市川梅香聞き書き


取材日:二〇一五年五月三十日
取材場所:桜ヶ丘ミュ—ジアム(愛知県豊川市)
取材者:舘野太朗・神山彰・日比野啓
取材立ち合い:近田美保
編集・構成:舘野太朗
監修:市川梅香

イントロダクション


 かつて、市川少女歌舞伎という劇団があった。
 愛知県豊川市の市街地は、豊川稲荷の門前町ということもあり、藝事に熱心な土地柄であった。太平洋戦争後、日本舞踊を習っていた門前町の少女たちが、趣向として歌舞伎を取り上げたのが市川少女歌舞伎のはじまりである。豊川市の農村部は、戦前から地芝居が盛んであった。芝居の愛好家たちは「万人講」という組織をつくって芝居を上演した。これは一種の講組織で、代表者を都会の劇場へ送ってセリフや所作を覚えさせ、それを他の構成員が習って、芝居を上演する仕組みである。「万人講」には、芝居好きが高じて、しろうと芝居に飽き足らず、本職へと身を投じる者も少なからずあった。市川升十郎もその一人で、自らの劇団を率いて巡業をしていたところを少女たちの指導者として迎えられた。
 升十郎の指導を受けて歌舞伎の発表会を行った少女たちは、請われて各地の余興や祭礼にも出演するようになった。その評判を聞きつけた静岡県浜松市の浜松座は、彼女たちと専属契約を結び、徐々に商業劇団化してゆく。升十郎は成田屋宗家市川三升に支援を求め、公演を見た三升は少女たちの力量を認めて後ろ盾となることを約束した。一九五二年夏の浜松座公演で、「市川少女歌舞伎」と改名し、口上には三升も出演した。
 翌一九五三年二月には三越劇場に出演し、以後、つぎつぎと東西の大劇場に進出する。出演したおもな劇場を列記すると、東京の明治座、東横ホール、京都の南座、大阪の四ツ橋文楽座、中座、そして、名古屋の御園座。一九六二年に商業公演を取りやめるまでのおよそ十年の間、少女だけで演じる歌舞伎があらゆる商業演劇に伍して大劇場で公演を行っていたのである。往時を知らない私たちは、観客だった人びとの思い出話を聞いて、あるいは当時の演劇雑誌で記事を目にして、そんな劇団があったのかと知って驚くのである。中日新聞記者の黒川光弘は、劇団の足跡を紹介する連載に『まぼろしの少女歌舞伎』というタイトルを冠した。私たちにとって市川少女歌舞伎は、まさに「まぼろし」である。
 たいへんな人気を誇ったにも関わらず、市川少女歌舞伎の存在はほとんど顧みられてこなかった。当事者の自伝としては、市川升十郎『かぶき人生』(豊文堂、一九八三年)、市川梅香『まつば牡丹の記』(毎日新聞連載、一九九三年)がある。第三者の手によるものには、前述の黒川光弘『まぼろしの少女歌舞伎』(中日新聞連載、一九八四年)がある。升十郎の著書を除くと、新聞連載という形式で発表されたこともあり、気軽に読むことが難しい状況にある。学術的な研究としては、ローレン・エデルソン『ダンジュウロウズ・ガール』(Edelson, Loren. Danjuro’s Girls: Women on the Kabuki Stage. New York:
Palgrave Macmillan, 2009)が唯一の存在である。エデルソンは、「多くの日本人にとって、『女歌舞伎』や『歌舞伎女優』という言葉は形容矛盾を含んでいる」と指摘する。一般的に、歌舞伎が「男性の/大人の/家柄の俳優」が出演する演劇と考えられているからである。当然ながら、それは現代の商業演劇として上演される歌舞伎についてあてはまるというだけで、実際には多くの例外がある。それはともかくとして、市川少女歌舞伎は、それとは正反対の属性、つまり「女性の/子どもの/家柄でない俳優」の演じる「歌舞伎」であった。近年の演劇研究では、類似した藝態の「女役者」や「少女歌劇」の存在が注目されるようになってきたが、市川少女歌舞伎については未だに基礎的な情報が不足している状況にある。本研究では、「(歌舞伎以外の)商業演劇」を対象とするが、「研究対象として軽視されてきた」点においては条件に合致するため、この劇団を取り上げることにした。市川少女歌舞伎が演じたのは紛れもない歌舞伎であり、それを否定するつもりは全くない。
 今回、私たちはおふたりの「少女」のお話しを伺う機会を得た。一人目の「少女」は、市川梅香さんである。梅香さんは最初期から劇団に参加され、幹部の一人として、主に立女形の役どころをつとめられた。『日高川入相花王』、『神霊矢口渡』における、梅香さんの「人形振り」は劇団の売り物のひとつであった。現在は、市川少女歌舞伎発祥の地である豊川市を中心に、自身の創流した「さつき流」の家元として歌舞伎舞踊の指導、豊川市で活動する地芝居団体「おくにさん座」と、三重県東員町で活動する「松の会こども歌舞伎」で歌舞伎の指導をされている(私たちが「梅香師匠」と呼んでいるのはそのためである)。また、前述の『まつば牡丹の記』を執筆されたり、市川少女歌舞伎の銅像を建立されるなど、市川少女歌舞伎の功績を後世に残す活動にも力を入れられてきた。
今回の聞き書きは、豊川市桜ヶ丘ミュージアムで実施した。同ミュージアムは市川少女歌舞伎に関する資料を所蔵しており、取材前に閲覧させていただいた。なかでも、劇団が制作した映画『歌舞伎劇シリーズ』のビデオは、市川少女歌舞伎の藝態を知る手がかりとして貴重な資料である。取材に際しては、おくにさん座の近田美保さんに仲介と、取材立ち合いでご協力いただいた。この場でお礼を申し上げたい。

現在の活動について


舘野:まずは、現在の活動について教えてください。
梅香:歌舞伎のほうでは、「三刕おくにさん座」[刕は州の異体字]。阿国山三[歌舞伎の祖といわれる出雲阿国(いずものおくに)・名古屋山三(なごやさんざ)の二人を称した]とは字が違っていて、私が命名しました。その集まりが、豊川と豊橋で、若い人たちで活動しております。以前は、「豊川おとめ歌舞伎」が別にあったんですけど、いまはひとつでやっております。
舘野:このまえの「おくにさん座」には、『車引』の桜丸に小学六年生くらいの子も出てましたね。
梅香:お母さんたちが同伴するだけで大変ですから、今は子どもたちもなかなか集まらなくて。あとは、伊勢の員弁、いまの東員町[三重県員弁郡東員町]ですね、そこでも子どもたちの集まり[松の会こども歌舞伎]がありまして、行っております。
舘野:その関係で「おくにさん座」の公演のときに、いまの幸四郎さん[九代目松本幸四郎(一九四二—)]からお花が来ていたんですね。
梅香:そうなんです。高麗屋の七代目[七代目松本幸四郎(一八七〇—一九四九)]が生誕地なんです。
舘野:以前は、市川松尾さん[三代目市川松尾(一九二九—二〇〇九)]が教えてらしたけれど、亡くなられて。
梅香:そうですね、それからです。やっぱり歌舞伎を教える人たちが今いないんですよね。資料をたくさん持ってないとだめですし。ただ歌舞伎でちょっと顔を添えてきたみたいな人たちではなかなか教えるまでのところまでいってないんですよね。教えることすら許されないということもありまして。
舘野:自分でシンの役を経験して初めて教えられる、ということでしょうか?
梅香:その芸題一幕の、役、大道具、小道具、義太夫、下座音楽、化粧、着付、裏方の仕事すべてを身につけなければ指導にあたれないと考えております。
舘野:やはり、芝居の全体がわかっている必要があるんですね。
梅香:はい、それで御園座さんのほうからのお話で、「梅香さん、なんとか行ってくれないか」ということで行くようになりました。員弁の人たちが御園座のお客さんなんですよね。
神山:歌舞伎の嵐橘三郎さん[六代目嵐橘三郎(一九四四—)]が、三重のご出身で、中京の芝居を子どもの頃に見ていて、少女歌舞伎も御覧になったって言ってましたね。
舘野:橘三郎さんは僕の[地芝居の]お師匠さんなんですよ。富十郎さん[五代目中村富十郎(一九二九—二〇一一)]のお弟子さんで、桑名[三重県桑名市]のご出身です。入門されるまえ、地元にいたころは、大歌舞伎は見なかったけど、少女歌舞伎は見たっておっしゃっていました。
梅香:三重県では本当に私たちを育ててくれましたね。そのかわり野宿とか苦労もしました。

