福田善之聞き書き


取材日:二〇一五年十月二十九日
取材場所:駒込・未生文庫
取材:神山彰・日比野啓・井上優・鈴木理映子
立ち合い:佐々木治己
編集・構成:鈴木理映子
監修:福田善之・佐々木治己

イントロダクション


 長いこと、福田善之氏には複雑な思いを抱いていた。
 私的な感慨からはじめることをお許しいただきたい。一九八二年、中学三年生のとき『長い墓標の列』を読み、頭をガツンと殴られたようなショックを受けた。細部に至るまで丁寧に作り込まれたドラマと、深い思考を刻み込んだ台詞。唐十郎や野田秀樹の音楽的で美しい台詞に酔う一方で、文学座アトリエで別役実『太郎の屋根に雪降りつむ』を見て、ヨーロッパの重厚な近代劇の伝統に連なる日本人劇作家の系譜を朧げながら理解しつつあった私にとり、真山青果『元禄忠臣蔵』と『長い墓標の列』は、別役が感覚的に先鋭的であろうとするあまり捨ててしまった「分厚い」台詞の束を繰り出す芝居として、双璧をなすものになっていった。直後に読んだ木下順二『オットーと呼ばれる日本人』にも感激はしたが、福田や真山の台詞の行間から滲み出てくるような血の匂いがせず、迫力はあるものの、どこか作り物じみているな、と感じたことを懐かしく思い出す。
 菅孝之『作劇の時間構造』で激賞されていた『真田風雲録』も合わせて読んだ。それもあって、新劇の理念に共感することから出発しながらも、新劇を内側から変革しようとした人なのだ、とすっかり信じていた。そんな福田善之は現在何をやっているのだろう、と調べたら、新宿コマ劇場で榊原郁恵を宙乗りさせる『ピーターパン』を演出しているという。愚かで無知な当時の私は、すぐさま福田氏のことを軽蔑することに決めた。カネに転んだ人だ。志を持って演劇を変えていこうと考えていた人が、今ではカネのために商業演劇をやっている。
 このような私の思い込みは、十年以上続いたと思う。福田氏の経歴を知るにつれ、また新劇/商業演劇という対立の枠組み自体が一部の新劇人たちによって提唱され、検証されることなく日本演劇史のなかで用いられてきたことを理解するにつれ、それがいかに根拠のない不当な非難であったかを私は理解するようになった。同時に、私だけでなく、当時の新劇の評論家もまた、同じような批判を福田氏に浴びせてきたことを知った。
 社会のエリートを輩出する麻布高校に通いながらも、一旦は退学を考えるほど生活に困窮した家庭の出身だったこと。幼い頃から歌舞伎に親しみ、当時のインテリにとって基礎教養であった新劇は随分後になって、麻布高校の先輩や同級生経由で入ってきたこと。新劇人と世間では目されながら、歌舞伎や新派などの伝統芸能にも造詣が深く、一九五〇年代において歌舞伎やオペラ作品の演出や劇作にも手を染めるなど幅広い活動をしていた木下順二・岡倉士朗という二人の薫陶を受けたこと。こうした福田善之氏の半生については、単行本化が待ち望まれる『悲劇喜劇』の連載記事「みんな、素敵な人だった」(第五十五巻第七号[二〇〇六年七月]から第六十三巻第十号[二〇一〇年十月]まで全五十回)と、さらに入手が難しくなるが、月刊誌『調査報道』第三八六号(一九九一年五月)から連載が始まり、第三九六号(一九九二年三月)で「第一章終了をもってしばらく休載いたします」という但し書きで中途で終わってしまった自伝「私と芝居の道中双六」に詳しい。こうした生い立ちを知れば、福田氏が辿った道は至極当然なように思えるけれども、それは意外に知られていないように思える。
 つまりこういうことだ。福田氏にとり、新劇/商業演劇という対立の枠組みははじめからないものであり、演劇で「芝居が見たい」「人間が見たい」という一念は、幼い頃から八十六歳になる現在——福田氏は一九三一年生まれで、現役で劇作家・演出家として活動している数少ない人々の一人である——まで全く変わらない。ミュージカルに関心を抱き、音楽劇に携わってきたのも、歌舞伎のなかにあってヨーロッパの近代劇が排除した、音楽を伴って台詞が語られるという慣習に惹かれたからに他ならない。
 新劇、アングラ演劇、小劇場演劇、商業演劇、ミュージカル、歌舞伎、文楽、能狂言、新派、新国劇、大衆演劇……日本の演劇は多様なジャンルを抱えているが、福田善之氏が細分化されたジャンルの壁を超えて仕事をしてきたのは、以上のような理由による。今回お話をうかがって、有名・無名を問わないあらゆるジャンルの演劇関係者の名前が一緒に仕事をされてきた人々として挙がるのにまず驚いた。英語にはactors’ actor(俳優たちの俳優)という表現がある。世間的な知名度としてはそれほどではないけれども、一緒に仕事をした俳優たちからその力量ゆえに尊敬を集め、名だたる俳優とは別格の扱いをされる俳優のことだ。劇作家・福田善之の仕事は『長い墓標の列』一本だけでも歴史に残るし、他の多くの作品もそれに準じたものになるだろう。それに比べて演出家・福田善之の仕事は——そもそも商業演劇において作り手の名前は忘れ去られるということもあって——一般には目立たないものかも知れないが、directors’ directorとして演劇関係者の記憶には残っていくのだろう、お話を伺って、そんなことを考えた。(日比野啓)

木下順二の架けた橋


日比野 今回のインタビューは、日本の演劇史のなかでも「商業演劇」というものを見直そうという目的で行なわれています。先生は、新劇に限らず、商業演劇にも多く携わっていらっしゃいますので、非常に貴重な経験をされているのではないかと思います。
福田 商業演劇とは、というもの自体をあまりよく分かっていないんですけどね。そういうところで俺はこれから仕事をするんだぞというようなことで入っていったわけじゃないから。
日比野 商業演劇、新劇とアングラとの対立が先鋭化する前から、先生は演劇の仕事をされていますよね。
福田 そうでしたね。私の師匠の一人が木下順二[一九一四―二〇〇六。劇作家・評論家]さんで、今の学生に聞いたら知らないというので、そんな時代も来るとはと驚きました。昔は『夕鶴』が教科書に載っていましたから。
神山 先生は、東大で役者として『三年寝太郎』に出ておられます。その時にはもう、直接、木下さんをご存知だったということですか。
福田 その時には一応、面識はありました。一九、二十歳くらいの時です。
神山 東大では[俳優の]渡辺文雄(一九二九―二〇〇四)とも同級ですか。
福田 そう。ただあの人は旧制高校で芝居をやっていたから、すごくませていた。
日比野 先生も麻布の旧制ではないですか。
福田 四年生までは旧制でしたが、うちのおふくろが昭和二十一年[一九四六]にできたばかりの生活保護法の適用を受けるというので、とてもじゃないけど新制高校にはいけない、辞めるという話になった。結局は、麻布の二年先輩に河合武さんという人がいて、そのお宅に世話になりつつ学校に通ったんですが、そこからかなり、世界が変わってきたところはあります。ですからあるとき、井上ひさしさんに「僕はわりと近年まで、福田さんは何不自由ないうちに育ったと思ってた」と言われてびっくりしたことがあります。
神山 河合栄治郎事件[一九三八年、右翼・軍部の働きかけで、東京帝国大学経済学部教授で自由主義者の河合栄治郎によるファシズム批判の著作四冊が発禁になり、翌年経済学部教授会が河合の休職処分を決めた一連の事件]の河合家に下宿されていたんですね。もっとも河合栄治郎氏は一九四四年にすでに亡くなられていた。
日比野 それで後になって[河合をモデルにした]『長い墓標の列』[一九五七年十二月・早稲田大学大隈講堂]を書かれた。この作品は先生の「現場」との距離のとり方がとても面白いと思うんです。全く知らない「史実」をもとにして書いたわけではないが、自分が事件の渦中にいたわけでもない。
福田 そうです。木下先生からも、年齢からすれば知るはずのない現場へ行って、面白がってなでさすっているようなところがある、不思議なセンスを持っていると言われました。もっともあの人は人を褒めない人だから、僕も直接は何か言われた記憶もないし、人づてに聞いただけですけどね。ただ、僕としてはかなり力になった。
神山 具体的にはやっぱり岡倉士朗[一九〇九―一九五八。戦前から戦後にかけて新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)に携わり、歌舞伎やオペラなど商業演劇の演出も行った]先生の助手をなさったのが、お仕事としては、大きなきっかけになったんではないですか。[福田氏の最初の仕事は、大阪労音制作のオペラ『ききみみづきん』(一九五五年三月・作曲:團伊玖磨、作:木下順二、演出:岡倉士朗)の第二演出助手兼舞台監督助手]
福田 そうですね。岡倉先生は五十歳で亡くなられました。(注一)木下順二先生は不思議な人で、演出に興味がなかったので、僕が代行しておりました。とはいえ、ちゃんと稽古にもいらっしゃる。私が迎えに行って連れていくんですけどね。そういう、いわば書生のようにお仕えしました。「お仕え」というのも、僕から見ればそうだったということで、先生側は非常に近代的な方で、弟子うんぬんというような関係、そういう考えは非常にお嫌いでしたけど。
神山 木下先生に初めてお会いになったころは、もうぶどうの会はありましたか。
福田 ぶどうの会ができたのは一九四七年です。だからありましたが、直接の関係は僕にはないです。
神山 セゾーノ[木下を中心とする勉強会。劇作家宮本研・演出家竹内敏晴・演出家高山図南雄らがいた]の会合には出ておられましたよね。
福田 それは参加していました。今度、解散会みたいなものをやるそうです。高山図南雄さんのお孫さんと宮本研さんの息子さんと、定村忠士で僕らの仲間の息子さん辺りが顏になって。セゾーノは、先生のところに出入りしていた連中がまとめた会ですけれど、菅井幸雄さんなんて全然顏を見せない人もいたんですよ。その辺りにも先生のお考えはあったんでしょうけども、といって口は出さない方でした。
 木下先生という人は、「猿の橋」ってあるでしょう。猿同士が身体をつなげて橋をつくるという。あんなふうに、いわゆるリアリズム演劇と、僕らのような者との間を、ご自身の身体でもって、わっとつないでいた。そういうことを結果的になさった方だと僕は思いますね。
日比野 歌舞伎座では今も『赤い陣羽織』[一九五五年一月・歌舞伎座]がかかっていますから、木下順二さんが、新劇の枠に留まらない仕事をされたというのは、その通りじゃないでしょうか。
福田 ご自身のお考えでそうされていたのか、そうなっていったのか。どっちが先なんでしょうね。六代目[中村]歌右衛門さんとは仲がよかったようです。でも、歌舞伎の話が今日のテーマになるとは予想してませんでした。確かにそれも商業演劇の一つなんでしょうけど、商業として成り立っていない歌舞伎もあるし、その方が本来であると私は思いますから。
日比野 そのご懸念はもっともです。ただ、「商業演劇」という言葉からイメージされるステレオタイプだけではない、たとえば歌舞伎、東宝や松竹がやっている現代演劇や新劇といったものの間にある「中間領域」のようなものについて考えていきたい、というのがこのプロジェクトの趣旨でもありまして。そこについてはあまり真剣に考えられてこなかったのではないかというのが、神山やわれわれの考えなんです。
(注一)一九五九年二月二十三日付『朝日新聞』『讀賣新聞』の訃報記事にはいずれも五十一歳で死去とあるが、福田氏に確認の上、福田氏の記憶通り記すことにした。

