米田亘聞き書き


取材日 二〇一五年十一月二十日
取材場所 松竹座
取材者 神山彰・日比野啓・和田尚久
編集・構成 和田尚久

イントロダクション


 米田亘氏の名は、筆名である、門前光三(もんぜんこうぞう・門前の小僧の意)とともに、昭和五十年(一九七五)頃から、松竹新喜劇の番付、チラシ、看板等でよく見る名前だった。だから、米田氏に会う前には、もっと年長の方だと思っていたが、私と三歳しか違わなかった。
 しかし、逆に、同世代であるだけに、お話を伺ううちに、さまざまな記憶が重なり、共鳴するのを感じることができたのは楽しかった。
 米田氏は、本文にあるように、昭和二十二年(一九四七)大阪生まれ、早稲田大学文学部卒業後、昭和四十八年(一九七三)に松竹新喜劇に入団し、文芸部に所属した。創作としては、一九八〇年代が最も多く、『IC女房にロボット亭主』、『さくら湯の忘れ物』、『昭和のラブレター』『お金か心か春風か』『鯉さんと亀さん』などが上演されている。遺憾ながら、私は、それらの作品を見ていない。
 今世紀に入ってからは、曾我廼家喜劇を継承する「山椒の会」を主宰し、曾我廼家寛太郎、曽我廼家八十吉、曽我廼家玉太呂、川奈美弥生などを中心とする俳優陣によって、一堺漁人(曾我廼家五郎)の作品を中心に上演を続けてきた。
 松竹新喜劇は、我々の世代にとって格別に懐かしさを感じる劇団である。私より三歳年下の、林廣親・成蹊大学教授のような正統的な近代演劇・文学研究者でも、舘直志(二代目渋谷天外)の『わてらの年輪』に触れて、昭和四十年前後の子供のころ、祖母とテレビで松竹新喜劇を見た思い出を書いている(『戯曲を読む術』[笠間書院・二〇一六年])。その中で、奈良に生れ育った少年時代の林氏が吉本新喜劇の方にチャンネルを廻してしまうと、祖母が悲しそうな顔をした、と書いているのが印象深い。私はその頃テレビで吉本の喜劇を見た記憶はないし、東京圏では、松竹新喜劇しか放映されていなかったと思う。
 昭和三十年代から五十年代にかけての、東京での松竹新喜劇の人気は格別だった。特に、二代目天外が元気な時代の藤山寛美との「親バカ子バカ」シリーズは、テレビでも大人気で評判を呼んだ。私も子供時代に、曾我廼家五郎八、明蝶はもちろん、多くの脇役や若手の名や顔まで憶えてしまった。毎年七月の新橋演舞場公演は、切符を入手するのが困難な状態が続いただけでなく、東京では歌舞伎座の次の格である演舞場(国立劇場開場以前のことだが)で公演し、歌舞伎座でも数度本公演を持つ喜劇の劇団は他になかった。インタヴューの中でも触れたが、松竹新喜劇は雑誌『演劇界』のグラビアや劇評でも、他の「喜劇」とは別格扱いだった。
 松竹新喜劇では私の好きだった初代石河薫はずっと東京言葉で通したが、天外、寛美以下の関西言葉は、それ以前の映画で見たエンタツ、アチャコや関西の漫才師たちに比べて、子供の私の耳に遥かに解りやすかった。これは「テレビ」という全国区文化での人気の大きな要素だろう。若い世代には実感できなかろうが、明治大正世代の関西人の開口、声柄、滑舌、速度は、現代の関西人と格段に違うものだった。関西の歌舞伎俳優は濁声、塩辛声、擦れ声など悪声大会のごとく、落語漫才などの諸芸人は勿論、一般の商人も含め、東京育ちの耳には実に聴き取りにくかった。私が国立劇場に入った昭和五十三年(一九七八)はまだ主要な芸人、職人はその世代で、文楽の関係者の電話には往生して楽屋まで行き直話で聴いてもまだ解らないことさえあった。テレビが関西の芸人や商人の声柄や喋りの質を「解りやすく」変えたのだろうか。あるいは昭和生れの寛美の世代から声柄や声帯が変るなどと言う事があるのだろうか。確かに、現代の関西言葉の芸人から古い世代の聴き取りにくい声を聴くことはできない。
 そんなことを考えながら米田氏の話を聴いたが、私と三歳違いとはいえ、米田氏の強みは、まだ健在の二代目天外に接し、平戸敬二始め古い世代の文芸部の方たちと仕事をし、外部の作家でも長谷川幸延、香川登志緒らの謦咳に接していることである。また、往時の道頓堀の街並みの話も懐かしかった。あまり松竹新喜劇をローカルな色彩で語ってはいけないが、そういう記憶や思い出が芝居作りの源泉であるという、理不尽で旧弊な発想から抜けられないところが私にはある。どこかで個別的な思い出に繋がらない一般的な演劇論は、このインタヴューの目的ではなく、「芸談」はある時代の風俗や背景や時代相と密接に結びついているからこそ、演劇の現場の生動感を伝えるからである。
 インタヴューでも触れたが、私は新派と上方歌舞伎と新喜劇は劇作術演技術でも切り離せないと思う。私は新派や新喜劇など、商業演劇の古い家並や野遠見(田園風景)の舞台美術が大好きなのだ。何度も見て、設定も結末も知っていても、書割や小道具や衣裳を見ると「いいなあこういう芝居」と思ってしまうのだから、結構いい客だと自分でも思っている。「純粋」や「本質」を求める人からは「退廃」と言われるだろうが、そういう楽しみがなければ、半世紀も同じ芝居を見ていられない。それどころか、そこから読み取るべき「演劇的記憶」はいくらもあるのだ。おこがましい言い方だが、米田氏同様に、私も現場で演劇に接してきた者として、そういう読解の一助にこの企画が役立つことを願っている。(神山彰)

松竹新喜劇入座前後


神山 お生まれは何年でいらっしゃいますか。
米田 昭和二十二年、団塊の世代です。一九四七年。
神山 松竹新喜劇に入団されたのが……
米田 昭和四十八年(一九七三年)です。
神山 昭和四十八年というと、そのころ平戸[敬二。一九二四——一九九三。一九四八年松竹新喜劇の結成時翌年より藤山寛美と行動をともにし、文芸部に所属して脚本・演出を担当した]先生はお元気ですよね。
米田 もちろん。文芸部長でいらっしゃいました。
神山 星四郎(一九〇八―一九七四)さんはもう文芸部にはいらっしゃらなかった?
米田 いらっしゃらなかったですけど、昭和四十九年四月公演に『女房の連れ子』という星さんの新作を上演した折りに、お会いしました。
神山 そうですか。ぼくは今回の取材者の中で一番年長で、先生と三つしか違わない、僕は昭和二十五年[一九五〇]生まれなんですよ。だから昔の[松竹新喜劇初代座長・二代目渋谷]天外さんも、かすかにですけど覚えている。ただ、天外さんは早くに[病気で]倒れちゃったでしょう、だからほとんどテレビの印象しかないですけどね。[二代目天外は一九六五年九月、京都南座に出演中に脳卒中で倒れ、右半身麻痺状態に]
米田 ぼくが入った頃は、天外先生は出演されていました。杖をついて。『親バカ子バカ』を再演した年があって、あれは昭和四十九年[一九七四年]になるのかな。だから同時期で、ご一緒したことがあります。[一九六七年十月大阪・中座公演で天外は舞台に復帰。一九七四年五月京都・南座公演『親バカ子バカ』が最後の舞台となり、一九八三年三月逝去]
神山 ぼくが中学、高校ぐらいの頃は、ご存じの通り松竹新喜劇の東京公演、新橋演舞場の公演がすごい人気で、本当に切符が取れないんです。
米田 東京なんですか。
神山 私は東京なんですよ。ですから見たのはほとんど演舞場です。もう切符が本当に取れなくて。
米田 僕も[早稲田大学の]学生時代は演舞場へ行って。ちょうど「リクエスト公演」[観客にその場でアンケートをとり、リクエストが多かった演目を上演する。一九七一年四月大阪・中座ではじまり、七七年十月は京都・南座で、翌七八年八月では新橋演舞場でオールお好みリクエスト公演をおこなった]をやっている時代で、通路で新聞を敷いて見た覚えがあります。そのころは藤山さんの勢いがすごくて、新劇がちょっとこうなって(人気下降して)いた。新劇関係者が「何で客が来ないんだろう」ということで、藤山さんの芝居を見にきて勉強しはったなんていう話を聞きましたけどね。
神山 あのころはちょうど、アングラ演劇の時代でしたけれど、私の友達でも寛美さんの芝居は見ているのもいました。
神山 そのころは平戸先生が文芸部長ですが、かっての松竹新喜劇の文芸部には星さんの他、黒川鋭一(?―一九六四)さんという方もいらしたと聞いてますが、早くに亡くなっちゃった。
米田 そうですね、僕が入ったころはもういらっしゃらなくて、お話でしか聞いていません。黒川さんも早稲田ということを聞いていますが。
神山 平戸先生は、もちろん我々は作品を通してしか知らないですけれども、どういう感じの方ですかね。
米田 背が高くて、飄々として、お洒落な方でした。お父様が曾我廼家太郎という喜劇役者で、平戸さん自身も役者出身で、藤山さんと一緒にお芝居をやっていたこともあったそうで、「僕、うまかったんやで」とよく自慢していましたけど。
神山 ほう。
米田 けど、昭和二十四年に松竹新喜劇加入後、肺を患わはって――あの当時の肺病だから手術で肺を半分切って、役者ではちょっとしんどいなということになって、ホンの方に専念することにならはったんです。曾我廼家の芝居もよく御存知で、天外先生のもとで、勉強を重ねて、藤山寛美先生とは座付き作者として、実に多くの本を書きはりました。自分では「脚本の職人」だと仰って。

松竹新喜劇と新派の「近さ」


神山 平戸さんの台本は、もちろん『高津の富くじ』みたいな笑い沢山のものもあるけれども、『南地大和屋へらへら踊り』なんて、ほとんど新派みたいな感じですよね。
米田 そうですね。
神山 私なんかは松竹新喜劇と新派の近さをすごく感じるんですが、平戸先生の口からその近さについてうかがったことはありますか。あるいは米田先生自身も感じることはありますか。
米田 はい、作品的にも近いものもあります。藤山さんも新派への思い入れは強いものもあって、新喜劇で『幕末婦系図』という作品をしたこともあります。まげものに直して平戸敬二脚色です。また新喜劇の『文之助茶屋』と新派の『深川年増』は北條秀司先生の作品で、京都と東京に設定を変えた同内容のものです。もともと松竹新喜劇も松竹家庭劇から出たもので、家庭劇と名のついているように家庭のホームドラマ的なものを題材にしているのが多い。親子の情とか、人情物とかをテーマに、それをもうひとつ突き詰めて、掘り下げていったのが天外先生の文芸路線みたいな感じになるんですけど。平戸さんはごく庶民的な人情味、人の心とか、そういう題材をごくオーソドックスな形で描いていった。
 それに商業演劇ですから、お客さんが見て喜んで、飽きないようにという。その辺の脚本作りというノウハウは、役者からの経験もあり、キャリアは長いし。
神山 そうですね。
米田 だから台詞のやりとり、ことに喜劇的な台詞のやりとりなんかすごく上手。幕開きの書き方なんて、上手いなァと、よく感心しました。
神山 今日もさっき『はっぴとズボン』[松竹座・二〇一五年十一月公演]を拝見しまして、あれにも花柳界の座敷の場面がありますけど、『南地大和屋へらへら踊り』の一番代表的な、あの芸者衆が踊るところなんかを見ると、やはり本当に新派の――ぼくは新派が好きだったもので――舞台を思い出しましてね。やっぱり劇作法として非常によく、うまく作ってあるのと、特に下座の使い方、あるいは、踊りの取り入れかたにしても。

松竹新喜劇の女優の育て方


神山 それと『はっぴとズボン』でも、女優さんが、世代は変わっているんでしょうけれども、やっぱり形になりますよね。
米田 そうですね。
神山 やっぱり新劇の女優さんよりも、座っている居住まいとかたたずまいが、三業地の花柳界の人という感じがありますよね。
米田 まだ入って一、二年の子もいるんですけど。
神山 そうですか。
米田 踊りを習うとか、邦楽を習うとかいうのは、役者にとっての下勉強、基本的な勉強で、芝居をしていく上にはとても大切なことです。
神山 庇髪(ひさしがみ)みたいなちょっと古い感じの髪型は今の若い人だとなかなか似合わないでしょう。ところが新派や新喜劇の女優は、あのなりと庇髪が似合う。見ていておかしくない、自然に見えるというのは大したものだと。
米田 そうですね。それは劇団という有り難いものがあって、時代劇もやれば、明治大正ものもやる、もちろん現代劇もやる、そのなかで、いろんな役の経験を積んでいる先輩役者もいるし、また床山さんとか衣裳さんがちゃんと教えてくれたりするし。
神山 そうだ、床山[俳優の鬘を結い上げる職人]さんなんかが大きいですね。新派だと結髪(けっぱつ)という職分もありますが。
米田 やっぱりそういったスタッフとか年配役者の方の力はすごく大きいですね。古いことを知っていて。
神山 やっぱり身ごなしや居住まいというのは、あれは教えてもなかなかできないから、懐かしい感じがしますよね。 
米田 芸者はあんな足袋を履かないとか、芸者があんな裾のもち方をしないとか、古い方、よく知ってはる方がね。またそういう方が亡くなってだんだん少なくなってきたというのも、ちょっと淋しい限りですが。
神山 今日の『はっぴとズボン』だって現代劇といえば現代劇なんですけど、幕開きの場面――だいたい新喜劇の芝居作りだと、幕開きに若い女の子たちがいてうわさ話をして、そこにシンの役者が出てくるという作り方が多いですよね。あの女の子たちがうわさしたりする感じ、あれがいかにも、僕が子供のころというと遠すぎるかな、今から三十年前、四十年ぐらい前に見ていた新喜劇の調子と、同じ調子の台詞の言い方なので、ものすごく懐かしい感じがするんですよ。何でもないうわさ話なんですけど、「何とかかんとか、いややわ」とか言っているだけなんですけど、ああいうようなのは指導なさるんですか。
米田 ええ、します。
神山 やっぱり。それらしく。
米田 新しく入ってきた人には、舞台で出す声の出しよう、台詞廻しをまず教えますね。そして客席を前にした舞台での動き、こういう基本的なものは徹底的に指導します。先輩役者たちも教えます。まして喜劇なので、声も内に引き込まず前に出す。明るく芝居するということは大切なことです。
神山 それがやっぱり、悪い意味じゃなくて、古くて懐かしい感じが僕なんかはするんですよね。やっぱり最近、新劇はそうでもないんですけど、いわゆるプロデュース公演の芝居だと、台詞がテレビドラマと同じしゃべり方なんですね。そうすると、テレビドラマを舞台でやっているみたいで、何でこれに六千円払わなきゃいけないんだ、一万円払わなきゃならないと思っちゃうんですよね。プロなんだから当たり前だって、先生なんかはおっしゃるでしょうけど。やっぱり本当に舞台の台詞、正面向いて言う台詞というのは結構難しいですよね。
米田 それを自然に見せなくてはね。
神山 普通、横向いて言っちゃうんですよ、こうね。自然な形で正面向いて言うべき台詞が。昔の商業演劇はみんな普通にやってたんですけど。
米田 リアルにいえばこう(横を向く)なんですけど、舞台ですると客席にこうむいて、何か言うて、「そやろ」とこう返ってくる。それが不自然に見えないような形でね。歌舞伎なんかでもそうですね。
神山 歌舞伎もそうですね。
米田 そういう手法というのはやっぱり歌舞伎から、新喜劇も戦前からの手本というのは歌舞伎だったんでしょうね。曾我廼家五郎、十郎なんかは歌舞伎役者から喜劇役者になったから、そういう手法とか舞台の技法というのは、こういう形のもんだということはもう。

