですよ、シナトラの曲から現代の曲まで、勿論彼のヒット曲「24000のキス」も歌って、それに若い役者も加えてちょっと小芝居や踊を付けて。役者は人を引き付けなきゃいけないという、その通りのことを見せてくれました。
 私は彼と『リチャード三世』をやったんですが[一九八九年]、まさにオリヴィエのあの色気というか、ちょっとしつこいくらいの脂ぎったもの、そういうものを持っている役者だと思いましたね。非常に芝居熱心で、生真面目で、これはもう信じられないほどでした。私が会った役者の中で一番真面目なのが藤木孝と言ってもいいくらいです。役に入っていくのもそうだし、普段、物を観察したりということもそうですし、人をよく見ているということでは、それもそうだし。
 私も欅ファンなんですよ。欅の芝居というのは面白い。喜劇をやるから面白いということではなくて、何と言うんでしょうね、福田恆存が自分の台詞と役者との距離ということを盛んに言いますよね、あれを無意識にちゃんとやっちゃう連中が集まっていたというか。
 こういうことに関しては、久米さんは苦手でした。
神山 新劇の人ですからね。
福田 ところが、鳳八千代と岡田眞澄の二人は、それを元々直観的に持っている人でした。自分の言う台詞を客観視して、その台詞がお客さんにどういう反応を与えたか、それをちゃんと冷静に見て、また次を繰り出していくということを半ば意識的、半ば無意識にやれる人でしたね。
 雲でそれができたのは芥川さん以外いなかったと思いますよ。橋爪さんもちょっとできたと思います。小池さんも。最初の人たちはかなり福田と一緒に仕事をしていたから良いのですが、後の人たちにはそれが伝わりませんでした。
神山 旧文学座系の人たちは、新劇の中では、そういうセンスを持っていた人たちだと思いますが。
福田 特に福田とやった人たちというのはそうですね。
神山 芥川比呂志も、人柄についてはみんな悪口を言うんですけど、役者としてはやはり魅力がありましたでしょう。
福田 ありましたね。『リア』[一九六七年]のときもそうですし、万博でやった『寺院の殺人』もそうでした[一九七〇年]。エリオットの『寺院の殺人』ではベケットをやりましたが、彼は肺をかなり取っちゃって息が続かなかったんです。息の続かないのを誤魔化す術、その巧さは実に見事。リアになるともう体力的に無理だったというのはありますけれども。
子ども心に覚えているのが、子どもといっても中学生か小学生の頃ですけど、『マクベス』[一九五八年]もやはり上手くて、知的な人間だと感じました。こう言っちゃうとあれですが、役者って知性じゃないですか。
 そういう意味でも、鳳八千代、岡田眞澄というのは、相当頭が良かったと思いますね。

欅のレパートリー――カワード、ラティガン、バリー


神山 欅のレパートリーについて伺いたいのですが。今話に出た娯楽的な要素ということで、当時は評価が低かったカワードやラティガン、バリー、これはそのままやった訳ではないけど『天晴れクライトン』を恆存さんが書き換えてやっていますよね。タイトルは……
井上 『ドン・キホーテ日本に現る』[一九六八年]ですね。
神山 あれは今仰ったことの具体的例の一つですよね。カワードは文学座時代にもやっていますが、六十年代は娯楽性というのがものすごく低く見られていた時代ですから。私は現代演劇協会の支持会員でしたので、随分舞台を楽しませてもらいました。ああいう感覚というのは、やはり以前から、文学座時代から、恆存さんにはあったんですよね。
福田 あったと思います。それはやはり落語、下町の遊び心というものに繋がっていると思います。
神山 カワードは歌手でもあり、芸人でもありましたからね。恆存さんも神田のお生まれですから、そういう下町の感じ、歯切れの良さというのがありましたよね。講演を聞いても、とにかく滑舌、歯切れの良い方でした。
福田 間違いなく下町の神田っ子でした。
神山 下町の人という感じですね。だから川口さんとは本当に気が合ったと思いますよ。これはちょっと飛び過ぎかもしれないけど、その気質がラティガンやカワードの世界にあるいは繋がっていくのかと。
福田 父は、ラティガンのことを西洋新派という言い方をしていました。情というか、人間の情緒というか、そういう世界を感じたんだろうと思います。『海は深く青く』[一九七九年]も、やはり欅ならではでした。あれをやるには文学座系統じゃなくてやはり欅系統でした。
 川口さんも昴になってから二本、『業平』と『椰子の葉の散る庭』をやっていますけど[ともに一九八二年]、やはり川口松太郎に書いてほしかったというのは、父も年齢が行って、先祖返りをしたのかな。
神山 いわゆる風習喜劇、コメディー・オブ・マナーズのようなものは、他の新劇団体ではやっていなかったんですか? 文学座がやっていたぐらいですか?
福田 東宝でも数本、映画もやっていましたね。何と言ったっけ、『ブリーフ・エンカウンター』でしたっけ。
井上 『逢びき』ですね。
神山 菊田一夫が東宝の芸術座でやっていましたね[一九六九年]。
福田 菊田一夫はやっぱり目の付けどころが違うんですよね。福田恆存にしても、シェイクスピアをやりながら、そっちに目がいっているというのが面白いと思うんですよ。
神山 川口さんも菊田さんも、元々文学青年ですからね。それと大衆性とのずれというのを非常によく分かっておいででした。
福田 彼らはそこを必死に結び付けようとしていました。[菊田一夫や川口松太郎のように]商業演劇の中から結び付けようと思った人と、[福田恆存のように]文学座系の新劇の世界から、それを結び付けようとした人間たちというふうに考えたらば分かりやすいかもしれないですね。
神山 新劇の大衆化というのは昔から言われていることで、俳優座も言っているんですが、俳優座のやっていることは、恆存さんが言うように大衆を舐めきっているようなところがあって。それに対して欅は、まあ平凡な言い方をすれば身に染みると言う感覚でした。当時の私の感想ですが。
福田 私も決して雲を嫌いな訳ではないし、雲に育てられた人間だというのはあるんだけれども、雲は自分たちがやりたいからという思いがまず第一にある。欅はお客さんに楽しんで欲しい、自分たちの芝居を観客に楽しんでもらい、その他の死んでいる客席が舞台に跳ね返って、戻ってこなきゃつまらないんだという思いがあった。その決定的な違いがあったと思います。多くの芝居は、自分たちがやること、自分が演出すること、演ずることをまず楽しんじゃって――よく言えば、それを大事にしてということでもあるのですが――お客さんが主体なのかというとそうではない。それが欅は徹底して客が主体だった。雲は違うとは言いません。もちろん雲だってそういうことがたくさんありました、『夏の夜の夢』は十分そうでしたしね。
神山 すごく皮肉に感じるんですが、新劇の中で一番そういう体質を持っていたのは、本当は、杉村春子なんですよね。
福田 一般受けして人の身に染みるような芝居ができていたのに、それではいけないと言われてきて、本人も自覚していたのかもしれませんが、そこがもう彼女のパラドックスですよね。
 ちょっと話が飛びますが、私が昴から遠ざかり、劇場を閉じざるを得なかった理由の一つは、完全に経済的事情なんですけれども、もう一つ理由がありまして。『ゆうれい貸屋』という山本周五郎の小説を、私が脚色して昴でやったんです[二〇〇二年]。完全に商業演劇と欅路線、楽しい路線を打ち出して。あまりにも昴は生真面目になり過ぎるよと、社会派になってきているよと、アンチテーゼを出したくてやったんですが、それに対して大反発が起こったんです。かつて、雲がサルトルをやったとき、福田恆存がお前たちは何をやっているんだと言った、『トロイアの女たち』のときの裏返しとでもいうか。『トロイアの女たち』は結構早い時期です。
神山 一九六九年ぐらいでしょう。
福田 その辺から、父と雲の一部の役者たちとが、演目のことで衝突しはじめる訳ですが、そのときと同じです。昴がどんどん雲の教養主義路線、文学座の中にあった一部の教養路線の方向に行っちゃって、喜劇ができなくなってきたんです。その喜劇ができないという危機感と、客を楽しませてなんぼという芝居の本質、初歩を忘れていることに、私は注意を促したかった。それに私自身そういう芝居作りを楽しみたかった。結果的にそれはできたと思っているんですが、それが劇団内でいろいろな波紋を起こしてしまったんです。それは常にあることなんですよね。でもやはり、最後はお客さんが大事なんじゃないのかなと、お客さんが楽しまなかったら何のためにお金を取れるんだろうと私は思います。
神山 図式的概括するのはどうかと思いますけど、もちろん新劇の人だって芝居が好きでやっている訳ですけれども、変な使命感があるのがいけませんよね。新劇の役者は、映画に出るとすごく良い人がたくさんいます。仲代達矢さんなんかもそうですけど、映画では良い役者なのに、舞台に出ると硬直したつまらない演技になってしまう、つまらない表情でありきたりのことばかりやって怒鳴っているだけ、そういう役者がたくさんいます。やはり変な使命感があるのがいけないのでは。
福田 西洋のものを紹介しなくては、という使命感でしょう。
神山 啓蒙主義ですよね。
福田 アテレコの世界の声優たちの喋り口というのがありますよね、あの声だけ聞いていて画面を見ないと実に異様な日本語を喋っているという。あれと同じことなんですよね。芝居経験の全くない人が、突然新劇系の台詞回しの芝居を見たら、何でそんなもったいぶった喋り方をするの、何を深刻ぶっているのということになりかねません。もっとナチュラルにやって良いのに。
 だから福田訳のシェイクスピアを語ろうとすると、みんな一本調子になってしまう、死んだ台詞になってしまう。もっとナチュラルで、しかも様式を持っているところにいかなくてはならない、ナチュラルと様式が同時に存在するということができなくてはならないはずなんですが。そこのところの綱渡りをしない限り、雲であれ、欅であれ、昴であれ、だめだろうと私は思います。
 教養派の方に行こうが娯楽派に行こうが、常に、どこかでこの芯というものを持っていなければならないし、芯ばかりの教養、啓蒙の方に行っても、お客さんに楽しんでもらうというゆとりの部分がないと、ただ理屈っぽく疲れるだけになる。その二つを融合させるということは大事なことだろうなという気がしますね。