舞台裏で奔走する


神山 改めて順を追ってお聞きしますが、福田先生のお名前が演出助手というかたちで出てくる最初の作品は一九五四年二月の『彦市ばなし』[明治座]のようです。これは、大学を卒業して大阪にいらした後ですね。
福田 はい。『東京タイムス』で新聞記者を一年やった後です。
神山 大阪では、茂木草介[一九一〇——一九八〇。脚本家でラジオ・テレビドラマを多く手がけた]さんのもとでラジオドラマの試作をされていた。
福田 そうです。ちょうど、テレビが始まるから、というようなことが囁かれていた時代です。でも、それまでの間に飢えて死んでしまってもどうにもなりませんから。当時は本当に飢えていましたし、茂木さんにはずいぶんお世話になりました。
神山 茂木さんの脚本というと、僕なんかは、福田先生もご出演なさった大河ドラマの『太閤記』(一九六五年)を思い出します。あれも、茂木先生のご縁だったんですか。
福田 あれはプロデューサー兼ディレクターの吉田直哉さん。主演の緒形拳も[信長役の]高橋幸治も、三国一朗さんも、それまで特別な関係はありませんでした。
神山 確かに高橋幸治は文学座でも、当時はそんなに知られてはいなかったですね。
福田 そうでしょう。まだその頃新国劇の青年部にいた緒形も、とにかく舞台が優先でしたから。当時、NHKはまだ田村町でしたけど、ほかに撮るところは終わっちゃって、あとは緒方の芝居がはねて、彼がやってくるのを、夜明け近くまで待つということがよくありました。あの人は貴重な役者でしたよ。周りに「お前、そんなに本気になるな」と言われたらしいですね。舞台俳優はホンイキが芝居、だから。
日比野 テレビ的な演技ではなく、舞台の演技を持ち込んだということですか。
福田 いや、あいつにとっては、一つだったんですよね。今はテレビでも、つなげて芝居やれるでしょう。でも、初期のテレビでは、例えば君と私とで相対する場面があっても、いろいろな都合で別の方向を向いてくれということが多かった。大島渚さんと一緒にやったときだって、二人の対話の場面でも、カメラとの間に線を引いて、それを越しちゃいけない、みたいなことがありました。僕が「どうして」と聞くと、大島さんも「なんだか分からないけど、確かにそうなんだよな」と。ただ、テレビの現場では、そんなことは言っちゃいられないって、ほかの工夫でどんどん乗り越えちゃうことも多かった。NHKの遠藤利男という、セゾーノの大事なメンバーがいるんだけど、彼なんかも現場では、ほんの一寸、カメラがタイトにいけるかを勝負にしている。でもそうするためには、ほかのものを片付けたりしなきゃいけないでしょう。それは大変なことなんだけど、演出家やスタッフ、主演俳優にしても、みんなが一丸となってやろうやろう、というような雰囲気があった。
神山 岡倉先生の助手をされていた時代に戻りますけれども、『彦市ばなし』、『赤い陣羽織』とあって、一九五五年五月には明治座で新派の大垣肇さんの『望郷の歌』というのをなさった。これは早川昭二さんと一緒に演出助手をされていますね。
福田 昭二さんは全然来なかったと思いますよ。いろいろな都合があって。といっても、だから悪いということではなくて、彼は民藝だったから。その前に新派をやった時も岡倉先生が早川さんの演出助手でしようと思われても、それぞれに民藝やぶどうの会の公演があったりしますから。今だってチラシが間に合わないということがありますでしょう。仮チラシには載っていたのがいなくなるとか。僕自身にしてもそういうことがありましたしね。「あれは福田が関係している」と言われるとくすぐったくなるだけのような。
神山 そのとき、先生はまだ二十代ですよね。その頃の花柳章太郎、水谷八重子の印象はいかがでしたか。
福田 わりと気さくな人でしたよ。皆さんそうです、新派の方は特に。
神山 今の二代目英(はなぶさ)太郎、当時の大久保彰久も出ていました。
福田 あぁ、そうでしたね。昨日家内がチラシを見て「この人の名前は覚えてる。まだやってるの?」と言うので、「そうじゃない、代が替わってる」といいましたけど(笑)
神山 その次が、先生もいろいろなところでお書きになっている『大仏炎上』[一九五五年七月・歌舞伎座]です。
福田 これは面白かったですよ。ただ、一カ月ついていろというんです、舞台に。というのはきっかけが洋楽だったんですね。斎藤一郎さんって、成瀬巳喜男の『浮雲』[一九五五年・東宝]で賞をとった方が作曲をされていて。歌舞伎の人たちはそのきっかけがとれないんです。小節というのが数えられない。僕も最初は信じられませんでしたけど、それで「あんた、いてやってくれ」と。こんな見事に世界が違うかなと思いました。だから付帳にも、やたらに詳しくきっかけが書いてありました。
 『大仏炎上』には屋台崩しもありましてね、このすぐあとで東京宝塚劇場の火事[一九五八年二月]があるんですが、まだ吹きボヤ[火の粉]も使えていました。また、今の猿翁さん、当時の團子さんがいたずらざかりで。慶應高校の二年か三年だったけど、舞台にコショウをまいちゃって、無惨なことになった。狂言方の竹柴蟹助さんという方が教育係みたいな意味もあったんだろうけど、真っ赤になって怒ってね。「福田さん、あんたはそのときどこにいた」なんて詰問されて。だけど、團子さんの周りには家庭教師が二十人もいるようなものだと思いましたね。「これでそれなりにならなきゃ、嘘だよな」と思ったけど、やっぱりそれは、一世を風靡した役者とまでは言わなくても、つくり手としてすてきな眼力を持った人になられました。
神山 『大仏炎上』の装置はもちろん伊藤熹朔なんですが、実際の屋台崩しでは、[大道具の]長谷川勘兵衛が仕切ったりしていたんですか。
福田 勘兵衛さんは何もしてなかったと思うな。まだお父さん[十六世]の代でした。僕なんかもチンピラで行くでしょう。ちょっと安心だったのは、歌舞伎座では大道具部屋の先に[長谷川大道具の]社長室があるんですよ。それで何か怒られたら、泣き込みにいく。そうするとお父さんがかばってくれる。あるいはおじいさんの十五代もいましたけれど。だから今の勘兵衛さんとは仲良くはしていましたよ。一緒に志賀直哉さん原作の台本を円地文子さんのお宅にいただきにあがったり。
神山 この『大仏炎上』は、先代の[初世市川]猿翁の出演ですよね。あの方は本にもいろいろと注文を出されたでしょう。
福田 いや、それは僕は覚えてないですね。むしろ、後になって、あんな偉い人が「あの時は世話になった」なんて言ってくれたので、「私ごときに」と大変感激したことはあるけれど。
神山 村田嘉久子と萬代峰子(よろずよみねこ)も出ていますが、二人のことは覚えていらっしゃいますか。
福田 萬代さんは、僕が飯を喰えないと言ったら、自分のお店でドアボーイのアルバイトをやるかと言ってくださった。全然やぶさかじゃなかったけど、いろいろと食い違いがあって、結局できませんでした。
 村田嘉久子さんのことはよく覚えていないです。立派な方という感じは持っていましたが。戦争中でしたが、新宿第一劇場で『瞼の母』のおっかさんをやっていました[一九四四年八月。番場の忠太郎は六世市川壽美蔵]。[一九三四年に]長谷川伸先生が生みのお母さんと再会された後で変えたホン[番場の忠太郎が母おはまと再会するのを拒絶する幕切れは変えられた]になっていて。それをたまたま観ていたんです。忠太郎が、花道を狂い笑いながら歩いていくというト書きになったんですけど、それを観て「なんだかなぁ」と思いましたね。客席もガラガラでした。
神山 萬代さんについては、武智鉄二が「リアリズムの模範」というような書き方をしていますけど、実際はいかがでしたか。
福田 いや全然そういう感じはありませんでした。そのころは恋人がいらっしゃいまして。「今はちょっと楽屋に入れない」と言われたりしたことがありますね。お相手は、一座の人じゃないんですが、演劇界の人です。