松竹新喜劇の下座音楽


神山 先生が入った昭和四十八年ごろというのは、下座音楽はもうテープでしたか?
米田 まだ生がありました。
神山 生演奏でしたか。
米田 昭和五十一、五十二年[一九七六/七七]ごろに変わったんです。
神山 それは率直に言って予算の問題ですか。
米田 それもあるでしょうけど、洋楽をどうするかということがあって。まげ物なんかはいいんですけど、現代劇をする場合は、お囃子でやるとちょっとそぐわない。だから僕が入団した当時は生下座でする芝居と洋楽と両方あって、現代劇の場合は加納光記(一九三三——二〇〇〇)さんの音楽でテープで流しています。
神山 そうですか。
米田 劇団創立時から座付きの下座がいて、現代劇も時代劇もお囃子でやっていたのが、時代の流れとともに、マゲモノは生のお囃子、現代ものはお囃子から現代音楽に変わってテープで音だし、それがマゲモノまで録音したお囃子でやることになりました。
日比野 その音楽はアリモノ[すでに録音されて流通していたもの]ではないですよね?
米田 加納先生が邦楽の方にいろんなバージョンの曲を依頼して、下座音楽を録音してストックしていったと思いますね。だからCDとかカセットで当時出ていたのから取ったということではないですが、多少はそういうものも利用してはいました。
神山 『裏町の友情』という芝居なんかは、やっぱり時代によって挿入される音楽が変わる。表舞台から見えないところで民謡大会みたいな、民謡のお稽古をやっているというね。歌舞伎や新派でいう「余所事浄瑠璃」みたいに使うんですけど、あれも変えているわけでしょう、時代に合わせて。
米田 はい、民謡の音楽を随所に使う演出は藤山演出です。
神山 ああ、そうですか。
米田 民謡教室から流れる音楽を役者の出入りにつかったり、BGMとしてつかったり、それがこの芝居にはまったということでね。
神山 そこに歌舞伎や新派との演出、劇作法との共通性を感じます。いわゆる「余所事浄瑠璃」の面白さ。たとえば『勧進帳』を使うのは……。
米田 あれは『人生双六』。
神山 『人生双六』だ。『人生双六』っていつごろの芝居でしたっけ[松竹新喜劇の初演は一九五二年十二月・産経会館]。
米田 芝居は古くからあるんですけど[松竹家庭劇で一九二八年初演]、あれに『勧進帳』を使ったのも、藤山さんの演出なんですよ。
神山 『勧進帳』を使って、それが「余所事浄瑠璃」としての効果を持つ、それが分かるというのは、ある世代の客層なんですかね。
米田 『勧進帳』を知っている人が『人生双六』を見たら、なるほどなと思うんですね。弁慶一行に対する関守の富樫の温情、人生双六の主人公宇田に対する浜本の温情、そんなところダブらせての曲想が、たまりません。
日比野 作曲家の加納光記さんのお名前が出て、私どもはプログラムとかDVDソフトの裏でしかお名前を拝見したことがなかったんですけれども、加納さんは松竹に所属されていたんですか。
米田 いえ。自分で加納音楽事務所をつくって。テレビが始まったころ、『とんま天狗』とか『番頭はんと丁稚どん』とか、ああいう番組の作曲は加納先生です。もともと建築屋だったみたいですけど音楽家になって。素敵な感性で、さすが加納先生だとおもわせるつぼを得た曲をよく作ってはりました。
日比野 今でも流れているあの明るい調子の、いわゆるブリッジみたいやつというのは、全部加納先生ですか。
米田 そうです。新喜劇は加納先生でしたね。
日比野 東京ではほとんど仕事をされていなかったんですかね。
米田 関西に居を構えて活動をしてはりましたんで、主に関西の中心の仕事のようです。ただ、花登筺作品の音楽などもやっていましたから、新喜劇東京公演同様、東京の舞台でも加納音楽は関西の喜劇音楽として、お客さまを楽しませていたということですネ。
神山 東京では、商業演劇は橋場清さんという人が多かったな。明治座とか演舞場でも橋場清という名前がクレジットされていました。三波春夫の公演なんかでも。けど、新喜劇では名前があるのを見たことないから、関係なかったのかも。
米田 関西の商業演劇界では加納光記さんが第一人者ですよね。
日比野 松竹新喜劇の団歌は誰が作曲したんですか。
米田 劇団歌は、詞が藤沢桓夫さんで、作曲が服部良一さんです。
神山 そうか、服部良一さん。服部良一さんというのは、出雲屋少年音楽隊[三越少年音楽隊(一九〇九)、大阪三越少年音楽隊(一九一二)、京都大丸少年音楽隊(一九一二)などの少年・少女音楽隊ブームに乗ってうなぎ料亭出雲屋が一九二三年に作った少年音楽隊]にいたんですよね。
米田 そうそう、そうです。
神山 こちらの[上方出身の]人ですもんね。
日比野 服部さんへの依頼は、特別にというか、単発のものなんでしょうね。
米田 そうです。天外先生と仲が良かったから。天外先生はわりと文化人とかそういう方とお付き合いあったから。
日比野 なるほど、その由縁で作られたんですね。
米田 そういうつながりで作ってくれはったんじゃないですかね。
神山 そうね、天外さんの人脈というのは、そういうところにあったから、やっぱりそれも当時の新喜劇の客層からスタッフの多様さにつながったんでしょうね。

道頓堀いまむかし


神山 今日の芝居で、『はるかなり道頓堀』が終わって、最後のカーテンコールで今の天外さんがあいさつをして、その背景の道頓堀の眺めについて、「以前は三亀(さんかめ)と松川というのがありまして」と言ってますが、僕は松川は知らないけど三亀ってずいぶん後までありましたよね。
米田 そうですね。
神山 中座の前にね。
米田 松川も結構遅くまでありました。
神山 あったんですか。中座の前に三亀という、もう小さくなってましたけど漢字の看板出てたのだけ覚えているので。
米田 そうです、そうです。
神山 中座がなくなったのは何年ですか。昭和? 平成になってました?
米田 平成です。というのは、平成になって新生新喜劇の旗揚げを中座でやって[一九八五年三月]。
神山 (資料を見て)ああ、平成三年まではあったんだ。
米田 それで平成十一年閉館後に火事になってしまって。あれは悲しい出来事でしたね。中座があればどうなっていたかなと思います。
神山 本当ですよね。中座は本当に何ともいえない、楽屋と客席との感じがすごく近くて面白かった。
米田 中村勘三郎さんなんか、七月に中座公演やっていて、中座はいいよ、客席が近いからって。八百人ぐらいのキャパです。時々、歩いたらべちゃっとリノリウムの床と靴がくっついたりして。
神山 昭和四十八年に入団なさったころというのは、もちろんまだ朝日座があって、浪花座、角座、中座まではありましたね。
米田 ありました。
神山 四座ありましたよね。道頓堀五座というと。
米田 浪花座、中座、それで角座は演芸になっていまして。
神山 演芸(寄席)でしたよね。
米田 あとは朝日座が文楽で、もう一つは、古くは角丸の芝居といわれ、のち明治時代に朝日座となり、その後映画館となり戦後も東映の映画館[道頓堀東映]になっていて、芝居小屋としてはもうなかった。[一八七六年の二度にわたる火災の後、再建された弁天座はおもに新国劇を上演していたが、一九四五年三月の大阪大空襲で焼失。この弁天座の跡地に一九五六年に再建された道頓堀文楽座が、一九六三年に改称されて朝日座となる]
神山 先ほど天外さんが最後のあいさつのとき、昼の部でも夜の部でも「私が子供のころと、道頓堀はすっかり変わりました」とおっしゃっていましたけど、やはりそのころともうずいぶん違いますよね。
米田 違いますね。
神山 こんなこと言っても仕方がないことですけれども。
米田 近頃は人通りがいっぱいでね。昔は普段、あんな人通りはなかったのですけどね。中座があって、その前に芝居茶屋があって、道頓堀というのは、芝居町で、そこに芝居茶屋があり、飲食店がありの持ちつ持たれつのコミュニティでした。だから年中行事で、正月は主に松竹新喜劇中座公演でしたが、その折りには正月三が日は朝一番に劇場前で「しころ太鼓」をたたいてお酒をふるまったり、戎さんの時には「宝恵かご」行列があって、南地の料亭大和屋から道頓堀を通り、新喜劇の役者さんを乗せたり、浪花座の演芸の方を乗せたり、また戎橋の袂では文楽人形が舞を披露したりと、賑やかなイベントがありました。いまも宝恵かごはおこなわれています。
神山 ええ。南地の料亭・大和屋から。
米田 そういう町の行事とか、そういうのにかかわっていたというあたりが、やっぱり芝居と町とのつながりで、芝居町といわれたゆえんだと思いますね。
神山 そうですね。大和屋さんもなくなったのが平成の初めぐらいでしょう。[二〇〇三年十月に南地大和屋ビルは取り壊される。大和屋の営業は高島屋大阪・大和屋三玄などで現在も継続]
米田 そうですね。
神山 やっぱりそういう感じ、興行街と花柳界とはつながりが大きかったから、そこが崩れると、町のイメージが変わってくるというのは仕方ないですけどね。
米田 そうですよね。大和屋さんは経済界の人や文化人の方とかがくる。司馬遼太郎さんとか、関西の佐治[敬三、一九一九——一九九九。サントリー会長]さんとかいろいろな方が来てはったんでしょうけどね。そういう粋な方とかが来なくなるし、経済もちょっと停滞していたということで、止めるということになったんでしょうけど。
和田 ちょっと違う雰囲気のことをお伺いしたいんですけど。僕は中座は最後の方にちょっとだけ観客で入ったことがあるんですけれども、中座の伝説とか、よく聞くタヌキが住んでいるとか、そういう「言い伝え」って何かございます?
米田 それは有名なのがありますよ。昔タヌキが人間に化けて、中座へ見にきて、それを大道具さんが見つけて、タヌキだということで殺したという。それでたたりがあったので、舞台の下に柴右衛門狸大明神となって、そこへタヌキをお祀りしてあるんです。
和田 それが奈落なんですね、下にある。
米田 はい。僕らがいたときはずっとありましたけど。その後、中座閉館後に、そのおタヌキさまの魂を抜いて、淡路島洲本と、生國魂神社に分祀入魂したと聞いていますが、中座の跡地にできた劇場ZAZA内にもお祀りしてあるとか。
神山 中座くいだおれビルですね。[地下一階に吉本興業が運営する道頓堀ZAZAがある。祀られていた柴右衛門狸大明神は、いったん同ビルの四階に移された後、二〇〇〇年以降、洲本八幡神社に分霊されて祀られている]
和田 寛美さんまでは、そういう芝居小屋の「言い伝え」を残されていますね。楽屋風呂に知らない人が入っていたとか。小屋で長く過ごしていた芸人の感覚が残っていたというか。

晩年の二代目天外


神山 演舞場の岡副昭吾[一九三一——二〇一四。新橋演舞場会長、料亭「金田中」会長]さん時代の企画室にいた岩下尚史さんから、藤山さんが東京に来たときに演舞場が終わった後、花柳界で遊ぶときのはなしを聞きましたけど、やっぱりものすごいお金の遣いかただという。
米田 そうですね。
神山 店に行くまでに、通りに居る、行く店に関係ない黒服の連中にチップを遣っちゃうので、すごいと思ったという話を聞きましたけどね。
米田 お弟子さんとかはそこらへんのことよく知っているでしょうけど、僕らあまり藤山先生と一緒に飲みに行ったりとかしないので、話に聞くだけで詳しいことは。
神山 行かないですよね。
米田 はい。
神山 そうですよね。入団当時、天外先生と直接話すことはやっぱりできないですか。
米田 いいえ、そんなことはなかったと思いますが、何分入団したてで、天外先生は大きな存在でしたので、憧れを持って、いつもあいさつは欠かさず。おはようございますとか、お疲れさまと言いにいきました。丁寧に返事も帰ってきて、天外先生がお帰りになるときは、平戸さん以下僕ら文芸部や頭取はお見送りするのですが、杖つきながらの不自由なお体でしたが、にこやかに帰っていきはる姿が印象的でした。
和田 その時期はもう、天外先生は自分で執筆は、もうあんまりされていなかった?
米田 はい、[病後で]かろうじて昭和四十九年[一九七四年]に最後のホンを書きはったんですが、それもこう、震える手で書いたような字で、平戸さんが原稿を見て清書して、ホンに直しはりました。(年譜を見て)そうか、このあたりが最後のホンになりますね。『浪速水滸伝』と『夢と風船とを抱く男』[両作とも一九七四年四月大阪・中座初演]。