少女歌舞伎結成のころ


舘野:それでは、昔のことをお話ししていただきましょう。[一九五三年二月に]三越劇場に出るまえの、少女歌舞伎を結成したころのことを教えてください。もともとは踊りの会だったんですよね。
梅香:そうです。私どもの親が豊川の門前で水商売に関係しておりまして、私の母は料理屋をやっておりました。娘の習い事というとお琴や踊りですね。そういうものはみんながやっておりました。そこで発表会があるわけです。各流派の発表会じゃなくって、みんな寄せ集めでやっていました。ところが、当時は出てくる外題がみんな一緒なんです。どこもここも、みんな「藤娘」だとか「羽根の禿」だとか。歌謡曲のものは全然なかったですからね。親たちが「これでは面白くない、何か際立ったものが欲しい」ということで、歌舞伎をはじめたんです。岡崎[愛知県岡崎市]から豊田[愛知県豊田市]のほうへ向いていくところに千両[ちぎり、愛知県豊川市千両町]というところがあって、お百姓さんたちが農閑期に歌舞伎をするのが盛んなところです。そこにいるお百姓で古川さん[古川芳一]という方がいちばん初めに[振付を]手がけてくれました。古川さんは、[役者として]勝川又之丞という藝名をもっていました。その人は、いわゆる「万人講[まんにんこう]」といって、素人歌舞伎ですから、手に持っているもの[教えられる演目]が少なかったんです。そこから思い浮かんだのが、市川升十郎(一九一三—一九九八)師匠。升十郎師匠は、戦後、市川團吉という名前で地方回りをしていたんです。升十郎師匠に頼んで、ひとつふたつ教えてもらっているうちに、だんだんに外題の数を増やしていったんです。
神山: [一九四九年に]初めて豊川の昭和座に出た時は升十郎先生ですかね。
梅香:昭和座でいちばん初めやった時分はまだ古川さんです。浜松座に出るころにはもう升十郎師匠です。
神山:升十郎さんという方は、米寿さん[市川米寿]という女役者の方の一座にいたそうです。米寿さんは、まえ市川照吉といって、昭和二十七年(一九五二)ごろまでは半田[愛知県半田市]にいらしたそうです。
梅香:私どもは詳しく知りませんが、そうかもしれません。
舘野:地元で発表会をしているうちに、いろんな所から声がかかって、巡業のようになっていったんですね。京都の伊根というところ[京都府与謝郡伊根町]に舟の上でやるお芝居があって、少女歌舞伎で出演されたそうですね。
梅香:伊根には思い出があって、京都市内の南座の公演が済んで、その明くる日に伊根に渡って巡業を[伊根の劇場から]始める予定だったんです。ところが興行師の方たちが、お金の問題でしょうね、旅館を取らずになんとかしたいというので、座員一同で野宿をしました。京都駅の前にちょっとした築山があって、そこで寝て一晩明かし、朝一番の電車で伊根に向かいました。
舘野:伊根の舟屋台には、少女歌舞伎の最初の頃[一九五一年]に行ってらっしゃいますが、ずっとあとの商業劇場に出るのをやめた後にも行っていますか。というのも、郡司先生[郡司正勝(一九一三—一九九八)]が、一九七〇年の伊根祭に行って、「浜松の市川女かぶき」を見たと本[郡司正勝『地芝居と民俗』一九七一、岩崎美術社]に書いていましたので。
梅香:最初は伊根祭りですが、その後市川少女歌舞伎公演として劇場で公演しています。[伊根には]二、三回行っています。
舘野:そうなんですね。郡司先生は、伊根のお祭りで芝居をやったのは、「大正七年(一九一八)、八年(一九一九)、十一年(一九二二)、十四年(一九二五)、昭和九年(一九三四)、二十六年(一九五一)」で、このとき[一九七〇年]は十九年ぶりだったと書いています。伊根でお祭りに歌舞伎を呼ぶのは、大漁の年だけだそうですね。
梅香:そう言っていました。向こうでは個人のおうちに泊めていただきました。旅館じゃないから、一軒に何十人と泊まれるわけじゃありません。三、四人のグル—プにわかれて何軒かの家に泊まらせていただきました。
舘野:伊根には赤穂の歌舞伎[嵐獅山一座、現在の播州歌舞伎]も来ていたそうですが、ご覧になりましたか。
梅香:方々から色々な劇団が来ていたみたいですが、時間がなくてよその歌舞伎は見る機会がなかったです。それと、女の子ばっかりですから、外との触れ合いは禁じられておりました。
舘野:最初に伊根の祭りに出演されたころは、浜松座によく出ていたそうですね。
梅香:浜松のお客さんたちは、私たちを娘みたいにおもってくれておりました。この写真が浜松座の舞台です。
舘野:ありがとうございます。桟敷ではなくて椅子席だったんですね。
梅香:浜松座は大道具も揃っていたので、私たちが公演のたびに持ち込む必要がなかったんです。
神山:盆とかセリとかはありましたか。
梅香:ありませんでした。花道も短くて斜めになっていました。六十日間興行で、五日で外題が替わるんです。二の替わり、三の替わりって言ってね。
舘野:一九五二年に浜松座で「市川少女歌舞伎」という劇団名を披露したとき[一九五二年七月—九月浜松座]の筋書のコピ—を持ってきました。このときは十二の替わりまでやっています。
日比野:そのころにはもう、レパ—トリ—がそれだけあったということですよね。
梅香:いいえ、先に六十日間続けて興行することが決まっちゃって、持ち合わせの外題はなかったんですよ。初日が開くと、次の外題をお稽古する。毎日それの繰り返し。
舘野:それは大変ですね。だけど、これだけの外題を一度そろえてしまえば、主だった作品はほとんどできるようになったわけですね。
梅香:そうですね。
舘野:浜松座以外には、名古屋の大須にも出てらっしゃいますね。
梅香:大須だと、新歌舞伎座ですとか、富士劇場ですとか。できるところではすべてやっていました。
神山:大須の新歌舞伎座は、結構きちんとした劇場だったんですってね。見た記憶のある方はみんなそうおっしゃいます。
梅香:ええ、規模はちょっと小さいですけど。どうしても名古屋の方たちは御園座と比べて、見劣りすると思ってしまうんですけど。
神山:富士劇場では市川少女歌舞伎をまねて「富士少女歌舞伎」というのをつくったそうですが、なにかご記憶はありますか。
梅香:ああ、聞いたことはあります。
神山:本当にあったんですね。ご覧になったという方がいて、半信半疑で聞いていたんだけど。
梅香:少女歌舞伎を観て次々といろいろつくられた方がいますよ。
神山:中村少女歌舞伎ってのもあったんですってね。
梅香:そうですか。
舘野:中村少女歌舞伎は一九五四年に浅草の松竹演芸場に出ています。長野県の岸野村[長野県佐久市岸野村]というところから来たそうですよ。
神山:岐阜の中津川[岐阜県中津川市]に旭座っていう劇場があったそうですが、ご記憶におありですか。
梅香:はい、ありました。旭座も行っております。
神山:旭座は、中津川ではいい劇場だったということを何人かの方がお書きになっています。昭和五十年[一九七五]頃に簡単に壊しちゃったそうです。そのころは、今みたいに古い建物を保存しようとかそんな時代じゃなかったんですよね。やっぱり、いい劇場でしたか。
梅香:そうですね。ですけど、私たちが行った時分には、ちょっと新しくなりかけて、映画館かな、お芝居の小屋かな、というような感じでした。花道はなくなっちゃうし。
神山:昔は流行らなくなった芝居小屋が映画をかけるようになると「映画と実演」って宣伝してましたよね。梅香さんがお好きだった劇場はどういうところですか。
梅香:やっぱりねえ、昔の小屋。升席に座ってみんなでお弁当食べながら[芝居を見る]。そういうところがいいですね。岐阜にもたくさんありましたからね。
神山:岐阜は本当に数が多かったみたいですね。交通の便も良かったんですかね。
舘野:あそこは木材の産地ですから、村ごとにああいう立派な芝居小屋を建てることができたんだとおもいますよ。今でも升の席でおひねり投げながら芝居を見ていますね。そういえば、少女歌舞伎でおひねりは飛んできましたか。
梅香:ありましたよ。
舘野:やっぱりお祭りをまわっていたときですかね。
梅香:そうですね。そのころは多かったですね。
日比野:さすがに大劇場では無いですよね。
梅香:大劇場ではないです。表のほうで止められていますので。
舘野:岐阜のほうもそうですけど、東京に進出する前から、巡業では結構遠くまで行っていたんですね。南座に初めて出たとき[一九五四年六月南座]の筋書を見ますと、このときが京都初お目見えではなくて、前の年にも来ていたと書いてありました。
梅香:そのまえが八坂会館。
舘野:あ、そこですね。三越劇場に出るまえから少し小さめの劇場には出てらしたんですね。そのころ[三越劇場進出前]の巡業は、升十郎師匠が旅芝居のころから持っていた経路ですか。それとも浜松座が請け負っていたのでしょうか。
梅香:さあ、ちょっとわかりませんけど。一応全部浜松座が仕切ってたんじゃないでしょうか。
神山:浜松座というのは、金子啓二さんがやっていたんですよね。
梅香:そうです。金子さんが専務で、小野さん[小野近義(一九〇五—一九八一)]が社長でした。
日比野:地方に乗り込むときに、町まわりのようなことはしたんでしょうか。
梅香:しました。賢島[三重県志摩市]だったかな、伊勢の志摩半島をまわったときに一人もお客さんが入らなかったんです。「じゃあ、みんなで口上をいって自動車でまわろう」ということになりました。当時は自動車に乗ることがあまりなかったから、乗せてもらうのが嬉しくて、「行く行く!」なんて、手を挙げてね。口上は、「淀の川瀬の水車、ただクルクルとお待ち申し上げます」だったかな。それでお客さんが少し入ってくれて、夜の部がいっぱいになったということがありましたよ。