雲・欅・昴の俳優たち


神山 これは私のナンセンスな感想ですけど、杉村春子は欅に入っていたら良かったんじゃないかと、それが彼女にも観客にも一番幸せだったんじゃないかとさえ思います。
 芥川比呂志さんや鳳八千代さん、岡田眞澄さんや藤木孝さんのお話はお聞きしましたが、差し障りがない範囲でもうちょっと、欅・雲の俳優さんで何か印象に残った役やエピソードってありますか?
福田 やはりそれぞれありますよね。例えば、雲や欅が始まる前ですが、文学座での『ハムレット』初演[一九五五年]でフォーティンブラス役だった仲谷[昇]さん。そのときの王子姿の印象は強く残っています。
それと、雲の旗揚げ公演の『夏の夜の夢』[一九六三年]での神山[繁]さんのオーベロン。タイターニアは文野[朋子]さんと加藤治子さんのダブルキャストでしたが、私は文野さんの印象が強いです。妖精の世界がよく伝わってきました。それから、稲垣[昭三]さんのパックも良かったです。ただ、稲垣さんはパックをやって以来、パックの体の癖がどの芝居にも出てしまいましいて。そのくらいの当たり役でした。小池[朝雄]さん、名古屋章さん、有馬昌彦さん、三谷昇さんの職人たちの芝居も、どたばた芝居の面白さ、言葉の遊びを存分に楽しませてくれました。
雲の第二回公演『ジャンヌ・ダルク』[一九六三年]の岸田今日子さんはやはり素敵でしたね。最近、世田谷パブリックシアターで『ジャンヌ・ダルク』をやりましたが[二一〇三年、鵜山仁演出]、何だか芝居の構造が見えないし、誰が主役だかそれも分からないような上演でした。雲のは、あの小難しいバーナード・ショーの戯曲の中のウォリックとコーションの遣り取り、ああいう貴族と僧侶の対立が、いわば劇的な姿が形として見えていました。当時分かっていたとは思わないし、今でも理屈で説明しろと言われたらできるかどうか分かりませんが、要は理屈ではなく何かが切り結んでいるという、やはり芝居というのは型なんだ、様式美なんだというのを感じさせてくれました。風が吹き旗が翻るシーンなんかは、デュノア将軍の山崎努さんと岸田さんのジャンヌ、二人の喜び、感動がまっすぐに観客に伝わってきました。
そういう意味で、雲でも、何かしらこちらに与えてくれるものは十分ありました。そういう作品を、父の演出だということで見せてもらっていた訳ですが、当時高校に入ったばかりの私にはとても新鮮で、スポンジが水を吸い込むように雲からの影響を受けました。
 小池さんがやったコリオレイナス[一九七一年、雲]は、こう言っちゃなんだけど、ちょっと品のない顔でした。コリオレイナスって本当はもっと格好良いと思うんですよね。向こうではレイフ・ファインズなどがやっているでしょう。でも、小池さんの場合、相当強そうな、傲岸なところ、コリオレイナスのそういうところが出ていました。その役の神髄をぽんと掴んだのを見せてくれましたね。
 現代演劇協会の創立五〇周年誌に写真が載っていますが、ピランデルロの『御意にまかす』[一九六四年、雲]での小池さんのポンザ、彼は藤木さんと別の意味で怪優でしたよね。コリオレイナスよりこういうもののほうが良いのかもしれません。
神山 『御意にまかす』のときはまだ岩田[豊雄]さんがご存命でしょう。その岩田さんが珍しく演出されて。珍しくというか、雲では一度だけですよね。
井上 岩田さんがご存命中の最後の演出作品だと思います。
福田 この『御意にまかす』は、私の人生観の一部ですね。人間の存在というのは確固とした自分があるのではなく、相手・他者にどう見えるかなのだという見方、つまり「私はあなたが見た通りの人間なのだ」という自己認識に強く惹かれた記憶があります。いつ何に出会うのかは私たちが成長していく上で大事だと思うのですが、高校生のときに出会ったピランデルロが私の考え方の一つの根幹を成しているようなところはあります。
他には、芥川さんの『寺院の殺人』でのベケット[一九七〇年、雲]もそうですが、高橋昌也さんの『動物園物語』でのジェリー[一九六三年]も印象的でした。西沢利明さんもジェリーをやっていますが[一九六八年]、これもまた印象的。西沢さんはロミオ[一九六五年]も良かったし、このときマーキューショーだった高橋さんの演技も良かったですね。
神山 高橋さんも仲谷さんも声量のない人だという印象があるんですが、もともとあの人たちは声量がなかったのですか?
福田 確かに声量はありませんでしたね。肺活量なのか、呼吸法が原因なのか。
神山 『ボルクマン』[一九九七年、演劇集団円]をやったときも、本当に仲谷さんのせりふは……
福田 あの人はいつも苦労しているんです。
神山 ただ、雲の人は割と形が良かったと思います。悪口ではなくて。新劇は型にこだわってはいけないというような言い方をしますが、形の良い人たちは確かにいましたし、文学座系の人は舞台の中心に立てる人という感じですね。それは大きな要素だと思います。今、逸さんが型ということを仰いましたが、恆存さんは勿論、三島由紀夫さんも言っていますよね。そういう型があることと型の良さ、そういう目の快楽というのは、新劇の中ではあの系統の人たちに一番感じました。
福田 高橋さんといえば、初演の『夏の夜の夢』で恋人の一人、ライサンダーだったと思いますが、恋人四人のどたばたの掛け合いの中で、妖精の世界の魔法のせいで振った女性に向かって言う残酷なせりふ、「飽きれば胃の腑にぐっと来る」というせりふ回し、その音が今でも耳に残っているんですよ。本当に女性を傷つける型で言う、悪く言えばあざといくらいの、そのおかしさ。あざとさが意識されて発話させれているから、本当の悪意ではなく、やがて、めでたしの大団円に辿り着く過程での科白として、観客は吹き出してしまう。
 そういった意味では、高校のときにそれを体験して、それが私を演劇という「悪」の道に引き込んだ、という訳です。
福田 これは本当かどうか分かりませんが、最後に雲が分裂して、雲の残った役者達と欅で昴を作るときに、仲谷が芥川を背負って円に行き、小池が福田を背負って昴に残るという、二人の話し合いがあったそうです。それが事実なのか噂なのか分かりませんが、大いにあり得ることだろうとは思いました。小池は、自分にはまだやり残したことがあると言ったとも聞いています。
神山 私、芥川さんを直接見たのが実は舞台ではないんですよ。「国際芸術家センター」というのが赤坂のTBSの途中の怪しげなところにあって、あそこで稽古をしていたんですかね。あそこの何かバルコニーみたいなところで。
福田 ありましたね、建物に行く道から見上げたところに。
神山 あそこで椅子に座った芥川さんが沈思黙考みたいにしていたのが、ものすごく格好良かったですね。もう相当痩せこけてしまっていましたが。
福田 いつでもどこでも、格好つけて。酔っ払っているときでも、自分を演じているところがありました。大学の頃、絡まれたことがあります。
神山 そう。あの人の酒癖の悪さは……
福田 すごい。自分は龍之介の息子だという屈折があったのかと思うのですが、「お前が恆存の息子か」、というようなことで絡んできたんだと思います。からかわれたというか嫌味を言われたというか。いわゆる「へべれけ」という言葉がぴったりで目が座っていた、そういうこともありましたね。

演出家福田恆存の薫陶を受けた人々


神山 演出家としての恆存さんのお弟子は……
福田 荒川[哲生]さん。やはり荒川さんには技術がありましたね。後年、せりふ回しを口写しにしたり、荒川節と言って役者たちがからうくらい、型にはまってしまったところはありましたが。
神山 樋口[昌弘]さんや村田[元史]さんになると、少しお若いですかね?
福田 父は、荒川さんを重用する時期、樋口さんを重用する時期とあって、樋口さんを重用する時期というのは荒川さんを突き放した時期で。その下でじっと我慢していた村田さんを、むしろ私が引っ張り出したんです。その間をうまく縫ったのが中西由美さんという女性で、要は福田恆存の後進に対する一種の嫉妬心ということになるんでしょうか。
神山 でも、荒川さんは、晩年金沢のご自宅で話を伺ったのですが、恆存さんを本当に崇拝、尊敬していらっしゃいましたね。
福田 そうだと思います。
神山 照明や装置で、どなたか個人的にお付き合いのあった方はいらっしゃいますか?
福田 自分で付き合いがあったのは、浅沼[貢]さんですね。どれだけの御大であったかなんて私は分かっていませんでしたが。穴沢[喜美男]さんとはお付き合いがないんですけど、浅沼さんや高田一郎さんとは一緒に仕事をさせていただきました。
神山 穴沢さんと直接のお付き合いがなかったのは残念ですね。あの方は照明では戦前からもう本当に……
福田 そうですね。ですから、雲では『夏の夜の夢』が最初で最後ではないかと思います。後はずっと浅沼さん。
神山 早くにお亡くなりになられましたからね。
 あと女性では、大橋也寸さん。これは雲ではありませんが、新宿のアートシアターで[彼女が演出した]ベケットの『勝負の終わり』を山崎努さん、加藤治子さん、高橋昌也さんが演じたのを見ましたけど、あれは良かったですね。雲での大橋さんはあまり記憶にないんですが。
福田 一九六九年の『トロイアの女たち』ですね。あれが問題になって、最終的に福田恆存と雲が決裂したという舞台なんですよね。父は大橋さんのことをかなり悪く言っていましたね。
神山 そうでしょう。私が感動したのはあのときのベケットだけです。あれは山崎、高橋、加藤、三人だけですよね。
福田 ええ。でも、これは雲のものではなく、先日亡くなったアートシアターのプロデューサー……
井上 葛井欣士郎[一九二五―二〇一四]さん。
福田 その仲間たちの公演でしたね。
 浅沼さんの他には、稽古でよく見ていた効果の秦和夫さん。直接のお付き合いはありませんでしたがこの方もやはり職人でしたし、浅沼さんも秦さんもあの一つの時代を画した方でした。彼らは、私が歌舞伎へ行ってからのお付き合いの[装置の]中嶋八郎さんと照明の相馬清恒さん、あの方たちと同じような、何か御大という感じでしたよね。
神山 中嶋さんと相馬さんは、私も毎年数ヶ月は仕事をしていたからよく知っています。
福田 相馬さんは、いつも銀座東急ホテルの地下にあったバー東(あずま)に連れていってくれて、楽しい酒を飲ませてくれました。

思い出深い海外戯曲の演出


福田 舞台の思い出になってしまうのですが、やはり『ロミオとジュリエット』はとても印象深いですね。これはベントールが初めて海外から来たということも含めて、印象に残ってます。
井上 昭和四十年。
福田 一九六五年ですよね。
神山 その話もお聞きしておいた方が良いですね。
福田 海外の演出家が来日して本格的に演出したというのはおそらく初めてでしょうし、シェイクスピアでは勿論初めてでしょう。やはり演出家として彼は超一流ですよね。
 父が最初に渡英したときにオールド・ヴィック劇場でやっていたシェイクスピア全作品上演五カ年計画、そこで目にしたのが彼の演出でリチャード・バートン主演の『ハムレット』でした。その五カ年計画の総指揮者、そういう演出家を呼んだんです。いや、呼んだというか、たまたま日本に来ることになったので、雲の『夏の夜の夢』を見せたらびっくりして。イギリスで英語で『夏の夜の夢』をやったときと同じところで、日本語の舞台を観て日本人の客が笑っているということに衝撃を受けたらしいんですね。そんなこともあって、是非演出しようということになりまして。何をやるか何度か相談して、結果的に『ロミオとジュリエット』に落ち着いた訳です。
 やはりベントールの演出が斬新だったのか、それに応えようとする役者たちの情熱のなせるわざでしょうか、とても刺激のある溌剌とした舞台でした。
 不思議なことに、『ロミオとジュリエット』は若い男女の悲劇なんですが、舞台を観て思ったのは、マキューシオという役が一番面白いんですよ。あくまで一歩離れたところから主人公二人を突き放して見ていたのに、真っ先に悲劇に巻き込まれてしまう。それを高橋昌也さんがやっているという。私は彼が好きだったのかもしれませんね。悪く言えば、本当にせりふに癖がある、それでもせりふ回しが上手かったと言わざるを得ない、本当に良い役者でした。だからマキューシオはとても印象に残っています。
 松村達雄さんの神父と文野朋子さんの乳母、ロミオとジュリエットよりも脇役のほうが印象的で覚えています。原作がそういう作品ではありますがね。
 それと『夜への長い旅路』[一九六五年、雲]。これでオニールが好きになりましたね。これは荒川さんの演出ですよね。良くできた舞台だったと思います。題名通り長い芝居なんですけどね。
 実は三年前、大学の特別研究の間にイギリスに行ったとき、ポワロ役で有名なデイヴィッド・スーシェが主演のこの芝居を見たんですが、英語で聞いても長いと思いました。女房と二人で見ていて、二人とも一応英語は分かるし、しかも、わざわざ読み直してから見に行ったんですが、やはり長い。ただ、イギリスで観るアメリカ劇の違和感のようなものをちょっと感じました。日本で高校生の頃にこれを観たときは、ただ感動したというか、難しい家庭劇でしたが、若かったから二人の息子役に感情移入していたのかな。
時代というのもありますよね、最近の新作はどれも短い。
神山 『夜への長い旅路』は、五年ぐらい前ですか、新国立劇場で見ました。四時間半ぐらいありました。
福田 あれも長かったですね。