大谷竹次郎にもの申す


神山 『大仏炎上』は翌年、大阪歌舞伎座で再演されています。大阪歌舞伎座というのは新歌舞伎座じゃなくて、千日前の歌舞伎座[現在のビックカメラなんば店]ですね。あそこはものすごく大きくて、上にダンスホールか何かがあったんですよね。あの歌舞伎座ももうご存じの方はほとんどいないと思います。
福田 そうですね。でも、どこをどう思い出として話せばいいのか……。
神山 先生はさすがに「楽屋に泊まれ」とは言われなかったですよね。ちゃんと宿はとってもらえましたか。
福田 それは、岡倉先生の代理で行っていますから。そのとき同じ宿で一緒に風呂に入ったりしてたのが、今の[六世澤村]田之助さん。亡くなった人では、[九世坂東]三津五郎(一九二九―一九九九)、[五世]片岡市蔵(一九一六―一九九一)さん。片市さんは風呂にはいなかったかな。三津五郎の孫[二世坂東巳之助]は、新橋演舞場で『彦市ばなし』[二〇〇一年九月]をやった時に天狗の子をやりましたよね[演出は福田氏]。それはついこの間のことで、よく覚えています。
神山 この間、死んだ[五世中村]富十郎(一九二九―二〇一一)、当時、[四世坂東]鶴之助ですけど、鶴之助とか錦之助でも楽屋に泊まったと言っていましたね、そのころ。
福田 覚えてないな。当時のことだから、僕も何か仕事を抱えてたんだろうと思う。だから小さな宿屋にいましたね。「こんなところに[四代目澤村]由次郎[田之助の旧名]さんがいるの、と思うくらいの。楽屋の方がよかったかもしれません。
神山 その三年後に平田都の『土に生きる』という作品が大阪で上演[一九五九年九月]されていますが、これはもう、新歌舞伎座になってから[千日前にあった大阪歌舞伎座が一九五八年四月に廃座になり、同年十月に千日前の別の土地に新歌舞伎座が開場した]ですね。平田都さんというのは確か大谷竹次郎の秘書をやっていた。
福田 そうです。平田さんは綺麗な方でしたよ。僕はたぶん三十前でした。この『土に生きる』での仕事があったから、翌年木下先生が『おんにょろ盛衰記』を演舞場でやった時、僕にやらせようということになったんだと思います。平田さん本人がそう言っていました。
 当時の松竹の社長は大谷竹次郎さんでしたが、初日だか舞台稽古だったか、「社長が呼んでいる」って言うんで、行ってみると「あの手紙は[十世嵐]雛助[『土に生きる』では最上重蔵の娘敬子を演じていた]に読ませてもらいたい」なんておっしゃるんです。それじゃあ話がつながらなくなっちゃう。だけど、社長がそういうんだから、って歌舞伎の人たちはわーっとそっちへ動いちゃう。それで僕が「それはおかしい」って頑張ったら、大谷さんはビックリされたみたいで。「そうか、あかんか」とおっしゃって。このことが、平田さんをちょっと感動させたということがあったんじゃないですかね。僕はそんなことは全然なんとも思っていなかったけど。やっぱり僕は、戦後民主主義の申し子みたいな時代に育ったから。「人は皆、相等しい、平等である」というふうに思っている。決して社長さんをバカにしてもいないし、尊敬するけど、だからといって全部言うことを聞くという感性がないんです。
神山 『土に生きる』は、北方領土の問題と絡めた作品を意図した、というふうに言っておられたようですね。
福田 そうでしょうけど、あまり傑作ではなかったですね。私も「戦争ごっこをやるかな」なんて思ってやっていましたから。
神山 大谷竹次郎というのは、なんとなく魅力のあるおじいさんでした?
福田 はい。さっきみたいな言い方で「皆さんはこの歌舞伎をお金を払って観にくる。ところがあなた方は……」と、松竹の偉い人たちに言うらしい。「好きで芝居を観て、芝居の仕事をしているんだから」と。そういわれちゃ、おしまいだよね(笑)。
神山 『土に生きる』は関西歌舞伎の人ばっかりでしょう。ちょっとおっかなかったりはしませんでしたか。
福田 全然。なんとも思わなかった。
神山 頭取とか狂言方、作者の人たちは、当時はまだ、東京と違った気質があったと思いますが。
福田 僕は東京でも、菊五郎劇団の古い役者さんで、頭取になられた内山喜生とも仲が良かったですよ。「あんたが来ると早くていい」と言われた。粘りが足りなかったんでしょうけどね、きっと。
神山 岡倉先生がなかなか決められない方だったこともあって、「早くていい」とおっしゃったんじゃないですか。
福田 テキパキいけばいいというものでもないからね、決めない価値ということもあるわけです。かのアランも『幸福論』の中でも言っているように。当時は資本主義的で能率本位というのがあまり問題になりませんでしたけど、今はもう、誰でもその弊害は分かっていますから。
神山 『土に生きる』に出演していたのは、当時の[二世實川]延二郎、[七世大谷]友右衛門、[十三世片岡]仁左衛門です。脇の方では[二世]中村霞仙とか[五世]嵐璃玨(りかん)とかいたんですけど、そういう方で特に印象深い思い出とかエピソードはないですか。
福田 覚えていませんね。[四世中村]雀右衛門さん、つまり七代目友右衛門さんは、僕が中学生、麻布のころ、村上元三さんの『佐々木小次郎』というのが朝日新聞の夕刊に載っていまして、その映画に主演されていました。僕はそのファンだったんです。彼は当時戦争帰りで、松本幸四郎さんのところのお婿さんになられた。延二郎の恋人の役で、途中から駆け付けてくるんですけど、僕は「できるだけ華やかな姿で」と言ったんです。その通りやっていただいたんですが、そうしたら永山[武臣。一九二五―二〇〇六。当時のプロデューサー、後の松竹会長]さんにこっぴどく怒られちゃった。京屋さんには気の毒でした。もちろん私も謝りましたが、そういう時、何かおっしゃる方ではありませんでした。

歌舞伎役者の感覚を育むのは?


神山 翌年の一月が演舞場での『おんにょろ盛衰記』です。[主役だった二世尾上]松緑さんは後々まで、福田先生に「君の顏を見ると『おんにょろ』を思い出すよ」と言っていたそうですね。
福田 それは最後まで言っていましたね。「もういいですよ」というくらい。そのくらい難しいんです、木下先生の作品は。だからずいぶん食い下がってせりふをちゃんとつけた。台本どおり言うように守らせたということです。それはしつこく言いました。
神山 役者としてはやりにくい作品だったんじゃないでしょうか。その後、歌舞伎では再演していません。
福田 やってないかもしれない。僕は結城座でやったけど。『おんにょろ盛衰記』は、木下先生と山本安英さんが一緒に観にこられて。それは褒めてくれました。本当に先生はあまり褒めない人だったから、今日、褒められた話は全部出しちゃった(笑)。
神山 六〇年にはもうひとつ、新宿第一劇場で六月に『彦市ばなし』を演出されていますね。第一劇場には地下に食堂があったそうですが、そこで稽古されたとか。
福田 守田勘弥さんがお殿様役で出ていて。そこに部屋子で背の高い美少年がいました。それが後の玉三郎さんです。それ以上の印象はあまりないんですが。
神山 第一劇場はどんな劇場でしたか。使いやすくはなかった?
福田 いや、古い劇場はそれなりにみんな、良さがありますから。鳴りもの入りで新しいのができても、たとえば明治座なんていうのは歌舞伎ではしょっちゅうは使わない。今の歌舞伎座ができる時にはずいぶんハラハラしたけど、皆さんのお力でなんとか。つまり、僕のような仕事をしていると、ここに立つとここが見切れちゃうというようなことが気になるわけですよね。俳優さんは俳優さんで、どこに立つとおいしい、このせりふの終わりになってここに立ちたい、みたいなことを潜在的にお持ちになっている。その辺り、歌舞伎座というのは大変良くできているし、そこで育ってきた方たちが今でも歌舞伎の中心なわけだから。演舞場は小さかったんです、昔。今と違って。今の演舞場は、飛び六方を踏んでくたびれたころに、まだあと一間あるんだそうで「なんだろう、これは」と思いますよね。
神山 おいしいところ、というのは、芯よりちょっと上手寄りですか。
福田 そうです。普通の舞台はど真ん中がいいんですが、花道がありますから、ちょっと上手に。
神山 先生は海老蔵、九代目の海老さまとはお仕事なさってますか。海老さまはその辺りは心得ていましたか。
福田 主演では仕事はしていませんが、『赤西蠣太』[一九五七年一月・新橋演舞場]に出ていました。志賀直哉の原作で円地文子さんの台本。円地さんのお宅へ、私と勘兵衛さんとで台本をいただきにあがりました。その稽古の時に海老蔵さんは何か揉めていて、稽古初日、二日になっても来なくて。松緑さんが「また兄貴が……」と中に入って心配してるんだけど、来ない。「これは役者を代えなきゃダメなんじゃないですか」と僕も菊五郎劇団のスタッフも思っていたし、「役者を代えるなら仕事が増えるな」なんて考えながら、舞台稽古に向かうと、「福田さん、良かったよ、来たよ」と頭取の内山さんがやってきて。「どうするんだろう?」と思ってたんだけど、ちゃんとこしらえを着ていて。左團次さんが銀鮫鱒次郎という役で、幕切れに彼をスパンと切って、懐紙を出してパーッと振りまく。海老蔵さんは初めてなんですよ、稽古はその日が。「あぁなるほど、大したもんだと思いましたね。今の[九世市川]團蔵[一九五一―]さん、袖できちんと正座して勉強していました。
神山 銀之助ですよね、当時。
福田 その話を銀之助さんとはなぜかしにくくて、したことはないんだけど。
神山 あの人は[坂東]八重之助(一九〇九―一九八七)のうちにいたんですよね。
福田 八重之助さんにはとってもよくしていただきました。ずいぶんいろいろなことを……悪口ばかり言っていましたけどね。「今の役者たちはどうしようもない」と。しゃべりだすと止まらないところがあった。

賀津雄と錦之助


神山 一九六〇年の後は歌舞伎に関する仕事が少なくて、調べた範囲では昭和四一年[一九六六] 六月に[中村]賀津雄[現・嘉葎雄]さんと桑野みゆきとで『好色一代男』をおやりになっています。これは福田先生の作ですね。
福田 そうです。
神山 賀津雄さんはどういう方でしたか。
福田 本当にあのままの人で、仕事のしやすい人でした。それから六代目[尾上]菊五郎さんの舞台に子役で出た思い出話がたくさんあって、これが面白かった。辻占売の女の子か何かの役で賀津雄ちゃんが出ていると、有名な六代目さんが突然話しかけてくる。六代目が何をしようと、誰も何も言えません。ただ終わるのを待っている。でも賀津雄ちゃんは当意即妙に返したので、気に入ってくれて……みたいな話なんですけど。
日比野 それは賀津雄さんが何歳くらいのころの話ですか。
神山 子役のころだから、六、七歳ですか。
福田 十一歳まではやっていたと思います。「お前はどこの国の生まれだ」というようなことを六代目が聞くと、「丹波で」とかなんとか答える。そうすると、「ふるさとの歌はあるかい、歌ってごらん」というから、いい加減に歌ってみせたんですって。そしたら「踊りはあるかい?」と。「そこまで来るとは思わなかった」と言ってました(笑)。
神山 大したものですね。
福田 「それもいいかげんにやったよ」と言っていたけど。
神山 『好色一代男』は、私は高校一年生で観ているんですけれども、残念ながら、はっきり言って桑野みゆきの記憶しかない。ただ翌年六月[歌舞伎座]の『御存知一心太助』では、福田善之という名前をはっきり覚えています。萬屋錦之介[当時は初世中村錦之助]が一心太助で、伊藤雄之助が大久保彦左衛門。これは舞台の前に沢島忠さんと映画で一緒にお仕事をなさって、ということですか。
福田 いえ、忠さんは、忠さんと忠さんの奥さんとで書いていますから。その後の『真田風雲録』のこと[映画版の監督を予定していた沢島忠が降板し、加藤泰が務める]も、僕のせいとかじゃなくて、錦之助が東映の俳優組合の面倒を見たとかいろいろあったんじゃないのかな。もちろん彼は担がれたわけだけど、本人も後に退かないところがあるから。結局、忠さんは会社側についたってことですかね。
神山 『一心太助』では、和泉二郎さんの名前が共同演出にあります。
福田 僕が引っ張り込んだんです。ただ、残念ながら、手伝ってくれたというだけで。ああいう世界が好きじゃなかったようですね。僕みたいな軽佻浮薄なところがないと、いられないんでしょう。
神山 中村錦之助とはいつから知り合いだったんですか。
福田 『真田風雲録』の初演[一九六二年四月]は、千田是也演出で、青年座、新人会、三期会、仲間、俳優小劇場の合同公演だった。それを観にきたんですよ。当時新婚だった有馬稲子と一緒に。ネコさんは、結構人気があった。彼女が結婚して泣いてたスタッフもいましたよ。『充たされた生活』[羽仁進監督・一九六二年松竹]という映画に出ていてね。
神山 先生も出演されていたじゃないですか。僕も観ていますよ、もちろん。
福田 まいったなぁ。もうこれは人に観られることもないだろうと思ってたら、ビデオだかDVDになったらしくて、たまに見たという人が出てくるんですね。僕はさすがにもう、自分の姿を観る気はしない。あの時相手役だった島かおりさんという初々しいお嬢さんは、今でもおばあさん役で出ているんですよね。
神山 『一心太助』では、いろいろな人が大久保彦左衛門をやっていますけれども、やっぱり僕は伊藤雄之助[一九六七年六月・歌舞伎座、一九六八年四月・新歌舞伎座、『江戸ッ子繁昌記』として一九七二年六月・歌舞伎座、一九七七年六月・歌舞伎座]が印象的ですね。ずっと後にはハナ肇もやっている[一九八五年八月・梅田コマ劇場]んですけど。
福田 ハナちゃんのときだけは僕、別の仕事で一緒にできなかったの。非常に残念でしたえどね。開いてから観にいきましたけどね。ゴメン、ゴメンと言って。