脇役者たち


神山 そのころ役者さんで一番古い方というのは?
米田 年のいった千葉蝶三朗(一九〇一——一九七五)さんはもちろんいましたし、八木五文楽さんに花和幸助さん、守田秀郎さんに伴心平さん、長谷川稔(一九一五——一九九九)さん、あと中堅どころで東光男(一九〇八——一九七八)さんとか、三井康弘さん、喜多康樹さん、女優陣では、御存知酒井光子さん、曾我廼家鶴蝶さん、滝見すが子さん、石島康代(二代目石河薫)さんなど、そういう他の舞台も踏んでいる経験豊富な芸達者な役者さんが脇で控えてましてね。一番古いというと、今の中では、曾我廼家鶴蝶さん、長谷川稔さんが劇団創立時のメンバーです。 
神山 私は国立劇場に入ったのは昭和五十三年なんですけど、そのころまでは元新喜劇の女形をやってた人が歌舞伎の方にいたり、坂東鶴枝というんですけど。新派の方から歌舞伎に来たり、あるいは逆に新派へ行ったり、そんなのが面白かったですね。役者さんのいろいろなタイプがあって。
米田 坂東鶴枝さん?
神山 大正五、六年生まれで、ずいぶん昔に[十七代市村]羽左衛門のところに移ったらしいんですよね。
米田 僕は知りませんが。
神山 私も当時の芸名はわかりません。「鶴」の文字で思い出したけど、[曾我廼家]鶴蝶[一九二八——二〇一〇。一九七七年八月、同じく看板俳優であった小島秀哉とともに退座。東宝に所属する]さんがいらしたでしょう、まだ。
米田 はい。
神山 鶴蝶さんはうまかったですね。
米田 鶴蝶さんはすごい役者ですよね。
神山 私は実は東宝に移ってからの方が印象が強いんですけど、『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ夫人なんかね。
米田 ヒギンズ、見ました。
神山 あの感じが出せる人がなかなかいない。鶴蝶さんはあの皮肉な感じでしょう。役柄のニュアンスとして、出てきただけでヒギンズ夫人のちょっと皮肉な感じが非常によく出ていて、驚いちゃったんですよ。
米田 いろんな役をこなす、ほんとに素晴らしい役者さんです。脇としても山田五十鈴さんの芝居にもお出になって、名優同士って感がありました。子役からやってはりますものね。
神山 そうでしたか。
米田 曾我廼家五郎劇のときの子役だったんです。
神山 そうですか。五郎劇には女優っていたんですか。
米田 いえ、いないです。
神山 五郎劇のころは女形でしょう、全部。
米田 はい、みんな女形です。
日比野 子役だけは女性がやっていますね。
神山 それは歌舞伎でも子役は女性だから。そうすると女優というのは戦後の家庭劇からですか。
日比野 戦前の家庭劇です。
米田 戦前です。
神山 そうだ、松竹家庭劇には女優もいるんだ。
米田 そうですね。
神山 鶴蝶さんとか酒井光子さんは、脇役で出てきてじっとしているところがよかったですね。新派なんかではよくありますが、例えばおかみさんの役で、別にお客さんの受けを取るとかじゃなくて、ただ座っているだけなんだけど、その風情というか居ずまいで何かを感じさせる。当時の新派、それに新喜劇の女優さんにはそういうのがありましたね。ほかの芝居だとなかなか見られない。
米田 そこにいるだけで一つのサマになっているという形ですよね。
神山 大劇場の芝居という感じがしましたね。演舞場や明治座や中座みたいなところ——言ってしまえばある程度格のある劇場——でやっていた女優さんの芝居というのは、座っているときなんかに違いが出る。
米田 酒井さんはやっぱり天才に近いんじゃないかと思う時があります。
神山 そう。
米田 自然に。何をやらせてもサマになるでしょう。長屋の女房でも、ご御寮さんでも、マゲモノの奥方でも。
神山 それで邪魔にならない、邪魔にならないけれどもものすごく印象に残るんですよね。ああいうのは、教えてできるもんじゃないという意味ではたしかに天才かもしれません。
米田 藤山さんとはまた違った上手みと味のある(笑)。何をやっても読みがくだって無理がない。
神山 そうなんですよね。
米田 リアルでナチュラルで、自然と舞台に溶け込むに、そんな存在感の大きい方でしたね。酒井さんに鶴蝶さんは。

曾我廼家十吾とその系譜


神山 戦後の松竹家庭劇の曾我廼家十吾(じゅうご)さん、十吾(とうご)さん、幕内ではどちらで呼んでいましたか?
米田 どっちでもいいと言ってはりましたそうです。僕らは十吾(とうご)先生、十吾先生と言うてましたけど。
日比野 十吾(とうご)が本来だという説が有力です。
神山 でも曾我兄弟は五郎、十郎(じゅうろう)だからね。五郎、十郎(とうろう)とは言わないけどね。
米田 もともと曾我廼家十郎と曾我廼家五郎の十と五をとって十五となったのですが、五郎さんからクレームがついて十吾となったと聞いてます。
日比野 一回、五郎が破門したというようなお話もあります。破門されたから「五」の字を変えたんだというような。
米田 「銃後の守り」とかいうのでジュウゴになったとか。
神山 そうそう、戦争中のね。
米田 それは後付けかも分かりませんが。
神山 十吾さんと天外さんは一時は全然仲悪くて離れちゃっていて。昭和四〇年ごろ、歌舞伎座にものすごく久々に出たんですけど[一九六五年十月東京歌舞伎座上方喜劇顔見世大合同『アットン婆さん』に十吾は出演、天外は病気のため出演せず]、十吾さんを直接はご存じない?
米田 はい、直にお会いしたことはありません。
神山 ないですよね、当然ね。
米田 僕が入ったときはもう入院されてはりまして。
神山 でしょう。
米田 昭和四十九年[一九七四年四月]に亡くなりになられましたからね。
神山 亡くなった。
米田 はい。
神山 新喜劇の結成当時[一九四八年]、それ以前の十吾さんの家庭劇みたいなものとは別の物にしようというような意識というのはありましたか。
米田 天外先生に?
神山 天外先生も、あるいは寛美さんも。
米田 天外先生と十吾先生とは、戦前の家庭劇時代からも喜劇観の違いはあったと聞いております。その違いは結成以後も続き、天外先生は「文芸路線」に、十吾先生さんはやっぱり役者本位の、自分も腕があるし、見て楽しめるという、曾我廼家十郎の流れだから、作劇の方法そのものが違っていた。その違いが、天外先生が『桂春団治』『銀のかんざし』などの名作を生み出すことによって、鮮明になっていく。
神山 そうすると、十吾さんの流れの方というのは、もう新喜劇の文芸部にはいないんですよね。
米田 いえ、十吾先生の作劇法や演技の手法など、僕たちが芝居を作る上には必要な、基本的な芝居作りの大事な考え方は受け継いでいっています。、
日比野 役者さんのほうに十吾の系譜はありますか。
米田 役者は、高田[次郎]さんが戦後の家庭劇にいてはりました。新喜劇のプリンスは藤山寛美、家庭劇のプリンスは高田次郎と言われたぐらいで。[曾我廼家]文童さんが十吾さんのお弟子さんです。
日比野 そうですか。
神山 十吾さんの芝居を見て、感動して芝居に入ったという。
米田 そうでしょうね。もう亡くならはりましたけど、新喜劇では沢田光生(一九二六——二〇〇七)さんという方がずっと付いてはって、あと、[小島]秀哉さんが十吾さんのお弟子さんで。そして文童さん、漫才のはな寛太さんという方もそう。四人ぐらいいまして。
日比野 文童さんは、お師匠さんとは路線が少し違う感じじゃないですかね。私はもちろんナマの十吾さんを見てないんですけど、むしろ寛美以降の今にいたる新喜劇にすごく合っているような気がするんですけど。
米田 そうですね、文童さんも、いろんな方の芝居をみて、勉強している方で、誰のまねともなく、役作りの基本を大切に、それが自分の個性とかさなり合い、独自の演技スタイルを作っていっているという感ですね。藤山先生は十吾さんの芝居をまねて、いろいろなしぐさとかを取ったという話がありますけどね。

松竹新喜劇の「寛美体制」


日比野 今、秀哉さんのお名前が出たんですけど、一九七七年の鶴蝶、秀哉の退団ということがあって。当時世間ではいろいろなことがいわれたわけですけれども、内部でご覧になっていてどういうことがあったんですかね。
米田 ぼくも入団して三年目ぐらいで、深いところはよくわかりませんが、秀哉さんの話では、ふと他のことをやってみよかという心境になったと、言ってましたが。
日比野 鶴蝶さんが、「これじゃ俄や」と言って辞めたという、有名な辞めたときの台詞があって。それを一つのキーワードとして考えると、芝居の「路線の違い」だというふうに、私も含めて解釈していたんですけど。
米田 芝居に関して、今おっしゃったようなことがあったかも分かりませんね。芝居作りが藤山さん中心で、芝居の内容的なものが――やっぱり藤山さんには腕があるから、自分流で引っ張っていって周りを付けていくという形で、もっとちゃんとした、ちゃんとした芝居と言うとおかしいけど、やりたかった。
日比野 「ちゃんとした」と言うのは「新派的な」という感じなんですかね。
米田 ちゃんと骨組みのある芝居をしたかったという意味かも分かりませんけどね。だから天外、十吾先生のホンをやっている限りは、ちゃんとした骨組みがあるけど、新たに芝居を作っていく上においては、ホンの内容が鶴蝶さんの思い描いてる芝居とはまたちょっと違ったかも分かりませんね。

初代天外の芝居づくり


神山 そうですね。館直志[二代目渋谷天外]の文芸志向みたいなものと、寛美さん的な役者中心で笑いを取るというのは、一般的には対立しているようにいわれているんですけど、劇団の中でもそのころからありました? 対立みたいな感じ。
米田 芝居作りに関しては皆それぞれの意見や思いをもっていると思います。でも、それは天外喜劇、十吾喜劇をレスペクトした上での話です。藤山さんにしても、天外作品、十吾作品で喜劇役者としての命をふきこまれたのですから、対立などありません。役者として培ったなかでの喜劇観の違いはあります。秀哉さんにしても鶴蝶さんにしても、もちろん天外喜劇を愛してました。
神山 天外さんの本の作り方というのは、松竹新喜劇文芸部員だった、藤井薫さんが書かれていますが(『さらば松竹新喜劇』)、自宅の二階にこもって、[稽古始まりの役者の]顔寄せの前日ぐらいにやっと、とにかくものすごい勢いで書いて、書き殴ったものを文芸部の人が清書する。
米田 そうです。
神山 星さんなんかが写していって。
米田 謄写版で書いて[文字を切って]いって。刷っていって。
神山 本当にそうなんですかね。
米田 そうらしいです。平戸さんもその現場にいたと。
神山 平戸さんもそうだったんですか。
米田 ええ。
日比野 米田先生の時代でも、まだ謄写版は使っていらっしゃった。
米田 いいえ、我々の時はもう印刷、杉井堂という印刷屋さんがあって、手書きの台本を印刷する。
神山 そう。手書きの印刷ですよね。
日比野 そうなんですか。
神山 僕はさっき言ったように国立劇場に入ったのが昭和五十三年ですけど、古い役者さんは手書きの字じゃないと覚えられないと言うんですよ。活字で持っていくと、こういう字だと台詞が覚えられないと言って。歌舞伎の人ですけど、そんなことを言っていました
米田 僕らも台本は平成三年の新生松竹新喜劇になってからしばらくは手書きで、平成十年代半ばぐらいですかね、活字になったのは。
和田 印刷屋さんの手書きの台本はちょっと平べったい字で、確かに読みやすいというか。
米田 何人かで手分けして書いているので、上手な人もいれば、丸文字みたいな人もいるんですけど。
神山 筆耕と言っていましたよね、もう死語だけど。