大劇場の観客たち


舘野:[一九五三年二月に]三越劇場に出演されてからは、大劇場での公演が続いていきますよね。
梅香:そうですね。三越[劇場]に出てからは、東京の明治座でいろいろ仕切っていただきました。
舘野:東京と、大阪や京都と、名古屋では、お客さんの雰囲気や反応に違いはありましたか。
梅香:ありますね。東京のお客さんは、意外と冷静な目で見てくださるという感じでした。関西、大阪や京都のほうへ行きますと、とても感激性が強くて、「キャ—」なんて声も出てきましたよ。
神山:「キャ—」なんて声がかかるなんてね。嬌声とか黄色い声とか言ったんですよね。当時のお客さんに女学生みたいな方も結構いましたか。
梅香:いや、女学生という感じではなかったです。でも、同世代の人たちもよく観に来てくれました。その時分に、大向こうが「大統領!」って掛かるんですよね。そうしたら、それは禁じられましてね。戦後[間もない時期]ですから、大統領はいかんということで。
舘野:わはは。左團次さん[二代目市川左団次(一八八〇—一九四〇)には「大統領」の掛け声が掛かったという]ではなくて、アメリカに遠慮したわけですね。
神山:『幕間』の座談会[「市川少女歌舞伎の人々と語る」『幕間』一九五四年九月号]で、梅香さんは「あまり声はかけられたくない」ということをおっしゃっています。『酒屋』のお園の時にね、「サワリをお客さんに手を叩かれたり、声を掛けられたり、騒がれると嫌な気がするんです。」って。そんな気持ちはありましたか。
梅香:関西ではそんな気はありました。
神山:僕が大阪の舞台を見たのは、せいぜい昭和五十年代始めからですけど、それでもやっぱり違いましたよ。東京と違って芝居がはじまっても静かにならないんですよね。
日比野:地元の[豊川に近い]名古屋はどうでしたか。熱狂の具合は大阪と東京の中間ぐらいでしたか。
梅香:やはり、地元ですから応援の仕方が違うというか。身内とか、知り合いとか、楽屋に来るお客さんが多かったですよね。
日比野:贔屓筋とのお付き合いで何か決まりはありましたか。
梅香:劇団の幹部が九人おりまして、絶対九人[一緒]でなくちゃいけないんです。一人で行くということは、いくらその人のファンの方が呼んでも許されません。九人が一緒に行って、そこで御飯をいただいて、というようなことでしたね。
日比野:そういう決まり事をおつくりになったのはどなたですか。
梅香:升十郎師匠だとおもいます。
神山:でも、[毎日新聞連載「まつば牡丹の記」には]南座の楽屋から抜け出して、舞妓さんとボ—リングしに行ったとかいうように思い出をお書きになっていますけど。
梅香:舞妓さんや藝妓さんたちが、大勢で観に来てくれたんですよ。あちらも女ばっかりで、外とのつきあいを禁じられておりますし。
日比野:同じような境遇だったということですね。
梅香:そうそう。宝塚も厳しかったらしいですよ。そういう人たちと一緒にお話ししたりしました。

竹本三蝶、文楽、人形振り


神山:宝塚というと、女流義太夫の竹本三蝶(一八九六—一九七一)さんが「宝塚義太夫歌舞伎研究会」をずっと指導してらしたから、その縁もありますね。
舘野:市川少女歌舞伎が竹本三蝶一座と共演したとき[一九五四年四月文楽座]の筋書を見ますと、それぞれの役に太夫さんがついています。役者さんはしゃべらないで、振りだけやっていたということですか。
梅香:文楽では役者がしゃべるということは絶対いけないので、全部向こう[三蝶一座の太夫]がしゃべっちゃうんです。一段義太夫を語るのと一緒ですね。だから、私たちは振りだけをしました。
日比野:「人形振り」ということでしょうか。
梅香:「人形振り」というか、ちゃんと役者の藝をして、気持ちも入れて、泣くところでは泣きます。三蝶さんたちの気持ちの入ったセリフのなかで、私たちがやらせてもらうということで、お腹の藝を教えられたんですよ。自分だけでやっていては、そこまでは出来なかったかもしれないです。
神山:四ツ橋の文楽座に出た頃のことですね。道頓堀の朝日座が一時「文楽座」と名乗っていたのとは別の、それ以前の文楽座だ。
梅香:そうです、四ツ橋。なつかしいねえ。文楽座のすぐ裏に大野屋っていう旅館があって、そこの娘さんが少女歌舞伎のファンでしてね。毎日観に来てくれました。
神山:そのころの文楽座はもう松竹が仕切ってたんですかね。
梅香:そうですね。松竹がもう仕切っておりましたね。
神山:それで、楽屋に綱大夫さん[八代目竹本綱大夫(一九〇四—一九六九)]ですとか、紋十郎さん[二代目桐竹紋十郎(一九〇〇—一九七〇)]なんかまで来てくれるというね。
梅香:ご自分たちの劇場ではあるし。「いっぺん観に行こうか」みたいなことで来てくれた。三河訛りを全部とらにゃいかんと言われました。
神山:あちらの人にしてみれば、東京言葉も訛りがあるって言われるんですからね。
梅香:このへんは、「じゃん、だら、りん」ですからね。アクセントも全部、教えていただきました。
舘野:少女歌舞伎と文楽座は何度か共演したこともあって、大夫と三味線が出て、『三人三番叟』をやってますね[一九五四年十二月御園座、一九五六年二月南座など]。
梅香:『三番叟』は、こちら[少女歌舞伎の役者]は全然喋りませんからね。よかったとおもいます。
神山:当時にしてみれば、綱大夫や紋十郎が教えてくださるというのは大変なことですよね。歌舞伎の人にだってそんなには教えてくれませんよ。
梅香:本当にね。当時、私たちは子どもでしたから、向こうが喋ってくれても、おじさんと喋ってるようなつもりでいましたけど。あとあと考えてみると偉い人と[話してた]。
神山:知っていたら、緊張して駄目ですけど、かえって知らないからよかったんでしょうね。いまご健在なのは文雀さん[吉田文雀(一九二八—)]と紋寿さん[桐竹紋寿(一九三四—)]ぐらいですね。
梅香:私が人形振りで『日高川』の清姫をやって、 紋寿さんが船頭をお弟子さんと一緒に人形でやってくれました。
舘野:それは少女歌舞伎の頃でしょうか、もっと後になってからでしょうか。
梅香:少女歌舞伎解散後のことです。歌舞伎舞踊さつき流を立ち上げ、さつき緑秀という名前でリサイタルを行ったのです。一九九一年十一月四日、豊川市文化会館で『壺坂』[五代目豊竹呂大夫(一九四五—二〇〇〇)、五代目野沢錦糸(当時は錦彌)が文楽から参加、梅香のお里、市川秀子の沢市]と、『日高川』「渡しの場」を。そのときに清姫の人形の手振りも教えてもらったり。そのときは、早く亡くなった呂大夫さんが語られました。呂大夫さんも市川少女歌舞伎のファンでした。
神山:松竹というと、大谷竹次郎(一八七七—一九六九)さんはいかがでしたか。そんな簡単に口なんか聞くことはなかったでしょうけど。
梅香:ええ。それと私たちがまだ子どもでしたからね。向こうもそのように接して。
神山:優しいおじいさんという感じでしたか。
梅香:そうなんです。御園座の長谷川[栄一]社長もとても熱心にやってくれました。
神山:やっぱり芝居は、興行も本当に芝居が好きじゃないとね。そろばん勘定はあるに決まってるんだけど、それだけじゃ絶対だめだと。明治座の社長の三田[政吉]さんも本当に芝居好きでした。では、市川宗家の話に。