上演時間の長さ


神山 なぜ六十年代、七十年代、新劇も歌舞伎も、あんなに興行時間が長かったんですかね? 恆存さんの『解ってたまるか!』[一九六八年、四季]にしても。近年、四季でやるのは、随分詰めていますよね。
福田 詰めていますね。
神山 カットしないと現代の興行時間に収まらないんですよね。ある種のプロデューサーも兼ねているお立場としてお聞きしたいのですが、なぜあの頃の興行時間は長かったんですかね?
福田 一番長かったのは、俳優座の『ハムレット』。あれは仲代[達矢]主演で日生劇場だったかと思いますが、終電がなくなったんです。それでカットして詰めていって、とにかく何とかしたらしいです。
神山 『ハムレット』でそこまで長いものがあるんですね。
福田 イギリスでは、ケネス・ブラナーが全幕ノーカットでやったものがあります。あれは七時頃に始まって、四時間半くらいでした。ストラトフォードで、遅くなっても観客はホテルに泊まるから良いんでしょうけど、私はレンタカーでロンドンまで帰りました。
 プロデューサーとして言えば、当時、芝居を見に来るのは大体東京の人だったというのがあると思います。昔は六時、六時半開演が当たり前でした。だけど、今はベッドタウンが広がったために、郊外に帰らなくてはいけません。でも仕事を終えた人が劇場に来ることを考えてか、開演時間自体どんどん遅くなっていますし、しかも、終演はできれば九時半前という状況になっていますよね。
神山 いや、今はもう九時です。
福田 歌舞伎もなるべく九時前に、としているようですが、新劇では昴なんかは七時に始まるとやはり九時半か、できれば九時十五分終わりというようなところでやっていますね。
神山 ですけどね。恆存さんの芝居もそうだし、その前の久保栄はもっと長いでしょう。三好十郎も長いし、それからアングラだって長かった。紅テントは三時間半程度でしたが、黒テントは四時間以上やるんですよね。なぜあれにお客さんが付き合えたのか、あの当時はお客さんにも使命感があったんですかね。
福田 やはり、テレビや何かで、我々はどんどん忍耐力をなくしているんだと思いますよ。
神山 まあ、長編の小説を読む根気がないというのがありますね。
福田 そう、それと同じ。ライトノベルが流行るのも同じですよね。今や普通の文庫本一冊すらライトノベルでなければ読めない、漱石は辛くて読めない、露伴になるともっと辛いという。
神山 大学生やインテリだけではなく、昔の人は娯楽にまで根気があったんだと思います。だから商業演劇も長かった。長い娯楽は、今、だめなのかもしれませんね。
福田 当時のせりふを難しいと思わない言語水準というものもあったと思うんですよね。
井上 『億万長者夫人』だって相当難しい本ですよね。
福田 『解ってたまるか!』もそうですね。
井上 そうですね。それが娯楽で成り立っていたというのが不思議ですよね。以前、爆笑だったというようなことを伺いましたが。
福田 本当に爆笑でしたよ、げらげら笑って見ていました。今読むと、あのせりふにお客さんがげらげら笑うというのはどういうことなんだろうと思いますけど。
 実は、あの二つの作品には、福田恆存の大きなテーマが出てくるんです。『億万長者夫人』には、自分を愛してくれる男なんていないのではないのかという「孤独」が、『解ってたまるか!』には、人間は他者を簡単に理解できるものではない、やはり「孤独」な存在なんだという、さらに突きつめると、この地球上に人間という夾雑物が存在しなかったら、こんなに爽やかな大自然のみの世界はないだろうという「虚無」にもつながりかねない思想が顔を覗かせる。前者にしても、自分が恋愛対象にする男性は世の中にいないという意味では虚無に通じている。
 要は、ぶつかっていく相手がどこにもいない、あるいは、戦うために真剣に拳を振り上げても空振りしてしまうという孤独な思いですね。これは福田恆存がチャタレイ裁判をやろうが、国語問題をやろうが、平和論論争をやろうが、必ず出て来るテーマです。政治家、評論家、平和主義者たちを切っても切っても敵が立ち上がってこないという。そういう深い思想が顔を覗かせているんですが、なおかつ、お客さんも十分楽しませていました。
 シェイクスピアだって、彼のテーマとなると色々な切り方ができますよね。でも、それに関係なく、一五〇〇、一六〇〇年代当時の土間のお客さんたちは楽しんでいたんですよ。
 それと同じで、一九六〇年代、七〇年代当時はどこの劇場に行っても、せりふせりふの芝居をみんな十時近くまで観ていた、科白を聴いていられた。忍耐力というより、それだけの知的エネルギーがあったんですよね。
神山 やはり庶民にすごい学があったと思いますよ、昔の庶民には。
福田 学があった、そうなんですよね。
神山 だから商業演劇を馬鹿にする方がおかしいですよ。戦前なら大衆小説と括られたものでも、今は大学院生だってなかなか読めませんよ。それだけ庶民に学があった、学というか知恵ですね。そういうことが、興行時間や忍耐などに繋がっているように思うんです。
福田 時代とともにだんだんレベルが落ちていくのは我々人間の宿命ですね。私たちはその世代を知っているからそこに属していて、若い人たちはそれを知らないからそこには属してないという議論ではありません。
 ちょっと話が飛びますけど、岡崎久彦さんという外交官の方がいらっしゃいましたよね。
神山 最近亡くなりましたね。
福田 あの方が、漢文調の文語を広める会というのをやっていたんですけど、その会で話していましたが、以前知っていたはずの言葉が出て来なくなってしまった、使えなくなった。つまり、自分の中に文語の単語が嘗てはあったはずなのに、現代の日本で、周囲がそういう言葉を使わなくなる、まわりからそういう単語を聞かなくなったために自分も単語を失って出て来なくなる、言葉を忘れてしまうと嘆いていました。
 それと同じことが、現代の日本全般に、日本人の言語力にも言えるのではないか。言語力がだんだん脆弱になって、表現力を失っていく、語彙が減っていく。せりふを聞くという観客の習慣もだんだん廃れていっているのではないか。
 それは、瞬間芸的な一発のジョークで笑っても、もう次には何の脈絡もない展開を望んでいる昨今のお笑いとも無縁の話ではないと思いますね。