コマ劇場の若い力


神山 一九七〇年十月には東横ホールで清川虹子さんと『女沢正 あほんだれ一代』をされています。『悲劇喜劇』に連載されたエッセイ「みんな素敵な人だった」でもこのときのことは書いていらっしゃいますが、そこに出てくる、先生の台詞を言わなかった「ある俳優」というのは曾我廼家明蝶さんですね。
福田 そうです。いい方でした。明蝶さんがというより、出ている皆さんがそういう習慣だったんです。芝居の設定は、恰幅がいい二枚目だというだけで、役者じゃない人間に義経をやらせる。とにかく「いかに弁慶」とだけ言えばいいからって。ところがまたそれを「イカに弁当」と言うんだよ。僕の台本は「イカにタコ」と書いていたんだけどね。そっちの方が簡単に受けると思うんだけど(笑)。だって世間の人には「いかに弁慶」だって分からないもん。だから三日目くらいになって、「一度台本どおり言ってくださいませんか」とお願いした。僕も昔は元気があったんだね。今はもう学生にだってそんなふうに言う勇気もありゃしない。ただ、そのときはそうお願いした。そしたら受けたんです(笑)。明蝶さんは『銭ゲバ』(一九七〇年)という映画に出ていらしたんですが、その主演は大靏[義英。唐十郎の本名]くんで。「あなたは唐十郎さんをご存知だそうですね」と聞くので「ええ、同じ劇団におりました。青芸というところです」と答えると「それはそれは……」とおっしゃる。主演をやるような人と知り合いなのか、と。そういう価値観なんですね。
日比野 逆にいうと、それだけ先生のお名前は知られていなかったということでもありますね。
福田 もちろん。別の世界の話だからね。僕は清川さんに紹介されて、江利チエミさんの芸能生活二十周年記念で『チエミの白狐の恋』[一九七一年十一月・新宿コマ劇場]というのを演出することになったんだけど、それ以後、「江利チエミに見出された男」ということになりました。だけど「清川さんに見出されて」とは言われなかったですね。ジャーナリズムの人たちからすれば、清川さんではそれほどふさわしい配役とは思えなかったんでしょう。
神山 当時のチエミは大スターでしたから。
福田 あのころコマ劇場では八億円を売り上げなければいけなかったんですよね。四億が経常費、四億が仕込み費。これは大変なプレッシャーでした。こっちは億なんて想像もつかないから。
神山 七〇年代でその数字はすごいですね。
福田 劇場の常任の人たちもいるからね。だから大スターの必要があれば入れる。その代わり相手役なんかは「安いヤツいないか? 新劇の方でなんとかやれるヤツはいないか?」と言うんです。「この値段でどうか」なんて金額を出すんだけど、しまいには「やっぱり三十万円で」となる。三十万で五十回公演やるんですよ(笑)。今でもそれに近いことはあるかもしれませんけどね。
神山 『チエミの白狐の恋』は谷口守男さんの作ですね。
福田 そうです。谷口さんが先に書いていたのが、どういうわけだか僕のところに持ち込まれた。それで[名古屋西川流の二世]西川右近さんや僕らが入っていったわけですね。僕は明治座で賀津雄ちゃん主演の『三遊亭圓朝』[一九七一年七月]をやっていて、これは結構受けたんです。その最後の場面が墓場で、なんとかして幕切れは明るくしたいというので、夜が明けると同時にふわっとそこで花が開くっていうのを考えた。ところが、しょぼしょぼっとした小道具がきて、ちょこちょこっと咲くだけなんだよ(笑)。なんでも話が通じる頭領のおじさんがいて、それを味方にできればよかったんだけど、その人は会社側についちゃってるからしょうがない。でも、コマの『白狐の恋』では、同じアイデアを大道具でやってくれた。僕が言い出したんじゃないですよ。大道具の若い連中が面白がって、芝居や音楽に合わせて、大きな花をうわーっと開かせてくれたんです。だいたいコマ劇場には全体を仕切るプロデューサーというのがいたこともなくて。みなさん誤解していらっしゃるけど、東宝演劇部とはほとんどかかわりもないんですよね。
神山 そうなんですか。北村三郎さんはどうですか。
福田 東宝じゃなくて、コマの、阪急系の会社の社員なんですよ。皆さんは同じ「東宝」だと思うんでしょうけれど、東宝とコマとで共通していたのは、新聞の広告を一緒に打つことくらいです。だから、東宝演劇部にとっては管轄外のこと、という感じでした。僕らはそういう状況で芝居をしていたんです。ですから、花の話もそうですが、振り返ってみると、商業演劇というのは、結局与えられた条件で最善を尽くすしかないものなんですね。で、そのときにはやっぱり、みんなでつくるという意識がないと成り立たない。それが商業演劇の世界だと思います。僕が歌舞伎を商業演劇とは一緒にできないと感じるのは、確かにお金にはなるかもしれないけれど、そこのところの成立の仕方が違うから。もちろん、何百年をかけてみんなでつくるということはあるかもしれないけど。
神山 コマ劇場には、北村さんのほかに、酒井さん[肇。後のコマ・スタジアム社長]も取締役としていらっしゃいましたよね。先生のエッセイでは「悲観的な人だった」とありますが。
福田 それは下村順久さんのことですね。酒井さんは慶應ボーイでスマートでしたから。NDTの重山規子さんの彼で、いつも堂々と二人で歩いていました。一度、重山さんの足が動かなくなったことがあって。それでもなんとか出そうというので、セリで上がらせて、長椅子の上でポーズをとるだけ、なんてことをやらせたことがあります。そういうきわめていい加減なことができたんです、当時は。だいたい、コマの場合は、スターさんをトップにした序列がありますよね。そうすると、作・演出なんていうのは八番目くらい。大西信行さんは「俺[の名前]が小さい」と烈火のごとく怒ったそうだけど、みんなそうだったんです。それがまた、焼け跡に立ったコマ劇場の一種の平等主義のようなものだったとも思います。
神山 コマ劇場では『おんな赤帽物語』[一九七二年四月]もありました。
福田 そうそう。盆を利用して汽車がずーっと動いてくるっていう場面があって。最後は人間が押して、舞台のギリギリに持ってくる。若い連中が「今日はうまくいったな」とか、時には喧嘩もしながら一生懸命やるわけ。そういう雰囲気が僕はとても気に入ってて、コマに何か頼まれると断れないところがあった。
 そんなわけで僕もコマにはずいぶん奉仕しましたから、『ピーターパン』(一九八一年八月)はそれに対するボーナスみたいなものです。もともとは『アニーよ銃をとれ』というミュージカルがありまして、それをやらせろと言っていたんです。やらせろなんて言ったって、僕にはなんの権利もないんだけど。そしたら、あれはダメだけど、『ピーターパン』というのがあるから観に行かないかというんです。向こうではサンディー・ダンカンの主演で再演していて。ところが行ってみると、そのまま向こうの演出を持ってくるにはいろいろ条件がうるさくて。それで自前の演出でやろうということになった。ですからあの『ピーターパン』は、わざわざ行って芝居も観たんだけど、いまの上演どおりにはしない、いまのバージョンからはどこも盗ってないってことが条件でつくった、メイド・イン・ジャパンの作品なんです。「ブロードウェイ・ミュージカル」とうたってはいるんだけど、内情はそうなの。
 有名なフライングの場面も新しく追加してもらいました。向こうの人たちは、何かというと小さなころから学芸会のような場で『ピーターパン』をやっているようで、「本当にうんざりしているけど、それでも興味を持ってくれて嬉しい」なんて言っていました。でも、非常に好意的にやってくれた。
日比野 コマ劇場の大道具というのは、専属で雇われていたんですか。
福田 いやいや、昔は大きなストライキがあったりしましたから。どこでそういうことがあっても大丈夫なように、三つくらいの会社と契約してつくった混成のチームです。みんな仲良くやっていましたけどね。