少女歌舞伎の指導者たち


舘野:[芝居や踊りの]指導者は、市川宗家[市川三升(一八八〇—一九五六)]が全部紹介していたんですか。
梅香:そうですね。師匠は宗家が大体、声かけてくださっていました。
神山:三升さんは、近寄りがたい感じでしょう。
梅香:ぜんっぜん。まったくそんなことは無かったです。私たちは、田舎の出でしたから、旦那[三升]も緊張せずに、「おい」とか「やい」という感じでした。あるとき、タクシーに[三升と]一緒に乗ることがあって、車が狭いから、「おれの膝に来い」って、膝の上に乗せてもらったりしてね。[三升が]ラムネを飲むときに、私たちが「ちゃんとコップについであげなきゃ」と用意したら、「そのままくれ」なんてね。[ラムネの]玉を操作して飲むのがいいんですって。そんな人でした。
神山:写真で見るといかにも学者風で近寄りがたい雰囲気だけど。全然違うんですね。
梅香:そうですね。逆に歌舞伎界へ入ってくと、ご本人が緊張しちゃうんじゃないですか。
神山:自分は宗家であるから、格とか立場があるから。
梅香:もともとが銀行員ですからね。
神山:そうですね。その宗家の紹介で、『伊勢音頭』は寿海さん[三代目市川寿海(一八八六—一九七一)]が教えてくれたんですよね。
梅香:そうです。外題ごとに、みんな先生が違ってくるんです。筋道の稽古は升十郎師匠がされて、後は寿海師、[九代目]海老蔵[十一代市川團十郎](一九〇九—一九六五)師、[二代目中村]鴈治郎(一九〇二—一九八三)]師が教える。踊り所作事は[二代目]尾上松緑(一九一三—一九八九)師と藤間藤子(一九〇七—一九九八)師。
神山:雑誌で読むと、『新口(にのくち)』は鴈治郎さんに習ったとか。うらやましいものです。寿海に直接教わった人なんて、いまの歌舞伎にはもういませんもの。[注一]
梅香:『勧進帳』を稽古していると、[三升が]「治雄、出ておいで」なんてね。
神山:治雄というのは海老蔵さんのことですね。
梅香:そうそう。でも、私たちは海老蔵さんにはちょっと緊張しました。
神山:海老蔵は、みなさんちょっと気難しい人だったっておっしゃいますからね。
梅香:高麗屋[七代目松本幸四郎]は三つの門に子どもさんをわけましたからね。あの方[團十郎]も市川家に養子で来たから緊張しちゃうんですよね。
舘野:三升さんが亡くなられた直後に、南座で『四谷怪談』をやっています[一九五六年九月南座]。そのときは海老蔵さんが力を入れて教えたそうですね。
梅香:そうです。一番前の席に座って全部指導してくださいました。
神山:それもうらやましい話です。もちろん、寿海さんや鴈治郎さんもうらやましいけど、当時の海老さまに教わるのは大変なことですね。『鳴神』なんかもそうでしたか。
梅香:『鳴神』もそうです。『勧進帳』も。
舘野:歌舞伎十八番では、『鳴神』と『勧進帳』を出していますけど、その他のものを出そうという話はありましたか。
梅香:それはなかったですね。まあ、市川家ゆかりのもので『車引』はやりましたけど。
神山:『勧進帳』で、訥子(とっし)さん[八代目澤村訥子(一八八七—一九六三)]の親戚で澤村長十郎さん[七代目澤村長十郎]という人が最初に教えたということが記事に少し出ているんですけど、この方についてご記憶はありますか。
梅香:舞台を観にきていたことはあります。
神山:そうですか。[七代目の]訥子さん[七代目澤村訥子(一八六〇—一九二六)]が名古屋の方だから、その方もきっと中京で活躍された人なんでしょうね。いまは、長十郎って言ったら河原崎だと思っちゃうから、ご記憶にちょっとでもあるだけでも貴重だと思います。梅香さんはお出になってないかもしれないけれど、『茨木』のときは、六代目の梅幸さんのお弟子さんの梅朝さん[四代目尾上梅朝(一八九二—一九六五)]が稽古にいらしてたと書いてあります。
梅香:『茨木』は、松緑さん[二代目尾上松緑(一九一三—一九八九)]が見てくださいました。
神山:そうですか。藤間藤子先生も松緑さんのほうの藤間ですからね。松緑さんや藤子さんとの縁というのは、やはり三升さんのほうから指導をお願いしたのですか。
梅香:どうだったかな。なにしろ豊川から柳橋までしょっちゅうお稽古に行っておりましたからね。藤子先生のお体が悪くて寝ていたときがあるんです。そのときは、布団のなかで寝ながらお稽古してくれました。