歌舞伎の演出


神山 そういった話と繋がるか分かりませんが、商業演劇との関係で、逸さんご自身がなさった歌舞伎演出のほうを先に少し伺いたいです。
 例えば、岡本綺堂の『平家蟹』[二〇〇五年、歌舞伎座]などは本当によく分からないせりふを連発しますよね。時間こそ短いものの、どう考えても退屈といえば退屈なやつです。あれはいかがでした、ご苦労は?
福田 いや、もう、あれほど困ったものはありませんでしたね。もうご自由におやり下さいと言うしかありませんでしたよ。
神山 あれは[七世中村]芝翫でしょう。
福田 ええ、それで、ご自由にと言っても、どうしてもストーリーが繋がらないんですよ。ただ歌舞伎流作り物の蟹が出てきて、ゴトゴトと動いている。海に入って行く人は入って行く。ストーリーに何の山もないというか、あれは非常に辛かったですね。
神山 それでもやはり、新劇の演出より、歌舞伎の演出のほうが視覚性を重視するというのは意識なさいます?
福田 それは確実にしていますね。それから歌舞伎座や国立劇場などの寸法の違いも。歌舞伎の舞台という枠を意識せざるをえないし、意識する以前に「何々の場」といえば決まった形の装置が出て来ますよね。装置が決まれば役者の出どころも決まる。居所も決まる。
 高麗屋さんの舞台をやったときも、殿様はここに座る、すると当然家来はここという、そういう慣習はほとんど壊せません。わざと壊したときもありますが。
衣裳にしても、こちらが何か言う前に役者たちが自分たちと裏方とで決めてくるので、こちらは指揮をするというより、交通整理をするような感じです。
神山 『道元の月』[二〇〇二年三月歌舞伎座]は、立松和平さんの新作ですが、それでもそういう感じでした?
福田 いや、あれはちょっと違います。あれは松竹の大沼信之さんと私二人で本を直したり、装置をどう動かすかとか、装置をどう変化させるかとか、かなり自由な発想で考えました。永平寺の屋根を飛ばしてしまうなんていうのも、相談しているうちに出てきたことですね。
神山 立松さんは小説家だから、そういった具体的なイメージというのはお持ちでないのかもしれませんね。
福田 戯曲はもとより、歌舞伎は初めてでしたから大変だったでしょう。これはオフレコのような話ですが、もうお亡くなりになられた方だから失礼して――立松さんは、せりふはお書きになれない、不得意な方でした。それを大沼さんと私で話し言葉に直したんです。
 音楽も仙波清彦さんという外から連れてきた方でして、そういう意味ではかなり歌舞伎を離れて自由にやらせてもらいました。
 やり過ぎて顰蹙を買ったかもしれないのは国立の『楊貴妃』[一九九七年十二月]。誰だったか、新聞記者が客席から出て来て、ロビーにいた私に「これは歌舞伎ですか」と怪訝な顔をして言ってきたんですよ。私としては、大佛次郎作品を歌舞伎座でやるならともかく、『楊貴妃』を国立劇場でやるならここはこうしてみよう、というイメージでやっていただけなんですけどね。これが歌舞伎座だったなら、そのまま裏方や役者に任せていたかもしれませんし、中嶋八郎さんに装置をお願いしていたら、また違っていたかもしれません。あのとき装置は堀尾幸男さんに依頼して、衣裳は彼が連れてきたバレエがご専門の八重田喜美子さんに頼みました。音楽は私が連れて行った上田亨さんというスタッフを組んでやりました。
神山 あれは初演から滝沢修と水谷八重子でしょう。
福田 ええ、私は歌舞伎役者で国立劇場でやりましたが、その後は比較的最近、演舞場で海老蔵と福助でやったみたいです。もっと歌舞伎的にやったらしいですけど、それではつまらないんじゃないかな。
 『新書太閤記』[一九九六年二月新橋演舞場]は、最後の場のほとんどを私と大沼さんで完全に書き換えました。元々は、みんなが踊って終わると聞いた記憶があるのですが。それを私が当時の勘九郎、亡くなった十八代目勘三郎とやったときは、秀吉の死で「浪花のことは夢のまた夢」というあの歌を死の床に就いた秀吉が歌う、五大老が周囲に侍っているという構図で終わらせました。最後の場は完全に変えました、松山善三さんの作品の最後だけ直して。
 ある意味、歌舞伎のほうが楽といえば楽で、型の中で必要最低限こうしましょうという決断を下せば良いんですが、やはり『お国と五平』[一九九八年五月、歌舞伎座]と『道元の月』は再演を繰り返す度に考えて直していますね[『お国と五平』は二〇〇五年十月、二〇〇九年八月歌舞伎座で再演。『道元の月』は二〇〇三年十月南座、二〇〇五年四月御園座で再演]。音を変えたり、明かりを変えたり、ススキの傾斜とか出し方とか。『お国と五平』でいえば、那須野が原のススキの穂の作り方とか分量まで。そういう意味ではやり甲斐がありましたけど、何しろ歌舞伎というのは決まっている枠にはめるというのがまず第一の仕事ですからね。
 これはそのことに繋がるかもしれませんが、私が最初に演出したのが昭和六十二[一九八七]年の『西郷隆盛』[一九八七年十月歌舞伎座]でして。
神山 高麗屋[現・九世幸四郎]の『西郷隆盛』、あの野口達二の。
福田 父と二人の共同演出だったんですが、父はもう脳梗塞をやっていたので実際には私一人で。野口さんも脳梗塞をやった直後で、ある一場をまた私と大沼さんで全部書き直したんです。野口さんは「直しを入れるのが今の時流か」と皮肉をパンフレットに書いていらっしゃいましたが、その場が原作ではどうしても説明文でしかなく、科白になっていない、劇的ではなかったんです。それで、ほとんど徹夜で書き直しました。野口さんには、ちょっとお気の毒でした。
 そのときの面白い話なんですが。幸四郎演じる西郷が、亡くなった團十郎演じる島津斉彬、西郷が心から尊敬する殿様ですね、彼と夢の中で話す場面があるんですよ。殿様は築山の上で菊を切りながら座って喋っている、西郷はその殿様に向かって喋っているという設定です。歌舞伎の稽古って全部で……
神山 五日ぐらいです。
福田 読み合わせ、付立て、総ざらい、舞台稽古で初日ですよね。新作でもあと二回か三回でしょう。それを『西郷』は長い一晩芝居だし、決まった稽古より前に、幸四郎が空いているときに、他にも空いている方たちに来てもらって、出来る場面場面区切って稽古をしたんです。それで、その場面になったら團十郎が裏を向くんですよね。まるっきり裏を向いて客席に背中を見せたまま裏で菊をパチンパチンと切るんです。
 その稽古前に、團十郎に挨拶に行ったときに話をして「あの場面をどういうふうにおやりになるおつもりで?」と聞いたんです。私も初めてだから、とにかく團十郎の話を聞きました。そしたら「福田さん、あそこは夢の中だし、私は後ろを向いて菊を切りながら話そうかと思うんです」と。そのときはこちらもあまりイメージが湧かなくて、「ああ、そうですか、どうぞ」と言って下がりました。
 それでいざ稽古が始まったら、いくら幸四郎の西郷が語り掛けても團十郎は後ろを向いて菊を切りながら振り向かない。それで幸四郎がついにしびれを切らせて「福田さん、これでいいんですか」と。私も慣れないものだから本当に困って「ちょっと考えさせてください」と預からせてもらったという。ことほど左様に、あの世界は、物事、そうは簡単に進まない。
その月は歌舞伎座に團十郎が出演していたから、その日の夜か翌日かの空いている時間に楽屋に伺って「團十郎さん、あそこの場面ですが、團十郎さんを見たくていらっしゃるお客さんだってたくさんいらっしゃる。團十郎ファンだっていらっしゃるはずだ。だからあそこはどこかで一度立ちましょう、とにかく一度立ってみてください。それから振り向きたくなったら振り向いて結構ですから」というところから説得を始めて、「分かりました、じゃあ、どこかで立ってみます」ということになって、まず立った。付立て、総ざらいが進んでいく間にだんだん客席の方を向いていき、結局、前を向いて菊の花を切っているところから始まるということになりました。何とまあ歌舞伎役者ってやりにくいんだろうと、こんなにやりにくいものなのかと感動的ですらありましたね。
 今は現場を離れていらっしゃいますが、ずっと演劇製作に携わっていた岡崎哲也さん、彼はその当時、監事室の若手で後ろにいたんですよ。その出来事も覚えているらしくて、後年私に、團十郎は多分「福田家というのは高麗屋との縁があって来ているんだから、もう俺のことなんかどうでもいい」とか「どうせ幸四郎と福田逸とやりたいんだろう」と思ってすねたんだろう、という解釈をしてくれました。
 それが高麗屋=福田という訳ではないことを後から分かって下さったらしく、次の年には團十郎さん主演の『武田信玄』[一九八八年六月歌舞伎座]を私の演出でやることになりました。そのときはもう、奥さんと三人で食事をする仲になっていました。根は優しい方なんですよね。『信玄』のときには今度は高麗屋が付き合う形で上杉謙信として出てくれました。
本は田中喜三さんが書いたんですが、物書きというのは無責任で、謙信が馬に乗って花道を宙乗りで出て来るなんて台本に書いてあるんですよ。宙乗りで出るのは百パーセント不可能ということはないと思います、だけど、その後、舞台にかかると宙乗りのまま上手に移動するとト書きに書いてあるんです。だから私もはっきり「田中さん、これは実際にどうやってやるんですか」と聞きました。そしたら「それを考えるのが演出家ですよね」と。「それはそうだけど……」ということになる訳です。本当に困って、あれこれ考えて。宙乗りで三階から馬と一緒に出てくるなんて実際には無理でしょう。歌舞伎の馬の脚はどうなるのか、花道から出そうかという話もしました。装置は中嶋八郎さんでしたが、素人の私を随分助けてくれました。
 そしたら、そのうち今度は團十郎がとんでもないことを言い出して。「これを生でいきましょう」と。「生でって何ですか」と聞けば「本物の馬でいきましょう」と言う。みんな言いたい放題言う、もう滅茶苦茶。私は「うん、それは面白い」と受けたんですが、さすがに裏方の方たちが「いや、馬が糞をしたら困りますから」と止めてくれました。実際ありえることですし、おしっこだってしますしね。
神山 帝劇で出しましたけど、『風と共に去りぬ』でね。
福田 『信玄』では、裏方や監事室が反対して、本物の馬は出さずに済みました。普通の歌舞伎の馬でさっと花道から出て行くことになったのですが、問題はそこから。花道をパカパカ来たら幔幕のところで信玄の陣地に切り込むんですけど、舞台にいる信玄からは花道を来る謙信が見えているんですよね。来るまで待つんじゃあ間が抜ける、どうしよう、と色々考えていたら、中嶋さんが助けてくださった。これは演出家のアイデアのようになっていて、伝説のように言われているんですが。
 要するに、こういうことです。戦場から物見の者の色々な知らせがどんどん来る、だから引き幕のチャリンが鳴るとお客さんはそっちを見ますよね。それを何度かやって、一瞬チャリンと鳴った瞬間に、幔幕の後ろからスパーンと、謙信が真後ろから幔幕を切って出て来るという手で行くことになったんです。どうせ嘘をやるなら、効果的に観客の虚を突こうと。これほどスタッフに助けられたことはないと思っています。演劇人生で、他の新劇での演出を含めて、スタッフに助けられた最高の経験だったと思っています。まだ二度目の演出だったこともあり、裏から出て来るなんてあり得ないと思い込んでいたので、そういう出し方をしても歌舞伎なら許されるとは思いもつきませんでした。結果、突然襲われた信玄が立ち上がりざま、左手に持った軍配で謙信の太刀を受けるという見せ場になって、花道に気を取られた瞬間、正面の幔幕の裏から謙信が乗馬姿で颯爽と登場するので、観客はどよめきましたね。幔幕の仕掛けが上手く行かなくて、謙信が切っても切っても幔幕が二つに落とせないというアクシデントも一度ありましたが。
 『道元の月』で永平寺のお堂の屋根を飛ばすのも、どよめきましたね。暗いお堂の中での会話の場とか夜明け前からの修行の場とかが延々と続く。その後、夜明を迎えた頃合いに、屋台の屋根を飛ばして、背景に明るく青い空と、美しく鮮やかな緑の山が見え、思い切り雰囲気が変わる。これも必ず客席がどよめきます。舞台を使ってどよめき、いわゆるじわがあると、演出していて嬉しいですよね。
神山 揚幕の方に目を向かせている間に、というのは、『千本桜』の四ノ切でやるみたいな感じですね。
 團十郎の後ろ向きというのは、ちょっと試してやろうというやつですよね。歌舞伎の世界は、スタッフも職人も、若いのが入ってきたら必ず、それをやるんですよ。どのくらいのことをできるやつか試すんです。昭和六十二年といったら、逸さんもまだ三十七~三十八歳、芝居の世界ではそれは若いですし、成田屋だって昭和二十一年生まれですし。
福田 そこまでのことは分かっていませんでしたが、最初に『西郷隆盛』の話をいただいたときには、正直怖くて、引き受けたものかどうか迷いました。父は病気だったから、二人の名前でやってくださいということで、実際の稽古は私一人、父は顔合わせのときだけということで行ったんです。母が歌舞伎好きで古典芸能も相当見ていて国文出身なものだから、歌舞伎の演出ってどうしたら良いのか相談したら「あんなものは放っておけば役者が勝手にやるから、やらせとけば良いのよ」と言うんですよ。確かに行ってみればそうで、私はそう居直るしかありませんでした。「できなかったら、初日を開けるのは役者だものな」と、そこまで居直れたかどうか当時の記憶として曖昧ですが、実際役者がやってくれちゃいました。幕を開けることに向けて、まわりだって結局動く訳ですから。だから中嶋さんのアイデアには本当に助けられました。意地悪でもないし、中嶋さんも考えてくれたんだろうと思います。
神山 実際に私が知る範囲でも、結果的には役者や演出家の成果ってことになるんですが、職人やまわりの人たちが「旦那、これでどうです」とか言うんですよね。演出家も役者も「もうちょっと柔らかめに」とか、そのくらいしか言わないんですよ。あとは衣裳を変え、床山が頭をふかせる[鬢の部分を少し広げる]と役の印象が随分変る。小道具では刀の柄や鞘の色目を変える、後ろの衝立の色柄や置き道具の位置を変える。そういう職人の知恵で成り立っている世界ですからね、外面の変化が実に見事に役の内面を表現するという。劇評を書く人はそれに全く気付かないから、全部役者や演出家の手柄になるんでしょうね。新劇ではそういうのはあるんですか?
福田 まあありますけど……
神山 歌舞伎とは作り方が違いますしね。
福田 歌舞伎では、私はやけに細かくあれこれ言う奴だなと思われているでしょうね。勝海舟役[前記『西郷隆盛』]の富十郎さんのせりふ回しに何度もだめ出ししましたもんね。そのときは言いませんでしたが、逆にしか見えなかったんですよ、幸四郎さんより富十郎のほうが西郷に見えてしまうんです。だから「できるだけべらんめえで江戸っ子になってください」と、「まだなっていません」と何度も言いました。
神山 富十郎にせりふ回しでだめ出しをする演出家なんて、なかなかいませんよね。
福田 それで笑っちゃうのは、今だから話せるんですが、私は三十六歳くらいで完全に鬱にやられちゃったんですよ。病気の父の代わりに劇団のごたごたを収めなければならなくなって、もう色々な板挟み、中間管理職のつらさですね。そういう状態で、薬を飲みながら『西郷』をやりに行くことなったんですが、あるいはそういう状態だったからこそできたのかもしれませんけど、結果的に悪くなるどころか復活しちゃったんですよね。
神山 松竹からのお話はやはりお父様と高麗屋の、恆存さんと高麗屋の関係があったからでしょう。岡崎[哲也、松竹現取締役]さんから最初にお話をいただいたんですか?
福田 大沼信之[松竹元取締役]さんだったと思います。大沼さんということは、[発端は]会長の永山武臣さんだと思います。永山さんご本人からもお聞きしましたが、新しい作者が出て来ない、要するに福田恆存や北條秀司さんや何かのその後がいないということで。それで、書けるか書けないかはともかく福田の息子が芝居をやっているなら、新しい演出家を育てよう、と呼んでくれたそうです。それでどんどんやらせてくれたという訳なんですね。
神山 確かに、新作歌舞伎で一番の若手といえば野口達二さんでしたもんね。野口さんは昭和三年生まれですから、本当に誰もいなかったんですよね。
福田 松竹ではやはり團十郎さんが強烈に印象に残っているし、[照明の]相馬清恒さんにしてもみんな親切でした。
神山 大劇場の照明というのは難しいですよね。地明かり一つにしても、歌舞伎の明かりは、ただ点いているだけのように見えて、上手、下手、あれだけの間口を同じ明るさで見せるというのは大変な力ですよ。
福田 『道元の月』では照明に色々と注文を付けてもこなしてくれて、やはりすごいなと思いましたね。
 今、新しい歌舞伎座でみなさん喜んでいらっしゃるけれども、私はあのLED照明は致命的だと思っています。例えば、赤姫の赤が強過ぎるし、黒地に銀糸・金糸が浮き過ぎて、黒の深みというのが出ずに金や銀の浮くほうばかり強くなってしまうんです。それに八幡宮社頭の場も、まるで3Dのように赤いところが浮き過ぎてしまう。昔ながらの明かりの良さがLEDの進化で出せるのかと、あれでは『道元の月』の淡くて柔らかな明かりができないと、今の歌舞伎座の照明のチーフの池田さんにお会いしたとき何度か話してはいるんですが。いざやることになって三津五郎が本当に元気になってくれるなら、またやりたいですね。[注・このインタビュー直後、坂東三津五郎は病没]
神山 あれは、もう一回やりたいですよね。
福田 そのときには照明ももっと色々と工夫はしてみるつもりです。
神山 音響はいかがでしょう。歌舞伎だけでなく雲や昴のほうでも、最近はいわゆるパブリックアドレスの技術が進み過ぎているように思います。声量のある役者もない役者も同じように聞こえるようになった、役者のせりふ回しやミュージカルの歌い方独特の工夫が少なくなって、何だかつまらなくなってしまいました。
福田 そんな気はしますね。新国立でも中劇場ですらもピンマイクを使うようになったでしょう。
神山 シアター・クリエの大きさのストレートプレイでも使っていますね。
福田 あの規模の劇場で声が通らないのは、それこそもう致命的ですよね。