松竹新喜劇の舞台美術


ストレート・プレイの商業演劇が少なくなっちゃったでしょう。明治座なんかでも新喜劇風にちゃんと飾り込んだ装置というのが少なくなって。だいたい前田剛さんですよね、今は。
米田 そうですね。
神山 前田さんとか、あと東京だと中嶋正留さんもそうだし。前田さん、中嶋さんはああいう飾り込む装置を作っていて。あのお二人以外は、ああいう道具帳を描いて作れる人がいなくなっちゃったんじゃないかと思うんですがね。
米田 そうですね。以前は古賀宏一さん、品川洋一さんなど素敵な美術家がいましたね。芝居の内容で道具がかわるのは当然なんでしょうが、ちゃんとした舞台を飾りこむ商業演劇スタイルがすくなくなってきているということでしょうか。話が飛びますが、昔学生時代の劇団で、小山祐士の『黄色い波』(一九六一)を上演したことがありましたが、その舞台装置などはちゃんと飾りこんだ舞台だったのが印象的でした。
神山 新劇も伊藤熹朔時代は飾り込んでいたでしょう。ああいうのも今はない。今日なんかでも拝見していて、(『はっぴとズボン』の)序幕で公衆電話があって、あの店構えなんかがいいです。あれだけで僕なんかすっとね。
米田 あの舞台はきれいですね。前田君とコンビでのお気に入りの舞台です。
神山 装置を見ているだけで泣けちゃいますね。公衆電話に掲示板があって、別に何でもないものなんですけどね。
米田 あれは昭和四十八年[一九七三年]に設定したんですけどね。
日比野 『はっぴとズボン』は昭和四十八年で『はるかなり道頓堀』は・・・。
米田 あれは昭和四年から昭和三十六年『上を向いて歩こう』が出てくるまでずっと時間が流れます。その頃の流行歌を使って。
神山 だけど新喜劇を拝見していて難しいところだと思うのは、米田先生はわりと、背景を現代に置き換えちゃう場合もありますでしょう。
米田 はいはい。
神山 それは難しいところですね。
米田 そうですね。藤山時代から、新生[松竹新喜劇]になってからも、演目によっては「現代[上演の際の年代]」でいく形を取ったんですけど、だんだん難しくなって、単に携帯電話を出したりとか何か取って付けたような現代劇になってしまうので、内容自体がそんなに現代じゃないのに、これはおかしいということで、新派なんかは逆に「過去」に置き換えてやっているから、新喜劇ももう昔の形でやった方がいいんじゃないというような意見も出てきまして、だったら無理をしないでその時代(過去)のことにしようと。その時代に置くとなると、『はっぴとズボン』みたいにどこかで昭和何年ということをうたわないといけない。すんなりと時代背景をうたえればいいんですけど。
神山 そうですね。幕開きの台詞で「大阪万博も終わって」とか。
米田 万博とか高度経済成長とかね。取って付けたように入れるのがちょっとつらいところなんです。自然にその時代って分かってくれればいいんですけどね。
神山 本当、そうだと思いますよね。
和田 今の神山さんのお話にもあったように、新喜劇とか新派の美術には特有の雰囲気があるので、あれで平成二十七年というのは難しいような気がします、たぶん。
米田 あの舞台でね。
神山 ああいう特徴のある街並みってないですもん、もう。あのたばこ屋兼履き物屋ね。だいたい履き物屋なんてないからね。
米田 「趣味の店」ね。
神山 ああいう感じの店、ああいう花柳界がないでしょう。三業地にはああいう店って必ずありましたよ。それは芸者衆が相手なんだから。そういうのがなくなっちゃうから、現代に置き換えると本当に難しいですよね。
米田 現代に置き換えるんだったら、装置もやっぱり現代に替えなきゃいけなくなりますからね。あのまま使えないから。
神山 この前の『先づ健康』でも、背景は現代っぽくしているのに、「体重を台秤(だいばかり)で量る」というくだりがある。あそこも難しくありませんか。
米田 あれも僕がちょっと手をいれたんですけど、現代の芝居にするのは無理がある。そうかといって、あの芝居から台秤を取ったら芝居にならない。台秤が置いてあるような場所ということで、お風呂屋さんとくず屋さんに設定されているんですけど。でも老人の健康問題と親子問題がテーマということであれば現代でいくのがわかりやすい。
神山 数十年前の近い過去にする場合、脇役の台詞でその頃にあったことを言うか、当時の歌謡曲を聞かせるというのが一番いい手なんだけれども、それすらもやがて分からなくなる。すると、字幕で出すしなかなくなっちゃうんですね。
米田 大正ぐらいになるともうそのままやっても雰囲気は分かるんですけど、中途半端ですよね、現代のちょっと手前というのは。といって現代にしてしまうと、やっぱりこれだけ時代が変わったら、携帯とかパソコンみたいなのとかが無いとおかしい。若い人は絶対携帯を持って話しているし。だからその辺の芝居付けが内容とちょっと違和感が出てくるところがあるし。一番いいのは、『はっぴとズボン』なんかでも、そのテーマをいただいてころっと変えて現代劇に作り替えてしまうという作業が、うまくできればそれに越したことはないんですけど。
神山 ただやっぱり、これは私の好みかもしれませんけど、新派とか、新国劇の現代劇とか、新喜劇は「時代風俗の面白さ」というのはものすごくあると思うんです。面白さとか懐かしさがね、それがなくなっちゃうとちょっと寂しいといえば寂しいですけど。
米田 若い人がまた、レトロ――古いものが逆に新しく感じるのがレトロというのをよく聞くんですけど。若い人は古いことは分からないから、それを新しいものとして、流行が繰り返すのと一緒で、そういうふうに取っていただいたら、古いものをずっとやり続けていっても新しく感じてくださるかもしれない。歌舞伎を見て、若い子がこんな素晴らしい舞台があるのかというように。
日比野 レトロというと、私が松竹新喜劇を見ていて嬉しいのは、女性がみんなストッキングを履いてないんですよね。みんな生足を見せていて(笑)。
米田 ストッキングは履いていませんね。
日比野 ああいう生足が見られるのは、もう松竹新喜劇でしかないでしょう。ミュージカルやレヴューで足を見せるのは別だけど、台詞主体のお芝居の中では。
神山 風俗というと簡単に言うけど、風俗と心情というのは結び付いていますよ。やっぱりああいう、歯を食いしばる生き方とか、新喜劇や新派に多いけど、自分が犠牲になってほかの人のために生きるという、ああいう人生と、それを見たお客さんも共感して泣き笑いするというのは、その時代の風俗とやっぱり結び付いているんですよね。
米田 そうですね。
神山 あれ、現代の風俗だったらもうそういうメンタリティーが成り立ちようがない。
米田 人情とかね、そういうのがね。
神山 自己犠牲なんてないでしょう。まるでないわけじゃないけどね、自己主張とか自己表現の方がいいことみたいになっちゃった。だから風俗と切り離すと難しい。

長谷川幸延そのほか


神山 天外さんのことや平戸先生のことをお聞きしましたけど、[劇作家・小説家]長谷川幸延(一九〇四——一九七七)は原作者として外部から関わられたんですよね。
米田 脚本もありました。
神山 あります?
米田 僕が入ったときにも、二、三本は書いて新喜劇に提供してはります。[長谷川幸延による脚本は、一九七五年の米田氏入座以前に『花の古疵』一九六一年四月、『近くの他人』一九六一年十月、『おまる団十郎』一九六二年四月、『たそがれの靴』一九六三年二月、一九六五年二月『飛田大門通り』(以上すべて大阪・中座)、一九七〇年十月『松竹兄弟両花道』(京都南座)。入座以後では『辰巳よいとこ』一九七六年一月(大阪・中座)、『酒の詩男の歌』一九七六年四月(大阪・中座)がある]ただ、『桂春團治』は原作ですね。
神山 そうですよね。
米田 僕も一、二回お会いしたことがありまして。こんなにすごい先生だったのかと後になって思いましたけど。その頃はもうお年で、ちょっと太っておられて、口でぼそぼそ言って。メモ書きを渡してダメ出しをする。楽屋まではお入りにならなかったので、ロビーでお会いしていました。奥様だと思いますが、秘書役のような方が一緒にいて、その人を介在して、やりとりをする。
神山 香川登志緒(一九二四——一九九四)さんは新喜劇は少ないんですか。
米田 いえいえ、香川さんはたくさんの作品をお書きになってはります。僕が入ってからも、よく楽屋へお見えになって、ほんとに話好き、楽屋好きで、物知りで博学な方でした。今から思ったら、三田純市さんにしても、もっといろいろなことを聞いて教わっておいたらよかったなというのがあります。
日比野 長谷川幸延同様、ダメ出しを役者に直接されるタイプではなかった?
米田 いえ、香川先生の場合は、自分の作品には愛情をもっていまして、役者さんにははっきりとダメだしをしてはりました。もちろん、藤山さんが出ている芝居はほとんど藤山さんが「君はここがこうだ」とダメを出していました。芝居が終わってからほかの役者さんが「ありがとうございました」と藤山さんの楽屋に挨拶をやってくるときに、演技のダメを出すんです。平戸さんなんかも、温和な方で、「あそこはコウコウせなあかんでー」と、ものの言い回しもそんな口調で役者に諭すように言うてはりました。
日比野 人によってダメの出し方に差があるということですね。藤山寛美座長時代の文芸部の方々、それから長谷川さんや香川さんみたいに少し離れている人も含め、役者さんとの距離の取り方がいまひとつよくわからないんです。
米田 僕らは劇団員だったから、役者さんの楽屋もあれば文芸部の部屋もあって、お互い行き来して。気さくな人は文芸部に遊びに来て冗談を言って、出番のないときはそれで時間をつぶしてはる人もいたし、平戸さん自身も喜多康樹さんのような古い役者さんとは昔からのお友達みたいな関係であって、小島秀哉さんとも親しいし。そういう親しい人が集まって楽屋話になって、古い幕内の話やら、誰それの消息やらと、生きた演劇文献のように、大変勉強になりました。と同時に、それぞれの役者さんたちとも、冗談を言いかわしたりしながら、いいコミュニケートの場ともなりました。

芝居茶屋そのほか


神山 新喜劇にも頭取という役はあるんでしょう。
米田 ありましたが、平成十四年(二〇〇二)に阪東豊という頭取が亡くなると、頭取制度はなくなり、制作事務方という制度になりました。
神山 歌舞伎や新派だとだいたい元役者さんが頭取なんですけど、そのころは頭取さんはやっぱり役者さんを兼ねていました?
米田 はい、その阪東さんという方も、元は歌舞伎から新喜劇の役者になった方なんですけど、頭取は僕が入ってから三人ぐらい替わっているなかで、役者さんからなったのはその阪東さんという方だけなんです。
和田 先生が松竹新喜劇に入られたときは、道頓堀は、まだ芝居茶屋を通して新喜劇をご覧になる方っていらっしゃいました?
米田 いたと思いますね。松川とか三亀があったら、そういう名残はあったと思いますけど。その一方でプレイガイドで買ったり、じかに中座へ買いにいったりもする人もいるし。
神山 やっぱり芝居茶屋は、定価で買うわけにいかないこともある。それはそうですよね。茶屋を通して買ったらね。さっきの芝居じゃないけど。いま歌舞伎座なんか、二階の廊下から、一階で番頭さんがいるところが見えるでしょう。切符代を渡して、本当にお釣りをもらっているお客さんがいるね。信じられないですよ。番頭がすごい嫌な顔をして渡していますけどね。普通「ご祝儀」として封筒に入れてすっと渡して、それで終わりなんですけどね。
米田 切符を取ってもらったらそのお礼としてね。
神山 そうそう。

台本の素材について


和田 新喜劇の台本で、新派から持ってきた『幕末婦系図』があるのをうかがいましたが、ほかに、歌舞伎とか新派から持ってきた台本というのは、ございますか。つまりパロディーではなくてそのまま持ってきたものは。
米田 歌舞伎のそのままの台本はないです。歌舞伎にあるのをちょっと新喜劇風に直したという芝居はあると思います。
和田 例えば、僕は『お祭り提灯』なんかは、これは勘で言っているんですけど、もともと何かにあったのをアレンジしているんじゃないかなという。
米田 あの芝居は、喜劇の原点といわれるニワカからでき上がったもので、明治四十年代から大正期にかけて、初代渋谷天外の楽天会などで、役者が即興的に演じていたものを、脚本にしたのが二代目渋谷天外ということになっています。
神山 『お祭り提灯』は、ネタはないかもしれないけど、ただ演出自体は、あの「追っ掛け」という手法は歌舞伎の『伊勢音頭』などでも、今でもあるぐらいでね。
神山 演出自体はあの歌舞伎のパロディーでね。
米田 今はまげもので、提灯に隠すことになっていますが、隠すところは、靴屋になったこともあるし、壺屋にもなったことがあるんです、現代劇で初めはやっていたので。
和田 そうなんですか。
米田 ええ。
和田 じゃあ、むしろ逆に、今は時代背景を昔に固定しているということなんですかね。
米田 昭和二十四年[一九四九]に、時代劇でやった方がいいという意見があって、星四郎さんが時代劇に脚色したんですね。
和田 なるほど。それはぴったり、結合したんですね。
米田 うまくですね。
神山 この間もおやりになった、香川登志緒さん脚本の『色気噺お伊勢帰り』ですが、あれは完全に『伊勢音頭』の。
米田 そうそう、パロディーです。お鹿が出てきたり。
神山 廓からやってくる遊女の名前がお紺とかお鹿というんだから。
神山 お客さんはお鹿、お紺というからこれは『伊勢音頭』のパロディーだと分かるはずだという作意ですよね。
米田 これは分からなくても面白いからやっているけど。分かったらもっと面白いという。
神山 面白いんですよね。あと『籠釣瓶』のね。
米田 そう『浪花の鯉の物語』も『籠釣瓶』を参考にしています。
神山 あれは平戸先生でしょう?
米田 そうです。
神山 僕は『浪花の鯉の物語』は、最近、前川清で見たな。御園座で[二〇一二年七月]。
米田 それ、立ち会いました。
神山 あれ、結構よかったですよね。
米田 芝居としてはよくできている。
神山 前川清や五木ひろしのような歌手が寛美さんのものをやるのは、僕は結構楽しんで見るんですけどね。ああやってやらないと残らないですもんね。これは本当に。
米田 ええ。だから大衆演劇の方も結構、新喜劇の本をやっていると思います、ああいうのを見てね。
日比野 いま、大衆演劇で、たぶんベスト一〇に入る人気作に『へちまの花』がありますね。曾我廼家五郎の原作からは色々なところが変えられていることが多いですが。
米田 へえそうですか。昔、大衆演劇に関する本を読んでいたら、『へちまの花』の名前がでてきたので、驚いたことがあります。九州の大衆演劇の座長さんなんかに、役者で誰を一番尊敬するかといったら藤山寛美がまず筆頭に挙がるみたいです。

大衆演劇との距離


日比野 大衆演劇といえば、一九八四年五月中座・六月南座で、寛美さんが九州の大衆劇団の俳優さんをゲストにお呼びになったことがありました。寛美さんは何を考えてああいうことをやっていらしたんですかね。
米田 あのときは僕も立ち会ってやっていましたけどね。藤山さんは大衆演劇の方をすごく可愛がっている様子はうかがえましたけど。
日比野 新しい血でしょうか。
米田 どうでしょうか。大衆演劇の人も、藤山さんを慕ってあいさつに来たりしていて、それで一緒にやってみるかのようなことになったのかも分かりませんけど、はっきりしたことは。そういうときの作品は、よく香川登志緒先生が書いていました。まげ物なんかをね、大衆演劇の方と藤山さんのニンに当てはめて。たしかに大衆演劇プラス新喜劇のブームも一時はあったんですけど、だけど本来の新喜劇からはちょっと離れてしまったということで、お客さんもちょっとそれで遊離したようなところもあったようで。
日比野 うがった見方かもしれませんけれども、大衆演劇の座長級を次々と自分の劇団に呼んだのは、寛美さんが味方を欲しかったからではありませんか。つまり天外路線というのがまだ生きていて、自分が目指す「アチャラカ」「俄」的なもの、つまり即興の芝居を重視する路線が、劇団員の中でいまひとつ定着していかないことにいら立ちを覚えたというのもあるのかなと。
米田 どうですかね。マンネリ化していたということもあるし、あの時代ってお客さんもちょっと下降気味だった時代で。
日比野 逆にあの時代の大衆演劇は、すごく人気があった。
米田 そうなんですよ。
神山 樋口勝次朗(しょうじろう)とかそういう人ですよね。
米田 勝次朗さんはそれ以前の、昭和五十六年[一九八一]五月に入座されて、五十九年[一九八四]二月に退座しています。
神山 そのころは見てないんです、私。そうですか。
日比野 ちなみに伴心平(一九一〇——一九八七)さんも大衆演劇出身ですよね。
米田 出身なんですけど、新喜劇へは、十吾先生の家庭劇から移ってきた方です。新喜劇、家庭劇の芝居に溶け込んで、今見たらすごくいい役者さんだったなというのがものすごくありますね。
日比野 [博多にわか出身の]二代目博多淡海(一九三〇——一九八一)さんはどうでした?
米田 面白かったですよ、来て[七五年四月加入]。藤山さんを食うぐらいの人気もあって。飛んだり跳ねたりの奮闘です。
神山 座布団から飛び上がる、そうですよね。ただ、あれ以外ちょっと印象はないけど・・・。
日比野 ただまあ、お行儀悪い芸と言ったら失礼ですけど、ああいうその場の乗りだけで笑わせちゃう芸というのは、それなりにあのころの松竹新喜劇の観客には受け入れられていましたか。
米田 受け入れられていましたね。博多淡海というのはそういうタイプのお芝居の仕口ということが分かっていましたし。ただ、そういうことを持っていながらも筋にのっとった芝居をなされていたので、藤山さんとも相対してやっていましたしね、お互いに。
日比野 脇役が昔は本当にすごいですよね。
神山 すごいです。
米田 ちゃんとそろっていましたからね。