演目いろいろ


舘野:少女歌舞伎ではいろいろな演目をやっていますね。後のほうになってきますと、新作も出されています。
梅香:新作は駄目でしたね。義太夫物でないと。[浄瑠璃の入らない]素のものでもあまり褒められたことがないんですよ。
神山:やはり、デンデン物がいちばんよかったんだ。利倉幸一(一九〇五—一九八五)さんが、梅香さんの『酒屋』のお園を「落ち着きがあっていい」って、すごく褒めてらっしゃいますね[利倉幸一「少女歌舞伎について」『演劇界』一九五四年九月号]。
梅香:お園は何回かやらせてもらいましたからね。
神山:あと、『油屋』の万野を褒めてらっしゃいます。万野はあまり女形ではやらないから、意外ですね。万野みたいな役は普段と違うから楽しかったですか。
梅香:そうですね。少しはね。
神山:いつも梅香さんの役は耐えてるような役ばっかりですから、少しは発散できてね。お園のときは半七もなさったんですか。
梅香:そうです。早替りで。
神山:歌右衛門さん[六代目中村歌右衛門(一九一七—二〇〇一)]なんかも半七とかわってるんですよね。インタビューでは、「二枚目の役をやると、女になっちゃうって言われるんで嫌だ」と答えてらっしゃるけど、やっぱり難しかったですか。
梅香:二枚目は難しいですよね。女形になってはいかんし、といって、バリッとした男になってもいかんし。
神山:新作で、『豊川利生記』というのをやったでしょう[一九五八年四月東横ホ—ル]。そのときに竹柴蟹助(一九〇四—一九八九)さんがいらっしゃったそうですね。私が国立劇場の制作室にいたときに、蟹助さんと同じ部屋だったんで、しょっちゅう話していたんですけど、少女歌舞伎のことはお聞きしなかった。蟹助さんって覚えてらっしゃいます。
梅香:覚えています。蟹助さんにはツケを教えてもらいました。芝居の間にね、「こういうことも覚えておくといいよ」って。
神山:僕の知っている蟹助さんはもう年寄りだったけど、そのときはまだ若かったでしょう。
梅香:いや、だいぶお年になっていました。
神山:そうですか。この『豊川利生記』は、豊川の土地の縁で考えたものなんですか。
梅香:それはね、東京の赤坂の豊川なんです。そこからお話が出て。
神山:そちらのほうの豊川だったんですか。こういう信仰の関係したものでは、舞台にお賽銭が飛んでくることはありましたか。
梅香:いや、全然。
神山:そうですか。国立劇場にいた時に、成田屋[十二代目市川團十郎(一九四六—二〇一三)]が不動さまをやるとときどきあったんですよ。それで、「どうする」って舞台監督から相談受けまして。頭取に聞いたらね、「大道具に渡すんだ」って言われてそうしました。大道具さんがひと月分貯めておいて、最後にお酒にかえて、楽屋の神さまにお供えする。それを後でみんなで飲むんです。
梅香:私も楽屋入りしたときに[楽屋の]お稲荷さんにお参りします。[昔は]そういう習慣がありましたね。だけど、地方で[踊りの]発表会だからってちょっとお酒を持っていくとね、「そりゃ困る」って[言われる]。「いや、お稲荷さんに[お供えしてください]」っていうと、お稲荷さんがないんです。だから、お参りもできないんですよね。
舘野:他の新作では、シリ—ズになった『お糸捕物帳』というのがありました[一九五九年十二月新宿第一劇場、一九六〇年三月新宿第一劇場]。
神山:『お糸捕物帳』の作者の松田一也さんって方、憶えてますか。
梅香:さあ。私が『お糸捕物帳』出てないんです。あれは升代さんがお糸やっておりましたからね。
神山:新作は、『豊川利生記』と『お糸捕物帳』の他には、北条誠(一九一八—一九七六)さんの『若衆くずし』[一九五八年七月常盤座]。そんなもんかな。
梅香:書きもの[新作狂言]だとそれくらいですね。
神山:新歌舞伎では、岡本綺堂の『酒の始まり』が珍しいですね[一九六〇年六月御園座]。僕は、観たことも読んだこともなくて、こちらで初めて知りました。他ではやってないですね。
梅香:ちょっと中国風で。
神山:写真で見るとそうですね。この演出は誰がやってらしたんですかね。
梅香:升十郎師匠がやったとおもいます。私たちの感覚ですと、セリフを言ったあとに、三味線が「デデン!」と入ってこないとね。なんかやりにくいんですね。
舘野:升十郎さんの本[市川升十郎『かぶき人生』一九八三、豊文堂]を読みますと、旅回りのころから新歌舞伎が好きだったみたいなことを書いているんですけど、どうでしたか。
梅香:そうなんですか。升十郎師匠からはあまり新歌舞伎は習ってないです。新歌舞伎っていうと、海老蔵さんに教えてもらったり。
神山:『番町皿屋敷』もやりましたか。
梅香:やっています。升代さんがお菊で。
神山:海老蔵さんは『皿屋敷』も『鳥辺山』もやっていましたからね。あのころ、綺堂のああいう役は、海老蔵さんか寿海さんでしたもんね。
梅香:そうですね。『鳥辺山』は寿海さんです。
神山:寿海さんは、実際にあの名調子でやってくださいましたか。
梅香:そうですね。とても温厚で、やさしくて。
神山:寿海の名調子を舞台以外で聞けるってのは幸せです。どなたに聞いても、寿海さんは優しい方だったっておっしゃいますね。新作以外でも、珍しいものをずいぶんなさってます。そういうのは升十郎さんが憶えてらしたんでしょうね。
梅香:そうですね。師匠が地方をまわっておりましたから。
神山:『鶯塚』[一九五二年十二月大須新歌舞伎座]なんかは滅多にやらないものですし。『肥後の駒下駄』[一九五六年一月浜松座]っていうのをなさっていますよね。これは今知っている人いないですよ。
梅香:いないですね。これを鴈治郎さん[四代目坂田藤十郎(一九四一—)]とか、このまえ亡くなった勘三郎さん[十八代目中村勘三郎(一九五五—二〇一二)]がやりたいって言っていたんですけど、台本がないんですよ。私どもには台本があるんです。勘三郎さんは、台本を探していらしたんだけど、お渡しするまえに亡くなっちゃったの。
神山:国立劇場でも、『肥後の駒下駄』はときどき話題になったんですけど、手掛かりがないので引っ込んじゃったんです。少女歌舞伎でなさっていたとは、僕も全然知らなかったです。これはやっぱり升十郎さん[が覚えていた出し物]ですか。
梅香:升十郎師匠です。とても色んなもの知っていましたね。[地方回りでは劇団どうしが]競争で色んな物をやっていましたから。
日比野:升十郎さんは、書き抜きを渡すんですか、それとも完全に口立てでしたか。
梅香:口でもやりますし、台本があるものは書き抜きでやりました。
舘野:地方では『本蔵下屋敷』[一九五二年八月浜松座]なんかもやっています。大劇場ではあんまりやらないものですね。
梅香:大歌舞伎ではあんまりとりあげないけど、地方の万人講ではやりますね。
神山:義太夫ですごい人気ありますもんね。
梅香:見る人によっては、[『仮名手本忠臣蔵』などの]本筋のものを見るより、[『増補忠臣蔵』などの]裏側のもののほうが面白いって言いますね。勘平の駆けつけなんかも裏側のものですから。
舘野:一時は新作を盛んにやりましたけど、大劇場の最後のころ[一九六一年以降]になると、義太夫もの中心に回帰していきます。珍しいものだと、東横ホ—ルで『牡丹景清』[一九六二年六月東横ホ—ル]というのをやっています。
梅香:『牡丹景清』は福升さんがやりましたね。
神山:岐阜の地芝居で割と得意の出し物だったんじゃないですか。国立劇場で、戸部銀作さんが、松緑さん主演の十八番ものを復活したとき[一九八五年一月国立劇場『関羽』]に、『牡丹景清』の趣向を借りてきて中に入れたことがあるんですよ[『牡丹景清』は美濃・三河地方の地芝居と兵庫県の播州歌舞伎で伝承されている。国立劇場の『関羽』では、播州歌舞伎のものが参考にされた。]。
舘野:『牡丹景清』では、改訂に円城寺清臣(一九〇二—一九七七)の名前がありますね。
梅香:円城寺先生は、[劇団の]中に入りこんで指導してくれました。少女歌舞伎をずっとご覧になってくださいました。[劇団が活動を止めてから]みんながバラバラになって、私が歌舞伎舞踊さつき流というのをはじめるときに、円城寺先生が「梅香ちゃん、歌舞伎舞踊はいいよ。いま日本舞踊とか、新舞踊になってるけど、古いものをそうやって言ってくのはいいよ」って言ってくださいました。
神山:円城寺清臣さんは懐かしい名前ですね。帝劇にずっといらした方だから、女性たちが芝居やるってのは、帝劇[帝国劇場]の女優劇を連想して懐かしかったんじゃないですかね。

巡業と楽屋の生活


神山:写真で見ますと、舞台装置がずいぶん立派ですね。明治座でやるんだから当たり前とはいってもね。これが旅の芝居だとどうでしたか。
梅香:全部、道具をトラックに積んでいきましたね。
舘野:小屋にあるものでパパッと大道具を組んだりはしましたか。
梅香:いや、小屋には逆に[大道具が]なかったんです。
神山:戦前はあったでしょうけど、もう昭和二十年代[一九四五—五四]は無いでしょうね。
舘野:じゃあ、いまの大歌舞伎の巡業と同じような格好で行ったんですね。
神山:大体、乗り打ち[移動した日に公演を行なうこと]ですか。
梅香:そう、乗り打ちです。
神山:幹部の方は鉄道で行くんでしょう。
梅香:ええ、汽車です。興行師の方が先に乗って、座る場所をとっておいてくれるんです。それで、「ここ、ここ」って呼んでくれる。
神山:昭和二十年代の終わりから三十年[一九五五]ごろまでですかね。僕も、子どものころ伊東へ行くときにトンネルで窓を閉めてましたよ。まだ電車じゃなくって、汽車だったんですね。
梅香:懐かしいです。
神山:巡業だと、衣裳とか道具が遅れて来たり、そういう話を聞きます。それで開演の時間が遅れたとか、初日が遅れたとか、そういうことなかったですか。
梅香:それはなかったですね。道具は済むとその日の晩に出ちゃうんです。
舘野:衣裳はどうでしたか。
梅香:御園座とか明治座でやる時分には松竹でした。
舘野:芝居が終わってからは、どこかに泊まるんですよね。
梅香:今みたいに旅館がたくさんないから、巡業に行くと一軒に何十人まとめて泊まりました。お風呂は全員が入るから一人五分でした。
神山:楽屋に泊まることもありましたでしょう。
梅香:ありました。はい。
神山:このあいだ死んだ富十郎さん[五代目中村富十郎(一九二九—二〇一一)]が鶴之助だったころに、大阪の歌舞伎座に出ると、映画に行く前の錦之助[萬屋錦之介(一九三二—一九九七)]と一緒に楽屋に泊まってたって言ってましたね。大幹部は旅館だけど、二十年代までは、ああいう人たちだって楽屋泊まりの時代ですからね。昭和三十年代[一九五五—一九六四]になると旅館だとおもいますけど。
梅香:私たちは地方に行っても、旅館に泊めてもらって。いいおもいをしましたよ。
神山:大劇場に出ていた十年間[一九五三—一九六二]はほとんど休みなしでしょう。一月は元日から開けていましたか、それとも元日は休んでいましたか。
梅香:お正月は五日くらいまでは休みでした。あとはもうびっしり詰まってました。
舘野:ずっと大劇場に出ていたし、それがないと巡業でしたから、家にはほとんど帰らないですよね。
梅香:ええ、ほとんど帰りません。
日比野:ご両親は、最初は藝事を習わせるだけのおつもりだった。それからそういう世界に送り出されたわけですけども、巡業続きでなかなか家に帰れないという娘さんのご様子を見て、きっと何か言われたんではないですか。
梅香:その当時の親御さんたちは、そういうこともきっちりわきまえていたんじゃないでしょうかね。いったんこの子どもを預けたからには、従わなければ仕方がないと。世にも出していただきましたからね。私の父親は早く亡くなりましたけど、母親は美寿次さんの親と一緒について衣裳方をやっていました。畳んだりとか、襟を拭いたりとか、そういうような細かい仕事をしていました。
神山:ご家族も同行なさっていたんですね。
日比野:あと、大変失礼なことかもしれませんが、お給金は幹部の間では大体同じくらいだったんでしょうか。
梅香:[給金は]子どもには渡ってなくて、親のほうにいっています。だから、いくらもらっていたのかはわかりません。
日比野:経理やお金の勘定みたいなことは升十郎さんがご自身でやっていたんですかね。
梅香:浜松座が降りてからは、そうだとおもいます。
日比野:浜松座のころは、浜松座の人がやっていましたか。
梅香:全部、浜松座だとおもいます。
日比野:升十郎さんの来る前はどうでしたか。
梅香:古川さんが教えていたころは「これだけお金が掛かるよ」って、親からお金を集めていました。いわゆる発表会ですね。
神山:ふつうの[習い事の]おさらいでもそうですもんね。
日比野:そして、だんだんプロとして自活していくと、升十郎さんがそういうことを処理していた。それとも升十郎さんの身内のような方がやっていたんですか。
梅香:升十郎さんの奥さんが手伝っておりましたね。私たちはその当時は子どもですから、あまりそういうことには無頓着でわかりませんけど、お金は今考えると相当掛かったとおもいますね。
日比野:また、失礼な質問なんですけども、劇団の中でお金のやりとりでもめたりしたことはありますか。
梅香:いや、そういうのは全然なかったですね。