俳優の声量について・劇場の思い出


福田 だからこそ、発声というものを鍛えなくてはいけない、だけど、日本での技術の訓練というのは本当の意味では存在しないと言ってもいい。
 そこで、日本では本当に俳優養成が出来ているか、プロになった俳優の勉強の場があるかという問題意識が動機となって、イギリスのRADA[ロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ]という演劇学校の老舗中の老舗から俳優教育担当者を、二十年間、毎年夏に呼ぶことにしたんです。現代演劇協会、雲、欅、昴での晩年の私の仕事の一つでした。
それで、毎年ワークショップをやっていたところへ、私が準備委員をしていたこともあり、これから研修所を作ろうという新国立劇場の最初の理事長の木田宏さんが見にいらしたんですよ。それだから、新国立の研修所は、戯曲読解を含めた演技術とボイス・トレーニングとムーブメント、この三つを柱にするというイギリスのやり方を踏襲してできていると思います。
けど、最近は、発声ができなかったら恥ずかしいという意識が薄れつつありますよね、どんどんなくなっていく。
神山 先ほど、私の印象では、雲の役者の方たちは声量のない方が多かったと言いましたが、森雅之さんも声量がなかったですよね。水谷八重子[初代]も。でも、それがかえってプラスになって独特の彼らなりのせりふ回しをしていた。新劇の方でもそうだと思います。仲谷昇さんも声量がないので、せりふ回しを工夫していたと思います。今は声量がなくても、PAで三階席まで届いてしまいますが。
福田 そうなると、テレビドラマと同じなんですよね。
神山 そう、だから、八千円も払ってカワードやモームの芝居を見ても、テレビで見たものと同じものを舞台でやっているだけになってしまう。本来、舞台には舞台用のせりふ回しというのがあるはずなんですけど。
福田 イギリスで作られたカワード全集のDVDがあるでしょう。テレビドラマになっているにも拘らず、舞台の演技をしていますよね。発声にしても何にしても、舞台役者とはどういうものかをやはりきちんと見せてくれています。
 発声の問題で言えば、芥川さんは肺をかなり取ってしまってから、弱くなった発声を、悪く言えば誤魔化して逃げていましたが、それでもマイクを使っていた訳ではありませんからね。やはりあの時代とはせりふ術自体違いますよ。
神山 ミュージカルでも越路吹雪さんや森繁久彌さんは声量がなかった、だからああいう、いまだに記憶に残るような、耳に残るような独特の歌い方になっていたんですよね。音量がなくても声量がなくても届いてしまう、堂々たる美声ばかりになってしまうと何だかね。
井上 当時、日生劇場でもマイクは使っていなかったんですか?
福田 バランスを取るためには使っていたでしょうけど。
神山 集音はしていたんですね。
福田 いわゆる一つ一つの、ピンマイクはありませんでしたよね。
イギリスでも、もうミュージカルではやっているでしょう。一つには生の伴奏の音のほうが大きいから、それに合わせてやっているんだと思います。まあサラ・ブライトマンくらいになれば、生でも十分独唱できる訳ですけど。
今の日本では、平原綾香さんや布施明さんあたりならできるかもしれませんが、他はどうなんだろう、という気はしてしまいますね。
神山 劇場の思い出にも繋げていきながら、話を続けましょう。考えてみれば日経ホールもサンケイホールも新劇としては随分広い劇場だった印象があるんですが、そんなことはありませんか?
福田 紀伊國屋ホールと同じくらいの印象があります。
神山 私は紀伊國屋よりもっと客席の奥行があるという記憶です。
福田 奥行きはありましたね。
神山 今と違って当時は劇場が少なかったですもんね。砂防会館とか都市センターとかホールについて思い出とか何かは……
福田 ごめんなさい、私はホールというのをあんまり意識したということがなくて、第一生命も行ったし、日経ホールやサンケイホールも使って、特に日経、サンケイは多いと思うんですが、ホールの特徴というのは覚えてないんです。あまりお役に立てるような話ができなくて申し訳ないんですけど。
神山 いえいえ。ところで、先ほど話に出た国際芸術センターって、私は今でも不思議な建物だと思うんですが、あれはどこが持っていた建物なんですかね? 国際プロレスのレスラーも出入りしていたから、TBSかな。
福田 分かりません、私は一回行ったきりでして。
神山 稽古場で使っていましたよね。
福田 はい。演劇学校もあそこでやっていました。新潮から出た父のシェイクスピア全集『十二夜』の上演史・批評集を私が担当したもので、そのために『十二夜』論を演劇学校の学生に、雲の学生に教えたのがあそこだったんですよ。あそこのバルコニーの印象と、何か赤坂から変なところに入って行った、階段を上がって行ったという記憶も残っています。
神山 あそこは田中泯さんの訳の分からない舞踏でもよく使っていましたね。
福田 田中さんは良い役者になりましたよね。
井上 今は普通に映画やドラマに良い脇役として出ていますもんね。

福田恆存の演出


神山 話が前後して恐縮ですが、恆存さんの演出というのは具体的なんですか、それともお任せ主義なんですか?
福田 具体的ですね。自分で出て行って演技の真似事をしたりもしていました、上手くはありませんでしたけどね。私もそれを引き継いだのか、私はそういう性格だからなのか、私もそうです。瞬間芸的にちょこっと自分でやってみせる、それで伝える。それから、論理的に力学を考えろとも言う。例えば、ピッチャーがボールを投げても届かない、ここまで後ろに腕を引くから、その反動で力が出て届くんだというようなことですね。せりふにしても引いているところがないから届かないんだというようなロジックを使って説明したり、演出席から立ち上がって実際に自分でやって見せたりは、よくしていました。
稲山 恆存先生は結構具体的だということなんですが、ご自分が翻訳された本を演出なさる場合、例えばこのせりふのここのアクセントでこういう動きをしてくれ、のようなご指摘ってあったんでしょうか?
福田 あまり細かいことは覚えていませんが、アクセントや何かが違っていることにはものすごくうるさかったですね。私はいつも稽古に付いていた訳ではないので、演出助手を二回やって、『ヴェニスの商人』の稽古場に通っていたときの記憶ですけど。
それからやはりフレージングにもうるさかったですね。フレージングという言葉は、父の書いた演劇論にも随分出て来ていますよね。要するに、一繋がりの意味を持った文章を途中で切らずに言えるかどうか、その中のどこを立てていくか、ということにこだわるほうでした。一人の人間のせりふでも次のせりふに行くときに間を取るのか、息が変わるのかとか、間の取り方というかスイッチの切り替え方というのがまさにフレージングそのもので、そういうことにはとことんこだわっていました。
 先ほど話に出たお弟子さんの荒川哲生さんも、そこから随分学んだんですが、それを踏襲して自分で教えると、荒川節と言って笑われる形になってしまった。やはり自分自身のやり方でやらないとだめなんですね。
 私はそこまで父の稽古に付いていなかったから、全く別の形のこと言っていて、ふと気が付くと竹本住大夫の義太夫から学んだことが稽古場で反映されていたりもするんです。私は他から学んだことも多いのですが、荒川さんは弟子ゆえに父の型をそのまま身に付けてしまったというのが大きいのかもしれません。勿論、私も、言い回しや何か基礎となるようなところは、かなり受け継いでいると思いますけどね。