多彩な交流・交錯するジャンル


日比野 話は少し戻りますが、東横劇場の『女沢正』には、どういう経緯で参加されたんですか。
福田 あれは松竹の仕込みだったんですよ。珍しくあの劇場で永山さんが制作された。もしかしたら劇場との共同だったかもしれないけど、それは覚えてないですね。永山さんご夫婦は僕に、真山青果みたいな本を書けるようになってほしいと期待されていたみたいです。でも、僕はそういうふうには思わなくて。真山さん、あまり好きじゃないんです。だからそういう意味ではあまりうまくいかなかったけど、若いディレクターはみんな、「何をどこでやるという時に、福田さんの名前を出すと永山さんの機嫌がいい」とよく言っていました。そういう意味では永山さんのおかげで今までやってこられたようなものです。
日比野 清川虹子と明蝶という顔合わせは、それほど大劇場向けではないですね。
福田 東横劇場ではちょうどいい座組だと思います。ただ、これは沢竜二のおっかさんの一代記ですから。古い世界の人から見ると、清川虹子が当時付き合っていた沢竜二のために作る舞台というふうに見られちゃうんですね。実際に[出演者の一人だった]山田吾一(一九三三―二〇一二)が「そんな舞台になぜつきあうのか」といわれたそうです。「そんなことはない。舞芸[舞台芸術学院]にいて[ふじたあさや(当時は藤田朝也)との共作で、一九五三年五月・東大五月祭で、東大合同演劇勉強会によって上演された]『富士山麓』を書いた人のホンだから、と応えたら、目をぱちくりしていたよ」なんて言っていましたよ。その吾一ちゃんも死んじゃったけどね。
日比野 要するに、離合集散の仕組みが、違っていたんですね。
福田 うん。人間のやることに低いも高いもないとは思う。ただ、ちょっと普通のそろばんではあり得ないようなことはあったようですね。『女沢正』はNHKが短い連続ドラマ(『あほんだれ一代』一九七一年)にしようということになって。沢君の役はあおい輝彦が、お父さんの明蝶さんの役は藤田まことさんがやりました。藤田さんとは果たせなかった話があって。掏摸の話をやりたいが考えてくれと言われていたんですが、彼の病気もあったり、なかなか進展しないまま。このごろはそういうことばっかりです。
神山 『三遊亭圓朝』には森雅之が出ていますが、どういう印象でしたか。
福田 いや、素敵でしたよね。気さくだし、偏見がない。当時は、ああいう世界だとまだまだ、いわゆる「大学出」みたいな雰囲気を出す人がいたんです。でも、森さんは本当にさらっとしていて好きでした。まさかあんなに早く亡くなるとは思わなかった。
日比野 新派に入られた方がよかったということもあるかもしれませんが。
福田 いや、それにはいろいろ事情もあったんじゃないですか。頭を抑えられるのが嫌いな人だしね。そういう意味でもスマートでした。
神山 圓朝のお父さんの役をやったんですよね。
福田 そうなんです。しょうもない親父なんですけど、これがなかなか、ほかの人にはできない芝居でしたね。それで、お母さんの方は清川虹子だから。世俗の極みとの組み合わせ面白かった。
神山 『おんな赤帽物語』、それから併演の『お笑いバラエティ・花吹雪かしまし一座』[一九七二年四月]には、曾我廼家五郎八さんが出ていますね。明蝶さんよりも五郎八さんの方が親しみやすいような印象がありますが、実際はいかがでしたか。
福田 そうですね。仕事もしやすかったですし。お嬢さんの西岡慶子さんがもう仕事されていましたから、彼女のことを心配なさって周りと喧嘩する、というようなことはありました。でもそれで西岡さんがしゃしゃり出てくるということはなかったですね。感じのいい人でしたよ。
神山 この作品はとても評判がよくて、なかでも藤木悠(一九三一―二〇〇五)さんが狂言回しのような役で出ていたのが良かったと書かれていました。
福田 それは当時、藤木さんがあまり身体の調子がよくなかったから、応援の意味があったと思いますね。

「辰巳のおやじ」のこと


神山 チエミさんとはその後『山本周五郎原作「みずぐるま」より─恋ぐるま』[一九七二年五月]をおやりになりました。その後は明治座で珍しく森繁[久彌]さんと『業平金庫破り』[一九七二年七月]で仕事していらっしゃいますね。森繁さんとはやりやすかったですか。
福田 森繁さんとはNHKのラジオをご一緒したんですよ。まじめというか、なんて言えばいいんでしょうね。「どうだろう、私のような者でも今からでも何かできるかね」なんてことをおっしゃる方で。ただあの芝居の主役は緒形拳だったんです。森繁さんはそれを見守る刑事の役どころで。
神山 同じ年には『こんにゃく物語』[一九七二年十一月]と明治座が続きます。
福田 これは辰巳のおやじ[辰巳柳太郎]と気が合いましてね。「お前、なんでもやるか」と言うから、「おやじさんのためなら」なんて僕もいい加減なことを言ったんでしょう。そしたらコンニャクの産地へ連れていかれた。付出しからお刺身まで全部コンニャクでできてるのを食べたりして、そりゃコンニャクだから大したことはないんだけど、面白かった。金子信雄さんが出てるでしょう。どういう経緯でそうなったのかは分からないけど、金子さんとはその後も何度か仕事しました。
神山 この時は共同演出で岡村春彦さんの名前が出ているんですけれども、これはやっぱり……。
福田 頼んだんだけど来なかったんじゃないかな(笑)。いや、そういうことはたくさんあるのよ、あのころは。
神山 そうですね。ありますね。
日比野 そういう場合は、ギャランティーはどうなるんでしょう。
福田 出ませんよ、そんな。名前が出てるからってだけじゃね。
神山 『こんにゃく物語』には、高橋英樹と淡島千景も出ていましたね。
福田 本当? 僕、淡島さんは、錦之助が気に入ってた太助女房お仲しか覚えていない。あれはよかった。この公演は、辰巳の親父がとにかく一生懸命マネージしていたんだけど、一本立てじゃないですからね。
神山 確かにこの時は『こんにゃく物語』ともう一本川口松太郎の芝居[『長崎みやげ・色は匂へど』]をやっています[十一月昼興行。夜興行は土橋成男作、松浦竹夫演出『鞍馬天狗』と『色は匂へど』]。
福田 そっちにメインで出ていたのかもしれませんね。どっちにしろこの興行は、辰巳のおやじが思うほどにはこんにゃく組合が動かなかった(笑)。
神山 明治座の思惑も外れたんですね、ちょっとね。
福田 そう。
神山 辰巳さんとはウマが合ったということで、その翌年に『新・丹下左膳』[一九七三年七月・御園座]も手掛けておられます。
福田 これももちろん辰巳のおやじに頼まれまして。おやじは一滴も飲まないんですよ、酒は。コーヒーばっかりで。変な人で、映画のように、演出家のことを「監督」というんですよ。「おーい監督」と下から三階に声をかけたり。衣裳のまんま外に出ていったり。でもお付き合いしましたよ。
神山 辰巳さんには一カ月二十五日公演のうち本気でやるのは三日ぐらいしかやらないという説があったんです。[同じ新国劇の]大山克己に聞いたら、「そんなことはありませんよ、ちゃんとやっていました」といっていましたが、先生はどう思われましたか。
福田 「おめえの芝居だから、やっぱりちゃんとやらなきゃ」なんて言われたように思いますけどね。
日比野 作品によって変わるということですか。
福田 だって『新吾十番勝負』[一九七八年十二月・歌舞伎座]なんて、本当に最後に一瞬、花道から出てきてジャーンで終わりですからね。止めの役者が必要だという演劇界の不思議な習慣があって、辰巳のおやじが入ると[主演の大川]橋蔵さんのメンツが立つわけですね。メンツというか、興行として形になる。だからそういう時には何もしてなかったな、やっぱり(笑)。
 『霧の音』[一九五六年八月・歌舞伎座。初演は一九五一年十月・明治座]か何かで、温泉で[香川桂子さんの]入浴の場面があるというので、当時騒がれましてね。辰巳のおやじは「成功したろう、あれは俺が考えた」って言うんです。そんなことおやじに言われなくてもね。
日比野 いわゆるサービスカットというやつですね。
福田 そう。そういうつまらないことを自慢するんです。立ち回りだって、晩年はスピードが落ちちゃうのはしょうがないんだけど、とにかく横に刀を持ってやると早いんだっていう。そうすると折れやすいんだけどね。とにかくそれを発見して喜んでた。子どもみたいなところがありましたね。
神山 新国劇には香川桂子がいたでしょう。あの人はうまかったと思うんです。私はわりと好きだったんですが、先生はいかがですか。
福田 香川さんは僕、嫌いじゃなかったですよ。でも、僕はもともと女優さんに対しては、好きも嫌いもありません。そういった危険な聖域には近寄りませんから。
神山 大山克巳さんとは気が合ったんじゃないですか。
福田 悪い感じは全然持っていませんけど、ちょっと融通が利かないところもありました。大山さんは『丹下左膳』をやった時、あれは左手一本じゃないといけないでしょう。でも、いつの間にか右が出ちゃうもんなんですってね。錦之助が五社英雄監督の映画[『丹下左膳 飛燕居合斬り』一九六六年・東映]でやった時もラッシュで「おい、俺、今、右で切ってなかったか」(笑)って。慌てて確認したらやっぱりいつの間にかやっていた。「分からないからいいよ」って言われたらしいけど、萬屋としてはそうはいかないよね。……それで、大山さんは左手で斬って、同じ手でその刀身をぬぐって、懐紙をバッと散らすっていう動きがなかなかできなくて、一生懸命練習したんです。もともと凝り性でもありましたしね。ところが、辰巳のおやじは縛っておいた右手の先を生かしておいて、そこに懐紙を隠し持っていたんです。で、そっと後ろを向いて持ち替えてた。後で知った大山さんは、えらい怒ってましたよ。「教えてくれりゃいいのに」って。本当に真っ正直に左腕だけでやろうとして苦労したのに(笑)。
神山 確かに教えてあげればよかったのに。
福田 まぁ、その時の流れもありますからね。それにしても辰巳のおやじと島田先生がいると漫才みたいで。
神山 辰巳、島田はそうでしょうね。
福田 『丹下左膳』の時も時間が出ない。要するに長すぎるんですよ、芝居が。それでスタッフいわく「これ以上はもう、島田先生を降ろすしかありません」と(笑)。
神山 島田さんの芝居は長いですからね。
福田 そうです。だって、「おーい」と言って、一、二、三、とあってようやく「お茶」ですから。それで舞台で「おい、お前、早く言え」「そんなこと言ったって」なんて盛んにやってるんです、大きな声で。本当に愉快だったな。結局、仲良かったのよ、あの二人は。