竹本、地方の人びと


神山:下座の方なんかは決まっていましたか。
梅香:はい。土地の万人講の方たちの中から達者な方がやりました。
神山:ということは、土地土地によって変わるって意味じゃなくて同じ方が。
梅香:はい。升十郎師匠も太鼓を打っていましたし。豊川あたりの三河から出ている万人講は、みんな裏方ができるんです。
神山:昔は、土地土地に藝事が浸透していてね。明治生まれのおじいさん、おばあさんには、三味線もできれば、太鼓もできれば、笛もって人がよくいたって言いますね。
舘野:万人講の人たちは大劇場の公演にも付いていったんですか。
梅香:大劇場のときには東京の方を呼びました。地方[巡業]の場合は、半分はそういう人たちが好きでやっていました。
舘野:竹本では、巡業のとき、豊田[愛知県豊田市]の辰美太夫さん[竹本辰美太夫(一九〇四—一九八二)]という人が一緒にまわってらしたそうですね。
梅香:はい、おりました。太夫もお祭りになったりすると忙しくって足らないんです。だから、借りるのに大変でしたね。そういうこと[人事の交渉]は、表のほうでやってくれていたんですけどね。
神山:太夫といえば、[のちに]大歌舞伎に出るようになった文春太夫さん[竹本文春太夫(一九〇四—一九九一)]。映画[市川女優座歌舞伎劇シリーズ]の太夫は文春さんでしたね。私が[国立劇場で]仕事していたころは歌右衛門さんに付いていて、よく話ししました。無口な人でしたけど、栃木訛りがすごいんだ。三味線が鶴澤新二さんって方なんだけど、僕はお名前を聞いたことがなかったですね。
梅香:文春さんは大歌舞伎へ行って語りましたけど、新二さんは行きませんでした。
神山:現役の頃はなんだか栃木訛りで訥々と語る義太夫っていう感じでした。
梅香:あちら[竹本連中]の側ではいろいろ注意されてましたよ。
神山:さっきもね、『どんどろ』で「おゆみ」が「おいみ」って聞こえるんですよ。でも、あの人らしくて懐かしかった。あのころはまわりが良すぎたんですよね。失礼だけど、文春さんだとちょっと[格が]落ちるとか当時は思ってたけど、今聞いてみると本当にいいですよ。
舘野:文春太夫さんはどうやって少女歌舞伎に来たんですか。
梅香:豊橋から出てる澤村茂美次っていう女の役者がいたんです。そこの劇団に三味線弾きで鶴澤友枝さんという人がいて、文春さんと組んでたんです。友枝さんはもう九十歳で脚が悪いんだけど、今でも人手がないから[地芝居では]引っ張りだこです。
神山:女義の方はあまり出なかったですか。
梅香:女の人は地方ではなかったです。三蝶さんたちとやったのが初めてでした。
舘野:女義というと、東京で女流義太夫なさってる当代の竹本綾之助さん[四代目竹本綾之助]が、むかし少女歌舞伎にいらっしゃったというのをちょっと聞いたんですけど。
梅香:ちょっと顔を出してくれて、お手伝いしてくれたりはしてましたね。
舘野:綾之助さんは東京出身ですけど、[少女歌舞伎の出演者の]みんながみんな豊川出身というわけではなかったんですね。
梅香:そうですね。東京出身の方もいました。
日比野:東京の人というのは、人気というか名声を聞きつけて、劇団に入りたいと言って来るんですか。
梅香:劇団に入っちゃうわけじゃなくって、そのときだけ買われて[雇われて]くるんです。
神山:東京での公演のときだけお出になる。
梅香:そう。お手伝いで来るみたいな感じでした。
日比野:そのときは正式な入団ではなかったんですね。でも出るときは市川某って名前を付けたんですか。
梅香:自分の本名の名前を使ってました。
舘野:最初は市川某という名前で、幹部に昇進すると宗家から名前がいただけるんですね。
梅香:そうですけど、そういう方はいなかったですよ。
神山:東京の人はそのときだけ出るんだから、幹部には昇進しませんからね。三升さんの話で、名前[藝名]をもらうと伝達式のような儀式があったそうですね。神主さんを呼んで、祝詞みたいのをやるんですか。
梅香:神主さんがお祓いするんです。
神山:三升さんは、市川少女歌舞伎の歌というのを作詞したってどこかに出ているんだけど、覚えてますか。
梅香:「遠き神代のむかしより、うずめの尊が舞たもう、姿を写す神楽だに、出雲の阿国がわざおぎを、つたえつたえて今ここに、めぐみも深く敬いて、いそしみ我らはか弱くも、乙女心の一筋に、いざや励まん我らの歌舞伎、我らの歌舞伎」。
神山:本当にあったんですね。開演前に歌ったこともあるそうですね。
梅香:いつも楽屋のなかで歌ったんです。
神山:昭和三〇年(一九五五)ごろには、制服をつくったそうですね。
梅香:着物と袴なんです。袴の色がグリ—ンだったか、紫だったか。
日比野:これは、やっぱり宝塚の制服を意識されていたんですかね。
梅香:そうですね。
神山:SKD[松竹歌劇団]もこういう格好ありましたね。
舘野:制服はどういうときに着たんですか。
梅香:乗り込みする時なんかはいつもでした。この写真が当時の団員全部ですね。
神山:昔はこういうポ—ズで撮りましたよ。隣の人の肩に手をおいてね。少女歌劇とか少女歌舞伎じゃなくても、学校でもこうやって撮らされましたね。