シェイクスピアに対する姿勢・ピランデルロへの思い


井上 恆存さんは、シェイクスピアではどのあたりが一番お好きだったんでしょうか? 『マクベス』が好きだということを書いておられたり、『ハムレット』になぞらえて『人間・この劇的なるもの』のような演劇論を書いておられたりもしますが、お話を伺っている限り、喜劇的な部分も随分楽しんで演出されていたような印象を受けます。
福田 それは相当楽しんでいましたし、シェイクスピアから学んだ喜劇のテクニックってあると思うんですよね。
 ただ、やはり『マクベス』論からスタートしているというのは確かですね。
神山 『明智光秀』や初期作品の『現代の英雄』は、随分『マクベス』にこだわっている印象ですよね。
福田 『オセロー』はつまらないということをよく言っていましたが、歴史劇は好きでした。やはり歴史劇の中に人間が描かれていると言うんでしょうか、歴史のうねりみたいなものと、それに翻弄される人間と、翻弄された人間が生み出してくる歴史、そういうところが好きだったのでしょう。
 そういえば今度二月に、かつて中央公論から出た父の『私の英国史』という本が文庫版で復刊されるんですよ。そもそもは私が『空しき王冠[Hollow Crown]』という歴史劇で構成された本を訳して、その解説を父が付けたのですが、雑誌の連載が進むうちに、自分の英国史、英国観を書きたくなって、そっちが主体になっていったものなんですが。それが復刊されるというのでつい最近読み直したのですが、父はやはりシェイクスピアを通して歴史というものを、歴史のダイナミズムを学んだところがあるという気がしますね。
井上 例えばマクベスを明智光秀に置き換えるというのは、黒澤さんも同じようなことをやっているといえばやっていますし、蜷川さんも後で同じようなことをやっていますが、恆存さんのは非常に上手く日本の歴史にはまっていますよね。勿論、黒澤さんもすごいものを作っているんですけど、恆存さんのはシェイクスピアでありながら日本の歴史物語としてちゃんと読めるものになっているのがすごいと思うのです。
福田 そういう意味では『有馬皇子』は『ハムレット』ですよ。狂気・佯狂ということで言えば、『ハムレット』から借りてきていますよね。『マクベス』ほどとは言えませんが、どこかヒントを得ている。『マクベス』と『ハムレット』というのは裏表の戯曲だと言われていますけど、そういう意識が父にもあったでしょう。他にローマ悲劇も好きだったし、後期の『シンベリン』なんかは訳しておきたいと言っていました。ただ、一番好きなのはやはり『マクベス』なのかもしれません。
井上 先ほど『御意にまかす』の話が出ましたが、ピランデルロというのはお父様も随分意識されているという印象を受けました。『最後の切札』でしたっけ、真実がどこにあるのか分からない世界観の、ピランデルロっぽい初期の戯曲がありますよね。それに、岩田さん演出の『御意にまかす』を逸先生もご覧になっていて、共感するところもあったというので。
福田 ええ、不思議ですよね、父がピランデルロを好きだとかそういう人間観をどこかで持っていたとか関係なしに、私もピランデルロに共感する思いがある。というのも、やはり父が好きな話題や作品観をよく私に語って聞かせていたからかもしれませんが。
 今度また二月十日前後に、『人間の生き方、ものの考え方』という本が出るんです。父が毎年のように九州で大学生を相手に講演をしていたときの講演録で、私がその解説のような、エッセーのようなものを、福田恆存論というほど大げさなものではないけど、エッセーにしてはちょっと論に近くなっているようなものを書いたんです。そこにも書いたんですが、中学、高校、大学、大学院と、父に散々議論を吹っ掛けてこられたので、ピランデルロの考え方も、そういうところで聞いていたかもしれません。

みずからの海外演劇体験・出会った役者たち


井上 お父様が戦後アメリカからイギリスへ渡られた話は有名ですが、逸先生はいつくらいから向こうの演劇に直接触れたりなさったんですか?
福田 一九六八年になりますか、私が大学三年生のときに、父がトロント大学の客員教授を二、三カ月くらいやることになりまして。そこに一人で行くのが億劫だったのと、車の運転と食事、掃除の世話が欲しいのと、折しも七十年安保の学園紛争の真っ只中で、私の方は授業がほとんどない状態というのもあって、一緒に連れて行ってくれたんです。息子に外国を見せておいてやりたいということもあったのでしょう。私が芝居好きで、父と馬が合うというか、色々なことで話が合ったということがあって、そういう経験をさせてやりたいと思ってくれたのかな。
まずイギリスへ飛んで、一週間くらい滞在する間、ロンドンで芝居を観て、ストラトフォードへも行きました。そしてカナダに飛んで、二カ月半滞在しました。それから帰りにまたロンドンに戻って、また一週間くらい滞在しました。そのあと父は、パリやベルリン、ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェあたりに時間をかけろと言って、私に一人旅をさせてくれたんです。
 当時はあれが最初で最後の外国旅行だと思って行きましたし、本当に贅沢をさせてもらったんですが、あのとき海外に行っていなかったらば、本当の意味で演技とはどういうものか分からなかったと思います。
 これはシェイクスピア協会の機関誌だかどこかに書いたりもしていますが、ストラットフォードへ観劇に行ったんですよ。そこでアラン・ハワードの舞台を三つ見たんです。ある晩『お気に召すまま』を見に行くと、ジェイクイズ役をやっている役者が良かった。とりあえずパンフレットをチェックして、翌晩『リア王』を見に行くと、今度はエドガー役に目が行く。あっ、上手い役者がいるな、とパンフレットを見たら、同じ役者でびっくりして。また次の日『トロイラスとクレシダ』を見に行くと、あるいは同じ日の昼夜だったかもしれませんが、その彼がアキレスの役をやっている。一つはジェイクイズという斜に構えた世捨て人の役だし、もう一つは気違いトムに扮するエドガーという役だし、あと一つはアキレスという傲岸な役だし、これらが同じ一人の役者に見えないんですよ。発声は違うし、先ほどの三島由紀夫ではないけどスタイルが、足の長さが違って見える、これは衣裳に助けられているんですよね。そして仕草まで違うように見せてしまう、役になりきってしまう、とまではいかなくても、そう見えるんですね。それにブランク・ヴァースが綺麗だったこともあって、その三つを見て、瞬間的に、演ずるってこういうことなんだと、芝居を作るというのはこういうことなんだというのが分かったんです。私にとっては先生みたいな、衝撃的な舞台でしたね。その一九六八年に彼はモスト・プロミッシング・ヤング・アクター賞を受賞しているんです。それが最初の海外経験で、そのアラン・ハワードの他にも、ローレンス・オリヴィエの『死の舞踏』[ストリンドベリ作]、アレック・ギネスの『カクテル・パーティー』[T・S・エリオット作]まで観られた。こんな幸運はないですよね。ジョン・ギールグッドの現代劇も観ています。当時私は大学三年生でしたが、どの舞台もいまだに頭に残っています、せりふも聞こえてくるぐらいに、まだ英語でせりふを聞くなんていうほどに英語ができないにもかかわらず、そのときのオリヴィエやギネスのせりふが音として残っている。オリヴィエの踊る姿も。そういう経験は、すごい宝ではないかという気がしています。
 二度目は大学で教え始めた頃、ジョン・ギールグッドが『テンペスト』をやるというので、観に行こうよというか、連れて行ってよと父を唆したら喜んでしまって。イギリスのブリティッシュ・カウンシルの知人に二回分の切符を取ってもらって、渡英しました。彼のプロスペローを二回も観て、そのときは楽屋まで訪ねて行きました。何を話したかまでは覚えていませんが。それが一九七四年だったと思います。そこまでは父頼みでしたね。
 三度目はフジテレビと現代演劇協会のタイアップ企画で、『世相を斬る』という番組の海外編として、シェイクスピア関係の場所を、父や私や同行の演劇関係のスタッフが解説しながら歩くという映像を撮るために行きました[一九七七年]。例えば、シェイクスピア存命中に彼の作品が上演された場所、グローブ座の跡地がありますよね、今のグローブではなくて、昔の。それから、法学院のミドルテンプルの食堂では間違いなく『十二夜』が初演されているとか、そういうところを全部許可を取って記録映像を撮りに行ったんです。私たちはシェイクスピアの勉強をしに現代演劇協会から送られて、一ヶ月ちょっと行っていましたね。
 その後は為替レートが変わってきて、自分でも楽に行けるようになると、B&Bに泊まって安い夕食を食べて芝居を片端から観る、というのを二~三年に一遍はやっていました。
 その後、明大へ来て二年目に文化庁の在外研修員になってしまったんです。以前から応募していたのですが「このままだと明治に移れたのに順番が廻って来てしまいそう、どうしよう」と思いつつ、「ここで引いたらまた後回しにされてしまう」と引っ込めないでいると、やはり当たってしまって。明大に来てたった一年半でしたから勿論反対した先生はいるんですが、バックアップしてくれた先生が数人いてくれたおかげで一年間行って来られました。大学側を拝み倒す形で行くことになりましたが、このときの経験があったから、本当の意味で英語を自分のものにできて、今教えることができている、というのは間違いありません。あちこちの演劇学校を見学したり、ケネス・ブラナー演出のルネサンス・シアター・カンパニーの『ワーニャ伯父さん』と、ナショナル・シアターでウィリアム・ギャスケル演出作品の稽古に全て付き合えたり、かなりの数の演劇人と交流を深めることもできました。七月から次の年の八月まで一年一カ月くらい行っていましたね。
井上 他に印象に残った役者や舞台はありますか?
福田 最初に行った年が『ジーザス・クライスト・スーパースター』の二~三年目だったんですが、これはやはり衝撃でした。ミュージカルなんていうものは『南太平洋』や『ウエスト・サイド物語』を映画では観ていたけど、舞台でこういう衝撃があるのかという。ビートが効いていて、体に響いてくるというか。当時はロックオペラと言っていましたね。その日は一日で三本観たんです。一本目はタイトルを忘れてしまいましたが、ミュージカル的な作品。二本目が『欲望という名の電車』。そして三本目が『ジーザス・クライスト』。二本目を見て走って行けば、三本目の開演時間に間に合うということを調べてチケットを買っておいた訳です。ところが『欲望』の終演時間が延びたか何かで幕が開く瞬間ぎりぎりになって、椅子に座った途端にダンと始まった。そこからもう夢中になって見入ってしまいました。そのときに観た『欲望』のブランチがクレア・ブルーム、これも名女優ですね。それを見てしまっているから、杉村春子さんのブランチを見る気はしないんですよ。
神山 テネシー・ウィリアムズは何度か来日していますが、実際にお会いしたりはしましたか?
福田 会っていません。
神山 『タイタス・アンドロニカス』の上演プログラムの村田元史さんとの対談で恆存さんは、ウィリアムズが自作の日本での上演について「アメリカ人のマネはよくない」と言ったことについて「優越的偏見」として批判して、日本の「翻訳文化」の運命について小林秀雄さんと同じ文脈で語っているんですが、何かご存知ありませんか? 一九七三年だから、逸さんはまだお若いですよね。
福田 その頃は多分、大磯にいたと思います。歌舞伎にしても高麗屋[白鷗]と父との付き合いがあったから機会自体はありましたが、なかなか観には行けませんでしたね。
神山 大磯から出て来るのは少し大変かもしれませんね。
福田 学校がありましたからね、でなければ芝居を見に行って大学には行かないということもあり得たと思います。