コマ劇場の仲間、エリートの東宝


神山 一九七三年には、また清川さんと『女どろどろ物語』[一九七三年八月・新宿コマ劇場]をやっていますね。これは河竹黙阿弥の『白浪五人男』をもとにして先生が書かれた。
福田 コマでそういうことをやるっていってもね、そのままやるのは無理ですから。これは誰の企画だったか……東宝の誰か、渡辺保さんの顏が浮かぶけど。
神山 谷口守男さんや新美正雄さんはコマ劇場の座付きだったんですか。新美さんは、歌手芝居でたくさんお書きになっていますが。
福田 二人とも[コマ劇場の]社員です。
神山 そうですか。『女どろどろ物語』はコマの喜劇人まつりの演目で、その前の年にも『お笑いバラエティ 花吹雪かしまし一座』[一九七二年四月]の構成・演出をなさってますが。こうしたバラエティショーのお仕事はやはり楽しいものでしたか。キャストを見るとあまり歌える人はいませんが。
福田 それは大変ですよ。今みたいにいろいろな文明の利器がないから、袖で音叉をたたくんだよ。チュインって。そうじゃないと音がとれないから。一応、レコードを出している人でもそれだった(笑)。
日比野 コマ喜劇人まつりでは、芦屋雁之助さん、小雁さんともお仕事されていますね。雁乃助さんは『業平金庫破り』にも出演しています。
福田 雁乃助さんは、その頃はまだ、トップというわけじゃないから、なんとなく欲求不満があったんじゃないでしょうかね、きっと。『女どろどろ』だと清川さんが座頭ですから、何かと皆にいろいろ言うわけです。それで、籠かきの役で、相手はどなただったか、ともかく後棒と先棒とでいろんなことを言い合う場面があった。ところが清川さんから「台本どおりにやりましょう」というお達しが出たものだから、その二人の怒ったこと、怒ったこと。幕が開いてからだいぶ経ってたから、僕はその現場にはいなかったんですけどね。雁乃助さんたちが騒いでいるっていうんで、「どうしたの?」と楽屋を訪ねたら、雁ちゃんが「いや、台本通り言ってみたら受けたよ」って(笑)。
日比野 雁乃助さん、小雁さんは、関西喜劇の出身ですし、出自の違う人たちが集まる混成部隊の難しさみたいなものは感じられましたか。
福田 どうでしょう。小雁さんのお宅には僕も二度ほどうかがいましたよ。貴重なフィルムをたくさん持っていらして。そういうふうに接待していただいて。そんなに難しいようなことはないですね。
日比野 もともとが混成でやる舞台だからということですか。
福田 そうです。コマ劇場そのものが、混成部隊ですから。たとえば歌舞伎の劇団制みたいな、そういう感じがなんとなくある。あれも善し悪しありますけれどね。この前新橋演舞場でやった『ワンピース』[二〇一五年十月]だっていいところもあるし。僕はコマでも日生でもフライングってよくやってきましたが、演舞場では初めて観ました。といって初めて見る風景ではない。初めて歌舞伎を観る人には面白い舞台のようですけど、要するに歌舞伎の外面的技術の集成です。やたらに見得が多くて、句読点の多すぎる文章を読むようだと思っていたら、それがきっかけになっているわけ。ですから座長の[四世市川]猿之助は大変だったと思います。
神山 コマ劇場は舞台機構が面白いから、それを観るのもお客としては楽しかったですね。
福田 またそれが難しいところで。舞台機構をあまり使いたがらないんですよ。
神山 コマが、ですか。
福田 そう。そのために雇わなきゃいけない人もいるし、お金がかかっちゃうんですね。だからもう、僕のかかわったころにはなるべく使わないように。いや、僕らは使いたいんですよ。盆と花道とせり。そういうものはなきゃつまらないと思ってるんだけど、大変なんだね、ああいうのは。
 コマ劇場は小林一三さんが始めたんだけど、やっぱりすぐに、潰れるから何かにしようって話があったんですって。それを救ったのが美空ひばりさんなんですよ。だからコマ中興の祖はひばりさん。ですからひばり公演の最中に次の舞台の稽古をしてると面白かった。もう現場には出てこないような古い、おじさんたちがみんな、ワーッと揃ってひばりさんのお迎えをする。それが最初のスタッフ連中ですよね。僕はコマの初代のスタッフとは同期の桜というか、似たような世代でしたから、それもあって、あんまりうるさくいわれなかったですね。東宝演劇部は何かと難しかったですけど。
日比野 というのは、エリート的な空気があったということですか。
福田 も、含めてね。何せ渡辺保さんがいらっしゃるんですから(笑)。
神山 私の記憶では、東宝はあまり、裏のお金が動かなかったですね。「捌(さば)き」っていうのが出ないんです。それでやりにくいところがありました。
福田 有楽町でプロデューサーと打ち合せがあった時に、だいぶ遅れていらしたことがあって。要するに経費を削減しなきゃいけないってことを話し合っていたそうなんです。それで「延々お待たせしてすみません」と。聞くと、協議の結果決まったことは一つだけ。打ち合せにはお茶を出さないことにしよう、と(笑)。でも、会社ってそういうものらしい。

『にんじん』『三銃士』華やかなスタッフたち


神山 東宝関連では、一九七三年九月に日劇のミュージックホールで『ニッポンふるさとエロトピア』というのをなさっているんですけれども、これはまだ丸尾長顕がいたころですか。
福田 いないですね。
神山 ダンサーは松永てるほの時代?
福田 てるほちゃんはもちろん知っていますよ。でもそれは、彼女で人気が出たそのすぐあとの時代です。
神山 この当時のスタッフには、立木定彦さんや朝倉摂さんは入っていましたか。もう、自前でやっていた?
福田 そういうところはね、これはこうというような区別はしていなくて。わりと融通無碍なところがありました。だからお二人とも、ちゃんと来てやっていたと思います。
神山 一九七五年九月には明治座で小川真由美主演の『女ねずみ小僧』があります。その前に霞町の自由劇場で佐藤信の『鼠小僧次郎吉』が上演された時[一九六九年十月]に彼女は主演をし、その後、彼女はテレビで『浮世絵 女ねずみ小僧』[一九七一年・七二年・七四年]もやっています[さらにその後一九七七年に『ご存知 女ねずみ小僧』]。当時のネームバリューや人気のわりには、今比較的語られない女優でもありますが、先生はどういう印象をお持ちになりましたか。
福田 恋多き女ではあったと思いますよ。自由劇場の誰と仲がいいとか、そういう話は聞こえていましたけど、僕はそんなにやりにくい印象はないです。向こうだって自分が売り込んできた演し物をやるわけですし、そもそも、その作品自体が会社の期待とずれていたんだから。頼まれたからやったけど、その年は僕、舞台は『女ねずみ小僧』一本だけなんですよ。大河ドラマをやっていたの。加藤剛と緒形拳の『風と雲と虹と』。それで僕も時間が割けなかったし、これはもう、仕方ないです。
神山 その後、数年空いて、一九七八年八月に日生劇場で山川啓介脚本の『にんじん』。これは何度か再演されていますが、最初の主演は大竹しのぶです。
福田 大竹しのぶと共に始まり、大竹しのぶとともに終わる感じでした。
神山 ずっと後に中座で、高見知佳でやっていますね[一九八七年八月]。
福田 その間にもう一人います。のちに『若草物語』[民音ミュージカル・一九八五年十月・ゆうぽうと簡易保険ホール他全国巡演。全く同時期に日生劇場で上演した音楽劇『リトル・ウィミン』は演出のみ]でベスをやった伊藤つかさ[一九八三年八月日生劇場]。
神山 そうですか。『にんじん』はプロデューサーが松竹芸能の勝忠男さんですね。
福田 勝さんは悪い趣味で、スタッフや役者を連れて銀座のバーへ行ったりするんです。そういうところに社長と一緒に行って、面白いはずがないじゃない。
神山 勝さんは、僕なんかちょっと怖いような印象を持っていましたが。
福田 そうですよ。でも、面白かったですけどね。あまり細かいことを言われた覚えもないですし。「先生がそない言わはるんだったら、そうでしょう」みたいな感じで。『にんじん』は音楽の山本直純が褒めてくれましたよ。あれはシンプルな話で、もと[小説の原作者ジュール・ルナール自身による戯曲版]は一幕物でしょう。短いからいろいろ苦労したんです。それで、早変わりとかいろいろなことをやらせました。
神山 この時のスタッフはほかに、美術が金森馨、照明が吉井澄雄となっています。
福田 二人とも昔からの友達です。
神山 衣裳デザインは真木小太郎、ステージングは土居甫という非常に豪華な顔ぶれですね。
福田 真木さんにもお世話になりました。土居さんが来たのはコマなんですよ。『今竹取物語』[一九七八年十月]というタイトルで石川さゆりの特別公演をやった。作詞は三木たかしで、本はたぶん僕だったでしょう。阿久悠さんも入っていた。阿久悠さんはご本名が福田だか福井だかとおっしゃるので、僕は間違えられたことがありますよ。名前を隠してやったって、すぐに分かっているんだから、なんて言われて。笑っちゃいますよ。
日比野 以前、福田先生は、土居さんについて書かれた文章の中で、振付のことはまったくわからない、というふうに書いていらっしゃいました。
福田 ただ、僕が歌舞伎の手みたいなのを教えると、彼がそれを面白がって。それでいつも共同作業みたいにしてつくっていました。要するに僕は洋風の振り付けは分からない。バレエのプリエなんていったって、「なんかそういうのあるじゃない」なんて始末です。
神山 日生劇場では続けて『三銃士』[一九七八年十二月]もありました。主演は近藤正臣。ダルタニャンは田中健なんですね。
福田 これはいろいろ話してね。当時は臣がトップだったから、ダルタニャンをやるつもりだったんでしょうけど、年のこともあるし、柄じゃないので、アラミスにして、その代わりバッキンガム伯爵との二役を兼ねることにしたらどうか、といったら「うん、それもありかもしれないな」と乗ったので成立したんです。
神山 脇役には仲谷昇や菅野忠彦がいます。
福田 仲谷さんは麻布の先輩なんです。麻布にはなんでも面白がる気風もありましたし、小沢昭一さんは怖かったけど、仲谷さんは優しかった。
日比野 小沢さんはどういうところが怖かったんですか。
福田 それはやっぱり、ご自分の仕事に向かう厳しい姿じゃないでしょうか。怒られたわけじゃないですよ。いや、中学の時には怒られましたけどね。僕がいけないんです。久保田万太郎先生の本を面白くないなんて書き直しちゃったことがあって。そうしたらやっぱり怒られた。
日比野 そのころからもう、小沢さんは万太郎みたいなのが大好きだったんですか。
福田 いや、そういうわけでもないんです。その時の怒り方は「本をいじるな」みたいなことで。ですから、井上ひさしさんの本でもいじらなかったと思います。
神山 『にんじん』や『三銃士』の原作はフランス文学です。先生はあまり仏文科出身ということについては、おっしゃらないけど、このときは梅原成四とか、鈴木力衛のことをプログラムにお書きになっています。
福田 梅原先生のお父さんの梅原龍三郎先生が仕事していらっしゃるのを後ろから拝見したこともありましたよ。貴重な思い出です。