リクエスト公演と大道具の相使い


神山 『阿呆まつり』(一九七一年四月新橋演舞場)からはじまる一連のリクエスト公演は寛美さんの発案ですよね。松竹からではなくて。
米田 そうです。昭和四十六年で、昭和四年生まれだから四十二歳のときですね。脂が乗りきって。
神山 元気も体力もあるから、演舞場の三階席まで来てお客さんに愛嬌を、サービスしていたのを覚えていますよ。
米田 ええ。あのときは僕も観客として、演舞場の通路に新聞敷いて見ていたときですね。
神山 いや、もう体力あったんだとつくづく思いますけどね。
米田 皆心配していたけど話題になって。やればできるということで。ただ、リクエストというやり方だから、ちょっと芝居は粗くなりますけどね。
和田 リクエストのとき、演舞場にしても、大道具の皆さんがいらっしゃいますでしょう。リクエストというのは通常ない形じゃないですか。道具も当然多いわけですし。それをオーケーさせたのと、演目が決まって数十分後に幕を開けるというのは、裏方さんはどんな感じだったのかなって。
米田 大道具はもちろん、南座、中座とかの棟梁なんかと打ち合わせをします。要するに「相使い」というのがあるんですね。一つの道具を違う狂言で共通して使う。それをずっと当てはめていって、何杯かの道具で無理のない、いけるところまで考えてするわけです。この芝居が出たら、あれとこれを「相使い」して組むということで。だからすべての芝居にすべての道具があるんじゃなくて、二十の狂言の道具仕立てにするという、そういう作業をやっていました。 
和田 そうすると、普段リクエストじゃないときにやるのと、ちょっと道具も変えていたりもするってことですか。
米田 そうですね、そういうのもあります。
和田 なるほど。つまりこれはお座敷だからこっちでも使えるし、こっちでもということにして。
米田 そういうことですね。
和田 そうか、そうか。パズル的にということか。
神山 歌舞伎では「使い回し」というと思います。だから、二重[平台の脚にあたる箱馬を二段に積み上げること]とかにしたら時間がかかってしょうがないから平舞台でやるとか、そういうことはたぶんあったのかもしれないと思いますけれどもね。

狂言の並べ方


神山 あのころ演舞場でも中座でも昼夜三本立ての六狂言だったですが、昼夜四本立ての八狂言もありましたね。あれ、よくやっていましたね。今二本ですよ、普通ね。
米田 そうですね。
神山 新喜劇だけじゃなくても、あのころはそうだった。
米田 僕が入ったときは三本立六狂言が主ですね。
神山 三本立てでしたか。
米田 三本立てというのは理由がありましてね。天外先生いわく、食事に例えたら最初が前菜で、真ん中狂言のところはメインディッシュで、最後がデザートみたいな感じで、一本目の軽い芝居で客の心を取り、そこにちょっとお笑いを乗せて、中狂言にしっとりしたものを見せて、最後はあははと笑って帰ってもらうという。そういう作り方というのが人間の生理に合うだろうということで。喜劇の場合は芝居も一時間ぐらいがいい。人間が笑う生理としては長編よりも、そのくらいが合うということで、四本立てとか、三本立てとかになった。今はもう二本立てだから、「中狂言」から始まって、「追い出し」になると、バランスが三本立ての感じではないので。新作でするならまた作り方もあると思うんですけど。
神山 昔は人気のある役者さんが多いから、三本ないとそれぞれの顔が立たないというのもあったんでしょう。
米田 そう、それもありますね。一本目は習作みたいなもので、僕らでも本を書かせてもらって。それで若い役者が出て勉強する場ということになっていましたね。役の振りも、一言でもみんなそれぞれの役を付けて。
神山 付けますものね。これは新喜劇だけじゃなくて、歌舞伎でも、新劇でさえも、いつも僕が言うんですけど、あのころは何であんなに興行が時間長かったんですかね。私もそのころ客だけど、それが普通だと思って新劇でも四時間ぐらいの芝居を我慢して――我慢っていうと、あれだけど――見ていたんですけどね。何なんですかね、あれ。
米田 翻訳劇はそうなりますね、シェークスピアなんかもね。
神山 あります。アングラでもものすごい長かったな。何であんなにみんな長い。そういうものだという固定観念ですかね、芝居行ったら四時間ぐらい。
日比野 長くないと昔のお客さんは怒るという話がありました。[「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」「菊池明聞き書き」参照]
神山 そうそう、ありました。
米田 そうですか。
神山 それと、今のお客さんよりも昔は、芝居を見にきて食べるということの楽しみが多かったような気がしますね。今はいくらでもそういうところがあるけど、昔はそんなに、劇場くらいでしか多少のぜいたくをして食べるという機会が無かった。あのころは食べることに対する意識が違った。そういうことも芝居の作り方に関係があったと思う。新劇はあんまり食事は関係なかったですけど。
米田 娯楽の一部として、お芝居を見るということで。

石河薫・酒井光子


神山 僕、初代の石河薫さんは、東京言葉でしゃべる天外さんの奥さんの役をよくやっていて、覚えているんですけど。二代目襲名したのは何ていいましたっけ、石島さん……
米田 石島康代さんが二代目石河薫になった。僕が入った昭和四十八年かな。[襲名記念の]『二代目さん』[一九七三年四月大阪・中座]という芝居がありましてね。
神山 そうでしたか。
神山 天外さんはもちろん親子で今三代目ですけど、ほかに襲名はあまりないですよね。
米田 そうですね。
日比野 寛美の孫の扇冶郎さんは将来二代目寛美になるかもしれない。
米田 そうですね。
神山 石河薫の二代目を継がせるということは松竹の意向でしたか
米田 このときは藤山さんの発案で松竹も同意ということではないでょしょうか。石河薫という名前を残しておきたいと気持があったんでしょうね。
日比野 酒井光子さんはどうでした?
米田 二代目酒井光子さんを継ぐ人が現れてもらいたいですね。僕は特に親しくさせてもらって、酒井さんのお葬式も行かせてもらって、お骨も拾わせてもらったんですけど。何をやらせても形になり、安心して見ていられるし、今の役者さんのお手本になるようなお芝居ですよね。
話はちょっとそれますが、ほかに、花和幸助さんは僕が入ったとき、ご一緒しています。この人も上品な年配役はできるし、長屋もできるし。「ミゼット! ミゼット!」かな、テレビで。『やりくりアパート』に出ていましたね。
神山 そうそう、『やりくりアパート』ですよ。
米田 僕の好きな役者さんで、何をやらせてもそれなりの形になるという素晴らしい役者さんでした。

「連続興行記録」をめぐって


神山 松竹はその頃の担当は中川芳三(一九三一——二〇一四)[松竹で関西歌舞伎の企画を担当した。奈河彰輔の名で作・演出]さんですか。
米田 あの頃は河内昭三(一九三五——一九九八)[松竹取締役]さんでした。永山[武臣(一九二五——二〇〇六)、松竹社長・会長]さんもよく関西に来て藤山さんと相談してはりました。
神山 それはそうですね。
米田 関西の担当は河内さんの他、山口[進。一九二三――二〇〇四)さんという方がいて、後に松竹新喜劇の主事にもなりました。
神山 そうですか。
和田 興行のはなしですと、松竹新喜劇は何百ヶ月連続公演というような記録がございましたよね。あれは要するに寛美さんの意志なのか、松竹が「止めたくない」ということだったのか。
米田 寛美さんは一度、九カ月ぐらいブランクあって、復帰しましたよね。[一九六六年三月、莫大な借金がマスコミで報じられた藤山寛美は松竹新喜劇を解雇されるが、同年十一月再び復帰]
和田 はい。
米田 そこから藤山さんの舞台生活が改めて始まって、ずっと休みなしにきているんですよね。はじめは何カ月続けようとか、そんな意識はなかったと思うんですけど、続けているうちにだんだん回数が上がって。百ヶ月目、二百ヶ月目になって、それが金字塔みたいになってきたということで。途中から偉業を達するような年月になってきて、二百何ヶ月、二四〇ヶ月というような形で謳うようになった。最初のころは、いかにお客様に来てもらえるかと一生懸命で、そんなこと考えていなかったと思いますけどね。
日比野 それは寛美さんが自分で公演記録を謳おうとお考えになったのか、それとも知恵を付けた人がほかにいたのか。もう少し一般論で言うと、あの寛美ワンマン時代といわれた時代に、寛美さんを裏で支えている人というのはいらっしゃったんでしょうか。
米田 裏で支えたり、知恵を授けるとか、そういう人はたぶんいないと思います。藤山さんが相談して、それに意見を述べる人はいたでしょうが、影のフィクサーみたいな人はいないです。
日比野 そうなんですね。
米田 藤山さん自体がそれだけオールマイティー的な存在なので。
日比野 じゃあ、周りは彼のアイデアを実現するのでもう精いっぱいという感じで。
米田 一応会社にもどう思うとか、そんな相談はしていたとは思うんですが。平戸さんにも、じゅんちゃんという愛称なんですが、じゅんちゃん、どう思う、こんなふうに考えているんだけど。そんなのはあったと思いますけどね。
神山 寛美さんの発言権が大きかったのは、寛美さんの言うとおりにすればきちんと興行が成り立ったという経済的な事情が一番大きかったのかもしれないですけどね。
米田 ただ、藤山さんにとっては自慢することだったと思うんですね。二四〇ヶ月連続というのは。
神山 それはそうでしょうね。
米田 自分の力でこれだけ興行を保ってきたということは、自慢して当然のことだと思います。ほかの役者が誰にもやれないようなことを自分はやったということで。それで劇団員を養っているんだから、それはすごい藤山さんの偉大なところだと思いますけどね。劇団員みんなが潤って、一つの中小企業みたいに、社長の下で働いて、生活ができたんですから、何十人かの人間がね。
和田 みんなが生活できたというのと、くたびれちゃうというのと、両面やっぱりあったんですね。
米田 しんどいところもあったかもしれません。藤山さんのレールと劇団員のレールが合わなかったところもあったかもしれませんけど。休みなしで働けるというのは、ほんとに有り難いことです。(笑)。
神山 役者さんは、僕は歌舞伎と新派しか知らないけど、休むとかえって体調悪いという人がいますからね。冗談じゃなくて、本気でそういう人がいるから。
日比野 あとは連続といっても、実際にはその月にどこか地方で巡演しても、その一月やったということになるので。
和田 ああ、そうか、そうか。
日比野 本当の意味で一年三六五日働いていたというのは、ほんの数年ですよね。
米田 だけど巡業でもやっぱり一カ月近くは公演があって、一カ月の二十何日かは埋めていると思います。
日比野 ああ、そうですか。
神山 そのころは乗り打ちですか、巡業は。
米田 そうですね。僕らのときはバスを借り切ってずっと全国巡演とか。稚内まで行かせてもらったこともあります。沖縄だけ行ってなかったぐらいで。それはもう全国区になったから、お客さんにも藤山さんの人気はすごかったですね。北海道に行っても。
神山 巡演のときに道具はどうしていました? 飾り込みました、ちゃんと?
米田 はい、トラック二台、または三台で、大道具、小道具、衣裳、カツラなどつみこんで。
神山 トラックで行って飾り込んでいましたか。
米田 バスも男優、女優、スタッフと三台の大所帯でいったこともあります。

文芸部員の仕事


神山 文芸部にお入りになった最初の頃は、先生も柝を打ったりしたわけですか。
米田 僕は打たないですね。新派の文芸部・演出部はみんな打ってますが。
神山 打ちますよね。
米田 [劇団新派文芸部の]大場[正昭、一九五〇——]さんたちはやっていました。僕の場合は松竹新喜劇文芸部に入ったわけですが、それとは別に狂言方は年配の方がお三人、浅野一良、田口寅男、伊太郎さんという方がいはって。当時は舞台監督とか名称がなかったので、浅野さんを主にそのお三人の狂言方が柝を打っていました。僕ら文芸部員は、台本作りとか、変更になったことを知らせる連絡係で。配役なんかは平戸さんと藤山さんがやって、そのそばで僕は聴いている。プロデュース的なことも藤山さんがほとんどやっていましたよね。それでもう一カ月がほとんど埋まってしまいます。
神山 台詞を後ろでつけるということもやらないんですか。
米田 プロンプもやりました。初日があいて三日間やります。三回ぐらい。
神山 新喜劇のプロンプはかえって難しいでしょうね、アドリブだから。
米田 難しい。中座の客席の後ろまで僕の声が聞こえていて、怒られたことがあって。だけど、新作なんかの場合、一回や二回の稽古では覚えられないから、つけないと駄目なんですよね。
神山 やっぱりあれは黒子が……
米田 いえいえ、黒子姿では無くて、道具の後ろに隠れて。
日比野 誰が特につけなくてはいけなかった人ですか。やっぱり寛美さん?
米田 台詞の多い人はほとんど。[小島]秀哉さんとか、[小島]慶四郎さんとか、大津[十詩子。現在は大津嶺子]さんとかは台詞覚えがよかったですね。藤山さんも台詞覚えはいいんですよ。いいんですけど、いろいろな仕事があって、完全に台詞覚えてでるということは。
神山 それはそうですね。
米田 筋で覚えるんですよ。こうなってこうなる。だから自然に自分の台詞が浮かんでくるわけですけど。突然台詞がとまって空白になったときに、次の台詞のポイントをぱっと言うのがプロンプの難しいところなんですけどね。声が通ったらいけないから、小さいかすれ声みたいな声でやる。稽古なんて、今みたいに二週間も三週間もしないですもん。
神山 しないですものね。
米田 一日だけとか。何度もやっている作品になると稽古なしでぶっつけでやるとかね。そういうところはお客さんには不親切だったところも。
神山 いわゆる衣裳を着けての舞台稽古というのはやらなかったでしょう、そのころ。
米田 やりませんね。
神山 やらないですよね。
米田 だから初日が舞台稽古みたいなもので。