アングラ世代に対する姿勢


稲山 不勉強で恐縮なのですが、恆存先生がご活躍されていた時期に小劇場運動があった訳ですけど、そのあたりに対して何か批判的なご意見でもコメントでもあれば、身近にいてご記憶されている範囲で、お聞かせいただきたいです。
福田 言葉としては覚えていませんが、例えば唐十郎さんとか寺山[修司]さんとかそういう人たちの小劇場に対しては徹頭徹尾、否定的でしたね。要は、ちゃんとしたせりふ劇というもの、言語芸術というものを無視してくる、そういう福田恆存たちに対するアンチテーゼ、文学としての演劇という理念に対するアンチテーゼのものに対しては、もう全く否定的でした。だから見にも行かないし、行っても、途中で出て来てしまうという。
 そんな中で串田[和美]さんの自由劇場に対しては、自分の訳を最初に使ってくれたということもあるのかもしれませんが、そこの『ハムレット』に対しては、雲や何かより良いぞというようなニュアンスで、褒めていましたね。
神山 あれは家高勝さんの演出ですよね[一九七八年]。私も見ましたよ、家高さんのあの演出はほとんど「演出」を感じさせないという意味で良かったです。
福田 そうですか。演出が良かったのか役者が良かったのか。
神山 家高さんは自殺してしまわれたんですよね。
話は戻りますが、芥川比呂志さんも、アングラ世代が岸田賞を取ったときはものすごく反対しましたし、そのほうが誠実だと思いますよ。人間の感覚というのは、そんなに簡単に変われるものではありませんしね。戸板康二さんがどこかで唐十郎も評価しているのは、戸板さんの感性の広さや度量ゆえとか言われますが、戸板さんは福田恆存が嫌いだから言う訳ではありませんし、失礼を承知で申し上げると偽善的な発言だと思います。戸板さんの感受性や育ちから言えば、芥川さんと一緒になって「あんなものはだめだ」と言うのが当然。だからこそ唐十郎の意味がある。ああいうのは芥川・戸板的感性に拒否されるからこそ意味があるのであって、受け入れられてしまったら絶対意味がない。
福田 だから「そういうところから出てきた蜷川さん、今のあなたは何なんだ?」ということがきっとあったはずですよね。
蜷川幸雄さんはある意味すごい人ですが……これも裏の話だけど、ナイジェル・ホーソーンでしたっけ、蜷川演出でリアをやったのは。
井上 RSCで蜷川さんが演出したときですね。
福田 同時期に、先ほども話したウィリアム・ギャスケルに昴の『ワーニャ伯父さん』を演出してもらっていて、私はベタで稽古場に張り付いたんです。私が英語訳を何冊も参考にして翻訳したのですが。それでそのとき、英国大使館でパーティーがあったんですよ。
 ナイジェル・ホーソーンのチームも来ていて、ギャスケルが呼ばれたので私も一緒に行きました。しばらくすると、ギャスケルが私のところへ来てこう言ったんです。「ナイジェルが『俺はリアで来ているんだけど、お前は何で来ているんだ?』と話しかけてきたんだけど」と。で、ナイジェルが「俺は世界中のリア役者の中で、ある意味、たった一人の役者だ。どういうことか分かるか?」とギャスケルに聞いたそうなんです。で、「どういうことなんだ?」と聞き返したら、「俺はリアをやった役者の中で、演出家から一言もだめ出しをされなかった世界で唯一の役者だ」と言ったそうです。だめ出しのしようがなかったんでしょう。どうぞおやりくださいだったのでしょうね。彼は枠組みを固めて作るので、それで良いと私は思いますけど、これは面白いエピソードですよね。
神山 歌舞伎座でやった『十二夜』もそうですよね。
福田 あの鏡の、客席が映るという演出。あのアイデア一つだけですよ。
神山 ハーフミラーは四十年前からやっている趣向でしょう。あれを珍しがるなんて、今の観客はそれを知らないんですね。
福田 菊之助の一人二役の双子にしても、もっと前に、歌舞伎の『葉叢丸』でも、染五郎がハムレットとオフィーリアの二役を一人で演じていますしね。

向坂隆一郎のこと


福田 時間もあまりないし、神山先生もお聞きになりたいところでしょうから、向坂さんのこと。私は向坂さんが何を書いているか知りませんが、先ほど言った福田恆存の嫉妬ということとも重なってくるんだと思います。私自身も経験したことですが、トップに立つ人間[恆存氏のこと]に対して中間管理職は役者の側に付かざるを得なくなるんですよ。そうなると役者の意見がトップに伝わらなくなってしまう。私の場合で言えば事務局長の杉本了三さん関係で隔靴掻痒の思いをしたことがありますし、向坂さんが何を書いているかある程度見当がつく、と同時に、これはそういう集団というものの宿命なんだろうという思いもいたします。
 私は福田恆存に対してある意味否定的に言いますけれども、恆存は「私には嫉妬という感情だけはない」ということをどこかで書いているんですよ。だけどこんなことは絶対あり得ない。嫉妬を持たない人間なんてあり得ない。例えば、向坂さんは新潮社から自分が連れてきた人で片腕、それなのに自分の意見を受け付けず、役者に近い人間になってしまった。そういう人たちに対してやはり福田恆存は嫉妬を感じることがあっただろうし、何かというと「芥川さん、芥川さん」と慕っていく若い役者たちにも嫉妬を感じたかもしれない。極論を言えば、これは間違いないと思っていますが、脳梗塞をやった後は、私にさえ嫉妬していたでしょう。私に劇団を任せるのが自分としては一番良いという思いであると同時に、人手に渡したくないという思いもある。世襲は良くないという思いもある。複雑だけど人間として当然だと思うんですよね。福田家で起こっていたこととして、このことはいずれもう少し丁寧に書こうと思っています。
 雲のときにも、芥川なのか、俺なのか、という意識はすごくあったんだろうと思いますよ。そこに巻き込まれたのが向坂さんで、おそらく、向坂さんご自身にも権力欲はあっただろうし、それには無自覚だったと思います。そういうのを当時の私が理解していた訳ではなく、今になって、そうだったんだろうな、と思えているところです。
 向坂さんは、わざと福田恆存に意見を上げなかったのではないと思います。例えば、杉本さんが私に意見を上げたら役者に対する私の怒りが出る、それを抑えるために私には言わない、ということはありましたし、逆もありました。役者を怒らせないために私の考え方を言わない、それでも齟齬ができていくんですよ。それと同じ構図というのが、福田‐向坂の間でも間違いなくあったと思うんですよね。
 だから、これは向坂さんの悲劇であり、福田恆存の悲劇であり、集団の運命というふうに私は思っています。まあ仕方ないことかもしれないな、と。
神山 向坂さんのご遺稿[『回想の向坂隆一郎』所収]ですが、私が読んだ範囲では、それほどものすごいことでもないと思いますよ。私も芝居の世界にいたから、当たり前、という程度のことですね。
福田 当たり前といえば当たり前かもしれませんが、二人にとっては悲劇でした。
神山 向坂さんといえば、彼の編集者としての才能は凄くて、『クエスト』という雑誌があったでしょう、あれなんかもすごく良いものだし、現代演劇協会のプログラムは本当に良いものですよね。
福田 本当に価値があるものですね。
神山 もう他の劇団のものと比べたら話にならないぐらい価値がありますよ。
福田 演劇関連の資料として絶対になくてはならないものです。演劇と文学とを、しっかり社会と繋げている。向坂さんはそういう意識で作っていらしたんだと思います。
神山 その向坂さんの書かれたものを読んだ私の感想としては、恆存さんもあれだけ論壇で有名な地位ある方だったし、あれだけ劇団で苦労するならもう芝居なんかやめちゃったほうが良いとも思ったんですが、そうはならなかったんですね。やはり最後まで本当に芝居がお好きだったんですね。
福田 好きなんですよ。それにやはり自分が始めたことだというのが大きかったと思いますね。
神山 芥川さんたちが、円に行ったとき、雲の名前をくれと言ってきて、それを恆存さんが断ったという話は本当なんですか?
福田 言ったかどうかは分かりません。だけど、互いに名乗らないという紳士協定はあったと父から聞いています。それと北海道のアマチュア劇団が雲を名乗ろうとしたこともあって、それは抗議をしてやめさせたとか。
神山 逸さんは向坂さんとはお付き合いがあったんですか?
福田 勿論ありまして、私に対しては好意的な顔しか見せませんでした。でも、父との確執はあって。となると、やはり父の中に猜疑心が生まれるようになってくる訳で。猜疑心は嫉妬心に通じますからね。
神山 でも、嫉妬心は芝居の世界でのみんなの所持品みたいなものですからね。それがなくては、本当に芝居はできないですよね。
福田 それを持たない人間は、芝居をやったって面白くないでしょうね。
神山 あれだけ汚い世界からこんな綺麗なものが生まれる、それが演劇の魅力だと三島由紀夫が言っている通りですよね。
福田 そういう、嫉妬心で身動きが取れなくなり、演出家に対して猜疑心を抱くような俳優が多い一方で、藤木さんというのは演出家が何を言おうと自分の作りたいものを作っちゃう人だから、それなら演出家としては、もっとやれ、というふうに背中を押してやれば良い訳で、こっちとしては歌舞伎役者にも似たやりやすさというのはありますね。
井上 そういうこともあるんでしょうけど、藤木さんは、小劇場から何までどんなところへ出ても、平気で演技をされますよね。
福田 そうそう。やはり外で苦労してきた人と、生粋の文学座の育ちの違いというのはあるような気がしますね。
井上 劇団☆新感線とかにも出ていますしね。
宮川 最近だと三谷幸喜演出の『桜の園』にも。
井上 藤木さんは本当に色々なところに顔を出して、普通にいつもと同じ演技をされちゃうのがすごいですよね。
神山 日本で昭和三十六年に『マイ・フェア・レディ』を江利チエミが初演したでしょう。藤木さんは、あのときの主な役をやった中ではただ一人ご健在な方ですから、貴重ですよ。いずれそのときのお話を伺いたいと思っているぐらいでしてね。
福田 彼は本当に色々なことを知っていますよね。
神山 今となっては非常に貴重な証言者の一人ですね。
福田 文学座関係では、そのあたりのことを知っている現役がいなくて、もう西本裕行くらいじゃないですか、私の叔父の。[注・西本氏もインタビュー直後の四月十九日に逝去された]あの人もそろそろ八十八歳になるのかな、昭和の二年か三年の生まれなんです。この間も、両国の四~五十人入るぐらいの小さな劇場で、チェーホフの『白鳥の歌』と『タバコの害』をやっていましたが、中村伸郎さんより良いですね。
神山 私は西本さんの『ワーニャ伯父さん』[一九七二年]が良かったです。
福田 あれは最高でしたね。
神山 変な芝居をしませんからね。声量はない感じの人ですが。
福田 あの人のせりふ回しは泣きになり過ぎてしまうところがあるんですが、『ワーニャ伯父さん』では抑制が利いていて。あの頃から良くなっていったので、もしかしたらあの舞台で一皮剥けたのかもしれません。
神山 映画やテレビにはあまり出ないようですが……
福田 出ても得意じゃないんですよね、画面が得意じゃないんです。
神山 それで出ないんですか?
福田 ええ、カメラに向かって演技するのはまるでだめなタイプの人です。
神山 西沢利明さんは結構テレビにも出ていましたが、お亡くなりになってしまいましたね。高橋昌也さんも去年、でしたっけ。
福田 本当にいなくなってしまいましたね、みんな。稲垣[昭三]さん、内田[稔]さんはご健在ですが、引退状態ですし。
神山 内田さんは、三百人劇場の最後の頃、恆存さんの『明暗』[一九九六年]で。
福田 刑事役、一人で喋りまくる役を飄々と演じていました。