少女歌舞伎ファンの人びと


神山:僕は、昭和三十八年(一九六三)から芝居を見た記憶があるんですけど、少女歌舞伎は見ていない。うちに少女歌舞伎の筋書があったので、いくつか持ってきました。祖母なんかが行ってたんでしょうね。これは、昭和二十九年(一九五四)の明治座 [一九五四年八月明治座]ですね。このとき、梅香さんは『酒屋』のお園と半七なさってますよ。
梅香:義経もありましたね。
神山:義経もあります。義経は本当に、形がいいです。『実録先代萩』の浅岡もなさってますね。このときは、ほとんど出ずっぱりだから大変ですね。
梅香:そうですね。そのときは『鮨屋』も出てますか。
神山:『鮨屋』は出てないですね。
梅香:じゃあ、名古屋の御園座だったかしら。[注二]宗家の三升さんが東京から観に来たんです。お家芸の『勧進帳』をやったんですけど、金剛杖がないんです。いつも鳥屋に出のときに置いといてくれるのが無くて。そこにちょうど次の『鮨屋』の維盛の棒があってね。それを持って出たんです。そうしたら、ボッチがついてるでしょう。それを見えないように下向きにしたり、上向きにしたり。宗家は見ているんですけど、全然気が付かなかった。
一同:わはは。
神山:この筋書には、三升宗家の挨拶と勢揃いの写真が出ていますね。あと『市川少女歌舞伎写真グラフ』っていうのが入っていたんです。
梅香:わあ、懐かしい。
神山:この義経は梅香さんでいらっしゃいますよね。ほら例の金剛杖だ。
日比野:いやいや、さすがに写真撮るときは本物の金剛杖でしょう。
神山:こういうものを見るとね、いかに人気あったかっていうのがわかりますよね。筋書はあとでも手に入るけど、こういうものは誰かが取っておかないと。たまたま家にあったのでよかったなあって。難しいことは全然書いてないけども、当時のファンがどんな気持ちで何を求めていたのかっていうのがよくわかりますね。
梅香:このまえお客さんがこんなチラシを持ってきてくれてね。捨てようと思ったけど、「少女歌舞伎」って書いてあるからってくれたんです。
日比野:正月八日からと書いてありますね。
神山:出し物は『輝虎配膳』ですね。地芝居ではよくやりますね。どうして地芝居では『輝虎配膳』とか『袖萩祭文』とか人気があるんだろうね。[梅香さんも]袖萩はお好きでしょう。
梅香:袖萩はたくさんやりましたね。
神山:役者さんは大体あの役がお好きですね。ファンレターはどうでしたか。いちいちお返事を書いたものですか。
梅香:書きましたね。
神山:それは喜びますね。やっぱり、女性のほうが多かったですか。
梅香:いや、男の方も多かったです。といっても、もう年輩ですけどね。
日比野:個々のその掛け声はどうやって掛かっていたんですか。[屋号は]みんな成田屋ですよね。
梅香:私は「梅成田」。福升さんは「福成田」でした。
神山:歌舞伎でも、いまはもうなくなりましたけど、時蔵は「時播磨」、又五郎は「又播磨」って言いました。マスコミの取材はどうでしたか。一番人気のころは結構ありましたでしょう。
梅香:そういうときも個人は駄目なんです。師匠立ち合いでした。
神山:あと、少女歌舞伎のブロマイドってありましたか。
梅香:売っていましたね。
神山:舞台写真じゃなくて、別にブロマイド用に撮影して劇場で売っていたんでしょうね。今でもどこかでは手に入るのでしょうか。
梅香:私たちの手元には全然無いんです。プログラムもね。「懐かしいでしょう」なんて持ってきてくれる人がいて、「いやあ、懐かしいな」って見るくらいのものです。[当時は]どんなものが売られていたのかは全然知りませんでした。
神山:指導というのとは違うでしょうけれども、喜多村緑郎(一八七一—一九六一)とか、花柳章太郎(一八九四—一九六五)さんなんかが楽屋にいらっしゃったそうですね。
梅香:はい、見えました。
神山:当時は大変な大物ですもんね。
梅香:私たちがそういう人たちの存在感がわからなかったっていうのが本当にね。申し訳ないことですけど、今になってね。
神山:喜多村や花柳が来てくれただけでも大変なことですよね。若いほうだと、橋蔵[二代目大川橋蔵(一九二九—一九八四)]から東千代之介(一九二六—二〇〇〇)から、錦之助から。
梅香:橋蔵さんなんかは、「はっさん、はっさん」って[呼んでた]。
神山:そうですか。気さくな方でしたか。
梅香:はい。月形龍之介(一九〇二—一九七〇)さんは、「月形のおっさん」で通用してたんですよ。月形先生は少女歌舞伎の後援会の会長でした。だから、南座で公演するときにはいつも楽屋へ来てくださって。
神山:当時は京都の撮影所がものすごい盛んなころでしたからね。南座だと、「総見」みたいなのはありましたか。
梅香:「総見」みたいなことはないですね。けど、みなさん個人ではいらしてました。京都では、藝妓さんたちのフアンは多かったです。
神山:明治座なんかは団体客を取るので大変なんですけどね。団体無しの商業演劇で一か月打つっていうのは大変なことですね。少しはあったでしょうけどね。
梅香:私たちは、舞台で踊ってるだけだったんで[わかりません]。

市川女優座歌舞伎劇シリーズ


舘野:そろそろ、映画の話に。[劇団の名前が市川女優座になってから「歌舞伎劇シリ—ズ」という映画を撮られました。桜ヶ丘ミュ—ジアムには、『阿波の鳴戸』、『新口村』、『壺坂』、『鏡山』の四つが残っていて、さっき三人[神山、舘野、日比野]で見たんですよ。僕たちは生の少女歌舞伎を見ることはできませんでしたが、ビデオがあるおかげでどんな感じだったのかを知ることができます。そもそも、この映画は何のためにつくったんでしょう。テレビで放送するためでしょうか。
梅香:いや、そんなことじゃないと思うんです。地方回りでお客さんに見せるみたいなことじゃなかったのかしら。
日比野:どれも二十六分から二十七分の尺で、ちょうどテレビの三十分番組のサイズにぴったり合うようになっているんです。場割も歌舞伎とは全部変えてあります。升十郎さんの他に、演出と編集に河野秋和さんという方が入っています。制作には御荘金吾(一九〇八—一九八五)さんがお入りになっています。それまでこういう方たちとの縁はあんまりなかったですか。
梅香:ちょっと私はわかりませんが、それまではあまりなかったとおもいます。
神山:『鏡山』は[現行の歌舞伎とは]ちょっと手順が違う感じがするんですけど、あれは舞台のままだったんですか。長局のあとに、ふつう歌舞伎だといきなり奥庭になっちゃうんですけど、映画では、そのまえに廊下があって、そこでお初が岩藤にかかりますね。
梅香:通し狂言ですから、わかりやすくしたんだとおもいます。
日比野:『阿波の鳴戸』であれば、「どんどろ」の前に家の場があります。あれは舞台でもやったんですか。
梅香:はい、やっております。
神山:そうですか。家の場で阿波の十郎兵衛が実際に出てくるところを観たのは初めてです。いつもの「どんどろ」しか観たことない。
梅香:やることは一緒なんですよね。明珍、妙天を村のおばさんにかえていますよね。井戸端で、お鶴に「あんたどこの子」って聞くんです。セリフは全部一緒なんです。
舘野:クレジットで大道具に「大阪舞台製作所」ってあったんですけど、大阪で撮ったんですか。
梅香:いや、豊川です。
舘野:ええ! 豊川で撮ったんですか。
梅香:豊川の平尾[愛知県豊川市平尾]というところが升十郎師匠のお家なんですけど、その近くに公民館があって、そこを開放して全部やったんです。
日比野:そこに、道具を全部運び込んだわけですよね。
舘野:僕はてっきり大阪かどこか関西のスタジオを借りたんだと思っていました。
梅香:いや、違います。どこの道具だったのかわかりません。だけど、とにかくそういう形で撮りました。
日比野:せっかくなので、一本だけ見てみましょう。

歌舞伎劇シリーズ『鏡山』を見る


梅香:『阿波の鳴戸』と『新口』は見てます。
日比野:では『鏡山』を。
神山:『鏡山』で、梅香さんは尾上をなさってますね。
舘野:最初の場面は「営中試合の場」ではなく「花見」になっています。
梅香:いろいろカットされてますが、筋がちゃんとわかるように作ってありますね。
日比野:これが公民館だなんて、ちょっと信じられませんね。
梅香:歌舞伎だと花見で踊ったりはしないのね。これ用に作ったんですよ。このときは、お化粧も白くちゃいけなかったんですよ。
神山:砥の粉地みたいな。[化粧が]白いとハレ—ションおこしちゃうんでしょうね。
梅香:弾正をやっている福升さんは立役ばかりやるでしょう。荒事ばかりやってたから、声帯を痛めて男の声になっちゃった。女の声が全然出ないでしょう。
舘野:もともとの声じゃなくて、職業病のように声が替わっちゃったんですね。
梅香:お初は、岩藤をやっている美寿次さんの妹。升代さんね。
舘野:「草履打ち」の後は、「尾上部屋」になります。色奴と荒若衆が出てきて文箱のヒモが伸びる「烏啼き」の場はありませんね。
梅香:みんなカットしちゃった。セリフはアテレコでやってるね。
日比野:これはそうでもないけど、『壺坂』は音と映像がずいぶんずれてました。
舘野:尾上が死んで、「仕返し」です。ふつうは岩藤が傘をさして奥庭に出てきますけど、そのまえに岩藤と奥女中の桐島が廊下で話しています。お初が廊下に来ましたね。
梅香:廊下に犬はいないから、[岩藤のセリフの]「犬かとおもった」を「猫かとおもった」に変えたんです。
舘野:芝居でやるときには、「奥庭」でやってたんですよね。
梅香:ええ、まともに。
日比野:このために、わざわざ筋を整理して作ったんですね。
梅香:そうですね。やってないところは別に作ったりして。このあと奥庭行くね。
舘野:立ち回りですね。タテといえば、みんなでトンボの稽古をしてる写真もありますね。
梅香:女の子がトンボ切るということは珍しいから。
神山:タテはどなたがつけていたんですか。
梅香:これはみんな升十郎師匠です。
日比野:テンポがちょっと速いですよね。実際の舞台はもうちょっと遅かったですか。
梅香:そうですね。もう少し。
日比野:映画用に少しテンポ速めたんでしょうか。
梅香:そうです。歌舞伎の台本とは別の台本なんです。
神山:このくらいのテンポでやったほうがいいね。いまはひとつひとつの思い入れがものすごく長いでしょう。このくらいほうがテンポがいいね。この映像はどなたが寄付なすったんですかね。
梅香:升十郎さんが前[一九九五年]にここで少女歌舞伎の展覧会をやってるんですよ。
舘野:そのときに升十郎さんが寄贈されたんですかね。映画はもうひとつ、『雪之丞変化』[『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』、『ひばりの三役 続競艶雪之丞変化』一九五七、新東宝]がありますけど、これには梅香師匠は出演されてないんですよね。
梅香:はい。ひばりさん[美空ひばり(一九三七—一九八九)]の『雪之丞変化』に、少女歌舞伎から出ているのは、美寿次さんとか、福升さんとか、立役の人ばっかりです。私は、いつもひばりさんの役をやっていましたから、映画で役はいただけませんでした。
神山:娘役をひばりがやるんですから。しょうがないですね。