昼の部と夜の部


神山 新喜劇も特定狂言ってやっていました? 初日に昼夜一回の料金で、昼の部に夜の部の狂言を足して見せるというの。それはなかったですか。
米田 それはないですね。
神山 ないですか。
和田 今のでいうと、出し物の昼夜入れ替えは。
米田 昼夜入れ替えはありました。
和田 ありましたか。あれは東ではあんまりやらないですよね。
神山 めったにやらないですね。こっちでは、関西は歌舞伎とかでやっていましたものね。
日比野 文楽は今でもやっています。
和田 あ、そうか。逆にやめたから、こっちの松竹座とか南座のチラシを見ると、狂言入れ替えいたしませんと書いてありますものね。ということは、していた時代が長かったからということですよね。
米田 そうそう。お客さんも見ることのできる時間帯があるから、両方見たい場合はやっぱり入れ替えてもらわないとということで。
和田 あれ便利ですよね。東京はあれがないので。
神山 東京は俳優や、義太夫、地方(じかた。演奏家)の掛け持ちが多いからだと思うな。他の劇場と掛け持ちしてると、昼夜入れ替えができないでしょう。関西に較べて、東京はテレビとかも含めて芝居の掛け持ちをする俳優が多かったんじゃないかな。とくに歌舞伎の場合、東京だと同時に三座上演してたりするから、昼夜入れ替えをすると掛け持ちできなくなっちゃう。
和田 入れ替えをするときというのは、前半と後半で昼夜が逆になるので、小屋の中の芝居をやっている雰囲気も変わりますか。
米田 いや、それは全然変わらないと思います。
和田 変わらないですか。つまり昼間に来やすい人と、夜だったら二回来られる人というのはいらっしゃるんでしょうね。
米田 いらっしゃいます。最近はそんな二回見る人は少ないですけどね。藤山時代は切符が、今のジャニーズじゃないけど早めに売れましたものね。それから[団体の]貸し切りがたくさん取れました。最近は貸し切りも少なくなりました。だからそういう藤山人気で昼夜見るという人はいましたし、料金も今みたいにそんなに高くはなかったんじゃないかなと思いますね。
神山 松竹新喜劇は演舞場のときと、こちらのときと、お客さんの反応って違うと思います?
米田 違いますね。
神山 どういうところですかね。
米田 京都で笑わなかったのが、演舞場でどっと笑いが来たという、そんなこともありますね。藤山さんの場合はどこでも反応がいいんですけど、やっぱり南座が一番シビアかな、シビアというか。やっぱり演舞場、御園座というのは、たまに行くからかも分かりませんけど、笑いが大きいですね。
神山 大きいですね。そう、南座がシビアですかね。
米田 南座はわりと。だけど藤山さんの場合は文句なしに笑いますけどね。

寛美の「教訓」癖について


神山 新喜劇の芝居というと、ちょっと教訓的なところがありますでしょう。天外さんよりも十吾さんの方に強いのかな。それになんといっても寛美さんですね。米田さんはあの点をどういうふうにお考えになります? いいところでもあるし、説教くさくなるし。
米田 説教調がね、藤山さんの場合はね。あれはアドリブなんです。台本じゃなくて。
神山 そうなんですか。あれ、アドリブなんですか。
米田 アドリブです。天外先生はないですけど、十吾先生も、僕の知る限りにおいてはそんなに言うほど説教みたいなのはしてないと思いますが。
日比野 五郎劇でも、曾我廼家五郎が教訓を垂れるところについては賛否両論でした。
神山 教訓をお客さんが喜ぶというところもありますから、必ずしもいけないとは言えないんですけどね。
米田 藤山さんの場合、どう言うのか、エロキューションというのか、雄弁術みたいのがあって、台詞のヤマを上げたり、強調したりすると、なんとなくうなづいてしまう。こうやって、こうやって、お前、どうするのや、そうするのが、人の、人の道というもんやないのか!と言ったら。
日比野 拍手が来ますからね。
米田 ええ。でも、何言っているのか分からないときもよくある(笑)。
神山 そうそう(笑)。それはある。
和田 香川登志緒さんが書いていらしたのは、中幕の狂言で、しっかりしたものをやって教訓も語ると。だけどその後で追い出し[三番目の狂言]が付くんだから、バランスは取れているだと書いていらして。教訓で客を帰すわけじゃないんだから、それを教訓、教訓と言う人はその後の追い出しを知らないんだと言って。最後まで見ると、メインディッシュの後に理屈抜きで笑って帰るから、いいんだと香川さんは仰っている。

千葉蝶三朗のアドリブ


日比野 録画でしか知らないので、千葉蝶三朗のアドリブについて教えてください。『愚兄愚弟』での藤山さんとのやりとり、あれは本当にアドリブなんですよね。アドリブのように見える台詞を言っているわけではないんですよね。
米田 そうですね。
和田 そうすると、日によって千葉さんの場合は違ってきます?
米田 そんなにがらっとは変わらないけど、やりとりで違う言葉が出てきたら、違う言葉で返さなきゃいけないところが出てくる。
日比野 あれは稽古の段階である程度形はできていて、千葉さんとのアドリブはこんな感じで進むというのをあらかじめお互いわかっているのか。それとも、本番になるといきなりあれが出てくるという感じですか。
米田 例えば『愚兄愚弟』が新作で出たとしますよね。舞台でどうなるか分からないじゃないですか。喜劇というのは台詞を新劇みたいにきっちり覚えているわけではないから、筋で覚えている。「筋右衛門」と言うんですけどね。筋で覚えて、こうなってこうなって、ここで千葉蝶三朗さんと藤山さんのやりとりがあるということになると、筋の上にのっとったやりとりをするわけです。そのうえで全然違う言葉で返していったり、違う言葉で突っ込んでいったりしたら、違う言葉が返ってくるということで、そこに俄的な、漫才的なやりとりが出てくるわけです。
日比野 ある程度テンションを高くしないとああいうのは出てこないと思うんですけれども、それは千葉蝶と寛美さんの場合は稽古ではなく……。
米田 そんなのは稽古してできるものじゃないから(笑)。
日比野 じゃあ、もう本当に本番にならないとあれは見られないと。
米田 例えば、芝居の筋ではここで愚兄の兄貴が金魚屋を何やらかんやらでやり込めるような状況を設定していたとしても、そのやり込める仕方が、それによってやり込められ方もやり込める形も変われば、また受け答えも変わってくるということで。
日比野 それは稽古のときには、じゃあ、ここは「やり込める」なということをいうだけで、会話の内容は確認しない。
米田 そうです、ざっと流す程度ですよね。
日比野 流す程度なんですね。なるほど。
米田 だから脚本も、平戸さんとか天外先生のホンはそこまで詳しく書き込んでいない。ここをやると、これだけやるだろうという当て込みみたいな。
日比野 印刷されている台本とは違うわけですね。
米田 違う個所が時たまあります。筋は台本に沿ってやっていますけど。そういう間とか、台詞の言葉とかが、千葉蝶三朗さんとか藤山さんであれば、その間が面白いからお客さんが爆笑になってしまうわけですね。間の取り方というかな。
日比野 天才ですよね。舞台を降りるとあの感じなんですか。
米田 千葉蝶三朗さんの場合は、どういうのかな、舞台を引っ込むと、そんなに喋らなく、大人っぽい感じというのか、上手く表現できませんが。
日比野 じゃあ、舞台のままの天然ボケって感じではなかったんですね。
米田 ええ全然。私ごとですが、入りたての頃、舞台裏で千葉蝶さんに「なんでもええから本書いてもっておいで、わしがなんとかしたるから」と云われたことがあります。凄い自信家やと当時は驚きましたが、新入りにそんな有り難い言葉をかけてくれるて、飛び上がるほど嬉しかった思い出があります。

藤山寛美の技巧


神山 寛美さんはあの無言のところがうまかったな。よかったですね。『花ざくろ』の、奔放な妻に振り回される役どころで、いじけて箒で掃くところあるじゃないですか。あれ、掃いているだけなんですけどね。あれがものすごくおかしいの、それと幕切れの、ほら、番傘をさっと広げるでしょう。あそこの間ね。誰だってあの人のことを天才と言うから、僕なんかが言ってもしょうがないけど。ほうきで掃くところとか、番傘を広げるだけで、そのときの主人公の気持ちが分かるんですよね。面白いだけじゃなくて、他の役者とどこが違うのか、僕は何度も見てないから分かんないんだけど、番傘の広げ方が、普通に広げているだけだと思うんですけどね。ぱっとやるんですけどね、あれは。こう。
米田 ぱっとこう広げてね。
神山 それで気持ちが分かる。
和田 僕は見たことないんですけど、芝居の中で、自分で拍子木を打つ、柝頭を打つ。
米田 『影にいる男』という芝居で、別名を『柝頭にすべてを』とも、タイトルが二つあるんですけど。これは柝頭を重ねて片手で持って、前後にこうですね、タタタタタタタタタタって、だんだん速くなっていく。刻みみたいな。
和田 片手で打つんですか。
米田 片手で二つを乗せて
和田 乗せて。
米田 両端を波うつように交互に打ち合わせていくんです。こう、タタタタタタタッと。
和田 あ、そうなんですか。
米田 そんなに難しくない。
神山 歌舞伎の作者さんにもやる人はいましたよ。
和田 そうですか。
神山 何とか打ちというのやるんですよ、これ。それは片手で。幕切れの。
和田 それ、どういうときに使うんですか、片手で打つというのは。
神山 あれは僕も見たことありますよ、仕事で。片手で打つの。関西の狂言方の亡くなった堀本太朗さんだと記憶してますが。
和田 それ、芝居じゃなくて、陰でですよね。
神山 陰で。狂言方がやるんですけどね。
日比野 それを寛美さんがやったというのは、どこでそういうテクニックを覚えたのか。
和田 すごいですね。
神山 やっぱりあの人も子役からね。
米田 柝頭も自分のものを持っていますしね。
神山 持っていたんだ。そうですか。
日比野 今でも、新喜劇は柝頭と、附けなんかが入る時は、附けは生ですか。
米田 はい。
日比野 附け打ちが。
米田 舞台監督がやりますけどね。歌舞伎ほど専門じゃないけど、必要なときはやります。

松竹新喜劇の異色作


和田 私は放送の台本を書いたりするのが本業なんですけど、この間、久保田万太郎の『釣堀にて』というのをラジオドラマに脚色をしまして、そのときに資料室で上演史を調べていたんですね。そうしたら渋谷天外さんが、久保田万太郎の存命中に許可を得て松竹新喜劇でやっているんですね。
米田 やっています。
和田 その上演ってご存じですか。
米田 それは僕が入る前で、記録で知っています。『釣り堀にて』、昭和三十七年[一九六二]十一月中座。
和田 当時の筋書[パンフレット]を見ると天外さんが大阪に書き直しているらしいんですよ。当然、こっちの言葉と大阪の釣り堀ということだと思うんですけどね。だからこれなんか本当に「文芸志向」ですよね。
米田 そうですね、この昭和三十年代は外部作家の脚本や翻訳劇もとりいれたりして。
日比野 チェーホフの『熊』とか。
米田 チェーホフとかボーマルシェ[『フィガロの結婚』の翻案の『笛五郎の婚礼』一九五八年十月・十一月大阪中座]みたいなのもやっていましたから。
和田 『釣堀にて』なんかは、出演者はほぼ二人だし、しゃべり方も静かにしゃべっているだけだから、どんな感じだったんだろうなと思うんですけどね。
米田 天外先生はいろいろなことを試行錯誤でやりたかったんじゃないですか。だから翻訳物もやったり、有名な作家、文学者、文学作品を脚色したりとか、とにかくいろいろなことをやって、最終的に天外先生の天外文芸路線の作品の形が作られたということがありますね。
和田 小林信彦さんが『植木等と藤山寛美』という本を書いていて、アメリカのニール・サイモンの『サンシャイン・ボーイズ』という、喧嘩別れした漫才師[コメディ・チーム]が何十年後かに再会するというストーリーを聞かせたら、寛美さんがすごく興味を持って。二人が喧嘩別れして、いまだに腹立っているんだけど息が合っちゃうというのは面白いなと。そのときに小林さんが書いているのが、ただし松竹新喜劇でやるとなると座員がたくさんいるので、みんなが出るふうに台本を書き直さなきゃならないかなというのをおっしゃっていた、と。やっぱりそういうものですか。
米田 そうですね。三本立てで、例えば二人芝居なんていうのはたぶんしなかったと思いますね。松竹の中川さんなんかは藤山さんにシェークスピアなんかを薦めたりするんだけど、とてもじゃないけど手を出さなかったですね。
神山 中川芳三さんでしょう。
米田 ええ。「こんなの先生でやったら面白いと思いますから」と言っても、何か抵抗を示しましたね。
日比野 『釣堀にて』は本公演だったんですか。
和田 そうです。
日比野 二人芝居というのはごくまれでしょうね。
神山 やっぱり一座が大きくなると役者を全部使わなきゃならないから難しいですよね。歌舞伎でさえもそうなんだからね。劇団だと全員顔を出さなければ。『壺坂』とか『鳴神』だけだと大変ですよ、後のお芝居でいっぱい人を出して立てないと。
米田 やっぱり俄の伝統があるので、お芝居するときに台詞通りきっちり言うんじゃなくて、相手との会話の中でこう、台詞が出てきたりとか芝居を膨らませたりするという、そういう楽しみ、お客さんに喜んでもらうという側面もあるから、二人芝居できっちりした台詞の渡りというのはたぶん、藤山さんはとてもじゃないけどしないと思う。また、台詞を覚えて翻訳劇みたいなことも。