深作欣二との友情


日比野 時代が少し戻りますが、一九七四年十月に『仁義なき闘い』の舞台版[紀伊國屋ホール]を手がけておられます。これは金子信雄さんを介しての縁だそうですね。深作欣二さんとの共同演出というかたちになっていますが、これはどういった事情だったんでしょう。
福田 作(深作)が、全然時間がなくてダメだというので、じゃあ俺がくっつくよ、と言って、そういうかたちになったんです。
日比野 深作さんは現場にはいらっしゃいましたか。
福田 もちろん来ました。でも、立ち回りなんかあると「うーん、映画ならこういう時は手持ちでぶん回しちまえば」なんてことを言っていた(笑)。映画でいうショックコードみたいな、ジャーン!っていう、あの効果を音を出すんじゃなくできないかというんで、「サクラに声をかけさせたら」と言ったら、「それだ」と簡単に乗ってね。ただ、誰も手がいないから、舞台監督が蔭で「金子!」って声をかける。誰が何を言ったんだと見る間に、持ち場へ逃げていく。そんなことをやって無邪気に遊んでいたような感じがあります。映画の人はいろいろな仕事がありますから、突然一人、京都から帰ってこられなくなったことがあって。作が「お前、代わりに出ろ」というんですよ。「せりふは全部覚えてるだろうから」って。だけど僕はダメなんですよ、自分のせりふでもすぐに忘れちゃう。全然ダメなの。それでしょうがないから、若い人、といっても有名な人の坊ちゃんにお願いしたんだけど、今度はみんなが彼を助けなきゃいけないっていうので、一斉に本番中につけちゃうのね。
日比野 声をかけたり、教えてたりということですか。
福田 それが悪いことに御社日[記者・評論家の招待日]でさ。茨木憲さんに「どうも失礼しました。今日はこんな事情がありまして、一人代役で」と言ったら「うーん、全員代役に見えたよ」って。自分は寝てばっかりいるくせに。……[深]作とのことはよく覚えているな。でも、このインタビューのテーマとはあまり関係がない。
日比野 いや、面白いエピソードです。
福田 深作は、ゆったり芝居をやって、こっちの仕事はさっさと切り上げて、っていうことはできない人だったから。死ぬまで余裕はなかったですね。映画の『オッペケペ』も作が監督のはずだった。
佐々木 あぁ、幻の。
福田 それともう一つ何かありましたよ。要するに、流れた仕事の相手というのは情が残るんですよ。それで深作とは仲が良かった。だって恨む必要がないんだもん、やらなかったから(笑)
佐々木 『オッペケペ』は、シナリオはできてたんですよね。
福田 そうそう。僕だけじゃなくて、東映の脚本部の神波史男さんという、映画界では有名な人です。『真田風雲録』で手伝ってもらった流れで。それと、今でもご健在ですけど、小野龍之助さんという、有名な作家の婿さんになった方。この二人が深作とも仲がよかったので、そのまま『オッペケペ』も、という感じになった。だけど、このとき、[東映プロデューサーの]岡田茂が言ったのは名ぜりふだった。「この脚本はテーマがロングである。しかし、これがアップになったらうちではできん」と(笑)。そうだろうとは思ったけど。岡田さんのことはみんなが「ゲルシさん」と言ってね。僕は一緒に飲んだこともないんだけど。

『ピーターパン』の終わり


神山 さきほども少しお話のあった『ピーターパン』は一九八一年です。そこから何年か続くわけですが……。
福田 その前に立動舎で『変化紙人形、私の思い出』[ユニーク・バレエ・シアター・一九七一年六月]という芝居をやりまして、そのネタが『ピーターパン』だったんです。この本は、潰れる寸前の文学雑誌、『海』に載りました。
日比野 吉行和子と西川右近が出演しています。このときの演出は岡村春彦さんです。
福田 そうです。『ピーターパン』には子どもの時から興味は持っていたんですけど、この小さい芝居をやっていたのを、コマのプロデューサーが思い出して、「興味があるらしいから」と声をかけてくれたわけです。
神山 私もこの一九八一年の『ピーターパン』は観ていますけれど、当時のいわゆる「宙乗り」の印象とは違う、全然線も見えないようなフライングに驚きました。それと、金田龍之介がすごくよかった。あのフック船長は本当になんともいえない魅力があって。
福田 ありがとうございます。あの人はやっぱり、役者子どものところがあるから。せこいところがなくていい人でした。早く死んじゃったけど。僕はあの人がフォルスタッフをやりたいというので『ヘンリー四世』を結城座と一緒にやったんです[一九八九年一月『ハルとフォルスタッフ』・武蔵野芸能劇場]。ただ、これは今でもそうだけど、糸操りというのはちょっと、あの一家のうちに育たないと無理だよ、というくらい難しい。芸としてね。人を歩かせるだけでもなかなか歩かないんですよ。でもそれが俳優との絡みで面白かったですね。
神山 『ピーターパン』は、結局十年くらい続きましたか。
福田 七年ですね。
神山 二度目に観たときの記憶はあまりないんですが、もちろん主演は榊原郁恵で……。
福田 フック船長は岡村喬生とか。
神山 そのようですね。
福田 『ピーターパン』は七年で終わったわけです。プロデューサーの北村三郎さんがホリプロに移籍するというようなことがあったんですよね。要するにホリプロが『ピーターパン』を独占したかった。向こうとの契約書の名前が、だいたいは社長の酒井肇さんになることが多いんだけど、これは北村さんになってたものだから。でも、北村さんがホリプロに持っていって、すぐにまた上演したかというと、そうでもなくて。要するに榊原郁恵が結婚するので出ないと。あの人は今でも明るいことばかりしていますけど、少しセンシティブなところがある人なんですよ。フライングをする一カ月前には生理も止まっちゃう。それじゃあ結婚はできないので、という話になりました。音楽の内藤法美先生やほかの連中はやるつもりだったでしょうし、僕も準備はしていたんですよ。そしたら「ダメ」ということになったので。それで、働かなくても一本分[の報酬を]あげるから、なんて、そんなこと後にも先にもなかったけど。
日比野 榊原郁恵がやめても、誰か別の人で『ピーターパン』をやる予定にはなっていたんですか。
福田 いや、それは知りません。最初の年に榊原郁恵がやって、当たって、そしたらすぐにコマのスタッフが言い出したのは「来年の郁恵ちゃんは何がいいだろう。『孫悟空』がいいかな」ってことで。基本的には、舞台が当たったのも役者の力以外にはあり得ないという発想なんです。それはしょうがないことです。ただ、『ピーターパン』については、次は誰だ、という声もいろいろ飛んでいたらしくて、打ち上げの会場で僕に電話がかかってきて「次は誰々だ、間違いないね、記事にするよ」なんて言われたこともあります。結果は全然違ってましたけど。まったく無名の双子でしたから。双子ということはどんなハードスケジュールを組んでも大丈夫、という。ホリプロのよくも悪くも非常に徹底的な合理主義精神ですよね。
日比野 なるほど。
福田 だって、映画ロケでもなんでも、昔はヤーさんが出てきて仕切ってたようなことをホリプロに関するものは全部警察に頼んじゃうと。要するにひばりさんの時代とは切れている。それはやっぱり堀威夫君の功績だと思うもん。堀さんは、まれにみる頭のいい人、回転の速い人です。僕は自分が鈍だとしみじみ思うけど、本当にそう。ノーベル賞関係には付き合いがないから分からないけど、でもやっぱり堀威夫さんは「この人頭がいいな」と印象に残っています。バンドのリーダーにはそういうところがあって。僕がもっとも仲が良かったのはハナ肇さんで、あの人はいい人だったな。でも目から鼻に抜けるようなところは全然なかった。

商業演劇と「名前」


神山 『ピーターパン』の間にも『ドラキュラ』[一九八四年十二月・日生劇場]などをなさっています。また錦之助さんがその間に病気をなさって、昭和六十年[一九八五年八月・梅田コマ劇場]の『一心太助』が最後ですか。長いおつきあいだったそうですが。
福田 長いです。
神山 関西に行った時には、京都の家に泊めてもらったとお書きになっています。
福田 常宿にしていましたね。『真田風雲録』のシナリオだって、ずっとあそこに住んでやっていたわけですから。
神山 うちの中にジムみたいなものがあるそうですね。錦之助さんが身体を鍛えるためのものですか。
福田 やっているのを見たことがない(笑)。
神山 また歌舞伎の方でも『若き日の清盛』[一九八四年二月・歌舞伎座]や『宮本武蔵』[一九八五年二月・歌舞伎座]をなさっています。
福田 杉山義法のホンをよくやりました。
神山 日大百周年の『孤松は語らず―大津事件始末記』[一九八九年十一月・歌舞伎座]と里見浩太朗の『平家物語絵巻』[一九九四年一月・明治座]もそうですね。
福田 杉山さんが、僕をと言ってくださったんだと思います。
神山 平清盛にしても宮本武蔵にしても、お客さんがあらかじめ持っているイメージがありますから、難しいところもあるんじゃないですか。観る人は作者や演出家の名前も意識しないわけですし。
福田 もちろんそうですね。ただし例外もあります。あるとき、いそいそと歩いてる演劇評論家に「どうしたの?」と聞いたら「いや、今日の初日の成果で、蜷川幸雄という名前で商売できるかどうかが決まるんだ」なんて言った。だから、評論家たちが、売れる才能を応援し、その波に乗っていこうというようなことはあった。一人や二人じゃないですよ。でも、蜷川さん自身は、自分でそういうのを組織するようなタイプじゃないからね。役者のころから知っていますけど、キンちゃんというあだ名で。
日比野 新聞記者の間で自然とそういう輪が生まれたということですか。
福田 輪なのかどうか分からないけど、「蜷川とは酒も飲んでないけど、そういう応援が必要だと思う」という人はいた。新聞社の人間で給料は安いけど、力を入れてね。かつての唐十郎くんの状況劇場だとか、そういうことはいろいろあったんです。
日比野 扇田昭彦さんなんかがそうですね。
福田 場合、場合であったと思います。
神山 ご自分の名前が前面に押し出されない方がむしろやりやすいというようなことはなかったですか。
福田 それはないと思います。ただ、商業演劇の一側面という意味では、こういう話もあります。作・演出は谷口さんで、僕はただのお手伝いで行ってた舞台にガッツ石松が出ていて。舞台稽古のときに彼が「よーし、この場面は俺がもらった」と怒鳴ったら、それまでやっていたのは全部おしまいになりました(笑)。「屋台がどこかにあるはずだ」と彼が言い出して。皆でしばらく待っていると、小道具が屋台を引っ張ってくるわけ。で、チャルメラなんか吹いて、中華屋の場面ができた。同じような話は、大河ドラマのときにもありました。大衆芸能の育ちの方だったけど、馬で外を走っているシーンに「彼は死んだ」というようなナレーションが入って出番が終わるっていうのが、気に入らなかった。それで、自分は病床にいて、親戚が集まっているっていう場面を、遺言のせりふまで書いてやっちゃったんです。蟹江敬三なんかが呼ばれてましたね。でも、前後の繫がりはつかないし、周りは困っちゃう。さすがにNHKでも問題になって、そのシーンは使われませんでした。ただ、僕はそういう流れも含めて、いい悪いじゃなく、芝居は皆でつくるものなんだというふうにも思うんです。
日比野 蜷川幸雄が最初に商業演劇を演出したときに、やる気のない端役がいっぱいいて、怒鳴り散らしたというようなことを書いていますが……。
福田 それはそうだよね。僕は怒鳴り散らしたことはないけれど。持っていきかたもあると思いますよ。たとえば橋幸夫さんが座長で、橋さんが「頑張ろうよ」と言えばちゃんとやるというようなことはあったし。要は座長を中心についていくんです。もちろん、それが度をすぎると、という弊害もあるとは思うけど。だからもう、だいたいお分かりいただけたとは思うけど、「皆でつくる」ことがまず基本。僕にとって、商業演劇や新劇、それぞれの違いが面白かったということもなくはないけど、それが全てかといわれると違和感はある。
日比野 先生は、戯曲集『しんげき忠臣蔵』(三一書房、一九七〇年)の後書きに、自分とへその緒がつながっていると感じた作品はウケない。テクニックを駆使して書いた方がウケるというようなことを書いていらっしゃいます。
福田 確かにそうですね。ただ、どれもへその緒はつながっているんです。自分の意識としては。