三河で歌舞伎を


舘野:この映画[市川女優座歌舞伎劇シリ—ズ]を撮ったのは、浜松座との契約がなくなって市川女優座に改称したころですね。幹部[俳優]の方たちが経営陣になったんですよね。
梅香:そうしないと、成り立っていきませんので。
日比野:浜松座の後に、どこかが引き取るとかというような話も無かったんですか。
梅香:無かったです。その筋の人たちも、「浜松座が降りたくらいではちょっとえらいんじゃないか」みたいなことがあったんじゃないでしょうか。
神山:それとね、少女歌舞伎だけじゃなくて、あのころは歌舞伎自体が興行的にものすごく苦しかった。昭和三十七年(一九六二)に、海老さまの團十郎襲名があるでしょう。それ以前は、歌舞伎自体が今みたいに評価されないし、興行としてもいちばん苦しいときでしたからね。関西歌舞伎なんて一年に一回くらいしかなくなっちゃう時代でしょう。今と歌舞伎自体の評価と人気が違ったんだとおもいますよ。
梅香:費用も莫大ですからね。
神山:当時はわからないけど、僕が国立劇場にいたころも相当にかかっていました。大劇場公演は昼夜二回で、それぞれ四本くらいずつ出すんでしょう。
梅香:外題がね。三本から四本ですね。
神山:ほとんど出てらっしゃるんだからね。一日の芝居がはねると、次のお稽古でしょう。大変だったでしょう。
舘野:東横ホ—ルの筋書を持ってきていただきましたが、これは女優座になったからのものですね。絵番付のようなものが付いていて凝っています。
神山:このときは、尾上梅乃さん[初代尾上琴糸の長女]が出ていますね。梅乃さんは、菊五郎劇団にいた女のお弟子さんでしょう。
梅香:そうです。そのときだけ出たんです。
神山:ああ、太夫元には円城寺清臣と名前出ていますね。
舘野:この東横ホ—ルが一九六二年の六月で、同じ年の九月にやった読売ホ—ルが商業公演としては最後になってしまいます。読売ホ—ルのときの筋書を見ますと、少女歌舞伎がハワイへ巡業に行くんだって話が載っているんですけど、あれは結局どうなったんですか。
梅香:ちょうど私たちがいくときに戦争が入っちゃったんですよ。
日比野:キュ—バ危機[一九六二年十月]ですね。
梅香:それで取りやめになっちゃった。
日比野:『ハワイ報知』という、昔からハワイで出されている邦字新聞があって。当時の記事を調べればその経緯なんかが書いてあるかもしれません。
舘野:読売ホ—ルの後は、大劇場には出ていないけれども、さっきの伊根の祭りだとかには出ていたんですよね。
梅香:お祭りは若いうちで、少女歌舞伎が大きくなっちゃってからは、お祭りのお芝居にはあんまり出ませんでした。その土地では[お祭りでお芝居をやることが]ほとんど無くなっちゃいましたから。昔は牛車に乗ったりして行きましたけど。
舘野:梅香師匠に持ってきていただいた筋書のなかでは、一九六五年に御園座でやった東宝歌舞伎のもの[一九六五年十一月御園座]だけが少女歌舞伎の名義ではありません。美寿次、梅香、福升、寿々女、恵美子、寿美八といった少女歌舞伎で幹部だった方が出ています。川口松太郎(一八九九—一九八五)の演出で『残菊物語』を出していますね。
日比野:川口松太郎はどんな印象でしたか。
梅香:いや、松太郎先生は全然わからないです。
日比野:演出として名前が出てるけど、実際にはいらっしゃってなかったんですかね。
梅香:どうなんでしょうね。ほとんど、長谷川一夫(一九〇八—一九八四)さんに習いました。
神山:長谷川さんがやるときには、全部[演出を]おやりになったとどなたでもいいますものね。
舘野:頑張って調べたつもりですけど、東宝歌舞伎に出ていたとは全然知りませんでした。
梅香:このころに、私はおにぎり屋をはじめたんです。みんな独自に自分の身を立てて、楽しみに歌舞伎をやるかたちでしたね。
神山:ラジオのお仕事をなさったのもこのころでしょうか。
梅香:そうです、その時分だとおもいます。それで『東海道道中双六』みたいなもので、ラジオの放送をしました。
神山:弥次喜多みたいなものですかね。この写真には美寿次さんと福升さんも写ってますけど、そういった方もみんなで出ていたんですか。
梅香:はい。大体幹部は全部です。CBC[CBCラジオ・中京広域圏を放送対象地域とする中波放送]ですね。本田さんという方がいらっしゃって、その方もご自分が素人の歌舞伎をやっていて、そういうつながりがあったんです。
舘野:だいぶ時代が降りますが、一九八四年に、春日井で、『新口村』、『先代萩』、『三番叟』を福升師匠と梅香師匠とでやっていますね[一九八四年十一月春日井市東部市民センタ—]。
梅香:そうですね。あの方も地方の歌舞伎を教えておりますからね。
舘野:さっき、ここ[桜ヶ丘ミュ—ジアム]にある資料見せてもらったんですけど、平成の最初の頃にもやっているんですね。地元近辺ではたびたび公演をしていたんですね。どうでしょう、また美寿次さんたちも含めて一緒にやるということはないですか。
梅香:どうでしょう。美寿次さんは一途な方だから、やめてからは絶対にやらなかったです。升十郎師匠のそういう教えがあったし、また歌舞伎は一人ではできませんから。
神山:僕は、一度、国立劇場で「名古屋むすめ歌舞伎」の『一谷嫩軍記』を拝見しました[一九九五年十一月十一日国立劇場・小劇場]。十五世羽左衛門がいったという「由縁の人もありつらん」という義経の台詞を聴いたのはあの舞台だけで、今は皆「由縁の人もあるべし」ですから、とても印象深く、しかも実に立派でよかったんですけど、あのときはご指導なさってないんですかね。
梅香:以前はしていましたけど、いまは引かせてもらっております。
神山:いまは中京の方が郷土のものを愛するというか、そういう気分が薄くなっているような気はしますか。
梅香:しますね。私も議員の先生たちに、とにかく素人歌舞伎、万人講っていうのを無くさないようにしてっていうんですけどね。歌舞伎となると置き去りにされちゃうから。
舘野:いろいろ大変ですからね。大道具にしても何にしても独特なものが必要ですから。
梅香:万人講というだけに、[歌舞伎は]万人を集めないとできない仕事ですものね。三河にはお宮さん[神社]に舞台が残っているところがあります。私もこの道がもう七十年でそれ一本しかできないから。
神山:戦前からせいぜい昭和三十年代、四十年代くらいまでは、それぞれの土地でそれなりにやっていけるだけの賑わいはあったって言いますね。だからこそ、娘さんや息子さんに藝事を習わせるような気持ちの余裕もあったんでしょう。経済的な余裕よりも、気持ちの余裕があったんだとおもいます。
舘野:今はまた子ども歌舞伎がずいぶん増えました。梅香師匠は子どもにも歌舞伎を教えていらっしゃいますが、今の子も昔の子も一緒ですかね。
梅香:そう。子ども自体は一緒ですね。習うことに関してはね。
日比野:きょうは長い時間どうもありがとうございました。

注一
校正の段階で梅香さんからいただいた資料によると、それぞれの指導芸題は以下のとおり(敬称略)。
三代目市川寿海 『紙屋治兵衛』・『鳥辺山』・『番町皿屋敷』
十一代目市川海老蔵 『源氏店』・『勧進帳』・『鳴神』
二代目中村鴈治郎 『新口村』・『酒屋』・『番町皿屋敷』『紙屋治兵衛』・『おさん茂兵衛』
二代目尾上松緑 『茨木』・『棒しばり』・『釣女』・『勧進帳』・『[義経千本桜]すし屋』・『身替座禅』・『三人片輪』
梅香さんによると、升十郎が稽古で筋道をつけたうえで、鴈治郎や寿海が指導したとのこと。
また、所作事に関して、升十郎は手を出さなかったという。
注二
一九五五年八月明治座昼の部で『すし屋』と『勧進帳』が上演されている。