東京ヴォードヴィルショーを総見


和田 また話が飛んじゃうんですけど、七十年代、東京ヴォードヴィルショーがすごく人気が出たんときに、寛美さんが見てみたいとおっしゃって……。
米田 中座でやりました。見ました、僕も。
和田 そうですか。それはどういう形でやったんですか?
米田 香川先生が中に入ったんです。藤山さんに話を持ってきて、藤山さんってそういう演劇人の心意気というのが好きだから、うちでやったらどうだということでやることになったんですよ。
和田 うちでやるというのは、どういうことですか。
米田 中座でやったらと。
和田 中座で。
米田 やって、我々が観客になったんです。
和田 座員が観客なんですね。
米田 藤山さんももちろん見て。
和田 ということは、一般興行ではなくということですか。
米田 そうです。
和田 松竹新喜劇みんなで総見しましょうみたいな。
米田 そうなんです。それはもうB作さんなんか緊張していたという話だけど(笑)。
日比野 もちろんお金もちゃんと出したわけですよね。
米田 出ていると思いますね。
日比野 それはあれですか、松竹のお金じゃなくてご自身が。
和田 おそらく寛美さんが出しているっぽいですよね。
米田 それはもうポケットマネーで出しているかもわからないし。中座からも出演料みたいなものが出ていたかもわからない。その辺は僕も詳しい事は分かりませんけどね。ただ、もう佐藤B作さんは、こんなところに出して頂いて、大御所に見てもらって、と大いに感激して、涙流して喜んでいたという話ですけど。
和田 例えば、東京ヴォードヴィルショーなんかを見るときに、寛美さんはここから学ぶべきものがあるなみたいな反応なんですか?
米田 まあ、そういう気持ちはあったかも分からない。若い子の芝居はどんなんだろうという。学ぶとかそういうのはどうなのか分からないけど、面白いところあったらちょっと取り入れたりとか、こんな芝居の仕口もあるのかなというような、そういう向学心、勉学心は強くありましたからね。

藤山寛美の主役体質


神山 藤山さんはあれですか、ぼくはほとんど主役しか覚えてないんだけど、脇役ではかえって難しい人でしたかね。
米田 いえ、脇で支えてやるような芝居も結構ありますけど、やっぱり自分が目立っちゃうような。
神山 目立っちゃう(笑)。
米田 さっきの柝頭も結局あれは脇役なんですよ、『影にいる男』は。
神山 脇で取っちゃうんですか。
米田 「番頭の高松」というのが、あの芝居の本当の主役なんですよ。狂言方というのは女に振られる脇の役になるんだけど、それが藤山さんだとそれがシンの芝居になってしまう、その辺が藤山さんのすごさみたいなところになるんですけど。
和田 桂春団治の丁稚役をなさったときって、おいくつぐらいだったんでしょうね。
米田 昭和四年生まれで昭和二十六年初演だったから、二十歳ちょっとくらい。
和田 そうか。今の歌舞伎と一緒で、本当の小僧じゃないんだけど、二十代だけど丁稚役だった。
米田 だって『大阪ぎらい物語』では船場のぼんぼん役を四十、五十代でやっていましたね。
和田 長く見ている人の話だと、寛美さんが春團治になったときよりも、春團治は天外さんで、寛美が若手でいたバランスのときの方が芝居としては面白かったとおっしゃって。
米田 そういうお方もあって、藤山の春団治もまた、素晴らしいと思うお方もいる、それが芝居の面白さといえるかも。

松竹新喜劇と新国劇


神山 新国劇の辰巳柳太郎・島田正吾が新喜劇に客演したのは……。
米田 昭和六十年一月・二月の大阪・中座で藤山寛美舞台生活満五十年と銘打った公演に出ていただいたのが最初です。一月が辰巳さん、二月が島田さん。そのあと、六月に名古屋・御園座で同じく藤山寛美芸歴満五十年記念と銘打って『上州土産百両首』を島田さんと演じています。
日比野 あの芝居は[一九三三年九月東京劇場での]初演が[初代中村]吉右衛門と[六代目尾上]菊五郎ですね。作者が川村花菱で。
和田 だとすると演目を選んだ流れもわかりますね。新国劇からお招きするにはいいバランスの出し物だから。
米田 ホンはちょっと変えていますけどね。新喜劇の『上州土産』というのは、昭和四十年代に秀哉さんと藤山さんでやっていて[一九七一年六月中座]、これも平戸さん脚色なんですけど、三本立ての一本ということで原作よりコンパクトな内容になっています。[あとの二本は檀上茂『雨と女と野郎たち』・館直志『祇園夜話』]。
和田 そうか、ちょっと圧縮して。
米田 圧縮してやっています。五十年記念の、島田正吾先生を呼んだときには、やっぱり島田正吾先生用に平戸さんが書き直してやりました。
和田 あの芝居は、片方がちょっと頼りない男で、片方がわりとしゃきっとした人間ですよね。僕は歌舞伎で見たんですが、そのときは関東弁だったんですけど、松竹新喜劇でやるときは言葉はどうするんですか。
米田 大阪弁です。
和田 大阪弁ですか。二人とも大阪弁で?
米田 はい、舞台を大阪に設定しまして、牙次郎役の藤山さんと正太郎役の小島秀哉[五十年記念の時は曾我廼家文童]さんとが幼なじみの間柄ということになっています。 。
和田 じゃあ、大阪の世界に合うようになっているわけですかね。
米田 ええ。
和田 『上州土産』と言いつつも作品世界は西ということですね。
米田 秀哉さん演じる正太郎が上州まで流れて行って、凶状持ちになって大阪へ戻ってくるということで。
神山 辰巳さんは何に出たんですか、そのとき。辰巳と寛美って合わないような気がするな。
米田 辰巳さんは一月の中座公演のみで、『親不知子不知』『幸助餅』に出ています。
神山 『幸助餅』に出たんですか。
日比野 辰巳さんが出た『幸助餅』はDVDにもなっていますね。
米田 はい。(上演資料を見て)御園座公演の時は榎本慈民作の八州遊挟伝』というのも上演してます。
神山 外部の人が出たのでは、高田浩吉がよかったな。
米田 高田浩吉さんは、『螢ばやし』と『染分けのれん』かな、演舞場で出ていただきましたね。
神山 そう。高田浩吉はどうでしたか?
米田 やはり往年の映画スターのオーラがあって、登場するときに「土手の柳は風まかせ」、そう歌いながら出てくるとか、いろいろ配慮して出ていただきましたけど。その時はまた河原崎國太郎さんも特別出演で素敵な方でしたし、他参加された方では香川桂子さんがよかったですね。
神山 香川桂子はいいですよね。新国劇では何といってももう。
米田 新喜劇に来てもらって、御寮さん役をやってもらっても、様になる、なかなか芸達者な方で。

継承された『幸助餅』


和田 『幸助餅』は松竹新喜劇ではいつごろからされているんですか。
米田 以前、曾我廼家劇を見直すということで曾我廼家劇の作品を昼夜三本ずつやったんですよ。そのときの一つの演目として、昭和五十年かな、中座でやっています。そのあと演舞場でもやりました。[一九七五年一月大阪・中座、同年八月新橋演舞場]
和田 ということは曾我廼家劇から松竹新喜劇に継承された演目ということになりますね。
米田 ええ。『汽車に注意すべし』『へちまの花』『郭の仇討』『喧嘩売買』『幸助餅』『唐木の看板』と、みんな曾我廼家十郎と五郎の作品なんです。
和田 面白いことに、今の落語でやる『幸助餅』には台本が二種類あるんですよ。関取雷五良吉がお客にもらった祝儀だからびた一文返さないと言いますでしょう。それで主人公の大黒屋幸助も分かったと言って餅菓子屋さんを開く。第一の型はそれから色々あって、店も何とか繁盛しました。商売をはじめて二年後だか三年後に相撲取りがまたやって来て、実はこれこれこうだったと言って商いに陰ながら力を添えていたと告白し、ハッピーエンドになるというのと。
 もう一つの型は、「びた一文返しません」、主人公も「縁切ります」と言ったあと、主人公がなんとか金を算段して餅菓子屋を開くという店開きの日に相撲取りが来るというやり方。東京ではこの型だと思うんです。松竹新喜劇だと何年かたった後に来る方ですよね?
米田 いろいろな苦労をしてやっと一軒の店が持てて、その店を開いたときに来るんです。
和田 だから店を持てるまでの時間がそこそこ経っている。
米田 商売を大きくするまで苦労した時間がたっているわけです。
和田 そうですよね。だからそれ、たぶんそのやり方でやっている人は、松竹新喜劇を取り入れている感じがするんですよ、落語に。
米田 東京は違うんですか。
和田 東京は、二人が喧嘩をした数週間後ぐらいにもう再会しちゃうんですよ。一文無しになるんだけど、何とか算段して店を開くことになるんですね、お金借りて。そうすると初日の日に相撲取りが来る。お前、ついこの間、縁を切ったのに何だと言うと、相撲取りが、おれからの開店祝いだということで、先日の金をすべて使って仕入れた餅米や小豆を俵でどっさり積み上げるんですね。つまり開店に花を添えたみたいな。つい数週間後の出来事になっている。
米田 時間の経過がちょっと違うんですね。
和田 違うんですね。
米田 これも、もともとは曾我廼家五郎さんの『幸助餅』なんですよね。それを新喜劇流に二場にまとめてやったんです。五郎の原作は五場あるんです。[五代目]中村翫雀[現・四代目中村鴈治郎]さんが[大黒屋幸助で]何年か前にやりはったのはその原作通りで[二〇〇五年一月大阪・松竹座]。新喜劇は三本立てだから、場数も少なくということで、二場にまとめた芝居になっているんです。
和田 二場というと最初のところがもう新町の廓の座敷ところで?
米田 第一場が新町の廓の北門口となってます。五郎さんの原作の方では、新町廓三ツ扇屋表口、同大門口、大黒屋幸助詫居、日本橋増屋座敷、大黒屋幸助餅店先、と五場になっていまして、新喜劇の場合は、その新町廓の北門から、大黒屋幸助の新しく開店祝いした餅屋へと移ります。
和田 それは二場目ってことですね。
米田 二場でまとめてあるんです。
和田 そうなんですか。ありがとうございました。
米田 落語とどっちが先なのかな。五郎さんより前、江戸時代からあったんですかね。
日比野 『幸助餅』はいちおう五郎作ということになっていますが、五郎は落語種も多いですからね。しかも『死神』を舞台化した『幽燈』のように、落語種だと断らないで上演することも多々あった。
和田 脚色したのかな。そうかもしれませんね。
神山 ああいう愛想尽かしの話は、歌舞伎にもよくありますしね。

北條秀司作品


神山 最近は北條秀司さんのも何本かなさっていますよね。北條さんはやっぱりうるさかったんですか。
米田 僕は、北條先生とは全然接触がないですけど。
神山 全然接触がなかった、それは幸せですね。
米田 ただ、三年前松竹新喜劇の演目で『堀江川』を推薦して、演出もさせてもらって、これはやりがいもあって、結果評判もよく、印象に残った芝居です。[二〇一三年十一月大阪・松竹座]
神山 『堀江川』よかったです、あれはね。あれと同じ話で女性版になっているのをご存じですか。
米田 いや、知らないです。
神山 そういうホンがあって(『花魁草』)、歌舞伎で[九代目中村]福助がやりました[二〇一一年八月新橋演舞場]。ほとんど設定が同じで。どっちが先なのかな。『堀江川』が先なのかな。[『堀江川』初演は一九六二年六月大阪・中座]
米田 北條先生が『堀江川』を歌舞伎版にしたのかな。
神山 『花魁草』は初演が一九八一年[二月歌舞伎座]だから、順序としてはそうかもしれない。

衣裳選び


神山 衣裳はアリモノでなさっていますか?
米田 場合によりけりですね。
神山 現代劇の場合なんかは、まるっきりアリモノってわけにはいかないですよね。
米田 ええ。松竹衣裳にある中から選びますが、相応しいものがない場合は買ったりもします。特に主役の方なんかは、デパートに一緒に見に行って買ったりすることもあります。まげ物の場合でも、やっぱり新作とか新しい役だったら、サラで作りますよね。歌舞伎と一緒で、主役級の人の場合なども、新たに衣裳を作ったりすることもありますね。
神山 役者さんが自分で持って来て後で損料払うなんて、そういうのは。
米田 たまにあります。どうしても持ってきた衣裳が納得のいかないものであれば、それなら私の使うからということで。

平成の「新生松竹新喜劇」と「山椒の会」


神山 新生松竹新喜劇という名称は平成三年[一九九一年]からですか。
米田 はい。
神山 今はもう「新生」って使っていないでしょう。
米田 取りました。
神山 新生というのは松竹の方の意向だったんですか。
米田 そうですね。
日比野 あれはどういう、どういう意味があったのでしょう?
米田 新生という言葉は「新生何とか銀行」とかあるように、まあよく使われる言葉ですよね。「新生新派」というのもありましたね。松竹新喜劇が[藤山寛美以降の]新しい役者で生まれ変わったから「新生」という。そして新生という時期もすぎて、再び松竹新喜劇というもとの名前に戻った。
神山 米田さんがなさった「山椒の会」というのはそのころでしたっけ。
米田 「山椒の会」は平成十三年に発足しました。そのころは松竹新喜劇の上演回数が少なくて、喜劇の好きな若手のために何か動かないとだめだなと思って、そういう会を拵えました。原点に帰って曾我廼家劇を再度見つめなおそうということで五郎さんのホン、十郎さんはちょっとホンが少ないけど、主に五郎さんのホンの中からいいのを抜粋して、新たにそこに明かりを当てようかなということでやって。九回ぐらい続いたんですけどね。ただ、個人でやっているので、僕がお金も集めないといけないし。
神山 それはそうでしょうね。
米田 お金はないし借金しながら、企業からの広告なんか入れたりしましたけど、とてもじゃないけどしんどくなって、しんどいというよりも続かなくなって。それにワッハ上方もなくなっちゃったから、それまでワッハが舞台だったが、上演する場がなくなったので。
神山 山椒の会というネーミングは、やっぱり山椒は小粒で。
米田 ぴりりと笑い・・・と洒落て、同時に、五郎、十郎、十吾、これを曾我廼家喜劇の「三笑人」として、山椒の会としました。
神山 ああ、なるほど。
米田 僕の趣味的な感じでやったけど。
日比野 そのとき脚本は松竹にあるものをご使用になりました?
米田 松竹にあるより、五郎の全集ですね。ないのはちょっと借りたりもしましたけど、たいがい全集の中から選んで。