恆存の翻訳世界・逸の翻訳世界


宮川 恆存先生は、たしか加藤恭平の翻訳で、カワードの『陽気な幽霊』を演出[一九七八年]されていますが、ご自分でカワードを翻訳しようとはなさらなかったんですか? 調べた限り、どうも翻訳は出ていないようなんですが。
福田 私は好きでどんどんやっていますけど、父の場合はやはりシェイクスピアから始まっていたので、あの種のものには翻訳者として興味がなかったのかもしれません。ラティガンも、本当の意味では自分でやっていませんし。むしろエリオットなどを好んでいましたから、どちらかと言えば古典主義者なのかも。シェイクスピアを古典主義と言って良いかどうかはともかく、そういう硬いものはやっても、どういう訳か、血肉のところで通じるような、西洋新派と言えるようなラティガンなどはあまりやっていないんですよ。むしろ私のほうがそういうものに興味を持っていて。
宮川 やはり上演の年表を見ていても、自分で訳されているものとそうでないものが、ジャンル毎にはっきり分かれている感じがしたので、そのあたりのことをお伺いしたくて。ありがとうございました。
神山 やはり恆存さんのボキャブラリーは合わない感じがしますね。思い出したのはスタンダールの『赤と黒』や『パルムの僧院』、桑原武夫さんと生島遼一さんが共訳していらっしゃるでしょう。本当か嘘か知りませんが、桑原さんはああいう男女の会話って訳せないんですって。それで男女の会話は生島さんが訳しているって。恆存さんがそうだとは言いませんが、ああいう独特の機微のあるせりふは、向き不向きがあるんじゃないかな、と思います。
井上 バーナード・ショー作品などはやっていますけどね。
神山 なら、一概にそうとは言えませんね。
福田 私なんかは乱暴だから、ロシア語の「ロ」の字も分からないのに、チェーホフが良いと思うと英語から訳してしまうんですが、父はそれをやらないですよね。唯一やったのは、イプセンの『ヘッダ・ガブラー』。それでも近代古典ですもんね、今ではもう古典になってしまうのかもしれませんけど。
神山 昴で、鳳八千代さん主演でしたね[一九七八年]。
福田 あれも良かったですね。ただ、『ヘッダ・ガブラー』を訳しているとき、私が演出助手についていたので、ノルウェー大使館に行って言葉のニュアンスを聞いたりしたんですが、自分だったらそういう日本語には訳さないぞというのはありました。多分それがシェイクスピアから始めた、あるいはエリオットの詩劇を訳した父と、散文を訳している私の違いなんだと思います。私もシェイクスピアは好きでも訳してはいません、ただ、『タイタス・アンドロニカス』だけは、実は下訳をしているんですよ。父の最後から二番目の翻訳です。それでもやはりあのシェイクスピアの英語を訳したいと私は思わなくて、それよりカワードを訳したりしたほうが面白い、あるいは現代の良い作品を紹介したい、と思うんです。
奥 シェイクスピアの翻訳に付随してお伺いしたいのですが、たしか恆存先生はご著書の中でドーバー・ウィルソンの底本を使っていらっしゃると書かれていたかと思います。基本的にそのウィルソンの注釈物を下敷きに原版から翻訳されて、それを稽古場でブラッシュアップしていらしたという理解で合っていますか? アーデン版やオックスブリッジ版など、他に参考にしていらしたものはありますか?
福田 他はほとんど見ていませんでしたね。あの頃、ドーバー・ウィルソン[一八八一―一九六九。シェイクスピアテクストの校閲者。ただしそのリアリズム的な大胆な解釈は後に批判される]の癖に対する疑問なのかアンチテーゼなのか分かりませんが、[アーサー・]クイラ=クーチが編集者に加わるんですよね、ケンブリッジのニュー・シェイクスピアは。あのドーバー・ウィルソンの思い切った読み込みというか解釈というかが、福田恆存の琴線に触れたんだろうと思います。躍動的、劇的な解釈とでもいうものが。アーデンなども読んではいたでしょうけど、家には数冊あるだけですし、揃っていた、実際翻訳に使っていたものはニュー・シェイクスピアですね。そのあたりに大場建治さんなんかがやたらに文句をつけるという、もう恨みでもあるかのように。
奥 あともうひとつ、ご記憶されている範囲で、当時の翻訳劇のせりふの印象についてお伺いしてもよろしいでしょうか? 恆存先生が翻訳、演出された舞台を逸先生ご自身が実際ご覧になってみての感想や、まわりの観客の反応など。
井上 その当初の新しさというのを当時の観客が、どういうふうに受け止めていたかというようなことですよね。
福田 例えば、『億万長者』、欅の『空騒ぎ』、雲の最初の『夏の夜の夢』というのは、私自身も完全に観客の一人で、客席の空気を共有していました。だから私だけ別のところにいたとか、息子だからより深い理解ができたとかもないんですよ。
奥 そのときの感覚として、よく劇評などで言及されているような躍動感だとか、動きに合わせたせりふだとかの実感はございましたか?
福田 『夏の夜の夢』に関してはありました。当時の私はまだ高校一年生で、演劇がどういうものなんて分かっていませんでしたけどね。それでも、中学校の頃にはハムレットをやるんだと言っていて役者になるつもりだった。それが、高校になって劇団雲ができた途端にころっと変わって演出をやる決心をした。それはきっと父が演出した『夏の夜の夢』や『聖女ジャンヌ・ダーク』の舞台を観て、芝居作りの全体というものが見えだしたからだろうと思うんですよ。子どもの頃、中高の頃、普段から演ずるということについて何か感じていたのではなくて、やはり舞台から感じ取る訳なんですよね。
 先ほどのアラン・ハワードの話でも、あれから何かぱっと核みたいなものを掴んだのと同じように、何かしら舞台から吸収している。何を吸収したのかと言えば、その舞台や科白に感じた躍動感とか、仰る通り科白と動きの合致する快感そのものでしょう。それは他のお客さんと何も変わらなかったと思います。
奥 ありがとうございます。
稲山 雲や欅の、当時の主な客層はどのような感じでしたか? お客さんに喜んでいただくために芝居をやるというのが欅の精神だったというお話でしたので、どういう層を想定されているのかなと。
福田 それは、誤解を恐れずに極端な言い方をすれば、文学青年ではなく一般のサラリーマンでしたね。要するに、『ハムレット』は見ておかねばならない作品だとか、シェイクスピアは教養として見なければならないんだとか、そういうお客さんではなくて、何だか知らないけれども岡田眞澄がシェイクスピアをやるらしいと見にくるお客さんたちのほうでした。
神山 それと、やはり先ほどの話に戻りますが、労演系ではなく新劇のお客さんが一番多かったですよね。あの民芸や俳優座の客層とは違って、まあ重なる部分はあるんですけど、まさに今仰ったような感じのお客さんという印象はありました。旧文学座の役者さんたちに付いていたファンは多かったですけどね。演劇研究では、七十年代の新劇はダメだったみたいに言われていますが、何だかんだ言って、あの頃まで新劇はとても人気があったんですよね。
福田 その人たちが円に行ったために、昴が三百人劇場でシングの『西の国の人気者』をやったときだったかな、観客より出演者のほうが多かったなんてこともありました。あれは街の人たちがたくさん出ますしね。だから、私が理事長になってからは、赤字をどう解消できるのかできないのか、もう借金の額を毎月毎月見ているような感じでしたよ。
神山 逸さんが演出にご興味を持たれたのは高校生になってからとのことですが、恆存さんに初めて稽古場に連れて行かれたのはいつ頃なんですか?
福田 それは欅になってからですよ。私も大学生になっていたし、欅にはそれが許される雰囲気がありました。文学座の稽古場は、少なくとも記憶にはないし、行ける年齢でもなかったし。雲でもありませんでしたね。稽古場の発表会を見せてくれることはあっても、稽古そのものは見せてくれませんでした。『億万長者』を見て、そういう欅の雰囲気が分かって父も安心したところで、私が『ヴェニスの商人』の稽古を見せてくれと言い出して、これはほとんど全部通って見ました。国際芸術センターで稽古していたんですよ。
神山 一九七二年ですね。国際芸術センターは、僕も懐かしいです。

恆存が影響を受けた人物


神山 恆存さんは旧制浦和高校から東京帝国大学に進学されましたが、どなたか尊敬する先生はいらっしゃったんですか?
福田 シェイクスピアに関しては、落合欽吾先生という英語の先生ですね。
神山 その方は浦和高校の先生?
福田 帝大の先生ではないんです。父の年譜に、帝大に入ってイギリス文学を専攻し、「誘はれて「演劇評論」の同人となる。東京市立二中時代の舊師[のち新潟大學名春教授]落合欽吾の勧めによリシェイクスピアに親しむ」とあります。その落合さんも既にお亡くなりになりましたが。シェイクスピアは、この出会いより前に読んではいたようですよ。昭和八年に薄田研二さんの『ハムレット』を見ています。たまたま落合さんにそそのかされて見に行ったのかもしれませんが。だから、落合さんに出会わなければ、シェイクスピアにも出会わず、ということはあったかもしれませんね。
神山 先ほど『オセロー』のときに吉田史子さんのお名前が出ましたけど、吉田さんは早くにお亡くなりになったし、逸さんは直接の関わりはないでしょう?
福田 『オセロー』以来、お名前は随分聞いていましたけど……
神山 そうですか、それは残念でした。
 あと小林秀雄さんや田中美知太郎さん[一九〇二―八五、西洋古典学者]、三百人劇場で聞いた講演はいまだに記憶に残っています。恆存さんが尊敬していた年配の方としては、そういう方々になるんですかね?
福田 お二人に対しては全く別の形ででしょうが、特別の敬意を抱いてましたね。それから仲人をやった西尾実さんという国文学の先生ですね。
神山 西尾さんが仲人なんですか?
福田 ええ。子どものとき父に連れられて西尾家を訪ねた記憶がかすかにあります。
意地汚いので西尾さんのところでは出てきたお菓子のことを覚えているくらいです、楽屋を訪ねては草笛光子のなまめかしい肩の後姿ですし。
神山 そういうものですよ。
福田 非常に健康に育っているでしょう。
井上 そう思います。
福田 何か思い付いたことがあったらまたお話しします。