新劇のリアリズムの実際


神山 商業演劇と新劇と、両方書いた人では、三島由紀夫のことをお書きになっていますね。
福田 そうですか。
神山 『現代日本戯曲大系』第二巻(三一書房、一九七一年)の解説で『愛の不安』という戯曲をすごく褒めていらっしゃる。それから『薔薇と海賊』もすごくお好きだと書いていらしたのが意外でした。また、矢代静一さんとは一時ライバルのような感じで、というようなことを書かれていて。
福田 ある時期ね。それほど大げさではないですけど。やっちゃんとは仲良くさせていただきました。
神山 『愛の不安』は上演をご覧になったんですか。
福田 本でしょうね。いや、もしかすると観ているかもしれない。あれでしょう、SFの、赤ん坊の顏をしている……生まれるはずの子どもの。あれは面白かった。佐藤信くんが養成所時代に演出しているんじゃないかと思います。
神山 俳優座と三島由紀夫は結構最初は縁があって、一緒にやっていたこともありましたからね。新派でも『金閣寺』を劇化したとき[一九五七年五月・新橋演舞場]には、村山知義が演出をしているんです。三島由紀夫の原作を村山知義が脚本を書いて、演出をするなんて変な感じがするけれども、ある時代まではそれは別にそんな不思議ではない。浅草国際劇場のSKD公演でも、このコンビでやってます。
福田 村山知義さんという人については、僕は分からないんだけど。ドイツ時代には千田是也さんと一緒でダダイズムの洗礼なんかも浴びているわけでしょう。それで戦後は社会主義リアリズムの『死んだ海』[一九五二年六月・読売ホール/スミダ劇場]とか。『死んだ海』は、『世界』に載ったのを「勉強しよう」なんて思って読んだんです。でも続編になったらなんだかがっかりしちゃって。村山リアリズムにもちょっとついていけないなと思った。
神山 そうですか。リアリズムといえば、民藝の内山鶉さんが久保栄の本読みの録音を演劇学会で聞かせてくれたことがあるんです。そうしたらまるきり新歌舞伎みたいな感じで読むんです。自分の本をこんな調子で考えてたのかと思うと、全然イメージが変わりましたね。
福田 ああいう調子というのは、大きな声である程度ちゃんとやらなきゃいけないときには楽なんです。動きもそのようですよ。見得を切って休んでいるところもある。
神山 たしかに、僕なんかの世代でも、たとえば滝沢修はリアリズムの芝居をすると思っていたんですけど、今あらためて考えるとものすごい大芝居だったような気もします。
福田 言われてみれば『たくみと恋』というシラーが原作で、岡倉先生が演出した舞台[民衆芸術劇場(のちの民藝)・一九四八年五月・帝国劇場]があって。これはすごく感動したんだけけど、そのときの滝沢さんはやっぱり派手にやっていたかもしれません。それほど大芝居の印象はないですけど、ただ映画では本当にクサかった。僕ね、滝沢さんの背中に触ったことがあるの。第一回訪中新劇団というのがあって、僕はその国内スタッフというのをやった。それで当時、僕が代役をやったんです。汗ばんだ背中に触る、変な記憶があります。滝沢さんの背中って、丸くて、大きくて有名なんだ。片谷大陸[劇団民藝専務・劇場制作者、一九一七―二〇〇三]さんは「滝沢さんはいつも舞台でこう、背中をみせるんだ」なんて言ってました。滝沢さんは京都なんかでお目にかかるとごちそうしてくださったりして。そしたら、垂水悟郎[劇団民藝出身の俳優、一九二七―一九九九]さんが、「何、滝沢さんにごちそうになった、これはお前、驚天動地だ」と言うんです。

新劇でも小劇場でもない知恵


日比野 先生の幼いころというのは、やはり歌舞伎や新派を中心にご覧になっていたんですか。
福田 いや、歌舞伎しか観てない。よく覚えているのは、六代目さん[六世尾上菊五郎]で。
神山 相手は喜多村緑郎でしたか。
福田 『一本刀土俵入』も観ました。
神山 東劇ですね。
福田 歌舞伎座と思ってたけど、東劇かもしれないな。二階にでっかいNHKのマイクロフォンが置かれて。要するに喜多村さんがもう最後なんじゃないかということで。でも実際はそうはならなかった。
神山 すごい長生きされましたから。
福田 でも僕は新派もほとんど知らないで、岡倉士朗さんが『望郷の歌』をやるのでついていって、帰りの電車で作家の大垣肇さんと話したということはありますけど。
日比野 じゃあ、新国劇もお仕事で初めて接したんですか。
福田 ほぼそうです。
日比野 麻布中学校で、小沢昭一さんのような、新劇をよく知っている人に出会ったときには、違和感のようなものはなかったですか。
福田 いや、こっちは何も知らないわけですから。これはどこかにも書いて有名になっちゃった話だけど、有楽座で『火山灰地』を観たとき[一九四八年三月]に、二階の一番上手寄りのところに座っていまして。そこに短い花道があったんですね。青山杉作さんが怒って席を立つのを、千田是也さんと、永田靖さん、[松本]克平さん、浜寅[浜田寅彦]さんなんかが追っかけていく場面があるんですけど、本当に走るんです。「はぁ、新劇というのは本当に走るのか」とカルチャーショックを受けました。歌舞伎だって走るけど、形をつけていますから。
神山 先生は日本橋のお生まれですよね。日本橋というと、小林信彦のように非常にそこで生まれたということを誇りに思う人もいると思うんですが。
福田 いや、そういう日本橋じゃないです、僕のところは。一丁目と三丁目にわりとお金持ちがいましたが、うちは二丁目。東京証券取引所の鎧橋を渡ってすぐそばです。あのころは「合百(ごうひゃく)」というのがいたんです。空株の上り下がりに賭ける連中。で、おまわりさんがくると、たがいにサインで合図を出す。「マッポが来た」と。ですからその世界と小林信彦さんの日本橋はちょっと違うようです。僕は日本橋の芳町一の十番地にある小学校を出ました。ですから、そういう雰囲気も少しは分かっている。三木のり平さんもよくしてくださって、いろんな話をしましたけど、あの人は千代田小学校です。あの辺としてはいい学校なんですけど、「俺は新劇出身なんだ」とよく言っていました。
日比野 演劇とはかくあるべし、という先生のお考えは、歌舞伎がもとになっているのでしょうか。
福田 それはやっぱり子どものときから観ているということはあります。ただやっぱり、歌舞伎でも芝居が観たい、人間が観たいですね。だから、いいかっこして、見得だけでやられても困る。今日の話題にはなっていませんが、自分のメインの仕事、目標は明確に、昔なら新劇と言われた小劇場だったと思うし、仲間もみんな小劇場演劇ですから。ブリコラージュというか、そういう寄せ集めの、手作りの味わいが芝居の基本だと思っている。商業演劇でも、一時のコマの若い連中の間にはそういう雰囲気があった。ブリコラージュって小道具じゃん、なんて思ったもん。スタッフでも、自分で一生懸命小道具をつくったりするような連中を僕は尊敬します。ただ、そういう人たちに限って、年をとると偉くなってギャラが高くなっちゃうから使いづらいんだけど(笑)。
 それからもうひとつ、たとえばチェーホフだとかはもちろん今でも通じるビッグネームだけど、近代劇というものが全体としてはあまり見えなくなっていますよね。
 僕はずっといわゆる新劇とか小劇場じゃない演劇のありかたを知りたいと考えていたんです。その一つの、[大衆演劇の]沢竜二との仕事です。一緒に取材して歩いたり、舞台をやったり。
日比野 なるほど。
福田 僕らは方法論的に、社会主義リアリズムに対して批判的だったから、もともと新劇的な発想からは少しずれていた。ただ、そうだとしても演劇を通して世界の真の姿を捉えることができるはずだという思いは持っていた。
日比野 共産主義にも近代劇にも共通する、世界を「全体」として捉える発想に若き日の福田先生たちは異議を唱えたわけですよね。ところが両者が破綻してしまった今は、世界の一部を描いて事足れりとしてしまう知的怠惰が蔓延し、ポストモダニズムという名前で正当化される。それもおかしいじゃないかと。新劇団に疑問を突き付け、大衆演劇や商業演劇に新たな可能性を見たのは、両者がともに乗り越えられ弁証法的統一を見るためだったのに、ということでしょうか。
福田 理屈はそういうことになるかもしれませんが、もっと実感レベルでいうと、民藝だ、俳優座だ、といった大きいところと一緒にやろうということに希望が持てなくなっていた頃のことで今でも明確に覚えているのは、チエミさんの舞台に出ていた茶川一郎さんの芝居。『白狐の恋』の後半で、ヤクザになって九寸五分の刀を振り回すんだけど、すごいリアリティーがある。もちろん、あの目玉のせいもあるけど、本当にすごかった。コマみたいにデカい劇場で、ですよ。三大劇団のようなものとは違った、不思議に身に付いた表現力があるなと思いました。何もかもごっちゃに巻き込んでしまえということではないけれど、やっぱり僕の関心のあり方というのは、新劇だとか、小劇場だとか、そういう型にハマらない、そこからあふれてしまうようなものにあり続けているんです。
日比野 残念ながら、先生がその半生をかけて追求されてきた、商業演劇の枠組みの中で育まれてきたリアリズムや美学の意義や効果は、これまであまり真剣に考えられてこなかったと思います。そういった意味でも、今日はまさに、お聞きしたかったお話を伺えたという気がしています。長い時間ありがとうございました。