曾我廼家五郎のレパートリー


日比野 そうなんですね。この質問をしたのは、五郎が亡くなったときに脚本を松竹が全部没収したということを、『悲劇喜劇』の対談で生前の曾我廼家明蝶が語っていて。実際にどんなことが起きたのか知りたかったんです[曾我廼家明蝶「上方喜劇・五郎劇のこと」『悲劇喜劇』第三十八巻第一号(一九八五年一月)]
米田 没収ってどういうことだろう?
日比野 死の床にあった五郎への見舞金だと言って、松竹が奧さんに二十万円を渡した、それが明蝶によれば「借金になった——五郎の全作品の押えになった」というんですね。その後に「奧さんの知っている弁護士が入って、金を返して取り戻しました」とつけ加えていますが。五郎の二種類の全集[『曾我廼家五郎喜劇全集』(大鐙閣、一九二二『曾我廼家五郎全集』(アルス、一九三〇〜一九三四)]に収録されていないもの、とくに『全集』後に初演されたものの脚本はそのときに松竹が持っていってしまったのではないかと。
米田 ぺらぺらの台本は、今でもありますけど。
日比野 そうですか。でもよく考えてみればその時かどうか分からないですよね。上演台本はもともと松竹にあってもおかしくないから。愚問でした。著作権料はその後も遺族に払っていらしたんですかね。
米田 著作権の保護期間は作者の死後五十年ですよね。五郎は昭和二十三年[一九四八年]没だから五十年後までだったら昭和七十三年[一九九八年]ぐらいになるんですか。
日比野 そうです。
米田 もちろんそれまでは払っていたと思いますよ。
和田 今、先ほどの神山さんの歌手芝居の話もそうですし、例えば志村けんの一座なんかが新喜劇の台本を使う。
米田 やっていますね。
和田 あれなんかはやっぱり作者の遺族か松竹かに、これこれを上演したいんですけどということで。
米田 もちろん許可を求めてきまして、松竹の牧原[広幸]さんかどなたが許可をするんですけど。もちろん作者にも。茂林寺[文福、曾我廼家十吾の筆名]作品だったら茂林寺さんサイドに断りを入れてやっています。
和田 そういう外部上演を何か御覧になる機会はございます?
米田 WOWOWでやっていましたけどね。ダチョウ倶楽部が出ていたかな。[志村けん主催の「志村魂」公演は二〇〇六年から『一姫二太郎三かぼちゃ』『人生双六』『初午の日に』『先ず健康』(原題は『先づ健康』)を上演、ダチョウ倶楽部はいずれにも出演]。その辺に目を付けたのは、志村さんも自分たちの体質に合った芝居で、うん、これならというような感じを持ったんでしょうね。何か喜劇性があって、人情味があってというようなところで。『初午の日に』もやっているんですよね。あれも人情芝居なんですけど。松竹新喜劇では、藤山さんの時代になって一度しかやってません。でもいい芝居です。山椒の会でも原題の「地蔵盆」というタイトルで上演しました。藤山寛美十八番のDVDが出たから目をつける人が多くなったというのもあるかもしれない。
和田 そうか。DVDで学んでいるということなのか。
米田 まあ、それも良しあしですかね(笑)。
日比野 でも、そうすることでレパートリーとしては残る。
米田 それだけ広まるというのはいいのかも分からないけど。
和田 さっきの大衆演劇の人なんかはそういうので見て、言ってしまえば勝手にやっているという部分があるのかも。
米田 そうですね。五郎さんの著作権も没後六十年以上経って消えてしまったんで、「山椒の会」でも脚本料は払ってないですけれど、五郎さんの娘さんという方が阿倍野区に住んではりまして、とても親しくさせてもらって、上演の度にお断りは入れていたんですけれども。お亡くなりにならはって。
日比野 そうですね。

個性的な役者たち


日比野 ここからは、アトランダムに昔の役者について伺います。長谷川稔さんの印象は?
米田 長谷川稔さんは天外先生の一のお弟子さんで、ずっと付いてはりました。脇にまわって独特な味のあるお芝居をする役者さんで、先ほどの「影にいる男」で番頭高松をやったりもしてはりました。
日比野 舞台を降りるとどんな方でした?
米田 親しみ安い、気さくなほんとにやさしい方でした。
日比野 当時はやっぱり、寛美さんはすごく偉いという感じでいて、あとそのほかの人たちの「階級」というのはあんまりなかったんですか。
米田 藤山さんが座長としたら、ナンバー二、ナンバー三というのは秀哉さんとか慶四郎さん、千葉蝶三朗さん、女優では酒井光子さんに曾我廼家鶴蝶さんに滝見すが子さん、などと連名上の序列的なものはありますが、
日比野 その人たちは、こういう言い方はあれかもしれないけど、それなりに威張っていらした。
米田 いや、全然威張っていません。 
日比野 そんなことはないんですね。
米田 皆気さくな方ばかりです。
神山 幹部って使い方をしていましたよね。幹部に昇進とか、ありましたよね。
米田 ありましたね、中川雅夫さん、月城小夜子さんとか。
神山 幹部ですよね。あれはポスターに出る、写真が出るということですね。
米田 そうですね。でも、立場は幹部でも、それは対外的なものであって、劇団内では、家族的なつながりがありましたね。藤山さんも昔は長谷川稔さんより下のランクで、長谷川さんは先輩だったから、藤山さんが座長になっても、長谷川さんのことを兄ちゃん、兄ちゃんと呼んだりとか、秀哉さんの後輩の役者は秀哉の兄貴とよんだり、女優さんには年配の人を姉ちゃんとよんだりと、要するに親しみをこめて呼びあっていました。
日比野 あまり封建主義的ではなかった。
米田 そうです。だからそういう序列というのはありますが、楽屋内では、みな戦友であり、家族なのです。
日比野 そうなんですね。伝説的に語られる、毎回、序列が替わっていて、全部それを寛美さんが差配するというようなことを聞くと、役者さん本人もいつの間にかそういう気になっちゃうのかなという気もしないでもなかったけれども、そんなことはなかった。
米田 それはないです。いい役が付くような序列になるだけで。皆人間的なことをしているから、お互い、腹の底は知っているような関係だから。親しく、家族的。
日比野 いわゆる歌舞伎でいうところの三階さんに対するという、そういう上下関係では全然なかった。
米田 そういうのは全然ないですね。
日比野 ちなみに男女の関係みたいなのはどんな感じでした?
米田 劇団員同士で、恋愛、結婚する人は何人かいましたけど。
日比野 吉本新喜劇では劇団内恋愛禁止だったそうですが、そういうのもなかった。
米田 そういうのは、ほんまを言うたら藤山さんは嫌がるんですよ。ということは、結婚したら女優さんがいなくなるから。いい女優さんが結婚で取られたら困るという。
神山 新国劇なんかそうですよね。緒形拳と結婚した高倉典江なんかも、辞めちゃったので。
米田 だけど、好き同士なら、これはしょうがないですね。
日比野 喜多康樹さんは「すいと・ほーむ」からいらっしゃったんでしたっけ。
米田 そうそう。
日比野 最後の方はよくおかま役というか、そういうのをやっていたけど、実際は全然そういう人ではなかったですかね。
米田 奥さんもいらっしゃいましたしね。ちょっと女形みたいなタイプでしたけど。
日比野 役柄としてずっとやっていたということですね。
米田 ええ。
日比野 どういう方でした。ちょっと神経質そうな感じの印象がありますが。
米田 そう、デリケートはデリケートだけど、さっき言ったようにみんな気さくで、平戸さんと親しかったせいもあって、よく文芸部の部屋へきては喋っていきはりました。僕らも後輩ながら、からかい半分の冗談を言っては、こら、何や、大人からこうたら寝小便するぞとか、そんな冗談で返してきたりして。今思えば懐かしい光景です。
日比野 そういう劇団内の親しげな話を聞くと余計に鶴蝶・秀哉退団事件というのは衝撃的だったのかなという気もしますね。
米田 そうですね。鶴蝶さんもしっかりした人だったから、やっぱり自分のポリシーみたいなものを持っていたと思いますけどね。
神山 それと鶴蝶さんは東宝でもやっていけるという自信があったからでしょう、きっとね。
米田 そうですね。
神山 東宝からも引き抜きの話があったのかどうか、そこまではもちろん知らないですけど。
日比野 八木五文楽(一九一九——二〇一〇)さんは。
米田 この人はすごい人ですね(笑)。
日比野 すごい人というのは?
米田 この人のお父さんはご存じです? 宮村五貞楽さんという役者で、関西で一座を率いていた。[新派出身の田宮貞楽が作った喜劇団・喜楽会から宮本(初代)五貞楽が貞楽会をおこし、二代目五貞楽となる宮村五貞楽があとを継いだ]五文楽さんはこの前亡くなられましたが、金田龍之介さんと親戚関係だと聞いています。
日比野 そうなんですか。
神山 ああ、そうですか。それは全然知らなかった。
米田 子役からやってはって、戦争に行きはって憲兵になりはったんですよ。
日比野 ああ、そうなんですか。
米田 憲兵戻りの喜劇役者なんです。体型がずんぐりむっくりで、これはもう喜劇に大事な要素なので。しゃべり口もはっきりしていて、声もよく通るし、子供から喜劇を体に染み込ませているから、新喜劇では貴重な喜劇役者ですよね。
日比野 高田次郎さんはもちろん今まだ活躍されているわけですけれども、米田先生がいらしたときには?
米田 まだ入っていません。入団は昭和五十七年[一九八二]です。
日比野 どういうきっかけだったんですかね。
米田 藤山さんも秀哉さんのいない後、そういう立場の役者さんを欲しがっていて、高田さんも、松竹新喜劇にという思いもあって、相思相愛で入団という運びになったんでしょうか。
日比野 高田さんが最初にお入りになったとき、やっぱり芝居の質は違ってました?
米田 いや、もともと曾我廼家十吾さんの家庭劇にいてはりましたし、花登筺さんの劇団にもおいでになって、芸達者な方で台詞もはっきりしてはるし、頭の回転もいいので、すぐに溶け込んで。
神山 やっぱり花登さんはものすごい忙しい印象でした? 
米田 花登さんは、僕が入ってからは新喜劇とは接点がほとんど無くて。一度台本を持って演舞場にお見えになったこともありましたけどね。平戸さんとは昔の脚本家仲間で親しかったんじゃないですかね。

松竹新喜劇との四十年


和田 先生は大学を出た後に松竹新喜劇の文芸部員になったのは、欠員ありみたいなことだったんですか。
米田 いえ、僕が松竹新喜劇に入りたいと思い、天外先生に手紙とか出したんです。そしたら、天外先生が平戸さんに任せるということになって、一回会いましょうかということで会って、ちょうど一人欠員があるから、それだったら入るかということで入らせてもらったんです。たまたまです。それまで文芸部は平戸さんともう一人か二人ぐらいしかいないんですけどね、部員は。
和田 三人目になって入られた?
米田 いや、一人辞めたから。
和田 あ、そこに入って二人目になったわけですね。
米田 そうです、たまたま欠員ができたから、入れたんです。
和田 いわゆる就職活動とは違いますね。それはやっぱり、大学四年生のタイミングのときに演舞場で見た新喜劇の芝居が、衝撃という感じだったんですか。
米田 そうですね、そういう生の芝居の雰囲気というものは強烈でしたね。昔から『泣き笑い劇場』などの大阪で中継されてるテレビ番組を見てまして、新喜劇の世界あは、われわれと同じ暮しの目線に立って、人情の機微を前向きに謳ってるんだなと、その息吹に心踊るような感がありました。ぼくだけではなしに、その中継を楽しんで見ている人も、きっと同じような新喜劇の人生賛歌を感じていたのではないでしょうかね。ぼくは文学部の演劇科に行ったので、卒論も松竹新喜劇だったんですよ。
日比野 そうお書きになっていました。
米田 それで、新橋演舞場での公演を、一度みておこうということで行って、今につながった。流れの中でそうなってしまったという感じですよね。これも運命なのかもしれないけど。
神山 僕の子供のころだと喜劇は関西の方が格が上で、品がいいって感じがしましたね。それはやっぱり演舞場のイメージでしょうね、劇場の格があったから。東京の喜劇というのは、東宝劇場でもやるけどコマ劇場でやるでしょう。こんなこと言っちゃいけないけど、やっぱりあの頃は、演舞場とコマ劇場は全然、新橋と新宿では土地の格も違うからね。それと、そのころ天外さんは品のいいものを書くという感じがあったんですよ。『演劇界』のような雑誌でも扱いが全然違うから。コマの芝居は冒頭のグラビアページには出ないけど、ちゃんと新喜劇は出るんですよ。そういう先入観もあったのかもしれませんけどね。
新喜劇に本当の悪人というのが出てくる芝居ってありますか。たいていは、悪人に見えるけれども、性根はそうではない、というはなしになっていると思うんですが。
米田 『愛の設計図』なんかもね。悪人でもどこか憎めないところがあるとか。
神山 よきことを考えてやっているんだと。徹頭徹尾の悪人というのは、あんまりないと考えてよろしいんでしょうかね。
米田 ええ、そんなに。そんなに悲惨な悪人を出したら喜劇が。
神山 喜劇にならないですもんね。
米田 丁稚が悪い番頭をやり込めるとか、その程度ですね。『上州土産百両首』は、辛うじてそういう殺人みたいな出来事がありますけど、あれは喜劇といういより、そういうお芝居だったから。
神山 あんまり殺し場のシーンって。
米田 ないです。殺しは絶対ないです。
神山 ないですね。印象に全然ないですよね。
米田 自殺しかけたのを助けるとか、そんな。
神山 助けるとか、失敗するとかね。失敗するのはしょっちゅうやっていますけど。
米田 「死なれへんかった」という。やっぱり人間賛歌ですよね。